聖霊なる神。
歴代誌上 12章17~19節(旧645頁) ローマの信徒への手紙 8章9~11節(新284頁) 前置き 毎年5月になると、キリスト教会はペンテコステを迎えます。ペンテコステとはギリシャ語で50日という意味です。この50日は果たして何を意味するのでしょうか? 聖書はイエスが十字架にかけられ死に、3日後に復活されてから50日たった日、三位一体の一位格(キリスト教用語)である聖霊なる神が到来されたと証しています。イエスの昇天後、主のご命令に従って(使徒言行録1章)部屋に集まって祈っていたイエスの弟子たちは、とても不思議な経験をするようになります。それは主が言われた通りに父なる神からキリストの弟子たちに聖霊が遣わされる出来事でした。主の弟子たちに聖霊が臨まれると、彼らは今まで、この世を恐れていた姿を捨てて大胆にイエス·キリストと主の福音を宣べ伝えるようになりました。つまり、イエスが復活してから50日後に聖霊が降臨した出来事が起こったため、人々はギリシャ語式に50日(ペンテコステ)と呼んでいるわけです。したがって、ペンテコステのより正確な名称は、聖霊の降臨を記念する聖霊降臨節なのです。現代を生きる私たちにとって聖霊は誰であり、聖霊の降臨はどういう意味を持つのでしょうか? 一緒に考えてみたいと思います。 1. 聖霊について。 聖霊とはどんな存在でしょうか? 私たちは祈る時に「父なる神」あるいは「イエスの御名によって」という表現をよく使います。しかし、聖霊を意識的に呼ぶのはほとんどないと思います。キリスト教は伝統的に三位一体の教理を信じています。私たちが信じる神が御父と御子と聖霊の三位が一体でおられると信じているということです。つまり、聖霊は御父と御子と共に三位一体をなしておられ、明らかに神であるということです。それでも、聖書は父と子についてはよく語っているのに、聖霊については比較的に少ないと思います。その理由は聖書の真の記録者である聖霊が、ご自身のことより父と子についてさらに示しておられるためではないかと思います。私たちの主イエスは、聖霊について次のように語られました。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ15:26) 主は聖霊が父のもとから主イエス·キリストの名によって遣わされる方だと語られました。また真理の霊であり、主の御言葉を思い起こさせ、イエスのことを証しする方だとも言われました。 聖霊は全能な三位一体なる神の一位格であるにもかかわらず、ご自分のことを隠してむしろ御父と御子をより明確に表される方なのです。父と子と同質であり、同等な力を持っておられるにもかかわらず、自ら父と子に謙遜に従われる方なのです。したがって、私たちは聖霊が神であるにもかかわらず、誰よりも謙遜な方であることが分かります。聖霊は創造の時にもおられました。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1:2) また、聖霊は旧約の人物たちとも共におられました。「すると霊が三十人隊の頭アマサイに降った。ダビデよ、わたしたちはあなたのもの。エッサイの子よ、あなたの味方です。平和がありますように。あなたに平和、あなたを助ける者に平和。あなたの神こそ、あなたを助ける者。ダビデは彼らを受け入れ、部隊の頭とした。」(歴代誌上12:19) そして、聖霊は新約時代にも私たちと共にいらっしゃいます。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26) この聖霊はご自身ではなく父と子をより一層証ししつつ、信徒の歩みと弱さを助けてくださる真の神なのです。 聖霊は、ヘブライ語で「ルーアッハ」、ギリシャ語では「プニュマ」と言われます。そしていずれも「風」あるいは「息」を意味する表現です。聖霊は風や息のように目には見えない存在ですが、確かに働いておられる方です。だからといって、聖霊を風や息あるいは気のように人格もなく意志もない、ただ神のいきおいだと思ってはなりません。聖書は明らかに、聖霊が神であることを証言しているからです。風はどうですか? 目には見えませんが、確かな力を持っています。時には暑い夏、爽やかな夕風を。また、時には恐ろしい台風となり、暴風と大雨を伴います。そのように聖霊は目には見えませんが、明らかな力と意志を持って父なる神のご計画と御子イエスのご意志に従って力強く世のすべてを司る方なのです。ですから、私たちは神を考えるとき、父と子にだけ留まってはなりません。聖霊が確かにおられ、御父と御子イエス·キリストと共にこの世界を統治しておられることを忘れてはなりません。見えないからといって存在しないわけではないからです。ご自分のことを隠して父と子を示される、その謙遜さを憶え、私たちは常に聖霊を神と認め、その方を尊重し、その御心に従順に聞き従うべきです。聖霊降臨節を迎え、この聖霊について黙想する機会になれば幸いです。 2.現代のキリスト者において聖霊とは? それでは、現代を生きる私たちにとって、聖霊はどのような意味を持つのでしょうか? 神学用語に「聖霊の照明」という表現があります。漢字語としては、天井についている蛍光灯のような照明器具のあの照明です。しかし、神学においてはその使い道が違い「悟りの光を照らし、主の御言葉を解き明かしてくれる。」という意味としての照明なのです。つまり、この照明は聖霊と聖書の関係を説明する用語なのです。聖書は紀元前1500年ごろから西暦100年ごろにわたって記録された文書だと知られています。複数の著者によって記されており、数多くの筆写本(手書きの写し)が残されており、原本は大昔に消失したと言われます。世々の複数の人によって記録されたため、時代の移り変わりによる歴史、文化、思想の違いがあります。それでは、このような聖書を何千年もたっている21世紀の今日、どうして理解し説教することができますでしょうか? それは聖霊の照明があるからです。聖霊は聖書の真の著者です。何千年という長い期間、聖霊のお導きによって聖書は記され、それによって「神の救い」という聖書の主なテーマは少しも変わらず保たれてきたわけです。つまり聖書は聖霊によって神の救いについての変わらないテキストとして今でも残っているのです。また、聖霊の導きによって、現代の牧師たちは神の救いについて説教することが出来るのです。現代人にとって、聖霊は聖書を照明して正しく理解させる、言葉の光としての存在です。聖霊のお導きによって、私たちは今日も聖書の言葉を聞き、主の御心を知り、信じるようになるのです。 また、聖霊はイエスについて教え、信じるように導いてくださる霊です。先ほど引用しましたように、イエスは聖霊について、こう言われました。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ15:26)また、今日の本文はこう述べています。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」(ローマ8:9) だから聖霊はイエス·キリストのことを示し、主の救いの御業と福音を証しし、罪人を悔い改めさせてキリストを信じるように導いてくださる存在なのです。人が自力でイエスを信じようとしても、罪のため、絶対にイエスを信じることは出来ません。聖書の言葉を聞いても「古代人たちの立派な教えだ。」あるいは「イエスは偉大な思想家だ。」くらいで終わるのです。人は聖霊の導きによって神の御言葉が分かり、自分を顧みるようになり、悔い改めるようになり、そのような過程を通して、はじめてイエスを主と崇めるキリスト者になっていくのです。したがって、聖霊はイエスについて教え信じるようにしてくださる霊です。聖霊のお導きがあるからこそ、私たちはイエスを自分の主と告白し、その方の民となるのです。つまり、聖霊の御業でなければ、誰もイエスを正しく信じ、さらに三位一体の神を知ることは出来ないのです。 最後に、聖霊はキリスト者の人生を導いてくださる方です。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ローマ書8:11) 先日、復活について説教しながら死んだ肉体が再び生き返ることだけが復活ではなく、神を知らずに霊的に死んでいた者が、神を知り、信じ、新たに生き始めるのも、また別の意味としての復活だと言いました。聖霊が私たちの内におられれば、私たちはキリストを知り、信じるようになり、キリストの恵みのもとで以前とは異なる新しい人生を生きるようになります。聖霊によって聖書に記された主の御言葉を自分のものと受け入れるようになり、その御言葉に基づいて、過去とは違う人生を始めるのです。その後もキリスト者が神に召される日まで、聖霊なる神はキリストの恵みにあってキリスト者と常に共に歩んで下さり、日々正しい人生を歩んで行けるよう導いてくださるのです。キリスト教の神学では、このような聖霊による変化のある生き方を聖化(日本キリスト教会信仰の告白参照)と呼んでいます。そのため、主はヨハネによる福音書を通して聖霊を「弁護者(助け主)」と称され、主が昇天された後も、私たちと共におられる方だと言われたのです。 締め括り 今日は普段の説教では、あまり詳しく扱わない聖霊なる神について話しました。実は、本格的に聖霊について学ぼうとしたら、時間を決めて週に2、3時間ずつ1ヶ月くらいは勉強する必要があると思います。聖霊がなさる御業が、絶対に少なくないということです。今日の説教を通して、三位一体なる神の一位格である聖霊についてもう一度考えてみる機会となったら幸いです。聖霊は真の神です。聖霊は目に見えませんが、明らかに存在する全能な方です。聖霊はキリストの福音と言葉を悟らせてくださる方です。聖霊はキリストを信じるように導いてくださる方です。聖霊は私たちが主の御言葉に聞き従い、正しく生きるように助けてくださる方です。このような聖霊への知識を持って、常に認識して生きる私たちであることを願います。創造の時から、旧約時代と新約時代を経て、今もなお私たちと共におられる聖霊。私たちを助け導いてくださる助け主、聖霊を憶え、その方に頼って生きる私たち志免教会の兄弟姉妹でありますように祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。