聖霊なる神。

歴代誌上 12章17~19節(旧645頁) ローマの信徒への手紙 8章9~11節(新284頁) 前置き 毎年5月になると、キリスト教会はペンテコステを迎えます。ペンテコステとはギリシャ語で50日という意味です。この50日は果たして何を意味するのでしょうか? 聖書はイエスが十字架にかけられ死に、3日後に復活されてから50日たった日、三位一体の一位格(キリスト教用語)である聖霊なる神が到来されたと証しています。イエスの昇天後、主のご命令に従って(使徒言行録1章)部屋に集まって祈っていたイエスの弟子たちは、とても不思議な経験をするようになります。それは主が言われた通りに父なる神からキリストの弟子たちに聖霊が遣わされる出来事でした。主の弟子たちに聖霊が臨まれると、彼らは今まで、この世を恐れていた姿を捨てて大胆にイエス·キリストと主の福音を宣べ伝えるようになりました。つまり、イエスが復活してから50日後に聖霊が降臨した出来事が起こったため、人々はギリシャ語式に50日(ペンテコステ)と呼んでいるわけです。したがって、ペンテコステのより正確な名称は、聖霊の降臨を記念する聖霊降臨節なのです。現代を生きる私たちにとって聖霊は誰であり、聖霊の降臨はどういう意味を持つのでしょうか? 一緒に考えてみたいと思います。 1. 聖霊について。 聖霊とはどんな存在でしょうか? 私たちは祈る時に「父なる神」あるいは「イエスの御名によって」という表現をよく使います。しかし、聖霊を意識的に呼ぶのはほとんどないと思います。キリスト教は伝統的に三位一体の教理を信じています。私たちが信じる神が御父と御子と聖霊の三位が一体でおられると信じているということです。つまり、聖霊は御父と御子と共に三位一体をなしておられ、明らかに神であるということです。それでも、聖書は父と子についてはよく語っているのに、聖霊については比較的に少ないと思います。その理由は聖書の真の記録者である聖霊が、ご自身のことより父と子についてさらに示しておられるためではないかと思います。私たちの主イエスは、聖霊について次のように語られました。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ15:26) 主は聖霊が父のもとから主イエス·キリストの名によって遣わされる方だと語られました。また真理の霊であり、主の御言葉を思い起こさせ、イエスのことを証しする方だとも言われました。 聖霊は全能な三位一体なる神の一位格であるにもかかわらず、ご自分のことを隠してむしろ御父と御子をより明確に表される方なのです。父と子と同質であり、同等な力を持っておられるにもかかわらず、自ら父と子に謙遜に従われる方なのです。したがって、私たちは聖霊が神であるにもかかわらず、誰よりも謙遜な方であることが分かります。聖霊は創造の時にもおられました。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1:2) また、聖霊は旧約の人物たちとも共におられました。「すると霊が三十人隊の頭アマサイに降った。ダビデよ、わたしたちはあなたのもの。エッサイの子よ、あなたの味方です。平和がありますように。あなたに平和、あなたを助ける者に平和。あなたの神こそ、あなたを助ける者。ダビデは彼らを受け入れ、部隊の頭とした。」(歴代誌上12:19) そして、聖霊は新約時代にも私たちと共にいらっしゃいます。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26) この聖霊はご自身ではなく父と子をより一層証ししつつ、信徒の歩みと弱さを助けてくださる真の神なのです。 聖霊は、ヘブライ語で「ルーアッハ」、ギリシャ語では「プニュマ」と言われます。そしていずれも「風」あるいは「息」を意味する表現です。聖霊は風や息のように目には見えない存在ですが、確かに働いておられる方です。だからといって、聖霊を風や息あるいは気のように人格もなく意志もない、ただ神のいきおいだと思ってはなりません。聖書は明らかに、聖霊が神であることを証言しているからです。風はどうですか? 目には見えませんが、確かな力を持っています。時には暑い夏、爽やかな夕風を。また、時には恐ろしい台風となり、暴風と大雨を伴います。そのように聖霊は目には見えませんが、明らかな力と意志を持って父なる神のご計画と御子イエスのご意志に従って力強く世のすべてを司る方なのです。ですから、私たちは神を考えるとき、父と子にだけ留まってはなりません。聖霊が確かにおられ、御父と御子イエス·キリストと共にこの世界を統治しておられることを忘れてはなりません。見えないからといって存在しないわけではないからです。ご自分のことを隠して父と子を示される、その謙遜さを憶え、私たちは常に聖霊を神と認め、その方を尊重し、その御心に従順に聞き従うべきです。聖霊降臨節を迎え、この聖霊について黙想する機会になれば幸いです。 2.現代のキリスト者において聖霊とは? それでは、現代を生きる私たちにとって、聖霊はどのような意味を持つのでしょうか? 神学用語に「聖霊の照明」という表現があります。漢字語としては、天井についている蛍光灯のような照明器具のあの照明です。しかし、神学においてはその使い道が違い「悟りの光を照らし、主の御言葉を解き明かしてくれる。」という意味としての照明なのです。つまり、この照明は聖霊と聖書の関係を説明する用語なのです。聖書は紀元前1500年ごろから西暦100年ごろにわたって記録された文書だと知られています。複数の著者によって記されており、数多くの筆写本(手書きの写し)が残されており、原本は大昔に消失したと言われます。世々の複数の人によって記録されたため、時代の移り変わりによる歴史、文化、思想の違いがあります。それでは、このような聖書を何千年もたっている21世紀の今日、どうして理解し説教することができますでしょうか? それは聖霊の照明があるからです。聖霊は聖書の真の著者です。何千年という長い期間、聖霊のお導きによって聖書は記され、それによって「神の救い」という聖書の主なテーマは少しも変わらず保たれてきたわけです。つまり聖書は聖霊によって神の救いについての変わらないテキストとして今でも残っているのです。また、聖霊の導きによって、現代の牧師たちは神の救いについて説教することが出来るのです。現代人にとって、聖霊は聖書を照明して正しく理解させる、言葉の光としての存在です。聖霊のお導きによって、私たちは今日も聖書の言葉を聞き、主の御心を知り、信じるようになるのです。 また、聖霊はイエスについて教え、信じるように導いてくださる霊です。先ほど引用しましたように、イエスは聖霊について、こう言われました。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ15:26)また、今日の本文はこう述べています。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」(ローマ8:9) だから聖霊はイエス·キリストのことを示し、主の救いの御業と福音を証しし、罪人を悔い改めさせてキリストを信じるように導いてくださる存在なのです。人が自力でイエスを信じようとしても、罪のため、絶対にイエスを信じることは出来ません。聖書の言葉を聞いても「古代人たちの立派な教えだ。」あるいは「イエスは偉大な思想家だ。」くらいで終わるのです。人は聖霊の導きによって神の御言葉が分かり、自分を顧みるようになり、悔い改めるようになり、そのような過程を通して、はじめてイエスを主と崇めるキリスト者になっていくのです。したがって、聖霊はイエスについて教え信じるようにしてくださる霊です。聖霊のお導きがあるからこそ、私たちはイエスを自分の主と告白し、その方の民となるのです。つまり、聖霊の御業でなければ、誰もイエスを正しく信じ、さらに三位一体の神を知ることは出来ないのです。 最後に、聖霊はキリスト者の人生を導いてくださる方です。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ローマ書8:11) 先日、復活について説教しながら死んだ肉体が再び生き返ることだけが復活ではなく、神を知らずに霊的に死んでいた者が、神を知り、信じ、新たに生き始めるのも、また別の意味としての復活だと言いました。聖霊が私たちの内におられれば、私たちはキリストを知り、信じるようになり、キリストの恵みのもとで以前とは異なる新しい人生を生きるようになります。聖霊によって聖書に記された主の御言葉を自分のものと受け入れるようになり、その御言葉に基づいて、過去とは違う人生を始めるのです。その後もキリスト者が神に召される日まで、聖霊なる神はキリストの恵みにあってキリスト者と常に共に歩んで下さり、日々正しい人生を歩んで行けるよう導いてくださるのです。キリスト教の神学では、このような聖霊による変化のある生き方を聖化(日本キリスト教会信仰の告白参照)と呼んでいます。そのため、主はヨハネによる福音書を通して聖霊を「弁護者(助け主)」と称され、主が昇天された後も、私たちと共におられる方だと言われたのです。 締め括り 今日は普段の説教では、あまり詳しく扱わない聖霊なる神について話しました。実は、本格的に聖霊について学ぼうとしたら、時間を決めて週に2、3時間ずつ1ヶ月くらいは勉強する必要があると思います。聖霊がなさる御業が、絶対に少なくないということです。今日の説教を通して、三位一体なる神の一位格である聖霊についてもう一度考えてみる機会となったら幸いです。聖霊は真の神です。聖霊は目に見えませんが、明らかに存在する全能な方です。聖霊はキリストの福音と言葉を悟らせてくださる方です。聖霊はキリストを信じるように導いてくださる方です。聖霊は私たちが主の御言葉に聞き従い、正しく生きるように助けてくださる方です。このような聖霊への知識を持って、常に認識して生きる私たちであることを願います。創造の時から、旧約時代と新約時代を経て、今もなお私たちと共におられる聖霊。私たちを助け導いてくださる助け主、聖霊を憶え、その方に頼って生きる私たち志免教会の兄弟姉妹でありますように祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

教会はキリストの体。

詩編33編12節(旧864頁) エフェソの信徒への手紙 1章15~23節(新352頁) 前置き 前回の本文の内容を手短に話してから説教に入りましょう。キリスト者は天地創造の前に、神の予定により、キリストにおいて選ばれ、教会に召された者です。キリスト者が神に選ばれ、教会に召された理由は、キリストによって与えられた神の輝かしい恵みをたたえるためです。神はキリスト者をお呼びになるために、御子イエスを十字架にかけられ、その贖いによってキリスト者をお買取りなさいました。また、神は十字架で死んだキリストを復活させられ、その方に世界を支配する権勢を与え、その方を神の真の相続人にしてくださいました。ですので、キリストは教会だけでなく、この世のすべての頭でもある方です。そして、神はキリストの贖いによって買い取られたキリスト者にも、主イエスの肢として主と共に神の相続人と呼ばれる光栄を与えてくださいました。したがって、キリスト者はキリストによって天地創造の前から選ばれた神の相続人として、主のご計画への堅い信仰で生きるべき存在です。志免教会はとても小さな群れですが、私たちをお呼びくださった大きな神の相続人なのです。その資格にふさわしく生きる私たちでありますよう祈ります。 1.「パウロの感謝の祈り」(15-16節) 前回の本文でパウロは、キリスト者が、どのようにして神に選ばれ、教会に召されるようになったのかについて話しました。パウロはまた、この手紙の受取人であるエフェソ教会も、そのように神に選ばれ、キリストによって神の相続人となったことを喜び感謝しています。「こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。」(エフェソ1:15-16) パウロはすべて4回の宣教旅行をしたと知られていますが、エフェソ教会は3番目の宣教旅行の時、パウロによって開拓された教会です。つまりエフェソ教会はパウロにとって自分の子供のような教会なのです。ちなみに2番目の宣教旅行の時には、コリント教会が開拓されたんですが、いろいろなトラブルで問題だったコリント教会とは違い、エフェソ教会は比較的に健全な教会だったと思われます。(比較的と書いた理由は、ヨハネの黙示録2章に描かれたエフェソ教会は主イエスの称賛と叱責を共に受けているからです。) パウロは今日の本文の15節と16節で、このエフェソ教会のために絶えず感謝の祈りをしていると言いました。 パウロはエフェソ教会の信仰と愛の便りを聞いて心から喜んでいたようです。おそらくパウロは天地創造の前に神に選ばれた存在であり、キリストの体であるエフェソ教会が、信仰と愛とによって健全に進んでいることに喜んだでしょう。私たちはこれを通じて神に選ばれた主の教会のあり方が「信仰と愛」にあることが分かります。信仰と愛の欠けた教会は虚しいです。主への信仰と隣人への愛、それこそが私たち教会が自らを証明する大事な基準なのです。それでは、パウロの祈りはどういうものだったでしょうか。彼は4番目宣教旅行以後、ローマの監獄でエフェソ書を書いたと知られていますが、彼は長い時間エフェソ教会を訪問できなかったにもかかわらず、自分の子供のようなエフェソ教会を愛し、覚えつつ祈ったのです。私たちは、こパウロの祈りを通じて何を祈るべきかを教えてもらいます。パウロは投獄され、いつどうなるかも分からない状態だったにもかかわらず、エフェソ教会の信仰と愛の便りを聞いて喜びつつ感謝の祈りを捧げました。私たちは隣の教会のために、どれくらい祈っているでしょうか? いつも自分あるいは我が教会だけのために祈っているのではないでしょうか? 私たちもまた、自分の状況を問わず、エフェソ教会のために祈ったパウロにならいたいです。主への信仰と隣人への愛にあって生きている兄弟と姉妹、そして隣の教会のために喜び感謝しつつ祈る私たちであることを祈ります。 2.信仰と愛の上に立って神の御心を悟っていこう」(17-18節) エフェソ教会の信仰と愛の便りを聞き、喜びと感謝の祈りを捧げたパウロは、エフェソ教会がさらに進み、主において成長していくことを祈ります。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、」(17) まず、パウロはエフェソ教会が「知恵と啓示との霊」によって「神を深く知る」ようにと祈りました。つまり、聖霊のお導きによって神への知識が増えることを願っているのです。人は自分で神を知ることが出来ません。人間には神との関係を妨げる罪の本性があるからです。つまり、神に教えていただかなければ、人間は絶対に神のことを自分で知ることは出来ないのです。ところで、キリストの贖いと赦しは、このような人間の罪の問題を解決し、聖霊のお導きによって、神を知る道を開きました。キリストに遣わされた聖霊は「神の知恵と啓示」を喜んで教えてくださる方です。私たちは聖霊の照明(光を照らして明らかにしてくださる。)によって聖書の言葉を聞き、悟り、実践しつつ、神のことを知っていきます。本当に信仰と愛とに立っている教会なら、聖霊によって神の御言葉を学び、神のことをますます知っていく健全な教会でなければなりません。人間は神を知ることが出来ませんが、御父と御子によって遣わされた聖霊は、キリストの恵みの中で、私たちに神への知識を喜んで与えてくださいます。 「心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」(18)また、パウロは、主がエフェソ教会の心の目を開かせ、神の招き(神のお呼び)による希望と神の相続人となったキリスト者の受け継ぐもの(神の嗣業)の豊かな栄光を悟らせてくださることを祈ります。「招き(お呼び)」とはキリスト者が天地創造の前から主の予定によってキリストにおいて神の相続人として召されたことであり、「受け継ぐもの(嗣業)の豊かなの栄光」とは、神の相続人となったキリスト者が神に嗣業を受け継いだ栄光を意味するものです。詩篇にはこういう言葉があります。「いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。」(詩編33:12) つまり神の相続人となり、嗣業を受け継いだということは、罪の束縛から自由になり、神と和解し、祝福の中で神の所有となったという意味ではないでしょうか? 旧約聖書の創世記には、エデン(ヘブライ語喜び)の園に住んでいた最初の人の物語が書いてあります。最初の人はエデンで神の相続人のような存在であり、エデンは彼に委ねられた神の受け継ぐもののような場所でした。しかし最初の人は罪によってエデンから追い出され、神の相続人、主の嗣業を受け継ぐ特権を失ってしまいました。そして、その呪いは彼の子孫である全人類に同じく与えられました。しかし、神はキリストを通して人類の罪を赦し、主を信じるすべての者に回復を許してくださいました。だから相続人、受け継ぐものという言葉は、最初の人間が失ったエデンの特権をキリストによって回復するという意味ではないでしょうか? 3.「キリストは教会の頭であり、全世界の頭でもある」(19-23節) つまり、エフェソ教会が、先ほどお話しました主の恵みの中で進んでいくようにと自分の祈りを通して願っているのです。そしてパウロは19節を通して、そのようなすべての恵みが、絶対的な神の力によってなされるということを、神がエフェソ教会に悟らせてくださるように祈ります。「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(19) その後、20節から22節までは、その神の絶対的な力への説明が書いてあります。その「神の絶対的な力」とは、まさにイエス•キリストの御業のことです。パウロはそれを通して、イエス•キリストの十字架での犠牲と復活、そして昇天といった主の御業が、キリスト者において「聖霊のお導きのもとで、神の御言葉を悟らせ、キリストと共に神の相続人として神の嗣業を受け継がせる」原動力であり、神の絶対的な力であることを示します。つまり、パウロはキリストご自身が、神の祝福を私たちに与える神の力であることを証言するのです。「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」(21-22) さらにパウロはこのキリストが教会だけでなく、この世の真の支配者であることを語り、そのキリストがまた教会の頭であると力強く語っているのです。 「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(23)ここで私たちはキリストが教会の頭であるということと、教会がキリストの体であるということの大事さを知ることが出来ます。これまでのエフェソ書1章の内容をまとめてわかりやすく話してみましょう。第一、キリスト者は天地創造の前に神の予定によりキリストにおいて選ばれ、教会に召された。第二、パウロはエフェソ教会が、主に召された教会として信仰と愛とで生きることを喜び、神に感謝した。第三、パウロはさらにエフェソ教会が信仰と愛との上に立ち、聖霊のお導きのもとで神を知るようにと祈った。第四、神のことを知りつつ、エヴェソ教会に与えられた神の招きの希望と神の嗣業が持つ栄光の豊かさに目覚めることを祈った。招きの希望とはキリストによって神の相続人となったことであり、神の嗣業の栄光の豊かさとは神との真の和解と交わりが出来るようになったことを意味する。第五、そのすべての恵みは神の絶対的な力であるキリストによってなされたものである。第六、神はキリストを教会だけでなく、全世界の支配者としてくださった。第七、エフェソ教会は、まさにこのキリストの体なる共同体としてすべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場である。それが昔のエフェソ教会と現在の志免教会のアイデンティティーであります。 締め括り 前回の説教は割と分かりやすいと思いましたが(教会はキリストによって天地創造の前の神の予定通りに召された存在)今日はその教会がどんな存在であるかを説明する、多少複雑な内容だったと思います。いつもパウロの手紙を研究しつつ、パウロの文章の難しさを感じます。しかし、今日の本文から学べる何かがあると思います。今日の説教で最も重要な内容は、私たちにあらゆる恵みを与える神の絶対的な力はイエス·キリストであり、私たち教会はその「神の絶対的な力」である「キリストの体」だということです。全世界の支配者であるキリストは、教会のみを通して、この世の中にご自分の声をお伝えになる方です。世の中のすべての人の分からない神の御心を、教会は聖霊によって知るようになり、世の中に伝えるのです。したがって、私たちは「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」というアイデンティティーを持っているのです。教会は単純に神を信じる人々が集まる同好会のような共同体ではありません。教会はまた建物を指す意味でもありません。私たちは、この世をご支配なさるキリストの福音を、この世に伝える主イエスの体なる共同体です。これからも、パウロの手紙を通じて教会のあり方と真の意味と大事さについて学んでいきたいと思います。私たち志免教会は「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」です。そのアイデンティティを憶えつつ生きる私たちであることを祈ります。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

抵抗の精神。

出エジプト記1章15-22節(旧94頁) エフェソの信徒への手紙 6章9節(新359頁) 前置き 前回の説教では、神の救いの歴史の余白について話しました。前回の説教の内容を手短に話してから、今日の説教に入りたいと思います。この世を生きながら、時々、私たちは神の助けが全く感じられない状況にあったりします。そんな時、私たちは神が本当に自分と共におられるのか疑うようになりがちです。しかし、そのように神の助けが感じられない時、私たちはそれを神の不在だと思ってはなりません。主は全能であり、全宇宙に満ちておられる方なので、どこにでも存在しておられる方です。したがって、不在は神の本質に合わない概念です。私たちは神の助けが感じられない時を、主がより深い恵みと救いを与えてくださるために、わざわざ置かれた余白の時間として受け止めなければなりません。主なる神は、ご自分の民一人一人の救いのために御子までも十字架で見捨てられた方です。そのような主が、ご自分の民を放っておかれるなんてあり得ないことです。主の意図的な余白はあるかもしれませんが、主は絶対にご自分の民を離れて不在になる方ではありません。出エジプト記のイスラエルの民が苦難のもとで泣き叫んでいた時、主はその余白の時間の中でイスラエルの救いを備えておられました。主は決して不在の方ではありません。主は救いのために余白を置かれるだけです。主の余白を不在としてではなく計画の一部として理解し、主の救いを待ち望む信仰者になりたいです。 1. ファラオの命令とヘブライ人の助産婦たち。 出エジプト記1章と2章にはヘブライ人(川を渡ってきた者たちという意味、すなわちユーフラテス川を渡ってきたアブラハムの子孫イスラエルを指す言葉。エジプト人は軽蔑の意味として呼んだという説もある。) に対するファラオの3段階の抑圧が出てきています。 一つ目は、前回の説教で学んだ重労働による抑圧です。しかし、聖書はこう述べています。「しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し」(出エジプト記1:12) 前回の本文には、神が登場しておられなかったですが、神は見えないところで、むしろイスラエルを栄えさせ、守ってくださったわけです。そして今日、その二つ目の抑圧が出てきています。「エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」(出エジプト記1:15-16) 大人のイスラエル人たちが重労働にも関わらず減らなかったため、ファラオは生まれたばかりの赤ちゃんを対象にして、悪いことをたくらんだわけです。ファラオはヘブライ人の助産師であるシフラとプアを呼び出し、男の子が生まれたら殺せと命じます。古代の帝国で、皇帝の命令は絶対的です。皇帝の命令に逆らうことは、すなわち死を覚悟するという意味です。しかし、シフラとプアは皇帝の命令があったにも関わらず、ヘブライ人の男の子たちを生かしました。 「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。」(出エジプト記1:17) 助産婦たちがファラオより全能な神をさらに畏れていたためです。神への助産婦たちの信仰は、自分の命への脅威さえも超えるものでした。むしろ彼らは命をかけて、このように報告します。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」(出エジプト記1:19) ある意味で、とんでもなく、むしろ反抗のように感じられるほどの報告でしたが、ファラオは彼らに罰を与えられなかったです。神が彼らを祝福し、守ってくださったからです。エフェソ書6章9節には、こんな言葉があります。「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」(エフェソ6:9) 世の中には、数多くの権力者がいますが、そのすべての権力は神のお許しなしには成り立つことの出来ないものです。世の権力者たちは主の民の肉体の命を脅かすのは出来るかもしれませんが、その魂まで滅ぼすのは出来ないからです。主なる神は肉体も魂も両方とも滅ぼすことがお出来になる真の主人です。目の前の人間の脅威よりも恐ろしいのが、全能の至尊者である神の権威なのです。世の中の脅威と神の権威の間で、より偉大なものを選ぶのが信仰なのです。 2. キリスト者の抵抗の精神は神への信仰に基づく。 ここで、私たちはキリスト者の抵抗の精神の根本について知ることができます。キリスト者の抵抗は、ある特定の政治思想によるものではありません。私たちの抵抗は神の御言葉にその根拠を置き、神への信仰から始まるものです。今日の本文には助産師たちの名前が記してありますが、シフラとプアです。シフラの語源は「清い」プアの語源は「輝かしい」です。 新約聖書マタイによる福音書の山上の垂訓には「清い」と「輝かしい」に係わる2つの言葉があります。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」(マタイ5:14)シフラとプアは単純に当時の助産師2人の名前だけを意味するわけではないと思います。彼らがどのような人々だったかを示すしるしだったはずです。清くて輝かしい信仰の助産師たちは、神を世の中の権力者よりも畏れていた人々でした。そして彼らは神への信仰によって当時エジプトの支配者であり、イスラエルを迫害者であったファラオの命令に抵抗しました。彼らは信仰によって命の危険に屈せず、神の御心をわきまえて従順に行ったわけです。そんな二人の信仰によってイスラエル民は数を増したのです。 キリスト者はひとえに三位一体なる神だけを真の王として崇める者です。そして、キリスト者の真の法は、三位一体なる神がお与えくださった聖書の御言葉のみです。世の中の法律も私たちに与えられた法ではありますが「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」(ローマ書13:1) 私たちはこのローマ書の御言葉に基づいて、一時的にこの世の法を了解しているだけです。永遠に私たちに与えられた法は主のみ言葉だけです。つまり、私たちは神の御言葉に逆らう間違ったこの世の法については、決して認めてはなりません。私たちは間違った法に抵抗しなければならない存在です。新日本キリスト教会の先輩たちは、日本帝国時代の旧日本キリスト教会に対して、このように評価しました。「旧日本キリスト教会は神の御言葉に背き、日本帝国の御用団体になってしまった。」神とその方の御言葉ではなく、権力と民族に屈服してしまったという意味です。また、植民地朝鮮の教会はどうだったでしょうか? 神社参拝に反対した人はきわめて少なく、多数の牧師は宮城腰背をただの国家儀礼だと言い訳をし、日本帝国に屈服してしまいました。その人たちが、まさに私と皆さんの先達なのです。彼らの姿には、今日の本文の助産師たちのような信仰は見えません。信仰による抵抗に失敗したのです。キリスト者は抵抗しなければなりません。聖書に照らして正しいことを支持し、間違ったことには拒否しなければなりません。命がけの覚悟で、主の御言葉に逆らう間違ったことに徹底して抵抗するべきです。 3. 世の権力への抵抗、自分の罪への抵抗。 私たちは 2 つの存在に抵抗しなければなりません。第一に、この世の悪い権力です。去年の韓国の大統領選挙以来、私に「ユン大統領が当選し、日韓が仲良くなって良かったね。」と言われる方が何人かいました。確かにユン氏が大統領になって日韓の関係が良くなって良かったと思います。しかし、韓国の国内でのユン氏の歩みはどうでしょうか? 労働者を弾圧し、検察が国政の要職に入って牛耳り、夫人の母の不正に知らないふりをし、庶民のための政治はしていません。弱い者よりは強い者のために政治をしているのです。「日本での生活が楽になった」という私自身の益一つあるだけで、韓国国内の弱い者の事情は悪くなったという事実に私はどうすればいいか戸惑っています。日本の政治はいかがでしょうか? 自分は日本人ではないので良い悪いとは言えませんが、皆さんのご判断はいかがでしょうか。もし、日本でも韓国でも悪い政治があるなら、教会は抵抗しなければなりません。その良し悪しの判断は、主の御言葉である聖書に照らしてするものです。日本キリスト教会は、日本の政治家が間違った政策を広げようとしたり、主張したりすれば、すぐに首相宛てに抗議声明を送ります。首相に「それは正しくありません。間違っています」と激しく抵抗するのです。私が日本キリスト教会を愛する理由の一つです。 第二に、私たちが抵抗しなければならない、もう一つの存在は私たち自身の罪の本性です。悪魔は絶えずキリスト者の信仰を妨げます。まるで、本文でイスラエルを弾圧するファラオのようです。しかし、誘惑と妨害を拒否するのも私たち自身であり、受け入れるのも私たち自身です。悪魔は補助するだけで、罪を選ぶのは自分自身なのです。私たちは、このような自分自身の罪の本性に向かって抵抗しなければなりません。人を憎むことも、御言葉に逆らうことも、罪を犯すことも、すべての決定は私たち自身次第です。そんな自分の罪の本性に抵抗しなければなりません。私は志免教会の皆さんを愛していますが、皆さんの罪の本性までも愛しているわけではありません。私自身の罪の本性をも愛していません。愛する妻ですが、彼女の罪の本性までも愛してはいません。私たちはこの自分自身の罪の本性に抵抗しなければなりません。使徒パウロはローマ書でこう言いました。「善にさとく、悪には疎くあることを望みます。」(ローマ16:19) 他人を愛し、善を行い、自分への節制には賢く、他人を憎み、罪を犯し、自分の欲望には愚かであるべきということです。それがキリスト者の抵抗の生き方なのです。ヘブライ人の助産師たちのように清くて輝かしい信仰によって、ファラオ(罪の本性)に抵抗するキリスト者として生きていきたいです。 締め括り 「ファラオは全国民に命じた。生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」(出エジプト記1:22) 助産師たちの抵抗が激しくなると、ファラオは直接エジプトの国民にヘブライ人の男の子たちを川にほうり込めと命じます。これがファラオの3番目の弾圧でした。助産師たちが抵抗したにもかかわらず、結局世の権力は3番目の弾圧を推し進めたわけです。しかし、こんな弾圧の中でも神はモーセを生かしてくださり、彼を通して結局出エジプトを成し遂げられました。事実、キリスト者の抵抗は、世の大きな権力に勝つことはできません。私たちはあまりにも弱い存在だからです。しかし、私たちが抵抗する時に真の権力者である神は私たちの抵抗を無視されず、また別の恵みを備えてくださいます。助産師たちの小さな抵抗はイスラエルの指導者モーセを生かし、神は彼を用いてイスラエルをエジプトから救ってくださいました。世の権力への抵抗、私たちの罪の本性への抵抗、私たちの抵抗は弱いですが、私たちは決して忘れてはなりません。真の権力者である、主イエス・キリストが私たちの抵抗を祝福し、助けておられるということを。今日の御言葉に登場した二人の助産師シフラとプアの信仰にならい、抵抗して生きる私たちになることを祈ります。父と子と聖霊の名で。 アーメン。

言葉の力

箴言18章20-21節(旧1014頁) マタイによる福音書 12章35-37節(新23頁) 前置き 約十何年前のことです。インターネットにエンジョイジャパン、エンジョイコリアというウエブサイトがありました。最初は日韓の若者たちの友好拡大のために作られたウエブサイトでした。しかし、意図は非常に良かったものの、インターネット特有の匿名性により、むしろ互いにとがめ合う投稿が満ち溢れ、見事な喧嘩の場になってしまいました。良い会話を分かちあい、有益な文章を掲載する両国の人たちも少なからずいましたが、あまりにも対立的で非難ばかりの人が多くなってしまい、結局、そのウエブサイトは閉鎖してしまいました。各々の考えから湧き出てくる行き過ぎた非難と敵意を濾過する装置がなかったため、最終的に閉鎖したわけです。 当時、そのウエブサイトで穏やかな会話を交えた両国の人もおり、それなりの良い思いと写真を分かち合う人もいましたので、閉鎖がとても残念だと思いました。すごく良い交流の場になり得るところだったに、今でも残念な記憶が残っています。 1.言葉とは? 今日、最初からこのような残念な例えを挙げた理由は、当時、そのウエブで、日本と韓国の人々が相手を攻めつけた道具が、他ならぬ、人の言葉だったからです。言葉には強い力があります。人どうしの好き嫌いが一番最初に言葉によって現れるからです。言葉とは、単純に口から出てくる言語だけを意味するわけではなりません。それ以上の何かが言葉には込められています。言語を形成するための要素、つまり意図、考え、思い、それら全てが結局言葉に由来するからです。もし、互いに良い心を持って、良い言葉を使おうとしたら、前置きのような残念な出来事はなかったはずです。言葉は人の思想をおく器です。ある人がどのような言葉を使うのかにつれて、その人の正体が明らかになるのです。人が言葉を用いることと同じように、言葉も人を用いるからです。 神が人間に「言葉」を与えられた理由は、言葉を用いて人と人が交わりあい、心と心を分かちあうからです。人に言葉がなければ、どういうふうに他人と心を分かち合い、交わることが出来るでしょうか?そういう意味で、言葉は確かに重要な道具です。しかし、また、この言葉を間違って用いれば、人と人の間に壁を立て、誤解をもたらす道具にもなり得ます。ドイツの実存主義の哲学者ハイデガーは、こう語ったと言われます。『言葉とは人間の存在が現れる場である。』たとえ言葉が目に見えないといっても、その言葉によって、言葉を吐き出した人の思想や哲学が示されるからです。愛の言葉を使うか、憎しみの言葉を使うかにつれて、話し手の立場が変わります。人がどのような言葉を使うのかによって、その人の存在は変わるという意味です。言葉によって人を生かす者となり、 言葉によって人を殺す者となるのです。言葉の使い方によって、人の実存が決まるということです。 ギリシャ語で言葉を意味する単語は「ロゴス」です。このロゴスは、主に「言葉」を意味しまが、他により多くて深い意味をも含まれています。「理屈、法則、秩序、真理」など、より哲学的で、宗教的な意味が隠れているのです。このロゴスをヘブライ語に訳すれば「ダバル」となります。この「ダバル」は、神が天地創造のときにおっしゃった、その言葉のことです。「ダバル」は爆発的なエネルギーを含んでいる言葉なのです。神が「ダバル」されると光が造ら、神が「ダバル」されると太陽と月と星々が造られ、神が「ダバル」されると、天地万物が造られました。また、神が「ダバル」される際に「理屈、法則、秩序、真理」が明らかになりました。神が「ダバル」された時に全ての良いものが生まれたわけです。神は、その「ダバル」を人にも与えてくださいました。人がその「ダバル」をどう使うのかにつれて、この世は変わるわけなのです。善く変わることも、悪く変わることも神から与えられた「ダバル」の使い次第です。 2.悪の言葉に満ちた世界。 日本と韓国は歴史的に深い関係を結んできました。学者たちは、朝鮮半島を経由して仏教文化や、服飾文化などの古代文化が流れ込んできたと言います。また、日本から朝鮮半島に西洋文物が本格的に入り込んだとも言います。特に近代の法律や行政体系のほとんどが日本から朝鮮半島に入ったという学説は紛れもなく事実です。(ただし、植民地経営のためという残念な経緯はありますが。)とにかく、互いに大きい影響を及ぼしたに違いありません。もし、日本と韓国が、真心を込めて協力することが出来れば、どこの国々よりも互いに助け合える良い相手になるでしょう。私は今まで、約20カ国以上を旅行したり、数ヶ月間暮らしたりした経験があります。その中に日本と韓国のように文化的に、言語的に似ている国は見たことがありません。まるで兄弟のような両国だと思います。 しかし、事実、日本と韓国はそう簡単な関係ではありません。ニュースや雑誌、新聞などを見たら、相手への厳しい評価が少なくありません。韓国社会で日本を非難する言葉を聞くのは難しいことではありません。そして日本でも、韓国を蔑視する人がおり、東京の有名な本屋には嫌韓論コーナーが別に備わっているほどです。一部の人々は、相手の国が滅びてしまうことを願うという言葉をためらいなく出しています。しかし、私たちは、より広く眺める必要があります。日本も韓国も、結局は神の被造物であるということです。先祖の先祖まで遡れば、最終的に一人の祖先、そして、彼の造り主である神にまでつながるでしょう。だから、日本と韓国は実に兄弟関係なのです。しかし、日韓の間にはいまだに微妙な緊張感がしゃがんでおり、少しでも隙間が見えたら相互批判が跳ねてくる状態です。何と悲劇的な現実なのでしょうか?互いに愛し合って生きるにも時間が足りないのに、なぜ、このように憎まなければならない状態になっているのでしょうか? 私は創世記3章の蛇を操った悪魔の名前が、ひょっとしたら、離間ではないかと思います。悪魔が神と人間、人と人との間に離間の種を蒔いたわけではないかということです。もちろん、神は悪魔に離間される方ではありません。しかし、問題は人間です。弱い人間という存在は、離間により、簡単に仲が悪くなってしまうでしょう。結局、最初の人は神を憎むようになり、人と人の間にも不和が入ってきたのでしょう。例えば、アダムは神と妻、両方を責めました。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』そして、アダムの長男カインは弟のアベルを無慈悲に殺した後、さらに神にも無礼に言いました。 『主はカインに言われた。お前の弟アベルは、どこにいるのか。カインは答えた。知りません。わたしは弟の番人でしょうか。』 初めの神の愛の言葉に満ちていた、この世に、人間の罪によって憎しみが入って来ました。そして、そのような憎しみに汚された言葉は、今まで残っており、この世界に、日本と韓国の間に、そして私たちの間にも影響を及ぼし、相手を憎み、対立するようにさせているのです。 3.言葉(言い方)を変えなければなりません。 神は愛の言葉によって世界を創造されました。神はご自分の御言葉(神の理屈、法則、秩序、真理を通達しておられる御子のこと)に肉を与え、この世に遣わされ、罪人の救い主にしてくださいました。神はご自分のみ言葉を教えてくださる御霊を送られ、今でも私たちと共に歩んでくださいます。神の御言葉は、愛の言葉です。その愛の言葉によって、私たちは今日も神の愛のもとに生きているのです。しかし、この世は神の言葉に逆らいます。絶えず、憎しみの言葉を生み出しているのです。時には建前ではほめているが、本音では憎しみに満ちている場合も多いです。箴言はこう語っています。『死も生も舌の力に支配される。舌を愛する者はその実りを食らう。 』(箴言18:21)イエスはこう言われました。 『あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。』(マタイ12:37)そして、ヤコブはこう語りました。 『舌は火です。舌は不義の世界です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。』(ヤコブの手紙3:6)聖書は、常に人の言葉を警告しています。主の民である私たちは、どのような言葉を話しつつ生きるべきでしょうか? この世界は今、憎しみと恨みに満ち溢れています。人の前ではニコニコしますが、後ろでは睨みつける偽善者も多い世界です。このような世の中で、私たち、主イエス・キリストを信じるキリスト者は、違う生き方をとるべきだと思います。言葉と心が同じでなければなりません。言葉で人を殺す世界の中で、私たちは言葉を通して人をを生かすべきではないでしょうか。言葉で暴力を振るう世界の中で、私たちは言葉を通して神の平和を宣べ伝えるべきではないでしょうか。イエスは明らかに言われました。『善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。』(マタイ12:35)私たちは、善い人でしょうか?悪い人でしょうか?私たちの言葉が自分のことを証明するのです。私たちの日常の言葉が神に恵まれた愛の言葉であることを祈ります。 言葉には力があります。韓国には「一言で千両の借金を返す。」ということわざがあります。良い言葉の力を強調する表現です。なにげなく、口から出てくる一言の言葉、時には誰かの人生を変える復活の言葉になり、また時には誰かの心を崩す死の言葉になり得ます。しかし、私たちは毎日言葉を使っているので 、その重さを見落としてしまうことが多いと思います。良い言葉が良い関係を生み出し、良い言葉が美しい世界をもたらします。神が私たちに常に良い言葉だけを追い求める力をくださるように祈ります。良い言葉が持っている強い力が、私たちの口を通して響かれることを祈ります。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

救いの歴史の余白。

出エジプト記1章1~14節 (旧94頁) ヨハネによる福音書20章29節 (新210頁) 前置き 3年間の長い創世記の説教が終わりました。そして今日からは新しく出エジプト記の説教に入ろうとしています。前の創世記の説教では、比較的に聖書の本文を細かく探ってみようとしたので、時間がかなりかかるようになったと思います。これからの出エジプト記の説教では、すべての本文を説教するより、聖書の重要な出来事を中心に説教する予定です。今日は出エジプト記の始めに出てくるヤコブの子孫の系図について、そしてイスラエル民族に迫ってきた苦難と主の時について、話してみたいと思います。主が出エジプト記を通して主の御言葉を教えてくださり、私たちの信仰生活を導いてくださることを祈ります。 1. 歴史の導き主は、イスラエルの神である。 中学生の頃、母がこんな質問をしました。「英語で歴史が何かわかる?」「ヒストリーですよ。」「なぜ、ヒストリーかな?」「分からない。」「HIS STORY、彼の話だからよ。」「彼って誰?」「イエス様のこと。」「ええっ、うそ!」歴史を意味する英語のヒストリーは本当に「彼の話」という意味でしょうか? 実はこの英語のヒストリーはラテン語の「ヒストリア」に由来します。またラテン語の「ヒストリア」はギリシャ語の「ヒストリア」をそのまま訳した表現です。そして、ギリシャ語の「ヒストリア」は「賢い」という意味の「ヒストール」から来ました。どこかで、ヒストリーに関して聞いた母が感激しながらヒストリーについて情熱に話しましたが、十何年後、神学校で、そうではないことを知り、くすっと笑った記憶があります。ところが、原文的には間違った解釈であるかもしれませんが、信仰の経験的には、本当にヒストリー(歴史)が「彼(神様)の話」のように感じられる時もあります。主が歴史の導き主であるということです。そして出エジプト記は、その歴史の導き主である神について、顕かに示している聖書だと思います。今日の本文1-7節は、神が歴史の導き主であることを教える箇所です。「ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。」1-5節には創世記に比重大きく登場していたヤコブとその息子たちの名前が書いてあります。 この間の説教で、創世記のヘブライ語のタイトルを訳すると「はじめに」になり、出エジプト記のヘブライ語のタイトルを訳すると「名前」になると申し上げました。旧約聖書は別のタイトルがなく、接続詞を除いた最初の文章の最初の単語がタイトルとして使われたからです。したがって、出エジプト記は、まず名前、つまりヤコブとその息子たちの名前から始まります。ヤコブと息子たちの名前が記録された後、6節では彼らが皆死んだと記してあります。「ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、」イスラエル民族を代表する先祖たちが皆死にましたが、7節は再びこのように語ります。「イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。」日本語聖書では「が」という接続助詞で、わりと薄く訳されたと思いますが、ヘブライ語の聖書を読むと、6節と7節の間に「しかし」という表現がはっきり入っています。つまり、「大事な先祖たちが皆死んだ。しかし、イスラエルの子孫はますます栄え続けていった。」ということでしょう。祖先は皆死んで神のもとに召されたんですが、その子孫は先祖の死と関係なく、神によって栄え続けていったということです。ここで私たちは神の民を導く者が、ある特別な指導者ではなく、偉大な神ご自身であるということが分かります。この世に数多くの指導者がいます。しかし、歴史はその指導者たちが作っていくものではありません。ひとえに主なる神だけが歴史を導いていかれます。そのため、大事な祖先が亡くなったにもかかわらず、神のお導きによってイスラエルはますます強くなっていきました。 2. 苦難は神の不在のためなのか。 さて、ここで一つ問題が生じます。「ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し…イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。」(出エジプト記1章8-11節の一部)イスラエル民族がますます強くなっていくだけなら良いですが、現実はそうではありませんでした。新しいエジプトのファラオが現れ、イスラエルの民を奴隷にして苦しめ始めたのです。なぜエジプトの王はイスラエルを苦しめ始めたのでしょうか? 先祖のファラオがヨセフによってイスラエルを受け入れてくれたのに、子孫のファラオが先祖の判断に逆らうということでしょうか? 違います。私たちはヤコブ時代のエジプト王朝と出エジプト時代の王朝が違うことを留意しなければなりません。日本の場合「万世一系」という概念で天皇家は一つの血統によると言いますが、近い中国や韓国の場合、王朝が変わった出来事が多いです。たとえば、韓国の以前の朝鮮は李氏王朝で、朝鮮の前の高麗は王氏王朝だったようにです。前にも説教で話しましたが、ヨセフが総理だった時代のエジプトはヒクソス人の王朝でした。つまり、純粋なエジプト人ではなかったのです。むしろ、アブラハム家が属したセム族に近い民族でした。ヒクソス人が北から攻めてきてエジプトを征服し、エジプトで自分たちの王朝を打ち立てたわけです。しかし、ヒクソス人は、後日、エジプト人の反乱軍によって滅ぼされ、権力を引き渡すことになったのです。 その過程で、イスラエルは新しいエジプト王朝の奴隷となってしまいます。イスラエルはエジプトよりヒクソス人に近い民族なので、戦争でも起こればイスラエル民族が裏切るかもしれないとおそれたからです。本文にその根拠があります。「これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」(出エジプト記1章10節) そのようにイスラエルは非常に大きな危険にさらされていました。エジプトの新しいファラオは、イスラエル民族を弱めるために重労働を課して虐待しました。エジプトの総理の民族だったイスラエルが、奴隷民族になってしまったのです。神に選ばれた民族「イスラエル」、神が先祖アブラハムとイサクとヤコブと、空の星のように、海の砂のように栄えさせてくださると約束された「イスラエル」。そのイスラエルに絶体絶命の危機が迫ってきたのです。もし、ここでイスラエル民族が大きい苦難に負けて滅びることになったら、神の約束は台無しになってしまうでしょう。それでも、今日の本文の1節から14節では、神の御業が一度も現れていません。まるで神が知らないふりをしていらっしゃるように感じられます。イスラエルが苦難の真ん中にさらされている、この物騒な時代に神は果たしてどこにいらっしゃったのでしょうか? 3. 余白は不在ではない。 先ほど、私は神が歴史の導き主であり、イスラエルを栄えさせてくださったと言いました。ところが、今日の本文に出てくるイスラエルを見れば、歴史の導き主である神の動きが全く見つかりません。ご自分の民が苦難を受けても、主の御業は見つかりません。もちろん1章17節からは神のお働きが見えますが、今日の本文に限っては神がイスラエルを完全に無視しておられる様子です。では、主はイスラエルの苦難を傍観しておられたわけでしょうか? 私たちは神の時間と人間の時間の違いによる乖離を理解する必要があります。ギリシャ語には「時間」を意味する2つの言葉があります。1つは「クロノス」であり、2つは「カイロス」です。旧約聖書の神の御業について話しているので、ギリシャ語の概念を取り上げるのは少し無理ではないかと思いますが、これ以上、主の時間を説明するのにぴったりの概念はないと思います。「クロノス」とは、自然に流れていく物理的な時間のことです。「志免教会の主日礼拝は午前10時15分から1時間くらいです。」ここでの時間はクロノスです。「カイロス」とは時間の長短とは関係ない、具体的な出来事の中で現れる驚くべき変化を経験する時間のことです。「志免教会で守った、その日の礼拝は、私において人生が根こそぎ変わるほどの大事な時間でした。」ここでの時間はカイロスです。 つまり、人間は「クロノス」という物理的な時間に束縛されているので、クロノスの外で働いておられる神の御業を全く感じることが出来ない存在です。時間の束縛から自由でいらっしゃる神は、最も決定的な瞬間に決定的な時間である「カイロス」を通して働かれます。そこから、まるで、神は何もしていないという人間の誤解への答えが出てくるのです。主は主の時間を通して働いておられる方です。イスラエル民族がクロノスの時間の中で苦しみ、泣き叫んでいた時、主なる神はカイロスの時間を通して、イスラエルの解放と救いのために準備しておられました。私たちの人生において、主のお導きが全くないような時、主の答えも聞こえてこないような時、主は私たちのことを無視しておられるわけではありません。主は主の時間を通して私たちのために働いていらっしゃるのです。つまり、私たちが主がおられないと感じるその瞬間は、主の不在の時間ではありません。それは主の時を準備する余白の時間です。不在と余白は雲泥の差です。不在は無力ですが、余白は力強いです。主がご自分の御業を成し遂げられる「カイロス」の時間が来るまで、主は余白を持ってその時が来るのを待っておられるのです。イスラエルが強くなって数十万になるまで、たとえ彼らに苦難が襲ってきたといっも、主はその時を静かに待っておられるのです。 締め括り 出エジプト記でヤコブとヨセフが亡くなり、イスラエルはエジプトの奴隷となりました。その時間(クロノス)の間、主はイスラエルを完全に見捨てておられるようでした。しかし、主の時間(カイロス)になった時、(聖書では、時が満ちたというふうで使われる場合がある。)主はモーセを遣わされ、イスラエルを救ってくださいました。それと似たような出来事が新約にもあります。旧約聖書マラキ書以後から洗礼者ヨハネの登場までの約400年の間、公式的な神の啓示はありませんでした。そういうわけで、ある学者たちはこの時期を神の啓示が消えた暗黒時代だと言いました。しかし、その後どんなことが起こったでしょうか? 神の時が近づき、子なる神がイエスという名でご自分の民を訪れてこられたのです。啓示の代わりに啓示の主人が遣わされたわけです。神への信仰によって生きるキリスト者にとって、神の不在はありません。ただ、神がわざわざ残しておかれた余白の時間があるだけです。信仰とは、主の時を待ち望むことです。「日本の教会が困難であり、私たちの生活が苦難であり」など、私たちの人生には数多くの危機が起こり得ます。そして、神の応えが聞こえないような時もあり得ます。けれでも、忘れないようにしましょう。その時間は神の不在の時間ではありません、それは明らかに答えてくださるために主が置かれた余白の時間です。主イエスのこの言葉が思い起こされます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ福音20:29) 神の不在と余白。私たちはどちらを信じていますでしょうか? 主のお導きをかたく信じる私たちであることを切に祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

天地創造の前に。

イザヤ書49章1~3節 (旧1142頁) エフェソの信徒への手紙1章3~14節 (新352頁) 前置き もともと今日はマルコ福音書を説教する番でした。しかし、マルコ福音書の残りの箇所が主イエスの苦難と十字架での死、復活に関する話しであるため、レントとイースターの説教と重なると思い、しばらくはエフェソ書の説教をすることにしました。(エフェソ書の説教はマルコ福音書の次の順番でした。) エフェソ書の説教が終われば、またマルコによる福音書に戻って、残りの内容について話したいと思います。今年の志免教会の主題聖句はキリストの教会のあり方についての箇所でした。「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」この言葉は、エフェソ書2章22節の言葉です。パウロはエフェソ書を通して教会の意義とあり方について語っています。教会は、神がご自分でお建てになったとても大事なキリストの体なる共同体です。今回のエフェソ書のみ言葉を通じて、教会とは何か、教会の一員である私たちは、どう生きるべきかについて一緒に考えてみたいと思います。今日は、その中でも特に主なる神のお選びと予定、お呼び出しについて話してみたいと思います。 1. 神の選びと予定。 「冬のソナタ」以来、韓流メロドラマが大人気です。韓流ドラマが人気な理由はいろいろあるでしょうが、男の主人公たちの甘いセリフも一役買ったと思います。例えば、イケメンの主人公の「生まれ変わっても君だけを愛するから。」のような照れくさくて切ないセリフは、数多くの女性視聴者の心をつかむのに十分だったと思います。ところで、神も主の民に向かってそのようなロマンチックな言葉を言われました。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1:4) 神の御言葉である聖書へのロマンチックだという言い方は、神への失礼であるかもしれませんが、主はご自分の民を、この世が造られる前にキリストにおいてお選びになり、愛しておられるという、まるで韓流ドラマの男の主人公が言うかようなことをおっしゃったのです。「この世が造られる前に私はすでに君を選んだのだ。愛してるよ。」つまり、神がこの世の創造よりも先に、主の民一人一人をすでにご存知で、愛しておられたという意味でしょう。天地創造の前にお選びになった私たちを、キリストにおいて呼んでくださるために、神は大切なご自分の独り子イエス·キリストを十字架の献げ物として犠牲にさせられたのです。それだけに主の民と呼ばれる私たちは、主の切ない愛のもとに生きている存在なのです。韓流ドラマの女主人公を羨む必要はありません。主の愛はそれより深くて切ないからです。 改革教会において、大事な教理の中の一つで「神の予定」という概念があります。神がこの世の始まりの前から、すべてのことを知っておられ、あらかじめお定めになったということです。つまり、ご自分の民を天地創造の前に、すでにお選びになったということです。「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」(エフェソ1:5-6) 新共同訳聖書は「御心のままに前もってお定めになった。」という表現を使っていますが、それに基づいた神学の概念が、まさに「予定説」なのです。予定だからといって「誰かは選び、誰かは見捨てた。神は悪いことも予定される。」という意味ではなく、ただ「神は全知全能であるため、すべてをあらかじめ知っておられ、その御心のままに成し遂げられる。」と理解するのが正しいと思います。主はご自分の民をすでに知っておられる方です。私たち一人一人は、この日本で、そんなに影響力のない非常に平凡な普通の人であるかもしれません。そのため、誰かは自分のことを「つまらない、うまくいかない、みすぼらしい」など、低く評価しているかもしれません。しかし、神はそのような人でさえ、この世が造られる前から、すでに愛してお選びくださいました。主に特別に指名されたということです。したがって、私たちは自分のことを低く評価してはなりません。このよの造り主である偉大な神が、私たちを天地創造の前に選ばれたからです。そして、主はその選ばれた私たちをキリストによって、予定通りに教会に呼び出してくださったのです。 2. 神の予定を信じる者の生き方。 このような神の予定と係わりがあるような旧約の言葉があります。今日の本文です。「島々よ、わたしに聞け、遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び、母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。」(イザヤ49:1) この度、レント期間にキリストの苦難について説教する際、イザヤ書に出てくる「しもべの歌」について話しました。イザヤ書49章1-6節は、イザヤ書に出てくる四つの「しもべの歌」の中、二つ目の歌です。ここで、神のしもべは、自分が母の腹にいる時から、神に名を呼ばれたと告白しています。旧約に現れる神のお選びの箇所でしょう。このように新旧約を問わず、主はご自分の民をあらかじめご存知でおられ、呼んでくださる方なのです。私たちが願って神に選ばれ、キリスト者になったわけではありません。神が私たちをお望みになったので、私たちをキリスト者と呼び出してくださったわけです。先週の説教で、信仰は信じる人のものではなく、信じさせてくださる方のものであると話しました。主のお呼びも同じです。したがって、すべてを知り、すべてを計画し、すべてを予定される主なる神を信じる者は、私たちのすべてが主の御心のもとにあることを信じなければなりません。今現在の苦しみと逆境も、結局は神が知っておられ、主の御心にあって万事が益となっていくということを信じなければならないのです。 今日の新約本文であるエフェソ書は、いわゆる獄中書簡と呼ばれる手紙で、パウロがローマ帝国によって投獄されたときに記された聖書と知られています。彼は福音のために無実に投獄され、苦しみの中にありながらも、神の恵みと導きを疑わず、むしろエフェソ教会の兄弟姉妹たちにキリストにあって、神のご統治を堅く信じることを頼んだのです。また、今日の旧約本文であるイザヤ書49章は、イスラエル民族がバビロンの捕囚となった時代に主から与えられた慰めの言葉です。他国の植民地のようになり、もうこれ以上希望がなさそうな苦しい時にも、神は変わらずイスラエルを愛し、覚え、導いておられるということを訴える歌なのです。主の予定、計画、導くを信じる主の民は、何があっても主の御心が予定通りに成し遂げられていくことを信じなければなりません。パウロとイザヤ書49章の記録者が、苦しい現実にあったにもかかわらず、主のお導きを信じたように、キリストにおいて教会と呼ばれるようになった私たちも、何があっても主の御心が私と共にあるということを信じるべきなのです。それが神の予定を信じる者の生き方なのです。皆さんは神のご計画、つまり天地創造の前から、母の腹にいた時から、キリストにおいて神に選ばれた特別な存在です。その存在性にふさわしい信仰で神の御心を待ち望みながら生きていきたいと思います。 3. キリストにおいて。 さて、今日の新約の本文の中に、何度も繰り返される表現がありますが、それは「キリストにおいて、キリストによって」です。二つを言いましたが、原文としては同じ言葉なのでしょう。この表現は今日の本文だけでなく、これからもエフェソ書に、よく出てくる表現です。父なる神は「キリストにおいて」天のあらゆる霊的な祝福を満たしてくださいました。父なる神は「キリストにおいて」天地創造の前にわたしたちを愛して、聖なる者、汚れのない者にしようとお選びになりました。父なる神は「キリストにおいて」御心のままに前もってお定めになったのです。父なる神は「キリストにおいて」私たちの罪を赦してくださいました。父なる神は「キリストにおいて」主の秘密である福音を私たちに教えてくださいました。父なる神は「キリストにおいて」天と地にあるものをキリストのもとに一つにまとめられたのです。父なる神は「キリストにおいて」私たちを御国を受け継ぐ者としてくださり、父なる神は「キリストにおいて」私たちに聖霊によって神の栄光をたたえるようにしてくださったのです。以上、キリストにおいてという言葉を何度も繰り返しましたが、そのすべてが今日の本文に出てくる表現です。私たちが神によって天地創造の前から選ばれ、神への信仰を持たれ、罪を赦され、喜ばれ、教会に集められ、神のものとなったすべての根源的な理由は、まさに神の予定によって「キリストにおいて」の存在となったからです。 「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。」(エフェソ1:11-12) したがって、志免教会につらなる兄弟姉妹は皆、神のご計画により、キリストにおいて、前もって定められた神の民となった存在であり、またキリストにおいて、神に栄光を帰すべき存在です。私たちはキリストにおいて選ばれ、一つになってキリストを頭とする教会です。主の体なる教会という表現も、キリストにおいての共同体という表現の言い換えなのでしょう。私たちが、神の予定によって天地創造の前から選ばれた理由も、主のお導きによって教会に集まった理由も、主と共に毎日を過ごせる理由も、すなわち私たちがこの世に存在できるすべての理由が、まさにキリストにおいて、その全てが成し遂げられたからです。ですから、教会を形成する私たちは、私たちのすべてがキリストにおいてあることを必ず憶えて生きるべきです。私たちの人生の焦点がキリストに集められるべきであるということです。 締め括り 最後に、今日の説教についてもう一度まとめて終わりたいと思います。第一に、主はすべてを前もってお定めになる方です。主は天地創造の前から、ご自分の予定通りに私たちをお選びになり、教会に集めてくださいました。第二に、この神の予定を信じる者は、どんなことがあっても自分の人生のすべてにおいて神の御心があるといいうことを信じ、その方の御業を待ち望みながら信仰によって生きるべきです。最後に、このすべての神の恵みはキリストにおいて(よって)成し遂げられたのです。だから、私たちは主の教会の一員としてキリストを私たちの人生の最優先として生きなければなりません。これからは、エフェソ書を学んでいきます。使徒パウロがあれほど大事にしていたキリストの体なる教会。私たちはその教会を成す兄弟姉妹として教会を大切にしながら生きる使命を持っています。今週もキリストにおいて前もってお定めになられた者、教会の一員として生きていくことを祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

信仰によって。

創世記49章29~33節 (旧91頁) ヘブライ人への手紙11章17~22節 (新415頁) 前置き 今日は、2020年から3年間続いてきた創世記の最後の説教です。まだ、48章、49章、50章が残っており、説教したい箇所が多いですが、今までと重なる内容を繰り返すことになると思い、大事な内容だけを取り上げて最後の説教をしたいと思います。ちなみに48章はヤコブの孫たちへの祝福、49章はヤコブの息子たちへの預言、そして50章はヤコブの葬儀とヤコブの息子たちの和解について描かれています。今日の説教は、その中で49章後尾にあるヤコブの最後の遺言について考えてみたいと思います。48、49、50章は読むだけで理解できる内容ですので、帰宅後に一読することをお勧めします。今日の説教のタイトルのように、創世記は罪によって遠ざかってしまった神と人間が、信仰によって再び結ばれる物語であります。今日は、創世記の大事な教えをもう一度振り返り、私たちの信仰生活において、適用できる教訓を考えてみたいと思います。 1. 信仰によって生きてきたヤコブの最期。 アブラハムの孫、イサクの息子、イスラエルという民族の名前の根源である人、ある意味で創世記の本当の主人公だとも言えるヤコブが、波乱万丈の人生を後にして神に召されました。ヤコブはアブラハム、イサク、ヤコブの3人の族長の中で、最も欲張りで、弱い信仰で、世俗的な人と評価される人物です。しかし、彼はアブラハムとイサク以上に、劇的な神の導きと守りの中で生きてきた人でした。若い頃の彼は、揺れやすい信仰で生きたのですが、それでも神は彼と常に共に歩んでくださり、彼が信仰の道を踏み外さないように導いてくださいました。そして、今日の新約本文は、彼の人生をこう評価しています。「信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。」(ヘブライ11:21) 私たちはこの言葉の「信仰によって」という表現に注目する必要があります。ヤコブは若い頃、神の御心ではなく、自分の意思に従って生きようとする人でした。彼は常に神のもとではなく、他のところを追い求める人でした。自分の利益のためには嘘もつき、欲張りで、算用高く、特定の妻と息子への偏愛で家族どうしの葛藤の元になる人でした。客観的に彼は信仰者として好ましくない生き方の人物だったのです。 しかし、彼の逝去後、長い時間が経ち、新約聖書は彼を「信仰によって」生きた人と評価しています。若い頃、信仰とは関係なく生きたヤコブが、神のお導きによって年を重ねつつ信仰の人物に成長していき、最終的には神のお許しによって信仰の先達として新約聖書に記されるようになったのです。私たちはそれを通じて、信仰というものの本質についてわかるようになります。信仰は信じる人によるものではなく、信仰をくださる方によるものであるということです。人が自らの立派な信仰によって信仰者として認められるわけではなく、神がご自分の恵みによって罪人を赦してくださり、信じる人と見なしてくださるから、信仰者として認められるというわけです。そういう意味で、私たちは自分の努力によってキリスト者になったわけではありません。父のお選び、キリストの御救い、聖霊のお導きによる信仰を通して、私たちは義とされ、キリスト者となったのです。私たちは今日も罪から自由ではない弱い存在です。しかし、主は常に私たちが信仰によって生きるように助けてくださいます。そして、私たちが主に召される日、主は私たちを「信仰によって生きた者」と呼ばれながら迎えてくださるでしょう。だから、今現在の自分の信仰の弱さのため、がっかりしないようにしましょう。自分の力で信仰生活をうまくいかせるわけではありません。主なる神が、私たちの信仰を導いてくださるのです。ヤコブは、その神の信仰のお導きによって信仰者と認められたのです。 2. 創世記が持つ真の意味。 「罪人に信仰への道が開かれた。」これが創世記が持つ最も大事な教えです。私たちは創世記という聖書について聞く時、「この世界がどのように創造されたのかを話す書だ。」と思うかもしれません。しかし、それは誤解です。創世記は、世界がどのように造られたのかを教える書ではありません。一部の無神論者たちは、聖書に現れる創造が、科学的に全く根拠のない嘘だと言います。「どうして世界が6日間に造られるだろうか、科学的にあり得ないことではないだろか。」と批判します。創世記が世界の創造についての書だと思うからです。しかし、それは創世記への完全に間違った理解の結果です。実際、創世記は創造に重点を置いた書ではありません。それなのになぜ創世記と呼ばれるのでしょうか? 創世記1章1節をヘブライ語で読むと「ベレシト(初めに)バラ(創造した)エロヒム(神が)」となります。「初めに神が創造された。」という意味です。創世記が創世記と呼ばれる理由は、この「ベレシト」にあります。古代中東の書籍(巻物)は別に題名がなく、第一行目の文章の最初の単語を題名として使う場合が多かったと言われます。たとえば、出エジプト記のヘブライ語のタイトルは「出」とか「エジプト」とか「記」とかではありません。「名前」がヘブライ語の出エジプト記のタイトルです。 「ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。」(出エジプト1:1) ヘブライ語の出エジプト記1章1節の一番最初に出てくる接続詞を除いて「名前」という意味の「シェモト」が文章の一番前に出てくるからです。出エジプト記というタイトルは、後、ギリシャの翻訳に付けられた題名です。また創世記の物語に戻って、つまり創世記は最初の文章のために名付けられたタイトルに過ぎません。創世記の真の主題は「信仰のない罪人たちが、信仰によって神に立ち返る。」なのです。主は創世記の登場人物、アブラハムとイサクとヤコブを通して、本格的に信仰の歴史を始められ、この3人が登場する理由を裏付けするために創造、堕落、人類についてお話になったのです。(1章から11章まで)だから、私たちは創世記を読む際に創造だけに重点を置いてはなりません。「世界を創造された神が、堕落によって汚された罪人を愛し、彼らに信仰を与え、彼らをご自分に引き戻されるために信仰の先祖であるアブラハムとその子孫イスラエルをお呼びになった。」に重点を置かなければなりません。したがって、創世記の最も重要なテーマは「信仰」なのです。私たちはできないことを神はお出来になるという信仰。私たちが信仰を作るのではなく、神が私たちに信仰をくださるという信仰。創世記は、まさにその信仰のために記された書なのです。 3. 信仰によって。 「ヤコブは息子たちに命じた。間もなくわたしは、先祖の列に加えられる。わたしをヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。」(創世記49:29) 今日の旧約本文は、それほど重要な言葉だとは感じられないかもしれません。ただ、ヤコブの遺言の中の一つに過ぎないと思われるかもしれません。しかし、「ヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。」という表現ほど、ヤコブの最後の信仰をよく表わす言葉はないと思います。若き日のヤコブは信仰と遠い人間でした。しかし、数多くの人生の喜怒哀楽の中で、ヤコブは神が養ってくださった信仰によって、真の信仰者に成長していきました。若い頃の彼は、自分自身の思いのままに生きようとする人でしたが、死を目の前にした今では、神の御心に従順に従い、神おひとりだけを崇める人となっていました。「ヘト人エフロンの畑にある洞穴(マクペラ)」とは、創世記23章でアブラハムが、ヘト人エフロンから銀400で買い取ったアブラハムの土地です。そして、そこは神がアブラハムの子孫に与えると約束された乳と密の流れる地カナンを意味する場所でした。ヤコブはその地を偲びつつ、死んでも神の約束の地に帰ろうとしたわけです。ヤコブは昔の自分の欲望に満ちた人生から完全に変わり、信仰によって神の約束を憶えながら死んでいったのです。もしかして、ヤコブにはエジプトで盛大な葬儀を行い、華やかな墓に葬られる選択肢もあったかもしれません。もし若い頃のヤコブだったら、そうしたかもしれません。しかし、最期のヤコブは、この世の栄ではなく、信仰によって神の約束を選んだのです。 結局のところ、創世記の長い話しは信仰についての物語なのです。創世記で一番比重の大きい人物であるヤコブは、この世の栄ではなく、神への信仰を選びました。創世記の1章から11章の間に登場した数多くの人類が神を背いて罪の道に沿って行ったのに、ヤコブはその道から脱し、神への信仰の道に沿って行ったのです。だからヤコブは「信仰によって」神の御前で自分の人生の最期を迎えたのです。このように創世記は信仰の書です。不信仰の中で信仰を選んだ偉大な信仰の先達の物語です。そして創世記は今日も私たちに不信仰と信仰の分かれ道を見せ、正しい選びを求めています。過去3年間の説教の内容が全て覚えられるわけではないと思います。説教をした私もすべて覚えることは無理です。しかし、これ一つだけははっきり覚えましょう。神は信仰によって生きる人をお呼びになるために信仰の書である創世記をくださいました。そして、私たちは創世記に登場した信仰の先達を継ぐ信仰者として神に召されたキリスト者なのです。確かに私たちの信仰は弱いです。しかし、神はいつも私たちの弱い信仰を大切に守ってくださり、私たちと一緒に歩いてくださいます。創世記を通じて学んだ神への信仰の物語を記憶し、弱いけれど、変わりない信仰を追求していく私たちであることを祈ります。 締め括り 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。正しい者は信仰によって生きると書いてあるとおりです。」(ローマ1:17) キリスト教において、信仰とは、存在の前提条件であると言っても過言ではないと思います。信仰がなければ神の創造を信じることができず、信仰がなければ主イエスの救いを信じることもできず、信仰がなければ今も私と共にいて私を導いてくださる聖霊の御業を信じることもできず、信仰がなければ私たちの人生が神によって守られているということも信じられないでしょう。したがって、信仰はキリスト者の最も重要な価値の中で一つなのです。神が志免教会の兄弟姉妹に変わらない信仰を与えてくださることを祈ります。また、その信仰によって世に勝利して生きていく私たちであることを祈ります。正しい者は信仰によって生きます。今週も信仰によって生きていく私たちになることを祈ります。父と子と聖霊の名によって。 アーメン。

十字架がなければ、復活もない。

詩編126編1~6節 (旧971頁) ガラテヤの信徒への手紙2章19~20節 (新345頁) 前置き 復活なさった主イエス·キリストを讃美します。キリスト教は救い主イエスの復活を信じる宗教です。私たちは聖書に書いてあるとおり、神であるイエス·キリストが罪人を救ってくださるために、この地上に来られたことを信じます。また、罪によって苦しむ罪人に贖いの良い知らせ、すなわち福音を宣べ伝え、罪人の友になって癒してくださったことを信じます。私たちは、キリストが罪人の贖罪のために苦難を受けられ、十字架につけられ死んでくださった後、3日目に復活なさって罪人に救いの道を開いてくださったことを信じます。私たちはクリスマスを通して救い主イエスの人間としてのお生まれを記念し、またイースターを通して救い主イエスの死と復活を記念します。これらすべてはキリスト者の信仰において絶対に諦められない大事な価値であり、教えであります。今日はイースターを迎え、キリストの復活について話してみたいと思います。 1. 肉体の復活と霊の復活。 復活とは何でしょうか? ご存知のように、復活とは死者が再び生き返ることを意味します。ところで、この復活とは単純に生物学的に死んた肉体が生き返ることだけを意味するのでしょうか? 生物学的に肉体が生き返ることだけを復活だとすれば、もしかしたら、この世の中にはまだまともに復活した人がいないかもしれません。なぜなら、再び生き返った人は人類の歴史上、救い主イエスを除いて一人もいないからです。そうであれば、私たちはキリスト教の復活をどう理解すれば良いでしょうか。私たちはまず、肉体の復活と霊の復活という二つの概念から復活について考える必要があります。キリスト教が語る肉体の復活は、遠い未来に起こる終末の出来事と言えます。「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」(第一コリント15:51-52) 使徒パウロは第一コリントを通して、この世の終わりに起こる復活について話しました。この世の造り主である神が終わりの日、ご自分の子イエス·キリストをこの地上に再び遣わされる時(再臨の日)、イエスを主と崇める者たちは、死から生き返ることになります。すでに朽ちたり、燃えりした肉体も神の不思議なお働きによって、完全できれいな姿に生き返るのです。 こういう肉体の復活はキリスト教の最も重要な教理の一つであるため、信仰を持った人なら、誰でも堅く信じる教えです。しかし、今すぐ私たちの周辺では、起こり得ないことですので、未信者たちに客観的に証明することができない復活でもあります。そういうわけで、私たちは霊の復活に目を注ぐ必要があります。聖書は霊の復活を「新たに生まれる」という表現で言う場合もあります。「イエスは答えて言われた。はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。イエスはお答えになった。はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ福音書3:3,5) ヨハネによる福音書で、イエスは新たに生まれることの特徴について、このように言われました。「第一、神の国を見ること、第二、水と聖霊とによって生まれること。」第一に「神の国を見る」の意味は何でしょうか? キリスト教が語る神の国は、死後の来世だけの意味ではありません。現世であれ来世であれ、神に治められるすべての場所がすなわち神の国なのです。ですから、神の国を見ることとは、神のご統治を待ち望むこと、神による信仰にあって生きることです。つまり、霊の復活を経験した人とは、何があっても神のご統治を待ち望み、また、そのように生きることを誓う信仰者のことを意味します。 第二、霊の復活を経験した人、すなわち新たに生まれた人は「水と霊とによって生まれた人」です。「水による」とはキリストの贖いによって清くなることを意味します。自分の罪に無感覚で世俗的だった人が、まるで水で洗われたかのようにキリストの贖いによって新たにされ、信仰の人生を追い求めるようになることです。それによって、自分だけのために生きてきた人が、他人に仕えるようになり、自分だけを愛した人が、神を愛するようになり、自分の欲望だけを追求した人が、神の御心に聴き従うようになること、聖書はそれを水によって生まれることと言うのです。では、「霊による」とはどういう意味でしょうか? 「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ福音書14:26) 人は自力で水によって清くなれないので、霊、つまり聖霊なる神が、人を助け導いてくださるという意味です。したがって「水と霊とによって生まれる。」とは、聖霊の導きによってキリストの贖罪を受け、清くなった信仰者のことを意味します。キリストの贖いによって新たになった信仰者が、すなわち神の国を見る人、水と霊とによって生まれた人、まさに霊の復活を経験した人なのです。 2. 十字架がなければ、復活もない。 さて、ここで一つ考えたいことがあります。肉体の復活は、遠い未来、キリストの再臨の時に起こる出来事であり、霊の復活は、キリストの贖いによって信仰者になることであるから、過去の霊の復活をすでに経験し、未来の肉体の復活をただ待つしかない私たちは、もうこれ以上、復活について何も考えずに生きても良いのでしょうか?ヨーロッパの宗教改革を触発したマーティン·ルーターは中世カトリック教会の改革を訴え、95ヵ条論題を掲げました。そして、その最初の条項は次のとおりです。「私たちの主であるイエス・キリストが、悔い改めよと言われたとき、彼は信仰者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」第一条のイエスが「悔い改めよ」という言葉で信仰者の全生涯が悔い改めであることを命じられたとありますが、その原型はマタイ福音書4章17節です。「イエスは、悔い改めよ。天の国は近づいた。と言って、宣べ伝え始められた。」「悔い改めよ。」という表現の原文はギリシャ語の現在形そして命令形の動詞です。文法的に能動的で反復的な行為を命令する時に使われる表現でもあります。つまり、一生悔い改めを繰り返して生きることを命令する文章なのです。ルーターはこの言葉を参考にして95ヶ条論題の最初の文章を書き始めたのです。このような能動的で反復的な悔い改めへの促しは、後日、改革教会の大事な合言葉として位置づけられ「改革された教会は常に改革されなければならない」という大事な教えを残しました。 つまり、キリスト者は、一度だけの悔い改めに満足してはならないという意味です。キリスト者は繰り返して自分のことを省み、悔い改め、信仰によって生きるべき存在です。それこそが、真の改革なのです。これは復活に対する私たちの姿勢にも同じく適用されます。「私はすでに信仰を持った人として霊の復活を経験した。そして肉体の復活は遠い未来のことなので待つしかない。だから、もうこれ以上復活について悩む必要はないだろう。」ではないのです。改革教会が常に改革されなければならないことと同じように、霊の復活を経験した信仰者である私たちも毎日霊的に新たに生まれ、復活の人生を生きていかなければならないということです。キリストにあって、毎日復活し、昨日の自分に対して死に、新たにされた自分となって生きていかなければならないということです。つまり、私たちは毎日死んで毎日復活するべき存在なのです。そのため、復活は今日もまた私たちに与えられる神からの信仰の課題なのです。昨日隣人を憎んだら、今日は隣人を愛するために復活しなければなりません。昨日嘘をついたら、今日は真実になるために復活しなければなりません。昨日不信仰だったら、今日は真の信仰であるために復活しなければなりません。私たちの毎日の生活が復活の連続でなければなりません。したがって、イースター(復活節)は毎年4月の、ある一日だけを意味するものではありません。私たちの全生涯が繰り返し復活するイースターであるのです。 使徒パウロは言いました。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」復活のためには死が前提となります。私たち、キリスト者は毎日昨日の自分に対して死に、今日の自分に対して生きる復活の人生を求めるべき存在です。したがって、聖書は私たちに自分の十字架を負うことを促します。十字架は死刑道具であり、キリストは十字架で死に、復活されました。私たちも、主のように毎日自分の十字架を負って罪に対して死ななければなりません。そしてキリストが復活されたように、信仰による新たな存在として復活しなければなりません。他人を憎む自分は死に、他人を愛する自分として復活しなければなりません。信じられない自分は死に、信じる自分として復活しなければなりません。私たちはキリストと共に十字架で死に、キリストと共に再び復活したキリスト者です。そしてキリストにあって復活した存在として毎日を生きていく存在でもあります。それが霊の復活を経験した者が求めるべき生き方ではないでしょうか。毎日死ぬというのは難しいことです。信仰によって、自分自身を徹底して制御することだからです。自分を制御することが、まさに私たちにおいての自分の十字架なのです。しかし、その十字架での死があってこそ、私たちの人生は真の復活の人生を生きることが出来るようになるのです。 締め括り 「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(詩編126:5-6) この言葉は私の大好きな詩篇の一つです。自分のことを十字架につけ、復活した存在として一日を始めるというのは非常につらいものです。しかし、涙で種をまく者は喜びで刈り入れるという言葉のように、つらい十字架を負う人は、まことの復活の者として神による喜びにあって生きるようになるでしょう。自分の昨日の悪い生き方を十字架につけ、信仰によって新たになった今日を生きる復活のある人生。それこそがキリスト者の進むべき、復活の道ではないでしょうか? 今日の説教はかなり神学的で比較的に難しい内容だったと思います。お久しぶりにお越しくださった方々には本当に申し訳ございませんでした。しかし、主なる神が、ここに集っておられる皆さまに聞く耳をくださることを祈ります。主イエスの復活を記念するイースターです。主の復活を喜ぶ一週間になることを祈ります。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

主の十字架。

申命記21章22~23節 (旧314頁) ガラテヤの信徒への手紙3章10~13節 (新345頁) 前置き 今日はイエス·キリストの受難主日です。前回の説教で、私たちはキリストの苦難について学びました。それを通して私たちはイエスが苦難を受けなければならなかった理由について、そして私たちにとって主の苦難とは何かについて話しました。イエスの苦難は、罪によって神に呪われた罪人たちのために、罪のないイエスが代わりに受けてくださった贖いの苦難でした。主イエスがお受けになった苦難と死によって、罪人への神の呪いは解決され、イエスを信じる者たちはみな、苦難の代わりに希望を、死の代わりに命を得ることになりました。また、主の苦難は十字架の上で受けた肉体的な痛みだけを意味するものではありませんでした。神であるキリストがしもべの姿、すなわち人の子の姿となって来られたこと自体が苦難の始まりでした。このすべてのキリストの苦難は、ご自分の命を神への献げ物としてささげ、罪によって汚されたご自分の民を罪から救い、父なる神と和解させるための崇高な苦難でした。そういう意味として、イエスの苦難は罪人である私たちが受けるべき苦難だったのです。主の苦難を憶える時、私たちはそれを絶対に憶えなければなりません。今日は、その苦難の極みである十字架の出来事について話してみましょう。 1. 旧約の木と新約の十字架。 すでにご存知であると思いますが、十字架はローマ時代の刑罰道具です。イエスは弟子たちと一緒に最後の晩餐をとられ、オリーブ山に行かれ、そこでイスカリオテのユダの裏切りによって、ローマの兵隊たちに逮捕されました。以後、主はユダヤの宗教指導者たちとヘロデ、そしてローマの総督であったポンテオ・ピラトに次々と尋問され、苦難を受けられた後、この十字架で壮絶に亡くなられました。前回の説教で学んだように、神であるイエスがしもべの姿で来られたのが苦難の始まりだったと言えば、この十字架で血を流して亡くなられたのは、その苦難の極みであり、完成だったのです。ところで、イエスの時代のローマでは、すべての囚人が十字架刑にされたわけではありませんでした。十字架刑はローマ帝国にとって最も危険な政治犯が受けるべき、恥と残酷の死刑だったのです。つまり、ローマ帝国の滅びを企んだり、反逆を図ったりした者たちにくだされる死刑だったわけです。そういう意味として、イエスはまったく政治犯ではありませんでした。罪人への真の悔い改めと神との和解の福音を宣べ伝えられただけです。しかし、ユダヤの指導者たちは霊的なユダヤ人の王として来られたイエスを誤解し、中傷して、ユダヤ人の王という表現を政治的に歪めて、罪のない主イエスを最も残酷な十字架刑に処したのです。まるで大罪を犯した凶悪犯であるかのように十字架で殺されました。ところで、なぜ主イエスは政治犯でもないのに、十字架で死ななければならなかったでしょうか? 私たちはその理由を新約聖書ガラテヤ書を通して知ることができます。 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。木にかけられた者は皆呪われていると書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13) ガラテヤ書は律法と福音の関係について説明した使徒パウロの大事な手紙です。律法と十字架の関係については後で話すことにして、ここでは「木にかけられる」という表現について考えてみましょう。旧約の律法には、神の御裁きの一つとして、自分の罪によって死刑にされた罪人を木にかけろとの命令がありました。木にかけられた者は、神に呪われた者であり、神の民から排除された惨めな存在でした。これについては、今日の旧約本文にも記されています。「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、 死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」(申命記21:22-23)つまり、旧約の「木にかける」という神の裁きが、新約にあって目に見えるように実現されたのが、まさにこの十字架の出来事だったということです。もちろん、十字架刑はローマ時代の死刑制度でしたが、ある意味で「木にかける」という律法の命令とも重なっているということです。これによって、ユダヤ人は木にかけられたイエスを神に呪われた者、神の民から排除された者と認識したはずです。つまり、イエスの十字架の出来事は、イエスが神に完全に御捨てられたことを律法的に示す出来事になったのです。 2. 律法は束縛を、十字架は自由を。 しかし、それはイエスの罪のために起こった出来事ではありませんでした。イエスはご自分の罪によって木にかけられたわけではないからです。かえって、イエスは何の罪もない方であり、しかも神ご自身であります。それなのに、なぜ主は木にかけられて悲惨に死ななければならなかったのでしょうか? それは神であるイエスが、呪いを受けるべき誰かのために、父なる神の呪いを代わりにお受けになって死に、復活して、ご自分の功績によって、その呪いを断ち切ってくださるためでした。イエスの時代のユダヤ人たちは、「自力で律法の要求を完全に果たして神の祝福(救い)に至る」という思想を持っていたようです。何度もお話しましたが、ユダヤ人の律法には、すべて613種類の数多くの掟がありました。そして、そのすべての掟を完全に行い保つ時、律法は完璧に守られるものでした。しかし、そのうちの一つでも守り保つことが出来なかったら、律法全体を完璧に守ったとは言えなかったのです。つまり、不完全な存在である人間が自力で律法を守り、神に認められ、救われるということは、まったくあり得ないという意味です。そのため、自分の力で神に認められる救いを得ることが出来ない人間は、何をしても呪いから自由になることが出来ません。しかし、イエスは正しい方で神ご自身であるゆえに、律法の要求をすべて果たすことが出来る方です。とういうわけで、律法を完成されたイエスがご自分の命をかけて、民の呪いを償い、ご自分の完全さによって民の救いを守り保たせてくださるのです。 だから、イエスを信じる者たちはみな、「イエスの功績によって律法を完成した者」と神に見なされ、認められるのです。私たちはこれを救いと言うのです。そのような意味として、旧約の律法は、どうしても罪人が罪から自由になれないことを明らかに示す束縛の道具なのです。誰も律法の行いを完全に守り保つことができないからです。しかし、罪のない完全な主イエスは罪人を罪に定める律法の束縛から自由な方です。主ご自身が律法を造られた方であり、律法の上にいらっしゃる正しい方であるからです。十字架は、律法を完全に成し遂げられたイエスが、律法の束縛を断ち切られたのを示す、主イエスの祝福の象徴なのです。イエスは、罪人の代わりに神の呪いを受けて木にかけられてしまったのですが、それによってすべての呪いの対価を支払ってくださったのです。そのため、イエス·キリストを主と信じる者はみな、呪いから自由な主の子供として生まれ変わったのです。明らかに新約聖書の十字架と旧約聖書の木は呪いの象徴です。しかし、呪いを圧倒する主なる神の恵みはキリストの贖いの血によって、呪いの十字架という木から呪いを消し去り、その代わりに祝福を入れ替えてくれました。そういうわけで、主の十字架は呪いが過ぎ去ったのを象徴する救いの道具となりました。誰でも、十字架で成し遂げられたキリストの贖いを信じるなら、呪いから自由になり、主の御救いに入ることができるのです。これによってイエスの十字架は、主の救いによる自由と救いを象徴するものとなったのです。 3. 十字架そのものではなく、十字架の出来事を憶えましょう。 ここで、一つ注意しなければならないことがあります。それは十字架そのものは聖なるものではないということです。ひと時、ハリウッドのホラー映画の中にドラキュラが登場する映画が多かったです。映画を観るとドラキュラには弱点がありましたが、日差し、銀、聖水、ニンニク、十字架などでした。このような映画の影響のためか、キリスト者でない人々においては、十字架に不思議な聖なる力が宿っていると誤解する場合が多いと思います。しかし、それは映画的な楽しみのために作られた現代人の想像に過ぎません。十字架そのものには何の力もありません。というわけで、宗教改革期のプロテスタント教会では、会堂に十字架もつけないケースが多かったと言われます。十字架をもう一つの偶像にする恐れがあったからです。実際にローマ帝国の処刑道具として使われる前、古代フェニキアやバビロン、エジプトなどでは、この十字架が、異邦の神々を象徴する偶像崇拝の道具として使われていたとも言われます。また、このような道具が時間の経過とともにカルタゴやペルシアなどで処刑道具として使われ(おそらく、神々の呪いとして)、その後ローマ帝国にも導入されたと言われます。そのため、信仰が弱い人々は、いつでも十字架を神やイエスの化身と誤解して偶像のように受け入れる可能性があるということです。 ですので、私たちは先ほど語り合ったように、十字架の意味を正しく知り、使わなければなりません。十字架そのものではなく、十字架での主イエスの贖いの出来事を、より一層大切に憶えるべきです。十字架を眺める時、キリスト教の聖なる象徴と思うより、私たちのためのキリストの苦難と恥の証拠と思うべきです。何のためにキリストが、この十字架の上で苦しめられたのかをよく考えましょう。そして、自分にとって十字架とは何かについて顧みましょう。使徒パウロはこう言いました。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラディア2:19-20) 十字架を憶える時、私たちは十字架にて成し遂げられたキリストの救いと共に、今後私たち自身が十字架にあってどう生きるべきなのかを悩まなければなりません。主イエスがご自分の民の救いのために、自ら命をささげて救ってくださったように、今や私たちは救い主イエスの栄光のために、私たち自身の十字架を負って生きていかなければなりません。私たちはキリストの十字架にあって、私たちのために身を献げられた神の子に対する信仰によって生きて行かなければなりません。そのような十字架の意味を心に留めて生きていきたいと思います。 締め括り 今日は、主の十字架について考えてみました。志免教会に赴任してから、5回目のレントを過ごしていますが、そのたびに十字架について説教をしてきました。しかし、振り返ってみると、いつ聞いても新しく感じられるのが、この十字架の話しではないかと思います。十字架は私たちの代わりに主イエスが苦難を受けてくださった愛の証拠です。十字架は私たちが受けるべき呪いを主イエスが断ち切ってくださった自由の証拠です。十字架は私たちの命のために、ご自分の命を捨てられた主イエスの犠牲の証拠です。十字架は私たちを救ってくださったキリストのために、私たちも主に自分を捧げる献身の証拠です。そのような十字架の意味を憶え、今週を過ごしていきたいと思います。十字架の主が志免教会の上に豊かな恵みを与えてくださいますように。 父と子と聖霊の名によって。アーメン。

主イエスの苦難

イザヤ書53章3~6節 (旧1149頁) ヨハネによる福音書12章23~26節 (新192頁) 前置き 今日は2023年度の四旬節第5週間目の主日です。先週は四旬節の意味について、そして、それにかかわる灰の水曜日、四旬節の日数の意味などについても学びました。今日は私たちが四旬節を通して記念しなければならない、主の苦難について考えてみたいと思います。今日は主の苦難の意味について、そして来週は主の苦難のハイライトである十字架について話したいと思います。なぜ、完全な方であるイエスは苦難をお受けになることになったでしょうか? そして、キリスト者にとって、主の苦難はどういう意味を持つでしょうか? 一緒に考えてみましょう。 1. なぜメシアは苦難のしもべと呼ばれるのか? 旧約のイザヤ書には、4つの「しもべの歌」が記されています。(42:1-9、49:1-7、50:4-9、52:13-53:12)「しもべの歌」には将来、神のしもべ、すなわちメシアが来て行う務めについて、書いてあります。すでに新約を知っている私たちは、このしもべの歌が、メシア、イエスキリストについての預言であることを知っていますが、その昔、キリスト以前の人々は、この神のしもべが誰なのか分からなかったのです。そういうわけで、漠然と誰かが神の偉大なメシアとして来るだろうと推測するだけでした。ところで、人々はこのしもべの歌から、とうてい理解できない点を 1 つ見つけました。それは神のしもべ、メシアが苦難を受けるということでした。メシアとはヘブライ語の「油注がれた者」という意味です。旧約のイスラエルでは「王、祭司、預言者」が油に注がれて任命されましたが、油注がれた者は、この地上で神の手と足のように主の民に仕え導くリーダーのような存在でした。そのため、人々は油注がれた者、つまりメシアを尊敬し、栄光の存在として認識していたのです。それなのに、イザヤ書の神のしもべ、メシアが苦難を受けるようになるなんて、メシアを栄光の存在と認識してきたイスラエル人は大きな衝撃を受けたに間違いないでしょう。「栄光の存在は苦難の存在だ。」という逆説が「しもべの歌」に現れていたからです。 なぜ、栄光を受けてしかるべき存在が苦難を受けなければならないのでしょうか? その理由は律法の贖いの方式のためです。旧約、イスラエルの民は、神殿にて、傷のない獣を贖罪の献げ物とすることで赦されました。民の罪を傷のない獣に渡し、民の代わりに獣を屠ることで、民の罪 民の罪が償われたと見なしたわけです。ここで大事なのが「傷のない」という表現です。すべての獣が、民の贖いのための献げ物として捧げされるわけではありません。傷のないきれいな獣だけが献げ物になれるのです。ところで、神はいつも繰り返される獣によるいけにえの代わりに、一人の主の聖別されたしもべを犠牲にして、ただ一度で罪を取り去る方法を計画されました。(ヘブライ9:26) したがって、ただ一度の贖いのための存在、すなわち神のしもべメシアは、傷のない獣のように、罪から自由な存在でなければなりません。旧約のいけにえのように、主のしもべは、罪なく完全で光栄の存在でなければなりません。なぜなら、この栄光の存在を犠牲にして罪に満ちた民を贖うからです。イザヤ書の「しもべの歌」に登場する神のしもべメシアはそのような存在です。いかなる罪もない、誰よりも光栄で欠点のない存在ですが、神はその栄光のしもべを、ご自分の民への唯一無二の真の贖罪のために、献げ物として苦難の中に投げ入れられたのです。 神のしもべとして来られたイエスは、罪も傷もない完全な栄光のメシアです。しかし、そのような理由で、イエスは苦難を受けるしもべになりました。イエスは罪人の命のために十字架で死に、罪人の赦しのために呪いを受け、罪人の喜びのために悲しみを受けました。イザヤ書の「しもべの歌」は、このような逆説を示しています。今日の旧約本文も「しもべの歌」の一部ですが、読んでみましょう。 「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5) 救いのためには「代わり」という言葉が前提とならなければなりません。主は私の代わりに罰せられ、私の代わりに苦難を受け、私の代わりに呪いを受け、私の代わりに死を経験されました。それらによって、私は主の代わりに平和を得、主の代わりに祝福を受け、主の代わりに命をもらい、主の代わりに光の中にいるようになったのです。主イエスの苦難は私たちの苦難に代わるものです。私たちが受けるべき苦難を代わりに受けてくださった主がいらっしゃるから、私たちは主の代わりに栄光を受けることになったのです。聖書が語る救いには償いが必要なのです。私たちが死を恐れず、生きることが出来る理由も、栄光の主イエスが私たちの代わりに苦難を受け、私たちの救いを固く約束したためです。苦難のしもべイエスは私たちの苦難を代わりに担当してくださるために来られた方です。 そして、私たちはその苦難のしもべイエスによって、主の栄光の中で救われた存在なのです。 2. 一粒の麦のような神のしもべ 「イエスはこうお答えになった。人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:23-24) 今日の新約本文で、イエスはご自身の苦難と死について「栄光を受ける」と言われました。メシアであるイエスご自身が、ご自分の苦難を栄光の行為として認識しておられたということです。 罪に汚された民を救うためのイエスの苦難は、昔から神によって定められた救いの手立てでした。イエスが神に服従してその救いを成し遂げられる時、すなわちイエスが苦難の中で死んで、ご自分の民をお救いになった時、はじめて神のご計画は成就されるからです。イエスは神の計画が成し遂げられること自体が、すなわちご自分の栄光であることを知っておられたでしょう。主イエスの苦難と栄光は、まるでコインの両面のようなものです。世の中の価値観では到底理解できない逆説的な神秘です。死から命を生み出し、苦難から栄光を造り、みすぼらしさから貴さをもたらされる神の逆説的な神秘なのです。したがって、私たちはこの四旬節の期間、主の苦難を憶える時、神の栄光と私たちの栄光のために、苦難をご自分の栄光となさったキリストの崇高なお志を記念しなければならないでしょう。一粒の麦の死のようなキリストの苦難と死は、主を信じるキリスト者という数多くのもう一つの麦を生みだし、神に栄光を帰しました。そして、それはまた主イエスの栄光となったのです。 3. 主の苦難を憶えつつ。 ところで、主の苦難とは具体的にどういう意味なのでしょうか? 十字架にかけられる時の痛みのことなのでしょうか? 数多くのユダヤ人の指導者たちに受けた迫害のことなのでしょうか?枕する所もないほど、貧しかった主の生涯のことなのでしょうか? 寒い冬の飼い葉桶に生まれたことなのでしょうか? 多くの人々が、主イエスの苦難を「十字架刑」や「人々からの迫害」のような肉体的なことだと考える傾向があると思います。しかし、主の苦難は、ただ地上での肉体的な苦難だけを意味するものではありません。最も大きな苦難は、主が「しもべ」になったということです。私たちはイエス·キリストが「御子」であることを知っています。神は御父、御子、聖霊の三位一体ですが、その中の御子の位格が肉となってこられた方が、イエス・キリストです。つまり、イエスは御子なる神です。キリスト教の大事な信仰告白であるニケア・コンスタンチノープル信条には、こういう表現があります。「造られることなく生まれ、父と一体」ここで「生まれ」という言葉は、漢字語では出生を意味しますが、原文では、その意味は違います。それは「御子は御父から派生(この表現も不十分だと思いますが)した。」というふうの意味で、御子が被造物ではなく父と同等の神としての存在であるという表現です。つまり、御父と御子は同一本質の同等な神です。ところが、そのような神である御子が自らしもべになられたわけです。ここから御子の苦難は始まったのです。永遠で無限の存在である子なる神が、自ら制限と有限の世界に、人となって行かれたということです。 単に、「十字架の処刑が痛くて苦しかった。」あるいは、「地上での生涯が貧乏だった。」などのレベルではありません。それを主の苦難だと考えてはなりません。神が人となって、この世に来られるそのものが、主の苦難の始まりだったのです。主イエスは私と皆さんのどうしようもない罪を赦し、救ってくださるために自ら神の特権を捨てられるほど、罪人を愛されたのです。そして無限の存在が、有限の中に入ってこられたのです。したがって、人間の視座から主の苦難を理解してはなりません。私と皆さんのためにイエスはすべてを捨てて、この死の世界に来られたわけです。そして、死によってご自分のすべてを捧げられました。もちろん、父なる神がイエスを復活させ、再び永遠と無限の主として格上げさせてくださいましたが、私たちの救いのためにすべてを捨てられたキリストの救いは永遠に記念するべき御業なのでしょう。主の苦難はただの感動的な愛の物語ではありません。子なる神がご自分の実存をひっくり返された凄絶な霊的な戦いだったのです。そのため、神学ではイエスの苦難と救いの出来事を、特別恩寵と呼んでいるのです。絶対に忘れないようにしましょう。主は私たちを救うためにご自分のすべてを捨てて苦難の真ん中に入っていかれた方です。そしてご自分のすべてを捨てられる苦難によって、私たちを救ってくださったのです。 締め括り ひょっとしたら、私たちは主の苦難を、あまりにも軽んじて話しているかもしれません。毎年、四旬節になると主の苦難を感謝し、讃美しますが、私たちは主の苦難をどれくらいに理解しているでしょうか。もちろん、人間である私たちが主の苦難を理解するなんてとんでもないかもしれませんが、少なくとも主の苦難をもっと知りたいとの熱情は必要なのでしょう。自分の苦難、自分の痛みは大きく考えながらも、主の苦難についてはあんまり興味がなければ困るでしょう。主の苦難がなかったら、私たちの救いもありません。私たちは主の苦難を憶える時、いつも真剣に考えるべきです。そのように、残りの四旬節を過ごしたいと思います。父と子と聖霊の名によって。 アーメン。