言葉の力

箴言18章20-21節(旧1014頁) マタイによる福音書 12章35-37節(新23頁) 前置き 約十何年前のことです。インターネットにエンジョイジャパン、エンジョイコリアというウエブサイトがありました。最初は日韓の若者たちの友好拡大のために作られたウエブサイトでした。しかし、意図は非常に良かったものの、インターネット特有の匿名性により、むしろ互いにとがめ合う投稿が満ち溢れ、見事な喧嘩の場になってしまいました。良い会話を分かちあい、有益な文章を掲載する両国の人たちも少なからずいましたが、あまりにも対立的で非難ばかりの人が多くなってしまい、結局、そのウエブサイトは閉鎖してしまいました。各々の考えから湧き出てくる行き過ぎた非難と敵意を濾過する装置がなかったため、最終的に閉鎖したわけです。 当時、そのウエブサイトで穏やかな会話を交えた両国の人もおり、それなりの良い思いと写真を分かち合う人もいましたので、閉鎖がとても残念だと思いました。すごく良い交流の場になり得るところだったに、今でも残念な記憶が残っています。 1.言葉とは? 今日、最初からこのような残念な例えを挙げた理由は、当時、そのウエブで、日本と韓国の人々が相手を攻めつけた道具が、他ならぬ、人の言葉だったからです。言葉には強い力があります。人どうしの好き嫌いが一番最初に言葉によって現れるからです。言葉とは、単純に口から出てくる言語だけを意味するわけではなりません。それ以上の何かが言葉には込められています。言語を形成するための要素、つまり意図、考え、思い、それら全てが結局言葉に由来するからです。もし、互いに良い心を持って、良い言葉を使おうとしたら、前置きのような残念な出来事はなかったはずです。言葉は人の思想をおく器です。ある人がどのような言葉を使うのかにつれて、その人の正体が明らかになるのです。人が言葉を用いることと同じように、言葉も人を用いるからです。 神が人間に「言葉」を与えられた理由は、言葉を用いて人と人が交わりあい、心と心を分かちあうからです。人に言葉がなければ、どういうふうに他人と心を分かち合い、交わることが出来るでしょうか?そういう意味で、言葉は確かに重要な道具です。しかし、また、この言葉を間違って用いれば、人と人の間に壁を立て、誤解をもたらす道具にもなり得ます。ドイツの実存主義の哲学者ハイデガーは、こう語ったと言われます。『言葉とは人間の存在が現れる場である。』たとえ言葉が目に見えないといっても、その言葉によって、言葉を吐き出した人の思想や哲学が示されるからです。愛の言葉を使うか、憎しみの言葉を使うかにつれて、話し手の立場が変わります。人がどのような言葉を使うのかによって、その人の存在は変わるという意味です。言葉によって人を生かす者となり、 言葉によって人を殺す者となるのです。言葉の使い方によって、人の実存が決まるということです。 ギリシャ語で言葉を意味する単語は「ロゴス」です。このロゴスは、主に「言葉」を意味しまが、他により多くて深い意味をも含まれています。「理屈、法則、秩序、真理」など、より哲学的で、宗教的な意味が隠れているのです。このロゴスをヘブライ語に訳すれば「ダバル」となります。この「ダバル」は、神が天地創造のときにおっしゃった、その言葉のことです。「ダバル」は爆発的なエネルギーを含んでいる言葉なのです。神が「ダバル」されると光が造ら、神が「ダバル」されると太陽と月と星々が造られ、神が「ダバル」されると、天地万物が造られました。また、神が「ダバル」される際に「理屈、法則、秩序、真理」が明らかになりました。神が「ダバル」された時に全ての良いものが生まれたわけです。神は、その「ダバル」を人にも与えてくださいました。人がその「ダバル」をどう使うのかにつれて、この世は変わるわけなのです。善く変わることも、悪く変わることも神から与えられた「ダバル」の使い次第です。 2.悪の言葉に満ちた世界。 日本と韓国は歴史的に深い関係を結んできました。学者たちは、朝鮮半島を経由して仏教文化や、服飾文化などの古代文化が流れ込んできたと言います。また、日本から朝鮮半島に西洋文物が本格的に入り込んだとも言います。特に近代の法律や行政体系のほとんどが日本から朝鮮半島に入ったという学説は紛れもなく事実です。(ただし、植民地経営のためという残念な経緯はありますが。)とにかく、互いに大きい影響を及ぼしたに違いありません。もし、日本と韓国が、真心を込めて協力することが出来れば、どこの国々よりも互いに助け合える良い相手になるでしょう。私は今まで、約20カ国以上を旅行したり、数ヶ月間暮らしたりした経験があります。その中に日本と韓国のように文化的に、言語的に似ている国は見たことがありません。まるで兄弟のような両国だと思います。 しかし、事実、日本と韓国はそう簡単な関係ではありません。ニュースや雑誌、新聞などを見たら、相手への厳しい評価が少なくありません。韓国社会で日本を非難する言葉を聞くのは難しいことではありません。そして日本でも、韓国を蔑視する人がおり、東京の有名な本屋には嫌韓論コーナーが別に備わっているほどです。一部の人々は、相手の国が滅びてしまうことを願うという言葉をためらいなく出しています。しかし、私たちは、より広く眺める必要があります。日本も韓国も、結局は神の被造物であるということです。先祖の先祖まで遡れば、最終的に一人の祖先、そして、彼の造り主である神にまでつながるでしょう。だから、日本と韓国は実に兄弟関係なのです。しかし、日韓の間にはいまだに微妙な緊張感がしゃがんでおり、少しでも隙間が見えたら相互批判が跳ねてくる状態です。何と悲劇的な現実なのでしょうか?互いに愛し合って生きるにも時間が足りないのに、なぜ、このように憎まなければならない状態になっているのでしょうか? 私は創世記3章の蛇を操った悪魔の名前が、ひょっとしたら、離間ではないかと思います。悪魔が神と人間、人と人との間に離間の種を蒔いたわけではないかということです。もちろん、神は悪魔に離間される方ではありません。しかし、問題は人間です。弱い人間という存在は、離間により、簡単に仲が悪くなってしまうでしょう。結局、最初の人は神を憎むようになり、人と人の間にも不和が入ってきたのでしょう。例えば、アダムは神と妻、両方を責めました。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』そして、アダムの長男カインは弟のアベルを無慈悲に殺した後、さらに神にも無礼に言いました。 『主はカインに言われた。お前の弟アベルは、どこにいるのか。カインは答えた。知りません。わたしは弟の番人でしょうか。』 初めの神の愛の言葉に満ちていた、この世に、人間の罪によって憎しみが入って来ました。そして、そのような憎しみに汚された言葉は、今まで残っており、この世界に、日本と韓国の間に、そして私たちの間にも影響を及ぼし、相手を憎み、対立するようにさせているのです。 3.言葉(言い方)を変えなければなりません。 神は愛の言葉によって世界を創造されました。神はご自分の御言葉(神の理屈、法則、秩序、真理を通達しておられる御子のこと)に肉を与え、この世に遣わされ、罪人の救い主にしてくださいました。神はご自分のみ言葉を教えてくださる御霊を送られ、今でも私たちと共に歩んでくださいます。神の御言葉は、愛の言葉です。その愛の言葉によって、私たちは今日も神の愛のもとに生きているのです。しかし、この世は神の言葉に逆らいます。絶えず、憎しみの言葉を生み出しているのです。時には建前ではほめているが、本音では憎しみに満ちている場合も多いです。箴言はこう語っています。『死も生も舌の力に支配される。舌を愛する者はその実りを食らう。 』(箴言18:21)イエスはこう言われました。 『あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。』(マタイ12:37)そして、ヤコブはこう語りました。 『舌は火です。舌は不義の世界です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。』(ヤコブの手紙3:6)聖書は、常に人の言葉を警告しています。主の民である私たちは、どのような言葉を話しつつ生きるべきでしょうか? この世界は今、憎しみと恨みに満ち溢れています。人の前ではニコニコしますが、後ろでは睨みつける偽善者も多い世界です。このような世の中で、私たち、主イエス・キリストを信じるキリスト者は、違う生き方をとるべきだと思います。言葉と心が同じでなければなりません。言葉で人を殺す世界の中で、私たちは言葉を通して人をを生かすべきではないでしょうか。言葉で暴力を振るう世界の中で、私たちは言葉を通して神の平和を宣べ伝えるべきではないでしょうか。イエスは明らかに言われました。『善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。』(マタイ12:35)私たちは、善い人でしょうか?悪い人でしょうか?私たちの言葉が自分のことを証明するのです。私たちの日常の言葉が神に恵まれた愛の言葉であることを祈ります。 言葉には力があります。韓国には「一言で千両の借金を返す。」ということわざがあります。良い言葉の力を強調する表現です。なにげなく、口から出てくる一言の言葉、時には誰かの人生を変える復活の言葉になり、また時には誰かの心を崩す死の言葉になり得ます。しかし、私たちは毎日言葉を使っているので 、その重さを見落としてしまうことが多いと思います。良い言葉が良い関係を生み出し、良い言葉が美しい世界をもたらします。神が私たちに常に良い言葉だけを追い求める力をくださるように祈ります。良い言葉が持っている強い力が、私たちの口を通して響かれることを祈ります。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。