神が先にお遣わしになった。

創世記45章3-13節 (旧81頁) ローマの信徒への手紙8章28節 (新285頁) 前置き 前回の説教は、約1ヶ月半前でしたので、復習としてヨセフの人生をもう一度話し、今日の本文に入りたいと思います。主はヨセフの幼い頃から、神の啓示の夢を見せてくださいました。それはヨセフが父親にも、兄弟にもひれ伏される偉大な人物になる夢でした。しかし、まだ物心のついていないヨセフは、父親と兄弟を配慮せずにその夢を話し、彼らの怒りを買ってしまいました。結局、ヨセフは兄たちに裏切られ、エジプトの奴隷として売られることになりました。エジプトに運ばれたヨセフは、長年、奴隷として暮らし、濡れ衣で投獄されました。しかし、そのような辛い状況の中でも、聖書は神がヨセフと共におられたと述べています。ヨセフは自分に迫った不幸の中でも、自分と共におられる神への信仰を育てていきました。そして、彼は最終的に神の絶対的な導きによって、エジプトの総理になりました。毎日が苦しみと悔しさの連続だったかもしれませんが、それでも、ヨセフは自分と共におられる神に信頼し、神はご自分のみ旨に最も適う時に、昔、ヨセフにくださった啓示の夢のように、彼を偉大な人物にしてくださいました。ヨセフの人生の苦難は彼を成長させる、主なる神の恵みの道具だったのです。 1.総理になったヨセフ、しかし創世記が終わらない理由。 前回の説教で、ヨセフはエジプト帝国の総理になり、家族ができ、ファラオと民に愛される偉い存在になりました。人間の基準では、この上ないハッピーエンドではないでしょうか。しかし、創世記はまだ終わっていません。ヨセフの人生がこんなにうまくいくことになったのに、なぜ創世記は終わらないのでしょうか? まず、創世記37章2節を読んでみましょう。「ヤコブの家族の由来は次のとおりである。ヨセフは十七歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。」聖書は「ヤコブの家族の由来(系図)は次のとおりである。」と語ったのに、その次の内容は「ヨセフは17歳…」でした。ヤコブの物語が急にヨセフの物語に変わります。旧約聖書で系図と言えば「誰が誰をもうけた。」というのが普通ですが、ここでは由来(系図)と言ってから、すぐにヨセフの話しを始めているのです。今まで私たちが話してきたヨセフの物語は、実はヨセフ一人の生涯ではありません。長いヨセフの人生の物語を通して、以後ヤコブの人生がどうなるかを話すための土台だったのです。つまり、ヨセフの物語はヤコブの物語の一部であり、その物語の結論はヤコブの家族(イスラエル)が飢饉を避けてエジプトに入ることで終わります。そういうわけで、創世記はヨセフの立身出世で終わりません。ヨセフの物語の本当の主人公は、ヨセフの父ヤコブ(イスラエル)だったからです。 2.創世記42、43、44章のあらすじ。 したがって、今日の説教はヨセフの物語からヤコブの物語に創世記の流れが移る重要な岐路です。前回の本文は41章でしたが、今日の本文は創世記45章です。42-44章の本文は45章のための長い背景作りの物語ですので、詳しい説教は省略します。けれども、42-44章の重要なあらすじだけは手短に話してみたいと思います。「ヨセフが言ったとおり、七年の飢饉が始まった。その飢饉はすべての国々を襲ったが、エジプトには、全国どこにでも食物があった。また、世界各地の人々も、穀物を買いにエジプトのヨセフのもとにやって来るようになった。世界各地の飢饉も激しくなったからである。」(創世記41:54、57)創世記41章で総理になったヨセフは、神からの知恵によって、大飢饉を徹底して備えました。その結果、エジプトには他国の人たちにも販売できるほどの食料が十分にあったのです。「ヤコブは、エジプトに穀物があると知って、息子たちに…エジプトへ下って行って穀物を買ってきなさい。…と言った。…そこでヨセフの十人の兄たちは、エジプトから穀物を買うために下って行った。ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄たちに同行させなかった。」(創世記42:1-4一部)ヤコブはエジプトの食糧の噂を聞き、息子たちにエジプトの食糧を買ってこいと指示しました。しかし、末息子のベニャミンだけは送りませんでした。ベニャミンもヨセフのように害を受けるか恐れたからです。 「ところで、ヨセフはエジプトの司政者として、国民に穀物を販売する監督をしていた。ヨセフの兄たちは来て、地面にひれ伏し、ヨセフを拝した」(創世記42:6)ヨセフの兄弟たちがエジプトに来て穀物を買うために総理ヨセフの前にひれ伏しました。ヨセフは彼らが自分の兄弟であることを一目でわかりましたが、兄弟たちはヤコブに気づきませんでした。ヨセフは彼らに、家族事項などを詳しく問い、弟が一緒に来ていないことに気づきました。そして、ヨセフは彼らをそのまま送らず、回し者だと追い詰めるふりをして、兄弟の中一人を人質に取り、彼が自由になるためには末の弟を連れて来なければならないと脅しをかけました。しかし、それは自分の家族をエジプトに連れてくるためのヨセフの計略でした。ヨセフの兄弟たちは総理の正体が分からなかったので、すごく戸惑って互いに、昔、弟ヨセフを苦しめたことへの報いだと嘆きました。その話を盗み聞きした総理ヨセフは心が痛くなり、遠ざかって泣きました。結局、シメオンが人質に取られ、他の兄弟は送り返されました。 しかし、ヨセフは彼らの穀物袋に穀物の値段を戻しました。 帰り道で、これを見つけた兄弟たちは恐怖に震えました。そしてヤコブに戻ってエジプトでの出来事を詳しく告げました。末っ子のベニャミンを連れてくるようにという総理の話を伝えた時、ヤコブは絶望して絶対に送れないと言いました。 「あの子のことはわたしが保障します。その責任をわたしに負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたに対して生涯その罪を負い続けます。」(創世記43:9) すると、ユダは自分の命をかけて弟を守ると誓い、父親を安心させました。多くの学者が、このユダの行動を、以後彼の子孫から出られる、民のために命をかけられたキリストのモデルだと見なしています。「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」(創世記43:14) それに対してヤコブは神の御心を信じ、ベニヤミンを送ることを決心します。ベニヤミンを連れてヨセフのところに戻った兄弟たちは、懸念していたのとは違って、手厚いもてなしを受けました。人質だったシメオンも自由になったのです。ヨセフは弟のベニヤミンへの弟懐かしさで急いで席を外し、泣きました。後、ヨセフは兄弟たちと食事をしながら楽しい時間を過ごしました。しかし、兄弟たちは、まだまだ、ヨセフに全く気づいていませんでした。時間が経ち、兄弟たちが帰る時になると、ヨセフは彼らをそのまま送ることができず、こっそりとベニヤミンの穀物の袋に銀の杯と銀を入れておき、彼らに泥棒扱いをし、逮捕しました。兄弟たちは故郷で父親のヤコブが待っており、ベニヤミンを連れて行かなければ、父親が死んでしまうかもしれないと嘆願しながら44章も終わります。 3。神が先にお遣わしになった。 「何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」(創世記43:33-34)、もう一度ユダは父との約束のために、自分の命をかけて弟を守ろうとします。そして父親への心をヨセフに打ち明けます。ここでも私たちはユダの行動を通じて、御父の御心を成し遂げるためにご自分の命を捧げ、民を救おうとなさったキリストのモデルをもう一度見つけることができます。イエスがユダの子孫として来られた理由を、この言葉でわかるような気がします。「ヨセフは、…もはや平静を装っていることができなくなり…兄弟たちに自分の身を明かした。ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。」(創世記45:1-2一部) ユダの嘆願を聞いていたヨセフは結局、自分の心を抑えられず、号泣することになりました。そして、ついに自分の正体を明かします。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」(創世記45:3)兄弟たちはエジプトの総理が自分たちに売られた弟ヨセフであることを知り、衝撃を受けたに違いありません。しかし、ヨセフの次の一言によって、彼らは救われたでしょう。 「…わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。…神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。…」(創世記45:5-8) 過去の人生、苦しみと悲しさの中に生きてきたはずのヨセフは、神への信仰によって、そのすべての恨を振り払い、むしろ、その苦難の年月が父と家族を救うための神のご恩寵であったことを告白しました。その後、兄弟たちと和解した彼はファラオにすべてを告げました。すると、ファラオは大喜びし、素晴らしい馬車を送り、ヤコブとその家族全員をエジプトに呼び入れました。それによってヤコブの家族、つまりイスラエルは神の恵みのもとで大飢饉から抜け出し、エジプトに入ることになったのです。今日の説教は説教というより聖書の物語だったかもしれません。しかし、その結論は説教以上に明確です。「神がご自分の民の命を救われるために、一人を先にお遣わしになった。」ということです。そして、それはお独りの救い主、イエス・キリストのことを思い起こさせます。もしヨセフが信仰者でなかったら、その兄弟たちはヨセフの報復によって、ひどい目にあい、ヤコブも悲しさの中で死んでしまったかもしれません。しかし、神の摂理と導きを信じたヨセフは復讐の心を愛の心に変え、赦し、むしろ命の道を作り出しました。イエス·キリストの罪人を赦し、愛してくださった姿が今日のヨセフの姿を通じて重なって見えてきます。 締め括り 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ書8:28) 今までヨセフは耐え難い苦難の年月を生きてきました。幼い頃、自分の分別のない行動への兄たちの報いは苛酷であり、エジプトでの経験は大きな傷だったでしょう。しかし、真の信仰を持ったヨセフは、そのすべてを神のご計画であり、ご恩寵だったと告白しました。兄弟を赦したことは言うまでもありません。ヨセフは信仰者の全生涯においての喜怒哀楽が、結局は一つになって神の恵みになることを信じたのです。ヨセフが苦難を経験している間、兄弟たちも変わりました。特に、兄弟の中で最もずるがしこいユダは、自分の命をかけて兄弟を助けようとする信仰者になっていました。あまりにも苦しくて惨めだった経験が、神のご計画を成し遂げる養分となったのです。その結果、ヤコブの家族は飢饉を乗り越え、さらにイスラエルという民族を打ち立てることになったのです。これがまさに信仰の結果ではないでしょうか。今の私たちの状況に絶望してあきらめてしまうと、奇跡は起こりません。神が私たちの裏で、万事が益となるように導いておられるということを信じ任せること、その結果は私たちが思いがけなかった大きな喜びと感謝として戻ってくるしょう。すべては主の御心とお導きのもとにあります。ヨセフのようにそれを信じ、神に信頼して生きる私たち、志免教会であるを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって、アーメン。

キリストにおいて一つとなる。

申命記7章6-8節 (旧292頁) エフェソの信徒への手紙2章11-22節 (新354頁) 前置き 2023年が明けました。2022年にも、志免教会を守ってくださった神に感謝します。一年間、志免教会に仕えてくださった兄弟姉妹の皆さんにも感謝いたします。今年も主の恵みと平和と愛の志免教会であることを祈ります。今年の中心聖句は「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:22)です。この言葉はキリストの教会のあり方についての代表的な言葉です。今日は新年を迎え、教会という存在について、そして教会を成すキリスト者のあり方について話してみたいと思います。 1.神がご自分の民をお選びになった理由。 今日の旧約の本文は、出エジプト以後40年間、荒野をさまよっていたイスラエルの民が、長い旅を終え、カナンに入る直前、イスラエルの指導者であるモーセを通して語られた神の御言葉です。そして、この言葉は旧約の民だけでなく、現在を生きる新約の民にも適用できる言葉でもあります。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」(申命記7:6) 主の民(旧約のイスラエル、新約の教会)は主ご自身に選ばれた宝物のような存在です。主の教会である私たちは、それぞれ生まれは違いますが、この志免教会に集まってキリストにおいて一つとなった主の大切な民です。それぞれ異なる背景と人生を経てきましたが、主の時に呼び出され、今は主の教会の一員となった主のものなのです。しかし、主は偶然私たちを選ばれたわけではありません。主は、生まれる前から私たちを知っておられ、私たちの喜怒哀楽の中に共におられ、ここ志免教会に導かれ、一つにしてくださったのです。したがって、私たちは自分の意志によって神の民となった存在ではありません。主なる神が主権的にキリストの福音を聴かせ、信じさせ、聖霊によって信仰を与え、主のご意志に従って、私たちをご自分の民、志免教会にしてくださったのです。 それでは、主はなぜ私たちを選んでくださったのでしょうか? 「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」(申命記7:7) 主は私たちが偉い存在だから、選ばれたわけではありません。むしろ、歴史上、主の民、つまり教会は貧弱な場合がもっと多かったのです。主は私たちを強弱に従って選ばれたわけではありません。「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し…救い出されたのである。」(申命記7:8) 主は誰かとの約束を守るために私たちをお選びになったのです。旧約のイスラエルは先祖であるアブラハムとイサクとヤコブとの契約を、新約の教会は救い主イエスとの契約を守るためにお選びになったのです。神は主イエスを信じる者を必ず救ってくださるとの契約によって、罪人を愛し、ご自分の民とし、宝物のような大切な存在としてお選びくださったのです。 2。 教会のアイデンティティ。 それが私たち、志免教会のアイデンティティです。 私たちはこの日本で誰よりも弱い存在であるかもしれませんが、誰よりも偉大な神に愛される共同体です。キリストが十字架でご自分の命をかけて、私たちを救い、主の教会として呼び出してくださいました。父なる神は最愛の独り子の命を身代金とし、私たちをご自分の所有とされました。ですから、神は御子イエスの教会を、御子のように愛しておられます。これが教会のアイデンティティなのです。教会は親睦団体でも、営利団体でも、欲望を実現するための団体でもありません。教会はご自分の血潮によって主ご自身が選ばれたキリストの体です。神はキリストを教会の頭にし、教会はキリストを頭として一つになった主の民の集まりなのです。今日の新約の本文を読んでみましょう。「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々(ユダヤ人)からは、割礼のない者と呼ばれていました。」(エフェソ2:11-12) 私たちは皆、もともと神と何の関係もない異邦人でした。クリスチャンホーム出身といっても、結局ユダヤ人ではないので、その根本は異邦人です。旧約のユダヤ人は、異邦人を地獄の炎の焚き物と扱っていました。異邦人はいつ滅びても構わない見捨てられた存在だったのです。 しかし、神はその異邦人さえもキリストの御救いによって、ご自分の民と受け入れてくださいました。「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」(エフェソ2:13-14) 神はキリストの血によってユダヤ人と異邦人を隔てる壁を取り壊してくださいました。イエスの中ですべての人種と民族と国の違いが意味を失いました。キリストの中にいるなら、誰でも神の民になり、神の子供になるからです。志免教会には日本人、外国人の区別がありません。ただキリスト者がいるだけです。言葉、文化、思想が多少違っても構いません。キリストだけが自分の主であり、自分はキリストの民であり、神の聖なる民であることを信じるなら、私たちは一つなのです。主が私たちの和平であるからです。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ2:16) また、キリストの十字架の恵みによって、私たちは神と和解しました。私たちは神の御前で罪人としての重荷から自由になったのです。これらすべてがキリストが教会の頭になってくださった恵みによるものです。 3.教会を考える。 以上の旧約と新約の言葉から、私たちは2つのことが分かります。一つ、神はキリストとの契約によって、私たちを愛し、呼び出され、主の民、志免教会にしてくださいました。二つ、神はキリストを志免教会の頭としてくださり、私たちと和解し、平和を与え、私たちをキリストの体と呼び、一つにしてくださいました。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である。」(エフェソ2:19) だから、エフェソの信徒への手紙は、私たちが外国人でも、寄留者でもない、神の国の民であり、神の家族だと証言しているのです。それでは、主の教会として召された私たちは、どのような心構えで生きるべきでしょうか。「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エヴェソ2:20-22)、私たちは使徒たちと預言者たちという土台、すなわち主の御言葉の上に建てられた存在です。私たちは主の御言葉を私たちの基準にして生きなければなりません。自分の考えや思想ではなく、主の御言葉が指し示す方向に進まなければなりません。主の御言葉を謙遜にいただき、それを私たちの羅針盤として生きていかなければなりません。 また、私たちは主を教会のかなめ石として生きるべきです。つまり、教会の頭であるキリストの御心に従って生きるべきです。主の御心は世の中の常識とは全く違います。この地上で主がどのように生きられたか、主が何を追い求められたか、私たちは常に主のみ言葉によって、主の御心に耳を傾けて生きるべきです。かなめ石は、一つの建物が倒れないようにする支えの石です。どのようなかなめ石かによって、その建物の価値が変わるのです。つまり、かなめ石は基礎なのです。教会のかなめ石であるイエスは神への愛と隣人への愛という最も基礎的な生き方を私たちに教えてくださいました。教会もまた、そのような最も基礎的なキリストの教えに従って生きる義務を持っています。教会は主の体だからです。私たちは個人の思想、個人の意思、個人のやり方ではなく、主の御望みを追い求め、主の御心をわきまえつつ、教会を健全に建てていく義務を持っています。最も低いところに来られたイエスのように最も低いところを追求し、お互いに愛しあいなさいとおっしゃったように愛し合って生きるべきです。そのような主の御心の中で、教会の一人一人がお互いに赦しあい、愛しあい、助けあいながら生きていくべきです。ヨハネによる福音書で主は言われました。「イエスは答えて言われた。この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。」(ヨハネ2:19,21) 私たちはかなめ石イエスの御救いによって真の神殿となった共同体です。一緒に組み合わされていく存在です。主の教会はキリスト・イエスにおいて一つとなり、一緒に建てられていく、新約時代の神殿そのものだからです。 締め括り 今年は教会とは何かについて深く学んでいきたいと思います。教会はこの世にありますが、この世とは区別された存在です。私たちの思いではなく、主の御心によって建てられていくべき存在です。それこそが健全な教会のあり方なのです。この一年、志免教会の主であるキリストを、そして、キリストが私たちに求めておられることとは何かについて深く考えつつ生きていきたいと思います。主の言葉を常に身近に置き、祈りの生活を続けていきましょう。神と隣人を愛して過ごしましょう。どんな困難があっても、ひとえに主イエスだけを頼りにして生きていきましょう。私たちが誰なのかを主の言葉によって自覚して生きていきましょう。2023年は教会について深く悟り、志免教会という主の体に、どのように仕えていくべきだろうかと思いながら生きたいと思います。これからの一年、主なる神が志免教会に豊かな祝福を与えてくださることを祈り願います。父と子と聖霊によって。アーメン。