救いの歴史の余白。

出エジプト記1章1~14節 (旧94頁) ヨハネによる福音書20章29節 (新210頁) 前置き 3年間の長い創世記の説教が終わりました。そして今日からは新しく出エジプト記の説教に入ろうとしています。前の創世記の説教では、比較的に聖書の本文を細かく探ってみようとしたので、時間がかなりかかるようになったと思います。これからの出エジプト記の説教では、すべての本文を説教するより、聖書の重要な出来事を中心に説教する予定です。今日は出エジプト記の始めに出てくるヤコブの子孫の系図について、そしてイスラエル民族に迫ってきた苦難と主の時について、話してみたいと思います。主が出エジプト記を通して主の御言葉を教えてくださり、私たちの信仰生活を導いてくださることを祈ります。 1. 歴史の導き主は、イスラエルの神である。 中学生の頃、母がこんな質問をしました。「英語で歴史が何かわかる?」「ヒストリーですよ。」「なぜ、ヒストリーかな?」「分からない。」「HIS STORY、彼の話だからよ。」「彼って誰?」「イエス様のこと。」「ええっ、うそ!」歴史を意味する英語のヒストリーは本当に「彼の話」という意味でしょうか? 実はこの英語のヒストリーはラテン語の「ヒストリア」に由来します。またラテン語の「ヒストリア」はギリシャ語の「ヒストリア」をそのまま訳した表現です。そして、ギリシャ語の「ヒストリア」は「賢い」という意味の「ヒストール」から来ました。どこかで、ヒストリーに関して聞いた母が感激しながらヒストリーについて情熱に話しましたが、十何年後、神学校で、そうではないことを知り、くすっと笑った記憶があります。ところが、原文的には間違った解釈であるかもしれませんが、信仰の経験的には、本当にヒストリー(歴史)が「彼(神様)の話」のように感じられる時もあります。主が歴史の導き主であるということです。そして出エジプト記は、その歴史の導き主である神について、顕かに示している聖書だと思います。今日の本文1-7節は、神が歴史の導き主であることを教える箇所です。「ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。」1-5節には創世記に比重大きく登場していたヤコブとその息子たちの名前が書いてあります。 この間の説教で、創世記のヘブライ語のタイトルを訳すると「はじめに」になり、出エジプト記のヘブライ語のタイトルを訳すると「名前」になると申し上げました。旧約聖書は別のタイトルがなく、接続詞を除いた最初の文章の最初の単語がタイトルとして使われたからです。したがって、出エジプト記は、まず名前、つまりヤコブとその息子たちの名前から始まります。ヤコブと息子たちの名前が記録された後、6節では彼らが皆死んだと記してあります。「ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、」イスラエル民族を代表する先祖たちが皆死にましたが、7節は再びこのように語ります。「イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。」日本語聖書では「が」という接続助詞で、わりと薄く訳されたと思いますが、ヘブライ語の聖書を読むと、6節と7節の間に「しかし」という表現がはっきり入っています。つまり、「大事な先祖たちが皆死んだ。しかし、イスラエルの子孫はますます栄え続けていった。」ということでしょう。祖先は皆死んで神のもとに召されたんですが、その子孫は先祖の死と関係なく、神によって栄え続けていったということです。ここで私たちは神の民を導く者が、ある特別な指導者ではなく、偉大な神ご自身であるということが分かります。この世に数多くの指導者がいます。しかし、歴史はその指導者たちが作っていくものではありません。ひとえに主なる神だけが歴史を導いていかれます。そのため、大事な祖先が亡くなったにもかかわらず、神のお導きによってイスラエルはますます強くなっていきました。 2. 苦難は神の不在のためなのか。 さて、ここで一つ問題が生じます。「ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し…イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。」(出エジプト記1章8-11節の一部)イスラエル民族がますます強くなっていくだけなら良いですが、現実はそうではありませんでした。新しいエジプトのファラオが現れ、イスラエルの民を奴隷にして苦しめ始めたのです。なぜエジプトの王はイスラエルを苦しめ始めたのでしょうか? 先祖のファラオがヨセフによってイスラエルを受け入れてくれたのに、子孫のファラオが先祖の判断に逆らうということでしょうか? 違います。私たちはヤコブ時代のエジプト王朝と出エジプト時代の王朝が違うことを留意しなければなりません。日本の場合「万世一系」という概念で天皇家は一つの血統によると言いますが、近い中国や韓国の場合、王朝が変わった出来事が多いです。たとえば、韓国の以前の朝鮮は李氏王朝で、朝鮮の前の高麗は王氏王朝だったようにです。前にも説教で話しましたが、ヨセフが総理だった時代のエジプトはヒクソス人の王朝でした。つまり、純粋なエジプト人ではなかったのです。むしろ、アブラハム家が属したセム族に近い民族でした。ヒクソス人が北から攻めてきてエジプトを征服し、エジプトで自分たちの王朝を打ち立てたわけです。しかし、ヒクソス人は、後日、エジプト人の反乱軍によって滅ぼされ、権力を引き渡すことになったのです。 その過程で、イスラエルは新しいエジプト王朝の奴隷となってしまいます。イスラエルはエジプトよりヒクソス人に近い民族なので、戦争でも起こればイスラエル民族が裏切るかもしれないとおそれたからです。本文にその根拠があります。「これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。」(出エジプト記1章10節) そのようにイスラエルは非常に大きな危険にさらされていました。エジプトの新しいファラオは、イスラエル民族を弱めるために重労働を課して虐待しました。エジプトの総理の民族だったイスラエルが、奴隷民族になってしまったのです。神に選ばれた民族「イスラエル」、神が先祖アブラハムとイサクとヤコブと、空の星のように、海の砂のように栄えさせてくださると約束された「イスラエル」。そのイスラエルに絶体絶命の危機が迫ってきたのです。もし、ここでイスラエル民族が大きい苦難に負けて滅びることになったら、神の約束は台無しになってしまうでしょう。それでも、今日の本文の1節から14節では、神の御業が一度も現れていません。まるで神が知らないふりをしていらっしゃるように感じられます。イスラエルが苦難の真ん中にさらされている、この物騒な時代に神は果たしてどこにいらっしゃったのでしょうか? 3. 余白は不在ではない。 先ほど、私は神が歴史の導き主であり、イスラエルを栄えさせてくださったと言いました。ところが、今日の本文に出てくるイスラエルを見れば、歴史の導き主である神の動きが全く見つかりません。ご自分の民が苦難を受けても、主の御業は見つかりません。もちろん1章17節からは神のお働きが見えますが、今日の本文に限っては神がイスラエルを完全に無視しておられる様子です。では、主はイスラエルの苦難を傍観しておられたわけでしょうか? 私たちは神の時間と人間の時間の違いによる乖離を理解する必要があります。ギリシャ語には「時間」を意味する2つの言葉があります。1つは「クロノス」であり、2つは「カイロス」です。旧約聖書の神の御業について話しているので、ギリシャ語の概念を取り上げるのは少し無理ではないかと思いますが、これ以上、主の時間を説明するのにぴったりの概念はないと思います。「クロノス」とは、自然に流れていく物理的な時間のことです。「志免教会の主日礼拝は午前10時15分から1時間くらいです。」ここでの時間はクロノスです。「カイロス」とは時間の長短とは関係ない、具体的な出来事の中で現れる驚くべき変化を経験する時間のことです。「志免教会で守った、その日の礼拝は、私において人生が根こそぎ変わるほどの大事な時間でした。」ここでの時間はカイロスです。 つまり、人間は「クロノス」という物理的な時間に束縛されているので、クロノスの外で働いておられる神の御業を全く感じることが出来ない存在です。時間の束縛から自由でいらっしゃる神は、最も決定的な瞬間に決定的な時間である「カイロス」を通して働かれます。そこから、まるで、神は何もしていないという人間の誤解への答えが出てくるのです。主は主の時間を通して働いておられる方です。イスラエル民族がクロノスの時間の中で苦しみ、泣き叫んでいた時、主なる神はカイロスの時間を通して、イスラエルの解放と救いのために準備しておられました。私たちの人生において、主のお導きが全くないような時、主の答えも聞こえてこないような時、主は私たちのことを無視しておられるわけではありません。主は主の時間を通して私たちのために働いていらっしゃるのです。つまり、私たちが主がおられないと感じるその瞬間は、主の不在の時間ではありません。それは主の時を準備する余白の時間です。不在と余白は雲泥の差です。不在は無力ですが、余白は力強いです。主がご自分の御業を成し遂げられる「カイロス」の時間が来るまで、主は余白を持ってその時が来るのを待っておられるのです。イスラエルが強くなって数十万になるまで、たとえ彼らに苦難が襲ってきたといっも、主はその時を静かに待っておられるのです。 締め括り 出エジプト記でヤコブとヨセフが亡くなり、イスラエルはエジプトの奴隷となりました。その時間(クロノス)の間、主はイスラエルを完全に見捨てておられるようでした。しかし、主の時間(カイロス)になった時、(聖書では、時が満ちたというふうで使われる場合がある。)主はモーセを遣わされ、イスラエルを救ってくださいました。それと似たような出来事が新約にもあります。旧約聖書マラキ書以後から洗礼者ヨハネの登場までの約400年の間、公式的な神の啓示はありませんでした。そういうわけで、ある学者たちはこの時期を神の啓示が消えた暗黒時代だと言いました。しかし、その後どんなことが起こったでしょうか? 神の時が近づき、子なる神がイエスという名でご自分の民を訪れてこられたのです。啓示の代わりに啓示の主人が遣わされたわけです。神への信仰によって生きるキリスト者にとって、神の不在はありません。ただ、神がわざわざ残しておかれた余白の時間があるだけです。信仰とは、主の時を待ち望むことです。「日本の教会が困難であり、私たちの生活が苦難であり」など、私たちの人生には数多くの危機が起こり得ます。そして、神の応えが聞こえないような時もあり得ます。けれでも、忘れないようにしましょう。その時間は神の不在の時間ではありません、それは明らかに答えてくださるために主が置かれた余白の時間です。主イエスのこの言葉が思い起こされます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ福音20:29) 神の不在と余白。私たちはどちらを信じていますでしょうか? 主のお導きをかたく信じる私たちであることを切に祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。