忠実なしもべ。

箴言 25章13節 (旧1024頁) マタイによる福音書24章45~47節(新49頁) 前置き あっという間に2023年が暮れてます。今日は12月31日、今年最後の日で、最後の主日です。主なる神が、今年も共にいてくださり、守ってくださったことに感謝します。今年の志免教会の主題聖句は「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:22)でした。これによって、教会という共同体の意義について学び、教会の一員としての私たちのあり方について顧みる機会になったと思います。今日は志免教会を成す私たちの望ましい生き方についてもう一度考え、新しい年を準備したいと思います。 1.教会の意味についての復習。 私たちは、夏から秋までの新約聖書の「エフェソ書」の説教を通して、教会共同体のあり方について学びました。今年のテーマが「教会とは何か?」だったので、今日はその復習をしたいと思います。ここに集っている私たちは、皆それぞれ違うところに生まれ、それぞれの人生を生きて、みんな違う理由で信仰を持ってキリスト者となりました。しかし、私たちの一つの共通点がありますが、皆が同じイエスを主とあがめ、同じ聖霊に導かれ、同じ信仰を告白するようになったということです。各自の信仰の経緯は違いますが、その信仰をくださった方がおひとりの主ですので、私たちも一つの信仰を持っておひとりの神を私たちの主として仕えているのです。私たち志免教会は、そのおひとりの主を信じる共同体です。 天地創造の前に、父なる神が私たち一人一人をあらかじめ定められ、イエス·キリストがご自分の肉体をささげ、十字架で血潮を流され、その贖いによって私たちを選び救ってくださいました。父と子によって、私たちのところに来られた聖霊は、父と子のご意志に従い、私たちといつも共におられ、志免教会という共同体を立ててくださいました。そして、この教会の頭であるイエスの御名の下に、思想、国籍、民族を問わず、私たちを主の体なる教会と呼ばれるようにしてくださったのです。イエスはまるでかなめ石のように私たちの中心となり、私たちは、その方によって主イエスの体なる教会と呼ばれるようになったのです。つまり、イエスは教会の頭であり、教会はイエスの体であるのです。したがって、私たちは神に大事にされている存在、キリストによって一つとなった存在という信仰を持って、教会を成していかなければなりません。このような教会への認識、その教会の一員である私たちという認識を持って今日の本文を考えてみましょう。 2.忠実なしもべとして生きなさい。 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」(マタイ福音24:45-46) 今日の本文の言葉は終末の時を生きる神の民、すなわち、教会のあり方を示すイエスの御言葉です。私たちは「終末」を考える時、遠い未来のことだと思い、現実と全く関係ないと誤解しやすいです。しかし、イエスは言われました。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28) 旧約では、終末が「メシアが神の国をもたらす時」と理解していました。マタイによる福音書はメシア・イエスがご自分の御業をお始めになった時から、すでに神の国が臨み、終末は始まったと証言します。つまり終末とは、すでにイエスが働き始められた、その時点から始まっているものです。私たちが生きている今が、まさに「終末の時」ということです。この終末の時代、主はご自分の民である教会が「忠誠で賢いしもべ」として生きることを望んでおられるのです。 本文の「忠実」とは、ギリシャ語の「ピストス」で、「信仰」あるいは「誠実さ」を意味する言葉です。すなわち、キリスト者が「信仰を持って誠実に」生きることが、神に対する「忠実」であるとも理解できるでしょう。この忠実が私たちキリスト者に必要な理由は何でしょうか? 世の中は戦争と不条理に病んでおり、多くの人々が喜びよりは悲しみの中で生きています。イエスが救い主として来られたと言われる、今の世界も、依然として苦しみと悲しみの中にあります。時々、「神などいない」と感じられる時があります。そんな時は挫折して信仰を諦めたいと思われる時もあるかもしれません。私は2018年に福岡に来て、もうまる5年が経ちました。もうすぐ志免教会への赴任も5年になります。ところで、前の5年を振り返ってみると、最初、私が思ったほど伝道が進んだり、目立った大きな変化があったりすているようには見えません。5年前と同様に、今もなお「これから志免教会はどうなるだろうか?」という心配があります。果たして神が志免教会を助けておられるかどうか、疑う時もありました。その一方で説教の時は「信仰に生きなさい」と皆さんに信仰を強調しなければならないので、その矛盾が私にとって困惑でした。 5年間、私が予想していた変化は起こらず、5年前にしていた志免教会の将来の心配は未だにしていました。宣教のための来日なのか、心配のための来日なのか、混乱の時もあります。そんな私に今日の聖書の本文は語ります。「主が来られる時まで、時間どおりに私の民らに食事(御言葉の正しい説教)を与える忠実で賢いしもべとして生きなさい。」私の周りの環境がどうであれ、私の思いと異なる現実が広がっても、必ずまた来ると約束された主イエスを信じ「信仰によって、誠実に」一日一日を生きて行くべきということです。多くの成功を遂げ、偉大な人になるのだけが、神の忠実なしもべのあり方ではありません。難しい状況の中でも神への一抹の信仰を捨てず、最後まで主の約束を待ち望み、一日一日誠実に生きることこそ、終末の時代を生きる私たちに求められる「神への忠実」なのです。今日の新約の本文を通じて、私は最近の不信仰と心配を反省することになりました。今日の本文は信仰を持って誠実に一日一日を生きていきたいと誓わせる言葉でした。 3. 神の子、神のしもべ。 今日の本文には神の民である教会が「神のしもべ」として描写されています。文字通りにすれば「しもべ(僕)」は下人のことです。しかし、聖書が語る「しもべ(僕)」は神の民を格下げして、奴隷のように扱う言葉ではありません。すでに聖書はキリスト者が、神の子供であり、キリストの友であり、神の国の相続人であると語っているからです。イエス·キリストは罪人を救うために、この地上に来られた時、神のひとり子であるにもかかわらず、ご自身のことを「神のしもべ」であると言われました。神ご自身であるイエスが、自ら神のしもべであると自任されたわけです。父なる神への愛によって、自らを低くされたためです。キリストの救いによって、すでに神の子供、キリストの友、神の国の相続人となったキリスト者は、主イエスの御心にならって、自分自身を進んで神のしもべとして献身する者とならなければならないと思います。天地創造の前に、すでに父なる神によって定められ、キリストによって救い選ばれ、聖霊によって信仰を持って教会となった私たちは、神への信仰と誠実さで、毎日を生き、神の子供ですが、神のしもべのような生き方で、へりくだって主に仕えて生きるべきではないかと思います。 締め括り 今日の旧約本文はこのように語っています。「忠実な使者は遣わす人にとって、刈り入れの日の冷たい雪。主人の魂を生き返らせる。」(箴言25:13) イスラエルの平原地域では4-5月には大麦、6-7月には小麦、9-10月には果物などの収穫があると言われます。6-10月のイスラエルの平原地域は福岡くらいの暑さだと思います。こんな暑い時期に冷たい雪があったら、大喜びになるでしょう。したがって、上記の言葉を少し変えて翻訳すると、このようにも言えると思います。「忠誠なしもべは、主人にとって、刈り入れの日の冷たい水一杯のように、主人の心を満足させる。」(実際、韓国の聖書ではこんなふうに翻訳されている。) 私たちが信仰と誠実さで主の御心に従って生きる時、主は私たちの生活によって喜ばれると信じます。2023年、私たちはどのように生きてきたでしょうか? また、2024年はどう生きるべきでしょうか。信仰と誠実さを持って主の御心に従って黙々と歩んでいく時、私たちの歩みは、主にとって刈り入れの日の冷たい雪のように、主の大喜びになると思います。それを誓って過ごす年末年始であることを祈り願います。

罪人の友イエス·キリスト。

民数記 35章9~15節 (旧276頁) ヘブライ人への手紙4章14~16節(新405頁) 前置き 主イエス·キリストのご降誕を喜び祝います。この世のすべての罪のある者、貧しい者、弱い者の友になられ、彼らと共に歩んでくださるために来られた主イエスの愛と恵みを喜びたたえます。このクリスマスに、ここに集っておられる皆さまと、また我らの家族、友人、近所の方々にキリストによる、主なる神の愛と恵みとが豊かに注がれることを心より祈り願います。今日はクリスマスの本当の主人公である主イエス・キリストのことをお話ししたいと思います。 1. 罪人の大祭司となるイエス・キリスト。 今日は、クリスマス記念礼拝ですが、聖書の本文の言葉はクリスマスとあまり関係ないように見えるかもしれません。クリスマスといえば、ベツレヘム(イエスの生まれ故郷)の飼い葉おけに生まれたイエス、東の方からの占星術の学者たち、マリアとヨセフ、大きくて輝かしい星、野原の羊飼いたちと空の天使の讃美など、主イエスの誕生についての物語が多いからです。それでは、私がクリスマスと全く関係なさそうな本文を選んだ理由は何でしょうか。それは、なぜイエスがこの地上に人間として生まれなければならなかったのか? 東の方の学者たちがイエスを訪れた理由は何か? なぜ大きくて輝かしい星がベツレヘムに向かったのか? なぜ数多くの天使たちがイエスの生まれにあたって「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と讃美したのか、というクリスマスの物語が持つ本当の意味について話したかったからです。なぜ、唯一の創造主のひとり子は人間となり、この地上にお生まれになったでしょうか? そして、その方がこの地上に来られたということは、私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか? 私は今日の説教を通して、このように言いたいです。「イエスは今を生きる、この世のすべての罪人の友になってくださるためにこの地上においでになったのです」と。 聖書には、神がこの世のすべてを創造され、それらを見て喜ばれたと記してあります。そして、被造物の頭である人間を創造された後、彼らを見て最も喜ばれたと書いてあります。つまり、神は人間のために世界をお創りになったわけでした。しかし、やがて人間は神の座を欲しがって神を裏切ってしまいました。その罪のため、人間は神に罰を受け、みじめな存在になってしまいました。しかし、人間を完全には見捨てなかった創造主の神は、人間を愛したあげく、彼らと和解することを決定されました。それで、人間の代わりに罰を受けて死ぬ、罪のない存在を遣わそうと決心されました。しかし、神を裏切った最初の人間の子孫は、依然として最初の人間が犯した罪の支配の下にいるため、誰も他の人間の罪を赦すために、代わりに死ぬことができない状態でした。罪人が他の罪人の罪を赦すことはありえないからです。そこで、神が選ばれた方法は、まったく罪のないご自分の子を人間に生まれさせ、罪人に代わる贖いの献げ物にして、他の罪人たちを救う方法でした。それによって神は、いわゆる「三位一体」の御父と御子と御霊の中の御子なる神を人間に生まれさせ、この地上に遣わされたのです。そして、その御子なる方がまさに主イエス·キリストなのです。 今日の新約聖書の本文は、このように語ります。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ4:15) 本文は、このイエス·キリストが、罪人を罪から救ってくださる大祭司であると証ししているのです。イエスは、自ら(罪のない)人になって人間の弱さ、悲しみ、痛み、苦しみと(聖書には試練と書いてある) 私たち人間が感じる感情を同じように体験され、神でありながらも、人間になり、人間を理解し、主に頼る者たちを代表してくださる大祭司になってくださったのです。私たちがクリスマスにイエスのご降誕をお祝いする理由は、人間が、もうこれ以上ひとりぼっちで自分の罪、弱さ、悲しみ、痛み、苦しみに束縛されて挫折ばかりするのではなく、このイエス·キリストに出会うことによって、主と共に生きることができるようになったからです。いわば、私たちと永遠に離れない真の友が、天から地に来た日だからです。主イエスは、今日も私たちを見守っておられます。私たちの罪、私たちの悲しみ、私たちの痛み、私たちの弱さを同情してくださいます。そして、私たちが主の恵みを求める時、主イエスは必ずご自分を探す者たちを見捨てられず、出会ってくださるのです。 2. 私たちの逃れの町になってくださるイエス。 今日の旧約本文には「逃れの町」という言葉が出てきています。「ヨルダン川の東側に三つの町、カナンの土地に三つの町を定めて、逃れの町としなければならない。これらの六つの町は、イスラエルの人々とそのもとにいる寄留者と滞在者のための逃れの町であって、過って人を殺した者はだれでもそこに逃れることができる。」(民数記35:14-15)逃れの町とは、旧約時代、神がイスラエルに土地を与えてくださる時、イスラエル人、外国人を問わず、過って人を死なせた者、例えば、木を切る際に、斧の刃が勝手に飛んでしまって誰かが当たって死んだなどの場合、死んだ者の家族に無惨に復讐されないように避難できるような場所でした。もちろん意図的に殺人した人は必ずそれに相応する刑罰を受け、殺されるのが旧約の律法でした。ただし、過ちによる死のため、人々が互いに復讐しあって殺し合う悲劇がないように、神が、ご自分の律法で逃れの町を定めてくださったのです。もちろん、過ちで人を死なせた、その人は逃れの町で自分の過ちを認め、反省と悔い改めをするべきだったでしょう。このように神は盲目的に人を罰し、殺すのではなく、自分の罪を認める罪人を憐れみ赦してくださるために、逃れの町という制度をくださったわけです。 ところで、この逃れの町に避けた人は、いつ自由の身になれるのでしょうか? 一生、逃れの町に束縛されて死ぬ日を待つしかないのでしょうか。しかし、彼らも自由の身になる時がありました。「人を殺した者は、大祭司が死ぬまで、逃れの町のうちにとどまらねばならないからである。大祭司が死んだ後はじめて、人を殺した者は自分の所有地に帰ることができる。」(民数記35:28) 当時の大祭司が生を全うして死ぬ日、は逃れの町の罪人らは、その町から出て自由になることができました。神が大祭司の死によって、彼らの罪が贖われたと見なしてくださり、彼らの罪を赦してくださったからです。罪人のために罪のないイエスが死んで罪人を赦してくださるという概念は、まさに、このような逃れの町の大祭司の物語と深くかかわっています。神は罪人をすぐに罰せられず、見守り、大祭司の死ぬとき、贖罪して、新たな人生を生きるとこが出来るようにお待ちくださったのです。すなわち、私たちの大祭司であるイエスが罪と弱さで無力になっている罪人のために死んでくださった時に、人は罪から赦されるようになったのです。イエスが十字架で私たちの罪に代わって神の御前で刑罰を受けて死んでくださることで、私たちは自分の罪から自由になる手立てを得ることになりました。したがってイエスは旧約の逃れの町のように私たちを守り、大祭司のように、ご自分の命をかけて、私たちを罪から救ってくださる方です。イエスがこの地にお生まれになったことをお祝いする理由は、このようにイエスが人間の罪と弱さをご自分の体で背負ってくださった救い主だからです。 締め括り 今の世界で、クリスマスが持つ意味はどうなっているでしょうか。クリスマスは「キリストに礼拝する日」という意味のラテン語ですが、現実はイエス·キリストより、サンタクロースの方が有名になっている日であるかもしれません。罪人を赦し救い、友になってくださるイエス·キリストを記念すべき日ですが、むしろ、パーティー、デート、飲み会の日のように認識されているかもしれません。このようなクリスマスを、キリスト者は正しく憶え、感謝すべきではないでしょうか。主は罪人の友になってくださるために、私たちの逃れの町と大祭司になってくださるために、この地上にお生まれになりました。そして、私たちに真の平和と喜びを与えてくださるために十字架でご自分をささげ、死んでくださいました。そして、主は私たちの永遠の命のために復活し、真の救い主として今も私たちと共におられるのです。このようなイエス·キリストの愛と恵みを憶えるクリスマスになることを願います。メリークリスマス。主イエスのご降誕をおめでとうございます。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。 イメージファイル Freepik

キリストによる平和

イザヤ書52章7節 (旧1148頁) ルカによる福音書2章8-21節(新103頁) 前置き 子供の頃、私はメリークリスマスという言葉が大好きでした。クリスマスが、どういう意味かは分かりませんでしたが、クリスマスの雰囲気がすごく良かったためです。1980年代、日本のバブル時代、韓国もソウルオリンピックを前後にして、本格的な経済の発展を期待する時代でした。あの頃は日本も韓国も、裕福だったと思います。当時、幼稚園に通っていた私は、クリスマス・イブに枕もとに小さな靴下をかけて、今夜サンタクロースが来て、オモチャのプレゼントをくれるだろうと楽しみにして、熱心に祈ったりしました。私は、その時代に育ったわけで、今でもクリスマスといえば平和という言葉が一番先に思い浮かびます。ところで、クリスマスと平和に何の関りがありますでしょうか?今日は、クリスマスとは何か?そして、クリスマスの真の平和とは何かについて、一緒に話してみたいと思います。 1.クリスマスとは? クリスマスとはどういう日でしょうか?数年前、日本の、ある宣教団体が作った日本宣教関連の動画を見て、驚いたことがあります。クリスマス・イブの夜、新宿で通りすがりの人々とインタビューをする場面でした。「クリスマスが何を記念する日なのか知っていますか?」「西洋からのパーティーの日じゃないですか?」「よくわかりません。」「ケーキを食べる日です。」など、さまざまな答えがありましたが、衝撃的にもクリスマスがイエスの誕生を記念する日であることを知らない人が多かったのです。恐らく、クリスマスを知らない人を中心に編集したかとは思いましたが、他国に比べてクリスマスのこと、分からない人が多いとの内容でした。最後に動画はこう話して終わりました。「日本のキリスト教は盛んでいません。クリスマスを楽しんでいながらも、クリスマスの意味が分からない人が多いです。日本の人々が、救い主イエスと、その誕生を記念するクリスマスを正しく知るようになることを切に祈ります。」日本でキリスト教は、全人口のわずか0.4%にしか至らないマイナーの宗教です。それだけにクリスマスへの人々の認識も薄いです。クリスマスはパーティーする日でも、ケーキを食べる日でもありません。クリスマスは私たちが主とあがめるイエス・キリストの到来を記念する日です。 クリスマスは、イエスを意味するギリシャ語「キリスト」に、礼拝を意味するラテン語「マス」が付いて出来た合成語です。カトリック教会の「ミサ」という言葉をよく耳にしますが、そのミサの語源が、この「マス」なのです。つまり、クリスマスとは、ご降誕のイエスを礼拝する日という意味です。また、この「マス」には、別の意味もあります。「ミッション」というアメリカの映画がありますが、有名な俳優、ジェレミーアイアンズが「ネッラファンタジア」という曲をオーボエで吹きながら、南米の原住民と出会う場面が印象的な映画です。映画のタイトルであるミッションという言葉は、宣教という意味の英語ですが、その語源が、この「マス」というラテン語なのです。つまり、クリスマスはイエスが、この地に福音宣教をするために来られた日という意味でもあるのです。したがって、クリスマスを日本語で説き明かすと、「ご降誕のイエスを礼拝する日。」または「イエスがこの地に神の福音を宣べ伝えるために来られた日。」と解釈することができます。このように、クリスマスはイエスで始まり、イエスで終わる、イエスの、イエスによる、イエスのための日なのです。だからイエスを忘れて、単にパーティー、ケーキ、お酒、デートの日などと、クリスマスを誤解すれば、このクリスマスに隠れた意味があまりにも多いと言えるでしょう。 日本では、クリスマスが祝日ではありません。ほとんどの欧米の国々、また韓国でも、クリスマスはキリスト教の非常に重要な日として大事に扱われています。国家的にも祝日と指定された、1年の中で最も盛大に守るキリスト教の記念日です。だから、それらの国々では、教会に通っていない未信者でも、その意味をかすかにでも知り、その意味の中でクリスマスを楽しみます。しかし、日本では祝日でもなく、ただの平日であり、イエスの誕生を記念する日という事実を知らない人も、他国に比べて多くと言われ、とても残念だと思います。神が日本の教会のを憐れんでくださり、多くの人々がイエスを知り、良い影響を及ぼす教会共同体になること祈り願います。クリスマスはイエス・キリストの日です。イエスが礼拝される日であり、イエスの福音伝道ためのお生まれを記念する日なのです。このクリスマスにイエスの愛が日本中のすべての人々に満ち溢れますように祈ります。 2.イエス・キリストによる平和を願う日。 ローマの平和(Pax Romana)という言葉があります。古代ローマ帝国は、軍事力で地中海世界を掌握、支配し、周辺のヨーロッパと中東とアフリカ北部を征服した強力な国家でした。ローマの平和とは、ローマが帝国の征服戦争にけりを付け、地中海を完全に掌握した西暦1世紀前後、ローマ帝国による秩序と支配で、世界が平和であるという意味で用いられた言葉でした。しかし、このローマの平和という言葉について、よく考えてみる必要があります。ローマの平和とは、すべての人が平等で平和になるという意味ではありません。この平和は、ローマ皇帝を中心としたローマ人だけの平和でした。ローマ帝国に属する植民地の人々は、ローマ市民として認められませんでした。彼らがローマ市民になるためには、ローマの市民社会で認められたり、あるいは植民地の指導層が自国を裏切ってローマ帝国の側に立ったり、ローマの軍隊に入り、多くの戦争を経て得ることができるものでした。つまり、この平和とは、皆のための平和ではなかったということです。誰かがローマの平和を享受するためには、他の誰かが死ぬか、奴隷にならなければなりませんでした。ローマの平和とは、あくまでも、権力ある者のための、彼らだけの平和だったのです。ローマの平和は暴力と殺人の別の名だったのです。 そのローマの平和が唱えられた時代、ローマ帝国の辺境の、小さくて力のない植民地、イスラエルでは、ユダヤ民族から、真の王が生まれるといううわさがありました。大きくて輝かしい星が現れ、イスラエル地方に、王たちの上に君臨する、真の王が生まれるといううわさでした。これはユダヤ人の預言に基づいた話で、聖書はその王が、主イエス・キリストであると明らかに示しています。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(11-12)今日の本文では、この王たちの王が生まれるという良い知らせを、地上の人々に伝える天使の物語が出てきます。彼はイスラエルの歴代最高の王であったダビデの出身地であるベツレヘムで、ダビデの子孫である、新しい王が生まれると話しています。ところで、ここで 使われた言葉が気になります。聖書は、単に王という言葉の代わりに「救い主、主」という言葉を使っています。この言葉は、単に偉大な人を高めるための表現ではありませんでした。この言葉は非常に政治的で、社会的な言葉です。ローマ帝国で「救い主、主」という言葉は唯一、ローマ皇帝一人しかなかったからです。 つまり、ユダヤ地域で生まれた主イエス・キリストという名前は、単にイスラエルと呼ばれる小さな民族の指導者としての意味ではなく、ローマという大帝国の皇帝までも屈服させる強力な存在としての名称だったのです。イエス・キリストが生まれた理由は、単に小さな一つの民族だけに限らず、ローマ帝国を超える全世界を治めるためでした。神は帝国を超えて全世界を支配する本当の王が来ることを天使を通して教えてくださったのです。しかし、イエスの支配のしかたは、ローマ帝国のそれとは、全く違うことでした。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(14)天使は王や皇帝を訪れて主の到来を知らせたわけではありません。彼はイスラエルで最も低い階級である羊飼いたちに行き、主のご降臨を知らせたのです。そして、彼らに平和の王が臨むことを教えてくれました。主イエスの誕生は、ローマ帝国の皇帝が求めていた自分たちだけの平和ではなく、イエスを通して全世界のすべての人々が、共に享受することができる、真の平和をもたらす出来事です。主のご誕生の知らせは、ローマによる権力者のための暴力に染まった平和ではなく、キリストを通して最も低い階級も味わえる、真の平和の到来のお知らせ、つまり福音でした。 締め括り 人間の赤ん坊に生まれたイエス・キリストは、神ご自身でいらっしゃいます。神と人との間には、人とアリの違いよりも、はるかに大きな隔たりがあります。しかし、人間を愛された神は、自らを低くされ、人になってくださいました。また、みすぼらしい飼い葉桶に生まれ、誰にも尊重されない羊飼いたちでさえも、会うことができる低い所に来られたのです。イエスは権力、財産、強い人だけでなく、疎外される弱い人にも、喜んで会ってくださる、真の偉大な王です。誰でも主を求めれば、 会ってくださる真の平和と愛の王でいらっしゃいます。私たちが生きている、この世は弱い者に厳しいところです。目に見えない壁と隔たりがあり、支配層と一般の人々の人生が違う場所です。しかし、主イエスは、そのような壁と隔たりを突き崩して、すべての人に公平に神の愛と恵みをお伝えになった方です。この主が、弱くて罪深い人類のために地上に来られ、人間の罪を赦してくださるために、ご自分の命を掛けて救ってくださいました。私たちを支配しようとする王、私たちに仕えようとする王、私たちにとって真の王は果たしてどちらでしょうか?主は仕え守ってくださる平和の王として、今日、私たちの間におられます。アドベントの期間、またクリスマスを迎えて、この主イエス・キリストのことを憶えていきたいと思います。父と子と聖霊の御名によって。アーメン

我が民を慰めよ。

イザヤ書40章1~11節(旧1123頁) マルコによる福音書1章1~8節(新61頁) 前置き この世は病んでいます。今日でも世の中には戦争が絶えず、人と人の間柄に憎しみが絶えず、社会には不条理があふれています。この世の多くの人々が苦しみと不安を感じながら生きています。なぜ、この世はこんなに良くないものでいっぱいになったのでしょうか? 聖書は、これらすべての不幸が人間の罪から生まれたと語っています。そして、その罪を解決することから真の回復と慰めが与えられると語ります。このような世の中を見守られまがら、主は今日もこの世の罪を赦し、すべての人々が神の救いを得て平和と慰めのある人生を生きることを望んでおられます。私たちが主と崇めるイエス·キリストは、この世を傷つける罪の問題を解決し、神の真の赦しと慰めの成就のために、この世においでになりました。キリストによる罪の赦しと回復。神は自分の力で罪の問題を解決できない、病んでいるこの世を慰め回復させるために、ご自分のひとり子を遣わしてくださったのです。 1. 喜んで赦してくださる主。 イザヤ書40章は、かつて主なる神への背反、偶像崇拝といった罪のために、神の裁きを受けた旧約のイスラエル民族の回復を予言する言葉です。神は国々の中でイスラエルを特別に選び、神の栄光をあらわす祭司の国として打ち立てられました。しかし、時間が経つにつれ、イスラエルは主の御旨に背き、自分たちの欲望に従って主の御言葉を無視し、他の神々に仕え、主と遠ざかってしまいました。主なる神は彼らに悔い改め、立ち返りを呼びかけられましたが、彼らは変わらず、自分の欲望を神として主の御心に逆らってしまいました。そして、その結果はアッシリアとバビロンといった大帝国によるイスラエル王国の滅びでした。しかし、その滅びはイスラエルへの神の無慈悲な仕返しとしての滅びではなく、イスラエルを悔い改めさせ、主に立ち戻らせる戒めとしての滅びでした。そのため、神は約70年後にイスラエルを再び回復させ、故郷に帰らせることを決心されました。今日の旧約の本文は、そのイスラエルへの神の赦しと慰めと回復を宣言する言葉です。 「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」(イサヤ40:1-2)主なる神は、ご自分の民を愛される方です。彼らがたとえ神を裏切る罪を犯したとしても、神はご自分の民イスラエルを完全には見捨てられず、再び回復させ、神のふところに抱くことを望まれる方です。だから、神はまるで親が子供を戒めるかのように、イスラエルを戒め、彼らを完全に滅ぼされず、悔い改めへと導いてくださいます。主なる神は破滅と審判より、赦しと慰めをさらに望まれる方です。主の民が罪によって堕落したとしても、主は彼らを見守り、赦し、愛をもって正してくださることを望まれる方です。主は民が罪を悔い改め、立ち返るなら、必ず彼らを受け入れてくださる方です。神の民が悔い改めつつ、神の御前に出てくる時、主なる神はわたしの民よと喜んで呼ばれ、赦してくださる方なのです。 2. 変わることのない主のご意志。 「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」(40:3-5) 神はご自分の民イスラエルが滅びと捕囚の状態から回復し、再び彼らの故郷であるイスラエルに帰還すると預言されます。そして、その嬉しい便りを公に宣言されます。主がご自分の民イスラエルを回復させる時、荒れ野には神の道が備わり、谷と山、丘、険しい道は平らになるという比喩によって、誰も神の民の回復を妨げることができないことを宣言されたのです。 そして、その民と共に進まれる神の御業を「主の栄光」であると語ります。神は誰よりもご自分の民の回復を喜び、望まれる方です。主はその民の回復のためのご自分の御業がすなわち主の栄光であると公に言い現わされたのです。 「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(40:6-8) 神は世の中のすべての肉なる者は草と花のように枯れてしまうが、イスラエルを必ず回復させるという神の言葉だけは永遠に変わらないという言葉を通して、ご自分の民の回復への神のご意志(御言葉)は、世のすべてが変わっても絶対に変わらず、成し遂げられることを宣言されます。イスラエルは滅びて無力な存在となっていますが、主は必ずご自分の民を回復させ、新たにするという希望の約束をくださったのです。一度失敗した存在を見捨てず、起こして新たにするという神の希望のメッセージ。これは罪人たちをあきらめられない主なる神の積極的な愛を表します。「あなたたち罪人は失敗の存在だが、わたしはあなたたちを決してあきらめない。」この主のご意志が罪人たちへの救いにまでつながるのです。 そして、そのような神のご意志は新約時代に入ってイエス·キリストという救い主の登場につながります。 3. キリストの到来の意味。 今日の新約の本文は、イエスの公生涯(イエスの地上での御業3年)の始まりを告げ知らせる言葉です。そして、その言葉には今日の旧約本文イザヤ40章の言葉が引用されています。「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(マルコ1:1-3)、このようなマルコ福音書とイザヤ書の言葉の関りを通して、ご自分の民を回復へと導かれる主の御業(栄光)が、まさにこのイエス•キリストの到来を意味するものであり、このイエスによって、神のお赦しとお慰めが、この世に伝わり、罪によって苦しむ存在が赦され慰められることが推測できます。世の中のすべての肉なる者は、草と花のように枯れてしまうが、神の御言葉と呼ばれるイエス•キリストのご恩寵は絶対に妨げられず、必ず成就することを今日の新約と旧約の本文を通して知ることができるのです。 神は、旧約で罪によって堕落し、滅びてしまったイスラエルの回復と救いを宣言されました。しかし、神は、新約聖書を通しては、メシア、イエス•キリストを遣わされ、イスラエルに限られた回復と救いではなく、全人類が罪から赦される究極的な回復と救いを宣言されたのです。イザヤ書を通して伝わった主の民のための神の慰めはキリストによって、さらに拡大し、全人類を対象に広がっていくことになったのです。イエス・キリストがこの地上に来られたということは、神の慰めと救いの恵みがイスラエルという一民族を超えて、人類という世界中のすべての民族に広げられたということを意味します。この世は、罪によって依然として病んでおり、戦争も絶えないが、そのすべての痛みと苦しみを主なる神は知っておられ、キリストを通して、共に痛がっておられます。 そして、いつか主はイエス•キリストを通して、その罪の痛みと苦しみから主の民を回復させ、慰めてくださるでしょう。 締め括り クリスマスのシーズンになると、天神の街はクリスマスの飾りで輝き、大勢の人々はクリスマスケーキやお酒などを飲み食いしながら、クリスマスを楽しみます。しかし、多くの人はクリスマスの本当の意味も分からず、ただ雰囲気に流されて楽しむようになる場合が多いです。そんな時こそ、私たちキリスト者は罪を赦し、真の慰めを与え、回復と救いを与えるために来られた主イエス・キリストのご到来を記念し、憶えなければなりません。キリストが来られたということは、この世への神の愛と慰めが、近くに来ていることを意味します。このような神の愛を記憶し、アドベントの期間とクリスマスを過ごしていきたいと思います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

過越祭の小羊。

出エジプト記12章3―14節(旧111頁) コリントの信徒への手紙一5章7節(新305頁) 前置き 今日は、アドベント、つまり、今年の待降節の第一の主日です。待降節とは、イエス·キリストのご降臨を待ち望む期間という意味です。これから待降節の4週間、私たちは神でありながら人として、私たちの間に来られた救い主イエスのご誕生を記念し、また終わりの日に再び来られる再臨のイエスを記念してクリスマスを迎えます。今年の始まりから間もないような気がしますが、もう一年が終わりそうな時になっています。私たちと共におられるイエスは、今年も私たちを平安の中で守ってくださいました。イエス·キリストのご降臨と犠牲、愛、御言葉を憶えて、待降節の期間を過ごし、新しい一年を準備していく恵みの12月になることを祈ります。今日は旧約聖書の出エジプト記の言葉を学びますが、偶然にも待降節とよく合う本文ですので、感謝です。神が私たちにお遣わしくださった救いの小羊イエス·キリストの愛と犠牲とを、今日の本文を通じて考えてみる機会になることを祈ります。 1. 最後の災いはなぜ死だったのか? 出エジプト記に出てくる十の災いの最後の裁きは、エジプトの地のすべての初子が滅ぼされる死の災いでした。以前、九の災いが繰り広げられたにもかかわらず、最後まで悔い改めず、神に逆らい続けていたファラオへの神の最後の裁きは、結局死だったのです。死は古今東西を問わず恐ろしい存在です。この世の誰も、死という存在から、絶対に自由ではありません。聖書も死についてこう語っています。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27) この世のどんな価値でも死の前では、その光を失ってしまいます。なぜなら、死はすべてを奪い取り、終わらせる、底なしの闇のようなものだからです。この世には恐ろしいことがたくさんあります。老化、病気、事故など、人間はそれらを恐れています。しかし、それらすべての恐怖の根源は、老化、病気、事故といった事柄の裏に隠れている死という一つの存在のためではないでしょうか。死が恐ろしい理由は、それが終わりだという人間の本能的な感覚があるからではないかと思います。存在の意味がなくなること、存在の価値が消えてしまうこと。それがまさに死の権能だからです。だから、主も死を十の災いの最後の災いとしておかれたかもしれません。最も悲惨で虚しいものが死にあるからです。最後の災いが持つ意味は、その死の圧倒的な権能の前で、人間は誰も自由ではないということを強調するものではなかったでしょうか。 2.死を乗り越える唯一の対策。 ところで、今日の本文では、そのような死の裁きのもとでも、ご自分の民に死を乗り越える希望を与えてくださる神の恵みが描かれます。「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」(出エジプト記12:12-13)今日の本文の夜、神はエジプトのすべての初子に死の裁きを下されましたが、その対象はエジプト人だけでなく、エジプト国内にあるすべての生命を持つ存在でした。つまり、イスラエル人でさえ、エジプトにいるなら、神の裁きの対象であったということです。しかし、主はイスラエルにはその死の裁きを免れる一つの対策を与えてくださいましたが、それは過越祭の小羊の血でした。「その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。」(出エジプト記12:5-7) 神は傷のない雄の小羊や小山羊を屠って、その血で家の入り口の二本の柱と鴨居に塗ることを命じられました。 過越祭という言葉の意味は「死が通り過ぎる日」です。エジプトにあるすべての初子がエジプトの罪によって神の呪いの下に死に滅ぼされなければならない悲惨な状況だったにもかかわらず、神はその死によって滅ぼされることなく、神のお助けによって生き残る対策をこの過越祭を通して見せてくださったのです。それは神に定められた小羊の血を家の入口に塗ることでした。神の怒りによる死の裁きを神ご自身が特定してくださった小羊の血を塗ることで避けることが出来る、神の恵みだったのです。審判する存在が審判される存在に審判を免れる唯一の対策を教えてくれたわけです。それがまさに過越祭の小羊の血が持つ特別な効果でした。そして、私たちはこの過越祭の小羊の血という旧約の概念から、罪を赦し、救いをくださる十字架のキリストの血という概念を見つけることが出来ます。つまり、死の呪いの中で、神はご自分の民たちに生命の希望を見せてくださったということです。神がお定めくださった小羊の血の痕跡があるところなら、そこは神の死の呪いが過ぎ去り、死を乗り越える恵みが許されます。これが過越祭を通して、私たちに与えられた神の救いの対策、過越祭の小羊の血の意味なのです。 3.過越祭の小羊、イエス·キリスト 私たちが信じるイエス·キリストの御救いは、この出エジプト記の過越祭の小羊の血と深くかかわっています。聖書の教えによると、世の中のすべての人間は自分の罪のため、最後には死ぬしかない悲惨な存在です。ここで言う死とは単純に肉体の命が終わるという意味を越えて、神からその存在を認められず、永遠に見捨てられることを意味します。しかし、神がお与えくださった、新約時代の過越祭の小羊、イエス·キリストの救いのもとにいるならば、人間は罪赦され、神の救いを受け、認められ、永遠の死から解放されるようになるのです。したがって、キリストの救いの血潮は、神と罪人を仲良くさせる和解の贈り物であり、神と罪人をつながせる関係の祝福です。 出エジプト記で過越祭の小羊の血がイスラエルの民を死の裁きから救う神と罪人の接点になったとすれば、今、私たちが生きている新約の時代には、まるで過越祭の小羊のようにご自分を犠牲にして罪人たちを救ってくださったイエス•キリストの血が神と罪人をつなげる接点になります。イエス・キリストが十字架で罪人のために死んでいかれた理由は、この新しい時代の過越祭の小羊としてご自分の生命(血)を贖いのいけにえにしてくださるためでした。世のすべての存在は、神に逆らう、悪の世のもとで結局永遠の死を避けず、人生を終えてしまうでしょう。しかし、キリストの血潮の権能と恵みを信じる者たちは、神から生命をいただき、肉体は死んでも終わりの日にキリストにあって復活し、永遠の生命を持って主と生きていくことになるでしょう。イエスがこの世に来られた理由も、そのような真の救いを罪人たちに与えてくださるためです。今日の過越祭の小羊の本文を通じて、キリストがこの時代の過越祭の小羊であり、その方の血潮によって、私たちが救われたこと憶え、生きていくことを願います。 キリストが私たちの救いになってくださり、私たちに死を避ける一本道を開いてくださったからです。 締め括り アドベントの期間が始まりました。クリスマスまでの何週間、私たちはキリストのご誕生を記念するでしょう。私たちはキリストが神の過越祭の小羊になり、ご自分の民を死の呪いから救い出してくださるために来られたことを憶え、それを最も大事に記念しなければなりません。キリストがおられる限り、私たちは神の呪いである死に吞み込まれず、死を乗り越えて、神の真の命へ入ることになるでしょう。キリストの血潮は呪いを祝福に替える恵みのお贈り物です。そのお贈り物のために、イエス・キリストはわたしたちのところに来られたのです。その方に感謝して過ごすアドベントを願います。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

キリストによる勝利。

旧約の箇所はありません。 ローマの信徒への手紙8章17-39節(新284頁) ローマの信徒への手紙8章17節には、こう書いてあります。『もし、子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。』神の恵みによって罪人の身分から救われ、神の子供、正しい人と生まれ変わったキリスト者は、神の御国の相続人として認められた存在です。『神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。』(ローマ8:14)イエス・キリストの御救いと神のお愛によって、私たちに来られた聖霊が、私たちキリスト者の人生に共に歩まれ、神の子供、神の相続人という身分を与えてくださったからです。神を離れ、肉的な人生を生きていた私たちは、今や聖霊のお導きと恵みとによって、神と共に生きる霊的な存在、もはや罪人ではなく、神の子供であり、神の相続人となったのです。 ただし、だからといって、今後の人生に、いかなる苦しみも、悲しみもなく、ただただ、気楽で楽しさばかりの人生だけが残っているとは言えません。『キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。』(ローマ8:17)(新共同訳の翻訳は、原文と翻訳順番が違います。より原文に近い翻訳は『キリストと共に栄光を受けるなら、共にその苦しみをも受けるべきなのです。』の方が、本文に近い表現だと思います。)17節は、キリスト者の生活の両面性を語っています。『神の相続人として栄光を受ける者となったが、それと共に、相続人としての苦しみをも負うべきである。』ということです。ローマ書の5章では、これについてすでに記されています。『このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。』(ローマ書5:2-4)神から栄光を受けるためには、主による苦難をも経験しなければならないということでしょう。 なぜ、栄光の主によって、神の相続人となったキリスト者に、このような苦難が襲ってくるのでしょうか?神の子供なら、祝福と平和いっぱいで生きるべきではないでしょうか?残念なことにその苦難の理由は、この世の罪にあります。『被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。』(22)ここでの被造物とは、人間世界のすべての物事を意味します。これは、自然環境のような物理的な世界と共に、人の間柄のような霊的、精神的な世界をも意味します。その中には人と人との関係、人と自然の調和のような、この世界のすべてが含まれています。しかし、最初の人の不義による罪は、人と人の対立、自然への人間の乱用などにつながってしまいました。人と人が憎み合い、国と国が戦争し合い、人間の貪欲のために自然が破壊されました。人間の罪は人間だけでなく、この世の物理的、精神的な被造物にも悪い影響を及ぼしたわけです。この憎しみと破壊の世界で神の子供として、御言葉に聞き従い、罪の世界に対抗して生きるというのは、汚れたこの世の方式とは全く反対側にいくことと同じものです。だから、この世に生きる神の子供は、当然、罪の世界から苦難を受けるようになるのです。キリスト者が受ける迫害と苦難は、こんな経緯から生まれたものです。 私たちが聖書に従って正しく生きようとして受ける苦しみは、神の民なら、受けるに決まっている苦難です。自分の敵を愛するための苦難であり、他国との平和を祈るための苦難であり、自然環境に優しくするための苦難であります。罪と不義に満ちた世界で、神の正義と愛とを宣べ伝えるために受ける苦難なのです。もし私たちが神を真の父と信じ、そのご意志に従って生きることを決心したなら、これらの苦難は避けられない、絶対的な課題です。しかし、これらの苦難は苦しみだけで終わるものではありません。それらには、より大きな御業を計画しておられる神の御心が隠れているからです。『神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。』(28)、そのような神の御国の相続人としての苦難の中で、神を愛し、信頼して生きる際に、そのような苦難さえも、最終的には一つになって共に働き、神の御心を成し遂げる万事の益となるからです。 パウロは、イエスに出会って以来、神の支配による理想的な世界を夢見て働きました。私たちが御国と呼ぶ神の国、それは神のお導きとご統治に満たされた世界です。それは、ただの死後のユートピア、極楽、天国などを意味するものではありません。罪によって汚された、この世界で、神の真の愛とお導きのもとで成し遂げられる主の支配権が現れるすべてのところ(例:主の御心に聞き従って生きる私たちの人生)が、まさに御国なのです。神はそのためにキリストをお遣わしになったわけです。キリスト・イエスは、主を信じる者が、この地上で苦難に負けず、御国を望んで生きることが出来るように、先立って自ら苦難の模範を見せてくださいました。『神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。』(29) 罪によって歪んでしまった、この世で御国を成し遂げるということは、苦難をともなう難しいことです。しかし、神は口先だけの命令ばかりの方ではありませんでした。イエス・キリストという神の独り子が直接私たちのところに来られ、苦難を受け、私たちの進むべき道を開け、ご自分で先に進んで行かれたのです。聖書は、このようなイエス・キリストを長子と表現しています。私たちキリスト者は、そのイエスが切り開いた道に沿っていくことで、御国を建てていくことが許されたのです。 だから、神の子供とされた私たちは、苦難の背後に隠れている神の栄光を望まなければなりません。キリスト者がいくら頑張ろうとしても世界はそう簡単には変わりません。教会の規模と影響力は依然として小さく、世界は罪の道に走っています。これらの罪に満ちた世界で、世界を変えられない教会は、無力感を憶えやすいと思います。しかし、本質を見抜かなければなりません。教会の弱さが神の弱さを意味するわけではなく、教会が無力だから、神も無力な方であるというわけでもありません。卵で岩を打てば卵が割られますが、神が岩を壊し、その場に卵を置こうとされたら、神は成し遂げられます。神はお出来になる方です。私たちは、自分の状況ではなく、神の御腕を望むべきです。 『誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。誰が私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。』(33-34)御子イエスの命を犠牲になさってまで、主の民を呼び出され、導かれた神。この神が私たちと共に歩んでくださる限り、私たちは信徒の苦難の中でも希望を見つけることが出来ます。私たちの苦難は、すでにキリストがご経験なさった苦難であり、主は誰よりも私たちの苦難を知っておられる方であります。『私を殺せない苦難は、私をさらに強く鍛えさせる。』という言葉があります。このように、キリストと一緒に受ける苦難は、私たちをさらに強く鍛えるものであり、終わりの日、神の相続人として主に召された私たちは、その苦難によって輝かしい勝利を得るようになるでしょう。『誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。』(35)主なる神はキリスト・イエスの愛によって私たちを世の終わりまでお守りくださり、勝利を与えてくださるでしょう。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

わたしの一番いいものを。

箴言 3章9-10節(旧993頁) マルコによる福音書 14章3-9節(新90頁) 前置き 先日、エフェソの信徒への手紙の説教が終わりました。今年、エフェソ書の説教をした理由は、エフェソ書が、志免教会の今年のテーマである「教会とは何か?」と深い関りがあるからでした。そのため、今年初までしていたマルコによる福音書の説教をしばらく休んで、エフェソ書について話してきたのです。私たちはエフェソ書を通じて、教会とは何かについて十分に考えることが出来たと思います。それでは、今週からは、また、マルコの福音書の残りの箇所を説教していきたいと思います。今日、探ってみようとしている箇所は「イエスの頭に香油を注ぎかけたベタニアの女」です。この本文を通して「私の一番良いものを」という題で話してみましょう。今日の本文を通して、主は私たちに何を教えてくださるでしょうか? 1。ベタニアにおられる主なる神。 「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(マルコ14:3) イエスが十字架につけられる数日前、主はべタニアの重い皮膚病(ハンセン病)の人だったシモンの家に行き、食事の席に着かれました。名前からも分かるように、シモンはかつてハンセン病者だったようです。律法によると、ハンセン病者は必ずイスラエルから隔離しなければなりませんでした。しかし、それでも、純粋なユダヤ人だった主イエスは、彼の家に入り、一緒に食事されたのです。食事の席に着くというのは、一緒に飲み食いする人と深い関係を結ぶという意味です。もちろん、学者たちはシモンがすでにイエスによって癒され、正常になっていたと言います。そして、おそらく彼は本当に回復していたでしょう。もし、彼が依然としてハンセン病者だったら、律法のため、イエスを除いてみんなが彼の家に入ろうとしなかったはずだからです。ハンセン病から治ったとしても、人々は気軽に彼の家に入ろうとしなかったでしょう。しかし、イエスは全くお気になさらず、シモンの家に入り、彼と食事の交わりをなさいました。神の呪いのようなハンセン病によって隔離され、嫌われ、結局は寂しく死んでいくはずだったシモンは、イエスによって癒され、再び隣人と共に暮らせるようになったのです。 さて、このシモンの家はエルサレムから東へ約4-5km離れていた「べタニア」にありました。べタニアはアラム語(当時、エルサレム地域の人が主に使っていた言葉)で「貧しい者の家」という意味で、べタニアの近くには、ハンセン病者の隔離地域があったと言われます。イエス·キリストは、何のためらいもなくハンセン病にかかった者たちの地域から近いべタニアに行き、貧しい者たちを慰め、ハンセン病にかかった者たちを治してくださったのです。当時、ユダヤ教の人々はイエスを軽蔑して「徴税人や罪人の仲間だ。」と呼びました。ユダヤ人にとって、そのようなあだ名は呪いのようなものでした。しかし、イエス·キリストは、喜んで「徴税人や罪人の仲間」すなわち「疎外された者の友人」になってくださいました。イエスは華やかなエルサレムの王宮、あるいは、聖なるエルサレムの神殿ではなく、汚く、貧しく、疎外された「罪人のところ」におられたのです。神であるイエスは、寒くて汚くて臭いがする「飼い葉おけ」に生まれ、いつも低くて疎外されたところにおり、最後まで貧しいところ、罪人たちのところ、低いところにおられたのです。今日の本文のその日、神であるイエス·キリストは、べタニアにおられました。そして、貧しくて辛くて悲しい者たちと一緒にいてくださいました。私たちの主が生前初中いらっしゃった所、そこは、低くて貧しいところでした。 2.キリストに香油を注ぎかけた女。 「一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(マルコ14:3) 主がシモンの家で食事される時、一人の女がイエスのところに来て、300デナリオン以上のナルド香油をイエスの頭に注ぎかけました。ナルドとはイスラエル地域には育たない、現在のインド、ヒマラヤ山脈に育つ非常に貴重な植物だと言われます。当時、元気な男性労働者1人の一日労賃が1デナリオンだったということですから、300デナリオンなら、ほぼ1年の給料に当たる大きい金額だったでしょう。おそらく、そんなに富んでない彼女は、長い間、貯めてきたお金で高い香油を買ってイエスのためにささげたでしょう。低いところで貧しくて苦しい人々とおられた主のために、女は自分の一番良いものを差し上げたでしょう。「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。そして、彼女を厳しくとがめた。」(4-5) すると、人々は驚いて憤慨しました。常識的に考えてみても、いっぺんに、値の高いものを使い切るよりは、それを売って他の貧しい者たちを助けたほうが、さらに有意義だったかもしれません。しかし、主は彼女をとがめる人々にこう言われました。 「イエスは言われた。するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」(6) その理由は十字架にて、人類の罪を背負って亡くなられるイエス·キリストの犠牲を記念するために、彼女が自分の一番良いものを主にささげたと、主が知っておられたからです。「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」(8) そして、イエスに自分の最も良いものを差し上げた、この女の行為が、福音が宣べ伝えられるすべてのところに共に伝えられると言われました。「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(9) イスラエルの多くの人々はイエスに「してください。」と要求ばかりしていたでしょう。イエスの存在自体を讃美し、その方の御救いと犠牲を記念しようとする人は多くなかったと思います。主の弟子たちでさえ、各々の野望と必要のために、主に従ったからです。しかし、この女はいかなる条件も要求もなく、ただ、イエスとその犠牲とを記念するために、自分の大事なものをささげました。ある女が「油注がれた者メシア、イエス」に、実際に油を注ぎかけることで、イエスが自分の主であり、キリストであることを公に告白したのです。そして、主はこの女の行為が福音が宣べ伝えられるすべての場所で憶えられるようにしてくださいました。 3.私の一番良いものを。 今日の本文で重要なことは、主に高値のものをささげなさいということでも、自分のすべてを一つも残さず、すべてささげなさいということでもありません。べタニアの女の香油は高いものでしたが、それを文字通りにして、現実に適用しろという意味ではありません。時には異端団体、いや普通の教会でも度を越えた献金を要求することがあると思います。たくさんの献金を持ってきて神を喜ばせという望ましくない説教をする牧師もきっと世の中にはいると思います。しかし、今日の本文は、それとは違います。私は皆さんが自分の出来る範囲で日常生活に差支えのないくらい、主がくださる心に従って献金することを積極的にお勧めします。つまり、今日の本文は献金の大小の問題ではないということです。私たちが主をどれほど憶え、記念し、仕えているかという問題でしょう。主が私たちと一緒におられることを常に憶えているか? 主が私たちの命の主であることを認めているか? 主が私たちの罪を赦し救ってくださったことを信じているか? 私たちの心を主だけにささげているか? 私たちの命を尽くして主の御心と御言葉に聞き従って生きているか? 私たちの一番良いもの、私たちの心、私たちの生命、私たちの意志、私たちの愛を主にささげているかどうかとの問題なのです。 主は貧しい女に高い香油という重荷のような献物を求められたわけではありません。ただ、十字架で死んでいくご自分への愛、奉仕、女の信仰と心をお受けになったわけです。高値の物でなくても、主は神殿でレプトン銅貨二枚(極めてわずかな献金、マルコ12章)をささげた貧しい女や、五つのパン二匹の魚を出した少年(ヨハネ6章)の心も同じくお受け取りになったでしょう。私たちは主に私たちの心、愛、生命の主権、純粋な信仰をささげているでしょうか? 私たちの情熱的な教会での奉仕と多くの献金も、時には必要であるかもしれませんが、それよりさらに大事なもの、つまり、私たちの真心を主にささげていきたいと思います。大金、高価なもの、負担のかかる献物がすべてではありません。主への私たちの真心、私たちの一生をキリストの栄光のために生きると誓うこと、主が命じた御言葉に従順に生きること、神と隣人に仕えて生きること。そのような私たちの真心と愛が、今日、主に香油を注ぎかけた女のように、主の心を喜ばせる真の献物ではないでしょうか。 締め括り 「それぞれの収穫物の初物をささげ、豊かに持っている中からささげて主を敬え。そうすれば、主はあなたの倉に穀物を満たし、搾り場に新しい酒を溢れさせてくださる。」(箴言3:9‐10) 旧約は「初物」を非常に大事に扱います。神がくださった初めての恵みだと思うからです。つまり、一番良いもの、大事なものということです。私たちにとって最も大事なものを神にささげること、それもある意味で旧約のこのような「初物」に似ているのではないでしょうか? 私たちの一番良いものは高価のものでも、多くのお金でもありません。一番良いものは、神を最も愛しようとする私たちの心構えであり、何よりも神への私たちの真心ではないでしょうか。今日、香油を注ぎかけた女を見て、私たちの一番良いものとは何であり、神に何をささければいいだろうかと考えてみる機会であることを願います。神に一番良いものをささげることが出来る志免教会の兄弟姉妹であることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

十の災い。

出エジプト記 7章4-5節(旧103頁) ヨハネの黙示録 20章11-12節(新477頁) 前置き モーセは失敗者でした。40代の若い頃、エジプト王女の養子だったモーセは、自分の政治的な力でイスラエルを解放しようとしました。しかし、彼は血気によって同胞を苦しめるエジプト人を殺してしまい、そんなモーセへのイスラエル人の支持もなかったので、結局エジプトから逃げてしまいました。40年後、彼は神に呼び出され、再びイスラエルの解放のためにファラオの前に立つことになりました。しかし、彼はまた失敗します。ファラオはイスラエルの解放を承認するどころか、むしろさらに苦しめるだけでした。モーセは解放の成就も、周りからの歓呼もなく、同胞に恨まれるようになってしまいました。若い頃の失敗と今の失敗、二回の失敗を経験したモーセには、もはや人間的な野望もやる気もなくなりました。そのようにモーセが最も落ち込んだ時、神は彼にイスラエルの解放を必ず成し遂げると約束されました。神の民が最も弱くなった時、神の御業は始まります。私たちの失敗は、主による私たちの勝利をさらに輝かせる絶好の機会です。失敗と絶望の時こそ、主なる神が私たちの人生に最も積極的に介入してくださる時です。私たちが最もみすぼらしくなった時、その時が神のお導きに一番近い時です。 1.神の災いへの理解。 イスラエルの解放のために、主なる神がご計画なさったのはエジプトへの十の災い(裁き)でした。「わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。」(出エジプト7:4)、そして、その裁き(審判)の方式はエジプトへの十の災いでした。十の災いの詳細については、後ほど話すことにして、まずは神と災いについて話してみたいと思います。私は先ほど、イスラエルの解放のために、主なる神がご計画なさったのはエジプトへの十の災い(裁き)だったと言いました。ここで私たちは、神の裁きと災いが誰に向けたものであるかを理解する必要があります。最近、水曜祈祷会でヨハネの黙示録を学んでいますが、私たちは黙示録を思い出すと、ふと恐怖を感じます。恐ろしい災いと神の裁きが記された書だからです。しかし、詳しく読んでみると黙示録の災いと裁きが神の民に向けられているものではなく、神に逆らう悪へのものであることが分かります。その災いは恐ろしいでしょうが、災いの対象が、主の民ではなく、神の敵に対する裁きであるということです。さて、黙示録は多くの部分、出エジプト記の影響を受けました。そのため、黙示録の災いは出エジプト記の十の災いとも関りがあるということです。イスラエルは神の民、すなわち教会を反映し、エジプト帝国は神に逆らう悪の勢力を反映するのです。 したがって、私たちは出エジプト記の十の災いが、神に逆らう悪への裁きであることを憶えなければなりません。それは私たちへの裁きではなく、滅びるべき悪への裁きなのです。罪によって歪んでしまった世界は、死、悲しみ、苦しみに満ちています。時には私たちの人生にも災いのような苦しみが襲ってき、神を恨むようになる場合もあります。神を信じるといっても、依然としての私たちの人生の辛さはよくあることです。しかし、神は決して私たちに災いを与えられる方ではありません。神は独り子を犠牲になさるだけに、私たちを愛してくださる方です。ただし、私たちが生きるこの世の罪と悪によって、私たちが感じる苦しみを神による災いであると誤解するのです。私たちはやむを得ず、この悪の世界に生き、苦しみを経験しなければならない時もあります。しかし、その苦しみは神からの災いでも、裁きでもありません。むしろ、神は罪と悪を裁かれる方です。そして、主なる神は災いのような苦しみの中でも、私たちを絶対に諦めず、見守ってくださる方です。終わりの日、私たちが主なる神の前に立つ時、神は私たちを慰め、永遠の喜びによって報いてくださるでしょう。ですから、神を誤解しないようにしましょう。神は悪の世界を裁かれる方であり、むしろ、その裁きの炎からご自分の民を守ってくださる方であることを忘れてはなりません。 2.十の災いと裁き 神は、ご自分の民であるイスラエル(教会)を邪悪なエジプト(罪)から救ってくださるために、災いを伴う裁きを下されました。十の災いについての出エジプト記の記録は、7章から12章まで非常に長いです。したがって、これらのすべての災いを一度に説教するのは無理であり、何度に分けて説教するのも、内容が重なるため、かなり退屈になると思います。ですから、今日の一度の説教で手短に取り上げ、詳細な内容は皆さんに本文を読んでいただくことで振替したいと思います。それでは、十の災いについて考えてみましょう。①川の水が血に変わる災い(7:14-25)、生命の根源であるナイル川(水)を司る神ハピへの裁き ②蛙の災い(8:1-15)、富と多産の女神ヘケトへの裁き、自分の偶像に苦しめられる裁き。 ③ぶよ(蚋)の災い(8:16-19)、大地の神ゲブへの裁き。エジプト全土の塵がぶよになる。これからはエジプトの魔術師でも真似できない。神だけの権能  ④あぶ(虻)の災い(8:20-32)、日の出の神ケプリへの審判。時間を司る神。(カエル、ぶよ、あぶへの裁きは、水、地、空の神々の無力化を象徴) ⑤疫病の災い(9:1-7)、農業を助ける家畜の神アピスへの裁き ⑥はれ物の災い(9:8-12)、癒しの神ネフェルトゥムへの裁き、真の癒しは主なる神だけにある。 ⑦雹の災い(9:13-35)、天空の神ホルスへの裁き、エジプト人が死んだ最初の裁き。予告があり、御言葉を恐れた人は生き、無視した人は死んだ。 ⑧イナゴの災い(10:1-20)、農作物を荒れ果てさせるイナゴの群れの襲来。雹の害を免れた残りのものを食い荒らした。戦争の神セトへの裁き。(戦争とイナゴの関係は不明)⑨暗闇の災い(10:21-29)、太陽の神を主神とあがめるエジプトから太陽が消えた。エジプトの偶像の無力さを示す災い。太陽の神ラ-への裁き ⑩死の災い。人間、家畜を問わず、初産は死んだ。王位を継承するべきファラオの子も死んだ。エジプトの賢人神であったファラオも神の権能に無力だった。地上の太陽神と呼ばれたファラオへの裁き。以上が十の災いの持つ意味です。この意味は、神に逆らうエジプトと共に、彼らがあがめていた数多くの偶像への災いであり、ただイスラエルの神だけが真の神、絶対者であることを示す出来事でした。これらにより、エジプトはイスラエルの神が真の神であることを認めざるを得なくなりました。特別な点は、これらの災いの中で、イスラエルも恐ろしい裁きを目撃したが、イスラエル人の地域は、これらの災いを避けたということです。神が恐ろしい災いの裁きから、主の民を守ってくださったからです。 3.神の裁きへの教会の理解。 私たちは、神という存在を考える時、ひたすら、愛ばかりでいっぱいの方だと誤解しやすいです。しかし、聖書は神は愛の神でもあるが、裁きの神でもあると述べています。主なる神に自分の罪を告げ、聞き従う者には愛の神ですが、逆らって罪を犯し続ける者には、裁きの神であるのです。「ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」(出7:4-5) 神はこのように、裁きによって、神に逆らうすべての存在に神が真の主であると教えてくださるのです。したがって、主の民である私たちは神の裁きに恐怖を感じるより、この裁きがあるからこそ、主の民である私たちの救いがより明確になり、神の偉大さをより一層知るようになるということを憶えるべきです。今日の新約の本文を読んでみます。「わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。」(黙示録20:11-12) すべての存在は、いつか神の御前に立ち、裁きを受けることになるでしょう。身分の高い者、低い者、白人、黒人、東洋人、信者、未信者を問わず、すべての存在は神の御前に立つことになります。その時、私たちはキリストによって神の民であることが証明され、神に受け入れられるようになるでしょう。ですから、裁きは恐ろしさばかりのことではありません。主の民にとっては、自分の身分を証明する救いの道具となるのです。しかし、神に逆らった存在には滅びの道具になるでしょう。エジプトにとっては、恐ろしい裁きだった災いが、イスラエルにとっては、エジプトからの解放の道具だったことを憶えてください。そのような裁きの両面性を理解する私たちにならなければなりません。神は裁きの時に各人の行いを測られるでしょう。ここで行いとは、救いを得るために私たちの努力を意味するわけではありません。救いは、たったキリストの恵みだけによって与えられるからです。ただ、キリストに寄りかかり、神に聞き従う者とキリストを拒否し、神に逆らう者を見分けて裁くという意味です。 それによって、永遠の命の者と永遠の死の者が分けられるでしょう。 締め括り 今は終末の時代です。キリストの到来以来、終末の時代は長く続いてきました。神は一人でも多くの命を救われるために、こんなに長い終末の時代を許されたのです。そして、いつかは必ずこの世を裁くために再臨なさるでしょう。その裁きの日の後、神は新しい天と新しい地で、主の民に真の喜びと幸せをくださるでしょう。このような終末の時代に、私たちは神の裁きの意味を正しく知り、神の御旨に適う存在として生きていくべきでしょう。最後に、日本キリスト教会の大信仰問答に書いてある裁きの項目を読んで説教を終わりたいと思います。「問283 終わりの日は、罪びとにとっては、恐ろしい審判の日ですか。」「答 そうです。聖霊の執り成しをしりぞけ、あくまでも神に従わない者には、呪いと永遠の刑罰とが宣告される日です。しかし、主イエス・キリストの十字架の贖いを信じる者には待望の日です。なぜなら、私たちの罪に対する呪いと刑罰とは、キリストによって負われ、赦されているからです。」 父と子と聖霊の御名によって、アーメン。

信仰の戦い。

旧約本文はありません。 エフェソの信徒への手紙6章10-20節(新359頁) 前置き 今日は、エフェソ書の最後の説教です。今年、私が考える一番大事なテーマは「教会とは何か?」です。エフェソ書は、教会の意義について明確に教えてくれます。「天地創造の前から神にあらかじめ定めされ、キリストによって救われ、その御旨に適って生きるキリストの体なる共同体。」これが教会の意義です。したがって、教会は神の御心によってキリストの民となった、キリストと共に歩まなければならない存在です。この世の思想、生き方ではなく、キリストの御心と生き方に聞き従わなければならない存在です。私たちは、この日本の地に住んでいますが、実は主の御国に属する存在です。この地にいるが、実は天に属している存在、それがキリストの体なる共同体、教会のアイデンティティなのです。今日の本文は、その教会を成すキリスト者の信仰生活について、特に「信仰の戦い」について語ります。最近、多くの兄弟姉妹が体や心の疲れと痛みを感じています。今日の本文を通じて、このような状況を乗り越え、また進んでいけるエネルギーを主なる神に与えていただくことを祈ります。 1. 血肉の戦いではなく、霊の戦いを。 「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソ6:12) 戦いは良くないというのが常識です。聖書も隣人への愛、さらに自分の敵への愛までも命じます。できるだけ、忍耐してどんな形でも戦わないことが望ましいです。しかし、聖書が勧める戦いがあります。それは霊の戦いです。今日の本文6章11節は、その戦いが血と肉の戦いではなく、悪の霊たちを相手にすることだと語ります。天にいる悪の諸霊、つまり悪魔を意味します。しかし、聖書が語る悪魔は、映画に登場する怪物のような存在のことではありません。昔のヘブライ人のある文献には、これらの悪魔は堕落した天使であると記してあります。そして、彼らは神に逆らう存在です。彼らは神の座を奪い取るために神を裏切り、神の罰を受けた堕落天使、すなわち悪魔になったとあります。このような悪魔の働きは創世記のアダムとエヴァを誘惑した蛇、ヨブ記のサタンのような存在から現れます。新約聖書にも悪魔についての言及があるほどです。実に悪魔はいると思います。しかし、私たちは悪魔が私たちの人生を操り、強制的に私たちを罪に追い込む存在だと考えてはなりません。「悪魔の誘惑」という言葉があるように、確かに神に逆らう者、悪魔は人間を罪へと誘惑します。しかし、その罪を選ぶのは悪魔ではなく、人間そのものです。 古代のヘブライ人たちは、天使と悪魔が本当にいる霊的な存在ではあるが、それと共に人間も、神に従う者が即ち天使のような者であり、神に逆らう者が即ち悪魔のような者だと考えました。第3の存在である天使や悪魔に自分の責任を転嫁してはならず、人間そのものが、生き方によって天使にもなれ、悪魔にもなれるという見解だったと思います。 ですので、霊の戦いとは、ある意味、悪魔という霊的な存在との戦いだけでなく、悪と罪によって誘惑され、神に逆らうようになり得る、人間自分自身との戦いとも言えると思います。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ福音書16:33) イエス•キリストは「わたしは既に世に勝っている。(悪の権勢に勝利している。)」と言われました。つまり、主と悪の戦いは、すでに終わり、結果は決まっています。主イエスが勝利され、この世はそのイエスの支配下にあるのです。つまり、すでに勝利した戦場です。したがって、主の民である私たちも、主によって、すでに勝利したのです。しかし、聖書は私たちにまだ残っている悪と罪の本性に躓かないよう、それと戦って勝つことを命じます。勝利者として、勝利者にふさわしい人生を勧めているのです。だから、霊の戦いは自分自身の罪との戦いです。誘惑と勝利の中で、私たちが取るべき生き方を選んで生き続けること。それがまさに霊の戦い、信仰の戦いなのです。 2. 神の武具を身に着けなさい。 「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ書6:11,13) 今日の本文は、霊の戦いに勝利する人生のために「神の武具」を身に着けることを命じます。「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(14-17)、その神の武具は次の通りです。真理の帯、正義を胸当て、平和の福音の履物、信仰の盾、救いの兜、そして最も重要な(聖)霊の剣、すなわち神の御言葉なのです。このような武具は、古代ローマの兵隊の姿と似ています。①真理とは変わらない主の御心を意味します。ひとえに神だけが勝利者であり、真の主であるという変わらない事実のことです。ローマ軍兵の帯は現代のものとは異なります。それは腰を支えて強い力で武器を振るうようにする武具です。真理に立って主の御心に頼る時、強い信頼の力を発するようになるということです。 ②正義(義、正しさ)とは、キリストによる、天地創造の摂理に忠実な模様です。つまり、神に属している欠けることのない完全さを意味します。人間はたとえ罪によって不完全であっても、主イエスの義によって完全な者と見なされ、神に認められるという意味です。胸当ては心臓を守る鎧のことです。私たちは生まれつき罪人ですが、キリストの義は私たちを正しい者と認めさせます。私自身は自分を義にすることが出来ないが、キリストの義は、私たちを罪人ではなく正しい者とさせる唯一の原動力になります。 ③平和とは、神と隣人との和解を意味します。平和の福音の履物は、キリストの福音によって、神と隣人を愛し、真の和解を成し遂げていけるようにします。隣人を憎むということは、血肉の戦いを意味します。しかし、キリストの平和が私たちと共にあり、それを私たちの履物とする時、私たちは隣人を愛することで血肉の戦いを避け、霊の戦いだけに集中できる人生を生きていけるようになります。 ④そして、また大事な私たちの武具は信仰の盾です。盾は矢と刃物を防ぐ防具です。世は私たちに否定的で不信心の思想を絶えず伝えます。悪魔は私たちに死と堕落の生き方と思想をそそのかします。しかし、主への堅い信仰の盾があるなら、私たちは決して欺かれずに、主の御心だけに従って生きるようになるでしょう。 ⑤救いの兜、兜は勝利を象徴します。ローマ時代、戦争に勝利した将軍は、月桂冠をかぶって行進しました。キリストの救いによって、私たちはすでに勝利した存在です。時々、人生の辛さや試練によって自分自身が負け犬のように感じられる時もあります。しかし、主による私たちの勝利を忘れてはなりません。自分の状態を見る前に、主がどんな状態でおられるかを憶えましょう。主イエス•キリストはすでに勝利した方です。⑥最後に最も大事な武具は、私たちの武器、聖霊の剣です。今日の本文は、聖霊の剣が、神の言葉であると語ります。神の言葉は力が強いです。この世は私たちが敗北者だと非難していますが、主の言葉は、私たちが勝利者だと応援しています。この世は私たちが失敗したと言いますが、主の言葉は私たちが成功していると言います。この世は皆が私たちを憎んでいると語りますが、主の御言葉は私たちが神に愛されていると語ります。自分の考え、世の考えに呑みこまれて迷っている時に、主の御言葉は、私たちの考えを新たにし、神の御心どおりに進むように導きます。したがって、神の御言葉は私たちの唯一の信仰の武器、聖霊の武器なのです。自分の考えを盲信しないでください。ひたすら、主の御言葉だけを信じるのです。以上、6つの神の武具を通して、私たちはすでに勝利された、主に従ってこの世を生きていくのです。 3. 祈りによって生きる勝利の人生。 そして、本文は、その神の武具による信仰の人生に、祈りが伴うと語ります。祈りは神と私たちのコミュニケーションです。ひざまずいて両手を合わせて敬虔にすることも祈りですが、私たちの人生のすべてにおいて、神に助けを求め、神の御心を待ち望み、主の御言葉通りに生きようとすることも祈りです。神とつながり、神の後をついていくことが、まさに祈りの人生なのです。このような人生を通してキリスト者は勝利を保ち、その共同体である教会も勝利することになるでしょう。「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。」(19) 最後に本文は、つまりパウロは自分のためにも祈ってくれと求めます。神と私たちのコミュニケーションとしての祈りだけでなく、私たちの兄弟姉妹のための祈りも大事です。それによって主の教会を健全に立てていくのです。神の武具によって信仰を守り、神の言葉の剣で罪と悪に勝ち、祈りによって神とつながり、祈りによって兄弟姉妹を助ける人生。それがエフェソ書が勧める教会の望ましい生き方ではないでしょうか? それがまさに勝利の人生ではないでしょうか? 締め括り この頃、体と心の痛みと疲れで苦しんでいる兄弟姉妹がおられます。 入院、体調不良、心の試練、家族の病気、自分の病気で思い煩いの方がおられます。しかし、そのような時、主に寄りかかり、躓かず、あきらめず、再び立ち上がって前に進むことを、聖書は勧めています。 私たちは弱くても、私たちの主であるキリストは永遠に変わらないからです。自分の状況ではなく、神の導きを憶え、自分は弱くても、神は変わることなく勝利者であることを憶えて、信仰の人生を生きていきたいと思います。そのような人生のために、今日の本文は神の武具と祈りの人生を話しているのです。私たちはすでにキリストによって勝利した者です。それが教会という共同体の意義なのです。したがって、最後までキリストの勝利を信じ、主に従って生きる私たちであることを祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

聖餐について考える。

出エジプト記 24章1-11節(旧134頁) ルカによる福音書22章19-20節(新154頁) 前置き 「生きるために食べよ、食べるために生きてはならない。」古代ギリシャの哲学者であるソクラテスの言葉だと言われます。これは単純に何かを食べるという意味ではなく、食べるという言葉で象徴される人間の欲望について、その欲望にとらわれず、人間らしく生きなさいという意味だと思います。このように、食べるということは、人間の本能的な欲望を表す行為でもあります。人は食べなくては生きることが出来ない存在です。食べる行為は、人間の欲望と生存の間でハラハラする綱渡りのような、深い意味を持つ本能です。食べるという行為は、人間の生命と直結する問題です。ですから、私たちは、いつも食べることについて、深い関心を持って生きるべきです。食べることは、人間の善と悪を包括する善と悪の両面性を持つ行為です。私たちは、この食べるという行為を通して、神から祝福され、また、裁かれます。今日は教会の最も代表的な食べる行為である聖餐について考えてみたいと思います。なぜ、神は聖餐という食べる行為を通して、私たちの信仰を告白させ、教会を立てていかれるのでしょうか。 1.変質した『食べる』という行為。 神は人間の創造の時「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」と祝福されました。そして、まもなく「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。」と言われました。神が人間を造られた理由は、人間が栄え、地に満ちて、世界を支配し、それによって神に礼拝することを望んでおられたからです。神はそのような人間に「食べる」という行為を祝福としてくださったのです。人間にとって食事とは、他の被造物を支配し、神に仕える力を得るための祝福です。このような意味から考えてみれば、この食事という概念は、単に自分の欲望を満たす、ただの快楽だけのための行為でないことが分かります。食事は、人間が世界を正しく支配するために、神に与えられた祝福なのです。人間は世界の正しい支配によって、神を崇め、神に栄光を帰すために食べるのです。創世記1章28節の「支配する」という言葉は、暴力的な征服や抑圧とは違います。戦争して略奪するという意味でもありません。初めの人は罪のない存在で、一切不正な行為、罪を伴う行為を犯さない存在でした。 彼らの中に神の形が完全に残っており、罪から自由な状態でした。そのような状態の者の『支配』は、暴力や戦争のようなものではなく、神のように被造物を見守り、治めることだったのです。神は暴力や、抑圧ではなく、愛と正義とで被造物を支配されるからです。食事を通して力を得た最初の人間は愛と正義を持って他の被造物を守り、そのような行為を通して神に栄光を帰す存在でした。ということで、食べるということは、単に欲望を満たす行為ではありませんでした。善を行うための、神の賜物であり、正しい支配の原動力だったのです。しかし、この聖なる行為、食べる行為が、人間の罪によって変質しました。アダムは神の座を奪おうとの欲望で、神が禁じられた「知識の木の実」を取って食べてしまいました。愛と正義を行うために何かを食べたのではなく、もっぱら自分の欲望と必要のために食べたのです。その瞬間、この世に罪が入ってきたのです。食べることで罪を犯したわけです。神の栄光のために善を行うための食べるという行為ではなく、自分の欲望を満たすための行為としての『食べる』に変質したわけです。生命の行為が、死の行為に変わりました。祝福のための行為が、呪いをもたらす行為となってしまったのです。 2.食べることの大事さ。 というわけで、聖書に出て来る「飲み食い」とは、祝福と呪い、両面性を持つ言葉なのです。イエスはルカによる福音書17:27で「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。」と言われました。神の祝福のために人間に与えられた「食べる」という行為が罪のゆえに人間の邪悪な欲望の象徴となったのです。この食べるという人間の本能のため、この世には、多くの悲劇が起こりました。ローマのような古代の帝国も、最初は小さな村からでした。肥えた土地で平和に住んでいた小さな部族は、少しづつ人口の増加を経験し、食糧が足りなくなってきました。とういうことで、自分の部族を保たせるために、隣の村を攻め、人々を殺し、食糧を奪い取りました。そのように征服を重ねて、最初の小さな村は大きい帝国になっていきました。数多くの人々が帝国の食べ物のために殺され、多くの国々が略奪されたのです。これが帝国が生まれた過程なのです。神がエデンの園を造られ、最初になさったのは人間に食べ物をくださることでした。人が堕落して神を背いた時、最初に消えたのも食べ物でした。 「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。 お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。 お前は顔に汗を流してパンを得る。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3:17-19) 食べ物は楽に得られるものではありません。食べるというのは神の祝福です。神が食べ物をくださらなければ、人間は食べるもののために、他者に害を及ぼす存在となるのです。神は呪われた人間に一生労して、食べ物を得よと命じられましたが、人間の罪はその労苦の代わりに他者への暴力による解決を選んだのです。食べるために他者を殺し、破壊したのです。これが帝国主義の始終です。このような世の中で、神はご自分の民イスラエルを呼び出されたのです。自分の食べ物のためにイスラエルを弾圧したエジプトからイスラエルを救い出されたのです。神は彼らにマナとウズラと水をくださいました。そして、乳と蜜の流れる土地にまで導かれたのです。神は主の正しい民を育てようとイスラエルに食べ物をくださったのです。今日の本文で神はモーセと祭司と70人の長老たちを呼び集められました。イスラエルは神と共に飲み食い、神の民として生まれ変わりました。他者の食べ物を奪い取る時代に神は真の食べ物をイスラエルにくださったのです。 3.聖餐 – 食べることによって、新たに始まる交わり。 私たちの聖餐は、食べ物をくださる神の恵みに似ています。神が許された食べるという行為を通して、民が主の恵みを憶える礼典です。罪によって汚れた食べるという行為から脱し、純粋に神と和解し、隣人と一緒に交わるようになる生命の行為です。イエスは十字架につけられる前夜、弟子たちを呼び集め、過越祭の晩餐を施されました。『主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 感謝の祈りをささげてそれを裂き、これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさいと言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさいと言われました。』(コリント11:23-25)初めに人が食べて犯した罪を、新しく「食べる」ということによって解決されるため、イエスはご自分の血を象徴する杯と、ご自分の肉を象徴するパンとを弟子たちに食べ物としてくださいました。出エジプト記のモーセと長老たちが神から与えられた食べ物を飲み食いしながら、神と和解したように、イエスは、ご自分の血と肉とを通して人々を召され、契約を結ばれ、神と和解させられたのです。これらの契約の食事を通して神は人間との交わりを求められつつ、人間と人間の美しい交わりを望んでおらたのです。 私たちは、聖餐の時、杯とパンにあずかります。その食べるという行為を通して、神の民である私たちは、主の御前に立ちます。今もなお、この世の悪は自分の欲望を満たすために何かを食い尽くそうと探し回ります。その食べるということのために周りの人々を苦しめることも頻繁に起こります。自分自身と自分の家族と自分の共同体のために他の人々を苦しめることを当たり前に思う人が、依然として存在します。しかし、神は違う方です。御子イエス・キリストを犠牲にさせ、イエスの血と肉とを象徴するぶどう酒とパンを通して罪人に生命の食べ物を与えてくださいます。神が生命の食べ物をくださるという象徴、私たちも飲み食いして経験する象徴、その象徴が、私たちが行う聖餐なのです。この杯とパンに与かる私たちは、キリストの血と肉を分かち合い、キリストの体として生まれ変わります。そして、これからは自分の欲望のために悪を満たす生き方を捨てて、キリストの愛と正義を通して善を行うために生きていく人生を誓うのです。このような私たちに神は永遠の命の約束を与えられたのです。これらの聖餐の精神の中におられる聖霊が私達に生徒の交わりを味わう恵みを注いでくださるのです。 締め括り。 エデンの園には、知識の木の実のほか、命の木の実もあったと言われます。それは永遠の命を与える木の実だったのです。創世記に記された命の木の実は、真の救いと恵みを意味するシンボルです。無くなった神の園に永遠の命があったということです。しかし、罪によって追い出されたアダムはその命の木の実を食べることができなくなってしまいました。言い換えれば永遠の死にさらされたということです。しかし、神はイエス・キリストを通して、私たちが永遠の命を得ることが出来る機会を与えてくださいました。肉体は死んでも、魂は生き残って神と共におり、終わりの日には肉体の復活を通して、罪のない完全な体を取り戻して神の国で永遠に生きることです。その無くなった命の木の実として、私たちにイエス・キリストをくださったのです。私たちが、聖餐に与かり、主イエスの肉と血を飲み食いすることは、この失われた命の木の実を食べるのと同じことです。失った命の木の実を、イエス・キリストによって再び食べるということです。聖餐を食べる行為の意味を顧み、欲望のためではなく、善を行うために食べる人生であることを望みます。キリストの肉と血を分かち合う、私たちは正しくこの世を支配して神の愛と正義に満ちた世界を造るために聖餐に臨むべきであります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。