教会はキリストの体。

詩編33編12節(旧864頁) エフェソの信徒への手紙 1章15~23節(新352頁) 前置き 前回の本文の内容を手短に話してから説教に入りましょう。キリスト者は天地創造の前に、神の予定により、キリストにおいて選ばれ、教会に召された者です。キリスト者が神に選ばれ、教会に召された理由は、キリストによって与えられた神の輝かしい恵みをたたえるためです。神はキリスト者をお呼びになるために、御子イエスを十字架にかけられ、その贖いによってキリスト者をお買取りなさいました。また、神は十字架で死んだキリストを復活させられ、その方に世界を支配する権勢を与え、その方を神の真の相続人にしてくださいました。ですので、キリストは教会だけでなく、この世のすべての頭でもある方です。そして、神はキリストの贖いによって買い取られたキリスト者にも、主イエスの肢として主と共に神の相続人と呼ばれる光栄を与えてくださいました。したがって、キリスト者はキリストによって天地創造の前から選ばれた神の相続人として、主のご計画への堅い信仰で生きるべき存在です。志免教会はとても小さな群れですが、私たちをお呼びくださった大きな神の相続人なのです。その資格にふさわしく生きる私たちでありますよう祈ります。 1.「パウロの感謝の祈り」(15-16節) 前回の本文でパウロは、キリスト者が、どのようにして神に選ばれ、教会に召されるようになったのかについて話しました。パウロはまた、この手紙の受取人であるエフェソ教会も、そのように神に選ばれ、キリストによって神の相続人となったことを喜び感謝しています。「こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。」(エフェソ1:15-16) パウロはすべて4回の宣教旅行をしたと知られていますが、エフェソ教会は3番目の宣教旅行の時、パウロによって開拓された教会です。つまりエフェソ教会はパウロにとって自分の子供のような教会なのです。ちなみに2番目の宣教旅行の時には、コリント教会が開拓されたんですが、いろいろなトラブルで問題だったコリント教会とは違い、エフェソ教会は比較的に健全な教会だったと思われます。(比較的と書いた理由は、ヨハネの黙示録2章に描かれたエフェソ教会は主イエスの称賛と叱責を共に受けているからです。) パウロは今日の本文の15節と16節で、このエフェソ教会のために絶えず感謝の祈りをしていると言いました。 パウロはエフェソ教会の信仰と愛の便りを聞いて心から喜んでいたようです。おそらくパウロは天地創造の前に神に選ばれた存在であり、キリストの体であるエフェソ教会が、信仰と愛とによって健全に進んでいることに喜んだでしょう。私たちはこれを通じて神に選ばれた主の教会のあり方が「信仰と愛」にあることが分かります。信仰と愛の欠けた教会は虚しいです。主への信仰と隣人への愛、それこそが私たち教会が自らを証明する大事な基準なのです。それでは、パウロの祈りはどういうものだったでしょうか。彼は4番目宣教旅行以後、ローマの監獄でエフェソ書を書いたと知られていますが、彼は長い時間エフェソ教会を訪問できなかったにもかかわらず、自分の子供のようなエフェソ教会を愛し、覚えつつ祈ったのです。私たちは、こパウロの祈りを通じて何を祈るべきかを教えてもらいます。パウロは投獄され、いつどうなるかも分からない状態だったにもかかわらず、エフェソ教会の信仰と愛の便りを聞いて喜びつつ感謝の祈りを捧げました。私たちは隣の教会のために、どれくらい祈っているでしょうか? いつも自分あるいは我が教会だけのために祈っているのではないでしょうか? 私たちもまた、自分の状況を問わず、エフェソ教会のために祈ったパウロにならいたいです。主への信仰と隣人への愛にあって生きている兄弟と姉妹、そして隣の教会のために喜び感謝しつつ祈る私たちであることを祈ります。 2.信仰と愛の上に立って神の御心を悟っていこう」(17-18節) エフェソ教会の信仰と愛の便りを聞き、喜びと感謝の祈りを捧げたパウロは、エフェソ教会がさらに進み、主において成長していくことを祈ります。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、」(17) まず、パウロはエフェソ教会が「知恵と啓示との霊」によって「神を深く知る」ようにと祈りました。つまり、聖霊のお導きによって神への知識が増えることを願っているのです。人は自分で神を知ることが出来ません。人間には神との関係を妨げる罪の本性があるからです。つまり、神に教えていただかなければ、人間は絶対に神のことを自分で知ることは出来ないのです。ところで、キリストの贖いと赦しは、このような人間の罪の問題を解決し、聖霊のお導きによって、神を知る道を開きました。キリストに遣わされた聖霊は「神の知恵と啓示」を喜んで教えてくださる方です。私たちは聖霊の照明(光を照らして明らかにしてくださる。)によって聖書の言葉を聞き、悟り、実践しつつ、神のことを知っていきます。本当に信仰と愛とに立っている教会なら、聖霊によって神の御言葉を学び、神のことをますます知っていく健全な教会でなければなりません。人間は神を知ることが出来ませんが、御父と御子によって遣わされた聖霊は、キリストの恵みの中で、私たちに神への知識を喜んで与えてくださいます。 「心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」(18)また、パウロは、主がエフェソ教会の心の目を開かせ、神の招き(神のお呼び)による希望と神の相続人となったキリスト者の受け継ぐもの(神の嗣業)の豊かな栄光を悟らせてくださることを祈ります。「招き(お呼び)」とはキリスト者が天地創造の前から主の予定によってキリストにおいて神の相続人として召されたことであり、「受け継ぐもの(嗣業)の豊かなの栄光」とは、神の相続人となったキリスト者が神に嗣業を受け継いだ栄光を意味するものです。詩篇にはこういう言葉があります。「いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。」(詩編33:12) つまり神の相続人となり、嗣業を受け継いだということは、罪の束縛から自由になり、神と和解し、祝福の中で神の所有となったという意味ではないでしょうか? 旧約聖書の創世記には、エデン(ヘブライ語喜び)の園に住んでいた最初の人の物語が書いてあります。最初の人はエデンで神の相続人のような存在であり、エデンは彼に委ねられた神の受け継ぐもののような場所でした。しかし最初の人は罪によってエデンから追い出され、神の相続人、主の嗣業を受け継ぐ特権を失ってしまいました。そして、その呪いは彼の子孫である全人類に同じく与えられました。しかし、神はキリストを通して人類の罪を赦し、主を信じるすべての者に回復を許してくださいました。だから相続人、受け継ぐものという言葉は、最初の人間が失ったエデンの特権をキリストによって回復するという意味ではないでしょうか? 3.「キリストは教会の頭であり、全世界の頭でもある」(19-23節) つまり、エフェソ教会が、先ほどお話しました主の恵みの中で進んでいくようにと自分の祈りを通して願っているのです。そしてパウロは19節を通して、そのようなすべての恵みが、絶対的な神の力によってなされるということを、神がエフェソ教会に悟らせてくださるように祈ります。「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(19) その後、20節から22節までは、その神の絶対的な力への説明が書いてあります。その「神の絶対的な力」とは、まさにイエス•キリストの御業のことです。パウロはそれを通して、イエス•キリストの十字架での犠牲と復活、そして昇天といった主の御業が、キリスト者において「聖霊のお導きのもとで、神の御言葉を悟らせ、キリストと共に神の相続人として神の嗣業を受け継がせる」原動力であり、神の絶対的な力であることを示します。つまり、パウロはキリストご自身が、神の祝福を私たちに与える神の力であることを証言するのです。「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」(21-22) さらにパウロはこのキリストが教会だけでなく、この世の真の支配者であることを語り、そのキリストがまた教会の頭であると力強く語っているのです。 「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(23)ここで私たちはキリストが教会の頭であるということと、教会がキリストの体であるということの大事さを知ることが出来ます。これまでのエフェソ書1章の内容をまとめてわかりやすく話してみましょう。第一、キリスト者は天地創造の前に神の予定によりキリストにおいて選ばれ、教会に召された。第二、パウロはエフェソ教会が、主に召された教会として信仰と愛とで生きることを喜び、神に感謝した。第三、パウロはさらにエフェソ教会が信仰と愛との上に立ち、聖霊のお導きのもとで神を知るようにと祈った。第四、神のことを知りつつ、エヴェソ教会に与えられた神の招きの希望と神の嗣業が持つ栄光の豊かさに目覚めることを祈った。招きの希望とはキリストによって神の相続人となったことであり、神の嗣業の栄光の豊かさとは神との真の和解と交わりが出来るようになったことを意味する。第五、そのすべての恵みは神の絶対的な力であるキリストによってなされたものである。第六、神はキリストを教会だけでなく、全世界の支配者としてくださった。第七、エフェソ教会は、まさにこのキリストの体なる共同体としてすべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場である。それが昔のエフェソ教会と現在の志免教会のアイデンティティーであります。 締め括り 前回の説教は割と分かりやすいと思いましたが(教会はキリストによって天地創造の前の神の予定通りに召された存在)今日はその教会がどんな存在であるかを説明する、多少複雑な内容だったと思います。いつもパウロの手紙を研究しつつ、パウロの文章の難しさを感じます。しかし、今日の本文から学べる何かがあると思います。今日の説教で最も重要な内容は、私たちにあらゆる恵みを与える神の絶対的な力はイエス·キリストであり、私たち教会はその「神の絶対的な力」である「キリストの体」だということです。全世界の支配者であるキリストは、教会のみを通して、この世の中にご自分の声をお伝えになる方です。世の中のすべての人の分からない神の御心を、教会は聖霊によって知るようになり、世の中に伝えるのです。したがって、私たちは「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」というアイデンティティーを持っているのです。教会は単純に神を信じる人々が集まる同好会のような共同体ではありません。教会はまた建物を指す意味でもありません。私たちは、この世をご支配なさるキリストの福音を、この世に伝える主イエスの体なる共同体です。これからも、パウロの手紙を通じて教会のあり方と真の意味と大事さについて学んでいきたいと思います。私たち志免教会は「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」です。そのアイデンティティを憶えつつ生きる私たちであることを祈ります。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。