過越祭の小羊。

出エジプト記12章3―14節(旧111頁) コリントの信徒への手紙一5章7節(新305頁) 前置き 今日は、アドベント、つまり、今年の待降節の第一の主日です。待降節とは、イエス·キリストのご降臨を待ち望む期間という意味です。これから待降節の4週間、私たちは神でありながら人として、私たちの間に来られた救い主イエスのご誕生を記念し、また終わりの日に再び来られる再臨のイエスを記念してクリスマスを迎えます。今年の始まりから間もないような気がしますが、もう一年が終わりそうな時になっています。私たちと共におられるイエスは、今年も私たちを平安の中で守ってくださいました。イエス·キリストのご降臨と犠牲、愛、御言葉を憶えて、待降節の期間を過ごし、新しい一年を準備していく恵みの12月になることを祈ります。今日は旧約聖書の出エジプト記の言葉を学びますが、偶然にも待降節とよく合う本文ですので、感謝です。神が私たちにお遣わしくださった救いの小羊イエス·キリストの愛と犠牲とを、今日の本文を通じて考えてみる機会になることを祈ります。 1. 最後の災いはなぜ死だったのか? 出エジプト記に出てくる十の災いの最後の裁きは、エジプトの地のすべての初子が滅ぼされる死の災いでした。以前、九の災いが繰り広げられたにもかかわらず、最後まで悔い改めず、神に逆らい続けていたファラオへの神の最後の裁きは、結局死だったのです。死は古今東西を問わず恐ろしい存在です。この世の誰も、死という存在から、絶対に自由ではありません。聖書も死についてこう語っています。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27) この世のどんな価値でも死の前では、その光を失ってしまいます。なぜなら、死はすべてを奪い取り、終わらせる、底なしの闇のようなものだからです。この世には恐ろしいことがたくさんあります。老化、病気、事故など、人間はそれらを恐れています。しかし、それらすべての恐怖の根源は、老化、病気、事故といった事柄の裏に隠れている死という一つの存在のためではないでしょうか。死が恐ろしい理由は、それが終わりだという人間の本能的な感覚があるからではないかと思います。存在の意味がなくなること、存在の価値が消えてしまうこと。それがまさに死の権能だからです。だから、主も死を十の災いの最後の災いとしておかれたかもしれません。最も悲惨で虚しいものが死にあるからです。最後の災いが持つ意味は、その死の圧倒的な権能の前で、人間は誰も自由ではないということを強調するものではなかったでしょうか。 2.死を乗り越える唯一の対策。 ところで、今日の本文では、そのような死の裁きのもとでも、ご自分の民に死を乗り越える希望を与えてくださる神の恵みが描かれます。「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」(出エジプト記12:12-13)今日の本文の夜、神はエジプトのすべての初子に死の裁きを下されましたが、その対象はエジプト人だけでなく、エジプト国内にあるすべての生命を持つ存在でした。つまり、イスラエル人でさえ、エジプトにいるなら、神の裁きの対象であったということです。しかし、主はイスラエルにはその死の裁きを免れる一つの対策を与えてくださいましたが、それは過越祭の小羊の血でした。「その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。」(出エジプト記12:5-7) 神は傷のない雄の小羊や小山羊を屠って、その血で家の入り口の二本の柱と鴨居に塗ることを命じられました。 過越祭という言葉の意味は「死が通り過ぎる日」です。エジプトにあるすべての初子がエジプトの罪によって神の呪いの下に死に滅ぼされなければならない悲惨な状況だったにもかかわらず、神はその死によって滅ぼされることなく、神のお助けによって生き残る対策をこの過越祭を通して見せてくださったのです。それは神に定められた小羊の血を家の入口に塗ることでした。神の怒りによる死の裁きを神ご自身が特定してくださった小羊の血を塗ることで避けることが出来る、神の恵みだったのです。審判する存在が審判される存在に審判を免れる唯一の対策を教えてくれたわけです。それがまさに過越祭の小羊の血が持つ特別な効果でした。そして、私たちはこの過越祭の小羊の血という旧約の概念から、罪を赦し、救いをくださる十字架のキリストの血という概念を見つけることが出来ます。つまり、死の呪いの中で、神はご自分の民たちに生命の希望を見せてくださったということです。神がお定めくださった小羊の血の痕跡があるところなら、そこは神の死の呪いが過ぎ去り、死を乗り越える恵みが許されます。これが過越祭を通して、私たちに与えられた神の救いの対策、過越祭の小羊の血の意味なのです。 3.過越祭の小羊、イエス·キリスト 私たちが信じるイエス·キリストの御救いは、この出エジプト記の過越祭の小羊の血と深くかかわっています。聖書の教えによると、世の中のすべての人間は自分の罪のため、最後には死ぬしかない悲惨な存在です。ここで言う死とは単純に肉体の命が終わるという意味を越えて、神からその存在を認められず、永遠に見捨てられることを意味します。しかし、神がお与えくださった、新約時代の過越祭の小羊、イエス·キリストの救いのもとにいるならば、人間は罪赦され、神の救いを受け、認められ、永遠の死から解放されるようになるのです。したがって、キリストの救いの血潮は、神と罪人を仲良くさせる和解の贈り物であり、神と罪人をつながせる関係の祝福です。 出エジプト記で過越祭の小羊の血がイスラエルの民を死の裁きから救う神と罪人の接点になったとすれば、今、私たちが生きている新約の時代には、まるで過越祭の小羊のようにご自分を犠牲にして罪人たちを救ってくださったイエス•キリストの血が神と罪人をつなげる接点になります。イエス・キリストが十字架で罪人のために死んでいかれた理由は、この新しい時代の過越祭の小羊としてご自分の生命(血)を贖いのいけにえにしてくださるためでした。世のすべての存在は、神に逆らう、悪の世のもとで結局永遠の死を避けず、人生を終えてしまうでしょう。しかし、キリストの血潮の権能と恵みを信じる者たちは、神から生命をいただき、肉体は死んでも終わりの日にキリストにあって復活し、永遠の生命を持って主と生きていくことになるでしょう。イエスがこの世に来られた理由も、そのような真の救いを罪人たちに与えてくださるためです。今日の過越祭の小羊の本文を通じて、キリストがこの時代の過越祭の小羊であり、その方の血潮によって、私たちが救われたこと憶え、生きていくことを願います。 キリストが私たちの救いになってくださり、私たちに死を避ける一本道を開いてくださったからです。 締め括り アドベントの期間が始まりました。クリスマスまでの何週間、私たちはキリストのご誕生を記念するでしょう。私たちはキリストが神の過越祭の小羊になり、ご自分の民を死の呪いから救い出してくださるために来られたことを憶え、それを最も大事に記念しなければなりません。キリストがおられる限り、私たちは神の呪いである死に吞み込まれず、死を乗り越えて、神の真の命へ入ることになるでしょう。キリストの血潮は呪いを祝福に替える恵みのお贈り物です。そのお贈り物のために、イエス・キリストはわたしたちのところに来られたのです。その方に感謝して過ごすアドベントを願います。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。