聖餐について考える。

出エジプト記 24章1-11節(旧134頁) ルカによる福音書22章19-20節(新154頁) 前置き 「生きるために食べよ、食べるために生きてはならない。」古代ギリシャの哲学者であるソクラテスの言葉だと言われます。これは単純に何かを食べるという意味ではなく、食べるという言葉で象徴される人間の欲望について、その欲望にとらわれず、人間らしく生きなさいという意味だと思います。このように、食べるということは、人間の本能的な欲望を表す行為でもあります。人は食べなくては生きることが出来ない存在です。食べる行為は、人間の欲望と生存の間でハラハラする綱渡りのような、深い意味を持つ本能です。食べるという行為は、人間の生命と直結する問題です。ですから、私たちは、いつも食べることについて、深い関心を持って生きるべきです。食べることは、人間の善と悪を包括する善と悪の両面性を持つ行為です。私たちは、この食べるという行為を通して、神から祝福され、また、裁かれます。今日は教会の最も代表的な食べる行為である聖餐について考えてみたいと思います。なぜ、神は聖餐という食べる行為を通して、私たちの信仰を告白させ、教会を立てていかれるのでしょうか。 1.変質した『食べる』という行為。 神は人間の創造の時「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」と祝福されました。そして、まもなく「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。」と言われました。神が人間を造られた理由は、人間が栄え、地に満ちて、世界を支配し、それによって神に礼拝することを望んでおられたからです。神はそのような人間に「食べる」という行為を祝福としてくださったのです。人間にとって食事とは、他の被造物を支配し、神に仕える力を得るための祝福です。このような意味から考えてみれば、この食事という概念は、単に自分の欲望を満たす、ただの快楽だけのための行為でないことが分かります。食事は、人間が世界を正しく支配するために、神に与えられた祝福なのです。人間は世界の正しい支配によって、神を崇め、神に栄光を帰すために食べるのです。創世記1章28節の「支配する」という言葉は、暴力的な征服や抑圧とは違います。戦争して略奪するという意味でもありません。初めの人は罪のない存在で、一切不正な行為、罪を伴う行為を犯さない存在でした。 彼らの中に神の形が完全に残っており、罪から自由な状態でした。そのような状態の者の『支配』は、暴力や戦争のようなものではなく、神のように被造物を見守り、治めることだったのです。神は暴力や、抑圧ではなく、愛と正義とで被造物を支配されるからです。食事を通して力を得た最初の人間は愛と正義を持って他の被造物を守り、そのような行為を通して神に栄光を帰す存在でした。ということで、食べるということは、単に欲望を満たす行為ではありませんでした。善を行うための、神の賜物であり、正しい支配の原動力だったのです。しかし、この聖なる行為、食べる行為が、人間の罪によって変質しました。アダムは神の座を奪おうとの欲望で、神が禁じられた「知識の木の実」を取って食べてしまいました。愛と正義を行うために何かを食べたのではなく、もっぱら自分の欲望と必要のために食べたのです。その瞬間、この世に罪が入ってきたのです。食べることで罪を犯したわけです。神の栄光のために善を行うための食べるという行為ではなく、自分の欲望を満たすための行為としての『食べる』に変質したわけです。生命の行為が、死の行為に変わりました。祝福のための行為が、呪いをもたらす行為となってしまったのです。 2.食べることの大事さ。 というわけで、聖書に出て来る「飲み食い」とは、祝福と呪い、両面性を持つ言葉なのです。イエスはルカによる福音書17:27で「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。」と言われました。神の祝福のために人間に与えられた「食べる」という行為が罪のゆえに人間の邪悪な欲望の象徴となったのです。この食べるという人間の本能のため、この世には、多くの悲劇が起こりました。ローマのような古代の帝国も、最初は小さな村からでした。肥えた土地で平和に住んでいた小さな部族は、少しづつ人口の増加を経験し、食糧が足りなくなってきました。とういうことで、自分の部族を保たせるために、隣の村を攻め、人々を殺し、食糧を奪い取りました。そのように征服を重ねて、最初の小さな村は大きい帝国になっていきました。数多くの人々が帝国の食べ物のために殺され、多くの国々が略奪されたのです。これが帝国が生まれた過程なのです。神がエデンの園を造られ、最初になさったのは人間に食べ物をくださることでした。人が堕落して神を背いた時、最初に消えたのも食べ物でした。 「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。 お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。 お前は顔に汗を流してパンを得る。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3:17-19) 食べ物は楽に得られるものではありません。食べるというのは神の祝福です。神が食べ物をくださらなければ、人間は食べるもののために、他者に害を及ぼす存在となるのです。神は呪われた人間に一生労して、食べ物を得よと命じられましたが、人間の罪はその労苦の代わりに他者への暴力による解決を選んだのです。食べるために他者を殺し、破壊したのです。これが帝国主義の始終です。このような世の中で、神はご自分の民イスラエルを呼び出されたのです。自分の食べ物のためにイスラエルを弾圧したエジプトからイスラエルを救い出されたのです。神は彼らにマナとウズラと水をくださいました。そして、乳と蜜の流れる土地にまで導かれたのです。神は主の正しい民を育てようとイスラエルに食べ物をくださったのです。今日の本文で神はモーセと祭司と70人の長老たちを呼び集められました。イスラエルは神と共に飲み食い、神の民として生まれ変わりました。他者の食べ物を奪い取る時代に神は真の食べ物をイスラエルにくださったのです。 3.聖餐 – 食べることによって、新たに始まる交わり。 私たちの聖餐は、食べ物をくださる神の恵みに似ています。神が許された食べるという行為を通して、民が主の恵みを憶える礼典です。罪によって汚れた食べるという行為から脱し、純粋に神と和解し、隣人と一緒に交わるようになる生命の行為です。イエスは十字架につけられる前夜、弟子たちを呼び集め、過越祭の晩餐を施されました。『主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 感謝の祈りをささげてそれを裂き、これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさいと言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさいと言われました。』(コリント11:23-25)初めに人が食べて犯した罪を、新しく「食べる」ということによって解決されるため、イエスはご自分の血を象徴する杯と、ご自分の肉を象徴するパンとを弟子たちに食べ物としてくださいました。出エジプト記のモーセと長老たちが神から与えられた食べ物を飲み食いしながら、神と和解したように、イエスは、ご自分の血と肉とを通して人々を召され、契約を結ばれ、神と和解させられたのです。これらの契約の食事を通して神は人間との交わりを求められつつ、人間と人間の美しい交わりを望んでおらたのです。 私たちは、聖餐の時、杯とパンにあずかります。その食べるという行為を通して、神の民である私たちは、主の御前に立ちます。今もなお、この世の悪は自分の欲望を満たすために何かを食い尽くそうと探し回ります。その食べるということのために周りの人々を苦しめることも頻繁に起こります。自分自身と自分の家族と自分の共同体のために他の人々を苦しめることを当たり前に思う人が、依然として存在します。しかし、神は違う方です。御子イエス・キリストを犠牲にさせ、イエスの血と肉とを象徴するぶどう酒とパンを通して罪人に生命の食べ物を与えてくださいます。神が生命の食べ物をくださるという象徴、私たちも飲み食いして経験する象徴、その象徴が、私たちが行う聖餐なのです。この杯とパンに与かる私たちは、キリストの血と肉を分かち合い、キリストの体として生まれ変わります。そして、これからは自分の欲望のために悪を満たす生き方を捨てて、キリストの愛と正義を通して善を行うために生きていく人生を誓うのです。このような私たちに神は永遠の命の約束を与えられたのです。これらの聖餐の精神の中におられる聖霊が私達に生徒の交わりを味わう恵みを注いでくださるのです。 締め括り。 エデンの園には、知識の木の実のほか、命の木の実もあったと言われます。それは永遠の命を与える木の実だったのです。創世記に記された命の木の実は、真の救いと恵みを意味するシンボルです。無くなった神の園に永遠の命があったということです。しかし、罪によって追い出されたアダムはその命の木の実を食べることができなくなってしまいました。言い換えれば永遠の死にさらされたということです。しかし、神はイエス・キリストを通して、私たちが永遠の命を得ることが出来る機会を与えてくださいました。肉体は死んでも、魂は生き残って神と共におり、終わりの日には肉体の復活を通して、罪のない完全な体を取り戻して神の国で永遠に生きることです。その無くなった命の木の実として、私たちにイエス・キリストをくださったのです。私たちが、聖餐に与かり、主イエスの肉と血を飲み食いすることは、この失われた命の木の実を食べるのと同じことです。失った命の木の実を、イエス・キリストによって再び食べるということです。聖餐を食べる行為の意味を顧み、欲望のためではなく、善を行うために食べる人生であることを望みます。キリストの肉と血を分かち合う、私たちは正しくこの世を支配して神の愛と正義に満ちた世界を造るために聖餐に臨むべきであります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。