忠実なしもべ。

箴言 25章13節 (旧1024頁) マタイによる福音書24章45~47節(新49頁) 前置き あっという間に2023年が暮れてます。今日は12月31日、今年最後の日で、最後の主日です。主なる神が、今年も共にいてくださり、守ってくださったことに感謝します。今年の志免教会の主題聖句は「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:22)でした。これによって、教会という共同体の意義について学び、教会の一員としての私たちのあり方について顧みる機会になったと思います。今日は志免教会を成す私たちの望ましい生き方についてもう一度考え、新しい年を準備したいと思います。 1.教会の意味についての復習。 私たちは、夏から秋までの新約聖書の「エフェソ書」の説教を通して、教会共同体のあり方について学びました。今年のテーマが「教会とは何か?」だったので、今日はその復習をしたいと思います。ここに集っている私たちは、皆それぞれ違うところに生まれ、それぞれの人生を生きて、みんな違う理由で信仰を持ってキリスト者となりました。しかし、私たちの一つの共通点がありますが、皆が同じイエスを主とあがめ、同じ聖霊に導かれ、同じ信仰を告白するようになったということです。各自の信仰の経緯は違いますが、その信仰をくださった方がおひとりの主ですので、私たちも一つの信仰を持っておひとりの神を私たちの主として仕えているのです。私たち志免教会は、そのおひとりの主を信じる共同体です。 天地創造の前に、父なる神が私たち一人一人をあらかじめ定められ、イエス·キリストがご自分の肉体をささげ、十字架で血潮を流され、その贖いによって私たちを選び救ってくださいました。父と子によって、私たちのところに来られた聖霊は、父と子のご意志に従い、私たちといつも共におられ、志免教会という共同体を立ててくださいました。そして、この教会の頭であるイエスの御名の下に、思想、国籍、民族を問わず、私たちを主の体なる教会と呼ばれるようにしてくださったのです。イエスはまるでかなめ石のように私たちの中心となり、私たちは、その方によって主イエスの体なる教会と呼ばれるようになったのです。つまり、イエスは教会の頭であり、教会はイエスの体であるのです。したがって、私たちは神に大事にされている存在、キリストによって一つとなった存在という信仰を持って、教会を成していかなければなりません。このような教会への認識、その教会の一員である私たちという認識を持って今日の本文を考えてみましょう。 2.忠実なしもべとして生きなさい。 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」(マタイ福音24:45-46) 今日の本文の言葉は終末の時を生きる神の民、すなわち、教会のあり方を示すイエスの御言葉です。私たちは「終末」を考える時、遠い未来のことだと思い、現実と全く関係ないと誤解しやすいです。しかし、イエスは言われました。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28) 旧約では、終末が「メシアが神の国をもたらす時」と理解していました。マタイによる福音書はメシア・イエスがご自分の御業をお始めになった時から、すでに神の国が臨み、終末は始まったと証言します。つまり終末とは、すでにイエスが働き始められた、その時点から始まっているものです。私たちが生きている今が、まさに「終末の時」ということです。この終末の時代、主はご自分の民である教会が「忠誠で賢いしもべ」として生きることを望んでおられるのです。 本文の「忠実」とは、ギリシャ語の「ピストス」で、「信仰」あるいは「誠実さ」を意味する言葉です。すなわち、キリスト者が「信仰を持って誠実に」生きることが、神に対する「忠実」であるとも理解できるでしょう。この忠実が私たちキリスト者に必要な理由は何でしょうか? 世の中は戦争と不条理に病んでおり、多くの人々が喜びよりは悲しみの中で生きています。イエスが救い主として来られたと言われる、今の世界も、依然として苦しみと悲しみの中にあります。時々、「神などいない」と感じられる時があります。そんな時は挫折して信仰を諦めたいと思われる時もあるかもしれません。私は2018年に福岡に来て、もうまる5年が経ちました。もうすぐ志免教会への赴任も5年になります。ところで、前の5年を振り返ってみると、最初、私が思ったほど伝道が進んだり、目立った大きな変化があったりすているようには見えません。5年前と同様に、今もなお「これから志免教会はどうなるだろうか?」という心配があります。果たして神が志免教会を助けておられるかどうか、疑う時もありました。その一方で説教の時は「信仰に生きなさい」と皆さんに信仰を強調しなければならないので、その矛盾が私にとって困惑でした。 5年間、私が予想していた変化は起こらず、5年前にしていた志免教会の将来の心配は未だにしていました。宣教のための来日なのか、心配のための来日なのか、混乱の時もあります。そんな私に今日の聖書の本文は語ります。「主が来られる時まで、時間どおりに私の民らに食事(御言葉の正しい説教)を与える忠実で賢いしもべとして生きなさい。」私の周りの環境がどうであれ、私の思いと異なる現実が広がっても、必ずまた来ると約束された主イエスを信じ「信仰によって、誠実に」一日一日を生きて行くべきということです。多くの成功を遂げ、偉大な人になるのだけが、神の忠実なしもべのあり方ではありません。難しい状況の中でも神への一抹の信仰を捨てず、最後まで主の約束を待ち望み、一日一日誠実に生きることこそ、終末の時代を生きる私たちに求められる「神への忠実」なのです。今日の新約の本文を通じて、私は最近の不信仰と心配を反省することになりました。今日の本文は信仰を持って誠実に一日一日を生きていきたいと誓わせる言葉でした。 3. 神の子、神のしもべ。 今日の本文には神の民である教会が「神のしもべ」として描写されています。文字通りにすれば「しもべ(僕)」は下人のことです。しかし、聖書が語る「しもべ(僕)」は神の民を格下げして、奴隷のように扱う言葉ではありません。すでに聖書はキリスト者が、神の子供であり、キリストの友であり、神の国の相続人であると語っているからです。イエス·キリストは罪人を救うために、この地上に来られた時、神のひとり子であるにもかかわらず、ご自身のことを「神のしもべ」であると言われました。神ご自身であるイエスが、自ら神のしもべであると自任されたわけです。父なる神への愛によって、自らを低くされたためです。キリストの救いによって、すでに神の子供、キリストの友、神の国の相続人となったキリスト者は、主イエスの御心にならって、自分自身を進んで神のしもべとして献身する者とならなければならないと思います。天地創造の前に、すでに父なる神によって定められ、キリストによって救い選ばれ、聖霊によって信仰を持って教会となった私たちは、神への信仰と誠実さで、毎日を生き、神の子供ですが、神のしもべのような生き方で、へりくだって主に仕えて生きるべきではないかと思います。 締め括り 今日の旧約本文はこのように語っています。「忠実な使者は遣わす人にとって、刈り入れの日の冷たい雪。主人の魂を生き返らせる。」(箴言25:13) イスラエルの平原地域では4-5月には大麦、6-7月には小麦、9-10月には果物などの収穫があると言われます。6-10月のイスラエルの平原地域は福岡くらいの暑さだと思います。こんな暑い時期に冷たい雪があったら、大喜びになるでしょう。したがって、上記の言葉を少し変えて翻訳すると、このようにも言えると思います。「忠誠なしもべは、主人にとって、刈り入れの日の冷たい水一杯のように、主人の心を満足させる。」(実際、韓国の聖書ではこんなふうに翻訳されている。) 私たちが信仰と誠実さで主の御心に従って生きる時、主は私たちの生活によって喜ばれると信じます。2023年、私たちはどのように生きてきたでしょうか? また、2024年はどう生きるべきでしょうか。信仰と誠実さを持って主の御心に従って黙々と歩んでいく時、私たちの歩みは、主にとって刈り入れの日の冷たい雪のように、主の大喜びになると思います。それを誓って過ごす年末年始であることを祈り願います。