キリストによる勝利。

旧約の箇所はありません。 ローマの信徒への手紙8章17-39節(新284頁) ローマの信徒への手紙8章17節には、こう書いてあります。『もし、子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。』神の恵みによって罪人の身分から救われ、神の子供、正しい人と生まれ変わったキリスト者は、神の御国の相続人として認められた存在です。『神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。』(ローマ8:14)イエス・キリストの御救いと神のお愛によって、私たちに来られた聖霊が、私たちキリスト者の人生に共に歩まれ、神の子供、神の相続人という身分を与えてくださったからです。神を離れ、肉的な人生を生きていた私たちは、今や聖霊のお導きと恵みとによって、神と共に生きる霊的な存在、もはや罪人ではなく、神の子供であり、神の相続人となったのです。 ただし、だからといって、今後の人生に、いかなる苦しみも、悲しみもなく、ただただ、気楽で楽しさばかりの人生だけが残っているとは言えません。『キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。』(ローマ8:17)(新共同訳の翻訳は、原文と翻訳順番が違います。より原文に近い翻訳は『キリストと共に栄光を受けるなら、共にその苦しみをも受けるべきなのです。』の方が、本文に近い表現だと思います。)17節は、キリスト者の生活の両面性を語っています。『神の相続人として栄光を受ける者となったが、それと共に、相続人としての苦しみをも負うべきである。』ということです。ローマ書の5章では、これについてすでに記されています。『このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。』(ローマ書5:2-4)神から栄光を受けるためには、主による苦難をも経験しなければならないということでしょう。 なぜ、栄光の主によって、神の相続人となったキリスト者に、このような苦難が襲ってくるのでしょうか?神の子供なら、祝福と平和いっぱいで生きるべきではないでしょうか?残念なことにその苦難の理由は、この世の罪にあります。『被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。』(22)ここでの被造物とは、人間世界のすべての物事を意味します。これは、自然環境のような物理的な世界と共に、人の間柄のような霊的、精神的な世界をも意味します。その中には人と人との関係、人と自然の調和のような、この世界のすべてが含まれています。しかし、最初の人の不義による罪は、人と人の対立、自然への人間の乱用などにつながってしまいました。人と人が憎み合い、国と国が戦争し合い、人間の貪欲のために自然が破壊されました。人間の罪は人間だけでなく、この世の物理的、精神的な被造物にも悪い影響を及ぼしたわけです。この憎しみと破壊の世界で神の子供として、御言葉に聞き従い、罪の世界に対抗して生きるというのは、汚れたこの世の方式とは全く反対側にいくことと同じものです。だから、この世に生きる神の子供は、当然、罪の世界から苦難を受けるようになるのです。キリスト者が受ける迫害と苦難は、こんな経緯から生まれたものです。 私たちが聖書に従って正しく生きようとして受ける苦しみは、神の民なら、受けるに決まっている苦難です。自分の敵を愛するための苦難であり、他国との平和を祈るための苦難であり、自然環境に優しくするための苦難であります。罪と不義に満ちた世界で、神の正義と愛とを宣べ伝えるために受ける苦難なのです。もし私たちが神を真の父と信じ、そのご意志に従って生きることを決心したなら、これらの苦難は避けられない、絶対的な課題です。しかし、これらの苦難は苦しみだけで終わるものではありません。それらには、より大きな御業を計画しておられる神の御心が隠れているからです。『神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。』(28)、そのような神の御国の相続人としての苦難の中で、神を愛し、信頼して生きる際に、そのような苦難さえも、最終的には一つになって共に働き、神の御心を成し遂げる万事の益となるからです。 パウロは、イエスに出会って以来、神の支配による理想的な世界を夢見て働きました。私たちが御国と呼ぶ神の国、それは神のお導きとご統治に満たされた世界です。それは、ただの死後のユートピア、極楽、天国などを意味するものではありません。罪によって汚された、この世界で、神の真の愛とお導きのもとで成し遂げられる主の支配権が現れるすべてのところ(例:主の御心に聞き従って生きる私たちの人生)が、まさに御国なのです。神はそのためにキリストをお遣わしになったわけです。キリスト・イエスは、主を信じる者が、この地上で苦難に負けず、御国を望んで生きることが出来るように、先立って自ら苦難の模範を見せてくださいました。『神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。』(29) 罪によって歪んでしまった、この世で御国を成し遂げるということは、苦難をともなう難しいことです。しかし、神は口先だけの命令ばかりの方ではありませんでした。イエス・キリストという神の独り子が直接私たちのところに来られ、苦難を受け、私たちの進むべき道を開け、ご自分で先に進んで行かれたのです。聖書は、このようなイエス・キリストを長子と表現しています。私たちキリスト者は、そのイエスが切り開いた道に沿っていくことで、御国を建てていくことが許されたのです。 だから、神の子供とされた私たちは、苦難の背後に隠れている神の栄光を望まなければなりません。キリスト者がいくら頑張ろうとしても世界はそう簡単には変わりません。教会の規模と影響力は依然として小さく、世界は罪の道に走っています。これらの罪に満ちた世界で、世界を変えられない教会は、無力感を憶えやすいと思います。しかし、本質を見抜かなければなりません。教会の弱さが神の弱さを意味するわけではなく、教会が無力だから、神も無力な方であるというわけでもありません。卵で岩を打てば卵が割られますが、神が岩を壊し、その場に卵を置こうとされたら、神は成し遂げられます。神はお出来になる方です。私たちは、自分の状況ではなく、神の御腕を望むべきです。 『誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。誰が私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。』(33-34)御子イエスの命を犠牲になさってまで、主の民を呼び出され、導かれた神。この神が私たちと共に歩んでくださる限り、私たちは信徒の苦難の中でも希望を見つけることが出来ます。私たちの苦難は、すでにキリストがご経験なさった苦難であり、主は誰よりも私たちの苦難を知っておられる方であります。『私を殺せない苦難は、私をさらに強く鍛えさせる。』という言葉があります。このように、キリストと一緒に受ける苦難は、私たちをさらに強く鍛えるものであり、終わりの日、神の相続人として主に召された私たちは、その苦難によって輝かしい勝利を得るようになるでしょう。『誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。』(35)主なる神はキリスト・イエスの愛によって私たちを世の終わりまでお守りくださり、勝利を与えてくださるでしょう。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。