キリストによる平和

イザヤ書52章7節 (旧1148頁) ルカによる福音書2章8-21節(新103頁) 前置き 子供の頃、私はメリークリスマスという言葉が大好きでした。クリスマスが、どういう意味かは分かりませんでしたが、クリスマスの雰囲気がすごく良かったためです。1980年代、日本のバブル時代、韓国もソウルオリンピックを前後にして、本格的な経済の発展を期待する時代でした。あの頃は日本も韓国も、裕福だったと思います。当時、幼稚園に通っていた私は、クリスマス・イブに枕もとに小さな靴下をかけて、今夜サンタクロースが来て、オモチャのプレゼントをくれるだろうと楽しみにして、熱心に祈ったりしました。私は、その時代に育ったわけで、今でもクリスマスといえば平和という言葉が一番先に思い浮かびます。ところで、クリスマスと平和に何の関りがありますでしょうか?今日は、クリスマスとは何か?そして、クリスマスの真の平和とは何かについて、一緒に話してみたいと思います。 1.クリスマスとは? クリスマスとはどういう日でしょうか?数年前、日本の、ある宣教団体が作った日本宣教関連の動画を見て、驚いたことがあります。クリスマス・イブの夜、新宿で通りすがりの人々とインタビューをする場面でした。「クリスマスが何を記念する日なのか知っていますか?」「西洋からのパーティーの日じゃないですか?」「よくわかりません。」「ケーキを食べる日です。」など、さまざまな答えがありましたが、衝撃的にもクリスマスがイエスの誕生を記念する日であることを知らない人が多かったのです。恐らく、クリスマスを知らない人を中心に編集したかとは思いましたが、他国に比べてクリスマスのこと、分からない人が多いとの内容でした。最後に動画はこう話して終わりました。「日本のキリスト教は盛んでいません。クリスマスを楽しんでいながらも、クリスマスの意味が分からない人が多いです。日本の人々が、救い主イエスと、その誕生を記念するクリスマスを正しく知るようになることを切に祈ります。」日本でキリスト教は、全人口のわずか0.4%にしか至らないマイナーの宗教です。それだけにクリスマスへの人々の認識も薄いです。クリスマスはパーティーする日でも、ケーキを食べる日でもありません。クリスマスは私たちが主とあがめるイエス・キリストの到来を記念する日です。 クリスマスは、イエスを意味するギリシャ語「キリスト」に、礼拝を意味するラテン語「マス」が付いて出来た合成語です。カトリック教会の「ミサ」という言葉をよく耳にしますが、そのミサの語源が、この「マス」なのです。つまり、クリスマスとは、ご降誕のイエスを礼拝する日という意味です。また、この「マス」には、別の意味もあります。「ミッション」というアメリカの映画がありますが、有名な俳優、ジェレミーアイアンズが「ネッラファンタジア」という曲をオーボエで吹きながら、南米の原住民と出会う場面が印象的な映画です。映画のタイトルであるミッションという言葉は、宣教という意味の英語ですが、その語源が、この「マス」というラテン語なのです。つまり、クリスマスはイエスが、この地に福音宣教をするために来られた日という意味でもあるのです。したがって、クリスマスを日本語で説き明かすと、「ご降誕のイエスを礼拝する日。」または「イエスがこの地に神の福音を宣べ伝えるために来られた日。」と解釈することができます。このように、クリスマスはイエスで始まり、イエスで終わる、イエスの、イエスによる、イエスのための日なのです。だからイエスを忘れて、単にパーティー、ケーキ、お酒、デートの日などと、クリスマスを誤解すれば、このクリスマスに隠れた意味があまりにも多いと言えるでしょう。 日本では、クリスマスが祝日ではありません。ほとんどの欧米の国々、また韓国でも、クリスマスはキリスト教の非常に重要な日として大事に扱われています。国家的にも祝日と指定された、1年の中で最も盛大に守るキリスト教の記念日です。だから、それらの国々では、教会に通っていない未信者でも、その意味をかすかにでも知り、その意味の中でクリスマスを楽しみます。しかし、日本では祝日でもなく、ただの平日であり、イエスの誕生を記念する日という事実を知らない人も、他国に比べて多くと言われ、とても残念だと思います。神が日本の教会のを憐れんでくださり、多くの人々がイエスを知り、良い影響を及ぼす教会共同体になること祈り願います。クリスマスはイエス・キリストの日です。イエスが礼拝される日であり、イエスの福音伝道ためのお生まれを記念する日なのです。このクリスマスにイエスの愛が日本中のすべての人々に満ち溢れますように祈ります。 2.イエス・キリストによる平和を願う日。 ローマの平和(Pax Romana)という言葉があります。古代ローマ帝国は、軍事力で地中海世界を掌握、支配し、周辺のヨーロッパと中東とアフリカ北部を征服した強力な国家でした。ローマの平和とは、ローマが帝国の征服戦争にけりを付け、地中海を完全に掌握した西暦1世紀前後、ローマ帝国による秩序と支配で、世界が平和であるという意味で用いられた言葉でした。しかし、このローマの平和という言葉について、よく考えてみる必要があります。ローマの平和とは、すべての人が平等で平和になるという意味ではありません。この平和は、ローマ皇帝を中心としたローマ人だけの平和でした。ローマ帝国に属する植民地の人々は、ローマ市民として認められませんでした。彼らがローマ市民になるためには、ローマの市民社会で認められたり、あるいは植民地の指導層が自国を裏切ってローマ帝国の側に立ったり、ローマの軍隊に入り、多くの戦争を経て得ることができるものでした。つまり、この平和とは、皆のための平和ではなかったということです。誰かがローマの平和を享受するためには、他の誰かが死ぬか、奴隷にならなければなりませんでした。ローマの平和とは、あくまでも、権力ある者のための、彼らだけの平和だったのです。ローマの平和は暴力と殺人の別の名だったのです。 そのローマの平和が唱えられた時代、ローマ帝国の辺境の、小さくて力のない植民地、イスラエルでは、ユダヤ民族から、真の王が生まれるといううわさがありました。大きくて輝かしい星が現れ、イスラエル地方に、王たちの上に君臨する、真の王が生まれるといううわさでした。これはユダヤ人の預言に基づいた話で、聖書はその王が、主イエス・キリストであると明らかに示しています。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(11-12)今日の本文では、この王たちの王が生まれるという良い知らせを、地上の人々に伝える天使の物語が出てきます。彼はイスラエルの歴代最高の王であったダビデの出身地であるベツレヘムで、ダビデの子孫である、新しい王が生まれると話しています。ところで、ここで 使われた言葉が気になります。聖書は、単に王という言葉の代わりに「救い主、主」という言葉を使っています。この言葉は、単に偉大な人を高めるための表現ではありませんでした。この言葉は非常に政治的で、社会的な言葉です。ローマ帝国で「救い主、主」という言葉は唯一、ローマ皇帝一人しかなかったからです。 つまり、ユダヤ地域で生まれた主イエス・キリストという名前は、単にイスラエルと呼ばれる小さな民族の指導者としての意味ではなく、ローマという大帝国の皇帝までも屈服させる強力な存在としての名称だったのです。イエス・キリストが生まれた理由は、単に小さな一つの民族だけに限らず、ローマ帝国を超える全世界を治めるためでした。神は帝国を超えて全世界を支配する本当の王が来ることを天使を通して教えてくださったのです。しかし、イエスの支配のしかたは、ローマ帝国のそれとは、全く違うことでした。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(14)天使は王や皇帝を訪れて主の到来を知らせたわけではありません。彼はイスラエルで最も低い階級である羊飼いたちに行き、主のご降臨を知らせたのです。そして、彼らに平和の王が臨むことを教えてくれました。主イエスの誕生は、ローマ帝国の皇帝が求めていた自分たちだけの平和ではなく、イエスを通して全世界のすべての人々が、共に享受することができる、真の平和をもたらす出来事です。主のご誕生の知らせは、ローマによる権力者のための暴力に染まった平和ではなく、キリストを通して最も低い階級も味わえる、真の平和の到来のお知らせ、つまり福音でした。 締め括り 人間の赤ん坊に生まれたイエス・キリストは、神ご自身でいらっしゃいます。神と人との間には、人とアリの違いよりも、はるかに大きな隔たりがあります。しかし、人間を愛された神は、自らを低くされ、人になってくださいました。また、みすぼらしい飼い葉桶に生まれ、誰にも尊重されない羊飼いたちでさえも、会うことができる低い所に来られたのです。イエスは権力、財産、強い人だけでなく、疎外される弱い人にも、喜んで会ってくださる、真の偉大な王です。誰でも主を求めれば、 会ってくださる真の平和と愛の王でいらっしゃいます。私たちが生きている、この世は弱い者に厳しいところです。目に見えない壁と隔たりがあり、支配層と一般の人々の人生が違う場所です。しかし、主イエスは、そのような壁と隔たりを突き崩して、すべての人に公平に神の愛と恵みをお伝えになった方です。この主が、弱くて罪深い人類のために地上に来られ、人間の罪を赦してくださるために、ご自分の命を掛けて救ってくださいました。私たちを支配しようとする王、私たちに仕えようとする王、私たちにとって真の王は果たしてどちらでしょうか?主は仕え守ってくださる平和の王として、今日、私たちの間におられます。アドベントの期間、またクリスマスを迎えて、この主イエス・キリストのことを憶えていきたいと思います。父と子と聖霊の御名によって。アーメン