主の御声を聞く。

ヨブ記38章1~7節(旧826頁)  マタイによる福音書26章39節(新53頁) 前置き 私たちは、主なる神が私たちとお話しくださる人格的な存在であると信じています。だから、私たちも自分が理解する言葉で、神に祈りをささげるわけではないでしょうか。もし、神が人格的な神でなければ、私たちはまるで人と人が会話するかのように神に祈ることができないでしょう。他宗教のように意味も分からずにお経を読んだり、おまじないのような宗教行為をしたりしたかもしれません。このようにキリスト教は、神と自分という人格と人格の交わりをとても大切にする宗教なのです。しかし、ひとつ疑問が浮かびます。私たちは、主なる神を人格的な存在だと信じ、私たちの言葉で祈りを捧げるのですが、なぜ、主なる神は私たちの耳に聞こえる声で直接お答えくださらないのでしょうか? 私たちはひたすら聖書の言葉、あるいは聖書に基づいた説教を通じてのみ、神が私たちにくださった御言葉を主の御声だと信じて生きています。つまり、主なる神は私たちの耳に聞こえる肉声では言われないということです。それでは、果たして、私たちは聖書や説教以外に主なる神の御声を聞くことができますでしょうか?今日は神の御声(御心、お答え)について考えてみたいと思います。 1.主の御声が聞こえない理由。 聖書を読むと、旧約聖書のアブラハム、イサク、ヤコブのような人物は、まるで神と対面して話しているかように見えます。例えば、アブラハムは、創世記12章、13章、15章、17章で神と話します。創世記12章から17章までは、1時間も経たないうちに読むことが出来るくらいですので、聖書を読む私たちは、主なる神とアブラハムが頻繁にコミュニケーションしたと受け止めやすいです。しかし、実はそうではありません。聖書学者たちは創世記12章でアブラハムが初めて神に出会った時の年齢を75歳くらいだと予想しました。そして、17章にはアブラハムの年齢が99歳だと記されています。神とアブラハムの4回の会話は、約25年という長い時間の中で行われた珍しい出来事だったのです。つまり、創世記の中心的な人物だったアブラハムでさえ、25年の長い間、神の声をたった4回しか聞けなかったということです。 アブラハムの息子、イサクはどうだったしょうか? 彼はアブラハムよりも神の御声を聞く機会が少なかったのです。創世記25章で妻リベカが双子を身ごもった時、イサクは神に祈り、神は一度イサクに御声を聞かせてくださいました。イサクの息子ヤコブは故郷を離れた時に夢で一度、そして再び故郷に帰る時に主の御使いを通じて一度、間接的に神の御声を聞きます。そして、創世記35章で、やっと直接的に主の御声を聞くことが出来たのです。 このように創世記を代表するアブラハム、イサク、ヤコブのような人物も、主の御声を毎日聴いたたわけではありません。神の一人子イエス・キリストも、この地上におられた時、父なる神のお答えを聞けない場合があったほどです。「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ福音26:39) だから、主の御声が聞こえないことに、がっかりしないでください。それは聖書の人物にとっても珍しい経験でした。主の御声は私たち自身の便宜のためのものではありません。主の御声は神の厳重な御心を民に伝えるもの、つまり啓示ともいえるものでしょう。それは主が望まれる時に民に聞かせてくださるものです。民が望むからといって言われ、望まないからといって言わない軽いものではありません。長い祈りにも主の御声が聞こえない場合が多いです。そんな時は主が私たちの祈りを聞いておられるが、最も良いお答えの時を待っておられると理解し、忍耐強く待つ必要があります。 2.ヨブの物語 しかし、それにもかかわらず主の御声(御心、お答)が聞こえてこないことにより、不安になりやすいのが私たち人間の弱さだと思います。特に苦難の時はなおさらです。神が今、自分の苦難に対してどう考えておられるだろうか、自分はこれからどうすれば良いだろうか悩むようになります。そんな時は、主なる神が一日も早く自分が聞ける御声でお答えくださったらと思いがちです。そのような早速の答えを望む私たちに、今日、旧約本文であるヨブ記は、神のお答についてのヒントをくれます。アブラハムの時代、「ヨブ」という信心深い人が「ウツ」というところに住んでいました。彼はアブラハムの親戚でも、子孫でもなかったのですが、主なる神を崇める主の民でした。神は彼をとても愛しておられました。ある日、神が主の使いたちを呼び出されました。ところで、その時、神に逆う者であるサタンも、その集まりに出てきました。神はサタンに「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。」とヨブの信仰を褒められました。だったら、サタンは「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。主が彼にたくさんの祝福をくださったから、信じるわけではありませんか。」と言いました。主なる神はヨブの信仰を試みられるためにサタンを用いられ、ヨブに試練を許されました。(最後には二倍報いてくださる。) それによって、豊だったヨブの家は一晩にしてつぶれてしまいました。財産も消えてしまい、病気にかかり、子供たちも亡くなり、妻も離れていきました。彼に残されたのは皮膚病にかかった体だけでした。彼は嘆きました。その時、ヨブの3人の友が彼を訪ねてきました。ここまでがヨブ記3章までの内容で、4章から37章まではヨブと友達との論争が続きます。論争の主な内容は「主は正義の方であり、正しくない者に罰を下される。」「ヨブは罰を受けたから正しくない。」「ヨブは悔い改めなければならない。」という友達の主張と、「自分は罪を犯したことがない。」「主が直接、今の状況について説明してほしい。」というヨブの主張に分かれます。ところで、彼らには共通の過ちがありました。それは主なる神の摂理と経綸を人間である自分の知識において判断しようとしたということでした。「罪を犯したから罰を受けなければならない。」「罪を犯したことがないから罪がない。」のように、人間のみすぼらしい知識に主の御心を合わせようとしたわけです。結局、主なる神が直接現れ、戒めはじめられるのが、まさに今日の旧約本文である38章の言葉なのです。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。」(ヨブ記38:2) そして、神は引き続き言われました。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。」(ヨブ記38:4~6) 3. 主の御声(お答)を求める。 主は自分たちのみすぼらしい知識で、神の摂理と経綸を判断し、互いに論争しつづけるヨブと友達に、主の御業は彼らの知識と経験をはるかに超える宇宙的なものであることを教えてくださいます。つまり、人の小さな知識で、主なる神の御声を完全に聞き、理解することはできないということです。ここで、私たちは主の御声またはお答えが聞きにくい理由を推し量ってみることが出来ます。私たちは、ヨブと3人の友達のように非常に小さな存在です。現代という時代的な状況、日本という文化と地域の状況、自分個人の状況に束縛され、一日一日をかろうじて生きる存在なのです。このような私たちが全宇宙を創造し、毎日その宇宙を保たせておられる偉大な神の御心をまともに理解することが出来ますでしょうか? 主なる神の御声が私たちの耳に聞こえてくるでしょうか? もし聞こえるといっても、その意味が分かりますでしょうか? 神はイエス•キリストを通して私たちのところに来てくださったのですが、だからといって神も私たちのように小さな存在になったわけではありません。神は変わらず、この世の創り主、支配者として存在しておられるので、今でもその方の御心と御声を、私たちが完全に理解することはできません。 神が聖書をくださった理由もそのためです。人間が宇宙を支配される主なる神の御旨を知り、理解することができないので、最小限の理解のための道具として聖書という人間の言葉で記された書をくださったわけです。 人生を生きながら、神の御心が理解できない時があまりにも多いです。なぜ、独裁者と戦争を許されるのか? なぜ、無実な者の死を許されるのか? なぜ、日本の教会はこんなに小さく伝道が難しいのか? なぜ、貧しくて弱い人たちがさらに不幸であるのか? なぜ、長年祈ったのに答えがないのか? 私たちの人生において神はどんな意味なのか? さまざまな疑問や疑いが心の中に浮かんできます。しかし、そんな時、今日の本文の言葉を思い起こしたらと思います。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。」神は私たちの思いより、はるかに偉大な存在であり、私たちにはその方の御声を完全に聞きとれる耳がないということを私たちは心に留めなければなりません。 しかし、主なる神は(ヨブ記の最後にヨブにしてくださったように)ご自身が望まれる時には、必ず主の民が聞きとれる方式でお答えくださるということを憶えつつ一日一日を信仰によって生きていきたいと思います。 締め括り 主の御声は、必ずしも耳だけで聞けるものではありません。自分の耳にはっきりと聞こえてくる肉声だとも誤解してはなりません。主の御声は主ご自身が望まれる時に聖書の御言葉によって私たちの心の中に聞こえてくる主の御旨だからです。世の人々のすべての声は肉声だけで耳に聞こえてくるわけではありません。母が家族のために食事の支度をする時のまな板の音や父が歌を口ずさんで庭でほうきで掃く音から家族と子供たちのための愛の声が聞こえてきます。赤ちゃんの笑い声、子供たちの跳ね回る遊び声から未来への希望の声が聞こえてきます。愛や希望を口で言わなくても、私たちは、世に響くさまざまな音や声から意味を見つけます。主の御声もそうです。必ずしも、私たちの耳に聞こえてくるのが主の御声ではありません。聖書を通じて分かるようになる人類への主の救いの計画、四季が変わりながら生まれる自然の豊かさにも、この世を愛する神の御声が潜んでいるのです。長い祈り、お答えへの渇望の中で、主の御声が聞こえず、疲れている方がおられるかもしれません。しかし、主が今でも私たちと一緒におられ、今すぐには御声を聴かせてくださいませんが、お答えになる時を待っておられるということを憶えて生きたいと思います。 主の時が来れば、主は必ずご自分の御声を聴かせてくださるでしょう。主の御声、お答えを待ち望みつつ、主に信頼して生きるのは私たちの信仰のあり方ではないでしょうか。

謙遜と信仰

詩編22編23-29節(旧853頁)  マルコによる福音書7章24-30節(新75頁) 1.シリアのフェニキア人。 今日の本文で、主と出会った女はフェニキア出身のギリシャ人でした。シリア・フェニキア人は、シリア地域のフェニキア民族の人という意味で、イスラエルの北海岸地域にある、とても古い民族でした。(紀元前40世紀にもあったと知られている。)フェニキアはアルファベットで有名ですが、大昔からフェニキア人は地中海を掌握し、貿易を通して令名をはせてきました。そのため、早くから文字、数学、航海術が発達していました。フェニキア文字の影響でギリシャ語も発展し、またそのギリシャ語の影響で、ラテン語、ヨーロッパの諸言語、英語も発展していきました。だけでなく、ヘブライ語やアラビア語も、その影響下にありました。また、フェニキアは軍事的にも強い民族でした。紀元前3世紀から2世紀頃、ローマが本格的に大帝国になる前、ローマの海の向こうにはカルタゴという海洋民族がありました。彼らは地中海の支配権をめぐってローマと雌雄を争いました。西洋史で有名なポエニ戦争が、このカルタゴとローマの戦争です。ここでカルタゴはフェニキア民族に由来した国です。このようにフェニキアは、文化的、経済的、軍事的に非常に由緒ある民族だったのです。 というのは、フェニキア人には文化的、経済的にユダヤ人より優れたというプライドがあったということです。これが当時のシリア・フェニキア人、つまり本文で、主に出会ったティルスの人々(フェニキア人)の認識でした。「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。」(24) しかし、そのような歴史と文化へのプライドのあるフェニキア人の中にも貧しい人々はいました。その貧しい人々の中には、助けを求めてイエスのところに来る人もいたようです。彼らはどんな病気でも治し、どんな悪霊でも追い出し、5000人でも腹一杯食べ物をくださった「奇跡の男」イエスに会うために押し寄せて来ました。今日、登場するシリア・フェニキアの女も、そういう人たちの中の一人だったのです。「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。」(25) 2.イエスの試み。 しかし、イエスを訪ねてきたからといって、皆がイエスに対して真の信仰を持っているとは言えませんでした。ある人は本当の信仰で、ある人は好奇心で、また、ある人は欲望で、各々の意図をもって訪ねてきました。その代表的な人物が12弟子の1人であったイスカリオテのユダではありませんか。彼はイエスを政治的なメシアだと思い、従ったのですが、自分の思い通りにならないのを見て、結局、裏切ってしまいました。ここで一つ考えたいことがあります。私たちは、なぜ、イエスを信じているのでしょうか? 私たちは、なぜキリスト者と名乗り、教会に通っているでしょうか? 主への本当の信仰のためか、それとも、他の理由のためか、私たちの信仰を顧みたいと思います。「わたしに向かって、主よ、主よと言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)私たちはこの言葉に耳を傾けなければならないと思います。多くの群衆の中でイエスを訪れた女は、果たしてどんな心でイエスのところに来たのでしょうか? 「女はギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」(26) シリア・フェニキアの女の娘は、悪霊に取り付かれていました。新約聖書で「悪霊に取り付かれた。」という言葉には、実際に悪霊に取り付かれたという意味もありますが、「神に逆らう、汚れた世の邪悪な支配のもとで苦しんでいる。」という意味でもあります。おそらく、この女は占い師、医師、宗教家など、多くの人々に娘のために頼んだはずです。しかし、誰ひとり、この世の支配から娘を自由にすることが出来ませんでした。結局、彼らもこの世の支配に属していたからです。ひとえにこの世の悪の支配を退けられる方、世の支配の反対におられる主イエスだけが、その苦しみから女の娘を自由にすることが出来るのです。ユダヤ人も、ギリシャ人も、主イエスによってのみ世の悪の支配から自由になることが出来るのです。ところで、女がイエスに声をかけた時、イエスのお答えは、私たちの予想とは全く違うものでした。「イエスは言われた。まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(27)イエスが女を小犬に比喩されたからです。当時のユダヤ人は自分たちは神の子どもであり、異邦人は「犬」のように扱っていました。滅ぼされるべき存在であるという意味で、非常に侮辱的な言葉だったのです。つまり、イエスがこの異邦の女を侮辱したも同然の状況でした。 先ほど、私はフェニキア民族の由来について話しました。彼らは長い歴史、伝統、優越な文化を持っていました。当時のフェニキア地域はローマ帝国の植民地の一つとなっていましたが、ローマの文化がフェニキア文明から大きく影響を受けたことは否定できない事実でした。また、本文の女は、ギリシャ人と呼ばれました。つまり文化人だったのです。当時のギリシャ人は野蛮人でない人という意味であったため、女の民族的、文化的なプライドは高かったはずです。しかし、主は彼女を「犬のような人間」のように扱われました。数多くの人々がイエスを訪ねましたが、その中に真の信仰を持っている人は何人だったでしょうか。イエスの弟子たちでさえ、不信心の時があるほどでした。つまり、イエスはこの女の信仰を試みられたのです。本当に信仰を持ってきただろうか、それとも他の人々と同じように好奇心や欲望だけできただろうかをお測りになるためだったでしょう。しかし、彼女は驚くべき深さの信仰で、イエスに答えました。「女は答えて言った。主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(28) つまり、言い換えれば、こういう意味でしょう。「もし、あなたが私を犬と呼ばれるなら、私は犬のように扱われても良いです。しかし、犬のような私でも、あなただけが私を助けてくださる方であることを信じています。」彼女はまるでこのような返事をするかのように、主に反応したわけです。 3.謙遜と信仰 「そこで、イエスは言われた。それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」(29-30)もちろん、イエスは心から彼女を犬だとは思っておられたわけではないでしょう。主は全人類の主であり, その愛は人種を選り分けません。主は彼女の信仰を試そうとされたわけでしょう。そして彼女は見事にその試みを乗り越えました。民族、文化、歴史的な優越感ではなく、イエスというお方と自分自身という一人の人間の間にある、あらゆる妨げを乗り越えて、主との関係のみに集中する、その立派な信心を、シリア・フェニキアの女は証明したのです。そして、その証明の根源は彼女の謙遜にありました。「貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。」(詩編22:27)今日の旧約本文の27節には「貧しい者」という表現が出てきます。この「貧しい」の原文は「アナブ」というヘブライ語で、解釈次第で「謙遜である」という意味にもなります。つまり、27節は「謙遜な心を持って主を追い求める者は豊かに恵まれる」という意味でしょう。優れた文化と伝統のフェニキア人、しかもギリシャ人と呼ばれていたシリア・フェニキアの女。彼女はみすぼらしい人間の姿で来られた神の神である主イエスを謙遜な心によって見つけたのでした。主は謙遜を通してご自分の姿を表されます。今日の本文は、その点を大事にしているのです。 締め括り 「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)今日、本文の原文に照らすと、あの有名な山上の垂訓の、この言葉も再解釈できると思います。つまり、「謙遜な者は幸いである、御国は彼らのものである。」ともいえるでしょう。我々の信仰の基礎は謙遜にあります。「自分ではなく、主の貢献によってのみ救われる。私ではなく、神の力によってのみ祝福が与えられる。」という信仰自体が謙遜に基づくものでしょう。このようにキリスト者の信仰にあって謙遜とは、美徳ではなく、本質なのです。その謙遜を貫いて生きる時、主はますます私たちを祝福してくださるでしょう。我が教会が謙遜に生きていきる主の民でありますように祈ります。

イエス·キリスト。

ガラテヤの信徒への手紙1章1~10節(新342頁) 前置き 今日の本文であるガラテヤの信徒への手紙は、宗教改革で有名な人物である「マーティン・ルーサー」がローマ書と共に最も愛した聖書として知られています。中世カトリック教会は、イエスへの信仰と共に人の善行も救いのための必要条件であると理解していましたが、そのような中世カトリックの救い認識に反発したマーティン・ルーサーが「ひとえに主イエスの十字架の貢献のみによる救い」を強調するローマ書とガラテヤ書から大きい霊感を得たからです。私たちが属している日本キリスト教会は長老派の教会であり、長老派の教会は「イエスによってのみ救いを得ることができる」という教えを何よりも重要に思います。「唯一イエス·キリストのお赦し」だけが、人間に真の救いを与える、たった一つの鍵だからです。今日はガラテヤの信徒への手紙1章を通して、イエスおひとりだけによる真の救いについて話してみたいと思います。 1.人間の罪と義認 「義認」という神学用語を聞いたことがありますか? 文字通りに「義(正しい)と認められる。」という意味です。もっと詳しく言えば「神から遣わされた唯一の救い主イエス·キリストのお赦しによって義と認められる。」という言葉です。この「義認」には前提がありますが、それは、この義認の対象となる人間という存在は、生まれつき正しくない存在ということです。旧約聖書の偉大な王ダビデは、詩編51編を通してこう語りました。「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。」(詩篇51:7) 古代中国の思想家「荀子」は人間は悪の本性を持って生まれるという「性悪説」を主張しました。詳細な意味は少し違うかもしれませんが、旧約聖書も「人間は生まれつき罪人である」と述べています。生まれたばかりの赤ちゃんは何の悪いことも犯してないはずなのに、なぜ聖書はすべての人が生まれつき、正しくないと語るのでしょうか? その理由について日本キリスト教会大信仰問答は、このように説明しています。「問44:どうして、人間はこのようなもの(罪による悲惨な存在)になってしまったのでしょうか。答:始祖アダムが罪に堕ちた結果、その裔であるすべての人間も真の自由を失い、その全人格が神のかたちを全く損ない、破れたすがたにおいて残されているだけです。」 すべての人が罪を持って生まれた理由は、アダムという初めの人(人間を代表する)の原罪の影響下にあるからということです。その罪の影響が子孫である全人類に残され、罪に束縛された悲惨な状態になっているということです。生まれたばかりの赤ん坊は、泣きながら自分の意思を表すと言われます。しかし、それはコミュニケーションというよりもイライラすることに近いです。つまり、怒っているということです。保育園に入った子供たちは、些細なことで友達と喧嘩し始めます。「いじめ」という言葉があるほど、幼い生徒たちが友達をいじめることもあります。村八分、部落民といった根深い社会問題も、偏見によって他人を蔑視しやすくなる人間の罪の本性に由来します。つまり、人間は基本的に罪と悪を持って生まれるのです。聖書はその理由を最初の人であるアダムの原罪の影響から示しているのです。アダムの堕落によって、神にいただいた、人間の善と正しさが歪んでしまったということです。 だから、聖書は力強く語ります。「生まれつき罪を持っている人間は、決して自らの手で神の基準を満たすことができない。」人間は、絶対に自分の力で自分の救いを成し遂げることができません。人間はみんな生まれつき罪と悪を持っているからです。 2.おひとりイエスによってのみ。 使徒パウロは、このような生まれつき、罪を持っている人間が、自らの力だけでは、決して救いを得られないことを力強く主張しました。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ書3:10-12) そして、これが初代教会時代の正統的な福音の教えでした。「人間は罪を持っているので、自分だけでは義とされることができず、自らを救うこともできない。ひとえに神が遣わされた救い主、イエス·キリストのお赦しによってのみ、人間は義と認められ、救いを得ることができる。」このように、ただイエス·キリストによってのみ、人間は罪赦され、神の救いを得ることができると証しする聖書の一つが、今日私たちが学ぶガラテヤ書なのです。冒頭に申し上げた、義認の教えは、これです。「人間はただイエス·キリストによってのみ義と認められる。」ところで、使徒パウロは、なぜ、このガラテヤ書を書き残したのでしょうか? それは、その当時のガラテヤ地域に「人間はただイエス·キリストによってのみ義と認められる。」という福音の基礎を否定する人々がいたからです。 イエスの時代のローマ帝国の各地には「ディアスポラ」というユダヤ人のコミュニティがありました。そして、彼らが住む地域にはユダヤ教の会堂(シナゴーグ)がありました。初代教会の時代には、ユダヤ教、キリスト教という区別がなかったため、キリスト者たちも会堂で集会を催すことがあったようです。その時、イスラエルから来たユダヤ主義者たちも自然に初代教会共同体の集会に参列したと思われます。そのようなユダヤ主義者たち、あるいは意図的に近寄ってきたユダヤ主義者たちが、初代教会の信徒たちの福音への理解を歪曲させたようです。例えば「皆さんはただイエス·キリストの貢献によってのみ義と認められると言われていますが、それは違います。律法をご覧ください。行いを大事にしていませんか? イエスというラビを尊敬するのは良いと思います。しかし、それだけでは物足りないです。律法が命じることを行わなければ、イエスを信じるだけでは救われないでしょう。」このようにキリストだけによる救いを否定し、再び律法に戻ってイエスだけでなく自分の善行も加えて救われるべきだと偽りの教えを伝えたのです。そして意外とそんな偽りの教えを真剣に受け止め、イエスだけによる救いを信じない人が多く生じたようです。 3.行いではなくキリストによって。 そのため、パウロは今日、本文の言葉を通して、そのような偽りによる福音の歪曲を警告したのです。「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」(ガラテヤ1:7-9) 私たちは、キリストの十字架での尊い血潮によって、永遠の贖いの恵みをいただき、救われました。キリストは私たちの罪を赦してくださり、父なる神はそのすべてをご計画くださり、聖霊なる神はキリストの救いの力を私たちの中に働かせてくださったのです。私たちの救いは三位一体なる神の協力による恵みです。救いは神のものであるため、どんな良い行いを果たしても、人間は自分の行為によって救いを得ることが出来ません。私たちの宗教的な行い、例えば、祈り、言葉の黙想、献金などの宗教行為が私たちを救うわけではありません。おひとりイエス·キリストが、私たちを救いの道へと導いてくださるという信仰。つまり、主イエスへの信仰を通してのみ、私たちは救いを得ることができるのです。誰かが私たちにキリスト以外の何かで救いを得ることができると誘惑するなら、私たちは絶対にその誘惑にそそのかされてはなりません。 締め括り 今日の本文の御言葉が、私たちに強調しているのは、「イエス・キリストの救いの唯一性です。」世の中には、イエス以外の他のものから救いを探そうとする試みがあまりにも多いです。世の中の数多くの異端やカルト宗教は、その試みから生まれる場合が多いです。時には、政治がそのような試みをすることもあります。日本の場合、日本帝国時代に天皇を神とし、アジア全体の救い主が日本帝国であるという名目で戦争を引き起こすこともありました。当時の日本の教会はそのような政府に屈し、自分だけでなく、植民地の教会にも神社参拝を強要してしまいました。植民地教会の中にも、自ら神社参拝に加担する者がおり、多くのキリスト者が主イエスの救いを裏切ってしまったのです。現在、私たちの生活の中にも、イエス以外の何かから平和と満足を探そうとする試みがあるかもしれません。しかし、私たちは忘れてはなりません。真の救いは、ひとえにイエス·キリストによってのみ、私たちに与えられるものです。キリスト者である私たちは、その事実を絶対に忘れてはなりません。使徒言行録で使徒ペトロが言ったこの言葉が思い起こされます。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録 4:12)

三位一体なる神

イザヤ書6章1~8節(旧1069頁) コリントの信徒への手紙二13章13節(新341頁) 前置き 先週の主日は、ペンテコステ(聖霊降臨節)でした。キリスト教会にはクリスマス、イースター、ペンテコステなど、多くの記念主日があります。ところで、教会は、どんな基準で、その記念主日を決めるのでしょうか? それらは「日本キリスト教会」が、自分で決定した記念主日ではなく「教会暦」という、古くからの教会の伝統に由来するものです。教会暦とは古代のカトリック教会時代からイエス·キリストの生涯を中心にして作られた教会のカレンダーのようなものでした。それが、宗教改革後に、プロテスタント教会にも伝わり、プロテスタント的に変更され、現在の教会も使っているのです。教会暦においての一年の始まりは、各教派ごとにやや違いはありますが、一般的に1月1日ではなく、クリスマスを迎える「アドベント」の初日から始まります。ですので、今年の教会歴は去年のアドベントの初日だった、2023年12月3日からだと言えます。今日、説教の始めから教会暦の話を持ちかけた理由は、教会暦上、ペンテコステの翌週の主日が「三位一体主日」であるからです。つまり、今日は教会暦上、三位一体主日なのです。私たちはよく三位一体の神を口にしますが、その意味についてはあまり詳細でないかもしれません。今日も、一部ではあると思いますが、少しでも三位一体について語り、私たちにとって三位一体とは、どういう意味を持つのか考えてみたいと思います。 1. 誰が我々に代わって行くだろうか。 「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」(イザヤ6:8) 今日の旧約本文は、主なる神と預言者イザヤとの出会いが記されている、イザヤ書で特に意味深い箇所です。ここで、私たちは神がご自身のことを「我々」と呼ばれることが分かります。現代神学では、神のこの「我々」という複数表現が、三位一体を意味するのではなく、神の偉大さを強調する表現だと主張する人もいますが、教会は歴史的に「我々」という表現が、御父、御子、御霊の三位一体を意味するものだと信じてきました。今日の本文を含め、旧約聖書には神がご自身のことを「我々」と呼ばれる箇所が、いくつか出てきていますが、このような理由で、教会は神が「我々」という形で存在しておられる方だと思いました。おひとりですが、おひとりではない方だと理解したわけです。そういうわけで、近現代に入っては、三位一体への色々な解釈が出てきました。「三葉のクローバーのように根本は同じだが、父、子、霊に分かれる存在」あるいは「父、母、子のように相互別人だが、結局は一つの家族」という解釈など、いろいろな解釈がはびこりました。しかし、三位一体の存在の仕方は、人間の知性では理解できない神秘なので、上記のように無理な解釈は控えるべきだと思います。 ただ、私たちは聖書が証するように、神は「御父、御子、御霊」として存在しておられるが、一つの存在であるという理解で考えを止めるべきです。「三つにいまして、一つなる。」という讃美歌の歌詞を憶えましょう。旧約聖書のあちこちで、万物の父である神について語ります。また、詩編などでは子なる神について語ります。そして預言書などでは神の霊である聖霊について語ります。新約では、今日の新約本文のように「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」(第二コリント13:13)と三位一体なる神を直接示します。私たちが信じる神はおひとりの神です。しかし、聖書はその方が三つの位格として存在されると証します。この三位一体なる神はお互いに協力し合い、ご自分の御業を成し遂げていかれます。世界の創造も、罪人の救いも、教会と世への導きも、三位一体なる神は、一位格が独断的に主導されず、お互いに謙虚に愛しあい、仕えあい、すべてを協力しあって治めていかれるのです。今日の本文は、この三位一体なる神が、預言者イザヤを召され、罪を赦され、主の預言者として働く栄光を与えてくださる場面です。そのイザヤへの神の召しのように、神は主の教会を一つの位格が独断的に召されたわけではありません。父なる神の計画、御子キリストの救い、聖霊なる神の導き、三位一体がお互いに協力しあって教会を召され、主の民として生きる機会を与えてくださったのです。 2. 三位一体が教会に与える有益。 三位一体なる神の「お互いに協力しあって創造し、救い、導いておられる姿」は教会に教訓と有益を与えます。イエスは弟子たちにこう言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ福音13:34)イエスは弟子たちが互いに愛しあうことを命じられました。この世は、愛するより憎みやすい所です。人と人が、地域と地域が、国と国が、民族と民族が憎み合いやすいです。他人が自分に大きくやさしくしてくれたことよりは、自分に小さく誤ったことを赦さず返そうとするのが普通です。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」(ルカ福音6:32-35) このような憎しみに満ちた世界で、それにもかかわらず、イエスはご自分によって父なる神に赦されたキリスト者たちが、愛して生きることを命じておられるのです。それでは、そのイエスの愛は、どこに由来するものなのでしょうか? それは、三位一体なる神のお互いの愛からです。イエスが洗礼者ヨハネに洗礼を受けられた時、父なる神はこのように言われました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ福音3:17) 御父は御子を愛し、また御子は御父を愛しておられます。神の霊である聖霊も父と子を愛し、父と子も聖霊を愛しておられます。だから、聖書はこう語ります。「神は愛です。」(第一ヨハネ4:16) そのような三位一体の愛によって、イエスは主の民である教会にも愛を与えてくださいます。そのような三位一体の愛にならって、教会も愛を分かち合い、それを通して教会の肢である兄弟姉妹がお互いに愛しあうようになるのです。父なる神が三位一体の頭になり、共に三位一体を成される御子と御霊が愛の中で一つになられたように、イエス·キリストが頭となる神の教会も、この三位一体の愛にならって、互いに愛しあいながら生きるのです。ここに三位一体が持つ有益があります。 愛するのは決して簡単なことではありません。愛についての説教を頻繁に続けてきた私でさえ、正直、兄弟姉妹や隣人を自分自身のように愛することができない現実を痛感します。時々、人間は愛よりも憎しみの方が気楽な存在ではないかと思われるほどです。けれども、私たちが憎しみやすい存在であっても、私たちの主、三位一体なる神は、お互いに愛し合っておられるという事実が、憎みやすい私たち自身を振り返らせる理由になると思います。「私たちは完全な愛ができないかもしれないが、私たちが崇める三位一体なる神は、お互いに完全な愛をされ、また、その愛をこの世に与えてくださった。だから、私たちも三位一体なる神にならって愛を追い求めなければならない。」このように三位一体の存在は、私たちをその方の愛に招き、また私たちも他人を愛しながら生きるようにするのです。もう一つ重要なことは、この愛の中で三位一体の神がお互いに協力し合われるということです。これは教会にも見習うべき大事なあり方になります。愛するからこそ、お互いに協力し合うことができるのです。志免教会もお互いに愛しあい、お互いに感謝しあう心で、協力しつつ生きていきたいと思います。御父、御子、御霊が協力しあってこの世を造られ、罪人を救われ、教会を導かれるように、私たちも愛の中で互いに協力しあって教会を成し、仕え、立てていきたいと思います。 締め括り 三位一体は、人間の認識では、簡単に理解できない、難しくて神秘な神の存在し方です。しかし、聖書は明らかに神が三位一体として存在しておられると語っています。難解で神秘なので、理解するのは難しいかもしれませんが、少なくとも私たちは神がそのように存在しておられるという聖書の証を認め、信じるべきではないかと思います。何よりも大事なのは、三位一体という神の形より、その三位一体なる神が、お互いに愛しておられること、そして、愛によって協力しておられることなのです。この三位一体主日を通して、三位一体なる神について学び、三位一体に倣って互いに愛し協力しながら生きる志免教会であることを祈ります。

聖霊なる神によって。

ヨエル書3章1~2節(旧1425頁) ヨハネによる福音書15章26~27節(新199頁) 前置き 今日は、聖霊なる神の降臨を記念する「聖霊降臨節」です。日本の教会では「ペンテコステ」とよく呼ばれていますが、その意味は数字の「50」です。初代教会の聖霊降臨の背景となる時期である、「ユダヤ教の過越祭後の初日から7週目になる日」(七週祭)、つまり過越祭から50日目となる日だったので、ギリシャ語の50を意味する「ペンテコステ」と呼んでいるのです。ちなみに、この「ペンテコステ」はイエスの復活から50日目になる日でもあります。ところで、教会は、なぜ聖霊の降臨を記念するのでしょうか? 聖霊の降臨が持つ意味は何でしょうか? 今日は、聖霊降臨の意味について話し、聖霊降臨節、つまりペンテコステを記念する理由について考えてみたいと思います。 1.聖霊降臨の約束。 「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」(ヨエル3:1-2) 今日の旧約本文は「その後」という言葉から始まり、主なる神が主のしもべたちに主の霊(聖霊)を注いでくださると書いてあります。ここで「その後」とはどういう意味でしょうか。何の後に聖霊をくださるということでしょうか? その内容はヨエル書2章で確かめることができます。ヨエル書2章1節には「主の日が来る」と記してありますが、その日は主なる神の「裁き」の日であり、誰も主の裁きから自由ではないことを警告しています。ヨエル書は「主の日」が来る時に主の民が主なる神の御前で悔い改め、赦されることを呼びかけています。民が悔い改め、神が赦してくださるその日、主の民は真の喜びをいただき、二度と恥を受けないと預言しています。新約時代を生きる私たちは、この「主の日」をどのように解釈すべきでしょうか? 神は主イエスを救い主として遣わしてくださり、世のすべての人々に主イエスによる悔い改めの機会を与えてくださいました。いつか主なる神は必ずこの世を裁かれ、主に逆らうすべての者は、その裁きを受けることになるでしょう。神はその日のために主イエスという救い主を遣わされ、その方によって悔い改める者たちに主の裁きを避ける救いの道を与えてくださいました。 したがって、ヨエル書が語る「主の日」は「主の裁きの日」でありながら「主の救いの日」でもあります。キリストを知らない者にとって「主の日」は滅びの日となりますが、キリストを知る者にとって「主の日」は救いの日になるということでしょう。だから、今日の本文の「その後」という表現は、イエス·キリストによる救いの日の後のことでしょう。私たちはイエス·キリストが人類の罪を赦してくださるために十字架にかかられ、犠牲になったことを知っています。また、三日目に復活され、罪人への真の救いを完成してくださったことも知っています。また、私たちはキリストが、私たちにすでにご自分の恵みによる救いを与えてくださったことをも知っています。したがって、私たちはイエス·キリストによってすでに「救いの日」を経験し、その救いの中で生きている存在です。この救いの日を生きている私たちに、神は「聖霊を注いでくださる」と約束されたのです。ですので、聖霊降臨は主イエスによって救われた者たちなら、必ず与えられるに決まっている神の恵みです。この世に希望がなく、悲しみと苦しみが多くても、主が約束された聖霊は、私たちと一緒におられ、必ず私たちの人生を導いてくださるでしょう。それが神の約束だからです。 2. 聖霊はキリストを証する。 それなら、私たちは、すでに聖霊を受けた者として、ここに集っていると結論を下すことができます。しかし、神に聖霊を遣わしていただいたと自負できる人は少ないでしょう。聖霊が自分に来られた記憶がないからです。聖霊降臨というのはどういう意味でしょうか? まず知っておくべきことは、聖霊は遣り取りする物ではないということです。聖霊は三位一体の一位格の神です。「注ぐ」という表現のため、まるで聖霊がオリーブ油やぶどう酒のような旧約聖書に出てくる液体と感じられますが、「聖霊を注ぐ」という表現は比喩として理解すべきです。旧約時代には、主なる神が、王、預言者、祭司を選ばれる時、彼らの頭に香油を注げと命じられました。油が注がれる時、神の霊が彼らに臨まれ、主の御心通りに導かれました。「聖霊を注ぐ」という表現は、ここに由来したのです。したがって、聖霊は生ける神なのです。旧約において油を注ぐということは、聖霊なる神のご臨在を意味するものです。したがって、私たちは「聖霊なる神」を御父や御子より劣る存在だと考えてはなりません。キリストの御救いによって、私たちに聖霊が注がれたということは、旧約時代に香油を注ぎ、イスラエルの王、預言者、祭司を任命したように、新約時代には、主キリストによって、聖霊なる神が直接私たちに臨まれたということを意味します。そのような意味として、私たちにすでに聖霊が臨んだこの時代には、私たちは旧約の王、預言者、祭司のような特別な存在として召されているのです。 私たちは聖霊の降臨という表現を誤解しがちだと思います。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2:1-4)、このような使徒言行録の言葉のため、聖霊は私たちの日常に画期的な変化を引き起こすだろうと誤解しやすいです。もちろん、主の御心に応じて、このような目立つ大きな変化が起こる可能性もあります。しかし、すべての人に、そのような出来事があるとは言えません。聖霊の降臨を経験した人の最大の特徴は次の言葉から覗き見ることが出来ます。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ福音15:26) 聖霊降臨の最も大きな特徴はイエス·キリストを証しすることです。聖霊が人に臨まれると、イエスを主と告白しなかった人が、イエスが主だと告白するようになります。神の御心に興味がなかった人が、神の御心とは何か、知りたくなります。聖霊の最も重要なお働きは、激しい風や炎のような舌みたいな、特別な霊的現象ではなく、イエス·キリストという方を信じさせ、証しさせることです。 締め括り だから、その聖霊なる神が、私たちに臨まれると、私たちも自然にイエス・キリストを知り、証しするようになります。私たちは皆、生まれつき、イエスを知らない状態に生まれます。しかし、キリストが私たちを選び、救ってくださる時、私たちに聖霊が臨まれ、イエスを主と告白し、信じることになります。そして、イエスの御言葉を、「私たちに与えられた主の御心」として認め、聖書の御言葉を大切にするようになります。したがって、今日も聖書と説教を通じて、感謝して主の御言葉にあずかり、そのために礼拝に出席した私たちは、聖霊のともに生きる存在であるのです。特別な奇跡を経験しなくても大丈夫です。絶対的な霊的体験がなくても問題ありません。その影響はそんなに長く続かないからです。最も大事な聖霊臨在の経験は、イエスへの信仰が生まれたことだと言っても過言ではありません。私たちに主イエスへの信仰があり、主を自分の救い主と認め、その方と共に歩もうとするならば、私たちには、すでに聖霊が臨んでおられると信じても良いです。聖霊降臨節の主日、このペンテコステに私たちが必ず憶えなければならないことは、このイエス·キリストを証しする聖霊が私たちに臨んでおられるということです。そして、その聖霊の御心に従ってイエス·キリストを憶え、その方の御言葉に従順に聞き従いつつ生きようと努力することが、聖霊が私たちに臨まれた、第一の証拠であると信じます。聖霊と一緒に生きる志免教会の兄弟姉妹であるように祈ります。

神の言葉は生きている。

イザヤ書55章6~8節(旧1152頁) ヘブライ人への手紙4章12節(新405頁) 前置き なぜ、私たちは主日ごとに教会に出席して説教を聞いているのでしょうか? それは聖書に記された主なる神の御言葉を説教を通じて聞くためです。説教は説教者個人の知識を自慢する手立てでも、説教者の思想を広める手立てでもありません。説教は新旧約聖書に記された神の御言葉を(説教する当時の)聞き手が聞き取れる言葉で宣べ伝え、数千年前に記録された主の御心を、現代の言葉に教えるための大事な道具です。したがって、説教者も聞き手も、個人が追い求める欲望、思想、必要によって主の言葉を歪曲しないように格別に気を付けなければなりません。それにもかかわらず、不完全な人間が説教し、説教を聞きながら神の言葉が歪曲される可能性があり、心配です。しかし、聖書は語ります。聖霊なる神が、聖書の解釈者になって説教者の口と聞き手の耳を導いてくださると。つまり、聖書に記録された御言葉は、聖霊によって生命を得て、今も生き生きと働き、御言葉によって主の御心が伝えられるように生きているのです。今日は、主なる神の生きている御言葉について話してみたいと思います。 1. この世の言葉とは異なる神の言葉。 「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。」(イザヤ55:6-8) 今日の旧約本文は、罪と偶像崇拝によって罰を受け、滅ぼされてしまったイスラエルの民を赦し、もう一度機会を与えようとされる神の心が書いてある箇所です。イスラエルは神の祭司の王国と呼ばれる聖別された民族でした。他の国々のように武力で他国を征服したり、富で他国を圧倒するのではなく、ひとえに神の御救いの言葉を伝えるために生まれた、祭司長のような国として神に選ばれた民族でした。しかし、彼らは他の国々のように武力と富を求めました。その結果、イスラエル民族は、真っ二つに分かれてしまい、その後、子孫の罪と偶像崇拝のため、主なる神に用いられたアッシリアとバビロンによって滅ぼされたのです。今日の旧約本文は、そのように滅びてしまったイスラエルへの主なる神のお赦しと回復を呼びかける言葉です。「主はあなたたちイスラエルの近くにおられる。今こそ帰るべき時である。主を尋ね求めよ。罪を捨てて主のもとに帰れ、主がお憐れみで待っておられる。」 主の民が失敗して、何をすれば良いか、どうすれば良いか、到底見当がつかない時に、主なる神は迷わずに主に帰ってくることを呼びかけておられます。聖書を通して主は言われます。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる。」世の常識によれば、罪を犯した人は、赦されにくくなります。犯罪者が釈放後、再出発するのが難しい理由も、社会は一度の失敗を人を簡単に許さないからです。しかし、主なる神は、この世の常識とは異なる思いによって、罪人に接しておられるということを、今日の旧約本文は教えてくれます。主の御言葉(思い)は、この世の常識とは全く違います。失敗して到底二度と起きられないような絶望の中でも、主の御言葉は「新しく始めることが出来る」と語ります。この世は失敗した者を蔑視しても、主は世間の思いとは違って新しい始まりを語られます。私たちがこの世の言葉ではなく、主なる神の言葉に耳を傾けなければならない理由がここにあります。世の言葉は押さえつけて殺す言葉です。しかし、主の御言葉は立て直して生かす言葉です。世はもう終わりだと言っても、主の言葉はこれから始まりだと言います。孤独で厳しい現代社会を生きている私たちに神の御言葉が必要な理由です。 2. 神の言葉は生きている。 「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブライ4:12)以前にも説教の時に申し上げたことがありますが、「言葉」をギリシア語で言うと「ロゴス」になります。ところで「ロゴス」は言葉を意味するとともに「考え、思い、理屈、思想、意見、説明」などの意味も持ちます。つまり、主の言葉としてのロゴスは、主なる神の「思い、理屈」とも言えるでしょう。ですから、先ほどの説教で主の言葉を主の思いとも申し上げたのです。新約聖書ヨハネによる福音書は、このように語ります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ福音1:14) つまり、神の御言葉が肉体となって、私たちに来られた神の子イエス·キリストは、主なる神の思いと理屈を人間に完全に伝える主のロゴスとして私たちの間に一緒におられるのです。牧師の説教は、この主なる神の思いと理屈を完全に表されるイエス・キリストとその御言葉をありのままに伝えなければなりません。説教に通して宣べ伝えられる主の御言葉によって人間は御言葉どおりに望ましく変わることができるからです。 日頃、私たちは、主の御言葉の働きを力強く感じて生きるのが容易くありません。聖書を読んでもその意味が分かりにくく、毎日御言葉を黙想しても圧倒的な人生の変化を経験するのは難しいです。しかし、毎日少しずつの御言葉からの小さい学びによって、私たちの人生は少しずつ主の御心に気づいていき、その御心に従って生きるようになります。隣人を愛しなさいという繰り返しの主の御言葉は、私たちの生活にあって隣人を配慮しなければならないということを思い出させます。常に祈りなさいという御言葉は、心の中に「祈らないと」という聖なる負担感を与えます。主の御言葉に隠れている神の思いと理屈は、私たちの人生でいっぺんに大きな変化を起こすことはなくても、小さな変化が続く呼び水になることはできます。そして、その小さな変化が積もっていき、ある瞬間(あるいは神の時が来れば)、私たちの人生に大きな津波のように力強く働き始めます。神の言葉は生きており、力を発揮して働くからです。今すぐはかすかに感じられても、決定的な瞬間に私たちの人生に強く働いて著しい変化をもたらします。その時になれば、まるで両刃の剣のように、いや、それ以上鋭く、私たちの心と良心と思いを刺し通して、主の御前に悔い改めさせ、神の御心を推し量らせ、人生の変化にまでつながらせるようになるのです。 3。だからこそ、聞かなければならない。 そういうわけで、使徒パウロはこう語ったのではないでしょうか? 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17) 私たちは御言葉を聞かなければなりません。御言葉が聞き取れるか、聞き取れないかを問わず、私たちは常に御言葉に耳を傾けなければなりません。今日、聞いた御言葉が、すぐに私たちの人生にあって働くかもしれませんが、すぐに働かないと言っても、御言葉の小さな一片一片が集まって、自分の人生を変える津波になって戻ってくるということを常に心に留めて生きていきたいと思います。御言葉は喜びのない者と絶望に陥っている者に、主なる神の思いが世の思いと違うということを、諦めたい者に新しい道が開かれているということを知らせる希望の道具です。今すぐ変化がなくても、いつか神の時になれば、大きな変化を起こす、主なる神の大事な道具です。御言葉は生きています。聖霊なる神が御言葉を用いられ、私たちの人生を美しく導いていかれるからです。ですから、私たちは、毎日、主の御言葉を読み、その御言葉に聞き従い、主の思いを待ち望みながら生きていかなければなりません。生きている神の言葉は、今日も私たちと共にあり、私たちの人生を正しい道へと導きながら生きています。 締め括り 改革教会には非常に重要な二人の人物がいます。一人はアウグスティヌスであり、一人はマーティン・ルーサーであります。アウグスティヌスはプロテスタント教会、カトリック教会を問わない初期キリスト教会の教理を整理した尊敬される神学者です。マーティン·ルーサーは宗教改革の核心的な人物で、プロテスタント教会の歴史上、最も重要な人だと評価されます。この二人の共通点は偶然のきっかけでローマ書の言葉を読んだところにあります。二人とも、ローマ書の言葉によって人生が変わり、偉大な業を果たす勇気を得たのです。彼らのような偉大な人物でなくても、窓からの風で聖書が開き、そのページの偶然の言葉を読んで回心したり、信仰を持ったりしたとの証は数え切れないほど多いです。御言葉は聖書に記されており、動けない文字にすぎないと思われがちですが、神はその御言葉を通して、教会の歴史を導いてこられました。私たちも主なる神の御言葉を聖書の中の文字だけに思わず、自分の人生の中で力強く働けるように毎日毎日聖書を読み、学びつつ生きていきましょう。主なる神の御言葉は生きており、御言葉を大事にする私たちの人生にあって働いてくれるでしょう。

草は枯れ、花は散るが。

箴言16章9節(旧1011頁) ペトロの手紙一1章23~25節(新429頁) 前置き 「人事を尽くして天命を待つ」ということわざがあります。中国南宋時代、胡寅(こいん)という儒学者が残した言葉で、「人間の能力で可能な限りの努力をしたら、あとは焦らず静かに結果を天の意思に任せる」という意味です。南宋時代は西暦1098年~1156年頃ですが「人事を尽くして天命を待つ。」と似たような聖書の言葉がそれより数千年も前からありました。南宋時代は中国宣教が始まる数百年前ですので、聖書の影響で生まれた言葉ではないでしょうが、「人事を尽くして天命を待つ」という思想は古今東西を問わず、人々の一般的な認識だったようです。人事を尽くして天命を待つ。もしかしたら、とても聖書的な言葉であるかもしれません。今日は、箴言の言葉を通じて聖書的な「人事を尽くして天命を待つ」について考えてみたいと思います。 1. 自分の思い通りにならない人生。 何日前、妻と会話する時、心に迫ってくることがありました。「最近のあなたは来日したばかりの頃より冷めているよね」でした。最初、協力宣教師として赴任した頃は、情熱的に宣教と伝道を考え、熱心に説教と祈祷会の準備をしたあまり、過労で倒れそうに見えたが、最近はそんなに熱くないということでした。考えてみれば、本当にそうかもと思いました。志免教会に来て1年あまりの頃、私の説教は50分に近いほど長く、水曜祈祷会を2時間した時もありました。まるで、明日はないかのように何でも熱心だったと思います。しかし、時間の経ちにつれ、教会の人数は増えず、特にコロナ時代を経て、明確な変化なしに高齢化は進み、何人かの新しい方々は落ち着かず遠ざかってしまい、いろんな状況にがっかりするようになり、その結果、情熱も以前より冷めているかもしれないと思いました。最初の期待とトキメキが消えていきつつ、毎週の説教作りと皆さんとの最小限の交わり、中会の仕事だけで満足する消極的な自分になっているのではないか顧みることになりました。 なぜ、そうなってしまっただろうか、じっくり考えてみたら、「時間の経ちにつれて人は増えるだろう。目に見える結果があるだろう。」という自分の願いが叶わなかったのが原因ではないかと思います。いつも、教会は神の御心による共同体だと説教し、私自身もそう考えていましたが、結局、私は自分自身の願いが早く叶わないことで、知らず知らずに疲れてしまったかもしれません。私だけでなく、多くのキリスト者が自分の思い通りにならない現実のため、疲れてしまうかもしれません。長い間の祈りに神の答えは聞こえず、大きな変化もない人生に両手上げする人もいるかもしれません。長年、信仰生活をしてこられた、皆さんにもそのような経験がおありかもしれないと控えめに考えてみます。本当に私たちの人生は最初の計画や考えと違う結果につながる場合が多いです。そのような状況の中で、私たちは主なる神が本当に自分の祈りを聞いておられるのか、さらには神という存在が本当にいるのかと、信仰的な懐疑に陥るようになるかもしれません。しかし、人々のこういう悩みが、すでに遠い昔にもあったかのように、箴言はこう語っています。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」(箴言16:9) 2. 人間の計画と神の計画。 以上の言葉は、「人間が自分の道を計画すれば、神がその道を備えてくださる」のふうに読まれるかもしれません。しかし、原語のニュアンスはそれとは異なります。「人の心は積極的に自分の道を計画する。しかし、結局その道は主の御心にかかっている。」のほうが原文により近い意味だと思います。つまり、人が自分の心に立派な計画を立てても、結局そのすべては神の御心によって定められるということです。だから、私たちが計画を立てても、その計画通りにならないのは当然であるかもしれません。自分は100歳まで生きると決めても、今夜主に召されるかもしれないのが私たちの命です。幼い頃は皆に自分の夢があるでしょうが、すべての人がその夢を叶えるわけではありません。2019年に協力宣教師として赴任した私は、志免教会に新しい信者が増え、子供たちも来ると信じて祈りました。しかし、私が計画した通りにうまく行かなかったのです。そのため、がっかりしなかったとは言えないのが事実です。そして、だれにでもそんな経験があるかもしれません。 しかし、箴言は、すでにそのようなことについて語っています。もしかしたら、私たちの計画と考えが、思い通りにならないのはすごく自然なことであるかもしれません。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴言19:21)「人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。」(箴言20:24)人の計画には成し遂げられない可能性があり、私たちの人生は不確実性の中にあるということです。今日の旧約本文もそのような観点から理解する必要があります。私たちの計画は神の御心を超えることができません。神の御心とは何か、私たち自身は神ではないのではっきりは分かりません。しかし、神の御心が、すなわち神のご計画であるのは分かります。つまり、私たちの計画は神の計画のもとにあるとき、完全になります。私たちの思いでは、教会が大きくなり、明るい未来が見えてくるのが正しいかもしれません。しかし、神の計画ではすぐに教会が大きくなり、明るい未来が見えてくるよりは、小さな群れ、見えない未来の中でも、主なる神の民として、自分のあり方を守りつつ生きるのがより神の御心、ご計画に近いのであるかもしれません。したがって、私たちは自分の計画が成し遂げられないんだとがっかりする前に、神の計画は何であり、主が私たちに本当に望んでおられることは何であるかをまず考えならなければならないと思います。 3. 草は枯れ、花は散るが、主の言葉は永遠に変わらない。 「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(1ベドロ1:23-25) 今日の新約本文ペトロの手紙1は、今のトルコ地域に住んでいた初代教会のキリスト者たちへのペトロの教えです。当時、その地域のキリスト者たちはローマ帝国やユダヤ人たちの迫害によって辛い時を過ごしていました。誰かは教会と家族の平和のために祈り、誰かは自分の信仰を守るために祈ったでしょう。しかし、状況はそう簡単に改善されませんでした。一緒に礼拝していた兄弟姉妹の中で、背教して礼拝をやめる人も生じ、苦しい迫害に気がくじけて信仰を捨ててしまう者もいました。ペトロはそのように迫害される者たちにこう語ったのです。「あなたたちがイエス·キリストによっていただいた信仰は朽ちるものではなく、朽ちないものである。なぜなら、その信仰は主の御言葉によって与えられたものだから。すべての肉体は草のようで、その華やかさも花のようで、すべては枯れていくだろう。しかし、主の御言葉は永遠に変わることなく、あなたたちと共にあるだろう。」 人生を生きながら、自分の思い通りにならない現実と向き合う時がきっと迫ってくるでしょう。長年、信仰を続けてこられた皆さんは、何度も経験された、すでに知っておられる事実であるもしれません。しかし、聖書は語ります。「自分の思い通りにならないことにがっかりせず、それにもかかわらず、私たちのためのご計画を備えておられる主に信頼しなさい。」私たちの目に良くないのが、実は、主の御目には良いものであるかもしれず、また私たちの目に正しいのが神の御目には正しくないものであるかもしれません。良いことと悪いこと、正しいことと正しくないことの判断は、主なる神の事柄です。箴言16章25節は、このように述べています。「人間の前途がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある。」私たちは自分の目と考えを盲信してはなりません。主が何を望んでおられるのか、どんな計画を立てておられるのか、弱い私たち人間は絶対に分からないでしょう。しかし、少なくとも私たちの考えと計画が草と花のように枯れ散っても、私たちを助ける、主の御言葉は永遠にあり、私たちの道を導くことを信じて生きたいと思います。神は永遠に私たちを見捨てられず、御言葉通りに導いてくださるでしょう。その主なる神への信頼によって、決して順調でないこの世を生き抜いて進みたいと思います。 締め括り また、最初の話しに戻って、キリスト者にとって「人事を尽くして天命を待つ。」という言葉はどういう意味なのでしょうか。キリスト者に与えられた、全うすべき人事とは、神に出会い、神を知り、神を信じ、その方と共に生きることです。私たちは自分の願いを叶えるために神を信じているわけではありません。それは付随的なことであって、信仰の真の理由は「神と共に生きること」にあります。ですから、神を信じるからといって、私たちのすべての願いが叶い、すべての状況がうまくいくとは限りません。主なる神に出会って(肉体的に)うまくいく人もいれば、神に出会ってもうまく行かない人もいます。重要なのは自分に託された人生を全うして神と共に生き、その結果は一生の間、私たちと共におられる神に任せるものです。私たちは草と花のように弱い存在で、枯れ散っていきます。けれども、主の御言葉は永遠にあって私たちの道を導き、終わりには必ず豊かな祝福で報いてくれるでしょう。それを信じる人生の旅路が、真の意味の信仰の道ではないでしょうか。

新しい葡萄酒は新しい革袋に。

イザヤ55章1-7節(旧1152頁) マルコによる福音書2章18-22節(新64頁) 前置き 「新しい酒は新しい革袋に盛れ。」 という言葉があります。「新しい発想を実現したり、世代交代を進めたりしようとする時、それに応じる新たな形式や環境を促す」ために、よく使う表現です。ところで、この言葉は、実は新約聖書の「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という主イエスの御言葉に由来します。しかし、聖書の言葉を真似したこの表現は聖書の本当の意味を見落とした表現であるかもしれません。もともと、この表現にはイエスを信じる者にふさわしく生きろという意味が含まれているからです。イエスは、なぜ、この言葉を言われたのでしょうか? そして、この表現の本当の意味は何でしょうか? 今日は、「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という御言葉を通じて、この言葉が持つ意味について考えてみたいと思います。 1. 間違った宗教儀式に囚われていたイスラエル社会 イエスが公生涯を始められた時、イスラエル社会は宗教儀式に囚われていました。宗教の真の意味より、宗教行為に執着している社会だったということです。例えば、当時の宗教指導者、あるいは、宗教に熱心だったユダヤの宗教共同体は、少なくとも月に2回、多くは週に何度も断食をしたと言われます。特に、当時の尊敬されていたファリサイ派の人々は、頻繁に断食をしながら、貧しい者たちへ救済をしました。彼らは断食の時に、洗面もせずに、顔の辛い表情をも隠さずにいました。自分の宗教行為を隠さなかったということです。そして、そのような姿で救済を行い、救済でさえ、自分の宗教行為として用いたのです。そのような行いによって、イエスが登場する前まで、ファリサイ派の人々はユダヤ人社会で尊敬されたのです。「ファリサイ派の先生たちはやっぱり偉いんだ。私たちとはぜんぜん違う。彼らは神の正しい者なのだ。」のように、人々の褒め言葉と尊敬が彼らについてきました。 しかし、彼らの宗教行為の裏には「そうだ。この私は普通の人々とは違う。自分は正しい者だから。」という偽善が隠れていました。彼らの祈り、救済そのものには、確かに社会への良い影響があったのですが、心の奥底には、神に栄光帰すより、ひそかに自分の義を表わそうとする宗教的な欲望が隠れていたのです。ということで、何の褒め言葉も代価も求めないで、ただ人々を愛し、癒し、教えてくださるイエスは、自然に彼らに憎まれるようになったのです。彼らは、道端や神殿の入口で長く祈り、断食の時に苦しい顔を見せ、救済の時には偉そうに威張って、人々に褒められたのです。しかし、イエスは彼らよりさらに慰め、癒し、奇跡を行われながらも、何の代価も求められなかったのです。ただ、主イエスが望んでおられたことは、人々が悔い改めて、神に帰って来ることだけだったのです。だから、人々の関心と愛がイエスに集中されるのは当然の結果でした。それによって、彼らはイエスが人々の人気を横取りすると思い、イエスを憎むようになったのです。 2.私たちの姿はどうか。 イエスの時代のエルサレムには、表面上、神に献げ物を捧げる神殿があり、断食と祈りといった宗教儀式があり、貧しい人々への救済がある、それなりの宗教的な秩序が定着されている所でした。しかし、エルサレムを離れると、貧しい人々のうめき声が聞こえ、弱者が疎外され、既得権者の偽善が満ち溢れていました。今日の旧約本文のイザヤ書を通して、主なる神は言われました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。」(イサヤ55:1-2)神は、このように誰でも神の御前に来て、飾り気と偽善のない真の交わりを望まれる方だったのです。なのに、イエスの時代のイスラエル社会は多くの献金や祈りや宗教行為が、宗教的な熱心さに勘違いされ、それによって宗教的な欲望を満す、主なる神の御心とかけ離れた宗教社会だったのです。このような社会の中で、貧しくて弱い人々は何の慰めも、助けも得ることができませんでした。 残念なことにそれらは、聖書だけに記されている問題ではないということです。ひょっとしたら、これは現代を生きる私たちからも見える問題であるかもしれません。以前ある教会で説教するとき、ひどい目にあった未信者の知り合いの話をして、祈りを求めたことがあります。その話で時間が長くなり、説教の内容とも少しずれるところがあり、申し訳ないと思いました。ところで、案の定、礼拝後にある方に説教の時は余計な話は控えてほしいと言われました。意図は十分わかりましたが、一方では「ひどい目にあった未信者のための祈りが礼拝でなければ、はたして何が礼拝だろうか。苦しい隣人のために祈りを求める以上の礼拝はあるだろうか。」同時に、聖書の言葉が一つ思い起されてきました。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」(マタイ9:13)その日は、なんとなく寂しくなりました。 3. 宗教儀式ではなく信仰と愛を持って。 私は韓国の代表的な長老派教会である高神派出身の者です。高神派は神社参拝反対運動で有名な教会です。その信仰の誇りは韓国の教会の中でも目立つほどです。そういうわけで、私は子供の時から「高神派的な信仰」という言葉をよく耳にしながら育ちました。また、日本に来ては「日本キリスト教会的な説教」という表現を聞くことになりました。それを初めて聞いた時、母教会の高神派が思い浮かびながら、なんとなく日本キリスト教会のプライドが分かってきました。高神派教会と日本キリスト教会は、まるで双子のように感じられます。ところで、高神派的な信仰は何であり、また、日本キリスト教会的な説教とは何でありますでしょうか。イエスが望まれたのは、高神派的な信仰、または、日本キリスト教会的な説教なのでしょうか? キリストが望んでおられる価値は何であるだろうかと思うようになります。形式は大事です。しかし、主の教会には、もっと大事な普遍的な価値があります。ファリサイ派の人々とヨハネの弟子たちが断食する時、人々はイエスに「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」と尋ねました。しかし、それは弟子たちへの不満ではありませんでした。イエスへの抗議だったのです。おそらく、彼らにもユダヤ教への大きな誇りがあったはずです。彼らは「なぜ、あなたは私たちの形式(律法)を無視するのですか?」と問い詰めたわけです。 その時、イエスは「新しいぶどう酒は新しい革袋に。」という多少理解しにくい言葉を言われました。イエスは旧約の律法を完成なさるために来られた方です。そして、主は旧約の数多くの律法が「神と隣人への愛の実践」のために与えられたと教えてくださいました。つまり、律法の完成とは、律法の精神、つまり、愛の実践だと言って過言ではないでしょう。主は多くの宗教儀式や教義的な立場ではなく、神の愛を日常生活にあって実践することに関心を持っておられたのでです。もちろん、律法も教義も大事です。しかし、そのすべてが神のご命令、愛の実践ための道具であることを見逃してはなりません。イエスはご自身の福音を通して、偽善的な宗教儀式に縛られていた以前の姿を捨てて、神と隣人への真の愛と実践のある、新しい信仰を望まれたのです。自分の宗教的な欲望のための信仰ではなく、神がご計画なさった、生き生きとした信仰を望んでおられるのです。神が求められることは、何十年も繰り返してきた習慣的な宗教行為ではなく、ただ一分一秒でも隣人への真の憐れみと愛ではないかと顧みたいと思います。このイエスを信じる私たちは、昔のユダヤ人が追い求めた自分の信仰的な欲望や偽善的な宗教生活ではなく、真に主の手と足となり、主の栄光のために行い、神と隣人の喜びになるために努力しつつ生きるべきではないでしょうか。 締め括り 主イエスはご自分の犠牲を通して、愛の宗教という新しい革袋としての教会を打ち立てられました。そして、その教会に属する者たちは、新しいぶどう酒のように、神の御心に適う人生を生きるべきです。古い革袋に新しいぶどう酒を入れると、熟成する時のガスによって袋が裂けてしまいます。主イエスは新しい革袋として、愛の共同体である教会を与えてくださいました。そして、その中で生きる私たちは主による愛の実践を貫いていくべきでしょう。その時はじめて、私たちは美味しくて良いぶどう酒のように、神の喜びになるでしょう。神の国は宗教儀式と教理による所ではありません。それらを通して、さらにイエスを堅く信じ、主に倣って愛を実践する時、私たちの人生に現れるものです。そのように生きる者こそ、死後、神が備えてくださった天国に入ることになるでしょう。宗教生活ではなく、愛の実践、それが私たちが求めるべき、新しい革袋ではないでしょうか。

主が涙をぬぐい取ってくださる。

詩編27編1節(旧867頁) ヨハネの黙示録21章1-8節(新477頁) 前置き 先週の木曜日の夜、宣教師派遣元の釜山の告白教会から至急の祈りを願うメールが届きました。告白教会の設立から物心両面仕えてきた、ある姉妹が脳出血で入院したとのことでした。釜山の告白教会の団体メールがありますが、3時間前までも明るいメッセージを載せた方でした。その3時間後に脳出血で倒れたわけでした。素早く搬送装置したため、しっかりと治療を受け、また元気になるだろうと思っていたのに、火曜日の夕方、逝去したとの知らを聞きました。里帰り中の妻が葬儀場に行き、遺族を訪問しました。死というのは本当に突然近づいてくるものです。いつも明るい笑顔で私を励んでくれた姉妹でしたが、逝去は一瞬でした。しかし、私はまた会える希望を持っているので、落ちこんではいません。聖書は語ります。「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(黙示録21:3-4) 私たちは、いつか主に召され、亡くなるでしょう。しかし、主を信じる私たちは、それが終わりではないということを知っています。キリスト者にとって死は、この世のすべての憂いと悲しみを全て払い落とし、主のふところで慰められる至福の始まりだと思います。私たちは必ず天国でまた逢うでしょう。今日はキリスト者の死について考えてみたいと思います。 1.死について。 人間はなぜ死ぬのでしょうか? 実は科学的に人間だけでなく、すべての生物は死ぬに決まっています。すべての生物は生まれ、育ち、老いて死滅するようになります。そして、私たち自身もいつか必ず死を迎えるようになります。聖書もこう語ります。「人間にはただ一度死ぬこと…が定まっている」(ヘブライ語9:27) 科学的に死は「生きる機能を失うこと」を意味します。生まれた時、すべてが新しかった私たちの体は、時間の経過とともに古くなっていきます。私たちはこれを「老いていく」と言います。幼い頃は眼鏡なしでも本の字があきらかに見えたのですが、歳を取るにつれて虫眼鏡をかけなければならなくなります。目が古くなっていくということです。若い頃は音がはっきり聞こえたのですが、老いていくのにつれて補聴器をつけなければならない人もいます。耳が古くなっていくということです。真っ黒だった髪の毛が白髪に変わっていきます。顔のしわも増えていきます。私たちの肉体が、このように古くなって機能を失っていくのです。すべての生物は生まれ育って、少しずつ機能を失っていきます。そして、最終的に老化と病気によってすべての機能が永久的に失われます。私たちはそれを死と呼びます。 しかし、聖書は肉体の死だけがすべてではないと語ります。今日の新約本文はこう述べています。「おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(黙示録21:8) 先のヘブライ人への手紙には、人間は誰でも一度必ず死ぬことが決まっていると記してありました。おそらく、それは肉体の死の意味でしょう。しかし、本文はまた第二の死があると語ります。主の反対側で、主の御心通りに生きない者たちは、2度目の死、つまり霊的な死に襲われるということです。私はこれをもって「未信者たちは皆呪われて地獄に落ちる」という残酷な話をするつもりではありません。私たちみんなには未信者の家族がいます。ですので、あえて彼らが滅びるとは言いたくありません。そのような他の人々への判断は神にお任せしたいと思います。教理を用いて勝手に人を裁くのは望ましくないからです。ただ、この時間には私たち自身に当てはめて言いたいだけです。私たちには肉体の死が必ず訪れてくるでしょう。そして、その後、私たちは主への信仰によって永遠の生命と永遠の死の分かれ道の前で神の裁きを受けるでしょう。イエス·キリストを信じる者たちは救われるというのが聖書の教えですが、私たちはイエスを信じるふりばかりして、実は信じない者ではないか、神の民と自負するが、神の民のふりばかりをして、実は神に逆らう者ではないか、自ら振り返る必要があると思います。 にもかからわず、幸いなことは、私たちの救い主イエス·キリストが私たちのそのような弱さをよくご存知なので、今日も父なる神の右から私たちのために執り成しておられるということです。私たちの信仰が弱く、主の御前で至らない私たちを主イエスは憐れんでくださり、私たちのために祈って(執り成して)おられるということです。したがって、私たちには何の資格がないにもかかわらず、主なる神は、私たちを民として見なし認めてくださるのです。私たちは時々主の御心に適わない弱い存在であるかもしれません。私たちは神の民だと自分自身を思っていますが、実は逆らう存在であるかもしれません。それでも主イエスは聖霊によって、私たちの罪を悟らせ、悔い改めさせ、再び生きていけるように導いてくださいます。だから、イエス·キリストを信じる者には直りの機会が与えられるのです。そのため、私たちは一度の肉体的な死は経験しても、主イエスのお憐れみによって二度目の死を避けることができるのです。これがまさに聖書が語るキリストの救いであり、憐れみであるのです。一度お選びになった人は決して見捨てられない主イエス·キリストの恵み、その恵みによって私たちは資格のない罪人であるにも関わらず、主にあって生きることができるのです。主イエスは死に支配されている、この世にいる私たちに真の生命を与えてくださる方だからです。 2.主はわたしの命の砦。 今日の新約聖書の本文は私たちに語ります。「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4) この世の終わりの日が到来する時、神の幕屋が主の民の間にあり、主が民の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださるということです。本文に出てくる神の幕屋とは、旧約時代に神と人間をつなぐ掟の箱を置く場所でした。幕屋の中には聖所があり、聖所の一番奥には至聖所がありました。そこに掟の箱があったのです。至聖所は年に一度、イスラエルの大祭司だけが入ることができ、大祭司さえも贖罪の献げ物をささげなければ(悔い改めなければ)、入るやいなや罰を受けて死んでしまう恐ろしい場所でした。しかし、聖書はイエス·キリストがたった一度のご自分の犠牲によって、永遠の大祭司になられ、私たちを執り成してくださると証言しています。つまり、私たちはイエス·キリストの執り成しによって贖われ、主イエスとともに神の至聖所に入ることができる正しい人と認められたわけです。したがって、今日の本文の神の幕屋はイエス·キリストの贖いの恵みを意味するとも言えるでしょう。 この世には必ず終わりの日(イエス・キリストの再臨の日)が到来するでしょうが、その前に私たちは私たちの人生の終わり(死)の日を迎えることになるでしょう。しかし、私たちの霊は主なる神に召され、主のところに行くことになるでしょう。そして、イエス·キリストが再臨される、真の終わりの日まで、私たちは、主とともにその日を待ち望むでしょう。私たちの死はキリストの再臨による完全な神の国の到来をあらかじめ味わう、祝福された経験になるでしょう。世の人々にとって死は終わりであるかもしれませんが、私たちキリスト者にとって死は神の限りのない恵みを限りなく享受する至福に入る新しい始まりになるでしょう。その時、そこで主なる神は私たちの涙をことごとくぬぐい取ってくださるでしょう。そして、苦しくて悲しいこの世で本当によくやったと褒めてくださるでしょう。 私たちに二度目の霊的な死は決してなく、永遠に神の生命のもとでキリストの再臨を待ちのぞみながら、笑顔と喜びで生きるでしょう。これが死についてのキリスト者の正しい認識なるべきです。だから、死を恐れないようにしましょう。キリストにあって死を迎える者たちは、主の約束によって必ず平和と喜びの神の国に入るからです。 締め括り 「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。」(詩篇27:1)説教の序盤に韓国にいる知人の死について話しましたが、実は私たちの中にも先週家族を失った方がおられます。この説教を準備しながら、その方が思い起こされました。子供の頃から喜怒哀楽をともにしてきた大切なご家族だったはずです。亡くなられた方はキリストの民として召されました。ですから、今、主は約束どおりに、その方の目の涙をぬぐい取ってくださり、真の幸せを与えてくださるでしょう。わたしたちにもその日が近づいてきています。主の御心によって、誰かは先に召されるかもしれなく、また、誰かはもう少し長くいて召されるかもしれません。しかし、明らかなことは、主に召されるその日、私たちは悲しみではなく喜びの中にいるということです。キリストがくださった永遠の生命という賜物が、私たちを待っているからです。主が私たちの生命の砦としておられるかぎり、私たちは何も恐れおののく必要がありません。キリスト者にあって、死とは神の恵みへ進むもう一つの始まりだからです。私たちに生命を与え、神の国に導いてくださる主イエス・キリストを拠り所にして、残りの人生を生きていきたいと思います。

神のお招き

創世記11章27節-12章9節 (旧15頁) 使徒言行録7章2-5節(新224頁) 前置き 私たちは聖書の言葉の中でしばしば「アブラハムとイサクとヤコブの神」という言葉を目にします。そして新約聖書は、アブラハム、イサク、ヤコブを継承した彼らの霊的な子孫(霊的なイスラエル)が、キリストの体なる教会であると証しています。神はアブラハムをご自分の民として召され、以降モーセを通して主の民が追い求めるべき掟である律法とキリストによる全人類を救う良いお知らせ、つまり福音を与えてくださいました。神は、その律法と福音の中で、神に選ばれた民を教会と名づけてくださったのです。したがって、今日、私たちが取り上げるアブラハムの物語は、アブラハムという一人の人間の話だけでなく、その霊的な子孫、教会についての話しでもあります。今日の本文を通して、教会への神のお招きについて話してみたいと思います。 1.罪人をお招きくださる神。 ヨベル書というユダヤ教の古代文献にこんな物語があります。「ある日、カルデヤのウルで父テラと偶像制作業をしていたアブラハムは、父に質問した。お父さん、私たちが木で作る、この像は命も無いのに、なぜ人々はこれを神だと言うのですか。するとテラが答えた。息子よ、私も知っている。しかし、私たちがあの像を偽物だと扱ったら、それを神とする者たちに狙われて殺されるだろう。だから、知らないふりしなさい。」また、ミドラーシュというユダヤ教のモーセ五書の解説書にはこんな物語があります。「父と偶像制作業をしていたアブラハムは、命もない偶像を神とする人々が全く理解できなかった。ある日、アブラハムは棒で工房の小さい偶像をすべて叩き壊し、一番大きい偶像の手の上に棒を置いた。テラが戻って来た時、工房の中はめちゃくちゃになっていた。テラは怒って言った。何だ!これ!お前か!するとアブラハムは答えた。一番大きい像が小さい像たちを妬んで叩き潰しました。するとテラは顔が真っ赤になって叱った。馬鹿野郎!生きてもいない偶像が動けるもんか!」 ユダヤ人は先祖アブラハムを正しい人だと思いました。以上の物語には、偶像崇拝を拒んだアウラハムという、そのようなユダヤ人の心が含まれているのです。しかし、聖書のどこにも、アブラハムが正しいから神に選ばれたという言葉はありません。むしろ、何一つ正しさもなかったのに、信仰によって義とされたと書いてあります。アブラハムも罪人に過ぎなかったという証です。アブラハムの出身地ウルはメソポタミア文明の中心地でした。ウルは多神教社会であり、アブラハムの家族は偶像を作る偶像崇拝者だったのです。つまり、アブラハム自身が主なる神を見つけたわけではなく、主が彼を訪れ、選び、ご自分の民にしてくださったということです。私たちが信じる主なる神はご自分の独り子イエスの執り成しによって、正しくない者を正しいと見なしてくださり、保証してくださる方です。キリスト者は正しいから救われた存在ではありません。神は人の行いではなく、キリストの執り成しによって、罪人を赦してくださいます。ですので、民への主のお招きは、イエス・キリストによる条件なしの賜物であるのです。 2.主の民を先に知っておられる神。 創世記には、主が「ハラン」という町から、アブラハムを呼び出されたとあります。もともと、アブラハムの家族はウルに住んでいましたが、なぜ当時の文明の中心地であるウルを離れ、ハランに移住したでしょうか?聖書には書いてありませんので、理由は分かりません。ところで、使徒言行録7章のステファノの説教では「わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかった時、栄光の神が現れ、 あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行けと言われました。」ステファノはアブラハムの家族の移住が神のお招きによるものだというニュアンスで語りました。このように見れば、創世記と使徒言行録の言葉に矛盾があるように見えます。神がアブラハムに現れた場所が、創世記ではハランであり、また使徒言行録ではウルであると語っているからです。神がアブラハムをお招きくださった本当の場所はどこだったでしょうか? 様々な解釈があるでしょうが、明らかなことは、アブラハムが神に出会う前に、神はすでにアブラハムを知っておられ、選んでくださったということです。おそらく、ステファノは、すでにアブラハムを選ばれた主なる神の偉大さを示すために、ウルでアブラハムに現れたと語ったかもしれません。聖書外的な話ですが、アブラハムの時代と思われる紀元前2000年ごろ、ウルには栄えた王国があったと言われます。現代人はそれをウル第3王朝と名付けました。ところで、このウル第3王朝は、その歴史が100年くらいにしか至らかったと知られています。その理由は、当時ウルの土地に強い塩分が増えていたからです。長年の農業により、土地が荒れ果てて、飢饉につながったわけです。おそらくウル第3王朝は、その飢饉によって滅びてしまったでしょう。結局、全人口の4割くらいが故郷を離れ、ハランなどの地域に移住したと言われます。 私たちは、アブラハムの家族が、なぜウルを離れ、ハランに移住したか分かりません。上記のような歴史的な理由か、主のお招きか、聖書だけでは分かりません。しかし、明らかな事実は、そのすべてが神のご計画であったということです。神は、すでにアブラハムの先祖の時から彼へのお招きを準備してこられました。そして、時が満ち、創世記12章で彼の前に現れられたのです。アブラハムは神を知らなかったですが、神は世界の創造、人間の堕落、国々の盛衰興亡の中で、アブラハムの登場を備えてこられたのです。神のご計画は、民の考えと全く違う方法で成し遂げられます。主の民が神に出会うにも前に、神は民を知っておられ、民との会いを待ち望んでおられるのです。その神が御子の贖いを通して、ご自分の民を救い、お招きくださるのです。それだけに主の民は神にとって大切な存在であるのです。 締め括り 今日の説教のポイントは二つです。「一、主なる神は何の正しさもない罪人をお選びくださり、キリストの贖いによって赦し、正しい者と見なしてくださる。」「二、人間(罪人)が先に主なる神を見つけるわけではなく、主なる神が先に人間(罪人)を訪れ、ご自分の民にしてくださる。」主なる神のお招きは神学用語では「召命」と言われます。「神の恵みによって神に呼び出されること。」が辞書の説明です。救われる資格のない私たちは、主なる神の一方的な恵みによって救われ、主の民と呼ばれています。世の中で、苦難が襲ってくる時も、主はお選びくださった民を大事にしておられます。その主なる神への信仰によって、この一週間も生きたいと思います。豊かな主の恵みが志免教会の兄弟姉妹に注がれますように祈り願います。