聖晩餐の意味

ヨハネによる福音書6章47~58節(新176頁) 前置き 日本キリスト教会は、月に一度聖餐式を行います。毎月行われる儀式であるため、私たちは聖餐式の重要性を見過ごしがちかもしれません。しかし、聖餐は主イエスご自身が弟子たちに命じられ、代々の教会が堅く守ってきた最も重要な教会の儀式の一つです。そのため、洗礼とともに聖餐式もキリスト教会を代表する聖礼殿と呼ばれます。今日は、この聖餐式の意味について考えてみたいと思います。月に一度習慣的に行う宗教儀式ではなく、私たちの信仰を成長させる、主の大事なご命令としての聖餐の意味を改めて確認する時間でありますように願います。 1.聖餐の本質は食事である。 まず、私たちが知っておくべきことは、聖晩餐は文字通りに「晩餐」ということです。晩餐の辞書的な意味は「ごちそうの出る夕食。客を招いてもてなす夕食。」です。つまり、聖晩餐は、主イエスが弟子たちにおもてなしくださった夕方の食事だったのです。私たちの聖餐式は昼頃に行われていますが、それでも教会は固有名詞のように聖晩餐という表現を使います。今日、私たちが行う聖餐式の原型はイエスと弟子たちの「最後の晩餐」に由来します。イエスは、ローマ兵隊に逮捕され、十字架で亡くなられる前、弟子たちと一緒に夕食を分かち合われました。イエスは最後の晩餐の時、弟子たちにこう言われました。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。取って食べなさい。これはわたしの体である。また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイ福音26:26‐28)、最初の聖餐式は宗教的な儀式ではありませんでした。イエスと弟子たちの夕食、十字架で亡くなられる前の最後の食事だったのです。 私たちは毎日食事をします。時々一人で食事する時もありますが、基本的に家族、友人、知り合いのような身近な人とする場合が多いです。つまり、関係を結んだ相手と食事するのが一般的です。知らない人と親しく食事することはないでしょう。したがって、食事は関係を結んでいる者たちが共にする行為です。私たちの聖餐は、主イエスを中心に密接に結びついた者たちが共に行う霊的な食事です。教会のために死に復活され、頭になってくださった主イエスの御恵みと聖霊の御導きによって、キリストの体を意味するパン、血を意味する杯を分かち合い、共に主が与えてくださった晩餐を交わす霊的な食事なのです。食事によって力と健康を得て生きていくように、この聖餐を通して、私たちはイエスの恵みと救いの御業を憶え、力をいただき、信仰生活を続けていくのです。互いに関係を結んだ、家族や知り合いが共に食事するように、私たちはこの聖餐を通して主イエスとの関係、教会の兄弟姉妹との関係、神との関係を再確認しつつ生きるのです。人が飲み食いしなければ生きることが出来ないように、私たちは主がくださった、この聖晩餐を飲み食いして、キリスト者としての自覚を確かめつつ生きていくのです。だから聖餐は宗教儀式を超える頭なる主と体なる教会の聖なる食事なのです。 2.聖徒の交わり、聖餐。 そういう意味として、聖なる食事である聖餐は聖徒の交わりだとも言えるでしょう。私たちはほぼ毎週、使徒信条を唱えます。ところで、使徒信条にはこんな表現があります。「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」イエスを信じ、教会に出席しはじめると、人々は一番最初に「使徒信条」に接し、自然に覚えるようになります。しかし、その意味について深く考えずに、他の信徒たちが覚えているから自分も覚えようとする場合が多いです。特に「聖徒の交わり」という表現を何気なく唱えていますが、これは果たしてどういう意味でしょうか? 日本語の「聖徒の交わり」はラテン語のCOMMUNIO SANCTORUMを訳した表現です。COMMUNIOは「互いに一つになって何かを分かち合うこと」という意味で「交わり」と訳しています。SANCTORUMは「聖なる者たち」という意味で「聖徒」と訳しています。罪人は自ら聖なる者になることができない存在です。罪人が聖なる者になるためには、聖なるキリストの贖いによってのみ可能です。したがって、COMMUNIO SANCTORUMは、「主イエスのよって清められた者たちが互いに一つになって分かち合いながら生きる共同体」のことでしょう。「交わり」という言葉のため、茶話会や食事会を思い起こしやすいですが、本当の意味は、聖霊のお導きの中で主イエスを中心に一つとなり、教会共同体を成していくこと、つまり教会形成のことなのです。 だから、聖徒の交わりを最も明らかに表すのは、この「聖餐」なのです。教会の頭なるキリストを中心とし、聖霊の導きによってパンと杯を分かち合う時、私たちは教会を形成する兄弟姉妹と共に一つなる共同体という関係を堅めます。お茶を飲んだり、楽しく会話したりすることが聖徒の交わりではなく、キリストの恵みと聖霊の導きによって一つの教会を建てていくことこそが、本当の意味の「聖徒の交わり」なのです。そして、それを行動で告白するのが聖餐です。したがって、教会員みんながパンを食べ、杯を飲むことは、主イエスが教会の頭であることを行動によって告白する公の信仰告白です。また、教会員みんながパンを食べ、杯を飲むことは、自分と一緒にパンと杯にあずかる兄弟と姉妹がキリストにあって一つの主の体なる教会であることを行動によって告白する公の告白です。だから、ただの宗教儀式だから、習慣的に聖餐を飲み食いするというわけではありません。聖餐の時に私たちみんなが主イエスの民であることを再確認します。教会員みんなが主の一つの体であることを再確認します。使徒信条を口さきだけで告白するのではなく、目に見える聖晩餐という行動によって証明するのです。 3。聖餐を通して主の永遠の命を憶える。 食べる行為は、主なる神が人間に与えてくださった祝福です。初めに天地を創造された神は、エデンの園のすべての果実を人間の食糧としてくださいました。また、出エジプト記の時代にはマナとウズラを食料としてくださいました。神の幕屋の内部にも、供えのパンという食物が置かれていました。イエスは5000人以上にパンと魚をくださいました。弟子たちに聖晩餐をくださいました。復活してはガリラヤの水辺でペトロに焼いた魚をくださいました。食べる行為は貪欲と関わりやすいので、悪いイメージで描写される場合が多いですが、食べないと生きていけないので、非常に基本的な人間の行為なのです。むしろ神は食べる行為によって、主なる神の栄光のために元気に生きていくように、良い行為として食べる行為をくださいました。食べる行為は、食物から養分を得て命を延ばすことです。食前に「イタダキマス」と言うことも、この食物から養分を得て自分の命にすることへの感謝の意味だと言われます。それと意味は多少違うでしょうが、私たちもイエスの肉と血とを意味する「パンと杯」にあずかり、主にいただいた永遠の生命を憶え、ふさわしい生き方を誓って生きるようになります。 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ福音6:54-57) 主イエスはヨハネによる福音書6章を通して、主ご自身が制定してくださる聖餐の意味について、あらかじめ教えてくださいました。主の言われたご自分の肉と血についての教えは、後、聖餐式となり、それが使徒たちと代々の教会の歩みと共に今まで続いてきたのです。聖餐のパンとぶどう酒を飲み食いする時、私たちは主イエスと一つになって主の体なる教会として、主の生命をいただいて生きていきます。父なる神がイエス•キリストを愛されるように、主の体なる私たちも父なる神に愛されるようになるのです。そして父なる神がイエス•キリストを死から復活させてくださったように、主の体なる私たち教会も、父なる神に死に勝つ生命をいただいて生きていくのです。聖晩餐を通じて私たちは主イエスの体であることを確証されます。そして、私たちはその確証にあって、主の永遠の命を豊かにいただいて生きるでしょう。 締め括り 聖餐は、キリスト教会において毎月行われる、馴染み深い聖礼殿です。しかし、その意味は決して軽くありません。私たちがこの聖餐によってキリストと一つになっていること、そして、兄弟姉妹とも主にあって一つになっていることをを告白し、また証明されるからです。つまり、聖餐式はキリストの体という私たち教会のアイデンティティを公に告白する証明の場なのです。したがって毎月行う馴染んだ儀式ではありますが、その意味を心に留めて生きるべきです。私たちは心で主の体となったことを信じ、口でそれを告白し、聖餐の行為によってそれを証します。この聖餐を大切にし、感謝しながら生きる私たちであることを願います。

神殿、主の臨在の所。

歴代誌下6章18~21節(旧677頁) エフェソの信徒への手紙2章14~22節(新354頁)  前置き 好きな詩編があります。「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは、わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。」(詩編84:11) 詩編には美しい信仰の詩が多々あります。その中でも、詩編84編は、信仰者のあり方について考えさせる素晴らしい詩だと思います。「主の庭での一日が、他の所での千日にまさる恵みであり、悪人の天幕で長生きするより、神の家の門番として生きるのがほしい。」この世の財物、名誉、権力より、素朴であっても主の民として主と共に生きたいという信仰の告白なのです。私はその中の「神の家の門番」という表現が好きです。(「門口に立っている」とは原文で門番の意味) たとえ、神の家に入れないとしても、自分は主の近くに生きていきたいという意味ではないでしょうか。ここで神の家について話したいと思います。神の家は聖書によく出てくる幕屋やエルサレムの神殿を意味します。今日は聖書によく出てくる神殿について考えてみたいと思います。 1. 神の家 – 神殿 聖書には神殿という建物がよく出てきます。ソロモン王の前の時代には、幕屋という移動可能なテント形の建物があり、ソロモンの時代からは、聖幕に代わる神殿という固定された建物が建てられました。神殿は、その名称からも分かるように、神のご臨在を意味する非常に象徴的な建物でした。このエルサレムの神殿は、イスラエルのエジプト脱出後、モーセがシナイ山で神にいただいた十戒の石板が入っている掟の箱を置く聖なるところでした。出エジプト記の中盤、シナイ山で主なる神のご命令を受け、移動しながら使用できる幕屋が作られ、それから、何百年の長い時間が経った後、エルサレムに最初の神殿が建てられたのです。ダビデ王の息子であるソロモン王が、この最初の神殿を建てたので、ソロモン神殿とも呼ばれましたが、外部の一部と内部のほぼ全部が、純粋な金で飾られ、神殿の礼拝道具と掟の箱も金箔をかぶせて作ったと言われます。神殿の規模は、長さ約30m、幅約10m、高さ約15mで、そんなに大きくはなかったですが(志免教会堂の4倍くらい)、その華やかさはすごかったと聖書は語ります。最初のエルサレム神殿は、イスラエルがアッシリア、バビロン帝国によって滅ぼされる時まで存在し、その侵略によって破壊されたと言われます。 その70年後、ペルシャ帝国によってイスラエル民族が解放され、エルサレムに帰ってきた時、彼らは第2番目の神殿を建築します。そして、ヘロデ王の時に神殿は増築されたと言われます。しかし、それも西暦70年のローマとユダヤの戦争の時に破壊され、残念なことに今は残っていません。現在、イスラエルの神殿の跡にはイスラム寺院だけが立っており、神殿跡の西側に神殿を支えていた巨大な石壁だけが残り、「嘆きの壁」という名で保存されています。先に申し上げたように、神殿は神の臨在を象徴する建物でした。「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(歴代下6:18) 今日の旧約本文のように、この世を創造された神は、世の中の何ものも納められない偉大な方です。そのため、神が神殿という小さな建物に住むのはありえないことです。神が家に住むという概念そのものが古代異邦宗教の認識だったので、神が神殿に住むということは間違いです。つまり主なる神はこの神殿という象徴的な建物を通して、主がご自分の民(当時イスラエル)と常に一緒におられるということを示されたわけです。したがって、私たちは聖書を読みながら神殿を考える時「主が住んでおられるところではなく、主のご臨在の象徴」として理解すべきです。 2.神殿の存在理由 今日の旧約本文、歴代誌下6章は、ソロモン王がエルサレムの神殿を完成した後、落成式を行う場面です。この場面をより意味深く読むためには、前の5章と6章全体を参考にする必要があります。 5章13節と14節にはこんな言葉があります。「ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、主は恵み深く、その慈しみはとこしえにと主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである。」(歴代誌下5:13-14) エルサレム神殿の建築はソロモンの父ダビデ王の晩年の夢でした。エサウの末息子に生まれ、兄たちに負けて羊飼いに生きるようになったダビデでしたが、主はそのダビデを選ばれ、彼をイスラエルの王に立ててくださいました。数多くの危機と逆境の中でも主はダビデを見捨てられず、彼を導いてくださったのです。しかし、ダビデの心にはいつも引っかかることがありました。それは自分は王宮に住んでいるのに、主は数百年前に作られた小さな幕屋におられるということでした。そこで、彼は主のための神殿を建てさせてくださいと主に願いましたが、主はその願いを断られました。(歴代誌上17章) しかし、主は彼の息子であるソロモンによる神殿建築は許可してくださいました。 その後、ソロモンが王になってから、イスラエルは高級な材料を集めてエルサレムのに主なる神の神殿を建て、完成しました。そして、古い聖幕にあった掟の箱を運び、新しい神殿の至聖所に置きました。その時、レビ族の祭司たちは多くの楽器を演奏し、神を賛美しました。その時、主の神殿に雲が満ち、祭司長たちが奉仕を続けられないほどになりました。聖書で雲が持つイメージは、神の栄光と臨在を意味する場合が多いですが、この雲に満ちた神殿によって主なる神の栄光と臨在がイスラエルに与えられたという意味でした。そのように神の栄光と臨在の雲が神殿に満ちた時、ソロモンは主に祈り始めました。その内容が今日の本文である歴代下6章の言葉なのです。この時、ソロモンは大きく二つの祈りを(細かく分けるともっと多くなるが)しました。第一に、神の民のための祈りでした。「僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天から耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。」(歴代誌下6:21) 神の民イスラエルの切実な祈りを聞いてくださり、何よりも彼らの悔い改めを聞いて答えてくださいというソロモンの願いでした。 第二に、異邦人のための祈りでした。「更に、あなたの民イスラエルに属さない異国人が、大いなる御名、力強い御手、伸ばされた御腕を慕って、遠い国からこの神殿に来て祈るなら、あなたはお住まいである天から耳を傾け、その異国人があなたに叫び求めることをすべてかなえてください。」(歴代誌下6:32-33) 異邦人たちも主の神殿に来て祈るなら、憐れんでくださることを祈ります。この落成式の物語を通じて私たちは3つの点を知ることができます。①神殿は天におられる主なる神が、地上のご自分の民といつも共におられることを象徴するご臨在の象徴。②神殿は地上の民が天におられる主なる神に祈り、悔い改め、礼拝するようにする執成しの象徴。③神殿は主なる神の民ではない異邦人も、神を知り、帰ってきて、主の民になれる贖罪の象徴。これらがエルサレムの神殿が持つ主な機能でした。このように、はるかに高い天の神は、地上の罪人たち(イスラエル人、異邦人を問わず)との関係を結んでいかれるために、神殿という象徴的な建物の建設を、この地上に許してくださったのです。 3. 私たちにおいての神殿の意味 ですが、先ほどお話ししたように西暦70年、この神殿という建築物は完全に破壊され、もはや、この地球上に主なる神の神殿は存在しなくなってしまいました。それでは、神殿という建物が無くなった、この時代に、私たちは果たして、どこから神の臨在、執成し、贖罪の象徴である神殿を見つけることが出来ますでしょうか。今日の新約本文は、この時代においての神殿についての大事な手がかりになります。「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:20-22) イエス・キリストを中心に主の民が一つになる時、その集まりが神のお住まい、つまり、聖なる神殿となると教えているのです。キリストを中心とし、主の民が一つになるというのは、どういう意味なのでしょうか? それは「教会」のことでしょう。したがって、キリストを頭とする教会共同体こそ、主なる神のご臨在のところ、つまり、この時代の神殿であるのです。もちろん、この教会とは、単なる建物のことではないでしょう。 主イエスによって贖われ、主への信仰によって集まり、礼拝し、御言葉を宣べ伝える共同体が、そして、その共同体を成す私たち一人一人が真の意味としての教会であるからです。 締め括り 教会の建物を教会そのものだと誤解する人々も、世の中にはいます。しかし、教会堂はただの建物に過ぎず、教会そのものだとは言えません。教会はキリストを頭として一つとなったキリスト者の共同体だからです。ですから、教会堂を教会そのものだと誤解してはなりません。神殿は神のご臨在、執成し、贖罪を象徴する旧約の存在です。そして、主イエスが十字架で死に、復活してからは、主なる神の臨在、執成し、贖罪は、イエス・キリストによってのみ、この世に伝えられるようになりました。したがって、神の真の神殿のかなめ石は主イエスであり、その方を頭とする教会共同体こそが、この時代の神殿になるのです。だから私たち志免教会も主イエスによって、この時代の神殿となるのです。 私たちと共におられるキリストの恵みによって、主なる神はご臨在なさり、キリストの執成しによって、私たちは、主なる神と交わり、キリストの贖いによって、私たちは赦されるのです。この時代の神殿は、まさに主の教会である私たちです。このような神殿への知識を持ち、主の神殿となる教会として歩んでいきたいと思います。

一死覚悟

イザヤ書55章8~9節(旧1153頁) マタイによる福音書16章24~25節(新32頁) 前置き 先日、大分県竹田市にあるカクレキリシタン遺跡に行ってきました。遺跡を訪問する前に竹田キリシタン資料館で案内人の説明を聞かせてもらいましたが、興味深い話がありました。当時、竹田地域(豊後)の領主がキリシタンだったので、他地域のキリシタンより被害が少なかったということでした。領主の配慮で洞窟礼拝堂といくつかの見張り櫓があって、政府の人々が取り締まりに来たら、素早く対応したとのことでした。その理由か、カクサレタキリシタンという表現も何度か聞きました。しかし、領主の保護がなかった地域のキリシタンは、大勢の人々が信仰を守るために殉教しました。カクレキリシタンの物語は、日本のキリスト教にあって欠かせない重要な殉教の歴史です。なぜ、日本の数多くのキリシタンは命をかけてまで、信仰を守ろうとしたのでしょうか? その歴史を通して、私たちが学ぶべきことは何でしょうか? 1.「フィリポ・カイサリアで」 ある日、イエスは弟子たちとフィリポ・カイサリア地域に行かれました。そこで主は尋ねられました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(マタイ16:13) すると弟子たちは「洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人だと言う人々がいる。」(14)と答えました。 主は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(15)と聞き返されました。その時、ペトロが言いました。「あなたはメシア、生ける神の子です」(16) 主は大喜びで、ペトロをほめられました。ペトロが正しい信仰告白をしたからです。しばらくしてイエスは、弟子たちに「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」(21)と打ち明けられました。その時、先ほど、正しい信仰告白でほめられたペトロが、主に叫びました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(22) ペトロは、主への思いやりで、そんなに言ったのですが、イエスの反応は衝撃的でした。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(23)イエスがペトロをまるでサタンでもあるかのように厳しく叱られたからです。 イエスは、そんなに厳しくペトロを叱らる必要がありましたでしょうか? ペトロはイエスへの純粋な思いで心配しただけでしょう。しかし、その後、主イエスが言われた言葉、すなわち今日の新約本文を通じて、なぜイエスがそんなに厳しくペトロを叱られたのかを推し量ることができます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイ16:24-25)(詳しい説明は後で)フィリポ・カイサリア地域は、旧約時代には「バアル・ガド」(ヨシュア11:17,12:7,13:5)と呼ばれました。バアル神崇拝の地域だったのです。また、その後には古代ギリシャの神である「パーン」の神殿があったとも言われます。さらにカイサリアという地名からも分かるように、ローマの皇帝(カエサル)を神格化する意味の場所でもありました。すなわち、フィリポ・カイサリアは唯一の主なる神を否定する偶像と皇帝崇拝にあふれていた「偶像崇拝」の町だったのです。イエスがフィリポ・カイサリア地域で弟子たちに、「わたしを何者だと思うか。」とお尋ねになった理由は、偶像に満ちたこの世にあって、ひとえにイエス·キリストだけが真の神であり、王であり、主であることを今後教会を建てていく弟子たちに確認されるためでした。 2.人の思いと神の御心。 イエスが、罪人の救い主となり、世の真の支配者となられるためには、必須不可欠な前提がありました。それはイエスが十字架にかけられ、人類の贖いと神と世の和解のために死んでくださること、いわば「十字架での犠牲」を成し遂げることでした。真の神であるイエス·キリストが、真の人間としてこの世に受肉された理由も、普通の罪人なら絶対に成し遂げることが出来ない、十字架での犠牲を背負われるためでした。つまり、フィリポ・カイサリアでペトロが告白した「あなたはメシア、生ける神の子です」という言葉は、「イエスが必ず十字架での犠牲を成し遂げ、死ななければならない方」になるための前提だったのです。ところが、そんな立派な告白をしたペトロが、しばらく後にイエスへの自分の個人的な思いのため「とんでもないことです。そんなこと(十字架での犠牲)があってはなりません。」と反対したので、前の告白と完全に矛盾になってしまったわけです。ペトロは自分も知らないうちに「この世を救うイエスの十字架での犠牲は決して起きてはならない。」と言ってしまったのです。イエスが怒られた理由は、ペトロの思いが邪悪だったからではありません。主もペトロの思いを知っておられました。しかし、その思いの中に隠されている「イエスが十字架で死んではならない」という思いが、主なる神の御心である「イエスの犠牲によって罪人とこの世を救う。」に逆らうものだったからです。 時々、私たちはこんなに考えるかもしれません。「○○したほうがもっと良いのに、なぜ神は○○されないんだろう。」例えば「神が全日本人の夢に現れてイエスを信じろと一言だけ言われれば、みんなが一晩にしてキリスト者になるはずなのに、なぜ全能の神はそうされないんだろう。」みたいな考えです。全能な神であると聖書も力強く語っているのに、なぜ神は常に、私たちの目に難しい道だけを選ばれるだろうか理解できない時が多いです。しかし、そんな時、私たちは旧約聖書のイザヤ書を憶えなければなりません。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8-9) 神がなぜそのように私たちの考えと常識とは違う方法で働かれるのか、私たち人間は、死ぬまで分からないでしょう。しかし、明らかなことは、主なる神には人間の思いをはるかに超える御心があるということ、だから、主なる神の御心が、自分の思いと違うといっても、私たちは、主に信頼して従わなければならないということです。神の御心と人間の思いはまったく違います。時には人間の思いのほうがより効率的で速い道のように見えるかもしれません。しかし、聖書は語ります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 3. 自分の十字架を背負う闘 – 一死覚悟 信仰の難しいところは、そこにあります。自分の思いがより正しく判断されても、まずは主なる神の御心はどうか聖書から確かめ、その御心と合わないなら、自分の意志をあきらめ、主の御心に従うこと、それが信仰だからです。人間的な見方で、イエスの死を反対したペトロの行動は悪いことではないかもしれません。むしろ、主イエスへの愛の行動でした。しかし、主なる神の見方では、ペトロの行動は神の御心に逆らう悪行でした。主イエスが死ななければ罪人とこの世への救いが成し遂げられず、ここにいる私たちの救いもなかったことになるからです。このような信仰の難しさのため、信仰をあきらめる人も歴史上いたでしょう。だから主イエスは、こんな趣旨で言われたわけです。「あなたの思いという十字架を背負い、わたしにならって自分の思いを捨て、主なる神の御心に聞き従いなさい。」到底理解できない状況、聞き従いたくない時にも、それが主の御心なら信じ従うこと、それがまさに十字架の道であり、信仰の道であるのです。そして聖書は語ります。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」主の御心に従うためには、命をかけなければならない時がやってくるかもしれないということです。主の御心への服従のために、命をかける覚悟があるかどうか、聖書は尋ねているのです。 8月ですので、歴史の話しで例をあげたいと思います。1939年、日本帝国は「宗教団体法」を成立し、翌年から日本のプロテスタント教会を統合して政府に協力する教会にしました。その結果、何人かの影響力ある牧師たちの「神社参拝は国家儀礼である。」という主張によって、数多くのキリスト者が妥協し、神社参拝を犯しました。「そうだ。国家儀礼に過ぎない。家族のために、教会のために今は生き残るのが先だ。」死ぬよりは生き残って、後日を約しようと思ったからです。そのためか、日本のプロテスタント教会には目立つ殉教者は見られません。誰かは日本のプロテスタントに殉教者が皆無だと嘆きます。今日の説教題は「一死覚悟」ですが、植民地朝鮮の牧師「チュ·ギチョル」さんの説教題から引用しました。彼は「人間にはただ一度死ぬことが定まっている。(ヘブライ9:27)その一度の死を愛する主のために覚悟する。」という志を立て、拷問の中で死んでいきました。国家儀礼だと思ったら、一度だけ頭を下げたら、老母、妻、二人の息子の家長だった彼は死ななかったでしょう。しかし、カクレキリシタンが「ふみえ」踏まず、命をかけたように、彼は主を裏切らず信仰のために死を選んだのです。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(啓示録2:10) 彼は自分の思いではなく、主の御心に聞き従ったのです。 締め括り 私が申し上げたいのは、朝鮮の教会が日本の教会より優れていたということではありません。チュ·ギチョル牧師のような、何人かの朝鮮の殉教者たちは素晴らしかったのですが、その数百倍の朝鮮教会の牧師たちは進んでみそぎばらいをし、宮城遥拝を犯し、チュ·ギチョル牧師は彼らに徹底的に見捨てられたからです。そういう意味として、朝鮮の教会も偶像崇拝の歴史から自由ではありません。しかし、誰かは主の御心を自分の思いより大事にし、自分の命をかけて信仰を守ったのです。それが「一死覚悟」の信仰だったのです。そして、それはカクレキリシタンの信仰でもあったのです。私たちは、なぜ主を信じているのでしょうか? 私たちは果たして自分自身、自分の家族、自分の必要より、主への信仰をさらに大事にし、命をかけてまで守る覚悟をしていますでしょうか? ただ、この志免教会の穏やかな雰囲気、心の安らぎ、あるいは他の理由のために習慣的に教会に通い、信仰生活を続けているのではないでしょうか? いつか自分の思いのために、主への信仰をかるがるに捨ててしまうのではないでしょうか? 何よりも、誰よりも、私たちのために十字架で死んでくださった方への信仰を大切に守り、一死覚悟のあるキリスト者として生きることを願います。歴史の8月、歴史に照らして私たちの信仰を顧み、成長させていきたいと思います。

権威に対する教会のあり方。

申命記16章18~20節 (旧307頁) ローマの信徒への手紙13章1~7節(新292頁) 1.権威とは何か? 今日の本文の権威という言葉は、ギリシャ語「エクスシア」を訳した表現です。「力、支配、統制、影響力」などを意味しますが、本文では「支配者、権威者の権力、権威」として使われています。この世には創造当時から「エクスシア」が存在して来ました。主が創り主の権威、すなわち主の「エクスシア」をもって世界を造られ、また被造物への支配のために、人間にも「エクスシア」を与えてくださったのです。なぜなら、神はご自分の秩序をもって世界を創造し、その被造物が権威と位階にあって保たれることを望んでおられたからです。ですので、「権威」というのは、創り主なる神から生まれた一種の被造物だと理解しても問題ないでしょう。要すると「権威」そのものは悪いものではないということです。むしろ「権威」は、神が世界をご統治なさるためになければならない道具なのです。「イエスは、近寄って来て言われた。わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイ28:18)イエス・キリストは十字架で死に復活して昇天される直前に、父なる神がすべての権威(エクスシア)をご自身に与えてくださったと言われました。創り主なる神は、終末が到来するまで、ご自分による権威をもって、この世界を治めていかれるでしょう。権威は神の統治の道具です。したがって、私たちは権威について、最初から神のものであるという認識を持つべきです。 だから、私たちは、この「権威」が神のものであるということに基づいて、今日の本文を取り上げるべきです。初めに世界を創造された主は人間に、こう命じられました。「神は彼らを祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1:28) 主は人間が栄え、世界を導き、治めることをお望みになりました。主は人間に世界を支配する権威を与えてくださいましたが、それは人間への神の「祝福」だったのです。ただし、人間はその権威を身勝手に振るってはなりません。神は、人間がその権威を用いて、被造物を守り、愛し、正しく治めることを望まれただけで、その権威によって他者を踏みつけ、苦しめ、破壊するためにくださったわけではないからです。そういうわけで、権威は支配者だけのためのものになってはならず、支配者の権威を通して被支配者も祝福を得る、みんなのための神の祝福にならなければなりません。支配者のあり方は自分、自民族、自国だけが、うまくいくのではなく、すべての存在が一緒に栄えていくように権威を使うことです。聖書が示す望ましい支配者のあり方はそのような姿なのです。 2.権威(支配者)への服従。 そういうわけで、私たちは、世の支配者がどのようなやり方で世界を支配しているのか、警戒心を持つ必要があります。支配者が自分の利益と権力のために権威を振るうっているか、それとも、自分だけでなく、この世界の他の被造物、自由と平和、神の祝福の媒体として権威を用いているか、キリスト者なら、必ずその点を気に留めて支配者を判断すべきです。私たちの本当の支配者は、この地上の支配者ではありません。私たちをご支配なさる方は、ひとえに三位一体なる神だけであり、とりわけ、直接、神から権威を授けられたイエス・キリストこそが、私たちの真の支配者、主であるのです。ならば、支配者への私たちの服従も、その根本は神とキリストへの服従から始まるべきなのです。もし、支配者が自分の野望や権力ではなく、主なる神の御心にかなう支配、すなわち世界の平和、人類の共栄のために権威を扱うならば、私たちは彼らの権威に積極的な協力と応援をもって従っていくべきでしょう。しかし、支配者が自国だけの繁栄と自分の権力だけのために権威を勝手に振るうならば、私たちは、真の主であるキリストのご意志に基づき、そのような邪悪な支配者に抵抗していかなければなりません。 このように権威への服従は盲目的であってはなりません。支配者が主から与えられた、その権威を正しく用いる時にはじめて、私たちは神への服従の意味として、その支配者の権威にも服従するものです。しかし、支配者が自分の権力だけのために権威を利用するならば、私たちは服従してはならず、服従することも出来ません。支配者の権威はどこまでも神によって与えられたものです。目に見える支配者の権威は、目に見えない主なる神の権威を表す道具に過ぎません。したがって、私たちは、支配者の武力と暴力に屈してはなりません。ただ支配者によって神の権威が正しく示される時のみ、私たちは彼らの権威を認めて従っていくべきです。私たちは、支配者への監視者の役割を担ってこの世を生きているのです。無条件的な国家権力への盲従は正しくありません。いつも「私たちの真の支配者は、主イエス・キリストだけである。」という基本的な前提をもって国や団体の権威に対応する必要があります。ある国の国民という認識に先だって、御国の民という信仰を先にとるべきです。ひたすら服従の対象は主なる神だけであり、主に認められた権威だけが、私たちの服従すべき対象なのです。 3. 邪悪な権威の時代20世紀 1945年、太平洋戦争の末期、アメリカは8月6日広島にリトルボーイ、また8月9日長崎にはファットマンといった核兵器を投下しました。それにより、約15万人から25万人の命が消えてしまいました。毎年 8月になると、日本では終戦(敗戦)と、戦争犠牲者のための記念式を催します。アメリカには多くの犠牲者を避ける選択肢があったにもかかわらず、支配者の誤った判断により、多くの犠牲者を生じさせてしまいました。しかし、当時のアメリカの市民は、このような犠牲を当然だと思い、むしろ喜んでいました。これは明らかにアメリカの過ちです。他方、帝国主義日本はアジアの周辺国を武力で征服し、戦場に追い立ててしまいました。中国では日本軍の暴挙により、1000万人以上の人々が死に、自国民の中にも(内、植民地民も)神風特攻隊や徴用兵として死んだ人が数え切れません。ただし、当時の植民地民は日本人と分類され、詳細な人数は不明です。沖縄の無実な民間人数万が日本軍によって自決を強いられ、あるいは弾除けに死ななければなりませんでした。日本全体で、戦争による日本人の犠牲者が約300万人を上回るのです。その中に日本籍の琉球人、台湾人、朝鮮人も含まれているでしょう。 20世紀は悪魔の時代でした。まるで支配者たちが悪魔のようになり、人々を死に追いやったのです。その時、日本は国体という名目で、為政者の論理を正義としました。アメリカの支配者たちは、自国の軍事力を見せつけるために、日本に核兵器を落としました。日本もアメリカも、自分の支配者を支持しました。しかし、その支配者の中の誰も神の御心である「産めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ。」といったご命令に耳を傾けませんでした。既に自らが神のようになっていたからです。当時、日本の教会は、国体の一部として神社参拝を強行し、軍部に協力しました。植民地の教会も同じく妥協し、偶像崇拝の罪を犯してしまいました。私たち教会は邪悪な支配者のために、すでに一度主を裏切った存在です。これから絶対に忘れてはならない私たちの悔い改めの課題なのです。もし、このような世が再び到来したら、私たちはどう行動すべきでしょうか?私たち教会は再び自分の一身のために邪悪な支配者の権威に服従するのでしょうか?それとも「愛と平和、変わらない信仰」をお望みになる主のみ旨に従い、主なる神の御心のために命をかけるべきでしょうか?「あなたがたは、以前は…この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」(エフェソ2:1-2)この世の支配者は神に反抗する空中に勢力を持つ者の性質を持っています。彼らは不従順の子になりがちで、不正と罪の存在になる可能性を持っています。このような世の中で、私たちはどのような権威に服従するべきでしょう?私たちは、主なる神の民です。そのアイデンティティーを決して忘れてはなりません。 締め括り 「ただ正しいことのみを追求しなさい。そうすれば命を得、あなたの神、主が与えられる土地を得ることができる。」申命記16章20節には、主なる神の民が追い求めるべき生き方が書いてあります。これは、支配者たちにも適用すべき生き方だと思います。志免教会の兄弟姉妹の皆さんと日本の教会の兄弟姉妹たちのためにも、市民を愛し、正しい政治を貫く支配者が、特にキリスト者の支配者たちが立ち上がることを祈ります。支配者の権威はひとえに主なる神から与えられるものです。支配者は、神の正義と愛を、この世に示さなければなりません。その時にはじめて、私たちキリスト者は、彼らに完全に従うことができるのです。私たちは、この世に属している存在ではありません。御国に属している神の民です。したがって、歪んでいる世界のために正しい怒りを発し、主に祈りつつ投票などの政治的な行いに参加し、さらに正義に満ちた日本と世界になるように動いていきましょう。このような思いを持って支配者と権威者のために祈り、生きていく私たちでありますように祈ります。

さまよい人

※イメージ説明:『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』D’où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?  作者 ポール・ゴーギャン 製作年 1897年 – 1898年 イザヤ41章8〜16節(旧1126頁)  ヘブライ人への手紙11章8〜10節(新415頁) 前置き 人間は、どこから来てどこへ行くのでしょうか? 誰も初めと終わりを知らないままこの世に生まれます。私たち皆が親のもとに生まれたので、私たちの初めは親、さらには先祖にあると言えるかもしれません。しかし、実際、私たちの両親や先祖も、自分がどこから来てどこに行くのかを知らずに生きてきたと思います。ただ生まれ、この世を生きていくことが人間に与えられた一般的な人生の理由ではないでしょうか? そのため、私たち人間は生まれつき、さまよい人として生きる存在であるかもしれません。フランスの有名な画家であるポール·ゴーギャンは1898年「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という最後の作品を完成した後、自殺をくわだてました。自殺は失敗しましたが、彼は結局1903年に病気で死んでしまいます。彼は自分の人生を振り返り、自分がどこから来てどこに行くのか、答えを出すことができませんでした。フランシス·シェーファーという神学者は、ゴーギャンは結局「来たところも、何者かも、行く先も分からずに死んだ。」と自分の著書を通して解釈しました。ゴーギャンだけでなく、大勢の人々が自分の起源と行き先を知りません。本当に人間は一生さまよいの中で苦しみ、短い人生を終える悲惨な存在であるかもしれません。 1。さまよい人として生まれる人間。 自分がどこから来たのか、何者なのか、どこへ行くのかに対する質問は、人間を一生苦しめる宿題です。多くの人々が成功のため、富のため、名誉のために自分の人生を熱心に生きていきますが、成功と富と名誉を達成したとしても、自分が何者であり、なぜ生きているのかという最も重要な謎の答えを得ることはできません。結局、成功も富も名誉も、私たちに根本的な正解を知らせるのはできないからです。そんな理由で、人々は宗教を持つようになります。しかし、宗教を持ったとしても、人間、特に自分の存在理由について明確な説明を教えてもらうことが出来ないので、宗教があるにもかかわらず人生の最後の瞬間が近づいてくると恐怖に震えるようになる人が多いです。たとえば、日本人の精神に莫大な影響を及ぼした仏教でさえ、己の業報に従って輪廻を重ねると教えます。しかし、人間の起源と意味については、明確に説明しません。日本の民族宗教である神道も八百万の神々が助けてくれると語りますが、人がどこから来て、どこへ行き、自分が何者なのかについては明快に説明しません。自分はこのまま消えてしまうのか? 自分は何者なのか? この原始的で根本的で限りのないような質問は、人間をみすぼらしくします。そんな世の中に向かって、主なる神のみ言葉、聖書の言葉はこう語ります。「初めに、神は天地を創造された。」(創世記1:1) 聖書は、すべてのものの初めについて明確に語ります。「この世界は主なる神によって造られた。」聖書は、宇宙の起源を知っているのです。そして、その初めを許された神こそ、すべての人間に命を与えてくださり「自分」という存在の根源になってくださる創り主であることを証しているのです。旧約聖書のイザヤ書には、こう書いてあります。「イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。」(イザヤ44:6) また、新約聖書ヨハネの黙示録はこう述べています。「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(黙示録22:13) このように聖書は、この世の初めと終わりが「主なる神」から生まれたと明確に証しています。私たち人間は「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」絶えず自らの存在理由について悩み煩います。しかし、聖書は明らかに 「あなたは主なる神から来た。あなたは主なる神の子供として生まれた。したがって、あなたは主なる神に帰らなければならない。」と教えます。キリスト者である私たちは、人生においての数多くの悩みと苦しみ、心配のため、神に祈ります。しかし、神の民である私たちは、自分がどこから来たのか、自分が何者なのか、自分がどこに行くのかを心配しません。最も根源的な疑問が、すでに解決されたので、比較的に小さい悩みのために祈るだけです。もしかしたら、私たちの今の心配は根源的な問題が解決された存在の小さい悩みにすぎないのかもしれません。 2.主なる神との出会い – 全能者との同行。 伝道が難しい時代となりました。路傍伝道をしようとしても警察にあらかじめ申し出しなければなりません。学校の前での伝道も法律的な問題になる時代です。ポストに伝道チラシを入れたり、地域新聞の小さな広告を載せたりする程度が、現代日本においてできる最善の伝道方法であるかもしれません。しかし、私たちの最も大事な伝道は、ただ、人を教会堂に連れてくることではありません。もちろん、人を集める伝道も無くてはなりません。誰も来ないなら、教会は消滅してしまうからです。しかし、教会の伝道の最も重要な理由は、人類の共通の質問「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」に対する正解を宣べ伝えることではないでしょうか? 自分がどこから来たのかも分からずに迷っている人に「あなたは、あなたの主である神から来たのです。」自分の存在理由が分からずに悲しんでいる人に「あなたは主なる神の大切な子供です。」自分がどこに行けばいいのか分からずに恐れている人に「あなたは主なる神に帰らなければなりません。」と正解を教えることこそ、真の伝道ではないでしょうか? 単に「この世では幸あれ、あの世では冥福あれ」という現世と来世の安らぎのための宗教的な口車ではなく、人間の根源的な恐れと不安を乗り切らせてくださる「全能者」の存在を伝えることこそ、私たちが行うべき真の伝道ではないでしょうか? 「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。」(ヘブライ11:8-10)神に出会い、将来への不安があるにもかかわらず、主に寄りかかって、行き先も知らずに進んでいったアブラハムのように、真の全能者である神に出会う時はじめて、人は人生の意味を悟り、主に寄りかかって自分の進むべき道へ進んでいくことが出来るのではないでしょうか。神は人間に使命というものを与えてくださいました。それは行き先の知らない人生の道を、ただ心配して生きるのではなく「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」(創1:28)と言われた、人生の主である神が共におられるのを信じ、心配を捨てて主の民として生きていくことです。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ41:10) 「すべての初めであり、すべての意味であり、すべての終わりである全能なる神が、私たちの助けになってくださるから、私たちは主なる神と共に歩んでいく。」それこそが、まさに人生の真の理由ではないでしょうか。 締め括り 神がイエス·キリストをこの世に遣わされた理由は、人生の初めと終わり、人生の意味を知らずにさまよう人々を全能なる神に導いてくださるためです。神を離れて罪の中にさまよっている人間が、このイエスによって自分の罪に気づき、悔い改め、赦され、神のもとに再び立ち返らせてくださるために、主イエスは来られたのです。神は人類への愛をもって今も人々を招いておられます。さまよい人として生まれた私たちは、このイエスによって自分の進むべき道を見つけることになり、この世のすべてを創造された真の主に帰るようになるのです。私たちは主なる神から来て、主なる神の大切な子供として生き、また、主なる神に帰っていくことでしょう。人生最大の謎への答えをすでにいただき、私たちは主なる神と共に人生を生きていくことでしょう。それがキリスト者に与えられた真の祝福と恵みではないでしょうか?

わたしはブドウの木である。

ヨハネによる福音書15章1~17節(新354頁) 1.私は··· である。 新約聖書のヨハネによる福音書には、イエス・キリストの7つの自己宣言があります。それらは「私は···である」という表現を基本にします。ヨハネによる福音書でイエスは6章から15章にかけて「①私は命のパンである。(6:35) ②私は世の光である。(8:12) ③私は羊の門である。(10:7,9) ④私は良い羊飼いである。(10:11) ⑤私は復活であり、命である。(11:25) ⑥私は道であり、真理であり、命である。(14:6) ⑦私はまことのブドウの木である。(15:1,5)」と宣言されました。ここで「私は···である」という表現の意味について考えてみたいと思います。私たちは自分という存在を定義する時、「私は誰である。」と言います。「私は日本人だ。私は会社員だ。私はキリスト者だ。」などで自分という存在を表します。「私は···である」という表現によって、自分を知らなかった人々が知るようになり、自分自身も自らへのアイデンティティを確立するようになるのです。ですから、自分が誰なのかを言うことは「自分」という存在を明らかにする、とても重要な意味を持ちます。旧約聖書の創世記3章で、主なる神はエジプト帝国の奴隷だったイスラエル民族を、神が示してくださる乳と蜜の流れる土地に導かれるために指導者をお選びになりました。彼がモーセでした。モーセが初めて神に出会い「あなたはどなたですか?(あなたの名は何ですか。)」と問うた時、主は言われました。「私はある。私はあるという者だ。」主なる神もご自身を紹介される時、「私は···である。」と言われたのです。 ところで、私たち人間が言う「私は···である」と神が言われる「私は···である」には大きな違いがあります。私たちは家族の影響や社会での地位(位置)によって「私は···である」と成り立たせられてきました。しかし、神は、この世の、どんな存在からも影響を受けることなく、自らを「私は···である」と定義されたのです。私たちの名前は家族につけてもらい、私たちの地位は日本という社会の中で成り立ってきました。しかし、神は誰からの助けも影響もなく、自らご自分の存在をお定めになったのです。「私はある。 私はあるという者だ。」という多少文法に合わないような表現は、意訳すると「私は私自身である。あるいは、私は自ら存在する者である」と言えます。これはヘブライ語では「エフエ・アシェル・エフエ」ギリシャ語では「エゴ·エイミー」を翻訳した表現です。神は自らご自身のことを定義された方です。他者の影響を決して受けておられない方です。神がご自身のことを自ら定義されるということは、神が世の中のすべてのものが出来る前からおられた存在という意味です。つまり、神は創り主であるという意味です。また、神がご自身のことを自ら定義されたということは、他者の影響なしで自ら判断される方、つまり、審判者であるということです。神が言われた「私は···である」とは、神こそが全ての上に立っておられる「絶対者である」ということを明らかに示す神的な宣言なのです。 だから神が「私は···である」と言われたのは「創り主、審判者、絶対者」であるという意味になるのです。今日の本文で、イエス・キリストは、この「私は···である。」という意味のギリシャ語「エゴ·エイミー」を用いて「私は(まことのブドウの木)である」と言われたのです。主イエスがご自身のことを神として定義されたということです。先ほど申し上げましたが、イエスはヨハネによる福音書で、7回ご自分について宣言されました。神であるイエスが「私は···である」つまり「エゴ·エイミー」と宣言されたのです。 ①私は神、生命のパンである。(6:35) ②私は神、世の光である。(8:12) ③私は神、羊の門である。(10:7,9) ④私は神、良い羊飼いである。(10:11) ⑤私は神、復活であり、生命である。(11:25) ⑥私は神、道であり、真理であり、生命である。(14:6) ⑦私は神、まことのブドウの木である。(15:1,5)」ですので、私たちはこの7つの宣言の言葉を通じて、イエス·キリストがすなわち神であり、創り主であり、審判者であり、絶対者であり、また、私たちを愛して救ってくださる救い主であることが分かるようになるのです。 2.ブドウの木であるイエス。 そのイエスが、今日の本文で私たちに言われます。「私はまことのブドウの木である。」聖書においてブドウとは豊かさと神の祝福の象徴としてよく用いられる重要な果物です。そのため、新旧約聖書を問わず、さまざまな箇所で、ブドウが言及されたりします。ブドウの木は神に選ばれた民の象徴(ホセア10)、ブドウ畑はイスラエルを象徴する比喩(詩篇80)としてよく使われます。旧約聖書では、乳と蜜の流れる祝福の地をブドウに比喩する場合もあります。また、ブドウは実際にイスラエルの経済において、とても重要な資源でした。当時のブドウ農業は、新鮮な食糧を提供し、ブドウ酒を作る食材を生産し、人々には鉄分と必須ミネラルの供給する重要な農作物だったのです。というわけで、ブドウの木は代々栽培され、大事な財産としての割合を占めていたのです。それだけに、ブドウは神の祝福と密接な関りのある果物だったのです。そして、今日の本文は、この世に遣わされたメシア•イエスこそ、そのブドウに例えられる祝福の源であることを証しているのです。「わたしはブドウの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 (ヨハネ福音15:5) 先ほど「私は···である」という自己宣言で自らを神として示されたイエスは、また、ご自身をブドウの木であるとも言われました。神の祝福と恵みの象徴であるブドウの根源であるブドウの木を通じて、イエスが神の祝福と恵みをもたらす祝福の源であることを示されたわけです。そして、そのブドウの木であるイエスに従う主の民は、主にあって実を結ぶブドウの木の枝のような存在であることをも教えてくださったのです。ですが、今日の本文には、恐ろしい言葉もあります。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(ヨハネ福音15:2) もし、イエスというブドウの木につながったにも関わらず、実を結ばないならば、農夫である父なる神によって取り除かれるという話です。ということで、私たちはこのようにも考えうると思います。「実を結ばないと、自分の救いは取り消されるだろうか?」結論を言えば、そのような恐れでこの言葉を理解する必要はないということです。木につながっている枝が実を結へないのは「土地の養分が少ないか、木そのものに病気があるか、枝がつながっていないか」の中のどちらかです。父なる神が農夫であり、木はイエス·キリストであるなら、最も理想的な農場の姿ではないでしょうか? それなら実を結ばずにはいられないでしょう。枝が木につながっているならば、自然に実を結ぶようになるということです。 実を結ばないというのは、ブドウの木である「キリスト」につながっていないため、つまり主を信じておらず、御言葉に聞き従わないと言えるでしょう。主イエスを自分の希望とし、信頼して生きるならば、必ず主は実を結ばせてくださるでしょう。それでは、実とはどういうものなのでしょうか? それについては、ガラテヤ書の5章22-23節を通して探ってみることができます。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」私たちは、主の民として生きながら聖霊のお導きによって「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」を教わっていきます。この9つの実については次の機会に詳しく話してみたいと思います。その中でも今日の本文は「愛」をとても大切な「実」として話しています。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ福音15:8,9,12)「私は•••である。」という言葉をもって、神であるご自分を証言されたイエスは、自らをブドウの木と示し、主の民が、そのブドウの木につながっている枝だと言われました。「私は自ら存在する者だ」という言葉で世のすべての被造物とご自身を区別された神ですが、イエス•キリストの「私はブドウの木である」という言葉によって、神はすべての被造物と区別されながらも、主の民と一つになって実を結ばせてくださる愛の神であることを教えてくださったのです。 締め括り 私たちは、今日の言葉を通じて、イエス·キリストが私たちにとって、どんなお方であるかを、もう一度学ぶことができます。イエスは、被造物と区別される、偉大な神でおられますが、遠くにおられる方ではなく、私たちとつながっている方であるということです。主イエスはブドウの木、主の民である教会は、ブドウの木の枝、そしてブドウの木を耕してくださる方は父なる神、実を結ばせてくださるは聖霊なる神です。このように、三位一体なる神が、イエス·キリストという仲保者を通して、常に教会と共におられながら、教会を見守っておられるということを今日の言葉を通じて憶えたいと思います。だから聖書はイエス·キリストを私たち教会の頭であると語っているのです。被造物があえて近づくことのできない絶対者である神ですが、イエス·キリストを通して、私たちと近くおられる主になってくださいました。朽ちた枝のような罪人であった私たちが、キリストによってまことのブドウの木の元気な枝になったのです。実を結ぶことができない弱い私たちがキリストによって実を鈴なりに結ぶことができるようになったのです。主イエスは神ですが、私たちの主であり、私たちを導いていかれる方です。私たちの頭であり、聖霊によって私たちに実を結ばせてくださるイエス·キリスト。今日の言葉を通じて、主の愛を憶えて生きる私たちでありますよう祈ります。

ここが神の住まい。

佐賀めぐみ教会 海東強 伝道師 イザヤ書57章19節(旧1156頁)  エフェソの信徒への手紙2章11~22節(新354頁) アメリカの西部開拓時代。一人のならず者の男が聖書を開きながら、主イエスの信仰に篤い男性に語り掛けます。 「聖書を読んだことがあるか?俺は一度読んだ。8歳の時だ。俺の父はウイスキーの飲みすぎで死んだ。母親はある日、駅で「この本を読みなさい」と聖書をくれた。母親は列車のチケットを買いに行くといった。俺は母親の言うとおりにした。一生懸命聖書を駅のベンチに座り端から端まで読んだ。読み終わるまでに3日間かかった。母親は帰ってこなかった。家族とはそれっきりだ」 先日、アメリカの聖書学者であり映画研究家のアデル・ラインハルツが綴った「ハリウッド映画と聖書」という本を読んで知った一本の西部劇があります。2007年の『3時10分、決断のとき』という作品です。鑑賞し強い衝撃を受けました。今日の聖書箇所が語るメッセージに関わりがあるので、少し触れさせていただきたいと思います。 19世紀。南北戦争が終わったばかりで、まだまだ無法者がはびこるアメリカのアリゾナ州で、強盗と殺人を繰り返した、伝説の早打ちの名手でもある凶悪犯ウェイドが逮捕されます。一方で、体が不自由ながら小さい牧場を経営する敬虔なキリスト者のエヴァンスは、牧場を維持する金を稼ぐため、悪党ウェイドを護送する一員として旅をします。悪党ウェイドは旧約聖書の箴言をはじめ、聖書の一説を引用しながら人々の心を掴み信用させます。 手っ取り早く、人のものを奪えば簡単に金は稼げるのに、なぜそうしないか?悪党ウェイドが、エヴァンスに尋ねます。「俺は神に背を向けず生きる。この生き方を子どもたちにも伝えるためだ」といいます。「俺を逃がせば、約束の二倍の報酬を現金で渡すぞ」と悪党ウェイドから買収を持ちかけられても、エヴァンスは応じません。クライマックス、彼らが最後に豪華な宿に宿泊し、そこに置かれていた聖書を開きながら、悪党ウェイドが自らの過去をはじめて語る台詞が冒頭のものです。 幼い頃、自分を捨てた親から渡された唯一の財産が聖書だった悪人。最も信頼していた親に見捨てられ、それ以降誰も信じられず、その信じられない人々が信じる聖書を利用しながら、悪党ウェイドは幼い頃から世の中を一人きり生き抜いてきました。聖書を用いれば善人とみなされ、神の国の住人として受け入れられる手段を彼は知り、利用します。彼に信仰はないはずでした。聖書はただ無常なこの世を渡るための道具でした。 しかし、聖書を、主イエスの教えを生きようとするエヴァンスの姿を通じ、悪党ウェイドの中に変化を与えていきます。映画の最後の最後、過去や生い立ちから切り離された、彼なりの神を前にした悔い改めと、正義が行われることになります。 今日与えられた聖書箇所には、私達が今までたとえ神も希望をも知らなかったとしても、キリストに招かれ、主にあって一つとなることが解かれます。信仰とは何か、赦しとは何か、平和とは何か、神のすまいはどこにあるのか?…など様々な神学的テーマが語られます。主にとらえられ、導かれる人々は、地上の人間における厳しい裏切りや競争の世界にあったとしても、あらゆる壁を越え、隔てを打ち破り、真の平和に向かう人物に変えられていきます。冒頭で語った映画と同様、この聖書箇所はそのことを私達に教えてくれます。ぜひ皆さんと味わっていきたいと思います。 今日の11節には異邦人について書かれます。「あなた方は以前には肉によれば異邦人であり」とあります。この手紙の著者がユダヤ人キリスト者であって、読者が主に異邦人キリスト者であったことを示していると思われます。改めて語る必要はありませんが、この教会にいる私達も異邦人キリスト者の一人です。ユダヤ信仰の中にある限り、ユダヤ人でない異邦人の私達は、決して神の救いに入ることはありませんでした。12節にあるように、私達はこの世の中で希望も持たず、神を知ることなく生きていた…と表現されるのです。 ユダヤ民族以外は神の救いに漏れているという考えがあることで、ユダヤ民族とそれ以外の民族で対立のきっかけは生まれます。私は、今日の箇所でユダヤ教のように、キリストを知らなければ決して人は救いも希望もない…ということを言いたいのではありません。ただ、キリストに招かれ救われ、一つにされた私達にとって、キリストを知らずに生きていた時は、確かに望みも神もなかったと、いえるのではないか?とここから語りたいのです。主イエスへの信仰を告白したのが、たとえ数日前、数年前、数十年前だったとしても、私達は主を信じるまでは、まるでユダヤ教の人たちが自分たちの民族とそれ以外の異邦人としてとらえていた時代と同じ程度の違いがあることを、この箇所は私達に呼び起こしてくれるのです。 ユダヤ教とそれ以外。その垣根を、私達は主イエスを知らなかった時と知ってからの喜びに、率直に省みることができるのです。また14節には「二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました」とあります。信仰を隔てていたのは、神を信じるか否かだけではなく、イスラエルの民の持つ律法が隔ての明らかな一つであったことを意味します。ここでパウロは律法そのものが廃棄されなければならないこと、律法があるために遠い者と近い者という隔てが生れていたと考えるのです。そこにこそ、敵意があったのでした。だからこそ、14節のはじめにある、キリストはわたしたちの平和であります…というように、キリストの十字架によってユダヤ人も異邦人も、割礼がある人もない人も、律法を持つ人も持たない人も、一つのからだとして神と和解し、平和の福音を告げ知らされることになったのでした。 17節で、キリストがおいでになり、遠くに離れていても、近くにいても、平和の福音を告げ知らせられた…とあります。キリストご自身が伝えてくださらなかったら、私達は福音を知らず、私達は福音をこの地上の現実に生きることはできなかったことでしょう。主イエスによって福音が、隔てを打ち破る平和が教えられなかったら、今も私達は世界の中で異邦人、よそ者としての敵意の中で怒りを抱えて生きていたのかもしれません。しかしもはや、聖なる国の住民として、敵意は砕かれ、共に神に近づく者とされました。そのさらなる証といえる言葉が18節に含まれます。隔てを越えてキリストにより招かれた人々が一つの霊に結ばれます。そして「御父に近づくことができるのです」と書かれます。ここには近づける対象を神とは記しません。御父、お父さんと書かれています。神を父に例えるほどに近い存在として表現し、近づく自由が与えられているのです。 ところで、今日の聖書箇所には教会との言葉は出てきません。しかし主イエスのもとに集められた、この送り先のエフェソの教会での信者に対して、19節から激励のメッセージがあります。有名な「要石はキリスト・イエス」という表現です。教会での説教者を表現するとも思われる使徒や預言者の土台の上に建てられる、信仰を持つ神の家族。その最も下で揺らぐことなく支え、決定的な方向付けをする存在こそ、隅のかしら石、要石なるイエス・キリストなのです。 この要石に支えられ組み合わされた建物は、成長する、と書かれます。もう地上の私達が住むためだけの家とは異なり、主における聖なる神殿は、まさに私達と同じ“からだ”そのもともいえます。つまり教会とは、建物であって、キリストのからだでもあります。 教会における様々なイメージとして最後に書かれるのが、「霊の働きによって神の住まいとなる」との表現です。神の住まいとは、唯一、霊の働きによって、主において実現されるものです。つまり教会とは、主と聖霊の働きにあって、はじめて神の住まわれるところとなる、神が生きておられる存在となることを伝えます。へだたり打ち破られ、二つのものが一つになり、敵意が消えて、真の平和を共に生きる。これは教会堂そのものであることと同様に、私達の内側、私達のからだそのものに求められるものともいえます。 真の平和について…。確かに目に見える紛争や戦争、命を奪い合う対立が止むことこそが平和です。祈り求めないわけではありません。しかし常に私達は地上での気忙しさ、様々なかたちの要求を自分自身に与え、苦しみを重ねます。苦しみを増し加える中で、私達は神の前での罪を知ります。私達はその罪を認めなければなりません。そうあってこそ、私達に平和を教え、そして与えてくださいとの主への祈りが切実になると思えるのです。 本当の平和とは何か?創世記4章に現れる、人類のはじめての殺人とされる、兄カインが神から愛された弟アベルの命を奪う物語。アベルから流れた血は土の中から神に向かって呪いを叫びます。それはまさにカインへの報復への呪いでした。世界の紛争の中に、報復と呪いは充満しています。しかし主イエスが地上に現れ、自ら十字架で流した血をもって私達の罪を贖い、救いをもたらしてくれました。だからこそ私達は今、真の平和への祈りを合わせることができます。しかし弱い私達は常に報復への思いに駆り立てられるようです。 先日、著述家である河野義行さんの本『命ある限り』を読みました。ご存じのように、河野さんは1994年(平成6年)6月に発生した、オウム真理教による、松本サリン事件の被害者です。サリンにより奥様は意識不明の重体に陥り、2008年に60歳で亡くなりました。河野さんは松本サリン事件に際して事件の第一通報者で、河野さん宅に農薬があったことなどから事件への関与が疑われます。地元の長野の地方紙、全国紙を含め、多くのメディアが河野さんを犯人と決め付けます。その後山梨県のオウム真理教施設周辺で不審物が発見され、1995年3月20日の地下鉄サリン事件により、松本サリン事件もオウムの犯行と明らかになり、河野さんへの疑いは解消されます。 河野さんについて知りたいと思った最大の原因は、河野さんが許しの中に生きるためでした。河野さんは松本サリン事件で、サリンを噴霧した車を制作したとして懲役十年の刑期を満了した、オウム信者Fさんと2006年に出会います。Fさんはオウムの後継団体アレフの信者として謝罪のために河野さん宅を訪れます。河野さんの奥さんが重篤な後遺症を患う中で、謝罪をするFさんは、ただただいたたまれない様子だったといいます。当時について河野さんは「私がすることは、妻の回復を願うことだけだった。彼のやったことに対して恨みはなかった。第一彼は刑期を務めてきているのだ。社会的制裁を彼はすでに受けている」と振り返ります。 Fさんはテロ計画はもとよりサリンの噴霧車とは知らず、溶接の作業に手伝ったことだけで、懲役十年を刑に処されます。 河野さんにすれば、Fさんのそれはまったく推定有罪に縛られた自分の苦しみでした。Fさんは受刑中に、植木の選定作業を覚えたといい、河野さんは「それならうちの庭の剪定もやってよ」とお願いします。Fさんは河野さんの家を訪れる庭師となり、家族とも交流を持ち、河野さんと釣りに共に行く友人となります。その後、Fさんのオウムをめぐる信仰から脱却していったといいます。 なぜ河野さんは、妻が死の時まで後遺症に苦しませ、それまでの日常生活を奪ったオウム真理教の一人Fさんを許せたのでしょうか?河野さんはこう語ります。「社会、メディアが私に期待しているのは教祖麻原に対する血を吐く恨みの言葉なのだろう。しかし私も家族もこんなにひどい思いをした上に、さらに事件の首謀者を恨み続けて、人生を無駄はしたくない。人を恨むことは限りある自分の人生をつまらなくしてしまう。さらにその行為はとてもエネルギーがいることだ。それだけのエネルギーを使うなら、妻の介護も含め、もっと別なより有意義なことに使いたい。それが私の本音なのである。」 河野さんが信仰を持つからこそ、恨みの空しさを語り、未来へのエネルギーに変えていこうとできるのでしょうか?決して信仰によるものだけではないのかもしれません。また信仰なくしては険しい地上での道を生きられないオウムの人々への共感があったからこそ、河野さんはこういった許しへの境地に至れたのかもしれません。逆に河野さんのような生き方をしたいと、河野さんを偶像化するような人々も現れるのかもしれませんが、河野さんはそれを避けるように奥様の死去の後は長野から鹿児島に移住し、今年74歳。釣り三昧の悠々自適な生活をされます。 私は決して河野さんを偶像化しようとはしません。河野さんがどのような信仰心を持つかも知りません。ただ私達キリスト者は河野さんの中にキリストの教えが生きていることに気づきます。カルトとして暴走する教団の中、考えることを止め、信仰ではなく組織の掟に従ってしまったFさんら有名・無名の信徒たち。松本サリン事件における第一通報者の河野さんを最も逮捕に近い容疑者として推定有罪として報道したマスコミ。そしてその報道を信じた私達国民一人ひとり。全員が予想もつかない事件の中で、疑心暗鬼に内なる闇を膨らませ、正義とは何か?見失っていきます。私達は常に大きな組織の力、時代の流れに揺さぶられます。その無力さを、河野さんは当事者の一人として、痛みと共に最も実感した一人でした。人一倍、人間の無力と罪に向き合わされた方でした。だからこそ、巨大な力の暴走に抗えずまきこまれたFさんらを許すにいたったのではないでしょうか。 私達は2000年前、主イエスを十字架につけてしまった、見過ごしてしまった私達の罪を知っています。そして復活して天に上り、私達を今、迎えてくれている主イエスの尽きることのない御国に生きることを信じています。 私達は罪を知っています。だからこそ呪いや恨みを叫ぶことより、罪を贖ってくれた主イエスの赦しを、希望を生きようとします。赦してこそ、私達は初めて本当の平和を祈り求めることができるのかもしれません。その祈りの場こそ、神が住み、霊の働きが充満する、キリストのからだであるこの教会であります。また同時に、ここで霊を注がれ、神が住むのは私達一人ひとりの内側であるともいえるのではないでしょうか。神が住むのは、建物にすぎない教会堂ではありません。神を信じる私達が集うこの場所であってこそ、はじめて神の住む教会は成り立ちます。 気づいていても、気づいていなくても、主に導かれて、霊を注がれ生きる人たち。その一人が河野さんかもしれません。私達はそのような人たちを通じ、隔たりを壊して、二つを一つにする存在の源、主イエスの偉大さに改めて気づかされます。これは大きな幸いであります。なぜなら、私達は迷っても、流されそうになっても立ち返る存在を、場所を与えられているからです。これからも皆さんと共に、隔たりを、敵意を越える、私達の中にたてる教会を共に生きたいと願います。 それでは祈ります。

安息日の神学

申命記5章12~15節(旧289頁)  ルカによる福音書6章6~11節(新112頁) 前置き 現代イスラエルの安息日は金曜日の日暮れから土曜日の日暮れまでとなっています。安息日には国家機関だけでなく、スーパー、レストランなどの営利目的のお店までも休止します。その理由は旧約聖書の十戒に安息日を堅く守れとの戒めがあるからです。それと違って新約の教会は日曜日である主日に礼拝を守ります。そして、その原型は旧約の安息日にあります。イエス・キリストの復活によって、その意味はけっこう変わったのですが、主を記念する日という意味としては、安息日と主日の共通点は明らかです。今日は安息とは何か、そして、今の私たちにとって安息日と似ている主日とはどういう何かについて考えてみたいと思います。 1.古代中東においての安息の意味 旧約聖書には安息日についての記録が30ヶ所以上もあります。その中で最も有名な箇所は出エジプト記の十戒の第四戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ。(出20:8) 」だと思います。律法は安息日にどんな形の労働もせず、休めと命じます。それを犯すものは人だろうが、家畜だろうが、必ず死ぬと厳しく警告しています。それでは、安息日、特に旧約時代の安息には、どんな意味があるのでしょうか?聖書のどこを読んでも、安息日を厳守しなければならない理由は、はっきり記されていません。ただ「主が聖別されたから」のように、手短に記されているだけです。しかし、明らかに大事な理由があるから、主なる神が十戒の一つとして命じられたでしょう。そこで、旧約聖書ではなく、その時代の他の資料から、安息の意味を探ってみて、聖書においての安息の意味も考えてみたいと思います。古代イスラエルの周辺にはいくつかの文明がありました。特にメソポタミア文明が有名でした。メソポタミア文明の神話にも、創世記のような人間創造の説話がありますが、エヌマエリシュ(その時、高い所に)という文献に記されていました。 それによると、安息は神々の中で、一番偉大な神だけが楽しめる誉でした。大昔、人間を創造した創造神と彼に敵対する混沌神がいました。ある日、混沌神は他の神々に敵対して、世界を滅ぼそうとしました。創造神は混沌神の計画を見抜き、彼と戦いました。壮絶な戦いのすえ、創造神は混沌神を倒し、勝利を勝ち取りました。そして、創造神は勝利者として、安息を楽しみました。メソポタミア神話の安息は人間のためではなく、創造神と下の神々のためのものでした。神だけのものなので、人間が安息を楽しむのはあり得いことでした。人間はひたすら神々のために苦労する奴隷だったのです。そもそも、メソポタミア神話の創造神が人間を造った理由は、自分と下の神々の安息のためにこき使うためでした。古代の中東世界においての人間の存在理由は神の道具に過ぎなかったのです。神々の顕現と呼ばれる王族や貴族でない限り、人間はただ使い捨てられる惨めな存在だったのです。十戒が記された時代の安息という概念は人間のものではありませんでした。そして、それは古代世界の共通的な安息についての認識だったのです。 2.旧約の安息。 現代を生きる私たちの認識にあって、人間が奴隷として造られたというのはとんでもない話でしょう。しかし、人間の命が今のように尊重されるのは、わずか数十年前からの話です。たった100年前までも、世界のあちこちに奴隷制があり、第二次世界大戦時も人間の命は軽視されていました。戦争を引き起こした帝国主義の根源には他民族を奴隷にしようとする暴力的なイデオロギーが潜んでいたからです。ましてや、数戦年も前の古代世界では言うまでもない話でしょう。人間の命が極めて軽く扱われたのが十戒が記された時代の現実だったのです。しかし、主なる神の創造においての人間の存在理由はメソポタミアの神話とは根本から違いました。メソポタミア神話が語る人間創造の理由は、神々の奴隷にするためでしたが、イスラエルの神が人間を造られた理由は、人間を神の子供とし、真の安息をくださるためでした。主なる神が創世記1章の混沌と闇を打ち破られ、乱れた初めの世界に秩序をくださった理由は、ご自分の被造物のためでした。神はその秩序の中で、混沌への勝利の安息を人間と被造物にお与えくださったのです。だから、詩編は歌います。「神に僅かに劣る者として人を造り、なお、栄光と威光を冠として、頂かせ。(詩編8:6)」 安息とは、混沌から秩序をもたらされた主なる神の賜物です。そして、神はこの賜物を被造物の頭である人間にくださったのです。とういう訳で、主なる神の安息を記念する安息日は神が主人公であり、また、主によって真の自由をいただいた人間が第二の主人公であるのです。「あなたは、かつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばして、あなたを導き出された事を思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである.(申命記5:15) 」エジプトの奴隷として苦しんでいたイスラエルは何年以上も、何の安息もないまま、死と労苦の下苦しんできました。しかし、神はご自分の御業によって、エジプトを滅ぼされ、死の象徴である、紅海を分け、ご自分の民を渡らせ、広々とした素晴らしい土地、乳と蜜の流れる土地に導いてくださったのです。荒れ野の暑い昼は雲の柱で、寒い夜は炎の柱で守ってくださいました。そして、神の山で十戒を通して安息日を与えてくださったのです。エジプトの奴隷だったイスラエルが主の民として安息を楽しむようになったのです。休日である安息日はエジプトの奴隷であったイスラエルに自由人としての勝利の安息を与える日でした。 3.安息についての主イエスの教え。 今日の新約本文、ルカによる福音書6章にも、安息日の話が出てきます。神の律法を教える会堂で、ある手の萎えた人がイエスに癒される物語です。その時、律法を教える律法学者たちと律法に徹底して従うファリサイ派の人々が、訴える口実を見つけるために、イエスのお働きに注目していました。聖書において手や腕は力の象徴として使われる傾向があります。手の萎えた人は最小限の生活を支える力もない弱い者で、ユダヤ人の宗教指導者たちの中に囲まれています。ユダヤ人たちは、誰一人も彼に興味がないように見えます。彼らは、もっぱら主に反対するために、その働きに注目しているだけです。これが律法を取り扱うユダヤのエリートたちの安息日の状態でした。彼らには主の御心に適う憐れみなどありませんでした。主イエスは、そんな中で手の萎えた人を癒してくださったわけです。主は力のない人に力を、病んでいる人に癒しを与えてくださいました。今まで、話した内容をまとめてみると、今日のルカによる福音書の出来事の意味がはっきり分かるようになります。主イエスは安息日に病んでいる人を癒し、弱い者を助けてくださいました。主が安息日を犯すように見えるまで、彼らを助けてくださった理由は、律法と安息日の意味を誤解し、自由と秩序でなく、束縛と混沌の社会をもたらしていたユダヤ人の社会に、創造の秩序を通して自由と解放を与えてくださった主なる神の御心と、神がくださった安息日の真の意味を再び教えてくださるためでした。 安息日は被造物のために真の自由と解放をくださった主なる神を記念する日であり、主の創造の摂理を思い起こさせる日でした。ということで、イエスは安息日なのに病人を癒してくださったわけです。そして、その安息を完成してくださるために、十字架で死んでくださったのです。それにも関わらず、主なる神の御心に気づくことが出来なかったユダヤ人たちは、安息日の意味を知ろうともせず、最後まで愚かであったのです。いかに悲劇的なことでしょうか。自由と解放の安息日に彼らは規律というまた違う束縛に人々を追い込んでいるとは。安息日は、ただ宗教的な規律のための日ではありません。混沌を秩序に変える癒しの日なのです。そして、この秩序にあって、人間が人間らしく生きることが出来るようにする恵みの日なのです。こんにちのキリスト教会では、ユダヤ教の安息日は守っていません。主イエスによって律法は更新されたからです。しかし、その安息日の意味を受け継ぐ主日があります。主なる神は創造を通して、人間と被造物に安息と秩序をくださいました。それを思い起こさせるのが安息日でした。そして、主イエス・キリストの復活によって、その安息を完成されました。そのイエスを記念する日が、今、私たちが守る主日なのです。そういうわけで、安息日を受け継いだ主日はただの休日でなく、神からの解放と安息、愛と贖いを祝う恵みの日として、感謝し、礼拝すべきなのです。 締め括り 時々、年に1,2度くらい、主日に家族や親戚、友達との用があって礼拝を休ませてもらいたいと願われることがあります。牧師としては、できる限り、主日礼拝を守っていただきたいと思いますが、家族、親戚、友達との時間を礼拝のように大事にしてくださいと言いながら承諾します。今日の説教でお話ししました理由のためです。主なる神が自由と解放のためにくださった安息の日、キリストによって私たちにも与えられた聖なる日、自分のためではなく、愛する人々ために、隣の人々のために、その日を過していただいたらと思って行かせるのです。旧約聖書で安息日を犯す者が殺された理由は、主なる神が残酷な方だからではありません。その日を自分の悪い欲望のためにみだりに扱おうとしたからです。隣人を助けるために、家族を大事にするために、働くのは安息日の意味に当てはまる大事なことだと思います。そのような心を持って主日を過ごしたいと思います。そこに安息日の神学は生き生きとよみがえってくるのではないでしょうか。

偶像崇拝

コヘレトの言葉3章11節(旧1037頁)  使徒言行録1章12~26節(新213頁) 前置き 最近、水曜祈祷会では小信仰問答の学び会と使徒言行録の読み会を隔週にしています。小信仰問答は十戒のうち第一戒「あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない。」を学び、使徒言行録は第1章を読んで、その内容について話しました。ところで、偶然にも十戒の第1戒と使徒言行録の第1章には、偶像崇拝について考えさせられる部分があります。今日は、その中で使徒言行録第1章12節から26節の言葉を通じて、いくつかの教訓を学び、特に現代を生きる私たちにおいて偶像崇拝とはどういうものかについて考えてみたいと思います。 1. 教会は主の御言葉によって建てられていく。 復活された主イエスは、地上に40日にわたって主の人々とおられ、神の国について教え、昇天後に聖霊なる神を遣わさしてくださると約束されました。主はその約束を最後に、オリーブ山から御父のところに昇られました。その後、弟子たちは、ある部屋に集まって祈り、イエスが約束してくださった聖霊を待ちました。聖霊の臨在前のある日、ペトロが兄弟姉妹の中に立ってこう言いました。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをした、あのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。詩編にはこう書いてあります。その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。また、その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。」(使徒行伝1:16、20、詩篇69:25、109:8引用) その内容はイエスを背反したイスカリオテのユダについての話でした。結論を言えば、12弟子の一人だったユダがイエスを裏切った後、自殺し、弟子の数が11人になっているので、新しい一人を選ばなければならないとのことでした。使徒ペトロはイエスの一番弟子と呼ばれるほど、初代教会において影響力のある存在でした。イエスはペトロに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:19)と言われるほど、ペトロを初代教会の指導者として認めてくださったのです。 (このような理由でカトリック教会はペトロを初代教皇だと思いました。)つまり、ペトロには自他共に認めるイエスの一番弟子という権威があったのです。しかし、今日の本文を読むと、そんな彼であるにも関わらず、自分の権威で勝手に教会のことを決めません。主の御言葉(詩編)の権威に従い、自殺で亡くなったユダに代わる新しい使徒の選出を提案します。それも自分が人を選ぶわけではなく、神にすべてをお委ねするという心構えで、祈りと共に「くじ引き」をします。旧約時代には権力のある一人の思いではなく、主なる神がその御心によって、すべてを導いてくださるという意味で、よく「くじ引き」をしたと言われます。このような「くじ引き」のもう一つの形として、今日の長老教会では個教会の長老、執事を選出する時、あるいは大会や中会の役員を選ぶ時に投票をしたりしています。神の教会は主の御言葉を通じて、聖霊のお導きによって建てられていきます。すべての権威は、ある一人の発言ではなく「神の御言葉」によって立てられます。教会には多数の指導者がいます。時々、牧師や長老といった指導者たちの声がかりで動かれる教会もたまに見かけます。しかし、教会を導いていくのは一人の人間ではなく、主なる神の御言葉です。志免教会も人の思いではなく、主の御言葉によって建てられていく教会であるよう祈ります。 2. 裏切者ユダについて。 次は「裏切者、イスカリオテのユダ」(以下、ユダ)について話しましょう。皆さんもご存知のように、ユダはイエスを裏切って主を反対する者たちに引き渡してしまいました。彼はなぜ、イエスを銀貨30枚で売ってしまったのでしょうか? イエスはユダを憎んだり、差別したりされたことがありません。ペトロを一番弟子と呼ぶとはいえ、ペトロだけを偏愛されたわけでもありません。誰かは必ず初代教会を率いる指導者にならなければならなかったので、主はペトロを適任者と判断され、よく一緒におられるだけでした。牧師や長老だからといって主にさらに愛されるわけでないことと同じように、一番弟子ペトロだと、さらに愛されていたわけではありません。イエスの愛はすべての人々に公平だからです。おそらく、ユダもイエスに愛される弟子だったでしょう。彼が裏切者であることをすでに知っておられたにも関わらず、主は彼をも愛されたでしょう。ユダという人は、政治的なメシアを待ち望んだ、ある意味で、イスラエル民族の独立運動家だったと思われます。ただ、そのやり方が非暴力平和主義ではなかったと思います。イエスが福音伝道を始められた頃、「イエスはダビデの子孫だ。」という噂を聞いたユダは、このイエスこそがローマ帝国からイスラエルを独立させ、昔のダビデ王国の栄光を取り戻す民族のメシアだと思ったのです。 つまり、ユダはイエスという方の活動を誤解し、自分勝手に思ってしまったのです。神に遣わされた、全人類の罪を贖うメシアではなく、自分の民族と国の指導者という狭い思いの中でイスラエルの独立と民族の繁栄だけのためのメシアと考えてしまったのです。そのため、時間が経てば経つほど、イエスの伝道活動が気に入らず、ますます不満が重なっていったでしょう。早く人々を煽り立て、軍隊を集め、兵器を備えてローマとの戦争を準備しなければならないのに、イエスは敵への愛を語り、罪人の救いを語り、神の国を語られるだけでした。結局、彼はイエスという存在からは民族の救いがないと判断し、その結果、イエスを告発して引き渡し、自分はイエスと関係を絶とうと企てたでしょう。最初からユダはイエスを贖い主、救い主、民族と国家、歴史と時代を越え、創り主なる神の御心を成し遂げられる真のメシアとして信じていなかったでしょう。自分の理想であるイスラエルの独立、独立以後の報い、世俗権力者として力を持った自分の未来だけを期待してイエスに近寄ってきたでしょう。そのため、ユダはイエスの歩みが自分の理想と合わないという理由で裏切ってしまったでしょう。私たちは福音書を読む時、このようなユダの姿を愚かだと考えがちです。しかし、私たちはこのユダより純粋だと言い切ることが出来ますでしょうか。 3. 自分という偶像を信じる罪 私たちはイエス・キリストへの信仰のゆえに教会に通っています。だから、キリスト教はキリストを信じる宗教なのです。世の中には数多くの宗教があります。日本人にとって、宗教より文化に近く感じられる神道を始め、大昔から日本人の価値観に影響を及ぼしてきた仏教、日本で生まれ、他国にも伝えられた天理教、創価学会などの宗教もあります。その他にもキリスト教系の異端やカルト宗教、イスラム教みたいななじみのない宗教など、数多くの宗教が日本にあります。日本は信教の自由がある国なので、どんな宗教を持っていても、誰にもそれを非難する資格はないと思います。だから、教会でも他宗教者を偶像崇拝者だと盲目的にののしってはいけないと思います。しかし、人間がなぜ、宗教を持って様々な神々を崇拝するのかについては考える必要があります。旧約聖書にはこんな言葉があります。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(コヘレトの言葉3:11) 神は人間に「永遠を思う心」を与えてくださいました。永遠を思う心とは、簡単に言えば、絶対者を追求する心のことです。そんな人間が罪によって唯一の神から離れてしまい、絶対者への知識は消えたが、絶対者を追求する心は残って、真の神ではない他の存在を信仰するようになったのです。こうした永遠を思う心から宗教は始まりました。 しかし、こうした人々の心は変質し、宗教を自分の欲望、必要、満足のための道具として使うようになりました。多くの人が自分の必要のために神社で祈ったり、お寺で祈ったりします。天理教や創価学会なども立派な教理を持っていますが、信徒一人一人の信仰活動の結局は自分の欲望、必要、満足につながるでしょう。信仰の対象である神々への追求ではなく、その神々を満足させることから来る自分の満足が信仰の理由になるということです。宗教と信仰が自分が仕える神々への崇拝ではなく、その後ろに隠れている「自分自身」に仕えるための道具となったというわけです。結局、信仰も宗教もその裏には「自分自身の満足」という自分自身の欲望を崇拝する状態に至ります。現代社会の本当の偶像崇拝は、他宗教の神々を信じることに限りません。その後ろに潜んでいる自分自身という、また違う神を拝むのが、本当の偶像崇拝なのです。イスカリオテのユダは、自分自身を神とする者でした。イエスという有名なラビを利用して、自分が望んでいた民族の独立とそれについてくる名誉と権力という彼の欲望が、ユダ自身を神のように作ってしまいました。そして、その欲望が叶えなくなると、ユダは自分が「主」と呼んでいたイエスを銀貨30枚で売ってしまったのです。ユダの最も大きな問題は裏切りではありませんでした。自分自身の欲望を神とし、真の神であるイエスを捨ててしまう自己崇拝にありました。 締め括り 皆さんによく話すことがあります。「私たちはなぜイエスを信じ、教会に通っているのか?」です。その理由が「死後、天国に行くために、神に祝福されるために、心の平和のために、幸せになるために」という単純に「自分の000ために」ならば、「ひょっとして私たちも自分の満足のためにイエスを信じているのではないか?」と疑ってみなければならないと思います。キリスト教信仰は自分の満足のための信仰ではありません。キリスト教の主人公は徹底的に三位一体なる神であり、私たちはその方の民として召し出された存在です。自分の欲望ではなく、ひとえに主なる神の御心に聞き従うという純粋な信仰で生きなければ、私たちはいつか神に大きく失望するようになるかもしれません。私たちが神からいただく祝福は、神を満足させてもらうご褒美みたいなものではありません。純粋に自分の造り主である神だけに仕え、神の御心に聞き従って生きる時、自然に与えられる恵みなのです。自分が神の座を奪い取り、神を自分の必要のために利用しようとする姿は、けっしてあってはならない罪なのでしょう。主従関係を確実に理解し、純粋な信仰で神の民として生きることこそがキリスト者のあり方でしょう。神だけに仕える純粋な信仰者として生きるのか? 自分自身に仕える偶像崇拝者として生きるのか? 私たちは常にこの分かれ道に立っています。

律法の行いではなく、信仰による義。

創世記15章6節(旧19頁)  ガラテヤの信徒への手紙2章11~21節(新344頁) 前置き キリスト教の最も中心的な教えは「キリストのみによる救い」ではないかと思います。新旧約をひっくるめて数多くの言葉がありますが、そのすべては「自分の努力では自分の罪が解決できず、たったイエス·キリストによってのみ人の罪を解決することができる。」に帰結されるからです。したがって、キリストとその方の貢献による救いは、いくら繰り返し、強調すると言っても過言ではない最も重要な聖書の真理なのです。6月2日の主日、私はガラテヤ書の1章を通して「イエス·キリストの救い」を説教しました。その内容は「ひとえに主イエス·キリストによってのみ救いを得ることができる」でした。今日は、ガラテヤ書2章の言葉を通じて、当時の教会に悪影響を及ぼした「ユダヤ主義」について学び「ひとえに主イエス·キリストによってのみ救いを得ることができる。」という言葉の意味を、もう一度考えてみたいと思います。 1. ユダヤ主義。 ガラテヤ書の背景について手短に話してみましょう。イエス時代のローマ帝国の各地には「ディアスポラ」というユダヤ人社会がありました。そして、彼らが住む地域にはユダヤ教の会堂がありました。初代教会の時代には、ユダヤ教、キリスト教の区別が薄かったため、キリスト者たちもユダヤ教の会堂で集会を催すことが多かったです。その時、イスラエルから訪問したユダヤ人たちも自然に初代教会共同体の集会に参列したりしたようです。そのようなユダヤ人の中には、意図的に初代教会に近寄り、信徒たちの福音への理解を歪曲させるユダヤ主義者たちもいたようです。例えば「皆さんはただイエス•キリストの貢献によってのみ義と認められると言われていますが、それは違います。律法を読んでください。行わなければ救いはありません。イエスというラビを尊敬するのは良いと思います。しかし、それだけでは物足りないです。律法が命じることを行わずに、イエスを信じるだけでは救われないでしょう。」このようにキリストのみによる救いを否定し、再び律法に戻ってイエスだけでなく自分の善行をも加えて救われるべきだと偽りの教えを伝える人々がいたのです。ということで、ガラテヤ書は、そのような福音を歪曲するユダヤ主義を警告しているのです。 ところで、なぜ、ユダヤ主義者たちはイエスを信じて得る救いを否定したのでしょうか? 基本的にユダヤ主義はイエスを反対するための思想ではなく、律法の厳守を極端に主張する主義だったのです。旧約の律法を堅く守ることそのものは良いことだと思いますが、ここで言う「律法の厳守」はそんな意味ではありませんでした。旧約聖書の純粋な律法を守るという意味ではなく、その律法を解釈した昔の人々が書き残したユダヤ人の伝統(昔の人の言い伝え、マタイ15:2)を堅く守るという意味でした。つまり、その始まりは旧約聖書の律法解釈にあったのでしょうが、時間が経つにつれてユダヤ民族中心的な解釈が加わり、結局、人が作った偏狭なユダヤ民族むけの言い伝えが律法のように取り扱われたわけでした。ユダヤ人は長い間、その伝統を守ることによって神に義と認められると信じてきたと思われます。なのに、突然現れたイエスという人と彼を主として崇める人々が「ただイエスによってのみ救われる。」と主張していたので、ユダヤ主義者たちは、自分たちの伝統が損なわれると思ったのでしょう。そこから出た反応が「イエスを信じるだけでは物足りない」という主張でした。 2. 初代教会の中のユダヤ主義 それでは、このユダヤ主義の影響はどうだったでしょうか? 今日の新約本文の序盤にはこう書いてあります。「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。」(ガラテヤ2:11-13) 私たちの思い以上、ユダヤ主義の影響は教会の中に据えてあったようです。ここでケファは使徒ペトロのアラム語式名前です。つまり、パウロがペトロを非難したわけです。パウロはもともとキリスト者を迫害する過激なユダヤ主義者でした。他方、ペトロは最初からイエスに従った弟子だったのです。一歩遅れて回心した元ユダヤ主義者の「後輩」パウロが、最初からキリスト者だった「先輩」ペトロをとがめたということです。なぜパウロはペトロをとがめたのでしょうか? それは、ペトロからユダヤ主義の痕跡が見えたからです。今日の本文によると、ペトロはヤコブのもとから来た人々(エルサレムのユダヤ人キリスト者たち)がアンティオキア(異邦地域)を訪問した時、異邦人キリスト者との食事の席を避けたと書いてあります。 そして、パウロと一緒に活動していたバルナバのような他のユダヤ人キリスト者だちもペトロと一緒に異邦人キリスト者たちと距離を置いたと書いてあります。ペトロとバルナバと他のユダヤ人キリスト者たちがそう振舞った理由は、律法を装うユダヤ人の伝統(昔の人の言い伝え)が異邦人との交わりを「望ましくない行為」と規定していたからです。『使徒行伝』にはこんな言葉があります。「ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。」(10:28) つまり、パウロとペトロが活動していた時期にも「純血ユダヤ人のキリスト者たち」の中には異邦人への偏見と差別を抱いている人がいたということです。ペトロはエルサレムから来た「純血ユダヤ人キリスト者たち」との葛藤を避けるために「異邦人キリスト者たち」との食事を避けたわけです。依然としてユダヤ人キリスト者たちは「昔の人の言い伝え」から完全に自由ではなかったということです。このように初代教会の中にもユダヤ主義の影響が残っていました。その結果、アンティオキア教会の異邦人キリスト者たちはいかに傷ついたでしょうか。それで、パウロはペトロをとがめたわけです。「しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」(ガラテヤ2:14) 3. 信仰のみによる義 おそらく、ペトロは自分がキリストによって完全に新たになったと思っていたでしょう。初代教会の指導者としての使命感と誇りもあったはずです。それによってアンティオキアという異邦地域に来た時、異邦人キリスト者たちと一緒に食事もし、昔の人の言い伝えという足かせから抜け出して生活したでしょう。しかし、エルサレムからユダヤ人キリスト者たちが来ると彼は恐れ、再び「昔の人の言い伝え」に束縛されてしまいました。このようなペトロの姿を見て、異邦人キリスト者たちは「私たちも純血ユダヤ人キリスト者のようにユダヤ人の伝統を守らなければならないのか?」と誤解し「キリストのみによる救い」に疑いを抱いたかもしれません。パウロはそのようなペトロの行いがもたらす多くのキリスト者の誤解を残念に思い「私たちがたとえユダヤ人だとしても、私たちを新たにするのは律法を歪曲したユダヤの伝統ではなく、ただイエス·キリストの救いのみにかかっている。それは民族と思想を超える。」とペトロに力強く語ったわけです。伝統は大切なものです。しかし、その伝統が神の御心を歪め、妨げるなら、私たちはその伝統を改善していかなければなりません。 日本キリスト教会の中に、他教派を好ましくないと思う方々もいるかもしれません。私が最初日本キリスト教会に来た頃、韓国から多くの宣教師たち(長老派)が来日しました。その時「外国から宣教師を呼ぶのが心配だ」と言われる他中会の方々もいました。「日本人ではない。教派が違う。伝統が損なわれるかもしれない。」などの理由でした。その方々には申し訳ないと思いますが、もしかしたら、そういうのが現代版の「ユダヤ主義、ユダヤの伝統、昔の人の言い伝え」であるかもしれません。日本キリスト教会の歴史と伝統を大切にしたあまり、民族と国とすべての違いを乗り越えたキリストの体なる一つの教会という大命題を忘れられたかもしれません。幸い、九州中会の多くの方々はペトロではなく、パウロのように宣教師たちを受け入れてくださったので、今のようになっていますが、当時はとても辛い気持ちでした。キリストによって義とされたということは、私たちの義において「キリストへの信仰」以外に何も要らないということを意味します。自分がどんな罪を犯した人間だっても、自分がどんな民族、国、背景の出身だっても、主イエスのもとですべてが赦され、新たになるということです。主なる神がイエス・キリストを遣わされた理由はまさにこれです。男であれ、女であれ、裕福であれ、貧乏であれ、どんな壁も崩し、ただイエス·キリストのみの救いによって皆が神の子供として認められるということです。 締め括り パウロは新約本文の結論部にこう語ります。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20) 私たちはどんな行いによっても、どんな資格によっても、義と認められることが出来ない罪人です。ひとえにイエス・キリストへの信仰によってのみ義と認められることが出来る不完全な存在です。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:16) 創世記のアブラハムが、ただ「信仰」によって義とみなされたことと同じように、私たちはキリストへの信仰によってのみ義と認められるのです。ですから、主への信仰以外に、何によっても他人を判断したり差別したりしないようにしましょう。教派、民族、性別、すべてを越えて、ただ主への信仰だけで一つになっていく私たちであるよう祈ります。