繰り返す失敗と溢れる恵み。

創世記20章1-18節(旧27頁) ヨハネによる福音書15章4-5節(新198頁) 前置き 信仰の父と呼ばれるアブラハムは波乱万丈の人生を生きました。主のご命令によってカナンに来るやいなや、ひどい飢饉に襲われ、それを避けてエジプトに行ったら、政治的な問題のため、妻を妹と騙さなければならない命の危機にあいました。その後、主のお助けによってエジプトから無事に脱出しましたが、次は相続人と思っていた甥ロトと財産の問題で別れることになり、神に約束された息子の誕生は兆しが無かったです。側妻は家庭の不和をもたらし、彼女から生まれた息子は神に相続人と認められませんででした。「主の民」という呼び名が形だけのものと思われるほど、アブラハムの人生はつらかったのです。しかし、そのようなアブラハムの人生にあって、絶対変わらないのがありましたが、それは主なる神の存在でした。神はアブラハムと結ばれた契約にあってアブラハムの罪を赦され、いつも共にいてくださいました。聖書において最も重要な価値の一つは、神がご自分の民と永遠に共におられるということです。私たちは今日、アブラハムの失敗を見ます。しかし、それと共に、決してアブラハムを見捨てられない主なる神の愛をも見るようになるでしょう。 1.同じ罪を繰り返すアブラハム。 アブラハムは、最も偉大な聖書の人物の一人です。「信仰の父アブラハム」「アブラハムとイサクとヤコブの神」「アブラハムとダビデの子孫イエス」などの表現があるほど、キリスト教信仰において、存在感の大きい人物です。しかし、このアブラハムという人は、私たちの思いほど、偉大な人でないかもしれません。その理由は、今日の本文のためです。「ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、これは私の妹です。と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。」(1-2)今日の本文、創世記20章は、前の12章の「アブラハムがエジプトのファラオに妻を妹と騙した物語」と非常に似ています。話の文脈から見ると、今日の本文の物語はアブラハムが神を信じてから、すでに24年が経った時点、つまり、かなり成熟した信仰者になったはずの時点のことです。しかし、彼はなぜか自分の妻をまた捨てる失敗を再び犯し、まったく成長していない姿を見せてしまいます。 創世記12章でアブラハムは神に何も尋ねず、飢饉を避けて勝手にエジプトに行きました。そして神にも、妻にも大きい無礼を犯してしまいました。しかし、その後、神に赦されたアブラハムは繰り返して失敗と回復を経験し、少しずつ成長していきました。なのに、アブラハムは、長年の信仰生活にもかかわらず、再び妻を捨てる、また同じ失敗を犯したのです。彼の妻サラは、ただ、普通の人妻に過ぎない存在ではありません。アブラハムの相続人、つまり神の約束の息子を産む、神に選ばれた大事な人物でした。約束の相続人イサクの母になる妻サラを捨てるということは、神との約束を破る大きな犯罪であり、妻との信頼をも破る裏切りだったのです。このアブラハムの姿を見て、「これが人間の本質なのか?」と思わされます。私たちは戦争も、命の脅威も、人権の抑圧もない平和の時代に信仰生活をしています。しかし、もし、私たちもアブラハムのような命の脅威を感じる状況になったら、私たちは果たして信仰を守ることが出来ますでしょうか。ひょっとしたら、繰り返すアブラハムの失敗は、私たちを映す鏡であるかもしれません。もし、実際に命をかけなければならない日が来たら、私たちはアブラハムと異なる選びが出来ますでしょうか。 現代を生きる私たちは、創世記が一人が書いたか、長い間、何人かが書いたか分かりません。ただし、この創世記という聖書が記される際に、主なる神が深く関わり、導いてくださったこと、主の御言葉として、この創世記をくださったことは分かります。なので、私たちは創世記 12章と 20章で繰り返すアブラハムの失敗と主のお赦しの物語を通して、主が私たちに示してくださる教訓があるということを考えなければなりません。いくら偉大な信仰者であるといっても失敗を経験し、その偉大な信仰者でさえ、神のご恩寵でなければ、絶対に信仰を続けることができないということを教えるための「失敗の繰り返し」それが創世記12章に似ている今日の本文の意義ではないでしょうか。「その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」(3)神は創世記12章でファラオを戒められたように、今回はアビメレク戒をも戒められ、アブラハムを救ってくださいました。アブラハムは、罪による繰り返す失敗を犯しましたが、神も同じく繰り返してアブラハムを赦してくださったのです。いくら信仰があるといっても、人は自分の信仰を完全に守ることができません。民と共におられる主の恵みによってのみ、人は信仰を守ることが出来るのです。私たちはアブラハムの繰り返す失敗にがっかりするより、それでも、アブラハムを見守ってくださる神の愛に感謝すべきです。 3.繰り返す失敗と溢れる恵み。 「直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」(7)今日の本文を読んでみると、先に誤った人はアビメレクではなく、アブラハムであることが分かります。古代に一つの勢力が拠点を移す際に、他勢力の暴力を避けるために、家族を人質として差し出す場合もあったのですが、当時のアブラハムはカナンで権力も財力もある有名人で、妻サラはすでに90歳近くの老人でした。ある学者は、神がサラに子供を産ませるため、彼女を若返らせてくださり、それによってアビメレクがサラを連れていったと解釈しましたが、説得力は低いと思います。いずれにせよ、当時のアブラハムは自分の妻を妹と騙す必要はなかったと思います。創世記12章では、勢力も弱く、妻も比較的に若かったので、命を救うために騙したのかも知れませんが、創世記20章では財力も、権力もあるアブラハムが、あえて妻を渡す理由がなかったということです。なので、おそらくアブラハムが早のみ込みして怖がり、妻を渡したのではないかと思います。 いずれにせよ、今日のアブラハムは信仰の父にふさわしくなく、情けない姿をとっています。しかし、この情けないアブラハムへの神の御心は驚くべきです。主はアブラハムを「預言者」と呼んでおられるからです。神はアブラハムが信仰の父にふさわしく行動する時も、そうでない時も、変わることなく「主の民、神の預言者」と認めてくださいました。彼の行いではなく、神と結んだ契約をご覧になったからです。これはキリストの福音と非常に似ています。キリスト者は、自分の功績によって神の民となった存在ではありません。私たちもアブラハムのように、時には信仰で、時には不信仰で生きます。いや信仰より不信仰に生きるほうが多いかも知れません。しかし、それでも、神は私たちを救ってくださったキリストの義によって、私たちをご自分の民と認めてくださったのです。今日のアブラハムが犯した罪は、彼が最初犯した罪と同じ罪、つまり妻を捨てる罪でした。しかし、神は彼が繰り返して罪を犯しても、変わりなく彼を赦し、正しい道を教えてくださいました。同じくイエスは、人生の初めの罪から終わりの罪まで、すべての罪をお赦しくださり、私たちを主の道へと導いてくださるでしょう。繰り返す罪の中でも、主は満ち溢れる恵みで主の民を憐れんでくださるのです。 締め括り 「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私は葡萄の木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:4-5)イエスは十字架にかけられる前夜、ご自身はぶどうの木であり、弟子たちは枝であると言われました。枝は幹につながっている時にのみ、実を結ぶことができ、自分では実を結ぶことができないものです。アブラハムは同じ失敗を繰り返しました。しかし、彼は偉大な信仰の人物として聖書に記録されています。アブラハムが偉大な人物として描かれた理由は、失敗にもかかわらず神を信じ、離れずにつながっていたからです。神はキリストにつながっている者をも守っておられます。私たちが繰り返して罪を犯しても、主は繰り返して赦してくださり、常に私たちを正しい道へと導いてくださるでしょう。だから失敗を恐れる必要はありません。失敗したら悔い改め、赦してくださる神を最後まで信じていきましょう。私たちが神につながっている時に、神は私たちを実を結ぶ枝として養ってくださるからです。繰り返す失敗にも溢れる恵みによって応えてくださる神のご恩恵を憶え、神のもとにいる者として生きていきましょう。

使徒信条(4)‐復活と勝利の神の子

詩編2編7~9節 (旧857頁) 、ヨハネによる福音書16章33節 (新201頁) 前置き 最近、私たちは使徒信条について学んでいます。古代の教会で使徒信条が造られた理由は、当時の教会を分裂させ、誤った教えを宣べ伝える異端やカルトから、教会のアイデンティティ-を守り、各地の教会が共通的に告白できる信仰の標準を正しく立てるためでした。(洗礼者教育のためにも)使徒信条は聖書に直接記された言葉ではありませんが、使徒信条の告白すべてが聖書に基づき選ばれたものです。使徒信条と呼ばれる理由は、初代教会の指導者であり、イエスの弟子である12使徒の信仰と精神を要約整理した信条だからです。私たちはこの使徒信条を通じて、神とは誰なのか、どのように存在しておられるのか、私たちが信じるべきものは何かを知ることができます。今日は、その4番目、イエスの死と埋葬と復活、そして昇天と審判について話してみましょう。 1. 葬られて陰府にくだられた神の子。 「死んで葬られ、陰府にくだり」十字架で、人類の代わりに罪を背負って亡くなられたイエスは、本当に死を経験されました。本当に死を経験されたということは、神であるイエスが、人間の死の悲惨さを「経験しないが理解はする。」という意味ではなく、神であるイエスが人間になり「経験して確実に分かる。」という意味として理解することが出来ます。「経験しないが理解はする。」と「経験して確実に分かる。」は雲泥の差だからです。イエスは人間の真の代表になってくださるために、人間の生だけでなく死まで経験されたのです。日本語の使徒信条では「葬る」とありますが、古代のイスラエルでは人が死んだら、その死体を亜麻布に包んで岩窟の墓に納めたと言われます。古代イスラエルでは、神は天におられ、人間は地上におり、死者は地底世界「シェオール」にいると思いました。このシェオールはヘブライ語ですが、日本語に訳したのが「陰府」なのです。つまり、陰府とは古代イスラエル人において、死の代名詞だったのです。だから、使徒信条はイエスが実際に死んで葬られ、死者のところ、陰府にくだられたと語っているのです。しかし、私たちはこの使徒信条の文章を文字通り理解してはなりません。 ある学者たちは、イエスが実際に地獄(陰府)にくだられ、罪人たちを救われたと解釈します。また、ある学者たちは、イエスが死後、天国と地獄を問わず、ご自身が死に勝利したと宣言されたと解釈します。その他、様々な解釈がありますが、私たちは真相を知ることができないので、ある一つの解釈に盲目になってはなりません。「死んで葬られ、陰府にくだり」は、地上で生きている私たちが完全に証明できない言葉だからです。ただし、長老教会が重要に考える宗教改革者「ジャン·カルバン」は自分の著書「キリスト教綱要」を通して「キリストは神が怒りの中で罪人にくだされた死の刑罰を経験された。だから、主が地獄(陰府)に落ちたとしても驚くことはないだろう。」と語りました。すなわち、カルバンはイエスが直接陰府にくだられたという文字的な解釈より「比喩的に」陰府が意味する人間の死と悲惨さそのものを完全に経験して罪人の代わりに苦しみを受けられたということを強調しているのです。イエスが実際に陰府に行かれたかどうかは誰も知りません。ただ、イエスが私たち人間の死を完全に経験し、誰よりも理解して憐れんでくださるということから慰めを得るべきだと思います。 2. 復活して天に昇られた神の子。 「三日目に死者のうちから復活し、天に昇って」イエスは、明らかに亡くなられました。真の神であるイエスですが、また真の人間として、この地上に生まれ、育ち、働き、罪の贖いのために死んでくださったのです。そのため、イエスは神でありますので、神の偉大さとみ旨を誰よりもよく分かっておられ、また人間でありますので、人間の弱さと死の権能を誰よりもよく分かっておられます。こんなイエスは死んで3日後に復活されました。なぜ3日なのでしょうか。その理由はイエスが直接ヨナを取り上げて言われたからです。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」(マタイ福音12:40)イエスは、旧約聖書の預言者ヨナが3日間、魚の腹(死)の中にいたが、神が彼を生かしてくださったことを例に挙げられ、ヨナより偉大な存在であるイエスご自身も3日間死に、復活されることを予言されたのです。完全に死にて葬られたイエスは、旧約聖書で神がヨナを魚の腹から出してくださったように、墓から復活して再び生き返られたのです。 イエスが、この地上に来られたのは、いと高き神である存在が、みすぼらしい人間の姿に自ら低くなられた謙遜の極みを示す出来事です。しかし、イエスが死から復活されたのは、神によって最も高いところに再び高められた栄光の極みを示す出来事なのです。イエスの誕生が低くなることの始まりだったとすれば、イエスの復活は高くなることの始まりであるのです。人間の姿になって、人間の死まで完全に経験されたイエスは、真の神でありながら真の人として死に勝利して再復活されたのです。最終的にイエスの復活は、主が来られた場所、天に帰られることで完成します。主イエスは復活を通して、再び栄光の座、御子なる神の座、父なる神の右に復帰されたのです。それが昇天の真の意味です。ですから、復活と昇天はコインの両面のように密接な関りがあります。復活して昇天されたイエスは、二度と死ぬことなく、永遠におられるようになったのです。そのため、イエスの復活は一時的に生き延びてまた死ぬこととは異なります。世の中でも生物学的に死んだ人が、奇跡的によみがえることが、しばしばあります。しかし、彼らは長生きはしても結局再び死にます。イエスの復活は二度と死がない永遠の命を伴います。イエスの復活は完全に死を乗り切った空前絶後の恵みなのです。 教会の頭なるイエス・キリストは、死から復活されました。そのため、主の体なる教会を成す私たちも、すでにイエスと共に復活の中に生きているのです。そして、その頭なるイエスが天に昇られたので、その体なる私たちも、この地に生きてはいますが、実は天に属した存在として生きているのです。イエス・キリストの復活と昇天は、主イエスおひとりだけが天に帰還した出来事ではなく、その方の民みんなに復活を与え、天の命をくださる栄光の出来事なのです。それはイエスだけの事柄ではなく、主の民みんなの事柄でもあるのです。復活と昇天のある人生とは、過去、救われる前の人生を顧み(悔い改め)新しい人生を生きることです。自分だけのために生きた人なら、他人のことも考えて生き、他人のものを欲した人は、他人のものを守り、節制のできない人は、節制して生き、何気なく罪を犯した人は罪を犯すことを恐れる人生に変わることなのです。それがまさに復活と天国を持った人の生き方ではありませんか。主イエスは復活して天に昇られました。主の民である私たちも、主に召される日まで、この地上で生きますでしょうが、すでに復活と天国に属していることを忘れてはならないでしょう。 3. 真の王として再び来られる神の子。 「全能の父なる神の右に座しておられます。そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます。」復活して昇天されたイエスは、本来のご自分のところに帰られました。しかし、イエスの受肉と十字架での死、復活、昇天によって罪と死を征服されたイエスは、全宇宙を治める真の王の中の王になられました。創造以来、旧約時代には、父なる神が三位一体を主導されたのですが、イエスの復活と昇天以来には、詩編2編の言葉のように「お前はわたしの子。今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。」(詩篇2:7-8) 御子に主導権をお譲りくださり、全宇宙を治めて裁かれるようにしてくださいました。したがって終末の日、イエスが再臨される時には、地上におられた時のように、苦しみを受ける姿ではなく、戦争に勝利した王として来られ、生者と死者を問わず、全人類を審判されるでしょう。私たちキリスト者は、このイエスの栄光と再臨を待ち望み、この世での苦しみを忍耐しつつ生きていくのです。私たちの主がすでに勝利されたからです。 締め括り 罪によって、死に束縛された人類を救うために、イエス·キリストは自ら死を経験されました。葬られたというのは、確実な死の経験を意味します。陰府にくだられたというのは、人間の死の悲惨さを完全に経験し、理解されたという意味です。復活されたというのはイエスが罪と死の権能に勝利され、主を信じる者たちに罪と死の権能からの完全な自由を与えてくださったという意味です。再臨し審判されるというのは信じない者には恐ろしい審判であるが、信じる者には主の栄光を分け与えてくださるという意味です。私たちはこのイエスを信じています。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ福音16:33) ですから、イエスのもとにいる者は、死を恐れる必要がありません。この世では苦しみを受けるかもしれませんが、主は私たちの弱さを知り、いつも共にいてくださるでしょう。私たちが信じるイエスは生と死の支配者です。このイエスへの信仰をしっかりと守り、日常を生きる私たちでありますよう祈り願います。

私の一番良いものを。

箴言 3章9-10節(旧993頁) マルコによる福音書 14章3-9節(新90頁) 前置き 今日、探ってみようとする箇所は「イエスの頭に香油を注ぎかけたベタニアの女」の物語です。この本文を通して「私の一番良いものを」という題で話してみましょう。今日の本文を通じて、主は私たちに何を教えてくださいますでしょうか? 1。ベタニアにおられる主なる神。 「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高値なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(マルコ14:3) イエスが十字架につけられる数日前、主はべタニアの重い皮膚病(ハンセン病)の人だったシモンの家に行き、食事の席に着かれました。呼称からも分かるように、シモンはかつてハンセン病者だったようです。律法によると、ハンセン病者は必ずイスラエルから隔離しなければなりませんでした。しかし、純粋なユダヤ人だった主イエスは、彼の家に入り、一緒に食事されたのです。食事の席に着くというのは、一緒に飲み食いする、人と深い関係を結ぶという意味です。もちろん、学者たちはシモンがすでにイエスによって癒され、正常になっていたと言います。彼は本当に回復していたでしょう。もし、彼が依然としてハンセン病者だったら、律法のため、イエスを除いた、みんなが彼の家に入ろうとしなかったはずだからです。ハンセン病から治ったとしても、人々は気軽に彼の家に入ろうとしなかったでしょう。しかし、イエスは全くお気になさらず、シモンの家に入り、彼と食事の交わりをなさいました。神の呪いのようなハンセン病によって隔離され、嫌われ、結局は寂しく死んでいくはずだったシモンは、イエスによって癒され、再び隣人と共に生きるようになったのです。 さて、このシモンの家はエルサレムから東へ約4-5km離れていた「べタニア」にありました。べタニアはアラム語(当時、エルサレム地域の人が主に使っていた言葉)で「貧しい者の家」という意味で、べタニアの近くには、ハンセン病者の隔離地域があったと言われます。イエス•キリストは、何のためらいもなくハンセン病にかかった者たちの地域に近いべタニアに行き、貧しい者たちを慰め、ハンセン病にかかった者たちを治してくださったのです。当時、ユダヤ教の人々はイエスを軽蔑して「徴税人や罪人の仲間だ。」と呼びました。ユダヤ人にとって、そのようなあだ名は呪いのようなものでした。しかし、イエス•キリストは、喜んで「徴税人や罪人の仲間」すなわち「疎外された者の友人」になってくださいました。イエスは華やかなエルサレムの王宮、あるいは、聖なるエルサレムの神殿ではなく、汚く、貧しく、疎外された「罪人のところ」におられたのです。神であるイエスは、寒くて汚くて臭い「飼い葉おけ」に生まれ、いつも低くて疎外されたところにおり、最後まで貧しいところ、罪人たちのところ、低いところにおられたのです。今日の本文のその日、神であるイエス•キリストは、べタニアにおられました。そして、貧しくて悲しい者たちと一緒にいてくださいました。私たちの主が生前、しょっちゅうおられた所、そこは低くて貧しいところでした。 2.キリストに香油を注ぎかけた女。 「一人の女が、純粋で非常に高値なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」(マルコ14:3) 主がシモンの家で食事された時、一人の女がイエスのところに来て、300デナリオン以上のナルド香油をイエスの頭に注ぎかけました。ナルドとはイスラエル地域には育たない、現在のインド、ヒマラヤ山脈に育つ非常に貴重な植物だと言われます。当時、元気な男性労働者1人の一日労賃が1デナリオンだったということですから、300デナリオンなら、ほぼ1年の給料に当たる大きい金額だったでしょう。おそらく、そんなに富んでいない彼女は、長い間、貯めてきたお金で高い香油を買ってイエスのためにささげたでしょう。低いところで貧しくて悲しい人々とおられた主のために、女は自分の一番良いものを差し上げたでしょう。「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。そして、彼女を厳しくとがめた。」(4-5) すると、人々は驚いて憤慨しました。常識的に考えても、いっぺんに、高値の物を使い切るよりは、それを売って他の貧しい人たちを助けたほうが、さらに有意義だったかもしれません。しかし、主は彼女をとがめる人々にこう言われました。 「イエスは言われた。するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」(6) その理由は十字架にて、人類の罪を背負って亡くなられるイエス•キリストの犠牲を記念するために、彼女が自分の一番良いものを主にささげたと、主が知っておられたからです。「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」(8) そして、イエスに自分の最も良いものを差し上げた、この女の行為が、福音が宣べ伝えられるすべてのところに共に伝えられると言われました。「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(9) イスラエルの多くの人々はイエスに「してください。」と要求ばかりしていたでしょう。イエスの存在自体を讃美し、その方の御救いと犠牲を記念しようとする人は多くなかったと思います。主の弟子たちでさえ、各々の野望と必要のために、主に従ったからです。しかし、この女はいかなる条件もつけず、ただ、イエスとその犠牲を記念するために、自分の大事なものをささげました。ある女が「油注がれた者メシア、イエス」に、実際に油を注ぎかけることで、イエスが自分の主であり、キリストであることを公に告白したのです。そして、主はこの女の行為が福音が宣べ伝えられるすべての場所で記念されると言われました。 3.私の一番良いものを。 今日の本文で重要なことは、主に高値のものをささげということでも、自分のすべてを一つも残さず、すべてささげということでもありません。べタニアの女の香油は高いものでしたが、それを文字通りにして、現実に適用しろという意味ではありません。時には異端団体、いや普通の教会でも度を越えた献金を求めることがあると思います。たくさんの献金を持ってきて神を喜ばせという望ましくない説教をする牧師もきっと世の中にはいると思います。しかし、今日の本文は、それとは違います。私は皆さんが自分の出来る範囲で日常生活に差支えのないくらい、主がくださる心に従って献金することを積極的にお勧めします。つまり、今日の本文は献金の大小の問題ではありません。私たちが主をどれほど憶え、記念し、仕えているかという問題でしょう。主が私たちと一緒におられることを常に憶えているか? 主が私たちの命の主であることを認めているか? 主が私たちの罪を赦し救ってくださったことを信じているか? 私たちの心を主だけにささげているか? 私たちの命を尽くして主の御心と御言葉に聞き従って生きているか? 私たちの一番良いもの、私たちの心、私たちの生命、私たちの意志、私たちの愛を主にささげているかどうかとの問題なのです。 主は貧しい女に高い香油という重荷のような献物を求められたわけではありません。ただ、十字架で死んでいくご自分への愛、奉仕、女の信仰と心をお受けになったわけです。高値の物でなくても、主は神殿でレプトン銅貨二枚(極めてわずかな献金、マルコ12章)をささげた貧しい女や、五つのパン二匹の魚を出した少年(ヨハネ6章)の心も同じくお受け取りくださったでしょう。私たちは主に私たちの心、愛、生命の主権、純粋な信仰をささげているでしょうか? 私たちの情熱的な教会での奉仕と多くの献金も、時には必要であるかもしれませんが、それより、さらに大事なもの、つまり私たちの真心を主にささげていきたいと思います。大金、高値なもの、負担のかかる献物がすべてではありません。主への私たちの真心、私たちの一生をキリストの栄光のために生きると誓うこと、主が命じられた御言葉通りに生きること、神と隣人に仕えて生きること。そのような私たちの真心と愛とが、今日、主に香油を注ぎかけた女のように、主を喜ばせる真の献物ではないでしょうか。 締め括り 「それぞれの収穫物の初物をささげ、豊かに持っている中からささげて主を敬え。そうすれば、主はあなたの倉に穀物を満たし、搾り場に新しい酒を溢れさせてくださる。」(箴言3:9‐10) 旧約聖書は「初物」を非常に大事に取り扱います。神がくださった初めての恵みだと思うからです。つまり、一番良いもの、大事なものということです。私たちにとって最も大事なものを神にささげること、それもある意味で旧約聖書のこのような「初物」に似ているのではないでしょうか? 私たちの一番良いものは高値のものでも、多くのお金でもありません。一番良いものは、神を最も愛しようとする私たちの心構えであり、何よりも神への私たちの真心ではないでしょうか。今日、香油を注ぎかけた女を見て、私たちの一番良いものとは何であり、神に何をささげれば良いだろうか考えてみる機会であれば幸いです。神に一番良いものをささげることが出来る志免教会の兄弟姉妹でありますよう祈り願います。

良い羊飼い。

エゼキエル34章7-10節(旧1352頁) ヨハネによる福音書 10章1‐21節(新186頁) 前置き キリスト教は、御子イエス・キリストを頭として打ち立てられた宗教です。この世の誰もキリストに取って代わることが出来ず、そのキリストだけが神に遣わされた唯一のメシアとして崇められる宗教なのです。父なる神が、このキリストだけを、唯一の世界の統治者として立ててくださり、いつか、世の終わりの日に、このキリストは戦争に勝利した王の姿で、善と悪を審判するために来られるでしょう。つまり、主イエスは私たちの思いより、さらに威厳と権能を携えた畏れるべき方であるということです。これが伝統的な終末のキリストのイメージなのです。しかし、新約聖書は、変わらずキリストを、羊を愛し守る穏やかな良い羊飼いとして想起させ、私たちに慰めと平和を与えてくれます。イエス・キリストは、世の誰よりも強力で偉大な方ですが、しかし、誰よりも良い羊飼いであることを忘れないように思い起こさせるのです。今日は、良い羊飼いについて考えてみましょう。 1.良い羊飼いイエスと小さな羊飼いキリスト者。 イエス・キリストは、良い羊飼いです。神を知らず、信じてもいないこの世で、神に選ばれた者たちを導き、青草の原に休ませてくださる愛に満ちた良い羊飼いです。愛のない、他者のためではなく、もっぱら自分だけのために生き、自分のためなら他者が死んでも気にしない邪悪な世で、ご自分の命をかけて、羊を愛してくださる真の羊飼いです。『私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。』(ヨハネ10:11) ところで、このイエスはご自身が羊飼いになってくださると同時に主の共同体の指導者にも、主の御心に聞き従う小さな羊飼いとしての務めを与えられます。今日の旧約本文に羊飼いとありますが、これは、イスラエルを治める王や貴族を指し示す言葉です。彼らは民を愛さず、自分の欲望だけを追い求めました。主はそんな彼らに滅びを言われました。良い羊飼いイエスは、ご自分の命を捨ててまで、民を愛されましたが、イスラエルの指導者たちは、自分の名誉、権威、富だけを重んじ、貧しい民には何の興味もなかったのです。神は、ご自分の民の髪の毛までも数えられるほど、民を愛される方です。だから、苦しんでいる民のうめき声と涙に深い関心を持っておられます。そのような神の御心を理解しようともせず、かえって民を放っておいた指導者たちの罪で、イスラエルは神に呪われ、他国に滅ぼされてしまったのです。羊を愛さず、打ち捨てた指導者たちは、心深く羊を愛された主によって裁かれ、滅びてしまいました。 私たちの教会は、イエス・キリストの体です。教会は、イエスの手と足、口となって、イエスが愛する人々に仕え、主の福音を宣べ伝える使命を持っています。私たち志免教会の一人一人が皆、主の手と足、口として生きています。隣人に仕え、愛することは、イエスの体であるキリスト者にとって、当たり前なことであり、近所の人々に主の福音を伝えることは、私たちが召される日まで止まってはならない何よりも大事な務めです。牧師、宣教師、伝道師、教職者だけが羊飼いではありません。真の羊飼いであるキリストの教会を成す全ての者は、イエス・キリストに羊飼いとしての務めを与えられた主の小さな羊飼いです。ですので、私たちは教会員どうし、お互いに自分の羊のように愛しなければなりません。また、まだ信じていない私たちの隣人も、失われた羊と思い、福音を伝え、愛をもって仕えるべきです。ただイエスを信じて、祝福されて、天の国に入り、自分だけのために信仰生活をするなら、それは神に呪われた、昔のイスラエルの指導者たちと違いがないでしょう。真の羊飼いイエス・キリストによって遣わされた私たちは、主の小さな羊飼いです。今、私たちの心に小さな羊飼いとしての自覚があるかどうか考えてみるべきだと思います。 2.羊は羊飼いの声を聞き分ける。 教会の真の良い羊飼いはただお独りイエス・キリストだけです。この世の数多くの教会には、時々、こんな人たちが見られます。「自分は羊飼いとして選ばれた。」口先だけでは、牧師あるいは長老と言いますが、まるで、自分が教会の所有者となっているかのように振舞う人々がいるということです。しかし、厳密に言って、牧師も長老も、羊の群れの中で、説教や奉仕の務めを預かっている、また違う羊にすぎないのです。つまり、牧師も、長老も、執事も、平信徒も、皆、主の羊でありながら、兄弟姉妹に仕える小さな羊飼いであると考えるのが正しいでしょう。ただ、牧師は、神学、聖書について専門的に勉強したため、説教の時は尊重されるべきだと思いますが、牧師も基本的には主の羊でしょう。だから、牧師も、主の羊として、主なる神の声を謙虚に伺わなければなりません。それでは、果たして主の言葉とは何でしょうか? それは、「イエス・キリスト」による聖書の言葉でしょう。聖書を引用しても主と関係ない教えは多いです。イエスが排除されたまま、聞こえてくる全ての愛の言葉、救いの言葉、宗教的な言葉は注意すべきです。統一教会、エホバの証人など、唯一の救い主なるイエスを軽んじて、自分らの教理を教える全ての聖書の教えは、偽りです。彼らは盗人であり、強盗です。これは私たちだけが真実だという独断ではなく、彼らが正しい救いの道から離れ、イエス・キリストを示さない間違った教えを伝えるからです。「はっきり言っておく。私は羊の門である。 私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。」(ヨハネ10:7-8)本当にイエス・キリストの民となった者は、ただイエス・キリストの言葉だけを聞こうとします。 「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 」(ヨハネ福音10:10)私たちは主の羊として主の御言葉を聞き分け、主イエスだけによって神に接しなければなりません。イエスのない言葉は人間の言葉にすぎないからです。 3.良い羊飼い、悪い羊飼い。 1941年、昭和16年6月、日本の34個プロテスタント教派は強制的に統合されます。これは軍国主義による教会統制の一環でした。このような統合により、生まれたのが戦前の日本のキリスト教団です。その日本キリスト教団の初代議長は富田満という牧師でした。彼は旧日本キリスト教会の統理であり、東京神学校の理事長を歴任するほど、影響力のある牧師でした。彼は日本帝国の軍国主義に賛同し、最終的には神社参拝は偶像崇拝ではなく、国民儀礼であると言いました。また、彼の強要により、日本の教会は神社参拝を承認しました。それだけではなく、植民地の教会も彼の主張に屈し、神社参拝に加担しました。富田満は、戦後、教会の命運のために仕方がなかったと言い訳するだけで、まともな懺悔と謝罪もせず、日本キリスト教団の影響力のある牧師、神学教授として働き、1961年に亡くなります。今、彼を尊敬する人は日本の教会にいますでしょうか。 一方、韓国ソウルには楊花津宣教師墓地という場所があります。世界各国から来た宣教師たちを記念するところです。そこには日本人宣教師の墓が一つあります。曾田嘉伊智という伝道者の墓です。山口県出身の曾田嘉伊智は、植民地朝鮮で孤児院を設立し、面倒を見た人です。彼は朝鮮の独立と朝鮮人のために奉仕した人ですが、朝鮮人には侵略者として、日本人には裏切り者として両方から嫌われた人です。しかし、彼は信仰によって、強く忍耐し、全ての誤解を乗り越え、朝鮮人の愛を受けた人です。彼は真の平和を望み、朝鮮を助け、日本を宣教しようという一念で生きました。朝鮮人たちは、彼に感動し、信用しました。日本の敗北後、北朝鮮地域から引き揚げようとする日本人たちが、ロシア軍に攻撃される事件ありました。当時、近く教会で伝道師として働いていた曾田嘉伊智は教会堂に信者、迷信者を問わず、日本人を集め、命をかけて守りました。彼は民族を問わず、主の御言葉のように人を愛したのです。戦後、彼は日本に帰り、伝道活動をして、後韓国に戻って1962年主に召されました。 締め括り 富田満と曾田嘉伊智。二人は主の裁判所で、どんな評価を受けたでしょうか?果たして誰が良い羊飼いとしての人生を生きたと褒められたんでしょうか?裁きは主なる神の領域ですので評価はしませんが、聖霊なる神が私たちの心に答えておられるでしょう。今日の旧約本文の「羊を養う」の「養う」の原文は「面倒を見る、愛をもって治める、付き合う、友達になる。」などの意味を持っています。私たちは主イエスの羊です。真の羊飼い、主イエスは、私たちを養ってくださる方です。だから、主は、私たちを守り、愛する友たちにしてくださいます。その主に愛される私たちは、また、他者を愛するために小さな羊飼いとして生きなければなりません。主から愛された私たちは、今や、他者を助け、愛する友たちになる義務を持っています。主の羊であり、小さな羊飼いである私たちの生活を通して、主は喜ばれ、私たちに祝福してくださるでしょう。来たる一週間、良い羊、良い羊飼いとして、主に導かれる私たちでありますように。そのような生活のために、主イエスの恵みと助けが、限りなく与えられますように祈り願います。

使徒信条(3) 人となって苦しんだ神の子

イザヤ書53章5節 (旧1149頁) ヘブライ人への手紙13章12節 (新419頁) 前置き 最近、私たちは使徒信条について学んでいます。古代の教会で使徒信条が造られた理由は、当時の教会を分裂させ、誤った教えを宣べ伝える異端やカルトから、教会のアイデンティティ-を守り、各地の教会が共通的に告白できる信仰の基準を正しく立てるためでした。使徒信条は聖書に直接記された言葉ではありませんが、使徒信条の告白、すべてが聖書に基づき選ばれたものです。使徒信条と呼ばれる理由は、初代教会の指導者であり、イエスの弟子である12使徒の信仰と精神を要約整理した信条だからです。私たちはこの使徒信条を通じて、神とは誰なのか、どのように存在しておられるのか、私たちが信じるべきものは何かを知ることができます。「主は聖霊によってやどり、処女マリヤから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで、苦しみを受け、十字架につけられ」今日は、御子イエスの誕生、苦難について考えてみましょう。 1. 女(乙女マリア)から生まれた神の子 「主は聖霊によってやどり、処女マリヤから生まれ」日本キリスト教会の大信仰問答は、イエス•キリストを「真の神にして、真の人である方」と定義しています。これは宗教改革の遺産を受け継いだ改革教会なら、どこの教会でも共通して告白する「イエスのアイデンティティー」です。改革神学は語ります。「イエスは完全な神である。また、イエスは完全な人である。」古代ギリシャ神話のように、神と人間が半分半分混じった存在、神でもなく人間でもない「半神」ではなく、完全な神でありながら、また完全な人でもある存在ということです。そういう理由で、イエスは、神の御心を誰よりもよく知っておられると同時に、人間の状況をも誰よりもよく知っておられるのです。イエスが神と人の間の仲保者となられた理由は、このように神でありながら人であるからです。今日、私たちが告白した「処女マリアから生まれ」という告白は、このような完全な神でありながら、完全な人でもあるイエスを定義する最も重要な条件の一つです。 私たちはイエスが、ある日突然、人間になりたがって人間になることを決められた方ではなく、普通の子供たちのように人間の母親から生まれ、育ち、働いて、人間の喜怒哀楽をことごとく経験しつつ生き、時が来て公生涯を始められたことを忘れてはなりません。 ただし、イエスは普通の人間のように罪を持った方ではありませんので、特別な方式でお生まれになりました。代々、罪の影響から自由ではなかったアダムの子孫ではなく、創造の時の罪のない人間の姿そのままに生まれるために人間の種ではなく、聖霊の特別な恵みによってお生まれになったのです。ですから、罪もなく、欠点もない全く新しい人間、つまり新しいアダムとして、この世に来られたのです。「女から生まれた」という言葉から、私たちは2つのことが分かります。一つ、先に申し上げたように、イエスは母親の胎から世の中に生まれ、人間の感情と罪と弱さを知り、自ら人間を代表する存在になるために人間そのものへの完全な理解をお持ちになったということ。だから、イエスは私たちの弱さを責める方ではなく、憐れんで助けてくださる方だということです。二つ、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創世記3:15) いわゆる原始福音と呼ばれる女の子孫が悪魔の権勢を打ち砕くだろうという、はるか遠い昔からの神の約束が、処女から生まれたイエスの出来事で成就したということです。神の救いはいくら時間かかっても、必ず成し遂げられることがわかります。 2. 苦難を受ける。 そして、もう一つ重要なことは、イエスが苦難をお受けになったという事実です。 イエスは真の神ですが、肉体を持って人間として来られるようになりました。なぜ、神であるイエスが肉体を持たなければならなかったのでしょうか? 「神は霊である。」という有名なヨハネによる福音書の御言葉がありますが、この御言葉のように神は霊であります。「霊」とは人間のような限界と弱さのない、超越的な存在のことでしょう。しかし、御子なる神イエスは、自ら肉体を持って神であるにもかかわらず、人間として来られました。それは人間の弱さと苦しみを共有できるようになったということでしょう。イエスが人間になって人間のところに来られた理由は、罪によって堕落した人間が受けるべき神の厳しい裁きと刑罰を代わりに担うことができる条件を満たされるためです。つまり、御子が人になった理由は、神でありながら人間であって、人間を代表すると同時に罪人が受けるべき死の裁きを、肉体を持ったイエスが代わりに受けてくださるためです。もし、イエスが肉体を持たれなかったら、霊である神、御子は人間に代わって十字架の刑罰を受けることはできなかったでしょう。それなら人間の救いは絶対に成し遂げられなかったでしょう。人間の弱さを直接経験されたイエスが、ご自分の体を苦難に投げつけ、人間に代わって刑罰を受け、その償いによって人間を救うことができるようになったのです。 しかし、私たちは「肉体の痛みや苦しみ」だけをイエスの苦難だと考えてはなりません。すべてを超越する存在である神が、明らかな限界の人間の姿で、この世に来られたという自体が苦難の始まりなのです。神の国で父と子と聖霊が、お互いに尊重し愛しあう完全なお交わりの中から、御子が被造物の姿、すなわち人間になって、この世に来られ、その御子なる神を罪人たちに代わる贖罪の犠牲にするために、この世に人として生まれさせた、その始まりからが、すでに三位一体、何よりもイエスの苦難の始まりであることを憶えるべきです。そして、罪によって汚された世界は、神を愛していません。使徒信条はそんな世の有様を「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け」という言葉で表現しました。ポンティオ・ピラトという特定の人だけがイエスを苦しめたという意味ではなく、ポンティオ・ピラトと象徴されるこの世を支配する悪がイエスを嫌い、反対するということです。神の国で毎瞬間、ほめたたえられた御子なる神は、この世に来られてからは、憎しみと敵対の中で生きなければならないようになりました。したがって、イエスが神を憎む、この世に来られたこと自体が、すでに苦難の始まりだということを憶えましょう。 締め括り 愛するから十字架に。 それでは、イエスが肉体を持って、ご自身を憎むこの世に来られた、いちばん大事な理由は何でしょうか? 「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。」(ヘブライ13:12) それは人間になった神、イエスの犠牲により、罪に苦しんでいる罪人たちを赦され、救ってくださる限りのない愛のゆえです。創世記で神がアダムとエヴァをエデンの園から追い出された時、私たちは神の裁きだけを見受けやすいです。しかし、神は被造物の真の父であることを忘れてはなりません。人間に罰を下された時、神も悲しまれたのではないでしょうか? 何があっても、神の最高の被造物である人間を救うという、主の救いの計画から神の御心が伝わってきます。父なる神は人間を愛し、ご自分の独り子を十字架の犠牲へと導かれました。イエスは、その父なる神の愛を誰よりも深く知っておられ、イエスもまた人間を愛し、ご自分の命をかけられました。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5) イエスが人間になられたこと、苦難を受けて亡くなられたこと。そのすべては、まさに罪によって滅ぼされるべき人間を憐れんでくださった神の限りのない愛に基づきます。私たちはその神の愛と御子の贖いを忘れてはなりません。

使徒信条(2) – 神の子を信じる。

詩編2編7〜9節 (旧835頁) ヨハネによる福音書3章16節 (新167頁) 前置き 私たちは、ほぼ毎週の日曜礼拝の時、使徒信条を告白します。古代の教会で使徒信条が造られた理由は、当時の教会を分裂させ、誤った教えを宣べ伝える異端やカルトから、教会のアイデンティティを守り、各地の教会が共通的に告白できる信仰の標準を正しく立てるためでした。使徒信条は聖書に直接記された言葉ではありませんが、使徒信条の告白、すべてが聖書に基づき選ばれたものです。使徒信条と呼ばれる理由は、初代教会の指導者であり、イエスの弟子である12使徒の信仰と精神を要約整理した信条だからです。私たちは、この使徒信条を通じて、神とはどなたなのか、どのように存在しておられるのか、私たちが信じるべきものは何かを知ることができます。今日は、使徒信条その2回の時間で、神の子であり、私たちの信仰の源であるイエス·キリストへの告白を学びたいと思います。 1. 神の独り子 「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。」(詩篇2:7-8) 詩篇2篇は、詩篇の中でも代表的な「メシアの詩」と言われます。メシアとは「油注がれた者」という意味のヘブライ語で、旧約時代のイスラエル王国にあって、王、預言者、祭司が油に注がれて働きはじめる代表的な務めでした。その中でも特にイスラエルを治める「王」が、メシアとしての象徴性を強く持っていたようです。そんな意味として、詩編2編はイスラエルの王への詩でもあります。しかし、学者たちはこの詩編2編をメシアや王への詩だけに限らず、未来に到来する真のメシア・イエスを予告する、予言の特徴も持っていると解釈します。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」(黙示録11:15) そしてキリスト者は、以上のような、いくつかの新約の言葉に基づき、イエス·キリストこそ、神が選ばれた真の王とメシアであると告白します。ですので、私たちはイエスが真の王、メシア(ギリシャ語でキリスト)であると信じています。 私たちが信じるイエス・キリストは、今日の旧約本文の言葉のように、偉大で唯一の真の神の子です。キリストは神の子ですが、実はキリストご自身も神であります。私たちが信じる、主なる神という存在は、御父、御子、聖霊として存在しておられます。そして、この世は、この父、子、聖霊で存在する神を三位一体の神と呼びます。前回は、その中から「父なる神」への告白について学びました。そして、今日は「子なる神」への告白について学びます。私たちは、キリストを父なる神の 独り子として信じています。イエス·キリストは私たち教会の頭であり、教会は主の体であります。イエス·キリストはご自分を主と告白する者たちに聖霊によって訪れられ、信仰を与えてくださり、神の子供になるように助けてくださり、今でも神の右におられ、彼ら一人一人の信仰のために祈ってくださる方です。もともと、人間は罪によって神と完全に離れてしまった滅びるべき存在です。しかし、神の子イエス·キリストは、滅びるべき罪人たちを、ご自分の体のように愛し、ご自分の御名を保証として、彼らの罪を赦し、神と和解するように導いてくださいます。したがって、私たちが神の子イエス·キリストを信じるということは、キリストによって、神に赦され、和解して子供となったという意味です。 2. 主イエス·キリスト ところで、気になることがあります。「メシア、主、イエス、キリスト」神の子には、多くの名称がありますが、これらはどういう意味でしょうか。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」ルカによる福音書1章30‐31節は、神が御使いを通して、マリアが身ごもった子の名前を教えてくださる記録があります。イエスはヘブライ語で「神の救い」という意味です。旧約聖書の「ヨシュア記」に出てくる「ヨシュア」が、神の救いを意味するより原文に近い発音ですが、文化圏や国によって呼び方も多様です。ギリシャは「イスス」日本は「イエス」韓国は「イェスゥ」中国は「イェシュウ」米国、英国は「ジーザス」、イタリアは「ジェス」、ドイツは「イェスス」など。しかし、発音が違っても「イエス」という名前は「神の救い」という明確な意味を持っています。イエスの使命が、その名前に、ありのまま現れているのです。また、私たちはイエスを「主」とも呼びます。「主」は、古代イスラエル人が神の御名を直接呼ぶことを恐れ、御名の代わりに呼んだ表現で、ヘブライ語「アドナイ」を訳したものです。中世時代の明、清(中国)や朝鮮では「王」の名前を、むやみに呼ぶことが許されなかったと言われます。古代のイスラエルでも、神の御名を口で呼ぶと大きな罪だと思って「アドナイ」と呼び、それが「主」と訳されたわけです。もちろん漢字語の意味のままに「私の主人」という意味もあります。 最後に「キリスト」とは、どういう意味でしょうか? 聖書はこの言葉を「メシア」をギリシャ語に訳したものだと語ります。新約聖書はギリシャ語で記録されたため、ヘブライ語の「メシア」をギリシャ語の「キリスト」に訳したのです。ところで、このキリストという概念はローマ帝国にとっては「皇帝」を意味する表現でもあります。皇帝そのものをキリストとは呼ばなかったでしょうが「神々の子、ローマを救った者」という意味で、ローマの皇帝はイエス時代のもう一つのキリストのような存在でした。そのため、当時のローマ帝国の各地に散らばっていたキリスト者たちは「ローマ皇帝をキリストとして崇めるべきか? 「主イエスをキリストとして崇めるべきか?」という分かれ道の前に立っていました。迫害を恐れてローマ皇帝をキリストとした者たちは、すぐにイエスと教会を裏切って自分の道に離れました。しかし、イエスだけをキリストとした者たちは、残酷な弾圧と迫害の中で命をかけなければなりませんでした。私たちにとってメシアは誰ですか? 私たちにとって救い主は誰ですか? 私たちにとってキリストは誰ですか? 現代の日本は宗教的な圧迫から自由な国家ですが、太平洋戦争の時には、教会はイエスと天皇の中で誰を上にするべきかとの現実的な悩みがありました。私たち教会はメシア、主イエス·キリストを信じています。使徒信条はイエスだけが真のキリストであると告白しているのです。 3. 神と人間をつなぐたった一つの道。 使徒信条を観察してみると、父なる神と聖霊なる神に比べて、御子イエスへの告白がより長いことが分かります。そのため、あと2回ほどキリストとかかわる使徒信条の説教が残っています。「キリスト教」であるだけに、この新約時代には、三位一体の中、キリストへの比重がより多く与えられていると言えます。もちろん、だからといってキリストが御父や聖霊より権能があるという意味ではありません。他の信条である「ニカイア信条」には、御子は御父と同一本質を持っていると記してあります。つまり、三位一体なる神のどっちのほうがより偉大だとは言えないということです。しかし、父なる神は、新約時代においては「キリスト」に支配権を与えられました。そして、その支配権はイエス·キリストが再臨して救いと裁きを完全に成就される時に父なる神に返されるでしょう。神はこのイエス·キリストを通して、神と世の中の繋がりを造られました。神と人間は絶対に会うことも、共通点を持つことも、付き合うこともできない全く違う格の両者です。神にとっての人間(罪人)は、人間にとってのアリよりも取るに足らない存在です。しかし、イエスはご自分の十字架での贖いによって、みすぼらしい人間と全宇宙の創造主である神とをつなげてくださいました。だから、私たちが主とあがめるキリストは、偉大な神と小さな人間をつなぐたった一つの道なのです。 締め括り 私たちは、イエス·キリストをあまりにも便利に信じているかもしれません。キリスト教会に通うのが馴染んでない日本社会ではありますが、誰も教会に通うからといって迫害しません。また、長年の信仰生活のために教会に通う人たちも習慣的になっているかもしれません。しかし、初代教会の状況は今とはまったく異なっていました。ローマ帝国の皇帝が、この世のキリストとして世界を支配しており、周辺には教会の正統的な教えを歪曲する異端が多かったのです。このような苦しい状況の中で、三位一体なる神への正しい信仰告白と異端の教えに闘うために、イエス·キリストの教えを継承した使徒たちの信仰を命のように守ろうとする者がいました。私たちが告白する、この使徒信条を単なる教会の儀式くらいに考えてはならないでしょう。私たちの信仰の根となり、骨となる信仰告白を正しく守り、その信仰にあって生きる私たちであることを祈り願います。

使徒信条(1)‐父なる神を信じる

詩編89編27〜30節 (旧927頁) ヨハネによる福音書20章17節 (新209頁) 前置き 信仰者は「神を信じ仰ぐ者」です。他宗教者も「誰かを信じる」という心で宗教生活をしているでしょうが、キリスト教の「信仰」はそれとは少し異なります。他宗教の信仰が「自分自身が信じるという意志を決めて誰かを信じる。」ことであれば、キリスト教の信仰は「御父の計画、御子の救い、聖霊の働きによって、人に信仰が与えられ、その三位一体のお導きによって神を信じる。」ということになります。つまり、他宗教とキリスト教の信仰の違いは「その信仰の主体が誰なのか?」にあります。言うまでもなく、キリスト教における信仰の主体は三位一体なる神です。「聖霊によらなければ、だれも、イエスは主であるとは言えないのです。」(Ⅰコリント12:3) 私たちはあたかも自分が教会に来て、自分の意志で神を信じるようになったと考えがちですが、聖書は明らかに信仰は、聖霊(神)によって私たちに与えられたと語っています。そして、教会は歴史的に、その神への信仰について非常に大事に考えてきました。そのように、各地の古代の教会が神への共通した信仰を告白し、それが整えられつつ生まれたのが「信仰告白」なのです。今日はその信仰告白の中でも最も有名で一般的な信条である「使徒信条」について話してみましょう。 1. 使徒信条に関する知識 私たちは、ほぼ毎週の礼拝の時に「使徒信条」によって信仰を告白します。使徒信条は、私たちの信仰の対象についての告白なので、非常に重要な教会の伝統だと言えます。ところで、教会のもう一つの伝統である「主の祈り」は、新約聖書にも記されており、イエスご自身が教えてくださった祈りなので、当たり前に大事に扱うべきでしょうが、使徒信条は聖書にも記されてもいないのに、なぜ、私たちは使徒信条を大事に告白しているのでしょうか? その理由は「イエスに直接教えられた使徒たちの信仰を継承した告白」だからです。イエスが12弟子を召し出された理由は、主の福音を、この世に宣べ伝え、主の教会を建てていく指導者を養われるためでした。使徒信条と書いてあるので、使徒たちが自分で作ったという説もありますが、現代の学者たちは、そんな可能性は低いと推測しています。でも、こういう伝説的な物語が伝わっていますので、聞いてみましょう。「ある日、各地で情熱に伝道していたイエスの弟子たち(12使徒)が一ヶ所に集まった。使徒たちは、教会が信じ、伝えるべき神はどのような方なのか、互いに語り合った。その時、12使徒が神について一言ずつ告白して語り、それらを集めると立派な信仰告白が出来た。それで、人々は、それを使徒たちが告白したと言い、使徒信条と呼ばれるようになった。」 本当に素晴らしい物語だと思いますが、実際に使徒信条は、このように作られたわけではありません。初代教会当時には、数多くのカルトや異端が生まれましたが、彼らの偽った教えを拒否し、使徒から継承した三位一体なる神への正しい信仰を共有し、公に告白するために使徒信条が生まれたのです。使徒信条は、主イエスが使徒たちに教えてくださった、聖書の御言葉に基づいて書かれ、古代の教会によって公に認められたものです。キリスト教では使徒信条の他にも、いくつかの信条があります。信条とは、ラテン語の「私は信じる」を意味するCREDOという言葉に由来し、自分が誰を信じるのかを人前で公に告白する信念を意味します。したがって、私たちは使徒信条を通して、イエスご自身に教えられ、その意志を受け継いだ使徒の信仰を継承し、その信仰の対象である三位一体なる神への信仰を公に告白するのです。使徒信条の他にも、ニカイア・コンスタンティノポリス信条を始め、カルケドン信条、アタナシウス信条、エフェソ信条、その他に多くの信条があり、三位一体またはイエスの神聖を告白します。そして、近くには日本キリスト教会の信仰告白もあります。私たちは主に召される終わりの日まで、使徒信条によって、私たちが誰を信じているのかを告白します。今まで習慣的に使徒信条を唱えてきたなら、これからは、その意味を吟味しつつ自分の信仰として告白していきたいと思います。 2. 全能な創造主 使徒信条はまず、全能の創造主なる神について告白します。「わたしは天地の造り全能の父なる神を信じます。」聖書の一番最初の言葉に当たる創世記1章1節には、こう書いてあります。「初めに、神は天地を創造された。」聖書の一番最初の言葉に創造についての内容が出てくる理由は、この世界の根源と支配権について説明するためです。この世の学問は、世界が偶然の宇宙的な爆発(ビッグバン)によって作られたと主張します。宇宙も、太陽も、月も、星も、地球も、動物も、植物も、人間までも、偶然の宇宙的な出来事によって生まれたということです。そのため、この世は万物の霊長である人間が世界の支配者だと大げさに言います。人間は自力でこの世界を開拓し支配する存在だと言うのです。しかし、聖書ははっきり語ります。「神こそがこの世界の主である」この世のすべてのものの源は神であり、その神こそ全能な方であり、この世界の統治者であると言うのです。創造は、ただ作って放っておくことを意味するものではありません。無から有を創り上げることから始め、無秩序に秩序を与えて被造物が生きられるように治めること、この世の救いと裁きの権能を持った絶対者が、この世界を導くこと。それがまさに創造の持つ意味なのです。したがって、創造主という言葉は唯一無二の絶対者という意味でもあります。 全能という言葉は文字的には「全てが可能である」という意味になりますが、神の全能については、すべてが可能であるという意味とは違います。実は神にもできないことがあります。例えば、神はご自分の力を超える被造物を創ることができません。神は嘘をつくことができません。神は悔い改めない悪人を救うことができません。神は罪を犯すことができません。神はまた別の神を求めることができません。等々、神の全能は、私たちが考える「何でも秩序を無視して全てが可能である。」という意味ではありません。それでは、神の全能とはどういう意味でしょうか? それは主なる神ご自身が造られた創造の秩序に逆らわない範囲で、主がご計画なさった、すべての善い計画を差支えなく、成し遂げていかれるという意味です。力ある者が自分の力をコントロールすることこそ真の力なのです。神は創造の時にご自分が造られた世界の秩序を尊重し、その中で被造物を導き、何よりも創世記で約束された罪人の救いを、主イエス·キリストを通して、間違いなく成し遂げていかれるでしょう。主なる神が、ご計画なさった善い計画を必ず成し遂げていかれること、その計画の中にある私たちの救い、罪人の救い、この世の救いは、全能なる神の御業によって必ず成就するでしょう。私たちはこの全能なる神を主として信じます。 3. 父なる神 使徒信条は、この「全能なる創造主」が私たちの父であると語ります。父の一般的なイメージは、私たちを生んだ存在、養う存在、守る存在と言えるでしょう。しかし、すべての人がそう思うわけではないでしょう。誰かには立派な父がいるかもしれませんが、別の誰かにとっては、父は家庭を破壊する存在であるかもしれません。また、誰かにとっては、あまりにも早く亡くなってしまい、親しく感じられないかもしれません。また、誰かにとっては、父が一生の重荷のような存在であるかもしれません。しかし、聖書が語る父なる神という存在は、造り、守り、導き、救いの主体となる完全で善良なイメージの方です。だから、私たちは父なる神に肉体の父のイメージを投影してはなりません。この完全で善良な父なる神は、被造物と徹底的に区別される存在です。神には罪も、弱さも、足りなさもありません。このような欠点のない神が欠点だらけの人間の父になるというのはありえないことです。 しかし、新約聖書のヨハネによる福音書は、こう述べています。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」(ヨハネ福音20:17) この父なる神は、もともと私たちの実の父ではありません。もちろん、私たちに命を与え、生まれさせてくださった方は、確かに神ですが、罪によって神を父と呼べないのが、みじめな人間のありさまです。しかし、この父なる神の独り子であるイエス·キリストが私たちを呼び出され、ご自分の命を身代金とし、私たちを神の子に変えてくださいました。だから、父なる神は、「イエスの父である神」を意味する言葉です。しかし、私たちはイエスの償いによって、私たちもイエスのように、神を父だと呼ぶことができるようになりました。ヘブライ語の旧約聖書には父という単語が1200回余り出てきます。しかし、神を父として描いたケースは、たった15回しかありません。イエスは、その神を私たちの父であると宣言してくださいました。私たちと徹底的に区別された全能の造り主、父なる神、その神がキリストによって私たちの父になってくださったのです。 締め括り 私たちは、この全能の創造主、父なる神を信じています。これは聖書の御言葉に基づいた変わらない真理です。人には、この世に自分一人だけ残されたかように感じられる時があります。家族がおり、友達がいるにもかかわらず、根源的な孤独を感じるということです。しかし、その度に私たちは自分を創造して生まれさせてくださった父なる神がおられることを憶え、自分は一人ではないという信仰で生きていくべきです。詩編には、このような言葉があります。「彼はわたしに呼びかけるであろう。あなたはわたしの父、わたしの神、救いの岩と。わたしは彼を長子とし、地の諸王の中で最も高い位に就ける。とこしえの慈しみを彼に約束し、わたしの契約を彼に対して確かに守る。わたしは彼の子孫を永遠に支え、彼の王座を天の続く限り支える。」(詩篇89:27-30) この言葉はダビデ王にくださった主からの言葉ですが、今の新約教会にも有効な言葉だと思います。私たちはこの父なる神を信じています。使徒信条は、この父なる神が私たちの父であると告白しているのです。

混乱の時

ヨシュア記1章6〜8節 (旧340頁) ヨハネによる福音書14章26節〜27節 (新197頁) 前置き 私たちの人生が毎日幸せと喜びであれば最も良いでしょうが、事実、この世での人生には喜びよりは悲しみの方が多いかもしれません。人々の一般的な人生を考えてみると、物心つく頃は祖父母が亡くなります。結婚して子供が育ち、いよいよ大人になったなと思ったら親が亡くなります。その間に知人や友人が先に亡くなる場合もあり、不幸な場合は、まだ若い両親や配偶者、子供が先に亡くなることもあります。そして、最終的には自分も亡くなることになります。悲しみの基準を死にした理由は、人生の最も悲しい経験が身近な人の死だと思うからです。そして一生をかけて、その死の間に数多くの辛いことがクモの巣のように絡み合っているからです。大変で辛い出来事の間にほんの少しの喜び(結婚、出生、成功など)がありますが、もしかしたら、人生の多くの部分は悲しみと苦しみに占められているかもしれません。そんな私たち人間は必然的に混乱と苦しみを経験しながら生きていきます。 1. 混乱の中を生きる人生 「全世界の上位1%の金持ちの財産が、残りの99%より2倍多い」というタイトルの記事を読んだことがあります。「少なくとも17億人の労働者が物価が賃金を超える地域に住んでおり、全世界の人口1割に近い約8億2千万人は飢餓の状態である。」という文章が特に記憶に残ります。この記事は世界の経済的な不条理を告発する記事でした。また、2022年に起きたウクライナ・ロシア戦争は、100万人以上の死者が出ました。イスラエルとイスラム諸国の紛争も数十年にわたって続いてきています。これらの戦争により、今でも大勢の命が失われつつあります。比較的に平和な日本に住んでいる私たちは、ニュースを通じてこのような悲惨な事実に接してはいますが、その悲惨さを直接に経験するわけではないので、気の毒だと一言を言うだけで終わるのがほとんどです。この世界は私たちの思い以上に混乱であるのです。私たちに直接的な被害はありませんが、明らかに世界は混乱の中にあるのです。 飢餓や戦争の混乱の中にいる人々よりは増しかもしれませんが、私たちにも混乱の時があります。家族が重病にかかったり、近所の人が事故に遭ったり、友人が苦境に立たされたり、自分自身にも思わぬ不幸がやってきたりするなど、私たちも日常において混乱を経験し、心配事を抱えることがあり得るでしょう。人生の代表的な幸せの一つである結婚も、今後どうすれば家族を無事に守れるだろうかとの新しい悩みが生まれ、子供が生まれるのは嬉しいが、子供の健康、将来などへの新しい心配が生まれます。信仰においても同じです。初めて主に出会って信仰者となった時は、この上なく幸せだったんですが、その後、信仰への悩み、教会維持への悩み、牧師の不在への悩み、予算への悩み、数多くの悩みに囲まれて生きるようになるでしょう。私たちの人生の一歩一歩が、このように悩みと心配という混乱に満たされていくのです。イエスの時代も同様だったと思います。祖国イスラエルはローマ帝国の植民地になっており、イスラエルのあちこちで反乱が起こりました。しかし、指導者たちは民の安定より、自分の富と権勢と名誉にもっと関心を持っていました。こんな時代にイエスの弟子たちも辛かったでしょう。社会は混乱であり、すべてを捨てて主に従ったのに、主イエスはまもなくご自分が十字架で亡くなると言われ、何一つ平和で安定したもののない思い煩いの多い人生だったでしょう。 2. 主が与える平和。 しかし、このような混乱の世界を生きる弟子たちに主イエスは言われました。「弁護者すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ福音14章26~27節) ヨハネによる福音書14章は、イエスの遺言のような言葉です。13章で弟子たちと最後の晩餐を分かち合われたイエスは、弟子たち全員の足を洗ってくださいました。裏切者のユダは、このイエスを売るために食事の席を離れました。イエスはまもなくローマの兵隊に逮捕され、苦しみを受けて亡くなられるでしょう。先日からご自分が死ぬことになると言われたイエスの普段と違う行動に弟子たちは尋常でない雰囲気を感じ、さらに不安になったでしょう。もしかしたら、その夜はイエスと弟子たちが出会って以来、最も混乱した時間だったかもしれません。しかし、イエスは決然と言われました。「父から助け主なる聖霊が来られる。あの方があなたたちの人生を導いてくださる。だから、あなたたちは心を騒がせ怯えるな。わたしの平和を与える。わたしの平和は、この世の平和のように揺らぎやすいものではない。」 世界は混乱に満ちています。また、私たちの人生にも混乱があります。しかし、主は言われます。「世の中にはない真の平和をあなたに与える。だから不安に囲まれずに、聖霊の導きにあって、わたしに信頼して生きなさい。」罪によって乱れたこの世は不完全による混乱の世界です。こんな世界において、お金でも、権力でも、名誉でも真の平和を買うことはできません。自ら、自分が平和だとマインドコントロールしても、本当の平和にはなりません。だから、この世が言う平和、自分が作る平和は、偽りの平和なのです。しかし、主が与えてくださる平和は違います。真の平和の持ち主である主がくださる平和、混乱と不安があっても、その中でさえ輝く平和、主なる神が生きておられる限り、絶対に変わらない完全な平和です。その平和はイエスの約束によって私たちに与えられる保証された平和です。不完全な世界を生きる私たちは、しばしば混乱と苦しみと不安を経験しやすい存在です。その度、思い煩いに囲まれて悩むが、それでも混乱と苦しみと不安は簡単に立ち去りません。しかし、私たちは主の約束を信じなければなりません。まだ、起きていない未来の心配をやめて、平和の主が約束された真の平和を思い起こさなければなりません。 3. 主の御言葉を基準にする。 そんな人生を生きるためには、御言葉を私たちの人生の基準にしなければなりません。今日の旧約本文をお読みします。「強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」(ヨホスア1:6∼8)長い間エジプトの奴隷だったイスラエルは、モーセを用いられた主なる神のお導きにより、無事に脱出しました。しかし、彼らの不信心のため、すぐに乳と蜜の流れるカナンの地に入ることはできず、40年間荒れ野をさまようことになりました。モーセは40年間、彼らの指導者としてイスラエルの民と苦楽を共にしました。そして、ついに主なる神の許可をいただき、イスラエルはカナンに入ることになります。しかし、主は指導者モーセをカナンに入る直前に召されました。そして、その代わりにヨシュアをイスラエルの新しい指導者として立ててくださいました。40 年間、モーセの指導を受けてきたヨシュアとイスラエルは驚き混乱していたでしょう。一寸先も見えない真っ暗な状況に非常に戸惑っていたはずです。 今日の本文は、そんなイスラエル民族にくださった主なる神の御言葉です。それは3つに約めて考えることが出来ます。一、強く雄々しくあれ。 二、神の約束に信頼せよ。 三、神の御言葉に従って生きよ。モーセという柱のような指導者が亡くなったにもかかわらず、彼らには変わりなく主なる神が共に歩んでおられるので、その主のお導きに信頼して混乱に陥らずに、たくましく生きていけということでした。そして、この言葉は現在を生きるキリスト者にも大きな意味を示していると思います。どうせ、私たちが生きる、この世は罪によって歪んでいる世界です。主イエスが再臨され、終わりの日が来て、新しい世界にならない限り、人間は、仕方なく、この罪だらけの世を生きていかなければなりません。というのは、混乱と苦しみと悲しみは、世界が終わるまで常に人類を追いかけてくるということです。重要なのは、この混乱と苦しみと悲しみの世界を生きる私たちを、主なる神が選び救われ、今でも私たちと共に歩んでおられるということです。こんな私たちに向かって主は「強く雄々しくあれ。 神の約束に信頼せよ。神の御言葉に従って生きよ。」と語っておられるのです。世の混乱は依然として存在しますが、私たちにはその混乱した世を支配しておられる唯一の神が休まずたゆまず共におられます。それこそが私たちにとって人生の基準になるのです。移り変わりのない主、揺るがな主、永遠に共におられる主、その主なる神の御言葉こそが私たちの人生の基準であるのです。 締め括り 私は2012年に伝道師として働きはじめて以来、一瞬も気楽だったことがありません。いや、もしかしたら回心した瞬間から、未信者なら、しなくても構わない、心配と悩みを抱えて生きてきたかもしれません。しかし、心の中には根源的な平和があります。その理由は混乱したこの人生は短いものであり、そして、この人生の道をいつも共に歩んでくださる主との時間は永遠であることを知っているからです。どんなに難しいことが迫ってきても、戸惑うより主を拠り所とし「強く雄々しくおり、主の約束に信頼し、その方の御言葉に従って生きる」私たちであることを願います。混乱の中でも主なる神は変わらずに私たちと共におられるます。そして、私たちを応援してくださいます。私たちが主に信頼して生き、人生の終わりの日に主の御前に立つ時、主なる神は混乱の中でも忍耐しつつ生きてきた私たちに「よくやった。 私の子よ。」と褒めてくださるでしょう。そんな主の御言葉を基準にして混乱の世を克服して生きていきたいです。そのような志免教会でありますよう祈り願います。

イエスの価値観。

箴言5章21節 (旧997頁) マルコによる福音書2章13〜17節 (新64頁) イエスが公生涯を始められた時、イスラエルは霊的な無秩序の時代を過ごしていました。ローマ帝国の行政的な支配とユダヤ教の宗教的な儀式はありましたが、現実は弱肉強食の社会で、正義が守られず、不義がはびこる霊的な無秩序の時代だったのです。そんな無秩序の時代に来られた主イエスはご自身が直接民に仕え、愛されることによって、倒れた霊的な秩序を立て直してくださいました。「神と隣人を愛しなさい。」という律法の御言葉が、その秩序の根源となるのです。主イエスは十字架での死を覚悟されてまで、この秩序を回復させるために闘われたのです。そのイエスの御心は主の体であるこんにちの教会にも継承され、主イエスにならった生き方を要求しています。 1.皆に嫌われた徴税人マタイ 貧しいイスラエルの人々を助けてくださるために旅路に就かれたイエスは、ガリラヤ湖のある地域に着かれました。その時、一人の男がイエスの目につきました。「そして、通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 」(14) イエスに声かけられた男は徴税人のレビという人でした。新約聖書で徴税人といえば、マタイやザアカイがいますが、このレビは誰でしょうか。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」(マタイ9:9) マタイによる福音書によると、このレビという人が使徒マタイであることが分かります。主はペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネなどの弟子たちに加え、徴税人のマタイをもご自分の弟子に呼ばれるためにその町に行かれたわけです。ところで、このレビつまりマタイは、なぜそこにいたのでしょうか? ガリラヤの漁師から税金を取り立てるためでした。当時のイスラエルの徴税人は恨みと憎しみを一身に受ける存在でした。ローマ帝国は頻繁な戦争のために莫大な予算が必要でした。そのため、ローマの総督たちは植民地の権力者から前払いで税金を取り上げました。その代わりに彼らに徴税権を与えたのです。それはイスラエルにおいても同様でした。先に話しましたように、当時のイスラエルは、神による秩序と正義が破れていたので、ローマ帝国に強制的に税金を払わせられた権力者たちは、ローマからの徴税権を悪用して、貧しい同胞からあくどく税金を取り立てました。ローマが納めた税金より、さらに高い税金を貧しい人々から取り立てたわけです。旧約聖書が強調していた隣人愛が完全に破れていたのです。今日の本文に出てくるイスラエルの徴税人は、そのような権力者のもとで働いていました。彼らは割当量を達成するため、同胞から重い税金を納め、イスラエルお人々は彼らをローマ帝国のため、同胞を苦しめる売国奴のように考えました。だから、当時のイスラエル人は、この徴税人を遊女や泥棒のように「地の人」つまり、神の民ではない者と見なしていたのです。 2.マタイを訪れてくださったイエス。 ところで、マタイは徴税人の仕事に懐疑を抱いていたようです。主がマタイに声かけられた時、ただちに従ってきたからです。当時の徴税人は熱心に徴税すれば、同胞に疎外され、いい加減に徴税すれば、権力者にいじめられる立場でした。けれども、お金を横取りすることができ、豊かになりやすい仕事だったのです。しかし、徴税人マタイはそんなに幸せではなかったようです。明治時代に、こんな出来事がありました。、明治23年に制定された教育勅語が東京第一高等中学校で朗読された時、全員は腰を低めて最敬礼をしました。しかし、教師だった内村鑑三は最敬礼をせずに頭を下げるだけでした。彼はキリスト者だったので、神格化した天皇に最敬礼しなかったわけです。(不敬事件)しかし、当時の官憲は、それによってキリスト教全体を疑うことになりました。そのため、日本の教会は国と民族から疎外されないために自ら慎み、国に協力し、結局は屈してしまいました。国と民族からの疎外が恐ろしかったからです。マタイは民族からの疎外と権力者からの要求の間でさまよい続ける孤独な人でした。 イエスは、そんな彼をあたりかまわず招かれました。「見かけて、わたしに従いなさいと言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」民族からの疎外と権力者の要求の間でさまよっていたレビ・マタイは、すべてを捨てて、主に従いはじめました。14節で「従う」のギリシャ語「アコルルデオ」は、「後についていく」という物理的な意味だけではありません。「共にある」という意味の「ア」と「道、方向」を意味する「ケルリュドス」が一つになった言葉です。つまり、「イエス・キリストの道あるいは方向に共に歩むこと」という、より深い意味の言葉です。イエスは、民族と国家からの疎外、そして権力者の要求の間で迷っている徴税人レビ・マタイを呼び出し、ご自分の道に招いてくださいました。当時、一番嫌われる存在、すべてのイスラエル人に「地の民」、つまり神に見捨てられた存在、罪人と呼ばれていたマタイに、天から来られた神の子イエスがお手を差し伸べてくださったのです。そして、皆に嫌われる彼をご自分の民として受け入れてくださいました。「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」(15) 3.キリスト者に求められるイエスの価値観。 イエスに従ったマタイは、イエスと弟子たち、徴税人や他の罪人と呼ばれる人々を招き、食事をもてなしました。主は決して善良な人や貧しい人たちだけを救われる方ではありません。罪人、裏切り者、不正な者、売春する者、盗人など、どんなに悪人だといっても、彼らが神に真心をこめた悔い改め、隣人に謝り、主の御心に従うならば、喜んで受け入れてくださいます。そして、彼らと同席され、共にいてくださいます。イエスが同席して一緒に食事をしてくださるというのは、相手をもはや他人ではなく、家族や友人のように認めてくださるという意味です。これは、イエスによって、私たちに示された御父の暖かい御旨なのです。ところで、このように罪人を招いて赦してくださるイエスを責める者たちがいました。「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのかと言った。」(16)彼らはイスラエルの宗教指導者だったのです。当時のイスラエルの宗教指導者、つまり財力も、名誉も、権力もある者たちが、罪人と一緒におられる神を嘲弄したわけです。彼らは自らが「天の民」であり、神を知っていると高ぶっていました。しかし、彼らは真の神であるイエスを目の前にしても、主を見知ることが出来なかったのです。 「イエスはこれを聞いて言われた。医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17)イエスは彼らにご自分が来られた理由を明らかに教えてくださいました。「私は罪人を招くために来たのだ。」イエスの価値観は、罪人への裁きではありません。主は罪人を裁きから救ってくださるために来られたのです。罪人への救いこそが本当のイエスの価値観です。主は罪人が主に帰ってくるのを切に望んでおられます。どんな罪人でも、真の悔い改めと信仰さえあれば、主は誰でもお赦しくださり、お招きくださる方です。むしろ、今日、登場した宗教指導者たちのように、神を知ると言いながらも、自分の信仰的なこだわりに閉じこもって、他人をやたらに判断する者こそ、イエスに裁かれるでしょう。私たちが追い求めるべき価値観は何でしょうか?赦しと愛のイエスの価値観、傲慢と判断の宗教指導者たちの価値観。神は私たちの目の前に、この二つの価値観を示され、どっちを選ぶだろうかと見下ろしておられるでしょう。 締め括り 「人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。」(箴言5:21)神は、世のすべての人々の歩みを見下ろしておられます。終わりの日、御前に立つ時、神は私たち人生について、ことごとくお問い掛けになるでしょう。だからこそ、私たちの生き方はイエスに従うべきです。イエスこそ、父なる神に認められる唯一の正しい人だからです。そして、主イエスの生き方こそ、私たちの価値観になるべきです。イエスは愛によって、罪人を赦してくださいました。主の体である私たち、志免教会もお互いに赦しあい、隣人を差別せず、主イエスの愛にならっていくべきではないでしょうか。

永遠の命を語る。

詩編14編1~7節(旧844頁) ヨハネによる福音書17章1~5節(新202頁) 前置き 永遠の命とは何でしょうか? 私たちは永遠の命という言葉を耳にするとき、死なずに長く生きることだと考えがちです。永遠に生きるって、いかに素晴らしいことでしょう。愛する家族との別れもなく、焦りもなく、何事においても楽天的でゆったりと世の中を眺め、死への恐れもないでしょう。しかし、現実、人間には長くても100年前後という限られた時間が与えられています。だから、老いていくのが悲しく、死を恐れることになるのでしょう。そのような人間の思い煩いに対して、聖書は永遠の命を語るから、とても魅力的でしょう。そんな理由のため、キリスト者になった人もいるはずです。しかし、聖書が語る永遠の命は、そう簡単なものではありません。聖書においての永遠の概念は、ただ長い時間を意味しないからです。今日は聖書が語る永遠の命について考えてみましょう。 1.「永遠の命と天国」 永遠の命といえば、真っ先に思い浮かぶのが「天国」のような来世のことではないかと思います。死後、主の救いによって永遠の命を得ていくところが、天国という概念で、すでにキリスト者の世界観に深くすえてあります。そういう意味として、多くのキリスト者は天国に行くために信仰生活をしているのかもしれません。それだけでなく、イスラムや仏教系の宗教にも天国(極楽)の概念があり、世の中のほとんどの宗教が、このような来世観から自由ではないかもしれません。あらゆる宗教を問わず、人間が天国あるいは極楽に行くことを希望するのは、人間に永遠への本能的な憧れがあるからです。永遠でない自分が絶対者の助けによって、永遠を手に入れ、死を乗り越えることを追求するからです。この世の肉体が死んでも、来世の天国では死を経験せずに永遠に生きるだろうと思うからです。だから、人間にとって「永遠の命」そして「天国」は人生最大の目標であるかもしれません。 2.永遠の命とは何か? しかし、私たちは「永遠の命」の意味より「天国」の幸せの方にもっと関心を持っているかもしれません。永遠の命という言葉も漢字語に基づいて、終わりなく生きることと誤解しているかもしれません。 しかし、永遠の命を追求しつつ生きるだけに、私たちは「永遠の命」の意味についてはっきり分かる必要があります。以前にも話したことがありますが、「永遠」の哲学的な意味は時間に限っていません。西洋哲学で、無限の時間を意味する言葉は「永遠」ではなく「不滅」です。むしろ永遠は時間性と無時間性と両方の概念を含める抽象的な言葉です。つまり、永遠は時間の長さだけでなく、その内容と質の問題でもあるのです。何年前、筑紫野教会の水曜祈祷会の奨励の時、永遠の主について話しましたが、祈祷会後に帰宅する直前、ある方にこう言われました。「先生、永遠に生きることはとても嬉しいことですが、永遠に生きると退屈ではないでしょうか?」その方は永遠を時間の概念として理解されたわけです。永遠が時間の長さの概念だけではなく、内容と質の概念も含めているのなら、私たちは永遠についてどのように理解すべきでしょうか? 「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ福音17:2-3) 神が主イエスを救い主として、この世に遣わされた理由は、神の永遠の命を主を通して、この世の罪人に与えてくださるためでした。つまり、神の永遠の命を、この世の罪人が受けることが「救い」なのです。ところが、永遠の命を「天国で長く生きること」と誤解する場合が多いので、「永遠の命がすなわち天国」という誤解が生まれたのです。しかし、イエスは「永遠の命がすなわち天国」と言われたことがありません。「永遠の命とは、唯一のまことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることだ。」と言われたのです。これは、永遠の命と天国の概念を説明する大事な鍵です。 まず、ヘブライ語とギリシャ語の聖書に記してある永遠の命の原文について考えてみましょう。日本語で「永遠の命」と訳された言葉は、ギリシャ語で「ゾーエ・アイオニオス」です。「ゾーエ」は生命を、「アイオニオス」は「時代の」を意味します。このギリシャ語の表現はヘブライ語を訳したもので、ヘブライ語では「ハイム•アド•オラム」です。「ハイム」は「生命」、「アド」は「~に至る」、「オラム」は「時代」を意味します。 つまり「永遠の命」の本来の意味は「時代に至る生命」なのです。時代に至る生命とは一体どういう意味でしょうか? ヘブライ語の「オラム」つまり「時代」は、「共通点を持った一定の期間」を表す言葉です。例えば、高校時代は身分が高校生である期間を意味します。今、皆さんは高校生ではありませんが、一時は共通して「高校時代」を過ごされました。ところで、皆さんのほとんどが「高校時代」を過ごされた時は「昭和時代」でもありました。ですから、皆さんは「高校時代」を過ごしながら「昭和時代」も過ごされたのです。私も「高校時代」を過ごしました。「高校時代」を過ごしたのは皆さんと同じです。しかし、私の「高校時代」は「平成時代」でした。「高校時代」を過ごしたのは、皆さんと私の共通点ですが、皆さんは昭和時代、私は平成時代であったのが違いです。つまり、聖書が語る時代とは「ある特徴で区分できる一定の期間」を意味し、重なる場合も重ならない場合もあるのです。再び、聖書における「時代」について考えてみましょう。主なる神は世界を創造され、主が秩序と平和にあってすべてを治められる「主が王である時代」、別の言葉では「生命の時代」を始められました。「主が王である時代」は永遠です。主なる神の支配は永遠に続くからです。人間はその主に創造され、「主が王である時代」に属し、絶えず主の生命をいただいて幸せに生きていく祝福された存在でした。 しかし、人間は蛇(悪魔)の誘惑に妥協し、神との約束を破って逆らい、堕落してしまいました。その結果、「主が王である時代」に属していた人間は、「人間が王である時代」、別の言葉では「死の時代」に移ってしまいました。そのように人間が王になった結果、世界は神の摂理から離れ、欲望による無秩序と破壊の歴史を書いていくことになってしまいました。その罪の代価として、人間は死の支配に入ってしまったのです。これを通して、「時代に至る生命」つまり「永遠の命」について説明することができます。ここで「時代」とは、「主が王である時代」を意味するといえます。主なる神が意図された最初の時代だからです。「人間によって生まれた人間が王である時代」は、歪んでしまい、腐敗した偽りの時代です。主なる神は変わりなく「主が王である時代」におられ、人間は依然として「人間が王である時代」を生きています。この二つの時代の隔たりは、人間の力で絶対に崩せない巨大な壁です。しかし、神は、この二つの時代の壁を崩してつなげる道をお許しになりました。その道がすなわち「救い主」イエス•キリストなのです。 永遠の命のヘブライ語が「時代に至る生命」である理由はまさにこのためです。「人間が王である時代」を生きる私たちが唯一の真の神「主が王である時代」をキリストを通じて知ることになり、そのキリストを知る(信じる)ことで神の時代とつながるようになったからです。 3.永遠の命 – 神と共に生きる人生。 永遠の命は時間的に長く生きることだけを意味するものではありません。重要なのは「人間が王である時代」に生まれ、生きている私たちが、主イエス•キリストによって「主が王である時代」の存在に気づき、主イエスによって、その時代に至ることができるようになったということです。聖書はこれを「真の生命」と言うのです。したがって、私たちは「人間が王である時代」に生きる存在ながらも、キリストによって「主が王である時代」に属する存在として生きるのです。 聖書はこれを「救い」と定義します。そして、死後天国に行くことは「人間が王である時代」を離れて「主が王である時代」に完全に入ることであり、この世の終わりの日、キリストの再臨と共に「主が王である時代」は、この地上にも完全に成し遂げられ、その時に私たちも復活するでしょう。これが聖書が語る永遠の命と天国、そして救いの意味なのです。今日、旧約聖書の詩編14章2節と5節は、それぞれこのように語ります。「主は天から人の子らを見渡し、探される、目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」(2)「神は従う人々の群れにいます。」(5)天(神が王である時代)におられる主なる神が、地上(人間が王である時代)にいる民をお探しになり、共におられること、これこそが人にに与えられた真の永遠の命なのです。 締め括り ですので、私たちの永遠の命は、すでに始まっています。私たちはキリストによって、すでに「主が王である時代」を知り、その中に生きているからです。というわけで、主イエスはこう言われました。「神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28) 天国すなわち神の国は死後にだけあるものではありません。主なる神に出会い、その民として生きている今も、私たちはすでに永遠の命のある人生、天国のある人生を生きているのです。そして、私たちが主に呼ばれる日、私たちは人間が王であるこの時代を離れ、主なる神が王である真の永遠の命に入るでしょう。そして、再臨の日、キリストによってこの地に真の主が王である時代、新天新地が成し遂げられるでしょう。私たちキリスト者は永遠の命という意味について、このような理解を持って生きるべきです。