私の亜麻布を

イザヤ書53章5節(旧1149頁) マルコによる福音書 14章50-52節(新93頁) 前置き 最近、家庭礼拝歴の執筆依頼があり、マルコによる福音14,15章を研究することになりました。そのうち、印象的な箇所を見つけました。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」(マルコ14:50-52)今日の本文、イエスが逮捕され、裁判所に連行される途中、イエスについて行ったある若者についての場面でした。その若者が誰なのか私たちには分かりませんが、彼が亜麻布をまとって、他の弟子たちが皆逃げてしまったにもかかわらず、勇気を出してイエスについて行ったことが分かります。今日はこの若者について、そして、この本文の持つ意味について話してみたいと思います。 1。亜麻布をまとった若者 若者の外見は独特でした。素肌に亜麻布だけをまとっている様子でした。なぜ。彼がそのような姿をしていたかは分かりませんが、彼はイエスが逮捕された時、弟子たちもイエスを捨てて逃げたのに、引き続きイエスについて行きました。(実はペトロもイエスについて行きましたが、ペトロ以外の弟子たちは皆逃げてしまいました。)イエスの時代のイスラエルにとって、亜麻布は様々な用途で使われる織物でした。今日の本文のように衣服や布団の材料としても使われ、祭司の礼服の材料としても使われました。そして、亡くなった人を包む葬儀用品としても使われました。今日の本文に登場するこの若者は素肌に亜麻布だけをまとっていたのですが、普通だったら、こんな姿で出掛けません。もしかしたら、その時が夜だったので寝ている間にイエスが逮捕されたことに気づき、急いで飛び出したイエスの支持者の一人だったかもしれません。いずれにせよ、彼は亜麻布だけをまとったままイエスについて行きました。「人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」(マガ14:51-52)しかし、彼は最後までイエスについて行くことはできませんでした。イエスを逮捕した連中に捕らえられそうになると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまったからです。 この場面を読みながら最初は爆笑してしまいました。状況に合わない滑稽な場面だと思いました。しかし、繰り返し、この本文を吟味した結果、さらに深い意味があるかもしれないと思うようになりました。聖書において亜麻布にはいろいろな象徴がありますが、イエスの十字架の死と関わるものもあります。これからイエスはポンテオ・ピラトに裁判を受け、殺人者バラバに代わって十字架にかけられ亡くなられるでしょう。そして、死を迎えたイエスは亜麻布に包まれて、墓に入られるでしょう。つまり、今日の本文に限っては、この亜麻布が死を意味する象徴であるかもしれないということです。しかし、死んだイエスを包むようになる、この亜麻布を、あの若者は脱ぎ捨てるようになりました。イエスが歩いていかれる苦難と死の道から、彼は亜麻布を脱ぎ捨てることにより、遠く遠くまで逃げ出しました。もしかしたら、この若者は別の人ではなく、私たち自身であるかもしれません。私たちはイエスを信じ従おうとしていますが、罪と弱さによって完全に主に聞き従うことはできません。いつ主を裏切るか、いつ逃げるかは誰にもわかりません。しかし、確かなことは、主イエスが私たちの罪と過ちを赦し、私たちを永遠の死から永遠の生命へと移してくださったということです。これからイエスは私たちの代わりに亜麻布をまとって墓に入られるでしょう。その亜麻布は、私たちを包んでいた私たちの罪と死であるかもしれません。 2.「それでもついて行く人」 先ほどお話ししたように、亜麻布をまとった若者は人々に捕まえられそうになると、亜麻布を捨てて逃げてしまいました。彼の逃亡がイエスを見捨てる姿のように見えるかもしれませんが、むしろ、それはキリストによって死を避けた人の姿であるかもしれません。唯一イエスだけが永遠の死から罪人を救ってくださることができます。イエス以外の誰も人の罪を赦すことができず、永遠の死から救うこともできません。イエスは罪人への赦しと救いのためにご自分の命をかけられました。しかし、イエスについていった若者がイエスのように逮捕され死ぬといっても、その死によって人を救うことはできません。若者はただイエスの死によって代わりに罪赦され、救われること以外に何もできない存在です。ですから、今日の本文で亜麻布を捨てて逃げたこと、つまり、死を逃れたということは、青年の裏切りというより、キリストにより、死を避ける姿として解釈すべきではないでしょうか。いずれにせよ、彼は逮捕された主を見捨てようとはしませんでした。最後は逃げてしまったのですが、彼はイエスの苦難に知らないふりをせず、主の後についていったのです。 私たちには、イエスのように他人を救う資格も力もありません。しかし、少なくとも、最初からイエスを見捨てて逃げず、主の苦難を憶え、その方についていこうとする信仰は持つべきでしょう。マルコによる福音書10章でイエスはこう言われました。「イエスは言われた。あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。彼らが、できますと言うと、イエスは言われた。確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」(マルコ10:38-39) 実は私たちにはイエスの飲む杯を飲み、イエスの受ける洗礼を受けることができません。「イエスの飲む杯を飲み、イエスの受ける洗礼」この言葉は、十字架で救いの献げ物として死んでくださるイエスだけに与えられた贖い主の務めだからです。しかし、主によって救われ、主の民となった存在は、罪人を救う贖いの十字架を負うことはできませんが、主の民として主の道に聞き従うための自分に与えられた十字架を背負うことは出来ます。つまり、主イエスが言われた「あなた方の杯と洗礼」とは、主の民にふさわしく生きる生き方のことです。 私たちは主イエスの道に従わなければなりません。キリストによって永遠の死を避けた私たちは、これからキリストに従って主の救いの生涯を憶え、その方が私たちに与えてくださった私たち自身の十字架を背負って行かなければなりません。弟子たちは皆逃げてしまいましたが、それでも、イエスについていった、その若者を憶えましょう。 3。亜麻布を脱ぐ 亜麻布を捨てて逃げてしまった若者は、後、どうなったでしょうか? おそらく、彼は逃げることによって救った命を無駄にしなかったでしょう。復活されたイエスにまた出会い、その方の民として福音を伝える人生を生きようと誓ったはずです。事実かどうかわかりませんが、誰かはこの若者がマルコによる福音書の著者であるマルコ自身かもしれないと言いました。彼が誰であれ、彼は確かにイエスに出会い、イエスによって新しい人生を送るようになったでしょう。この若者はイエスによって亜麻布を脱ぎました。彼は亜麻布が意味する死から救われたのです。そして、彼がまとっていた死の亜麻布はイエスが代わりにまとって墓に入られました。しかし、復活されたイエスは、最後にその亜麻布を脱がれました。ヨハネによる福音書にこう書いてあります。「続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。」(ヨハネ福音20:6)イエス·キリストは私たちの亜麻布を脱がせ、また復活されることによって、主ご自身を包んでいた亜麻布をも脱がれました。つまり、イエスが復活され、亜麻布を脱がれたように、主によって亜麻布を脱ぐようになった私たちも主による復活を得るようになったのです。今日の本文は、亜麻布という物を通じて、主が私たちの変わりに死に、復活されたことについて証しているのです。 締め括り 「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5) キリスト教の最も根本的で重要な教えは、罪ない神の子イエス·キリストが罪によって滅ぼされるべき罪人の代わりに死に、復活し、救ってくださったということです。今日の本文は、その教えを亜麻布という物を通じて私たちに語りました。私たちがイエス·キリストを信じる理由は、ひとえにキリストだけが私たちの罪を赦し、代わりに死んで復活された方だからです。今日の本文を通じてもう一度私たちの救い主であるイエスの愛と恵みを憶えたいと思います。

ベトザタにて

イザヤ書 49章10節(旧1143頁) ヨハネによる福音書 5章1-18節(新171頁) 人間は老若男女を問わず自由を追求します。しかし、自由は簡単に得られるものではありません。人は自分が自由に生きていると思うかも知れませんが、富、権力、名誉への欲望による束縛のため、自分も気付かないうちに、現実の奴隷のように生きやすいです。「皆と異なったらどうしよう。独り負けになったらどうしよう。」と恐れ、結局、今の生活に妥協し、自ら、世の束縛からの自由をあきらめてしまう場合もあります。このような現代を生きる私達にとって真の自由とは何でしょうか?今日の新約本文の物語を通じて、真の自由とは何か。その自由を束縛するものとは何か。そして、その自由への解放者としてのイエス・キリストについて考えてみましょう。 1.ベトザタ – 慈しみの家 ベトザタはイエスの時代、エルサレムにあるて貯水槽でした。その意味は「慈しみの家」でした。このベトザタには病人を治療する治療施設があったと言われますが、病気の治療に用いるための多くのきれいな水が必要だったからです。というわけで、数多くの病人が集まっていました。ところで、ベトザタには不思議な噂がありました。今日の本文を読むと3節の次に4節がありませんが、こんな文章が省略されています。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは主の使いが時々、池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていても、癒されたからである。」(新共同訳ヨハネによる福音書の末尾に書いてある。) ベトザタには主の使いが時々天から降りてきて、水を動かすという噂があり、その水が動いた瞬間、一番早く入る人はどんな病気でも癒されるとのことでした。そのため、大勢の人々が病気を癒すために集まっていたわけです。その中には、今日の本文に出てくる38年も病気で苦しんでいる人もいました。この話を聞きながら、欠けた文章にある「主の使い」という表現が気になります。愛の主なる神が、なぜ、一番の人のために多くの人々を競争させられたでしょうか。 ベトザタが慈しみの家と言われるのに、皆を癒さないで、一番だけを癒してくれる神、人々に虚しい希望を与える神が、本当に主イエスの父なる神なのでしょうか。そこで、ギリシャ語聖書5冊、英語聖書3冊を比べてみました。ギリシャ語の聖書には「主の」の部分が一冊も無く、英語聖書にはあるのもあり、無いのもありました。おそらく、「主の」は翻訳の際、追加されたかも知れません。イエスの時代のエルサレム社会はギリシャ、ローマの宗教と文化も混じっていました。当時の文献を読むと、べトザタはローマの神のための場所だったようです。ギリシャ、ローマの医術の神アスクレピオスを拝む場所だったのです。このアスクレピオスと見られる神の像がべトザタで発見されたとの話もあります。べトザタは慈しみの家と呼ばれました。しかし、その慈しみは主なる神の慈しみではなく、ギリシャの神々の慈しみだったかも知れません。病人たちは、このギリシャの神の像を見て、その神の天使が天から降ってきて、水を動かすと思い、切に待っていたでしょう。たった一人だけに与えられるケチな慈しみを待ちわびながら、一生を送った病人たち。人々は病気からの自由という希望を持って、生涯、偽りの神の使いを待っていたのです。その偽りの神を通じて得る自由はとても競争的でした。一番だけのための慈しみだったのです。 2.ベトザタの束縛された人々 おそらく、ベトザタの病人たちは、社会の最もとん底に束縛されている弱者だったでしょう。その時代、イスラエルの政治は純粋ではありませんでした。王もユダ族ではなく、異民族のヘロデであり、その王権もローマ帝国に許されたものでした。ヘロデはエルサレム神殿を改築しましたが、民のためでなく自分の政治的な人気のためでした。宗教も問題でした。主なる神からの御言葉の本義は消えてしまい、宗教指導者たちの富と権力と名誉のために律法は利用されました。社会も純粋ではありませんでした。金持ちはさらに富み、貧しい者はますます貧しくなりました。イスラエルは親のない孤児、夫のない寡婦のようになっていたのです。貧しい病人や障碍者は疎外と蔑視を受けました。彼らには真の慈しみと自由が必要でした。極めて弱い彼らに何の助けの手もなかったのです。彼らは死ぬまで病人、弱者として生きるのが定まっていました。彼らは二つの束縛のもとにいました。 まず、一番でない限り、抜け出せない政治的、社会的な束縛でした。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは主の使いが時々、池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていても、癒されたからである。」病気で苦しむ者が病気から自由になるためには、まず水に入らなければならないという前提がありました。例えば、暴力団の人が指に怪我をし、足早に水に入ると治されたということです。しかし、生まれつきの障碍者や目の見えない本当の弱者は治されなかったということです。悪いでも一番なら、治されるシステムだったのです。社会は彼らのために何もしてくれませんでした。ただ、傍観するだけで、助けは無かったのです。また、宗教的、文化的な束縛もありました。38年間の病人がイエスによって癒された後、ユダヤ人は、彼の回復を祝いませんでした。神に感謝もしなかったのです。彼らは自分たちの教理を突きつけ「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」と無慈悲にとがめました。彼らにとっては、病人の回復、希望、幸いは何の意味もなかったからです。最初から病人の痛みに関心がなかったので、彼らの癒しにも関心がなかったわけです。むしろ、弱者を助け、治した者を罪人のように扱い迫害しました。ベトザタの束縛は個人だけの問題ではありませんでした。社会の問題であり、社会が作っている束縛でした。ベトザタの病人たちは、そのような束縛から絶対に逃れることが出来なかったのです。 3.ベトザタの解放者 こんな状況の中で、ベトザタは慈しみの家ではなく、イスラエルの政治、社会、宗教、文化が持っている問題の結晶体だったかもしれません。誰にも歓迎されない弱者をゴミのように脇に置き、神話みたいな噂を希望とさせ、死ぬまで閉じ込めておく下水道のようなところだったかもしれません。しかし、そのように最も低い所に神の子が訪れてこられました。皆が高い所、明るい所、そびえ立った神殿を憧れたとき、神殿の真の主であるイエスは最も低い所、暗い所、ベトザタをご覧になったのです。そして、どうしても一番になれない38年間の病人に手を差し出されました。「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、良くなりたいかと言われた。」(ヨハネ5:6)エルサレムの最も低いところに来られたイエスは、その中でも最も弱い者に注目されたのです。そして、彼が最も望むことを語られました。「あなたは良くなりたいですか?」その時、病人は癒されることを求めませんでした。 ただ、自分の惨めさを話すだけでした。すると、イエスは彼の話を聞かれ、回復させてくださいました。その時、彼は38年という長い年月の間に自分を苦しめた病気から、自由になり、ベトザタという一番だけの地獄から解き放されました。この世が見捨てた人がイエスの慈しみによって新たになったのです。しかし、彼が治ったにもかかわらず、人々は喜んでいませんでした。むしろ、安息日に律法を犯したと叱り、イエスを迫害します。しかし、イエスは言われました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」(ヨハネ5:17)イエス・キリストは、束縛と抑圧のもとに苦しんでいる人を、ご自分の名誉、権力、富とは関係なく、ただ治してくださいました。そして、ご自分の命までも投げ出されました。偽りの慈しみに束縛された人を、喜んで回復させてくださったイエス・キリストによって、主なる神の真の慈しみが、その日、ベトザタに臨んだのです。 締め括り 今日の旧約本文はこう語ります。「彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。」(イザヤ49:10)神のメシアが臨まれれば、ご自分の民を正しい道、真の自由へ導かれるとのことです。そういう意味で、メシアとして来られたイエス・キリストは解放者です。イエス・キリストは罪による差別と偏見と嫌悪に満ちている束縛の世界に自由を与えてくださる真の解放者です。ですから、イエス・キリストのおられるところには自由があります。その自由は差別、偏見、嫌悪からの自由であり、誰もが人間らしく生きる真の自由です。そのような人間らしい生活をくださるために、イエス・キリストは解放者として来られたのです。今日の説教によって主イエスのおつおめを憶える機会になれば幸いです。

主なる神の愛

ゼファニヤ書3章 17節 (旧1474頁) ローマの信徒への手紙8章31-39節(新285頁) 前置き 古今東西を問わず、人々が好む言葉は何があるでしょうか? 健康、名誉、財物などいろんな言葉があるでしょうが「愛」という言葉も多くの人に好まれていると思います。特にキリスト教は愛の宗教とも呼ばれるほど愛を大切にしています。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(1コリント13:13) コリントの信徒への手紙第一は、愛を最も大事な価値として取り上げています。「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(1ヨハネ4:16)また、ヨハネの手紙第一は、主なる神がすなわち愛であると語るほど愛を強調しています。愛は人と人をつなぐ最も美しい言葉です。また、愛は人間への主なる神の最も根本的な御心です。今日は愛について、特にご自分の民である教会への主なる神の愛について考えてみたいと思います。 1.愛の意味について。 古代ギリシャ語は愛を四つの概念に説明します。一つは、異性との情熱的で肉体的な愛であるエロス。二つは親と兄弟、家族間の愛であるストルゲー。三つは先生、友人との尊敬と友情を込めた愛であるフィレオ。そして最後に、神の絶対的で偏見のない愛であるアガペーがそれらです。人が感じる愛は、この4つの愛のうち、どれか1つに限らず、時間の流れと状況の変化によって少しずつ変わっていきます。例えば、友との友情であるフィレオから始まり、エロスが生まれて恋人になり、結婚して夫婦として暮らしながらストルゲ-に変わり、信仰によってアガペー的な愛にありさまが変わっていくので、私たちが感じる愛はこの4つの愛の複合的な様子とも言えるでしょう。しかし、その中で私たちが完全に行うことの出来ない愛がありますが、それはアガペーです。他者のための犠牲、親の限りのない愛などが、このアガペーに似ているかもしれませんが、それは似ているだけで、完全なアガペーを成すことは出来ません。なぜなら、このアガペーは神だけが完全に成し遂げられる神的な愛だからです。 この神的な愛であるアガペーの完全な例は、イエス·キリストの十字架の犠牲に見られます。主に創造された最初の人間は、自分の欲望のため、神を裏切り、堕落してしまいました。以後、彼の子孫はすべてのことにおいて神を否定し、御言葉に反対し、隣人を憎み、悪を行いつつ生きるようになりました。そのすべては、最初の人間の堕落からもたらされた罪によるものです。つまり、罪によって人間は堕落し、神の敵になったのです。しかし、主なる神は、そのような人間を愛(アガペー)され、彼らが堕落した瞬間からイエス·キリストによる罪人の救いが完全に成し遂げられるまで、彼らをあきらめずアガペーしてくださいました。このアガペーの何よりも決定的な出来事は、神のひとり子イエスがその堕落した人間を救うために自ら人間になり、命をかけられた十字架の出来事であります。つまり、主なる神は、ご自分の敵である罪人を愛され、敵の救いのためにひとりだけの息子を献げものにされ、その代わりに罪人を赦し、父になってくださったのです。ところで、このアガペーの源は、三位一体の間の愛、父と子と聖霊の間をつなぐ真で完全な愛から始まりました。三位一体間の愛が満ち溢れ、罪人への神の愛も始まるようになったのです。罪人への神の恵みと救いは、まさにこの三位一体の間の愛が罪人にも与えられた結果なのです。 2。結局、主の愛によって しかし、主なる神の愛は盲目的な罪人への優しさばかりではありません。主は愛の神であると同時に正義の神でもあります。愛に満ちた主は罪人に罰を下される方でもあります。過ちの者にはそれに応じる懲らしめも下される方なのです。しかし、主は罪人が完全に滅びることを望んでおられません。むしろ、その懲らしめによって自分の罪に気づき、主の御前に悔い改めることを望まれる方です。そのような理由で、主は聖書全体を通して「悔い改めなさい」と促されるわけです。今日の旧約本文ゼファニヤ書3章17節は、神の愛を語っていますが、1章と2章、3章前半部は神の恐ろしい裁きについて語っています。1章では、神を無視して偶像を崇拝し、罪と悪を犯したイスラエル(ユダ)の民に恐ろしい裁きを予告する神が描かれています。2章では、イスラエルの周辺国の罪を糾弾し、彼らの滅亡を語られる神が描かれています。3章の前半部にも神を畏れない者たちへの裁きが語られています。したがって、今日の旧約本文のゼファニヤ書3章17節だけを読んで、神は愛ばかりされる方だと誤解してはなりません。主なる神は悪を必ず裁かれる正義の神でもあるからです。 「お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」(ゼファニヤ3:17) 主は正義の神でありながら愛の神でもあります。つまり、主の愛は主の正義とコインの両面のように密接なものであるということです。私たちは時々、神が本当に自分を愛しておられるかについて疑問を抱えたりします。イエスを信じ、神の民となったにもかかわらず、時々持ちこたえられないほどの苦難が私たちに迫ってくる時もあります。そんな時、私たちは神の愛を疑いやすくなります。しかし、その前に、自分自身に罪がなかったのか、自分自身に悔い改めるべき問題はなかったのか、自らを顧みる必要があります。もし、そのような罪が自分に無いと思ったら、主なる神がより大きな愛をくださるために自分を試みておられると信じるべきでしょう。つまり、神の懲らしめは、神の愛の別の姿であるということです。主なる神の懲らしめによって自分を顧み、主に立ち返ってきなさいという主のお招きのしるしなのです。優しい神も、恐ろしい神も両方とも神のあり方です。しかし、そのすべては結局、神の愛が根源であります。試練にあった時、神の愛を疑わないようにしましょう。その試練の源は、私たちのより良い人生のための主なる神の愛にあるからです。 3。誰も主の愛を妨げることが出来ない 今日の新約本文のローマ書は次のように語っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ローマ書8:35)神の愛は、誰も妨げることのできない神の権能を伴います。主なる神に一度選ばれ、主の愛の中に生きるようになった人は、他の権力によってその愛が妨げられることはあり得ません。世の誰も主の愛から主の民を断ち切ることができないということです。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ローマ書8:37) 主が私たちを愛してくださいますので、そのすべての妨げに勝利する恵みが私たちに与えられるからです。そして、その主の愛は、私たちを罪から救い、永遠に神の子供として生きるように導いてくださったイエス·キリストによって移り変わりなく私たちの中に働いています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:38-39) さらに大事なことは、私たちが主を先に愛したわけではなく、主が私たちをお先に愛してくださったということです。したがって、私たちの神への愛が冷めてしまい、信仰が弱くなっても絶対に変わらない主なる神の愛は、いつまでも残り、私たちと共にあるでしょう。 締め括り 赴任以来、私は「神を愛し、隣人を愛しなさい」とよく説教しました。しかし、数年間牧会をしてきながら、私自身が神と隣人を愛することが出来なかった時が多々あったと改めて感じるようになります。皆さんも心では神と隣人を愛しなければならないと思うのに、実はそうでなかった経験がありますでしょう。私たち人間は誰かを完全に愛することができないあまりにも弱い存在だからです。けれども、大丈夫です。私たちを呼び出された主なるはイエス·キリストによって、今日も私たちを愛しておられるからです。そして、その神のお導きとお愛のもとで、私たちに再び力をくださり、神と隣人を愛する心を回復させてくださるでしょう。主なる神は私たちを愛しておられます。私たちが強い時も弱い時も、豊かな時も貧しい時も、主は変わりなく私たちを愛してくださいます。そして、イエス·キリストはその主なる神の愛をご自分の贖いによって完成してくださいました。ですから、私たちは主に完全に愛される者です。それを憶えながら、主なる神の愛のもとに生きる私たちでありますように祈ります。

初めであり、終わりである神。

イザヤ書40章 27-31節 (旧1125頁) ヨハネの黙示録22章12-13節(新479頁) 前置き 1.初めであり、終わりである神 皆さんはヨハネの黙示録を好んで読まれますか?黙示録はかなり難しい本でしょう?黙示録は、その内容が難解で意味も不明確な部分が多いので、神学を専攻した人にも、読み取りにくい聖書だと言われます。しかし、その難しい黙示録も、割と明確なテーマを持っていますが、特に今日の新約本文がそうと思います。「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」(12-13)確かに黙示録は非常に難しい書ですが、私たちの主であるイエスが、この世界を支配しておられることと、いつか、この世界を裁かれることと、それまで信仰を堅く守る者に報いてくださることについては、明確に語っています。そういうわけで、黙示録の冒頭と末尾に「 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」という言葉が出て来るのです。これはキリストがこの世のすべての主であることを強調するのです。神は最初から最後までを司っておられる方です。神によって、この世界が造られ、私たちが生まれ、私たちはこの教会堂に集って、すべての初めであり、終わりである主なる神を礼拝することが出来るのです。 いつか永遠という言葉について話したことがありますが、キリスト教における永遠とは「神が最初から最後まで、全てを司ること。」であり、永遠の命とは、その「すべてを司る神と共に歩み、生きていくこと」だと話しました。今日の本文の「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」という言葉も、この永遠と深い関りがあります。主なる神が最初から最後までの全てのことを司られ、すべてのものを治める永遠の方であること、その方が遣わされたキリストが、その支配を自らなさっておられることを黙示録は力強く語っているのです。ここ何年間を振り返ってみると、コロナによって数百万人が亡くなりました。米国と中国、イスラエルとハマスが対立しました。北朝鮮は相変わらず、核兵器で世界を脅かしています。私たち人間の生活の中で、最近の様々な問題は、命が脅かされるほどの恐ろしいことでした。いくら強力な権力者だといっても、戦争と疫病の猛威の前では、手が付けられなかったです。しかし、その全てはアルファであり、オメガである神のご計画の中では、ほんの微かなことにすぎませんでした。もちろん、戦争や疫病で人が死ぬことを神の計画だとは言えないでしょう。もし、神が無分別な死をあおぎ立てる方であれば、彼はすでに神ではなく、悪魔であるでしょう。 すべてが神のご計画であるということは、神が、この混沌の世界の中でも、御心に基づき、世界を導いていかれるという意味です。創造の時、初めの人間が犯した罪の結果は、この世の中に混乱をもたらすことでした。神が初めに造られた完全な世界は、人間の罪によって破られました。対立も、戦争も、疫病も、そのような人間の罪の故に生まれた悪の副産物なのです。しかし、神はそのような混沌の世界の中でも、キリストを通して絶えず慰めと救いとを与えてくださる方です。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(Ⅱペトロ3:8)現在、私たちの人生の中で起こる、すべての危機は、人間のみに適用されるものです。主からしては、この世界の千年が、私たちがお茶を分かち合うほどの短い時間にすぎないかも知れません。つまり、この地上の危機が神の危機になることは有り得ないという意味です。主なる神は、その危機よりも大きい方であるからです。むしろ、神にとって、そのような微かな危機の中でも、人間を憶えてくださり、愛してくださる主の偉大さに感謝すべきだと思います。神がお造りになった、この世界が罪と悪の故に混乱しているけれども、神はいつか、この罪と悪を終わらせてくださるでしょう。その神を堅く信じ、世の危機に怯えず、神の偉大さに畏れおののく私たちであることを願います。初めであり、終わりである主が、混沌の世界から私たちをお守りくださることを祈り願います。 2.慰めと力を与えてくださる神 主なる神は慰めてくださる方です。ヨハネの黙示録の審判者である神は、神を憎み、逆らう者に裁きを下される方です。しかし、神を愛し、主の民として生きようとする者には、喜んで父になってくださる方です。孤児は親がどのような存在なのか分かりません。親がいないから、礼儀作法も知らず、好き勝手に育ってしまいます。最初から養ってくれる親がいなかったからです。しかし、ある心やさしい企業家夫婦が、その孤児を養子縁組して、自分の本当の子供のように養うと孤児だった子は、もはや孤児ではなく、愛される子供として育ち、後には立派な人間に成人します。主なる神もそのような方です。主の民になった者が過去はどうだったのかに関係なく、主なる神は、完全な愛と慰めと救いの父になってくださる方です。神がキリストを通して私たちをご自分の子供として呼び出された理由は、私たちが天の父なる神から愛と慰めと救いをいただくためだったのです。 今日の旧約本文は、主なる神を捨て去り、罪と悪の道に進んでいたイスラエルの民が、神の裁きを受け、バビロンの捕囚として連行された後、神によって解放され、故郷に帰る時に記された慰めの言葉です。 70年間バビロンとペルシャの捕囚として生きてきて、神が自分たちを憎んでおられると誤解していたイスラエルの民に、神は愛の神であり、慰める方であり、力をくださる真の父であることを知らせるために記されたわけです。 「ヤコブよ、なぜ言うのか?イスラエルよ、なぜ断言するのか?わたしの道は主に隠されていると、わたしの裁きは神に忘れられたと。」(イザヤ40:27) 神がご自分の民に罰を与えられる理由は、彼らを滅ぼすためではありません。神は主の民が間違った道に行くとき、戒められ、神に帰ってくるように導かれる方です。親が愛する子供を戒めるように、主なる神の民に与えられる苦難は、裁きではなく、愛の戒めであるのです。神はご自分の民が幸いと喜びに生きることを望んでおられる方です。しかし、幸いと喜びを口実に我が儘に生きることは望んでおられません。神はその民が信仰を堅く守り、主と一緒に歩む生活の中で真の幸いと喜びを見つけることを望んでおられるのです。そのような生活を促すために神は主の民に苦難を許されるのです。 様々な困難な状況に直面している時、神は主の民を厳しく叱られるためではなく、主の民に悔い改めを促され、主に立ち返らせるために困難な状況をくださるのです。そして、神は今日も主の民を慰めてくださる方です。神は、私たちを大切にしておられる愛の神だからです。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(28-31) 締め括り パレスチナ地域には、イヌワシという大きい種のワシが生息していると言われます。翼を伸ばすと、2メートルに達し、体重も7キロに達するほどの大きい鷲です。日本にもイヌワシがいますが、2.5キロくらいの亜種ですので、かなりの大きさの差があります。この7キロのイスラエルのイヌワシが空に飛び上がるためには、翼の筋肉だけでは無理です。ということで、イヌワシは風を利用して飛び上がるそうです。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。神はワシを飛んで上がらせる風のように、その民に力を与えてくださる方です。アルファとオメガ、初めと終わりである主なる神は、疲れた者に力を、勢いを失っている者に大きな力を与えてくださる方です。今年もこの主なる神に依り頼んで、毎日を生きていく私たちでありますように祈ります。目の前に暗闇と障壁が遮っていても、主がくださる聖霊の風に私たちの全てを頼り、力強く飛び上がる志免教会でありますように祈ります。イエス・キリストを中心とし、互いに祈り合い、励まし合う生き生きとした志免教会でありますように祈ります。主なる神よ、志免教会に絶えない恵みと力を与えてください。

上にあるものを求めなさい。

コロサイの信徒への手紙3章1~11節(新371頁) 前置き 今日は、2025年の志免教会の歩みを決める定期総会の日です。総会を始める前に、まず私たちの教会の頭であるキリストの御心を憶え、分かち合いたいと思います。私たちはキリストの体なる共同体として、この世に生きていますが、この世の価値観に属する者ではなく、キリストの価値観に属する者なのです。この地上に生きているが、常に神の右に座しておられるキリストの御心を憶え、その方のご意志に従順に聞き従いつつ生きるべき者であります。だからこそ、私たちはいつも上のものを求めつつ生きなければなりません。今年の我が教会の歩みを決める大事な時間、この地上のものではなく、上におられる主なる神の御心とは何か深く考えて、心を新たにする時間であることを祈り願います。 1. キリストと共に 「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」(コロサイ3:1) イエス·キリストと教会の関係は、ただの主人と召使いのような関係ではありません。その関係は、何よりも深い夫婦関係に近いです。日本語で「主」と訳されたギリシャ語は「王、主人、身分の高い者」に使う言葉でもありましたが「夫」を意味する言葉でもありました。(日本人ならすぐ分かると思います。ご主人という言葉をよく使っているからです。)そのためか、聖書のあちこちにイエス·キリストを「花婿」として、教会をその方の「花嫁」として描いたりします。夫と妻は、金銭や利益によって結ばれる関係ではありません。互いに愛しあい、信頼しあい、体と心が一つになる世界で最も深い関係なのです。イエス·キリストは主の教会をご自分の花嫁にするために十字架で命をかけてまで教会のために贖ってくださいました。したがって、キリストと教会は絶対に分かれることのできない神が一つに結ばせてくださった関係です。今日の本文の1節には、あなたがた(教会)はキリストと共に復活させられたから、上にあるものを求めるべきという趣旨のことばが出てきます。夫を先に亡くした妻のことを「未亡人」と言います。つまり「まだ死んでない人」という意味です。「夫無しには妻も無い」という前近代的な言葉なので望ましい表現ではありませんが、それだけに夫は妻にとって重要な存在であるということです。だから、復活された花婿であるキリストは教会にとって命そのものであり、教会を存続させる一番大事な存在であります。 「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:3-4)ところで、今日の本文は、教会が「命であるキリストが現れるとき、キリストと共に栄光に包まれて現れる存在」と語っているのです。つまり、以前、イエス·キリストではなく、この世の支配の下にあった私たちは、必ず滅ぼされるべき世の妻のような存在でした。しかし、キリストが私たちを選び救ってくださり、私たちに命を与え、キリストの花嫁にしてくださいましたので、私たち教会はキリストによって命をいただいた存在、キリストと共に生きる栄光の存在として生まれ変わるようになったのです。これが私たち教会のアイデンティティ-を証明する最も強力な根拠になります。したがって、今日の本文は、私たちがキリストに属する存在、この世とは異なる価値観で生きる存在だと述べているのです。 本文はそのような私たちのとるべき生き方について「上のものを求めなさい」と語ります。ここで「上」というのは、私たちがいる土地(この世)ではなく、天(主)の価値観だと言えます。聖書において、「天」は主なる神のご統治を意味する場合が多いです。そして、新約聖書においての神の統治はイエス·キリストの十字架での贖いの出来事によって、キリストの統治に譲られました。 2. 上にあるものを求める つまり「上にあるものを求める」ということの意味は、この地上に属した存在として生まれ、地の支配下にあった私たちが、キリストによってキリストに属した存在に生まれ変わったから、私たちの本当の支配者であるキリストの御心に聞き従い、主の民らしく生きるべきということです。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。」(コロサイ3:5-8) そして、聖書はこの地に属した者の生き方について上記のように解き明かし、そのような生き方を捨て去るのを命じています。そのような生き方には神の怒りが下るからです。キリスト者として生きるということは、私たちの生まれつきの性格、性質、罪の本性をはじめ、育ちながら身についた貪欲、悪い行いなどと一生戦って生きなければならないということを意味します。キリストを知らなかった時の私たちは、自分の気の向くままに生きてきたが、キリストの花嫁になった今は、主の御心とは何であるかをわきまえ、自分にある望ましくない生き方を節制し、主の御心にふさわしい生き方を追い求めて生きなければならないのです。そこに信仰生活の難しさがあります。自分の本能との真っ向勝負だからです。 「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。」(コロサイ3:10-11) しかし、キリストによって新たになった私たちは、主を知らなかった時代の私たちとは明らかに異なる新しい生き方で生きなければなりません。キリストの花嫁となった私たち、キリストに属して新たに生まれ変わった私たちは、天地創造の時に主なる神がご計画なさった真の人間の姿、すなわち、造り主なる神の姿に倣い、回復した望ましい人間として以前とは違う人生を生きなければならない課題を持っているからです。主イエスは人種と文化と国籍を超えて、主に属し、主の御心に従って生きる者たちに新しい人生を与えてくださいました。主はユダヤ人、異邦人、未開人、残酷すぎだったと言われるスキタイ人、奴隷と自由人を問わず、主によって新たになり、主の民となった者たちに差別なく恵みと力を与えてくださいました。依然として私たちには罪の本性が残っており、完全に新しくて正しい人生を生きることは難しいかもしれませんが、それでも、私たちの中に一緒におられ、導いてくださるキリストは、差別なく愛によって私たちを正しい道に導いてくださいます。その主イエスのお導きに信頼し、主の御心を追い求めて生きることこそが「上にあるものを求める」人生ではないでしょうか。 締め括り 2025年にも、私たちは多くのことを経験するでしょう。嬉しいことも、悲しいことも、楽しいことも、辛いこともあるでしょう。しかし、私たちが、どの方の民なのか常に憶え、どのように生きるべきかをよくわきまえながら、主の御心とお導きを求め、上にあるものを求めて生きる私たちでありますように祈ります。私たちの中にある罪の本性を節制し、主の御言葉によって私たちに聞こえ響いてくる正しい生き方を貫き、主イエス·キリストに属した者にふさわしく生きていきたいと思います。主なる神が今年一年も、志免教会の兄弟姉妹みんなに豊かな恵みと愛とを注いでくださいますよう祈ります。そして、今日の総会にもその恵みと愛が与えられますよう祈ります。

私たちの交わり

ヨハネの手紙一1章1~10節(新441頁) 前置き 今日の本文の著者である使徒ヨハネは、イエスの12弟子の中で一番最後まで生き残り、ヨハネによる福音書とヨハネの手紙1、2、3、そしてヨハネの啓示録を書き残した人として知られています。彼はエフェソという地域を中心とし、現在のトルコである小アジア地域の初代教会に仕えていました。ヨハネの生前、この地域の教会には、ユダヤの伝統を大切にするユダヤ系キリスト者、そしてギリシャ文化圏の影響を受けた異邦人のキリスト者が混在していたと言われます。そのため、教会の中には、互いに異なる思想と信仰の形のため、混乱が起きるケースが多かったと言われます。その中には「イエスは神ではない」のように教会を揺るがす異端的な主張をする人々もいたそうです。教会共同体の中にはそれぞれの思想と経験を持った人々が集まっています。生き方が、聖書への理解が違う人々もいます。そのような違いからもたらされる誤解と対立が教会の中ではいつでも起こり得ます。しかし、今日の本文を通して、使徒ヨハネは、キリストの生命の福音と神の恵みが、互いに異なる思いの人々を交わらせる恵みになると語っています。私たちはそれぞれ考えも経験も追求する点も違う人々の集まりです。しかし、キリストによる生命の福音は互いに異なる私たちの信仰を一つにする恵みを源になります。 1. 命の言葉イエス。 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(1ヨハネ1:1~4)使徒ヨハネのもう一つの著作であるヨハネによる福音書は、このような文章で始まります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ福音1:1)ヨハネは、主なる神がこの世を創造された時、神の言が共にあり、その言が、神ご自身であったと語りました。神の言が神ご自身であるという言葉はとても矛盾した表現です。ある人の言うことは、その人の言葉に過ぎず、その人自身ではありません。ところが、なぜ神の言は神ご自身であると記してあるのでしょうか? ヨハネが語る、この「言」という表現は単純に口から出てくる言葉を越える特別な何かを示しているからです。 私たちが読んでいる新約聖書は「ギリシャ語」で記されています。ギリシャ語において「言葉」を意味する「ロゴス」という表現は、単なる言語だけを意味するものではありません。もちろん、言語という意味もありますが、さらに深く「誰かの思想、理性、創造の原理、真理、世界の秩序」などの重みを持ったかなり哲学的な表現です。つまり、神の言葉「ロゴス」は「言葉、思想、理性、創造の原理、真理、世界の秩序」をまとめる神の最も大事な御心そのものを示す表現です。ヨハネは神の言に言い換えることができる大事な存在が神の創造の前から一緒におり、その存在は被造物ではなく神そのものであったと語ります。私たちは、ここでいわゆる「三位一体」の神の存在、その中でも御子イエス·キリストへのヒントを得ることができます。以前、三位一体なる神のお務めについて簡単に説明したことがあります。(もちろんもっと複雑な概念だが)「御父は御心を計画し、御子は御心を成し遂げ、聖霊は御心を実現する。」だから、ヨハネが語った「生命の言葉」とは、神の御心を成し遂げられる御子なる神を指す表現でもあるでしょう。つまり、使徒ヨハネは1ヨハネの手紙の冒頭からイエス·キリストの存在意味について語っていたわけです。 2. イエスによる私たちの交わり 先に前置きでもお話しましたが、ヨハネが活躍していた小アジア地域には、様々な哲学思想や神学的な見解があふれていました。そのような思想と見解はキリスト教会の中にも入ってきて、多くの混乱をもたらしました。ユダヤ教的な思想でキリストの救いと貢献を軽んじ、教会の根幹を揺るがす者やギリシャ文化的な思想による誤ったキリスト認識でイエスの神聖を否定し、教会を乱す者もいたと言われます。ヨハネのもう一つの著作であるヨハネの黙示録から当時の状況を垣間見ることができます。「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。」(黙示録2:2~3)この言葉を通じて、(エフェソ教会を中心とする)小アジアに散らばっていたヨハネの教会共同体が情熱的に誤った思想(異端)と奮闘したことが分かります。今日、読んだ本文である1ヨハネの手紙は、まさにこのような誤った思想との闘いが一段落した後、小アジア地域の各教会を慰め、励ますために送った使徒ヨハネの手紙なのです。この手紙によって、ヨハネはイエス·キリストを通じて私たちの信仰の対象である主なる神と、また主の教会を成す兄弟姉妹たちと真の交わりができるようになると語っています。 当時、誤った思想をおもに語った人々は「イエスは神ではなく人間に過ぎない。あるいは、人間イエスには罪があり、神が人間イエスに霊を遣わしてくださっただけで、霊が離れたイエスは神の子ではない」と主張し、イエスの神聖を否定する場合もあったと言われます。しかし「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。」という言葉で、ヨハネはイエス·キリストが真に神ご自身であり、神の御心を成し遂げる方であり、真の教会の主であると、福音の中心を明らかに宣べ伝えています。イエス·キリストなしには教会も成り立つことが出来ないからです。日本は 「和」という価値を大事にする文化を持っています。できる限り、他人に迷惑をかけないで、互いに調和し、配慮して生きようとする良い文化を持っています。そのため、「和」という観点から隣人と仲良く過ごすことが多いでしょう。だからといって、そういう日本人のいい性質によって日本の教会の中でも、ただ仲良く付き合うべきとは言えません。教会はキリスト以外の民族性や理念によって交わりする共同体ではないからです。むしろ、教会は罪人が主の恵みによって集まった共同体なので、時々互いに異なる考えで混乱が起こり得る場所でもあります。しかし、ひとえにイエス·キリストおひとりだけを教会の中心とし、その方の神聖を認めて主の民として生きていくならば、多少、思想が異なり、主張が違っても、それがイエスを否定する誤った教えでない限り、教会はキリストという中心によって一つになり、交わることが出来るようになるのです。 3. イエスによって新たになる。 つまり、何よりも重要なのは、イエス·キリストの存在を認める信仰なのです。使徒ヨハネはその信仰によってはじめて、主なる神と信仰者の真の交わりがなされ、教会の兄弟姉妹の間に真の交りがなされ、それを通して、真の喜びが私たちの中になされると力強く語っているのです。時々、教会内に混乱が生じ得ます。兄弟と姉妹が互いにがっかりし、仲が悪くなる時もあり得ます。私たち皆に罪があり、どうしようもない弱い存在であるためです。しかし、主イエスのみを私たちの中心におき、自分のことを顧み、自分の考えをキリストの御言葉に基づいて改善していけば、私たちはキリストによって再び交わりあい、赦しあい、愛しあい、和解しあって生きてことができるようになるのです。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(1ヨハネ1:5~7) なぜならば、このキリスト・イエスが神の光を私たちに照らして私たちの中にある闇を追い出し、主による明るくて望ましい人生を生きていけるよう導いてくださるからです。 だからこそ、私たちは常にキリストを拠り所としつつ生きるべきです。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(1ヨハネ1:9)、自分が罪人であり、弱い者であり、闇の中にいる存在であるということを認め、主の御前に自分の罪を告白する時、真の神であり、命の言葉であり、神の光であるイエス·キリストが、私たちの罪を清め、神と教会の前で再び立つことができる機会を与えてくださるためです。私たちの交わりは、同じ思想、同じ民族、同じ主張によってもたらされるものではありません。私たちは互いに異なり、皆が弱い存在ですが、私たちを新たにしてくださるイエス·キリストがおられるゆえに、新しい機会をいただき、互いに赦し、愛し、交わることができるようになるのです。私たち教会の中心は牧師でも、長老でも、執事でも、ある特定の一人でもありません。私たちはひたすら神の生命の言葉であり、神ご自身であるイエス·キリストを中心に打ち立てられた共同体なのです。今年の私たちの信仰生活においても、イエス·キリストが真の中心となることを願います。中心となる主にあって、一つになり、真の良い交わりを味わって生きていく時に、私たちは主による喜びを享受するようになるでしょう。それこそが今日の本文である1ヨハネの手紙1章の、最も大事な教えではないでしょうか?

神の創造

創世記1章1 -2節 (旧1頁) ヨハネによる福音書1章1-4節(新163頁) 前置き 創世記を読みながら、私たちが必ず捕らえるべき点は、キリスト者の持つべき神中心的な世界観です。創造、堕落、贖いとった聖書の大きなテーマは、すべてのものが神のご計画の中に成し遂げられることを前提とします。もちろん、人間の堕落は、神の創造ではありませんが、そのような変数さえも、予測し、偉大な計画のもとで、救いを成し遂げていかれる神が、この世界のすべての物事を力強く支配しておられることが、創世記の主な内容であります。それを中心として、今日の話しを分かち合いたいと思います。 1.造り主なる神。 「初めに、神は天地を創造された。」(1) 聖書は、この世界が偶然に造られたわけではなく、神という絶対者によって創造されたと証します。この世界のすべてのものは神と呼ばれる唯一無二の存在により、設計、計画されて造られたのです。この言葉には、非常に深い意味があります。偶然に造られたものではなく、正確な計画によって、造られたので、その存在理由が明らかであるということです。虫の蚊、バクテリア、津波までも存在する理由があります。まして、神の創造の完成である人間にそれ以上の大事な存在理由があるということは明らかです。神の創造は、何から何まで、正確な計画と必要性を持っているのです。 今日の旧約の本文に「初めに」という言葉があります。この「初めに」という言葉は、一つ目に、文字通り「世界が初めて造られる、その瞬間」という意味です。「被造物が造られる前に、神のほか、何も存在しない時」という意味です。その意味から、私たちが分かるのは「無から有を創り出される神」への知識です。命も光もなく、ただの虚しさだけがある、何もない状態から、新しい命、光、世界を造り出される造り主、神についての知識を得ることができます。神は無から有をお造りになる方ですので、すべてのものの支配権を持っておられます。造り主は、すべてのものの主である神です。したがって、神は創造された私たち人間の所有者でもあります。ですので、神を知ること、神を信じることとは、この世の中に自分一人だけではなく、自分の始まりと終わりを知っておられる創造主が自分と共におられるということを意味します。 二つ目に「初めに」という言葉は、解釈によって「人が神の創造に初めて気付いた瞬間」という意味でもあります。神を全く知らなかった人が、御言葉によって、初めて神への認識を持つようになると、以前には無かった神への知識を持つようになります。その知識を通して、信仰が生まれ、神を真の造り主と信じるようになる際に、神は人の中に「神という存在を中心とする新しい世界」を造ってくださいます。つまり、神中心的な世界観という新しい秩序を与えてくださるという意味です。したがって、「初めに、神は天地を創造された。」という言葉は、「人が神に初めて出会ったとき、その人の中に神の世界が造られた。」という意味でもあるでしょう。神は世界を創造されたとき、無から有を造り出し、無秩序に秩序を与えてくださいました。ところで、そのような神の創造の御働きが、人が御言葉を通じて、神を信じようとする時、その人の中にも起きるのです。信仰の無い心に信仰が生まれ、秩序の無い人生に神を中心とする秩序が生まれるのです。 2.支配しておられる神。 したがって、創造は信者、未信者、自然を問わず、すべての存在に適用できる概念です。神は目に見える物理的な世界だけでなく、目に見えない霊的な世界をも造り、それらに神を中心とする秩序を与えられた方です。この秩序は、神を知らない人々が、どんなに否定しようとしても、否定できない明らかな事実です。また、神は、神を信じる人の中に、神を中心とする世界観、すなわち、キリスト者らしく世界を見る目と、神の支配を信じる心をくださり、神の秩序の中で生きようとする意志をくださいます。私たちは、これを「信仰」と言います。したがって、主なる神は神を知らないこの世と神を知る教会、両者すべてを治められる方です。神の支配は信者、未信者を区切りません。今日の聖書の本文である創世記は、このように造り主としての神の絶対主権を最も前に置き、聖書を始めます。このような神の絶対主権は、聖書66巻が終わる黙示録まで終わらないでしょう。神は天地万物を支配しておられる唯一の神です。そして、その神を崇める私たちはその支配を認め、その支配を世に広めなければならないキリスト者なのです。 2節の言葉をもう一度お読みします。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(2) ある人たちは、「神の創造が始まってもいないのに、どうして地があり、混沌と闇があり、深淵と水があり得るだろうか。」と問い掛けてきます。確かに創造の前には何もなかったのに、一体どうしたのでしょうか?私たちは、聖書を読む際に、単なる歴史的な感覚で、ただの事実の記録だと思ってはなりません。聖書は歴史というより聖書記録者の信仰告白の記録であるからです。だから、信仰告白の側面から、聖書を読む必要があります。もちろん、聖書に歴史的な事実も含まれているのは、変わらない事実でしょう。しかし、聖書は、古代の文学形式に応じて書かれた記録ですので、文字、そのままではなく、文字に含まれている意味を読み取る必要があります。混沌、闇、深淵、水などは「神が世界を造られる前に、この世に秩序も、何もなかった。」という文学的な表現です。当時の人々が持っていた漠然とした不安と虚しさの表現が、この「混沌、闇、深淵、水」なのです。 アブラハムの故郷、ウルは古代の代表的な都市でした。そこは異邦の神に仕える巨大宗教都市でした。当時、ウルには大きい川があり、時々、大きい雨が降れば、水が増えて洪水になりました。この洪水は田んぼ、畑、建物、生物を問わず、すべてのものを呑み込む恐ろしい存在でした。古代に、洪水、すなわち、水は、命と直結するものでした。ですが、また、水による洪水に覆われ、友人、家族、財産を失ってしまいました。水は生と死を司る絶対的な存在でした。ところが、このような洪水でさえ、最終的にはアラビア海に流れました。なので、古代世界で海というのは、洪水も支配する恐るべき存在だったのです。今日の本文の混沌、闇、深淵、水などは、全部、洪水、海などと関わりがあるのです。ところが、そのような混沌、闇、深淵を象徴する水の面を動いておられる神、それらに秩序を与え、新しいものを生み出される神という存在がおられるというのは、神の絶対性を端的に表現することでした。今日の創世記の言葉は世界を造られた神が、死と虚しさも支配しておられる方であることを宣言しているのです。つまり、主なる神が生と死、秩序と無秩序、すべての物事を支配しておられる絶対者であることを明らかにしているのです。 締め括り 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ福音1:1) ヨハネによる福音書は、初めに世界を造られ、秩序を与えてくださった神が、他のものではなく、神の御言葉を通して、その創造を成し遂げられたと示しています。ここで「神の言」とは、神の御意志、御心、御計画などを意味します。神の創造は、ただの気まぐれ、または無秩序な行為ではなく、徹底的に神の計画と意志によって行われたものです。したがって、神はこの創造を通して、神の意志を世界に示されたのです。ただし、人間の罪のゆえに創造の世界に大きな汚れが生じてしまいましたが、真の神の言葉、すなわち世界への神の善い御心そのものである「イエス・キリスト」によって、罪の問題はすでに解決され、終わりの日の神の裁きだけが残っているのです。ですから、私たちは世界を創造し、秩序を与えてくださる神、最後まで支配される神を待ち望み、その主なる神の御心に適う生活を続けるべきでしょう。神の創造とは、すでにこの世界のすべてのものが神の導きの中にあることを意味するものであり、最後まで私たちが付き従っていかなければならない絶対的な価値であります。このような創造の本当の意味を覚えつつ、キリストにあって、神の御心に聞き従う私たち志免教会であることを願います。

主に望みをおく人

イザヤ書40章27~31節(旧1125頁) フィリピの信徒への手紙4章11~13節(新366頁) 前置き あけましておめでとうございます。新しい一年を始める時期になりました。新年をお許しくださった主なる神に感謝いたします。皆さんも主の恵みのもとに心身ともにお元気に過ごされますよう祈ります。今年の志免教会の主題聖句は「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」(イザヤ40:31)です。昨年、私たちは本当に大変な時期を過ごしました。今年になってもさまざまな理由で、辛い時を過ごす方もおられると思います。しかし、主は私たちが喜ぶ時も悲しむ時もいつも私たちと共におられ、一人ぼっちに放っておかれず、助けてくださる方です。どんな苦境があっても、私たちと共におられ、慰めてくださる主を憶えつつ今年を生きていきたいと思います。 1. 神の時間と人の時間 数年前、時間を意味するギリシャ語、クロノスとカイロスについて話したことがあります。クロノスは客観的な時間のことで、例えば、「主日礼拝は午前10時15分に始まる。教会から家までの距離は車で10分くらいかかる。」のように誰にでも与えられる客観的で物理的な時間を意味します。また、カイロスは意味を持つ主観的で抽象的な時間のことで、例えば「あなたと私の大事なひと時。その時間は思い出になった。」のような時空間を超える意味ある時間を意味します。永遠を司っておられる主なる神は、クロノスもカイロスも支配しておられる方です。主は昨日と今日と明日、1時間、2時間、3時間といったクロノスの中でも働いておられる方ですが、主によって意味を持ったカイロスの時間の中でも働いておられる方です。キリスト者である私たちにとって代表的なカイロスの出来事は何でしょうか? それはキリストの十字架の救いの出来事です。2000年前、エルサレムで起こった主イエスの十字架での時間は、その後すべての時間に影響を及ぼす唯一無二で移り変わりのない「意味ある時間」になりました。主はその意味ある「十字架の救いの出来事」を通して、2000年経った今でも罪人を救ってくださいます。つまり、主は過去の意味ある時間(カイロス)を用いられ、現在の物理的な時間(クロノス)の中でも働かれるのです。 つまり、主なる神は時間にとらわれないということです。神は物理的な現在の時間の中で、2000年前の意味ある時間である十字架の救いの出来事を道具として使われます。したがって、クロノスに束縛され、カイロスはただ過去の思い出や良い記憶としてしか使えない私たちは、二つの時間を超える主なる神の御心と御業を完全に理解することが出来ない限界を持っています。そのため、主は今日の旧約本文で、このように語られたのです。「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されていると、わたしの裁きは神に忘れられたと。あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。」(イザヤ40:27-28) 昔、イスラエルは偶像崇拝の罪を犯し、神に逆らってアッシリアとバビロンといった巨大帝国に次々滅ぼされました。時間が経ち、主はイスラエルの回復を約束されたが、彼らの子孫は民族と国を早く回復させてくださらない主に向かって疑いを抱えるようになりました。なぜ自分たちを早く助けてくださらないのかと思ったわけです。クロノスを生きる彼らは、祈りに答えがなく、民族の衰退にも、助けてくださらないような神に疑問を表しました。そのために「わたしの道は主に隠されている。わたしの裁きは神に忘れられた。」と言ったわけです。 しかし、主なる神は言われました。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。」クロノスに束縛されない主なる神、すべての上におられる創造主なる神は、絶えず賢くすべての物事を成し遂げていかれると語られます。つまり、神の時間の中で、主は変わらず働き導いておられますが、限界のあるイスラエルはそれに気付くことができず絶望しているという意味でした。そのような人間の愚かさにもかかわらず、主なる神は限界ある人間が無能であっても、彼らを助け導いていくと言われました。今年の志免教会の主題聖句は、それらの背景知識を持って読む必要があります。主なる神に願いをかければ、無条件、すべてがうまくいくという意味ではありません。神の時間は人の時間と違います。だから、私たちの立場からは苦しくて大変である時でも、主なる神は変わらず働いておられるということを信じ、主の御心に常に希望を置いて生きるべきということです。そのように主を待ち望んで生きれば、主が必ず力を与え助けてくださるということです。したがって、私たちは自分の短い時間に束縛されず、すべてを支配しておられ、導いてくださる、主なる神の長い時間を憶え、主への信頼と信仰によって一日一日を生きていかなければなりません。 2. わたしを強めてくださる方のお陰で だから、私たちの祈りに早い答えがなく、さらに私たちの願いが主に受け入れられないと思われる時、落胆しないようにしましょう。時々、私たちは主にあまりにも当たり前のように答えを求めているかもしれません。主のご計画と御心があるにもかかわらず、自分の必要だけに心を奪われ、早く答えてくださらないとがっかりしてしまい、信仰が弱くなる場合もしばしばあります。まるで、神に自分の願いと答えを預けておいたのに、神が返してくださらないかのように行動するのです。しかし、主なる神は私たちの祈りにプレゼントとして答えるサンタクロースではありません。神は私たちの真の父であり、真の主です。父親に当たり前に何かを要求するのは、成人した人にふさわしくない行動です。今日の新約本文を読んでみましょう。「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:11-13) 多くのキリスト者が「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」というこの言葉だけを覚えているかもしれません。「私に力をくださる主によって私は何でもできる。」と肯定的な信仰で生きようとする人々にインスピレーションを与える言葉であるかもしれません。しかし、私たちは聖書を読むとき、一行の文章だけを取り上げて文脈なく利用してはなりません。少なくとも一つの段落を確認しながら全体的な意味を読み取らなければなりません。今日の新約本文の文章を解き明かすと、次のようになるでしょう。「私はどんな状況におかれても満足することを習い覚えました。貧しい時も豊かな時も私に大きい変化はありません。貧しさにも豊かさにも揺るがないすべを主に教えていただいたからです。私を強めてくださる方のお陰で、私はそれが出来るようになったのです。」つまり、主が答えてくださっても、されなくても、自分のことがうまくいっても、いかなくても、そのすべてを超えて主を信じる力をいただいたから、著者はすべてのことが可能であるという意味なのです。神の時間は、人の時間と違います。だから、私たちの願う時間に神の答えが届かない可能性もあります。けれども、主のお導きに信頼すること、主の御心を待ち望むこと、それらこそが主に望みをおく人のあり方ではないでしょうか。 締め括り 昨年、志免教会において、さまざまな試練がありました。まだ試練の中にいる方々もおられるでしょう。苦しみや悲しみの時間を過ごす方々がおられるでしょう。しかし、その時間さえも主なる神のお導きの中にあることを忘れてはならないでしょう。私たちは、主である神の時間の中に属した存在です。ですから、自分が望む時間に願いが叶わない時もあるかもしれません。キリストによって救われた私たちは、むしろ主が自分の願いを叶えてくださっても、くださらなくても、早く答えがあっても、答えが遅くなっても、主なる神という存在自体に希望を置いて信仰と忍耐とで生きるべきでしょう。主は私たちがそのように信仰と忍耐によって生きることができるように、いつも言葉を通じて力を与え、励まし、共にいてくださる方です。今年も主なる神への変わらない信仰と忍耐と感謝で、主の民に相応しく生きる私たちでありますよう祈り願います。

喜びと祈りと感謝の生活。

イザヤ書41章10節(旧1126頁) テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節(新379頁) 前置き 今年、志免教会は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」 (1テサロニケ5:16-18)を主題聖句としました。主のもとで、いつも喜び、祈り、感謝する日々を生きる志免教会であったらとの思いで、この言葉を決めたのですが、むしろ今年は喜びと感謝で生きづらい、さまざまなことがありました。そこで、今年の主題聖句を、これにしたため「主に試みられているだろうか、私のミスだろうか」と後悔する時もありました。ところが、改めて考えてみると、喜ぶことも、感謝することも難しい一年ではあったが、それによって祈るようになったと気づくことになりました。私たちのことがうまくいけばいくほど、喜びと感謝はしやすいが、切な祈りは減っていくと思います。しかし、つらければつらいほど、祈りにもっと力を注ぐようになります。そんな理由で、今年いろいろ大変なことがありましたが、私たちは祈りに力を注ぎながら今まで歩んできました。もしかしたら、今年の主題聖句の喜びと感謝を実践しつつ生きることは難しかったもしれませんが、少なくとも、神への祈りという大事な一つは教えていただいたのかもしれません。 1. イエスを信じているのにつらいことが起きる理由。 人によって信仰の経験がそれぞれ異なると思いますが、非常に強烈な霊的経験をする人もしばしないます。夢でイエスに会ったり、祈り中に主の声を聞いたり、大きな交通事故に遭ったが全く怪我をしなかったり、邪悪な霊的存在と祈りで闘ったり、極上の喜びを経験したりするなど、不思議なことを経験する人も世の中にはきっといるでしょう。私も回心したばかりの時、そのような経験がありましたが、イエスによって極上の喜びを感じることでした。数年間さまよい、30歳に主のもとに立ち帰り、回心し、主の民として生きようと誓ったころでした。その2年後に神学校に入学したので、その経験で牧師の道を歩むようになったのかもしれません。とにかく、その当時は今後何の心配もなく、すべてがうまくいき、永遠に幸せに生きるだろうと思いました。主がが私の憂いと悲しみと苦しみをすべて除去してくださると思ったからです。しかし、その経験は一ヶ月も続かず、霊的な興奮はおさまりました。その後、神学校入学のために毎日公共図書館に通いながら聖書と教理書を読みました。一年間聖書を10読もしました。そして母教会の青年礼拝と祈祷会にも毎週出席し、教会生活に頑張りました。その1年後、自分自身を振り返った時、私はまた心配の中に生活していました。1年前の喜びに満ちた私の姿はどこにもありませんでした。 その時、私には一つの疑問がありました。イエスを信じるのに、なぜまた心配しているだろうか? イエスを信じるのに、ことがうまくいかない人はなぜだろうか? イエスを信じるのに、苦しい人がいる理由はなぜだろうか? 母教会の青年たちの中には誠実に信仰生活するにもかかわらず、心配に満ちた人、すべてがうまくいかない人、さまざまな事情で苦しんでいる人がいたからです。なぜ、私たちはイエスを信じているのに、悲しみと苦しみと挫折を経験するのでしょうか? 初代教会にもこんな悩みを抱えている人たちがいたようです。今日の新約本文の背景である古代テサロニケ教会には、いわゆる千年王国がすでに臨んでいるので、主なる神を信じる者には平和と安定だけがあり、迫害と苦難の中にいる者は主を正しく信じず、間違った信仰を持っていると主張する偽りの教師たちがいたようです。そのような理由で、テサロニケ教会の人々の中には、自分の信仰が果たして正しいかどうかと疑い、彼らの主張に心を奪われる人もいたようです。イエスを信じているにもかかわらず、依然として心配と苦しみを感じる私たちのように、その時の人々にも同様の悩みがあったわけです。 2. 苦難は祈りをもたらす。 しかし、私たちが知っておくべきことは、イエスを信じるからといって、この地上での私たちの憂いと悲しみと苦しみが完全に消えるわけではないということです。多くの人々が主イエスが自分のすべての憂いと悲しみと苦しみをなくしてくださるだろうと誤解します。しかし、現実は違います。なぜ、主は私たちの憂いと悲しみと苦しみをなくしてくださらないのでしょうか? 一つ、主なる神は人間の感情に無理やりに立ち入り、まるで操り人形のように操る方ではないからです。もちろん、神は私たちの真の親なので、ご自分の民が憂いと悲しみと苦しみで悩んでいることを放っておかれる方ではありません。しかし、喜怒哀楽は人間を人間らしくする人間の一部です。何の感情もなくただ喜びばかりであるなら、それは麻薬と同じなのでしょう。二つ、主の民は、この世と反対の価値観の存在だからです。魚は川や海の水の中に生きなければなりません。魚が水の外に出てくると、苦しみは当たり前でしょう。私たちは御国に属した存在ですが、世の権勢が支配する地上で生きています。御国の民である私たちは、この世を生きながら盲目的に喜びと幸せだけで生きることができません。キリスト者なら、この世と異なる価値観によって苦しむのが正常です。 三つ、人間の罪は、憂いと悲しみと苦しみをもたらします。私たちが生きるこの世は、創造の時のエデンの園ではありません。初めての人間が神に逆らう罪を犯した結果は残酷でした。長男が次男を殺し、子孫たちは代々憎しみあい、対立しました。男は苦労して働かなければならず、女は出産の苦通を経験しなければならないという創世記の言葉で、聖書は人間の罪によって憂いと悲しみと苦しみの種が生まれたことを示しています。人間の罪がある限り、この世を生きるすべての存在は、憂いと悲しみと苦しみから完全に自由になることは出来ません。最後に憂いと悲しみと苦しみがあるからこそ、主なる神を探し求めるようになります。立派な親は、子供の要求をすべて聞いてくれるわけではありません。許可する時もありますが、断る時の方がさらに多いです。無条件の許可は子供の教育に良くないからです。時々、主は私たちの生活に憂いと悲しみと苦しみを許され、早く解決してくださらない時もあります。しかし、信仰のある人ならその状況でしばらくは戸惑うかもしれませんが、結局は祈るようになります。主なる神に力がないので、私たちの憂いと悲しみと苦しみを放っておかれるわけではありません。逆境の中で祈り、主を求め、信仰が成長するようにしてくださるために主は憂いと悲しみと苦しみを用いられるのです。 3. にもかかわらず、喜びと感謝とで生きる理由 私たちは主の救いによって永遠という人間がはかり知ることのできない恵みの中に入っています。イエス·キリストの救いによって永遠の命が与えられているからです。つまり、この地上での人生が私たちのすべてではないということです。私たちは主と共に時空間を超越する神のご統治の中で永遠の命の中に生きるようになるでしょう。この地上での憂いと悲しみと苦しみも同じです。青年時代の労苦が老年には思い出になると同じように、この地上での憂いと悲しみと苦しみも永遠の中では極めて小さなことと記憶されるでしょう。キリスト者はその永遠の命を信じて生きる存在です。すでに永遠に入っている私たち、それでも私たちはこの世を去る時まで、ここで生き続けなければなりません。そのため、この世で経験する憂いと悲しみと苦しみは、私たちがこの世を去るまで私たちについてくるでしょう。その都度、私たちは挫折するのでしょうか? 主は私たちがすべての憂いと悲しみと苦しみの中でも私たちを絶対に見捨てられない御恵みを憶え、信仰によって生きることを望んでおられます。だから、キリスト者はいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して生きるべきです。聖書はそれこそが私たちへの主の御心であると語っているのです。この世の苦しみとは比べ物にならない真の喜びと平和が、主によって私たちの永遠の中にすでに与えられているからです。 締め括り 「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ41:10)私は、今年の牧会は完全に失敗だと思いました。皆さんにも無力な姿を度々お見せして申し訳なく思います。皆さんにとっても2024年は厳しい1年だったと思います。しかし、私たちは今もなおここで主なる神に礼拝を捧げています。喜びと感謝は例年よりは少なかったかもしれませんが、私たちは祈り続けてきました。そして、私たちの憂いと悲しみと苦しみの中でも移り変わりのない主が私たちと共にあゆんでくださいました。主は私たちといつも共におられ、永遠に一緒に生きておられるでしょう。新年を迎えている今、私たち共におられ、支えてくださる主を憶え、喜びと祈りと感謝とで生きる私たちでありますように祈り願います。

天には栄光、地には平和。

ルカによる福音書2章8~14節(新103 頁) 前置き 今年も無事に今まで過ごし、クリスマスを迎えています。今日は主イエスのご誕生と再臨を待ち望むアドベント(待降節)の第4主日であり、主イエスのご誕生をお祝いするクリスマス記念主礼拝の日でもあります。クリスマスが近づいてくると、近場のイオンモールや博多駅、天神の街には、華やかな飾り付けがいっぱいになります。日本ではクリスマスが祝日ではありませんが、多くの人々がクリスマス気分を満喫するために家族、恋人、友人と一緒に時間を過ごします。コンビニではクリスマスケーキの注文を受け付けており、あるチキン専門店では「クリスマスはフライドチキンを食べる日」と宣伝しています。しかし、キリスト者である私たちは、クリスマスがただ人々の楽しみのための日ではなく、人類の罪を赦し、永遠の死から救うためにこの地上に来られたイエス・キリストのご誕生を記念する日であるということを忘れてはなりません。今日はルカによる福音書の御言葉「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」を通じてクリスマスの意味について考えてみたいと思います。 1. 主イエスのご誕生の夜 ローマの皇帝アウグストゥスが支配していた時代、皇帝はローマ帝国と植民地のすべての住民に戸籍を登録せよと命じました。イスラエルの昔の王ダビデの子孫だったイエスの両親は戸籍登録のためにダビデの村である「ベツレヘム」へ足を運びました。イエスの母親は臨月の体でイエスが生まれるのを待っていました。その頃、ベツレヘム地域の羊飼いたちが、夜、外で羊を守っていました。ベツレヘムは山地なので、かなり寒いところでした。その夜、羊飼いたちは忽然と現れた主なる神の天使を見るようになりました。彼らが恐れると、天使は言いました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ福音2:10-11) その時、さらに多くの天使の大軍が加わり、いと高き神とその日お生まれになった御子を賛美しました。天使たちが消えると、羊飼いたちは赤ん坊として生まれた救い主(メシア)イエスのご誕生を見るためにベツレヘムに向かいました。 多くの人々が戸籍登録のためにベツレヘムに来ていたので、イエスの両親は泊りを見つけることができませんでした。それでやっと普通の家の馬小屋で一晩を泊まることとなりました。そういうわけで、神の子は寒い冬の夜、王宮ではなく家畜が寒さを避ける馬小屋にお生まれになったのです。なぜ、イエスは華やかなエルサレムの王宮ではなく、小さな村ベツレヘムのみすぼらしい馬小屋に生まれられたでしょうか? 羊飼いたちに現れた天使が言ったように「民全体に与えられる大きな喜び」つまり、救いの福音を伝えてくださるためでした。イエスはお金持ち、権力者、身分の高い者が中心となるこの世の中で、貧しい者、弱い者、病んでいる者にも慰めと愛の良い知らせを伝えてくださるために、最も高いところから、最も低いところに来られたのです。そんな理由で、主なる神の天使たちも貴族や権力者ではなく、当時のイスラエル地域で最も身分の低い階層だった羊飼いたちに一番先に現れたのかもしれません。イエスは人生の思い煩いと疲れの中で苦しんでいるこの世のすべての人々のために最も低いところに来られたわけです。そして、主なる神の栄光と人々の平和のためにご自分のすべてをささげられたのです。クリスマスは、このイエスのご誕生を憶え、記念する日です。主イエスは、私たちと隣人とすべての人々を愛しておられるため、寒くてみすぼらしくて低いところに喜んで来られたのです。 2. 天には栄光 イエスは天には栄光を、地には平和を与えるために来られました。本文には「いと高きところ」と記してありますが、天に解釈しても問題ありません。古代イスラエルの世界観において、天とは、人間が至ることのできない偉大な神の領域を意味しました。天使も、悪魔も、人も、天に至ることは絶対に許されていなかったのです。つまり、天は、主なる神の権勢を意味し、神の存在そのものを意味すると言える象徴だったのです。ところで、主イエスは、その天の神に栄光を帰すためにこの世に来られました。「栄光」とは何でしょうか? 私たちは栄光という漢字語を目にすると、明るく輝く何かを思い起こしやすいです。実際にも、そういうイメージの漢字語です。しかし、聖書が語る栄光はそれとは少し異なります。聖書が語る「栄光」とは「ある存在がその存在として最もふさわしい完全な姿でいるさま」を意味します。例えば、生徒なら、学校で熱心に勉強し、友達と仲良く生活し、自分の未来のために準備することが光栄です。教師なら、生徒を愛し、誠実に教え、指導することが光栄です。牧師なら、聖書の御言葉をありのままに研究して説教を作り、伝え、誠実に牧会することが光栄です。キリスト者なら、イエスを堅く信じて主なる神の御心に聞き従って生きることが光栄です。聖書における栄光とは「ある存在がその存在として最もふさわしい完全な姿でいるさま」を意味する言葉なのです。 それでは、「神の栄光」とは何でしょうか。創造主である神が、この世のすべての被造物に絶対者として讃美と礼拝を受けられることです。その方おひとりだけが真の主だからです。しかし、この世は罪によって創造主から離れてしまいました。特に人間は本能的に主の支配のもとにいるのを嫌い、自ら主のようになろうとする性質を持っています。このような世の中で神がこの世の人々から讃美と礼拝をされ、絶対者として崇められるのはあり得ないことです。しかし、主イエスのご到来とその方の救いを伝える福音により、罪人たちも「創造主」神の存在が認識できるようになりました。そして、主の恵みによって特別に選ばれた者たちは、神を信じる信仰が与えられ、その方の民として生きるようになります。このような神の民によって人々は神について聞くようになり、神を信じる人々がさらに増えていきます。その中で最初の教会も打ち立てられたわけでしょう。主イエスの存在によって神と完全に遠ざかってしまったこの世の人々は、神に近づくようになります。そして、主イエスはご自分の犠牲と恵みとで罪人の罪を赦してくださいます。したがって、神と人をつないでくださる主イエスの存在のため、神が神として主の民に賛美と礼拝され、神らしくおられるようになります。 3. 地には平和。 このイエスは、また地には平和を与えてくださる方です。聖書の御言葉に基づいて正確に言えば「地上にいる御心に適う人への平和」です。先に申し上げたように、古代イスラエルの世界観において、地は人間の領域を意味します。神の創造通りの罪ない人間ではなく、罪によって堕落した罪人としての人間が生きるところです。そのため、地は憎しみと妬み、対立と葛藤、競争と戦争が絶えないところです。「PAX ROMANA」という言葉があります。「ローマの平和」を意味するラテン語です。このローマの平和は、みんなの平和ではありませんでした。ローマが平和であるためには、周辺の国々を征服して植民地にしなければなりませんでした。沖縄はもともと琉球王国で、日本に属する地域ではありませんでした。しかし、日本の平和のために薩摩藩が征伐し、日本に編入してしまいました。今でも日本国内の米軍部隊の8割が沖縄県内に集中しているそうです。日本の平和のために、沖縄は軍事基地化されているのです。誰かの平和のために誰かが犠牲になるのは、真の平和ではありません。それは戦争と競争の結果による弱肉強食の発露です。この世は平和を望んでいません。誰もが平和であれば、権力者は自分の利権を享受できないからです。そのため、権力者は口先では平和を語りながら、実際には平和を望んでいないのです。 しかし、主イエスは違います。この世は既得権者のために弱者を犠牲にし、偽りの平和を語ります。しかし、この世のすべてのものの主であるイエスは、むしろ弱い者のためにご自分を犠牲にされました。「敵を愛しなさい、隣人を愛しなさい。罪人の救いのために私は死ぬ。」自分の欲望ではなく、他者の平和のために、主イエスは喜んで十字架で死んでくださったのです。このような主イエスの生き方が、その方の民である私たちにも求められています。人はもともと神と敵として生まれます。しかし、神の敵には永遠の裁きが与えられるだけです。しかし、イエスは罪人を救い、神の敵ではなく子供であり民であるように身分を変えてくださいました。そのために主イエスは、私たちの罪を担い、私たちに代わって十字架で死んでくださったのです。イエスがこの世に来られ、人間の罪を完全に赦し、神の敵という身分を完全に抹消してくださるのです。イエスによって神と私たちの間に平和が生まれたのです。そのため、私たちはこの神の民としてキリストが伝えてくださった真の平和を世の中に伝えながら生きるべきです。神と隣人を愛し、力ある何人かの平和ではなく、皆の平和のために生きていかなければなりません。神はこの世のすべての人がご自分の御心に適う者になることを望んでおられます。世のすべての人がそうなりますように主イエスは今でも執り成しておられます。 締め括り クリスマスの本当の主人公はイエス·キリストです。クリスマスという言葉そのものも、キリストを礼拝するという意味のラテン語に由来しました。神の真の栄光のために、そして、この世のすべての人々の真の平和のために主イエスはお生まれになりました。クリスマスを通じて、家族、親戚、友人と幸せな時を過ごされますように祈ります。しかし、何よりも大事なこと、主イエスこそが私たちの罪を赦し、救ってくださるために、この世のすべての人々を愛し、慰めてくださるために、神と罪人の間の真の和解のために来られたことを憶えつつ、このクリスマスを迎えましょう。