聖霊と教会

ハガイ書2章1-9節(旧1477頁) エフェソの信徒への手紙2章14-22節(新354頁) 前置き キリスト教会は、御父、御子、聖霊の三位一体なる神を信じます。すべてを計画される父なる神と、神と人を執り成してくださる御子イエス・キリストと、教会と世界を導いていかれる聖霊、三位が一つになって三位一体の神である方です。しかし、私たちには、おもに父なる神と御子にだけ集中する傾向があって、聖霊に対しては見過ごしがちではないかと思うようになります。私たちは普段、聖霊について、どんな認識を持っていますでしょうか。実際、御父や御子に比べて、聖霊への認識は薄くありませんか。毎年聖霊降臨節(ペンテコステ)を記念していますが、私たちの日常生活において、聖霊はどのように位置づけられていますか。聖霊なる神と、そのご降臨について話してみたいと思います。 1.聖霊のご降臨 主イエスは、十字架で救いを成し遂げられた後、3日目、復活されました。復活された主は40日間、12弟子と主の人々に現われ、ご自分の復活を証明され、福音の伝道を命じられ、昇天されました。それにより、弟子たちは主イエスが本当に復活の主であることを信じるようになりました。弟子たちは主の不在を恐れながらも、御言葉に従い、命令通りに行いました。その命令とは、主の約束つまり聖霊の降臨を待つことでした。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1:4-5) 生前の主イエスは、繰り返し聖霊の降臨を予告してくださいました。 使徒言行録によると、聖霊が来られれば、主の民が神に力をいただき、地の果てに至るまで主の証人になると記されています。そして、その結果、聖霊によって主の教会が打ち立てられました。 主の昇天後の10日間、弟子たちは主の約束、聖霊の降臨を待ちながら力を尽くして祈りました。ペンテコステの日、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らがいる家中に響きました。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。すると、一同は聖霊に満たされ、ほかの国々の言葉で語り始めました。聖霊に満たされたペトロは、前のような恐れではなく、確信に満ちてイエス・キリストとその福音を堂々と宣べ伝えました。そして、その日、彼の伝道によって3000人がイエスを信じるようになりました。主の教会はこのように聖霊の降臨から始まりました。主イエスが繰り返して予告された聖霊の登場は弱い信仰を強め、不信を信仰に変え、また、主の福音を地の果てまで伝える原動力となりました。そのすべては、聖霊の降臨からはじめて実現したのでした。 2.聖霊の正体 聖霊はどのようなお方なのでしょうか。聖霊はヘブライ語では「ルーアッハ」ギリシャ語では「プニュマ」と言います。いずれも「風、息」を意味します。主なる神の霊である聖霊は、人間が触れることも、見ることもできない超越的な存在です。しかし、風が見えなくても存在するのと同じように、聖霊は主の民と共におられる方です。聖霊はまるで風のように人間のコントロールを超える方です。時には、そよ風のように優しい方で、時には嵐のように力強く働かれる方です。聖霊は創造の前から御父、御子と共におられた神で、創世記1章でも現れる方です。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(倉1:2)また、聖霊は息のような方です。生き物が呼吸して生命をつないでいくように、聖霊はキリスト者に主による御言葉と信仰、生命を与えてくださる方です。聖霊を通じて生命の主であるキリストを知るようになり、信じるようになり、日常生活において主の御言葉に聞き従って生きるように導いてくださいます。 初めの混沌と暗闇と無秩序の世界に秩序と生命を与えてくださったように、聖霊は地上のキリスト者に信仰と生命と秩序を与えてくださる生命の息のような方なのです。聖霊は教会と切っても切りはなせない方です。御父と御子がなさる、すべての働きが聖霊によって成就します。イエスは頭、教会は体という教会のあり方も、主イエスと私たちを一つに結び付けてくださる聖霊のおかげで成立するのです。私たちの聖書も各時代の預言者たちが、聖霊の導きによって書き残された御言葉の記録なのです。聖書を読む時の悟りも、説教も聖霊によるものです。国籍が異なる人々が、一つの心を持って礼拝する理由も、聖霊によって一つになったからです。もし、聖霊の降臨が無かったら、2000年前に打ち立てられたキリスト教会は100年も経たないうちに消えてしまったでしょう。しかし、御父と御子から遣わされた聖霊のお導きによって、教会は2000年の歴史でも健在に続いてきたのです。 3.教会を保たせてくださる聖霊 今日の旧約本文は、この聖霊なる神が旧約時代にも主の民と共におられ、働かれた方であることを示しています。「今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると万軍の主は言われる。ここに、お前たちがエジプトを出たとき、わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。(ハガイ2:4-5) 聖霊は初めからおられ、旧約時代の神の民とも常にいてくださった方です。イスラエルという国が滅び、主がいらっしゃらないように感じられた時も、聖霊は移り変わりなくいつも民と共におられました。それでは、このように旧約時代から存在しておられた聖霊が、なぜペンテコステに再び臨まれたのでしょうか。これは、これまで不在だった聖霊が、新しく臨まれたという意味ではなく、常におられた聖霊がキリストの新約の教会を打ち立ててくださるために、改めて働き始められたと理解するのが正しいでしょう。初めから常におられた聖霊が、主イエスの十字架での贖いと復活によって建てられた主の教会を支え、保たせてくださることを示すために降臨という出来事を起こしてくださったということでしょう。 このように、新約の民、すなわちキリスト者に臨まれた聖霊は、聖書を通じて現れる主の御言葉を私たちに教えてくださる方です。また、キリスト者に「御心に聞き従おう」とする聖なる熱望をくださる方です。聖霊はキリストへの信仰をくださり、神と隣人への愛を起こしてくださる方です。このように主の教会がキリストを中心にし、しっかりと建てられるように、聖霊は教会を助けてくださる方です。そういうわけで、主イエスはヨハネによる福音書を通じて「助け主」聖霊が来られると力強く予告してくださったわけです。聖霊なる神は、時空間を越えて、いつまでも、キリストの民である教会と共にいてくださるでしょう。したがって、主イエスの教会がある場所には、かならず聖霊が一緒におられます。「(教会は)使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:20-22) 締め括り 聖霊なる神は絶対に遠くにおられる方ではありません。聖霊は常に私たちの中におられ、私たちが感じるにしろ、感じられないにしろ、私たちを導いてくださいます。ペンテコステ(聖霊降臨節)を迎え、私たちの間におられる聖霊なる神を憶え、御父、御子だけでなく、聖霊まで、三位一体なる神が私たちの主であり、私たちを守ってくださる方であることを信じ、感謝をささげる志免教会になることを祈り願います。

主に栄光を帰す生活

歴代誌上16章28-29節 (旧651頁) ローマの信徒への手紙11章34-36節(新291頁) 前置き 聖書には、主に栄光を帰すという言葉がよく出てきます。日本ではほとんどないかもしれませんが、アメリカや韓国のようなキリスト者の多い国では、年末の授賞式などで「この栄光を主に帰します。」というふうの感想を言うキリスト者の俳優や歌手もいます。私たちもキリスト者として生きながら、一度以上、主に栄光を帰すという言葉を口にしたことがあるでしょう。主に栄光を帰すというのはいったいどういう意味でしょうか。そして、主に栄光を帰す生活とは、どんなものなのでしょうか。今日は「主に栄光を帰す」という言葉の意味とその生き方について話してみたいと思います。 1. 栄光を帰すという言葉の意味 「諸国の民よ、こぞって主に帰せよ、栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて御前に近づき、聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。」(歴代誌上16:28-29) 若いころの数多くの逆境と苦難を乗り越え、堂々とイスラエルの王になったダビデは、自分の宮殿を建てた後、一番最初に主なる神の幕屋と掟の箱を置く場所をもうけました。彼は主の掟の箱を自分の宮殿に運びながら、心から喜び踊りました。その時、ダビデは先ほどの讃美を歌いました。「主に栄光を帰せよ」と繰り返し歌いました。今までの危険の中で自分の歩みを守ってくださり、イスラエルの王に立たせるという約束を守ってくださった主なる神に最高の賛美をささげようとしたダビデの真心をこめた歌だったのです。ヘブライ語で栄光の語源は「重い」に由来しました。 漢字語のように栄誉ある光を意味するより、軽くなく厳粛で威厳のある価値により近い表現です。当時、ヘブライ文化では鉄のような重い金属が大きな価値を持っていたと言われます。その重さによって、その価値がさらに上がったそうです。ですから、「重いものは価値あるもの」という認識が一般的だったようです。そういうわけで主なる神の栄光も重いものではないかと思ったわけです。この世で一番重くて価値あるものが、主なる神の栄光であると思ったのです。 主なる神の栄光は、ひとえに主だけのものです。主はその栄光を誰とも分けられない方です。いや、分けようとしても、その栄光を受けて自分のものにすることができる存在は、この宇宙に存在しません。したがって、この主の栄光は、唯一主なる神だけが持つことができる栄誉なのです。主だけが持つことの出来るものを主に返すという言葉、罪によって汚され堕落したこの世の中で、数多くの偶像と自らを神とする数多くの罪人の間で、ただ、聖なる神だけを主と崇め、その方だけを万物の主として認めること、それこそが主に栄光を帰す人生のあり方ではないでしょうか。したがって、私たちの人生において、主に栄光を帰すということは、主なる神が主として完全におられるように、自分の人生のすべてを主中心に生きることを意味します。この世は、主なる神を軽んじます。主を無視し、認めようとしません。特にキリスト教の影響が著しく貧弱なこの日本ではなおさらです。しかし、私たちは主イエスのお導きと恵みによって、主の言葉を聞くようになり、御言葉によって主なる神という存在を認識し、信じるようになりました。それによって、私たちは主だけが私たちの真の主であり、父であり、私たちのすべてであることを知るようになりました。その主なる神の御言葉に従って御心のままに生きること。「主に栄光を帰しながら生きる人生」は、その主の御言葉に従順に聞き従うことから始まるのです。 2. 主に栄光を帰す生活 したがって、主の栄光は「主なる神が主らしくおられること」とも言えるでしょう。主なる神が主らしくおられることは、この世のすべての被造物が創造主である神を主に認め、ほめたたえることでしょう。自分の人生において、主なる神だけを唯一の主として認め、ほめたたえ、御言葉に従順に聞き従うことは、最も現実的な栄光の帰し方でしょう。マタイ福音書には、このように記されています。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:16) 主の御言葉に従順に従う私たちの生活が、世の人々に光のように映る時、主なる神を知らない人々が  私たちの生活を見て、主の存在に気づき、認め、栄光を帰すようになるでしょう。御父は創造主として、御子は救い主として、聖霊は助け主として認められ、ほめたたえられなければなりません。私たちは全生涯を通して、三位一体なる神を自分の主に認め、その方の御言葉に従い、主の御心通りに生きなければなりません。そして、そのような私たちの人生に現れる良い影響によって、私たちの隣人も主の存在に気付き、認めるようになるでしょう。私たちにできる「主に帰す最高の栄光」は、まさにそのような人生からではないでしょうか? しかし、ある人々は自分が何かを情熱に行い、良い結果を出し、他人より優れた者になることによって、主に栄光を帰せると誤解します。ですが、主は人間に栄光を帰してくれと、栄光を要求する方ではありません。主は被造物がなくても、彼らの助けや献身がなくても、十分主自らの栄光によって満ちておらえる方です。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ローマ11:33-36) 今日の新約聖書の言葉のように、いかなる被造物も主を助けることが出来ません。したがって、私たちは自分の努力と行為を通して、主に栄光を帰そうと思ってはなりません。私たちは、ただ主にいただいた自分の人生を主の御言葉のもとに、謙虚に生きていくだけです。だから、主に栄光を帰そうという熱心と努力が、主に栄光を帰す手立てになるわけではありません。自分に託された人生を忠実に生き、主にあって感謝と喜びに生きる時、その平凡な日常がすなわち主に栄光を帰す人生になるのです。最も平凡な信仰の生き方が、最も望ましい、主に栄光を帰す人生になるということです。 締め括り 仕える者の心構え この説教の後、長老と執事の任職式があります。長老と執事になるのに負担を感じる方もおられるかもしれません。長老や執事になると、何か他人より優れた者にならないととか、他人よりもっと仕えるべきではとかの気持ちで、長老や執事になるのをためらう方々もおられるでしょう。しかし、今日、お話ししましたように、私たちの行為や努力によって主が栄光をお受けになるわけではありません。教会に仕える者は、いつもの通りに、主への愛と感謝とで、安らかに自分に託された務めを素朴に果たすことで充分です。もっと頑張らなければ、もっと優れていなければという気持ちのため、自分を責めたり、苦しめたりしないようにしましょう。いったい誰が完璧に教会に仕え、主に仕えることが出来ますでしょうか? ただ、自分に任されたことを自分に出来る範囲で、最善を尽くすことで、主なる神は喜ばれるでしょう。だから、すべてを主に委ね、一日一日を喜びに生きる長老、執事になってください。そして、長老、執事でない方々も、同じく主を愛し、御言葉に従う人生を送り、感謝と喜びの人生を生きましょう。牧師、長老、執事、一般信徒を問わず、信仰生活に臨む心構えは同じだからです。重要なのは務めではなく、信仰の心です。主の御言葉に従い、主を愛し、兄弟姉妹と隣人を愛する人生こそ、主が望まれる真の栄光を帰す人生です。 そのような人生を生きる兄弟姉妹でありますよう祈り願います。

バベルの塔を考える

創世記11章1-9節 (旧13頁) 使徒言行録2章1-4節(新214頁) 1.バベルとは何か? 私たちは聖書を読みながら、バベルという言葉をよく目にします。創世記のバベルの塔、イスラエル民族を滅ぼしたバビロン、ローマ帝国の首都ローマを比喩的にバベルと呼び、黙示録では神に逆らう悪の勢力と、その支配をバビロン比喩します。(バビロンとバベルは語源が同じ) バベルは古代アッカド語で「神々の家」という意味です。おそらく、神々の家という意味のように古代人は、強力な神々の加護のもとで繁栄することを願い、バベルという言葉を好んで使用していたでしょう。ところで、このバベルという言葉はヘブライ語では「神々の家」ではなく「混乱」を意味します。アッカド語では「神々の家」という意味のバベルは、なぜ、ヘブライ語では「混乱」という意味に変わったのでしょうか?今日の本文を通じて、その理由についてのぞき見ることができます。「この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」(創11:9) バベルが混乱と呼ばれるようになった理由は、主なる神がバベルでの人間の罪を御覧になり、彼らの集まりと言葉を混乱にさせ、散らされたからです。 大昔、イスラエルの先祖アブラハムが生まれてもない時から、中東の国々には、神々を拝むための神殿がありました。彼らはその神殿を中心に町を築き、国を打ち立てました。彼らは神の「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」という命令を無視し、神殿を中心に集まり、自分たちが主導する世界を作ろうとしました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」という言葉は、ただの人間の繁栄だけを意味するものではありません。世界中に広がり、神のみ旨に適って生きなさいという意味だったのです。しかし彼らは、むしろ一所に集まって、主なる神に背き、自分たちが中心となり、他者を支配する巨大な帝国を作ろうとしました。彼らはバベルという名前のように、神々の家という意味の神殿に異邦の神々を閉じ込め、自分たちの必要に合わせて、神々を利用することを望んでいたのです。神々を利用するために神殿を建てた彼らは、存在もしていない神々を拝み、偶像崇拝を自然に行いました。また、それを通して自らが神のような存在になることをたくらんでいたのです。つまり、バベルとは、主なる神から積極的に離れ、自分が神のようになろうとする、神に逆らう人間の本性を意味するものです。結局、神は今日の本文のように、彼らに混乱を与えられ、バラバラに散らされました。このようにバベルは、今でも神に逆らう存在の代名詞、神の反対側に立つ悪の代名詞として聖書で使われています。 2.なぜ、塔なのか? バベルの塔のバベルは、その塔の名前ではなく、バベルという町に建てられていた、巨大な塔を意味するものです。多くの人がこれを古代中東の建築物の一つであるジッグラトと推定しています。ジッグラトとは、先にお話しました神々の家、すなわち神殿で古代中東人の文化の中心であるものでした。彼らはなぜ神殿という美名のもとに、高い塔を築こうとしたのでしょうか? 「彼らは、さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしようと言った。」(創11:4) 彼らは、高い塔を築き、その塔を天に届くようにして、自分たちの名前を高めるために、レンガを積み上げました。創世記4章を読むと、このような言葉があります。 「セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」(創4:26)アダムの息子セトが、息子を儲けた時はじめて、人々は主の御名を呼び始めました。旧約聖書において神の名を呼ぶということは「神に礼拝を捧げる。」という意味です。ということで、推測できるのは、今日の本文に出てくる「有名になる」ということは、自分たちも礼拝される存在になりたがっていたという意味なのでしょう。つまり、バベルの人々は、互いに力を合わせて塔を築き、自分たちも神のように崇拝される神のような存在になることを望んでいたということでしょう。彼らは神を仕えるべき対象と思わず、ただ自分らが礼拝の対象として、神のようになることを望んでいたのです。 それでは、神のようになるということと、塔を建て上げるということの間には、どのような係わりがあるでしょうか?古代人は、この世界をゴムまりのような円形だと思いました。丸い世界の中間地帯に人間が住んでいる地上の世界があり、地下には死者が行く陰府があり、空には太陽、月、星などがあり、その上に神々の世界である天があると信じていました。人々が高い塔を建て上げて、天に至ろうとしていた理由には、自分たちが、その天に上って、世界の外の神々のところに入ろうとした願いが秘められています。自分たちも神の世界に入り、神の支配から逃れ、神のように世界を支配する存在となることを望んでいたわけです。結局、私たちが、このバベルの出来事を通して分かるのは、人間には神のようになり、自分勝手に生きていこうとする本能があるということです。人間には他人の上に君臨しようとする望ましくない性質があります。金持ちは貧乏な者を、権力者は弱者を、強い国は弱い国を力で抑圧し、支配しようとする本性を持っています。私たちの心には、そんな本能がないでしょうか?自分より弱い者たちをおとしめ、自分よりも強い者には屈服する姿が、もしかしたら、私たちの心の中にあるかもしれません。今日の本文は、このような人間の罪に満ちた本性を示しているのです。高い塔を築くということは、自分自身を極めて高め、他人は自分の足下に踏みつけ、支配しようとする、人間の傲慢な罪の性質を余すところなく示すことなのです。 3.バベルの塔の結果 主なる神は人間が全世界に広がり、神を伝え、仕えて生きることをお望みになりました。神が初めのアダムと洪水後のノアに「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」と命じられた理由が、全世界に神の御名を伝え、神を礼拝する存在として生きなさいという意味だったからです。私たちは、この命令の根拠を新約聖書で見つけることができます。 「イエスは近寄って来て言われた。わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18-20)十字架での死と墓からの復活の後、父なる神に世界を支配する権限を与えられた主イエスは、弟子たちに全世界に進んで、神を伝えることを命じられました。今まで人類が罪のため、成し遂げられなかった全世界に広がって神を伝える人生を、主イエスご自身が「いつも一緒に歩んでくださる」という約束によってはじめて成し遂げることができたのです。その結果、世界的に福音が宣べ伝えられ、今ここで、民族や文化を乗り越えて一緒に神を礼拝することが出来るようになったのです。しかし、バベルの人間たちは、広がり、神を宣べ伝えるどころか、自分たちが神の座を奪おうとしていたわけです。 神を伝えるために全世界に広がっていくべきであったバベルの人々は、結局、神によって言葉が混乱させられ、民族が分かれさせられる呪いを受け、散らされてしまいました。 「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」(創世記11:7-8)神に逆らい背く者は、神によって散らされてしまいます。人間がいくら巨大な国を打ち立て、他の民族を踏みつけ、自分を高めようとしても、神を仰ぎ見ず、自分を神のようにしようとする者たちは、遅かれ早かれ滅ぼされてしまいます。周辺国を踏み躙り、支配した古代のエジプト、ギリシャ、ローマ、ペルシャ帝国も、今では文化財として残っているだけです。私たちが生きていく、この世も古代の帝国と大きい違いはありません。強い者は弱い者を、強い国は弱い国を苦しめます。自分たちはさらに高め、他人は低くするためです。しかし、神は常に天から地のことを見守っておられます。自らを高めようと自己中心的に塔のレンガを積み上げる者は、昔のバベルの罪人のように崩れ、散らされてしまうでしょう。したがって、私たちは自分を高めるエゴという塔を建て上げるより、神を高め、伝え、隣人を助け、互いに愛しあうために地に広がり、謙遜に生きていくべきです。そのような生き方を主は祝福してくださるでしょう。 締め括り 低いところに臨まれた主イエスを思い起こします。主は神そのものでおられましたが、地上の弱い者たちのために降り、神と隣人に仕えられました。聖書は、その結果をイエスの勝利として結論づけています。(フィリピ1:5-11) バベルの罪人たちは塔を建て上げ、天を欲した反面、神であるキリストは、むしろ地上の人々の間に来られました。主は自ら御自分のことを低くし、誰よりも低いところから愛を実践されました。その結果、最も高い王として神に認められることになったのです。また、使徒言行録には、このイエスが成し遂げられた、もう一つの恵みが記してあります。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2:2,4)自分を高めたバベルの人々が言葉の混雑を経験したことと反対に、自分たちを高めるためでなく、もっぱら神を高めるために集まった弟子たちは、キリストを通して聖霊を受け、それぞれ別の言語で、一つの福音を宣言する真の言語の一致を経験したわけです。バベルの塔は人間の高くなりたがる性質を示すものです。しかし、主イエスは御自分の犠牲を通して、神と隣人を高め、自らを低くする際にはじめて、神に高められるということを教えてくださいました。私たちの心の中に、傲慢なバベルのような性質はないか、自分のことを顧みて、主の御前に謙虚に生きる民になることを願います。主と隣人を高め、自分自身を低くする、謙虚な志免教会の兄弟姉妹でありますよう祈り願います。

あなたの父と母を敬え

出エジプト記 20章12節(旧126頁) エフェソの信徒への手紙 6 章1-4節(新359頁) 前置き 去る5月11日は母の日でした。もともと先週の主日、この説教をしたかったのですが、私の留守のため、今日することになりました。約一ヶ月後の6月15日は父の日でもありますので、今がこの説教にちょうど良い時期ではないかと思います。今日は十戒の第五戒「あなたの父と母を敬え」とエフェソの信徒への手紙の言葉を通じて、親を敬うことについて話したいと思います。 1. 約束を伴う最初の掟 「父と母を敬いなさい。これは約束を伴う最初の掟です。そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができるという約束です。」(エベソ6:2-3) 使徒パウロはエフェソ教会に手紙を書きながら、末尾にキリスト者の望ましい生き方について語りました。その中に、子供たちのあり方についても助言しました。それは「父と母を敬え」でした。使徒パウロは旧約聖書の十戒の言葉を引用して両親を敬わなければならないと言いましたが、それは約束を伴う最初の掟であると定義しました。今日の旧約本文は出エジプト記20章(十戒)の12節だけですが、十戒の全文を読み切ると、唯一第五戒のみに「そうすれば」という言葉がついているのが分かります。主なる神がこの第五戒だけに「この戒めを守れば、あなたに祝福を与える。」と条件をつけられたということです。残りの戒め全てが重要ですが、神は第五戒を特に大事にされたようです。神が最初造られた共同体は、アダムとエヴァという最初の家族でした。残念なことに、彼らは罪を犯してしまいましたが、それでも神は二人に子供をくださり、家族を成させてくださいました。神は家族という共同体を人類のもっとも基礎的な単位として立ててくださったのです。 この「家族」という共同体は神が初めの人類にくださった神を礼拝する「最初の教会」です。そして、神は主の教会に秩序をくださり、それを求められる方です。「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。」(第一コリント14:33,40) 私たちが父と母を敬わなければならない理由は、単に礼儀作法や慣習のためだけではありません。主なる神は無秩序に秩序を与えられる方です。創造は無から有を創り出すことでもありますが、無秩序に秩序を与えることでもあります。したがって、主なる神の最初の教会である家族は、神が造られた秩序によって支えられなければなりません。つまり、父母を敬うことは神の秩序に聞き従うことと同然です。親への敬いは、神の摂理に積極的に従うことです。ですから、親を敬うことは神を敬愛することの一部であるとも言えるでしょう。十戒において、神は公に神の秩序と摂理に従う者、すなわち父母を敬う者には、ご自分による美しい地での豊かな長生きを約束されたのです。人が親を敬うことは神の祝福を得る最高の道であることを、聖書は私たちに教えてくれるのです。 2. 父母を敬うのとともに考えたいこと – 子どもへの愛 ところが、ここで問題があります。今、この説教を聞いておられる皆さんの中には、ずっと前に両親を亡くされた方々が多いはずです。すでに亡くなった両親を生き返らせて敬うことは出来ません。それでは、今の皆さんにおいて「あなたの父母を敬え」という戒めは、どのように守ることができますでしょうか。最も基本的に敬うべき対象は、すべてのものを造られた、万物の造り主です。そして、私たちは、その造り主なる存在が三位一体なる神であることを知っています。「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」(エフェソ4:6) ここで「父」とありますが、それは男性の父親のことではありません。神は男でも女でもない方です。神は真の父であると同時に真の母でもある方です。要すると父と母という性別を超えた真の親ということです。私たち皆のことを誰よりもよく知っておられ、ご計画どおりに造られた方です。私たちの真の親であり、万物の造り主である方です。ですから、すでに両親を亡くし、70代,80代になった皆さんも親を敬うことができます。それは神を愛し、御言葉に聞き従うことを望んで生きることです。 「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(エフェソ6:4) 新約の本文は、もう一つの父母を敬うに並べる教えを語ります。すでに両親が亡くなった方々は、神を愛し聞き従うことと共に「神がしつけ諭されるように、子供を育てること(正しい養い)」で両親を敬うのに代わることができるでしょう。子供を正しく養い愛することは社会的なマナーを身に付けさせ、良質の教育をすることでもありますが、キリスト者においては何よりも御言葉によって、造り主なる神とキリストの贖いと救いと聖霊のお導きとを教えること、つまり、神へ信仰を教えつつ養うことです。しかし、すでに子供が成人して信仰の養いが出来ない場合、子供への日ごろのやさしい応対や言動によって「キリスト者である両親は私を尊重し愛してくれる。私の両親を通じて神という存在を感じる。」のように、キリストの香りを漂わしながら生きることによって、子供を愛することが出来ます。本文に「子供を怒らせてはならない」とありますが「怒る」のギリシャ語の意味は「一緒に怒りあう。激怒させる。」です。子供が親のため、怒りを感じたり、親が子供の心配になったりすることを意味します。このように「親を敬うこと」のまた一つの形は、子供への信仰の養いと尊重、そして愛とも言えるでしょう。 3. 神と隣人への愛 十戒の前半の四つの戒めは、神に対する民の生き方についての教えです。また、後半の五つの戒めは、隣人に対する民の生き方についての教えです。真ん中の第五戒めは、神と隣人を包括する民の生き方についての教えです。主イエスは十戒全体の精神について、このように言われました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:37-39) この言葉は十戒の大命題である神への愛と隣人への愛について語っています。そして、第五戒は、真の親である神を愛し、最初の隣人である自分の父母を愛しなさいと力強く教えています。したがって、第五戒は神と隣人への愛を共に訴えている十戒のかなめ石のような戒めであるでしょう。そういうわけで、神は第五戒を祝福の約束を伴ってまで大事になさったわけではないでしょうか? キリスト教会の中でも保守的な教会と進歩的な教会が分かれます。前者には神への礼拝と教会の維持を優先にする傾向があります。後者には隣人への愛の実践のため、社会運動を優先にする傾向があります。しかし、私たちは神と隣人への愛をバランスよく調節し、信仰生活に臨むべきです。それが第五戒が私たちに教える教訓ではないでしょうか? 前置き 赤ちゃんが生まれ、最初に愛するようになる相手は断然母親でしょう。しかし、その子が育ち、人生を生きながら最も親密に、時には軽んじやすく思う存在も母親でしょう。母は自分と一番近くて気楽な存在だからです。しかし、その母もいつかはこの世を去ることになるでしょう。自分のそばにいるときは、気づかなかったが、遠く離れたのをしみじみと感じてはじめて、母の大事さに痛感するでしょう。先週の主日は母の日でした。母という存在、その大事さについて顧みる有意義な日だと思いました。主なる神は親を敬うことを何よりも大切な人間の価値として立ててくださいました。目に見える親への愛によって、目に見えない真の親である神への愛をお確かめになるでしょう。親への愛を憶えつつ、神と隣人へ愛をも顧みることを願います。

私もあなたを罪に定めない。

ヨハネによる福音書 8章1-11節(新180頁) 旧約聖書を読むと、イスラエルには、3つの祭りがあったと言われます。除酵祭、七週祭、仮庵祭がそれらです。それらの祭りはエジプト帝国の抑圧からイスラエルを解放し、長い荒野生活で守ってくださった主なる神を記念する特別な日でした。イスラエルの男は、それらの祭りを守るためにエルサレムの神殿に訪問し、生け贄を捧げました。イスラエルの民は、それらの祭りを通して、主なる神についての知識を得、記念しながら、主の御心について学びました。今日の新約聖書の背景は、それらの中の仮庵祭に起こった出来事です。 1.仮庵祭の二つの行事 今日の新約本文の背景は仮庵祭の終わりごろでした。ユダヤ人の文献によると、この仮庵祭の間には、2つの特別な行事があったそうです。一つ目は、祭司の庭で行われた水の祭りでした。祭司の庭とは、焼き尽くす献げ物の祭壇のある神殿の前庭のことです。水の祭りの際、人々はシュロの木の枝、ヤナギの枝などを振りながら、主なる神のお赦しを喜びたたえました。また、シロアムの池から汲みあげた水でいけにえの祭壇を洗い清めました。これは雨乞いの祭りとしての機能も兼ねていました。当時のユダヤ人は、このような祭りによって罪を洗い流し、命を与えてくださる主なる神のお赦しを憶えました。 二つ目は、祭司の庭の隣にある女の庭で行われた火の祭りでした。先の水の祭りが終わると場所を移し、女の庭の燭台に火を灯し、闇に光を照らす火の祭りを行いました。老若男女が集まって火をつけ、神の御前で踊ったり歌ったりしながら、この世の光でおられる神を讃美したのです。「若いときの罪を赦される者には福あり、かつて罪を犯したが、今、赦される者には福あり」ラビの指導に従って、詩編の歌を歌いつつ、暁となって鶏の鳴き声が聞こえてくると、自分の罪を赦してくださった神に感謝の祈りを捧げたと言われます。これらの行事によって、イスラエルの民はの仮庵祭を過ごし、主の赦しを感謝しました。 2.人を赦さない罪 ユダヤ人は、この仮庵祭の水と火の祭りを通して、水のように罪を清めてくださる神、火のように闇に光を照らしてくださる神を憶えました。仮庵祭の一週間、祭司の庭で行なった水の祭りと女の庭で行なった火の祭りを通して、人々神の愛と恵みを改めて確かめたのです。かつて、主なる神に逆らった罪のため、バビロンに滅ぼされてしまったイスラエルは、奴隷に過ぎない民族になってしまいました。しかし、彼らが最も弱くなっていた時、神は彼らを再び呼び出してくださいました。イスラエルは神の赦しと愛とによって、自由を得、イスラエルに帰ることが出来ました。その後、イスラエルの指導者たちは人々に、先祖の罪について、イスラエルを救ってくださった神の愛について、罪を赦し、新しい命をくださった主について絶えず教えました。 しかし、今日の本文では、夜どおし、神に感謝し、主の恵みをほめたたえた人々が、突然変わることが起こります。「律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(ヨハネ8:3-5)宗教指導者たちが姦淫の罪を犯した女を捕らえてきたとき、人々は彼女を打ち殺そうとしました。数時間前まで、神の命の水と恵みの火を喜び、神の愛と赦しに感動していた彼らが、罪人については、赦しも、愛もなく、ただ、彼女を殺すために憤っていたのです。神が仮庵祭を通して、彼らに赦しと愛を教えてくださったのに、彼らは自分への赦しだけに感謝し、他者への赦しと愛という最も大事な教えは見落としてしまったのです。神の赦しが姦淫した女性には適用されないと考えたからです。 3.赦してくださるイエス・キリスト。 その朝、主イエスが神殿に来られました。その時、宗教指導者たちは姦淫した女を連れて殺気立った群衆とともにイエスのもとに来ました。神殿での一週間、仮庵祭によって神の赦しと愛を憶え、喜んでいた彼らが姦淫した女性に対しては、いかなる哀れみもなく、ただ彼女を殺すためにイエスの前に来たのです。仮庵祭の祭りは彼らの心に一体何を残したのでしょうか?確かに姦淫した女は罪を犯しました。しかし、その日は神の恵みを感謝し、神と人への愛を誓った祭りの最後の日でした。仮庵祭そのものが荒野で民を導き生かしてくださった神を記念する祭りです。彼らは自分の罪の赦しを感謝しながらも、他者の罪は赦していなかったのです。イエス・キリストは一言で仮庵祭の精神を示されました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7) 私はイエスが言われた一言「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」の前に、このような長い言葉が隠れていると思います。「私は、去る一週間、仮庵祭を過ごしながら、あなたがたに赦しの喜びを与えたあなたがたの神、主である。私は昔からあなたがたの罪を赦してきた。だから、私はまた、この女の罪をも赦すのだ。私はこの女を罪に定めない。この女も私に赦されるべき私の民であるから。それにもかかわらず、この女を殺したくなら」「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」仮庵祭の水と火の祭りを通して民への赦しを教えてくださった神は、御子イエス・キリストの言葉を通じて、姦淫した女を赦してくださいました。主の御言葉を聞いた人々は、良心に責め苛まれ、女を責めることが出来ませんでした。そして、彼らはみんないなくなりました。 締め括り 仮庵祭、イエスはイスラエルの祭りに隠れている真の律法の精神を教えてくださいました。それは、罪赦されて喜ぶことだけに満足してはならないという教えでした。主イエスは姦淫した女にも同じように教えてくださいました。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」出エジプト後、40年間、荒野で民を守ってくださった主に感謝するなら、命の水の源、世の光として、罪を赦してくださった主を愛するなら、律法をよく守って生きたいなら、自分が神に赦されたことを忘れず、同じく他人の罪をも赦し、愛を実践しながら生きなさいということです。今日の物語は赦しと愛こそが、主なる神を崇める者が持つべき精神であることを教えています。

全的堕落

ローマの信徒への手紙3章10-12節(新276頁) 前置き 今日は、教理の説教をしたいと思います。先日、ご自分の民を絶対にあきらめられない主なる神の愛について説教しながら、手短に「聖徒の堅忍」についても話しました。神がご自分の民の救いのために、彼らの失敗の時にも絶対にあきらめられず、また、主の民が信仰をあきらめようとする時も、最後まで信仰を守り続けるように堅固に忍耐して導いてくださるということについての話しでした。この「聖徒の堅忍」という概念は、ドルト信仰基準を縮約した「カルヴァン主義五大教理」の第5項に該当します。これをきっかけに、連続説教としてカルヴァン主義5大教理について学んでみようと思います。教理説教は、多少講義のようなところがあり、退屈になりやすいですが、ご理解お願いします。しかし、集中してお聴きいただければ信仰の常識に役立つものになると信じます。よろしくお願いします。 1。長老派教会の歴史のあらすじ まず、教理の話の前に、私たちが属している長老教会の成立について探ってみましょう。中世の教会はヨーロッパ社会の中核でした。自然に権力と財物と名誉で点綴されていました。そのため、教会の中に誤った慣習が生まれるようになりました。その一つが有名な免罪符です。司祭だったマーティン·ルーサーは、教会の間違いに気づき、ひとえに御言葉に帰ろうという趣旨で宗教改革を触発することになります。それはヨーロッパ全体に広がりましたが、そのうち、フランス出身で、スイスのジュネーブで活動していたジャン·カルヴァンにも影響を及ぼすようになりました。 ジャン·カルヴァンはスイス改革教会の成立に貢献した人物で、スコットランドのジョン·ノックスも、彼に影響を受けるようになります。さて、イギリスでの旧教と新教の対立のため、スイスに亡命したプロテスタントの人々がいましたが、ジョン·ノックスは彼らの招聘によりスイスに来ることになります。それをきっかけにジャン·カルヴァンの影響を受けることにもなり、将来、祖国に帰って長老教会を形成することになります。時間が経ち、イギリスのプロテスタント教会は宗教的な弾圧を避けて新大陸(アメリカ)に渡り、19世紀に入ってアメリカの長老教会から派遣された宣教師たちによって日本にも教会が建てられるようになりました。それが日本キリスト教会の始まりにつながります。長老教会はすなわち改革教会であり、改革教会は聖書の御言葉を最優先にして御言葉に従って絶えず自らを改革していく教会です。 2. 改革教会神学への抗論 – アルミニアン主義 上記のような理由で長老教会はジャン·カルヴァンの教えに多く影響を受け、教理を大事にします。長老派の教理の中で特に重要な概念は、神がすべてをあらかじめ定められたという予定説です。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1:4)「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」(エフェソ1:11) カルヴァンはこれらの言葉を根拠にし、予定教理を整理したでしょう。ところが、これは論争をもたらしてしまいました。「神がすべてをあらかじめ定められたなら、未信者と彼らの滅びもあらかじめ定まっているのか?」という疑問のためでした。実は、ジャン·カルヴァンが予定説を大事に考えた理由は「すべてをあらかじめお定めになる主なる神の全能さ」を強調するためだったが、誰かは神の独断的な予定によって最初から救われない人がいるということが誤った聖書解釈ではないかと受け止めてしまった結果なのです。そんな理由で、予定説に問題を提起した人々は、人間の自由意志を大事にしました。神学の歴史では、彼らをアルミニアン主義者と名付けました。ヤコブ·アルミニウスという神学者から始まったからです。 そして、以下はアルミニアン主義5箇条と呼ばれる聖書解釈です。①自由意志:人は全的に堕落したが、神の救いへの招きに対し、人には自由意志を働かせて応答する力が残されている。②条件的な選び:神は誰がキリストを信じるかを予知によってご存じであり、その者を救う。③普遍的な贖罪:イエスの十字架は、善人悪人を問わず、すべての人のためにあった。④聖霊への拒否は有効である: 人間の自由意志はキリストの贖いを適用することにおいて聖霊を制限する。罪人が応じなければ聖霊は生命を与えることができない。すなわち、神の恩寵は拒否されることができる。⑤恵みからの堕落:信仰によって本当の救いを得る者も、信仰に失敗すると救いを失うことがある。(アルミニアン主義は将来メソジスト教会に大きい影響を及ぼします。)確かに聖書を解釈する方法につれて、これらのような主張も出てくるかもしれません。しかし、彼らは人間の自由意志を強調したあまり、神の全能さを損ねる主張をしてしまいました。そこで、改革教会は、1618 年、オランダのドルトで会議を開き、アルミニアン主義5箇条に反論するドルト信仰基準を作成しました。ドルト信仰基準の骨子は以下の5つの教義で縮約することができます。 3.カルヴァン主義5大教理と第1項の全的堕落 ①全的堕落:人は全的に堕落し罪の奴隷となった。救いへの招きに応じることも、霊的なことを考える力も失った。ただ聖霊が私たちを造り変えることによってのみ、応答できる。②無条件的な選び:神は人の内にある何らかの救われる資質(条件)を見たから救うのではなく無条件である。③限定的な贖罪:イエスの贖いは選ばれた民だけのものである。イエスの血は悔い改めない罪人のために無駄に流されたのではない。④不可抗的な恵み:神が救おうと意図されたなら、その人は抵抗することはできず、必ず救われる。⑤聖徒の堅忍:神は一度救った者の信仰を彼が死ぬまで守り抜かれる。その生涯において、その人が神から離れたように見える時もあるが、最終的に信仰は個人の努力ではなく、神の恵みによって守られる。改革教会は上に説明したアルミニアン5箇条に反論し、このような教理を整理しました。(週報の裏面に比較整理しておきましたので対照しながらご覧ください。) 今日は時間の関係で、第1項全的堕落についてだけ話してみましょう。今日の本文のローマ書は、こう述べています。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:10-12) 旧約聖書、創世記によると、最初の人間であるアダムとエヴァは、主なる神が絶対に取って食べるなと命じられた禁断の果実(善悪の知識の木の実)を取って食べてしまいました。「主なる神は人に命じて言われた。園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16-17) 神は最初の人間を完全な存在に創造されました。 彼らは神にかたどって造られた存在なので、神に似ており、完全な善を行うことができる力を持っていました。神は彼らを操り人形ではなくご自分の子供に創造されたため「自由意志」を与えてくださいました。そのため、彼らは善と悪を区別し、選べる「選びの自由」を持っていました。そして、神は、彼らが自由意志をもって従順に行うかを判断する手立てとして善悪の知識の木をエデンの園の真ん中に置かれたのです。しかし、結局、人間は神が禁じられた木の実を取って食べてしまいました。自由意志を神の御言葉への服従ではなく、自分の欲望の達成のために使ってしまったのです。その結果、人間は堕落し、必ず死ぬことになってしまいました。 ある人たちは、神が禁じられた実を食べたことが、そんなに大きな罪なのか、一度の過ちも勘弁してくれないのか、それによって堕落と裁くのはやりすぎではないかと思うかもしれません。しかし、何かを食べたのが問題ではなく、神の御言葉に逆らったというのが問題です。完全な善を行える力があるにもかかわらず、故意に悪を選んだのに、神への逆らいが隠れているからです。そして、これが人間の原罪となりました。原罪はアダムが犯した罪だけに限りません。アダムが代表する人間全体に隠れている神に逆らう罪の種を意味するのです。したがって、人間は基本的に罪の性質を持って生まれます。改革神学は、これを「全的堕落」と定義します。これは完全に堕落し、悪魔のようになるという意味とは異なります。罪のため、自力で神の御心に服従できないということ、何よりも自力で神の救いの福音を受け入れることが出来ないという意味です。なぜなら、人間自らの力では神の御心に完全に聞き従うことが不可能だからです。この世には善良な人々が数え切れないほど多いです。キリスト者よりも善い人がたくさんいます。しかし、神の恵み、キリストの贖い、聖霊の導きがなければ、彼らは決して自ら神を知り、信じることができません。善良さと信仰は別の問題だからです。 締め括り 改革教会の予定説に異議を唱えたアルミニアン主義は「人は全的に堕落したが、神の救いへの招きに対し、人は自由意志を働かせて、応答する力が残されている。」と人の力で神を信じ、救いを得るか拒むかができると信じました。しかし、改革教会は「人は全的に堕落し罪の奴隷となった。救いへの招きに応じることも、霊的なことを考える能力も失った。ただ聖霊が私達を造り変えることによってのみ、応答する。」と信じます。皆さんはどう思われますか? 私たちに自ら神を信じ、神と協力して救いを得る力がありますでしょうか。私はアルミニアン主義を盲目的に批判するつもりではありません。部分的にその主張に頷ける時もありました。しかし、人間自らが神と協力して救いを手に入れるということについては全面的に反対です。もしそうなるのならば、神の恵みとキリストの贖いは価値を失ってしまうでしょう。人間は自ら神を信じ、自分の救いに力を加えることができません。それが全的堕落という言葉に含まれた意味なのです。ひとえに父なる神の計画、イエス•キリストの贖い、聖霊の導きによってのみ信じることができ、救われることが出来るのです。それだけが移り変わりなく、私たちの完全な救いを保証するからです。

失敗した者のための恵み

列王記上19章1-8節(旧565頁) ヨハネによる福音書21章1-14節(新209頁) 前置き 復活節後の最初の主日を迎えました。今日は復活された主イエスのお歩みの中でガリラヤ湖畔でペトロと弟子たちに現れ、慰め、力をつけてくださった物語について話したいと思います。主イエスの生前、一番弟子と呼ばれたペトロは主イエスを絶対に裏切らないという約束を守れず「鶏が鳴く前に三度」イエスのことを知らないと言ってしまいました。(マタイ26:33-35) ペトロだけでなく、他の弟子たちもイエスが逮捕されると、皆見捨てて逃げました。そんな彼らはイエスが復活された時、どんな気持ちだったでしょうか?復活されたイエスを喜びで歓迎することができましたでしょうか? もしかしたら、弟子たちは自分が裏切り者であり、失敗者であると自責していたかもしれません。今日の新約本文では、そのような弟子たちに再び現れ、慰め、力をつけてくださったイエスの愛を覗き見ることができます。 1. ガリラヤ湖畔でご自分を現わされたイエス 「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。」(ヨハネ福音21:1)「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」(ヨハネ福音21:14)今日の本文の始まりと終わりには「イエスが··· 現わされた。現れた。」という言葉があります。ここで「現わす。現れる。」は、ギリシャ語の「ファネロー」を訳した表現です。この言葉は「明白に現れる」という基本的な意味を持っていますが、単純に「隠れた何かが現れる。」みたいな物理的に現れることではなく、より深い意味を持っています。例えば、ローマ書1章19節「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。」(ローマ書1:19) この言葉の中で「明らかだ」「示された」という表現が記されていますが、日本語の聖書には「現れる」「明らかだ」「示される」など、それぞれ異なる表現で書いてありますが、ギリシャ語では全て同じ「ファネロー」をベースにしています。このように「ファネロー」は神の啓示や御業を示すニュアンスの言葉として使われます。主イエスが現れられたのは、ご自分を裏切った弟子たちへの罰のためではなく、主の福音を世に宣べ伝え、主のための人生を生きる、新たな機会をくださるために、啓示のような意味としての行動だったのです。 私たちは主イエスに直接会い、目で見て、手で触って、口で話してから信じるようになったわけではありません。しかし、私たちはイエスが御言葉によって、ご自分のことを明白に示されたということを信じています。主がご自分のことを示してくださったから、私たちはイエスを主と認め、主を中心に教会を成すことができるのです。聖書は語ります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ福音1:14) 聖書は神の子イエス•キリストがすなわち神の御言そのものであると証します。ここで御言を意味するギリシャ語「ロゴス」は神の御心とも言えます。神は主の御言、主の御心そのものである御子イエス•キリストに肉体を与え、人々の間に遣わしてくださいました。だから、イエスが私たちに現れてくださったのは、神の「啓示」だとも言えるのです。この神の啓示は世のすべての人々に当たり前に示されるものではありません。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」(ヨハネ福音書1:10) ひとえに主に選ばれた者だけにご自分を現わされ、啓示を知ように導いてくださるのです。復活されたイエスは失敗した弟子たちの前に「現れました」。そして、もう一度、主の弟子として生きるように特別な恩寵をくださいました。それは弟子たちを使徒らしく生まれ変わらせる主の啓示そのものだったのです。 2. ガリラヤに訪れたイエス 「イエスはティベリアス湖畔で」引き続き、ヨハネ福音21章1節の言葉を見ると、ティベリアス湖という言葉がありますが、これはガリラヤ湖の別の名です。(ガリラヤ湖の北西のティベリアスという町に影響を受けた。)イスラエルがアッシリアとバビロンに滅ぼされた後、イスラエル北部地域では異邦人との混血が生じたため、捕囚から帰ってきた純血ユダヤ人に認められない地域でした。ということで、ガリラヤ地域の人々は差別されていました。エルサレムがメージャーなら、ガリラヤはマイナでした。ところで、なぜ、エルサレムでイエスと一緒にいたペトロと弟子たちは、ガリラヤに帰ってしまったのでしょうか? イエスは彼らにご自分のこと、すなわち福音伝道の使命を与えてくださるために、3年間苦楽を共にしながら教えてくださったのにでしょう。エルサレムにそのまま残って、主のお働きを受け継いで活動すべきだったのではないでしょうか? もしかしたら、ペトロはイエスを裏切ったという罪悪感のため、すべてをあきらめてガリラヤに帰ってきたのであるかもしれません。ということで、私はエルサレムからガリラヤへの帰郷に、ペトロの挫折と悲しみが潜んでいるのではないかと思いました。「イエスを裏切ったのにどうして主の弟子として生きられるのか?」というペトロの挫折と悲しみでしょう。 イスラエル社会のメジャーであるエルサレムを離れ、マイナーであるガリラヤに帰ったということから、ペトロの気持ちをかいま見ます。しかし、主イエスはペトロと弟子たちを探してガリラヤに来られました。主なる神はメジャーだけを好まれる方ではなく、ご自分の民のためなら喜んでマイナーに向かって行かれる方です。罪人の救いために栄光の天の玉座を捨て、みじめな地上にまで来られたことからも分かります「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」(ヨハネ福音21:9) 主はペトロと弟子たちに「パンと魚」の朝食を準備され、ペトロが罪悪感から自由になるよう慰めてくださいました。聖書学者の中には「パンと魚」が聖餐を意味すると解釈する人々もいます。聖餐を通して、キリスト者は自分がイエスに属する存在であることを確認します。もしかしたら、ペトロはその日の朝、「パンと魚」による聖餐を通して、自分が誰に属している存在なのかを再確認したかもしれません。イエスは赦してくださる方です。それによって、もう一度再出発する機会と力を与えてくださる方です。 3. 失敗した者を助け起こされるイエス イスラエルの神の預言者であるエリヤは偶像を崇拝する北イスラエルのバアルとアセラの預言者たちと対決して勝ち、彼らを皆殺しました。それは主なる神の恐ろしい裁きでした。ところが、北イスラエルの王アハブと王妃イゼベルは、神の裁き恐れずに、エリヤを絶対に殺すと警告します。そのため、エリヤは神も恐れず、自分を殺そうとする彼らを避けて荒野に逃げました。そして、彼はそこで死のうとしました。自分が失敗したと思ったからです。しかし、神は御使いを遣わされ、彼を慰めてくださいました。「彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。起きて食べよ。見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだと言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。」(列王記上19:5-8) 私は今日の新約本文から、この旧約の本文を思い出しました。 私たちは、主なる神についてどう理解していますでしょうか? 毎週、教会に出席し、長年、説教を聴いていますが、本当に主が自分と近い方、自分を愛しておられる方という認識を持っているでしょうか? 罪を犯すと怒り、悔い改めなければ罰を下される怖い方、近寄りがたい方と思ってはいませんか。しかし、基本的に主が私たちを愛し、私たちが幸せに生きることを望んでおられる方だという信仰を持って生きるべきです。もちろん、主は正義の方ですので、罪を憎み、悪を嫌い、悔い改めない者を裁かれる方です。しかし、キリストによって救われた者たちには、もう一度悔い改めさせ、再び始めさせて、長い忍耐と愛とで待ってくださる方でもあります。改革派神学にはカルバン主義5大箇条というものがありますが(これについては次の機会に取り上げたいと思いますが) その中に「聖徒の堅忍」という項目があります。これは、主なる神は変わらない忍耐で主の民が人生を終えるまで、繰り返し罪を赦し、力を与えて導いてくださるということです。主は失敗した者を、決して見捨てられず、最後まで共に歩み、主のみもと暮らせるように助けてくれる方だからです。 締め括り 今日の新約本文のように、主のお赦しを受けたペトロは、主イエスの昇天後、初代教会の指導者として立派に福音を伝えました。そして、晩年には逆さまの十字架にかけられ、殉教します。彼は、死ぬまで決してイエスを裏切る人生を送っていませんでした。かえって、死を覚悟して主と教会に仕えながら生きました。彼の人生の変化に、赦し、慰め、力づけの主イエスの恵みがあったからではないでしょうか? 父なる神は主イエス・キリストを通して、今日も私たちの人生を見守っておられます。そして、私たちが失敗した時に叱らず、再び立ち上がることができるように助け、待ってくださいます。この失敗者に恵みを与えてくださる神のご恩寵を憶えながら生きる私たちでありますように祈り願います。

主イエスの復活

コリントの信徒への手紙一15章20-24節(新321頁) 前置き 主イエス•キリストの復活を喜びたたえます。この世のすべてを病ませ、滅ぼす死の権能に打ち勝ち、真の生命と永遠の喜びを与えてくださるために復活された主イエス•キリストの愛に感謝します。今日、主の復活を記念するために、ここに集っておられる皆さんに復活のキリストによる神の永遠の愛と恵みが豊かに注がれますように祈り願います。 1.復活の初穂 「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(1コリント15:20) 今日の本文はイエスが眠りについた人たち、すなわち死者の初めての実になってくださったと語ります。ここで初穂という言葉が出てきますが、イエスの復活のみが有意義な本当の復活であるという比喩としての表現です。おそらく、これは、主イエスが十字架で亡くなられる何日前、弟子たちに言い残された言葉に由来するものだと思います。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ福音書12:24) イエスの死はこの世のすべての人が体験しなければならない終わりとしての死ではありませんでした。すべての人の生涯は、死によって終わります。死後、誰も二度と愛する人たちに会うことができず、誰も自分がどこに行くのかが分からず、誰も死を飛び越えて帰ってくることができません。そのため、人は死を恐れ、できるだけ長生きすることを願います。しかし、イエスの死は、そのようなただの終わりではありませんでした。むしろ、イエスは死に呑み込まれず、父なる神の御恵みによって、死を乗り越え、復活されました。さらにイエスはご自分ひとりだけ、再び生き返られるのではなく、主を信じるすべての民にご自分の永遠な生命を分け与えてくださる生命の主として復活されたのです。 古代のイスラエル人は、種の芽生える過程を科学的に理解していませんでした。 彼らは種が地面に撒かれると死ぬと考えました。しかし、その種の死によって、数多くの新しい実が結ばれると思うだけでした。主イエスは数多くの実を結ぶために、進んで地面に落ちて死ぬ一粒の種のように、より多くの人に真の生命を与えてくださるために十字架にかけられ亡くなりました。しかし、イエスはそのまま死に消えてしまったわけではなく、復活してご自分を信じる者たちをまた別の実として復活するように招き、生命を与え、民にしてくださいました。この主イエスを信じて自分の主にした人はイエスによって2番目の実として呼び出された者なのです。主イエスを知る前は、ただ死を恐れていましたが、今では、その死が終わりではなく、新しい始まりのための死であることを知っています。私たちにおいて、一度の死は絶対に訪れてきます。しかし、それによって私たちのすべてが終わりになってしまうわけではありません。イエス•キリストが復活され、その方が生きておられるかぎり、その方の2番目の実として招かれた私たちは、永遠の生命の中におり、イエスがこの地に再び来られる終わりの日になれば、私たちはその方がくださった生命によって新しく復活するようになるでしょう。 2.アダムによる死、イエスによる生命 「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(1コリント15:21-22) 本文はアダムとイエスを比べることによって、なぜ、私たちにイエス•キリストが必要なのかを簡潔に説明しています。今日の本文には、突然、アダムという旧約の人物が出てきます。なぜ、いきなり、何の関係もなさそうなアダムが登場するのでしょうか? 新約聖書ローマ書はこう述べています。「しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。」(ローマ5:14) ローマ書はこの世に死が入ってきた経緯が初めての人間だったアダムの罪のためだと語っています。そして、彼の罪によって、アダムの子孫にも罪の影響が及ぼされ、この世のすべての人間が生まれつき罪人となり、また、その罪によって絶対に死ぬしかない存在となったと証しているのです。ところで、初めての人間アダムの罪と私自分の死には、何のかかわりがあるでしょうか? 聖書は「罪が支払う報酬は死である。」つまり、罪の結果は死だと語っています。私たち人間は罪人アダムの子孫として生まれたため、その罪に縛られているということです。悔しいが、聖書はアダムから始まった罪の影響が、相変わらず私たちの人生を支配しており、そのため、私たちも結局罪人として生まれ、罪人として死ぬしかない運命だと話しているのです。 ライオンは生まれた時からライオンです。いくら草を食って生きようといっても、ライオンは草を食っては生きることが出来ません。リンゴの木は種の時からリンゴの木です。リンゴの木にブドウが結ぶことはあり得ません。罪人アダムの子孫である私たち人間は生まれつき罪人であります。したがって、人間自らが「自分はアダムの子孫でもなく罪人でもない。」と言っても、人間が最初からアダムの子孫として罪を持って生まれたという事実は変わりません。だから、人間は、精一杯努力しても人間として生まれた以上、自分にある罪の痕跡を消すことができず、その罪のため、知らず知らずのうちに罪を犯してしまう惨めな存在なのです。それは自力ではどうにもならない呪いのようなものです。しかし、今日の本文は述べています。「アダムによって罪人となり、死ななければならない私たちでも、キリストによって贖われれば、永遠の生命を得、復活するようになるだろう。」アダムを罪人とお定めになった神(御子)は、そのアダムの罪を赦してくださるために自ら人間になられました。そして、その罪の償いのために自ら十字架の上で命を捨てました。しかし、主は死に負けず、新しい生命のために死に打ち勝ち、復活されました。神が人になって罪人のために亡くなった理由は、自ら人になってまで罪人を愛してくださったからです。初めての人間アダムの失敗を自ら人間になられ、成功にまで導かれた神の愛、イエスの復活はアダムの失敗を成功に変え、どんなことがあっても罪人を救おうとされた神の愛の極みなのです。 したがって、復活は罪人を新たにして正しい人に認めてくださる神の愛の象徴です。もちろん、文字通りにイエスを信じる者たちは、後々、死を乗り越えて完全な姿で復活するでしょう。しかし、復活は遠い将来の出来事だけの意味ではありません。私たちは罪人として生まれたが、私たちが信じる復活したイエスによって正しい人と見なされています。私たちは罪から完全に自由ではない状態で生きていますが、私たちの主イエスはすでに罪から完全に自由になったお方ですので、その方の民になった私たちも罪赦され、毎日、新しく始める機会を今でも得ています。そのため、キリスト者は毎日復活しています。毎日悔い改め、贖われることができるからです。だから、キリスト者は、すでに復活の中に生きる存在です。この地での私たちは罪から完全に自由ではありませんが、神はキリストによってすでに私たちを罪から自由になった存在だと見なしておられます。ということで、キリスト者は、もうこれ以上死を恐れる必要がありません。復活に生きる私たちは、主イエスの再臨の日、必ず主のみもとで復活するようになるでしょう。その日が来れば、復活した私たちは悲しみと苦しみから永遠に解放され、主と共に生きるでしょう。これが私たちキリスト者が持っている希望、まさに復活の信仰であるのです。 締め括り 年に一度、私たちはイースター礼拝を通して、主イエスの復活を記念します。しかし、今日だけがイースター(復活節)だと思わないでください。キリストのみもとにいる私たちは、毎日を復活の日として生きている存在です。今日、罪を犯してもキリストの恵みによって赦され、再び新しい明日を始めることができます。今日失敗しても、明日はキリストによって墓からよみがえった人のように新しい人生を始めることができるのです。だから、毎日毎日、主イエスの恵みを憶え、感謝し、新しい人生を生きるように希望を持って歩んでいきましょう。私たちはすでに復活のもとにいる存在です。その信仰によってイエス•キリストに倣って生きていきたいと思います。

十字架のイエスを仰ぎ見る。

イザヤ書53章1-7節(旧1149頁) ガラテヤの信徒への手紙2章19-20節(新345頁) 前置き 今日から受難週が始まります。多くのキリスト者が、この受難週を過ごしながら、キリストの苦難を憶え、自分の罪を悔い改め、主イエスの栄光の復活を記念します。ところで、私たちは主の苦難を記念してはいるものの、その苦難について、どれほど理解していますでしょうか。それは、人間が想像することも、言葉で言い表すことも、計り知ることもできない、深くて広い意味を持っています。それでも、私たちは主の苦難を理解できる範囲で学び、記念しければなりません。私たちが主の苦難をすべて理解できないこととは別に、その苦難の理由は、誰でもない私自身という罪人の救いのためだからです。今日の言葉を通じて、主の苦難を学び、心に留めて過ごす一週間であることを願います。 1.主イエスの苦難について 主イエスは、なぜ苦難を受けられなければならなかったでしょうか。初めに神が天地を創造された時、神はその完成を極めて喜ばれました。また、ご自分にかたどって人間を創り、何よりも満足されました。しかし、人は自分の欲望のために神を裏切る罪を犯し、その罪の結果、神との関係が絶えるようになってしまいました。永遠の命である神と断絶することになった人間に訪れたのは永遠の死であり、その永遠の死から人間の苦難は始まったのです。神と一緒に生きるために創造された人間が、神から離れることになったため、人間の苦難は必然的なものでした。けれども、神は苦難のもとにある人間を見捨てられず、人間を赦してくださるために自ら人間の姿で来られました。私たちはその方を私たちの主イエス•キリストと信じています。イエスは罪人を苦しめる永遠の死による苦難、つまり神との断絶という苦難をご自身の体で代わりに背負って、罪人を救うためにこの世に来られたのです。 そういうわけで、キリストは罪人が担うべき苦難と侮辱と断絶を代わりに担当してくださいました。三位一体なる神は、三つにおられるが一つなる神です。御父、御子、聖霊は、最初から最後まで、一つであり、お互いに絶対断絶できない関係でおられます。しかし、肉となって来られた神、御子イエスが人間の担うべき苦難を、代わりに背負い、十字架で死んでくださった時、神は人間の救いのために三位一体の関係から御子を断ち切って地獄のような苦難に投げかけられました。「陰府に下り」という使徒信条の告白は、このような神とキリストの断絶による苦難を言い表す表現であります。私たちもこの世を生きつつ、苦難に遭う時があります。しかし、私たちの苦難と主イエスの苦難は、質的に異なるものです。神は私たちの苦難に対しては、イエス•キリストという仲保者をくださり、私たちと一緒にいて守ってくださいますが、イエスの苦難に対しては、徹底的に背を向けて死へと導かれました。つまり、主イエスはすべての苦しみと痛みを徹底的におひとりで経験されたという意味です。 ここで、私たちが誤解してはならないことがあります。イエス•キリストの苦難を、ただの肉体の苦難として受け止めることです。イエスの苦難は聖晩餐の後、オリーブ山でローマ兵士に逮捕された時点から始まったものではありません。キリストの苦難は、御父がキリストをこの世に遣わそうと計画された時から、始まったのです。神が人間になるという発想そのものが、神にあり得ないことだからです。それだけに主は罪人を愛し、進んで苦難を受け、惜しげもなくご自身の命を捨てられたのです。したがって、主イエスの苦難は、私が受けるべき苦難であり、主イエスが神に見捨てられたことは、私の代わりに見捨てられたということを、私たちは絶対に忘れてはなりません。そして、そのすべての苦難を乗り切って復活された主イエス•キリストは永遠に変わらない私たちの仲保者として、過去にも、現在にも、未来にも私たちと一緒におられる方なのです。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(イザヤ53:5-6) 2.十字架-苦難が栄光になった象徴 キリストが、このように私たちの代わりに苦難を受けられたことにより、もはや私たちの苦難は、私たちを滅ぼす死の脅威としての苦難ではなく、キリストの御守りと御愛の中で乗り越えることが出来る苦難となりました。新約聖書では、こういう苦難(キリスト者として受ける苦難)を栄光のための必須要素としてまで描いているほどです。キリストはすでに死の苦難に打ち勝ち、主の恵みのもとで私たちと一緒におられます。だから、私たちの苦難は私たち自身を成長させる訓練にはなるものの、私たちを滅ぼす死の道具にはなりえません。主イエスが苦難の意味を変えてくださったからです。私たちはこれを十字架から学ぶことが出来ます。元々十字架はローマ帝国の処刑道具だったと言われます。 特に、ローマ皇帝や政権を脅かす政治犯や、ローマ市民を殺そうとしていた奴隷に下された残酷な刑罰で、長い時間、苦痛を与えつつ最大限に死なないようにし、人間の精神と肉体の限界まで追い詰めた後殺す、最もひどい刑罰でした。十字架刑に処せられる死刑囚は、気絶するまで厳しくムチに打たれました。 ムチ打ちのため、すでにぼろぼろとなった死刑囚は、18-50Kgの横型の大きな木の棒を担いで刑場まで歩いていきました。その時も、ムチ打ちは休まず続きました。刑場に到着した死刑囚は、5-7インチの金釘に手首とかかとが刺されました。背負っていた木の棒は、その後、さらに大きな縦型の棒に固定され、死刑囚は十字架につけられることになります。すると、死刑囚は体重を支えるために体を動かし、激しい苦痛がして死刑囚が気絶することもあると言われます。そんな状態で、死刑囚は死ぬまでパレスチナの乾燥した気候にさらされ、徐々に枯れていくかのように死んでしまいます。これが実際にローマ時代に行われた十字架刑でした。何の罪もない主イエスは、罪人の救いのためにこういう十字架に処せられ、死んでくださったのです。 ところで、この十字架刑は旧約の焼き尽くす献げ物に非常によく似ています。イスラエルの民が焼き尽くす献げ物のため神殿に上る際、傷のない献げ物(雄牛、雄羊、雄山羊、鳩)を持ってくると、祭司は彼の手を生け贄の頭に乗せ、彼の罪を犠牲に転嫁し屠らせました。そして、犠牲の血をとった祭司は、その血を祭壇の側面に振りまき、残りの血を祭壇の基に絞り出し、肉は完全に焼き尽くして神に捧げました。それは民の変わりに犠牲を屠り、民の罪を贖う意味を持っていたのです。主イエスもご自分の民の贖いのために、ご自分の血を流し、十字架につき、まるで燃え尽くされるようにパレスチナの乾燥した気候の中で死んでいったのです。もともと十字架は呪いと恥の象徴でしたが、主イエスはこの十字架の上で人類のすべての罪を担われたのです。その後、時が経ち、キリスト教はローマ帝国の国教となり、十字架も処刑道具からキリストの贖いと恵みの象徴と変わったのです。つまり、イエスは十字架で罪人の代わりに苦難を受け、焼き尽くす献げ物のように死んでくださいました。この意味が変わった十字架のように、主はご自分の苦難を通して、私たちの苦難を主の栄光に変えてくださったのです。 締め括り 「私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20) キリストは、私たちの救いのために苦難を受けて死に、私たちの平和のために復活されました。そして、キリストは私たちを主の苦難と十字架にお招きくださいました。キリストはすでに十字架で苦難を受け、救いを成し遂げられましたので、もはや我々の苦難は死に至る苦難ではありません。そして、十字架はもはや恥と死の十字架ではありません。私たちは主の苦難と十字架を黙想し、主の苦難から学び、主と共に生きていきます。私たちが苦難に遭った時、主はその苦難の中におられ、私たちが十字架を仰ぎ見る時、一緒にその十字架を背負ってくださるでしょう。主の苦難が私たちを正しい道へと導き、主の十字架は私たちの義を証明するでしょう。今年も受難週が始まりました。私たちはこの一週間をどう生きていくべきでしょうか。今日の本文を憶えて、苦難と十字架の主を謙遜と愛をもって従って生きたいと思います。

主イエスの栄光

詩編57編6節 (旧890頁) ヨハネによる福音書12章20~26節 (新192頁) 前置き 今、私たちは、レントの5週間目を過ごしています。12日後には主イエスの苦難を記念する受難節の聖金曜日を迎え、2週間後には主の復活を記念するイースター礼拝を守るようになります。罪人の救いのために贖いを成し遂げ、罪によって汚されたこの世を新たにしてくださるために、ご自分の貴い命を惜しげもなくささげられた主イエスの恵みを憶え、残りのレントを慎み深く、謙虚に過ごしてまいりたいと思います。 1.栄光を追い求める者たち 「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、お願いです。イエスにお目にかかりたいのですと頼んだ。」(ヨハネ福音12:20-21) ヨハネによる福音書12章は、イエスが十字架にかけられる約一週間前の物語です。12章以前、主イエスはイスラエルの各地を巡回されながら、福音を宣べ伝え、弱い者たちを癒し助け、御言葉を教えてくださいました。そのような活動の中に、病人が癒され、死者がよみがえるなど、特別な奇跡もありました。それらによって、多くの人々がイエスの活動と奇跡のため、主イエスには特別な何かがあると思うようになりました。主イエスは純粋な心で、そして、神の御心に従って、弱者を助け、御言葉を伝えられましたが、ある人々はそのイエスの活動について行き、イエスと一緒なら割り前をもらえるだろうと思ったかもしれません。実際、主の弟子の中にもそのような思いで加わった人もいました。主イエスの御心とは関係なく、イエスを通じて利益と名誉と権力を握ることができると思う人々がいたわけです。奇跡を行い、他人と違う特別さを持っておられたイエスが、もうすぐ大きな影響力を振るう人になり、イエスに従う自分たちにも特別な権力と名誉、そして財物がついてくると誤解したわけです。 ところで、イエスの奇跡と活躍が噂となってイスラエル全域に広がったためか、イエスがエルサレムに入られる時、数多くの人々がなつめやしの枝を持って歓迎しました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」(ヨハネ福音書12:13) 今日の本文によると、イスラエル人だけでなく遠くのギリシャから来た人々もイエスに会うことを願って訪ねてきたようです。彼らは異邦人ですが、ユダヤ教に改宗した人々でした。彼らはイエスを旧約聖書に記してあるメシアではないかと思って会おうとしたでしょう。ユダヤ人、異邦人を問わず、多くの人々がイエスの奇跡と活動によって、栄光のメシアを期待して、主に近づいてきたのではないかと思います。人々はイエスのこのような奇跡と活躍による人気が、イエスの栄光だと思いました。そして、いつか、イエスがイスラエルの王になると思っていました。ローマ帝国から自由になり、再びダビデの王国のような強力な国を打ち立てるだろうと誤解したわけでしょう。人々が思う栄光とは、輝かしくて美しい何かです。イエスの栄光によって、自分も栄光を受けるためにイエスに従う人も多かったでしょう。何かを得るためにイエスを信じることは望ましくありません。イエスを用いて栄光を得ようとすることはなおさらです。私たちはイエスを通して何か良いものを得るために信じているのではないでしょうか? 2.キリストの栄光 しかし、私たちは、主イエスが十字架にかけられ死んでくださったことをすでに知っています。イエスは決して人々が思う栄光をすぐには得られないでしょう。主は必ず十字架で死ぬことになるでしょう。それが、父なる神がお定めになった救いの計画なのです。主イエスが十字架で死んでからこそ真の贖いが成し遂げられ、それによって父なる神の御心が成就し、次の段階(罪人とこの世の救い)に進むことができるからです。「イエスはこうお答えになった。人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ福音書12:23-24) 多くの人々が栄光のイエスに会うためにイエスをほめたたえました。遠いギリシャから来た改宗した異邦人たちもイエスの栄光を見ようと会うことを望んでいました。しかし、イエスは彼らの心とは全く違うことを言われました。以上の本文を意訳するとこうなります。「私は一粒の麦のように死ぬだろう。しかし、私の死によって数多くの実が結ぶようになるだろう。それがわたしの栄光である。」人々がイエスの輝かしい栄光を期待した時、イエスはご自分の栄光は死ぬことだと宣言されたのです。しかし、ただ死ぬのではなく、その死によって、より多くの罪人が救われる有意義な死でした。つまり、イエスの栄光は十字架での死にあったのです。 主イエスの栄光は、逆説的な栄光です。生き延びるとしての栄光ではなく、すすんで死ぬ栄光です。高くあげられる栄光ではなく、低い底に向かう栄光です。キリストの栄光が持つ意味は、誰かに君臨して高まる輝かしい何かではありません。以前、皆さんに話したことがありますが、聖書が語る栄光は「輝かしい何か」ではありません。「ある存在が最もその存在らしい姿であること」が聖書的な光栄です。創造主である神は被造物に礼拝される時に栄光を受けます。神はすべての被造物に礼拝されるために創造を成し遂げられた方だからです。主イエスが受肉された理由は、十字架で贖いの死を成し遂げ、罪を赦し、悪の権勢を打ち砕いて新しい天と新しい地をもたらしてくださるためです。ということで、イエスの死はイエスの栄光になります。十字架の死のために聖肉された方だからです。だから、逆説的な光栄なのです。その死によって主イエスのお務めを全うされた時、父なる神は主イエスを復活させられ、その後イエスにこの世を統治する王としての真の栄光を与えてくださいました。 3.私たちの栄光 それでは、私たちが求めるべき栄光は何でしょうか? 私たちの栄光についてのヒントは、今日の本文の25,26節に書いてあります。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ福音12:25-26) イエスのおかげで輝かしい何かを得ることが、私たちの栄光ではないと聖書は語ります。上記の本文に書いてある言葉をよく考えてみましょう。「自分の命を憎む者」もちろん、これは自分の命を本当に憎めという意味ではありません。ここで言う命は否定的なニュアンスを持っています。自分の欲望、自分の有益だけを追い求める姿を意味すると言えます。 私たちは主なる神の御心をわきまえて、自分の欲望を盲目的に追求してはなりません。「主に仕えようとする者」 主に仕えるということは、その方の生き方に倣って主に聞き従って生きることです。具体的に言うと、神と隣人を愛することであり、主イエスの御言葉に従って生きることを意味します。つまり、自分の欲望を節制し、主イエスの生き方に倣い、聞き従って生きることこそ、キリスト者の真の栄光です。聖書は、そのような人生を生きる者を父なる神が大切にしてくださると語っているのです。 締め括り 先ほど、私は聖書が語る栄光の意味について「ある存在が最もその存在らしい姿であること」と言いました。キリストの贖いと救いによって、主の民となった私たちは、もはや、自分自身の奴隷ではなく主イエスの民と生まれ変わったことを常に憶えて生きていくべきです。主イエスの民にとっての栄光は「主イエスの民として、主の御言葉に聞き従い、主の御心をわきまえて、神と隣人を愛して生きること」です。それが主なる神が望んでおられる私たちのあり方であり、それこそが、この世を生きる私たちが求めるべき栄光の実体なのです。レントの期間がもうすぐ終わります。私たちは自分の栄光とは何であるか、顧みながら、この時を過ごすべきです。主イエスが教えてくださった私たちの栄光を心に留め、主の御言葉に聞き従い、主に倣って生きる私たちでありますように祈り願います。