全的堕落

ローマの信徒への手紙3章10-12節(新276頁) 前置き 今日は、教理の説教をしたいと思います。先日、ご自分の民を絶対にあきらめられない主なる神の愛について説教しながら、手短に「聖徒の堅忍」についても話しました。神がご自分の民の救いのために、彼らの失敗の時にも絶対にあきらめられず、また、主の民が信仰をあきらめようとする時も、最後まで信仰を守り続けるように堅固に忍耐して導いてくださるということについての話しでした。この「聖徒の堅忍」という概念は、ドルト信仰基準を縮約した「カルヴァン主義五大教理」の第5項に該当します。これをきっかけに、連続説教としてカルヴァン主義5大教理について学んでみようと思います。教理説教は、多少講義のようなところがあり、退屈になりやすいですが、ご理解お願いします。しかし、集中してお聴きいただければ信仰の常識に役立つものになると信じます。よろしくお願いします。 1。長老派教会の歴史のあらすじ まず、教理の話の前に、私たちが属している長老教会の成立について探ってみましょう。中世の教会はヨーロッパ社会の中核でした。自然に権力と財物と名誉で点綴されていました。そのため、教会の中に誤った慣習が生まれるようになりました。その一つが有名な免罪符です。司祭だったマーティン·ルーサーは、教会の間違いに気づき、ひとえに御言葉に帰ろうという趣旨で宗教改革を触発することになります。それはヨーロッパ全体に広がりましたが、そのうち、フランス出身で、スイスのジュネーブで活動していたジャン·カルヴァンにも影響を及ぼすようになりました。 ジャン·カルヴァンはスイス改革教会の成立に貢献した人物で、スコットランドのジョン·ノックスも、彼に影響を受けるようになります。さて、イギリスでの旧教と新教の対立のため、スイスに亡命したプロテスタントの人々がいましたが、ジョン·ノックスは彼らの招聘によりスイスに来ることになります。それをきっかけにジャン·カルヴァンの影響を受けることにもなり、将来、祖国に帰って長老教会を形成することになります。時間が経ち、イギリスのプロテスタント教会は宗教的な弾圧を避けて新大陸(アメリカ)に渡り、19世紀に入ってアメリカの長老教会から派遣された宣教師たちによって日本にも教会が建てられるようになりました。それが日本キリスト教会の始まりにつながります。長老教会はすなわち改革教会であり、改革教会は聖書の御言葉を最優先にして御言葉に従って絶えず自らを改革していく教会です。 2. 改革教会神学への抗論 – アルミニアン主義 上記のような理由で長老教会はジャン·カルヴァンの教えに多く影響を受け、教理を大事にします。長老派の教理の中で特に重要な概念は、神がすべてをあらかじめ定められたという予定説です。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1:4)「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」(エフェソ1:11) カルヴァンはこれらの言葉を根拠にし、予定教理を整理したでしょう。ところが、これは論争をもたらしてしまいました。「神がすべてをあらかじめ定められたなら、未信者と彼らの滅びもあらかじめ定まっているのか?」という疑問のためでした。実は、ジャン·カルヴァンが予定説を大事に考えた理由は「すべてをあらかじめお定めになる主なる神の全能さ」を強調するためだったが、誰かは神の独断的な予定によって最初から救われない人がいるということが誤った聖書解釈ではないかと受け止めてしまった結果なのです。そんな理由で、予定説に問題を提起した人々は、人間の自由意志を大事にしました。神学の歴史では、彼らをアルミニアン主義者と名付けました。ヤコブ·アルミニウスという神学者から始まったからです。 そして、以下はアルミニアン主義5箇条と呼ばれる聖書解釈です。①自由意志:人は全的に堕落したが、神の救いへの招きに対し、人には自由意志を働かせて応答する力が残されている。②条件的な選び:神は誰がキリストを信じるかを予知によってご存じであり、その者を救う。③普遍的な贖罪:イエスの十字架は、善人悪人を問わず、すべての人のためにあった。④聖霊への拒否は有効である: 人間の自由意志はキリストの贖いを適用することにおいて聖霊を制限する。罪人が応じなければ聖霊は生命を与えることができない。すなわち、神の恩寵は拒否されることができる。⑤恵みからの堕落:信仰によって本当の救いを得る者も、信仰に失敗すると救いを失うことがある。(アルミニアン主義は将来メソジスト教会に大きい影響を及ぼします。)確かに聖書を解釈する方法につれて、これらのような主張も出てくるかもしれません。しかし、彼らは人間の自由意志を強調したあまり、神の全能さを損ねる主張をしてしまいました。そこで、改革教会は、1618 年、オランダのドルトで会議を開き、アルミニアン主義5箇条に反論するドルト信仰基準を作成しました。ドルト信仰基準の骨子は以下の5つの教義で縮約することができます。 3.カルヴァン主義5大教理と第1項の全的堕落 ①全的堕落:人は全的に堕落し罪の奴隷となった。救いへの招きに応じることも、霊的なことを考える力も失った。ただ聖霊が私たちを造り変えることによってのみ、応答できる。②無条件的な選び:神は人の内にある何らかの救われる資質(条件)を見たから救うのではなく無条件である。③限定的な贖罪:イエスの贖いは選ばれた民だけのものである。イエスの血は悔い改めない罪人のために無駄に流されたのではない。④不可抗的な恵み:神が救おうと意図されたなら、その人は抵抗することはできず、必ず救われる。⑤聖徒の堅忍:神は一度救った者の信仰を彼が死ぬまで守り抜かれる。その生涯において、その人が神から離れたように見える時もあるが、最終的に信仰は個人の努力ではなく、神の恵みによって守られる。改革教会は上に説明したアルミニアン5箇条に反論し、このような教理を整理しました。(週報の裏面に比較整理しておきましたので対照しながらご覧ください。) 今日は時間の関係で、第1項全的堕落についてだけ話してみましょう。今日の本文のローマ書は、こう述べています。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:10-12) 旧約聖書、創世記によると、最初の人間であるアダムとエヴァは、主なる神が絶対に取って食べるなと命じられた禁断の果実(善悪の知識の木の実)を取って食べてしまいました。「主なる神は人に命じて言われた。園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16-17) 神は最初の人間を完全な存在に創造されました。 彼らは神にかたどって造られた存在なので、神に似ており、完全な善を行うことができる力を持っていました。神は彼らを操り人形ではなくご自分の子供に創造されたため「自由意志」を与えてくださいました。そのため、彼らは善と悪を区別し、選べる「選びの自由」を持っていました。そして、神は、彼らが自由意志をもって従順に行うかを判断する手立てとして善悪の知識の木をエデンの園の真ん中に置かれたのです。しかし、結局、人間は神が禁じられた木の実を取って食べてしまいました。自由意志を神の御言葉への服従ではなく、自分の欲望の達成のために使ってしまったのです。その結果、人間は堕落し、必ず死ぬことになってしまいました。 ある人たちは、神が禁じられた実を食べたことが、そんなに大きな罪なのか、一度の過ちも勘弁してくれないのか、それによって堕落と裁くのはやりすぎではないかと思うかもしれません。しかし、何かを食べたのが問題ではなく、神の御言葉に逆らったというのが問題です。完全な善を行える力があるにもかかわらず、故意に悪を選んだのに、神への逆らいが隠れているからです。そして、これが人間の原罪となりました。原罪はアダムが犯した罪だけに限りません。アダムが代表する人間全体に隠れている神に逆らう罪の種を意味するのです。したがって、人間は基本的に罪の性質を持って生まれます。改革神学は、これを「全的堕落」と定義します。これは完全に堕落し、悪魔のようになるという意味とは異なります。罪のため、自力で神の御心に服従できないということ、何よりも自力で神の救いの福音を受け入れることが出来ないという意味です。なぜなら、人間自らの力では神の御心に完全に聞き従うことが不可能だからです。この世には善良な人々が数え切れないほど多いです。キリスト者よりも善い人がたくさんいます。しかし、神の恵み、キリストの贖い、聖霊の導きがなければ、彼らは決して自ら神を知り、信じることができません。善良さと信仰は別の問題だからです。 締め括り 改革教会の予定説に異議を唱えたアルミニアン主義は「人は全的に堕落したが、神の救いへの招きに対し、人は自由意志を働かせて、応答する力が残されている。」と人の力で神を信じ、救いを得るか拒むかができると信じました。しかし、改革教会は「人は全的に堕落し罪の奴隷となった。救いへの招きに応じることも、霊的なことを考える能力も失った。ただ聖霊が私達を造り変えることによってのみ、応答する。」と信じます。皆さんはどう思われますか? 私たちに自ら神を信じ、神と協力して救いを得る力がありますでしょうか。私はアルミニアン主義を盲目的に批判するつもりではありません。部分的にその主張に頷ける時もありました。しかし、人間自らが神と協力して救いを手に入れるということについては全面的に反対です。もしそうなるのならば、神の恵みとキリストの贖いは価値を失ってしまうでしょう。人間は自ら神を信じ、自分の救いに力を加えることができません。それが全的堕落という言葉に含まれた意味なのです。ひとえに父なる神の計画、イエス•キリストの贖い、聖霊の導きによってのみ信じることができ、救われることが出来るのです。それだけが移り変わりなく、私たちの完全な救いを保証するからです。

失敗した者のための恵み

列王記上19章1-8節(旧565頁) ヨハネによる福音書21章1-14節(新209頁) 前置き 復活節後の最初の主日を迎えました。今日は復活された主イエスのお歩みの中でガリラヤ湖畔でペトロと弟子たちに現れ、慰め、力をつけてくださった物語について話したいと思います。主イエスの生前、一番弟子と呼ばれたペトロは主イエスを絶対に裏切らないという約束を守れず「鶏が鳴く前に三度」イエスのことを知らないと言ってしまいました。(マタイ26:33-35) ペトロだけでなく、他の弟子たちもイエスが逮捕されると、皆見捨てて逃げました。そんな彼らはイエスが復活された時、どんな気持ちだったでしょうか?復活されたイエスを喜びで歓迎することができましたでしょうか? もしかしたら、弟子たちは自分が裏切り者であり、失敗者であると自責していたかもしれません。今日の新約本文では、そのような弟子たちに再び現れ、慰め、力をつけてくださったイエスの愛を覗き見ることができます。 1. ガリラヤ湖畔でご自分を現わされたイエス 「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。」(ヨハネ福音21:1)「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」(ヨハネ福音21:14)今日の本文の始まりと終わりには「イエスが··· 現わされた。現れた。」という言葉があります。ここで「現わす。現れる。」は、ギリシャ語の「ファネロー」を訳した表現です。この言葉は「明白に現れる」という基本的な意味を持っていますが、単純に「隠れた何かが現れる。」みたいな物理的に現れることではなく、より深い意味を持っています。例えば、ローマ書1章19節「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。」(ローマ書1:19) この言葉の中で「明らかだ」「示された」という表現が記されていますが、日本語の聖書には「現れる」「明らかだ」「示される」など、それぞれ異なる表現で書いてありますが、ギリシャ語では全て同じ「ファネロー」をベースにしています。このように「ファネロー」は神の啓示や御業を示すニュアンスの言葉として使われます。主イエスが現れられたのは、ご自分を裏切った弟子たちへの罰のためではなく、主の福音を世に宣べ伝え、主のための人生を生きる、新たな機会をくださるために、啓示のような意味としての行動だったのです。 私たちは主イエスに直接会い、目で見て、手で触って、口で話してから信じるようになったわけではありません。しかし、私たちはイエスが御言葉によって、ご自分のことを明白に示されたということを信じています。主がご自分のことを示してくださったから、私たちはイエスを主と認め、主を中心に教会を成すことができるのです。聖書は語ります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ福音1:14) 聖書は神の子イエス•キリストがすなわち神の御言そのものであると証します。ここで御言を意味するギリシャ語「ロゴス」は神の御心とも言えます。神は主の御言、主の御心そのものである御子イエス•キリストに肉体を与え、人々の間に遣わしてくださいました。だから、イエスが私たちに現れてくださったのは、神の「啓示」だとも言えるのです。この神の啓示は世のすべての人々に当たり前に示されるものではありません。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」(ヨハネ福音書1:10) ひとえに主に選ばれた者だけにご自分を現わされ、啓示を知ように導いてくださるのです。復活されたイエスは失敗した弟子たちの前に「現れました」。そして、もう一度、主の弟子として生きるように特別な恩寵をくださいました。それは弟子たちを使徒らしく生まれ変わらせる主の啓示そのものだったのです。 2. ガリラヤに訪れたイエス 「イエスはティベリアス湖畔で」引き続き、ヨハネ福音21章1節の言葉を見ると、ティベリアス湖という言葉がありますが、これはガリラヤ湖の別の名です。(ガリラヤ湖の北西のティベリアスという町に影響を受けた。)イスラエルがアッシリアとバビロンに滅ぼされた後、イスラエル北部地域では異邦人との混血が生じたため、捕囚から帰ってきた純血ユダヤ人に認められない地域でした。ということで、ガリラヤ地域の人々は差別されていました。エルサレムがメージャーなら、ガリラヤはマイナでした。ところで、なぜ、エルサレムでイエスと一緒にいたペトロと弟子たちは、ガリラヤに帰ってしまったのでしょうか? イエスは彼らにご自分のこと、すなわち福音伝道の使命を与えてくださるために、3年間苦楽を共にしながら教えてくださったのにでしょう。エルサレムにそのまま残って、主のお働きを受け継いで活動すべきだったのではないでしょうか? もしかしたら、ペトロはイエスを裏切ったという罪悪感のため、すべてをあきらめてガリラヤに帰ってきたのであるかもしれません。ということで、私はエルサレムからガリラヤへの帰郷に、ペトロの挫折と悲しみが潜んでいるのではないかと思いました。「イエスを裏切ったのにどうして主の弟子として生きられるのか?」というペトロの挫折と悲しみでしょう。 イスラエル社会のメジャーであるエルサレムを離れ、マイナーであるガリラヤに帰ったということから、ペトロの気持ちをかいま見ます。しかし、主イエスはペトロと弟子たちを探してガリラヤに来られました。主なる神はメジャーだけを好まれる方ではなく、ご自分の民のためなら喜んでマイナーに向かって行かれる方です。罪人の救いために栄光の天の玉座を捨て、みじめな地上にまで来られたことからも分かります「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」(ヨハネ福音21:9) 主はペトロと弟子たちに「パンと魚」の朝食を準備され、ペトロが罪悪感から自由になるよう慰めてくださいました。聖書学者の中には「パンと魚」が聖餐を意味すると解釈する人々もいます。聖餐を通して、キリスト者は自分がイエスに属する存在であることを確認します。もしかしたら、ペトロはその日の朝、「パンと魚」による聖餐を通して、自分が誰に属している存在なのかを再確認したかもしれません。イエスは赦してくださる方です。それによって、もう一度再出発する機会と力を与えてくださる方です。 3. 失敗した者を助け起こされるイエス イスラエルの神の預言者であるエリヤは偶像を崇拝する北イスラエルのバアルとアセラの預言者たちと対決して勝ち、彼らを皆殺しました。それは主なる神の恐ろしい裁きでした。ところが、北イスラエルの王アハブと王妃イゼベルは、神の裁き恐れずに、エリヤを絶対に殺すと警告します。そのため、エリヤは神も恐れず、自分を殺そうとする彼らを避けて荒野に逃げました。そして、彼はそこで死のうとしました。自分が失敗したと思ったからです。しかし、神は御使いを遣わされ、彼を慰めてくださいました。「彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。起きて食べよ。見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだと言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。」(列王記上19:5-8) 私は今日の新約本文から、この旧約の本文を思い出しました。 私たちは、主なる神についてどう理解していますでしょうか? 毎週、教会に出席し、長年、説教を聴いていますが、本当に主が自分と近い方、自分を愛しておられる方という認識を持っているでしょうか? 罪を犯すと怒り、悔い改めなければ罰を下される怖い方、近寄りがたい方と思ってはいませんか。しかし、基本的に主が私たちを愛し、私たちが幸せに生きることを望んでおられる方だという信仰を持って生きるべきです。もちろん、主は正義の方ですので、罪を憎み、悪を嫌い、悔い改めない者を裁かれる方です。しかし、キリストによって救われた者たちには、もう一度悔い改めさせ、再び始めさせて、長い忍耐と愛とで待ってくださる方でもあります。改革派神学にはカルバン主義5大箇条というものがありますが(これについては次の機会に取り上げたいと思いますが) その中に「聖徒の堅忍」という項目があります。これは、主なる神は変わらない忍耐で主の民が人生を終えるまで、繰り返し罪を赦し、力を与えて導いてくださるということです。主は失敗した者を、決して見捨てられず、最後まで共に歩み、主のみもと暮らせるように助けてくれる方だからです。 締め括り 今日の新約本文のように、主のお赦しを受けたペトロは、主イエスの昇天後、初代教会の指導者として立派に福音を伝えました。そして、晩年には逆さまの十字架にかけられ、殉教します。彼は、死ぬまで決してイエスを裏切る人生を送っていませんでした。かえって、死を覚悟して主と教会に仕えながら生きました。彼の人生の変化に、赦し、慰め、力づけの主イエスの恵みがあったからではないでしょうか? 父なる神は主イエス・キリストを通して、今日も私たちの人生を見守っておられます。そして、私たちが失敗した時に叱らず、再び立ち上がることができるように助け、待ってくださいます。この失敗者に恵みを与えてくださる神のご恩寵を憶えながら生きる私たちでありますように祈り願います。

主イエスの復活

コリントの信徒への手紙一15章20-24節(新321頁) 前置き 主イエス•キリストの復活を喜びたたえます。この世のすべてを病ませ、滅ぼす死の権能に打ち勝ち、真の生命と永遠の喜びを与えてくださるために復活された主イエス•キリストの愛に感謝します。今日、主の復活を記念するために、ここに集っておられる皆さんに復活のキリストによる神の永遠の愛と恵みが豊かに注がれますように祈り願います。 1.復活の初穂 「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(1コリント15:20) 今日の本文はイエスが眠りについた人たち、すなわち死者の初めての実になってくださったと語ります。ここで初穂という言葉が出てきますが、イエスの復活のみが有意義な本当の復活であるという比喩としての表現です。おそらく、これは、主イエスが十字架で亡くなられる何日前、弟子たちに言い残された言葉に由来するものだと思います。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ福音書12:24) イエスの死はこの世のすべての人が体験しなければならない終わりとしての死ではありませんでした。すべての人の生涯は、死によって終わります。死後、誰も二度と愛する人たちに会うことができず、誰も自分がどこに行くのかが分からず、誰も死を飛び越えて帰ってくることができません。そのため、人は死を恐れ、できるだけ長生きすることを願います。しかし、イエスの死は、そのようなただの終わりではありませんでした。むしろ、イエスは死に呑み込まれず、父なる神の御恵みによって、死を乗り越え、復活されました。さらにイエスはご自分ひとりだけ、再び生き返られるのではなく、主を信じるすべての民にご自分の永遠な生命を分け与えてくださる生命の主として復活されたのです。 古代のイスラエル人は、種の芽生える過程を科学的に理解していませんでした。 彼らは種が地面に撒かれると死ぬと考えました。しかし、その種の死によって、数多くの新しい実が結ばれると思うだけでした。主イエスは数多くの実を結ぶために、進んで地面に落ちて死ぬ一粒の種のように、より多くの人に真の生命を与えてくださるために十字架にかけられ亡くなりました。しかし、イエスはそのまま死に消えてしまったわけではなく、復活してご自分を信じる者たちをまた別の実として復活するように招き、生命を与え、民にしてくださいました。この主イエスを信じて自分の主にした人はイエスによって2番目の実として呼び出された者なのです。主イエスを知る前は、ただ死を恐れていましたが、今では、その死が終わりではなく、新しい始まりのための死であることを知っています。私たちにおいて、一度の死は絶対に訪れてきます。しかし、それによって私たちのすべてが終わりになってしまうわけではありません。イエス•キリストが復活され、その方が生きておられるかぎり、その方の2番目の実として招かれた私たちは、永遠の生命の中におり、イエスがこの地に再び来られる終わりの日になれば、私たちはその方がくださった生命によって新しく復活するようになるでしょう。 2.アダムによる死、イエスによる生命 「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(1コリント15:21-22) 本文はアダムとイエスを比べることによって、なぜ、私たちにイエス•キリストが必要なのかを簡潔に説明しています。今日の本文には、突然、アダムという旧約の人物が出てきます。なぜ、いきなり、何の関係もなさそうなアダムが登場するのでしょうか? 新約聖書ローマ書はこう述べています。「しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。」(ローマ5:14) ローマ書はこの世に死が入ってきた経緯が初めての人間だったアダムの罪のためだと語っています。そして、彼の罪によって、アダムの子孫にも罪の影響が及ぼされ、この世のすべての人間が生まれつき罪人となり、また、その罪によって絶対に死ぬしかない存在となったと証しているのです。ところで、初めての人間アダムの罪と私自分の死には、何のかかわりがあるでしょうか? 聖書は「罪が支払う報酬は死である。」つまり、罪の結果は死だと語っています。私たち人間は罪人アダムの子孫として生まれたため、その罪に縛られているということです。悔しいが、聖書はアダムから始まった罪の影響が、相変わらず私たちの人生を支配しており、そのため、私たちも結局罪人として生まれ、罪人として死ぬしかない運命だと話しているのです。 ライオンは生まれた時からライオンです。いくら草を食って生きようといっても、ライオンは草を食っては生きることが出来ません。リンゴの木は種の時からリンゴの木です。リンゴの木にブドウが結ぶことはあり得ません。罪人アダムの子孫である私たち人間は生まれつき罪人であります。したがって、人間自らが「自分はアダムの子孫でもなく罪人でもない。」と言っても、人間が最初からアダムの子孫として罪を持って生まれたという事実は変わりません。だから、人間は、精一杯努力しても人間として生まれた以上、自分にある罪の痕跡を消すことができず、その罪のため、知らず知らずのうちに罪を犯してしまう惨めな存在なのです。それは自力ではどうにもならない呪いのようなものです。しかし、今日の本文は述べています。「アダムによって罪人となり、死ななければならない私たちでも、キリストによって贖われれば、永遠の生命を得、復活するようになるだろう。」アダムを罪人とお定めになった神(御子)は、そのアダムの罪を赦してくださるために自ら人間になられました。そして、その罪の償いのために自ら十字架の上で命を捨てました。しかし、主は死に負けず、新しい生命のために死に打ち勝ち、復活されました。神が人になって罪人のために亡くなった理由は、自ら人になってまで罪人を愛してくださったからです。初めての人間アダムの失敗を自ら人間になられ、成功にまで導かれた神の愛、イエスの復活はアダムの失敗を成功に変え、どんなことがあっても罪人を救おうとされた神の愛の極みなのです。 したがって、復活は罪人を新たにして正しい人に認めてくださる神の愛の象徴です。もちろん、文字通りにイエスを信じる者たちは、後々、死を乗り越えて完全な姿で復活するでしょう。しかし、復活は遠い将来の出来事だけの意味ではありません。私たちは罪人として生まれたが、私たちが信じる復活したイエスによって正しい人と見なされています。私たちは罪から完全に自由ではない状態で生きていますが、私たちの主イエスはすでに罪から完全に自由になったお方ですので、その方の民になった私たちも罪赦され、毎日、新しく始める機会を今でも得ています。そのため、キリスト者は毎日復活しています。毎日悔い改め、贖われることができるからです。だから、キリスト者は、すでに復活の中に生きる存在です。この地での私たちは罪から完全に自由ではありませんが、神はキリストによってすでに私たちを罪から自由になった存在だと見なしておられます。ということで、キリスト者は、もうこれ以上死を恐れる必要がありません。復活に生きる私たちは、主イエスの再臨の日、必ず主のみもとで復活するようになるでしょう。その日が来れば、復活した私たちは悲しみと苦しみから永遠に解放され、主と共に生きるでしょう。これが私たちキリスト者が持っている希望、まさに復活の信仰であるのです。 締め括り 年に一度、私たちはイースター礼拝を通して、主イエスの復活を記念します。しかし、今日だけがイースター(復活節)だと思わないでください。キリストのみもとにいる私たちは、毎日を復活の日として生きている存在です。今日、罪を犯してもキリストの恵みによって赦され、再び新しい明日を始めることができます。今日失敗しても、明日はキリストによって墓からよみがえった人のように新しい人生を始めることができるのです。だから、毎日毎日、主イエスの恵みを憶え、感謝し、新しい人生を生きるように希望を持って歩んでいきましょう。私たちはすでに復活のもとにいる存在です。その信仰によってイエス•キリストに倣って生きていきたいと思います。

十字架のイエスを仰ぎ見る。

イザヤ書53章1-7節(旧1149頁) ガラテヤの信徒への手紙2章19-20節(新345頁) 前置き 今日から受難週が始まります。多くのキリスト者が、この受難週を過ごしながら、キリストの苦難を憶え、自分の罪を悔い改め、主イエスの栄光の復活を記念します。ところで、私たちは主の苦難を記念してはいるものの、その苦難について、どれほど理解していますでしょうか。それは、人間が想像することも、言葉で言い表すことも、計り知ることもできない、深くて広い意味を持っています。それでも、私たちは主の苦難を理解できる範囲で学び、記念しければなりません。私たちが主の苦難をすべて理解できないこととは別に、その苦難の理由は、誰でもない私自身という罪人の救いのためだからです。今日の言葉を通じて、主の苦難を学び、心に留めて過ごす一週間であることを願います。 1.主イエスの苦難について 主イエスは、なぜ苦難を受けられなければならなかったでしょうか。初めに神が天地を創造された時、神はその完成を極めて喜ばれました。また、ご自分にかたどって人間を創り、何よりも満足されました。しかし、人は自分の欲望のために神を裏切る罪を犯し、その罪の結果、神との関係が絶えるようになってしまいました。永遠の命である神と断絶することになった人間に訪れたのは永遠の死であり、その永遠の死から人間の苦難は始まったのです。神と一緒に生きるために創造された人間が、神から離れることになったため、人間の苦難は必然的なものでした。けれども、神は苦難のもとにある人間を見捨てられず、人間を赦してくださるために自ら人間の姿で来られました。私たちはその方を私たちの主イエス•キリストと信じています。イエスは罪人を苦しめる永遠の死による苦難、つまり神との断絶という苦難をご自身の体で代わりに背負って、罪人を救うためにこの世に来られたのです。 そういうわけで、キリストは罪人が担うべき苦難と侮辱と断絶を代わりに担当してくださいました。三位一体なる神は、三つにおられるが一つなる神です。御父、御子、聖霊は、最初から最後まで、一つであり、お互いに絶対断絶できない関係でおられます。しかし、肉となって来られた神、御子イエスが人間の担うべき苦難を、代わりに背負い、十字架で死んでくださった時、神は人間の救いのために三位一体の関係から御子を断ち切って地獄のような苦難に投げかけられました。「陰府に下り」という使徒信条の告白は、このような神とキリストの断絶による苦難を言い表す表現であります。私たちもこの世を生きつつ、苦難に遭う時があります。しかし、私たちの苦難と主イエスの苦難は、質的に異なるものです。神は私たちの苦難に対しては、イエス•キリストという仲保者をくださり、私たちと一緒にいて守ってくださいますが、イエスの苦難に対しては、徹底的に背を向けて死へと導かれました。つまり、主イエスはすべての苦しみと痛みを徹底的におひとりで経験されたという意味です。 ここで、私たちが誤解してはならないことがあります。イエス•キリストの苦難を、ただの肉体の苦難として受け止めることです。イエスの苦難は聖晩餐の後、オリーブ山でローマ兵士に逮捕された時点から始まったものではありません。キリストの苦難は、御父がキリストをこの世に遣わそうと計画された時から、始まったのです。神が人間になるという発想そのものが、神にあり得ないことだからです。それだけに主は罪人を愛し、進んで苦難を受け、惜しげもなくご自身の命を捨てられたのです。したがって、主イエスの苦難は、私が受けるべき苦難であり、主イエスが神に見捨てられたことは、私の代わりに見捨てられたということを、私たちは絶対に忘れてはなりません。そして、そのすべての苦難を乗り切って復活された主イエス•キリストは永遠に変わらない私たちの仲保者として、過去にも、現在にも、未来にも私たちと一緒におられる方なのです。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(イザヤ53:5-6) 2.十字架-苦難が栄光になった象徴 キリストが、このように私たちの代わりに苦難を受けられたことにより、もはや私たちの苦難は、私たちを滅ぼす死の脅威としての苦難ではなく、キリストの御守りと御愛の中で乗り越えることが出来る苦難となりました。新約聖書では、こういう苦難(キリスト者として受ける苦難)を栄光のための必須要素としてまで描いているほどです。キリストはすでに死の苦難に打ち勝ち、主の恵みのもとで私たちと一緒におられます。だから、私たちの苦難は私たち自身を成長させる訓練にはなるものの、私たちを滅ぼす死の道具にはなりえません。主イエスが苦難の意味を変えてくださったからです。私たちはこれを十字架から学ぶことが出来ます。元々十字架はローマ帝国の処刑道具だったと言われます。 特に、ローマ皇帝や政権を脅かす政治犯や、ローマ市民を殺そうとしていた奴隷に下された残酷な刑罰で、長い時間、苦痛を与えつつ最大限に死なないようにし、人間の精神と肉体の限界まで追い詰めた後殺す、最もひどい刑罰でした。十字架刑に処せられる死刑囚は、気絶するまで厳しくムチに打たれました。 ムチ打ちのため、すでにぼろぼろとなった死刑囚は、18-50Kgの横型の大きな木の棒を担いで刑場まで歩いていきました。その時も、ムチ打ちは休まず続きました。刑場に到着した死刑囚は、5-7インチの金釘に手首とかかとが刺されました。背負っていた木の棒は、その後、さらに大きな縦型の棒に固定され、死刑囚は十字架につけられることになります。すると、死刑囚は体重を支えるために体を動かし、激しい苦痛がして死刑囚が気絶することもあると言われます。そんな状態で、死刑囚は死ぬまでパレスチナの乾燥した気候にさらされ、徐々に枯れていくかのように死んでしまいます。これが実際にローマ時代に行われた十字架刑でした。何の罪もない主イエスは、罪人の救いのためにこういう十字架に処せられ、死んでくださったのです。 ところで、この十字架刑は旧約の焼き尽くす献げ物に非常によく似ています。イスラエルの民が焼き尽くす献げ物のため神殿に上る際、傷のない献げ物(雄牛、雄羊、雄山羊、鳩)を持ってくると、祭司は彼の手を生け贄の頭に乗せ、彼の罪を犠牲に転嫁し屠らせました。そして、犠牲の血をとった祭司は、その血を祭壇の側面に振りまき、残りの血を祭壇の基に絞り出し、肉は完全に焼き尽くして神に捧げました。それは民の変わりに犠牲を屠り、民の罪を贖う意味を持っていたのです。主イエスもご自分の民の贖いのために、ご自分の血を流し、十字架につき、まるで燃え尽くされるようにパレスチナの乾燥した気候の中で死んでいったのです。もともと十字架は呪いと恥の象徴でしたが、主イエスはこの十字架の上で人類のすべての罪を担われたのです。その後、時が経ち、キリスト教はローマ帝国の国教となり、十字架も処刑道具からキリストの贖いと恵みの象徴と変わったのです。つまり、イエスは十字架で罪人の代わりに苦難を受け、焼き尽くす献げ物のように死んでくださいました。この意味が変わった十字架のように、主はご自分の苦難を通して、私たちの苦難を主の栄光に変えてくださったのです。 締め括り 「私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20) キリストは、私たちの救いのために苦難を受けて死に、私たちの平和のために復活されました。そして、キリストは私たちを主の苦難と十字架にお招きくださいました。キリストはすでに十字架で苦難を受け、救いを成し遂げられましたので、もはや我々の苦難は死に至る苦難ではありません。そして、十字架はもはや恥と死の十字架ではありません。私たちは主の苦難と十字架を黙想し、主の苦難から学び、主と共に生きていきます。私たちが苦難に遭った時、主はその苦難の中におられ、私たちが十字架を仰ぎ見る時、一緒にその十字架を背負ってくださるでしょう。主の苦難が私たちを正しい道へと導き、主の十字架は私たちの義を証明するでしょう。今年も受難週が始まりました。私たちはこの一週間をどう生きていくべきでしょうか。今日の本文を憶えて、苦難と十字架の主を謙遜と愛をもって従って生きたいと思います。

主イエスの栄光

詩編57編6節 (旧890頁) ヨハネによる福音書12章20~26節 (新192頁) 前置き 今、私たちは、レントの5週間目を過ごしています。12日後には主イエスの苦難を記念する受難節の聖金曜日を迎え、2週間後には主の復活を記念するイースター礼拝を守るようになります。罪人の救いのために贖いを成し遂げ、罪によって汚されたこの世を新たにしてくださるために、ご自分の貴い命を惜しげもなくささげられた主イエスの恵みを憶え、残りのレントを慎み深く、謙虚に過ごしてまいりたいと思います。 1.栄光を追い求める者たち 「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、お願いです。イエスにお目にかかりたいのですと頼んだ。」(ヨハネ福音12:20-21) ヨハネによる福音書12章は、イエスが十字架にかけられる約一週間前の物語です。12章以前、主イエスはイスラエルの各地を巡回されながら、福音を宣べ伝え、弱い者たちを癒し助け、御言葉を教えてくださいました。そのような活動の中に、病人が癒され、死者がよみがえるなど、特別な奇跡もありました。それらによって、多くの人々がイエスの活動と奇跡のため、主イエスには特別な何かがあると思うようになりました。主イエスは純粋な心で、そして、神の御心に従って、弱者を助け、御言葉を伝えられましたが、ある人々はそのイエスの活動について行き、イエスと一緒なら割り前をもらえるだろうと思ったかもしれません。実際、主の弟子の中にもそのような思いで加わった人もいました。主イエスの御心とは関係なく、イエスを通じて利益と名誉と権力を握ることができると思う人々がいたわけです。奇跡を行い、他人と違う特別さを持っておられたイエスが、もうすぐ大きな影響力を振るう人になり、イエスに従う自分たちにも特別な権力と名誉、そして財物がついてくると誤解したわけです。 ところで、イエスの奇跡と活躍が噂となってイスラエル全域に広がったためか、イエスがエルサレムに入られる時、数多くの人々がなつめやしの枝を持って歓迎しました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」(ヨハネ福音書12:13) 今日の本文によると、イスラエル人だけでなく遠くのギリシャから来た人々もイエスに会うことを願って訪ねてきたようです。彼らは異邦人ですが、ユダヤ教に改宗した人々でした。彼らはイエスを旧約聖書に記してあるメシアではないかと思って会おうとしたでしょう。ユダヤ人、異邦人を問わず、多くの人々がイエスの奇跡と活動によって、栄光のメシアを期待して、主に近づいてきたのではないかと思います。人々はイエスのこのような奇跡と活躍による人気が、イエスの栄光だと思いました。そして、いつか、イエスがイスラエルの王になると思っていました。ローマ帝国から自由になり、再びダビデの王国のような強力な国を打ち立てるだろうと誤解したわけでしょう。人々が思う栄光とは、輝かしくて美しい何かです。イエスの栄光によって、自分も栄光を受けるためにイエスに従う人も多かったでしょう。何かを得るためにイエスを信じることは望ましくありません。イエスを用いて栄光を得ようとすることはなおさらです。私たちはイエスを通して何か良いものを得るために信じているのではないでしょうか? 2.キリストの栄光 しかし、私たちは、主イエスが十字架にかけられ死んでくださったことをすでに知っています。イエスは決して人々が思う栄光をすぐには得られないでしょう。主は必ず十字架で死ぬことになるでしょう。それが、父なる神がお定めになった救いの計画なのです。主イエスが十字架で死んでからこそ真の贖いが成し遂げられ、それによって父なる神の御心が成就し、次の段階(罪人とこの世の救い)に進むことができるからです。「イエスはこうお答えになった。人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ福音書12:23-24) 多くの人々が栄光のイエスに会うためにイエスをほめたたえました。遠いギリシャから来た改宗した異邦人たちもイエスの栄光を見ようと会うことを望んでいました。しかし、イエスは彼らの心とは全く違うことを言われました。以上の本文を意訳するとこうなります。「私は一粒の麦のように死ぬだろう。しかし、私の死によって数多くの実が結ぶようになるだろう。それがわたしの栄光である。」人々がイエスの輝かしい栄光を期待した時、イエスはご自分の栄光は死ぬことだと宣言されたのです。しかし、ただ死ぬのではなく、その死によって、より多くの罪人が救われる有意義な死でした。つまり、イエスの栄光は十字架での死にあったのです。 主イエスの栄光は、逆説的な栄光です。生き延びるとしての栄光ではなく、すすんで死ぬ栄光です。高くあげられる栄光ではなく、低い底に向かう栄光です。キリストの栄光が持つ意味は、誰かに君臨して高まる輝かしい何かではありません。以前、皆さんに話したことがありますが、聖書が語る栄光は「輝かしい何か」ではありません。「ある存在が最もその存在らしい姿であること」が聖書的な光栄です。創造主である神は被造物に礼拝される時に栄光を受けます。神はすべての被造物に礼拝されるために創造を成し遂げられた方だからです。主イエスが受肉された理由は、十字架で贖いの死を成し遂げ、罪を赦し、悪の権勢を打ち砕いて新しい天と新しい地をもたらしてくださるためです。ということで、イエスの死はイエスの栄光になります。十字架の死のために聖肉された方だからです。だから、逆説的な光栄なのです。その死によって主イエスのお務めを全うされた時、父なる神は主イエスを復活させられ、その後イエスにこの世を統治する王としての真の栄光を与えてくださいました。 3.私たちの栄光 それでは、私たちが求めるべき栄光は何でしょうか? 私たちの栄光についてのヒントは、今日の本文の25,26節に書いてあります。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ福音12:25-26) イエスのおかげで輝かしい何かを得ることが、私たちの栄光ではないと聖書は語ります。上記の本文に書いてある言葉をよく考えてみましょう。「自分の命を憎む者」もちろん、これは自分の命を本当に憎めという意味ではありません。ここで言う命は否定的なニュアンスを持っています。自分の欲望、自分の有益だけを追い求める姿を意味すると言えます。 私たちは主なる神の御心をわきまえて、自分の欲望を盲目的に追求してはなりません。「主に仕えようとする者」 主に仕えるということは、その方の生き方に倣って主に聞き従って生きることです。具体的に言うと、神と隣人を愛することであり、主イエスの御言葉に従って生きることを意味します。つまり、自分の欲望を節制し、主イエスの生き方に倣い、聞き従って生きることこそ、キリスト者の真の栄光です。聖書は、そのような人生を生きる者を父なる神が大切にしてくださると語っているのです。 締め括り 先ほど、私は聖書が語る栄光の意味について「ある存在が最もその存在らしい姿であること」と言いました。キリストの贖いと救いによって、主の民となった私たちは、もはや、自分自身の奴隷ではなく主イエスの民と生まれ変わったことを常に憶えて生きていくべきです。主イエスの民にとっての栄光は「主イエスの民として、主の御言葉に聞き従い、主の御心をわきまえて、神と隣人を愛して生きること」です。それが主なる神が望んでおられる私たちのあり方であり、それこそが、この世を生きる私たちが求めるべき栄光の実体なのです。レントの期間がもうすぐ終わります。私たちは自分の栄光とは何であるか、顧みながら、この時を過ごすべきです。主イエスが教えてくださった私たちの栄光を心に留め、主の御言葉に聞き従い、主に倣って生きる私たちでありますように祈り願います。

人の子も上げられねば

民数記21章4~9節 (旧249頁) ヨハネによる福音書3章14~21節 (新167頁) 前置き 今日は、レント第4主日です。罪と死の権能を打ち砕き、罪人とこの世をお救いくださるために苦しみ、十字架にかけられた主イエス·キリストをほめたたえます。苦難の十字架を背負って死に、罪人の贖いを成し遂げてくださったイエス·キリストは、また、罪人の永遠の生命と救いのために復活してくださいました。今日はイエス·キリストの御救いについて話してみましょう。 1.救いについて考える。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ福音書3:16-17) 聖書には必ず覚えておくべき大事な聖句がいくつもありますが、この言葉のようにキリストの福音のエッセンスを明確に示す言葉はないと思います。私たちは、この言葉から3つの点を確かめることができます。一つ、主はこの世を愛される。二つ、主はその愛のためにこの世に独り子を遣わしてくださった。三つ、主が独り子を遣わされた理由は、この世が救われるのを望んでおられるからだ。私たちは、ここで「世」と「救い」について考えてみる必要があります。本文の「世」は、地球という限られた世界を意味するものではありません。コスモスという言葉をよくご存知だと思いますが、コスモスはギリシャ語に由来した言葉で「秩序、調和」を意味し、より広くは「世、世界、宇宙、そこの住人」という意味にもなります。今日の本文の「世」は、このギリシャ語のコスモスを訳した表現です。旧約聖書の創世記によると、主なる神が創造されたコスモス(世)は「秩序と調和の完璧な世界であり、そこにあるすべての存在」でした。 しかし、最初の人は、欲望によって、主なる神を裏切り、罪を犯して堕落し、主と敵になってしまいました。そして、主が人にくださったこの世全体も、それにつれて、汚されてしまいました。主なる神のコスモス、つまり秩序と調和の世が人の罪のため、汚されてしまったのです。それでも、主は人と世を見捨てられず、その後もずっと愛してこられました。そして、時が満ち、人と世を救ってくださるために独り子を遣わされました。独り子がご自分の命を身代金として償い、人と世を救ってくださるためです。救いとは、この汚されたコスモスを新たにし、再び、主なる神が創造された完全な秩序と調和によって、生まれ変わることです。何よりも、コスモスの中心である人間を赦し、再び主と和解できるようにすることです。主なる神の反対側にいた罪人を主の味方として招いてくださる愛の成就なのです。救いは、単に死んで楽園に入るくらいのレベルではありません。御子イエス·キリストによって人の罪が赦され、それによってこの世で真の人間らしく生きることです。神は主イエス·キリストを通して、人間が罪赦される道を備えてくださいました。そして、主イエスが再臨される終わりの日、人間と世を完全に新しく再創造してくださるでしょう。 それが救いの本当の意味なのです。 2.唯一の救いの対策 したがって、イエス·キリストは、人とこの世を罪から自由にならせてくださる神のお贈り物なのです。罪によって汚された人と世は、自力で罪の影響から抜け出すことができず、清くなることもできません。だから、主なる神はその罪を赦し、人と世を罪から清めてくださるために、唯一の存在、主イエスを遣わされたのです。今日、聖書は語ります。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハネ福音書3:18)この文章だけ読めば、キリスト教の信仰は、非常に独断的に感じられます。世の中に数多くの宗教があり、信仰があり、キリスト者より善良に生きる人もいるのに、ひたすらイエスのみに救いがあるということかと、批判されやすいです。しかし、先に申し上げましたように、救いの意味が死んで楽園に入る意味だけでなく、それを越えて唯一の神と和解することだとすれば、当然、この神が与えてくださったイエス·キリストだけが救いのための唯一の対策になるでしょう。聖書によると、主なる神はイエス以外に和解の手立てをくださったことがないからです。重要なのは、他宗教の人、善良な人の死後のことを私たちが、勝手に判断する必要がないということです。それは神の事柄です。私たちは、ただ自分に与えられた聖書の言葉だけに耳を傾け、イエスを自分の救い主と信じ、その方のみに集中して生きれば良いでしょう。 新約本文でイエスはこう言われました。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3:14-15)永遠の命を得るという意味まで説明すると時間が足りませんので、先に申し上げました救いの概念とほとんど同じことだと理解してください。今日の本文、旧約聖書の民数記21章には、以下のような物語が出てきます。イスラエルの民がエジプトを脱出した後、旅路があまりにも苦しくて神を恨みました。それは、ただの文句ではなく、神に逆らう反発でした。そこで、神は罰として炎の蛇(おそらく、荒野のマムシ)を送られました。そのため、蛇にかまれた多くのイスラエルの民が死ぬことになりました。しかし、モーセは民のために主に祈りました。すると神は青銅でできた蛇の形の像を造り、旗竿の先に掲げることを命じられました。そして、青銅の蛇を見れば生きるだろうと言われました。神の御言葉通り、その蛇の像を見た人々は皆癒され、生き延びることが出来ました。主なる神はイスラエルの罪を裁かれましたが、その裁きから避け、救われる手立てを与えてくださったのです。それは、いかなる特別な行為や努力ではなく、神の御言葉通りに青銅の蛇を見ることでした。主イエスの十字架は、私たちにとって、その青銅の蛇像のようなものです。自分自身の救いのための行為や努力ではなく、主なる神が備えてくださった救いの対策である十字架のイエスに頼り信じることです。 3.十字架にかけられたイエス したがって、十字架は、主なる神が遣わされた唯一の救い主イエス·キリストを思い起こさせる救いの象徴なのです。ただし、十字架が私たちを救うわけではありません。そのため、プロテスタント改革教会の中には、十字架を偶像化させないために教会堂に十字架もかけておかない場合がありました。大事なのは十字架というある物体ではなく、十字架にかけられ死に、再び復活された主イエス。ローマ帝国の呪いと刑罰の象徴である十字架を神の愛と救いの象徴に換えてくださった主イエス·キリストにあります。民数記で神に逆らった民が自分たちの治療や努力や行為で癒されたのではなく、神が命じられた青銅の蛇を見ることで癒されたように、この時代を生きる罪人が自分の行為と努力では、得ることのできない救いを、イエス·キリストの救いと恵みによって受けられるように、イエス·キリストの御救いの象徴として十字架を与えてくださったわけです。主なる神の独り子イエスは、私たち罪人が救いを得ることが出来るように十字架にかけられ、死んでくださったのです。そして、三日後、復活してくださいました。私たちの罪はキリストと共に十字架で死に、私たちの救いはキリストと共に復活したのです。今や私たちは主イエスによって、神と和解し、神を恐れる存在ではなく、神を愛する存在として生まれ変わりました。十字架は、今日もそのイエスの御救いの成就を私たちに証しているのです。 締め括り 私たちは、毎年レントを過ごし、主イエスの苦難、死、復活、贖い、赦し、すなわち御救いに関わる話をします。何十年もこの話をしてきました。いや、教会は2000年以上、この救いの話しを続けてきました。もしかしたら、長年、キリスト者として生きてきた私たちには、あまりにも日常的の話であるかもしれません。しかし、キリストの救いは、人間が決して見過ごしてはならない大事な出来事です。この世での私たち人生のみならず、私たちが亡くなっても、そして、イエスが再臨して復活する日と、その後までも、キリストの救いは私たちの人生において最も重要な出来事として残るでしょう。私たちの努力と行為ではなく、キリストの贖いが私たちを新たに生まれ変わらせました。そして、主なる神の子供として永遠に生きていく原動力になりました。そのキリストの救いと十字架の意味を憶え、悔い改めと感謝の一週間を過ごしますよう祈り願います。

真の神殿、イエス

イザヤ書66章1節 (旧1169頁) ヨハネによる福音書2章13~22節 (新166頁) 前置き 現在、私たちは罪人を救うために十字架の苦難を受けられたイエス•キリストを記念するレントを過ごしています。世界の創造主である主なる神は、イエス•キリストという救い主を遣わしてくださり、その方によって罪人が神に赦され、神の子供として生きることが出来る恵みを与えてくださいました。イエス•キリストは罪人を悔い改めさせ、神の子供とさせてくださるために、自ら苦難と死を選ばれたのです。レントが終わり、イースター(復活節)が来ると、私たちはその苦難と死を受けられたイエス•キリストの復活を感謝しつつ記念するでしょう。今日は、私たちにおいてのイエス•キリストの存在意味について、神殿を通じて考えてみたいと思います。 1. 神殿について 新旧約を問わず、聖書には「神殿」という言葉がよく出てきます。主なる神の神殿は歴史上、4つの形で存在したと言われます。一つ目はイスラエルがエジプトから脱出する時(出エジプト記26章)、神のご命令によって建てられた幕屋です。 幕屋は文字通りに一種の大きいテントでしたが、その中には主のご命令によって作られた様々な礼典の器具がありました。そして、最も奥には神の御言葉が記された十戒の石板が入っている掟の箱がありました。その区域は至聖所と呼ばれていましたが、年に一度、贖罪の献え物をささげた大祭司だけが入ることができる、極めて聖なる場所でした。大祭司さえも、まともに悔い改めなければ、主の懲罰によって直ちに死んでしまう、恐ろしくて聖なる場所だったのです。この幕屋はイスラエルの民が住んでいる巨大な陣営の真ん中にあり、その幕屋を中心にイスラエルの各部族はカナンまでの長い年月(約40年)を生き延びました。主なる神の幕屋は素朴な見た目でしたが、イスラエルがどこへ行っても一緒に移動しながらイスラエルと共にありました。主はこの神殿を通して、主の民がどこへ行っても、主が彼らと必ず共におられることを示してくださったわけです。 二つ目はソロモン王がエルサレムに建てた神殿でした。時間が経ってダビデ王の時代になり、ダビデ自身は宮殿に住んでいるのに、主なる神の掟の箱は幕屋にあると懸念して、立派な主の神殿を計画するようになりました。(サムエル記下7) その後、ダビデの息子ソロモンが王になり、最高級の建築材料を集めてエルサレムに主の神殿を建てることになりました。テントのような幕屋の代わりに非常に華やかで巨大な神殿が完成しましたが、その内部構造や機能は、以前の幕屋と大きく変わりはありませんでした。しかし、その後、イスラエルが偶像崇拝などの罪によって主に裁かれ、バビロンに滅ぼされた時、残念ながらソロモンが建築した神殿は散々に崩れてしまいました。主の神殿は、むしろイスラエルの出エジプト時代の素朴な幕屋の時のほうが、さらに輝かしかったのです。イスラエルの罪によって、主に捨てられたイスラエルの神殿は何の意味も持たず、ただ崩れ消えるようになるだけでした。三つ目の神殿はバビロンから帰還したイスラエルの捕囚が建てた小さな神殿であり、四つ目の神殿はそれを増築したヘロデ王の神殿で、西暦70年にローマ帝国によって破壊されました。そして、今までエルサレムの神殿は存在していません。 2. 主なる神は神殿に住んでおられない イザヤ書66章1節はこう語ります。「天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに、わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。」古代の国家においての宗教は、ただの信仰というレベルのものではありませんでした。諸帝国の皇帝は「神々の子」あるいは「神々の顕現」などと呼ばれ、自分たちの宗教の最高指導者と同じ位置にいました。そのため、政治と宗教は非常に密接な関係を結んでいました。だから、古代帝国の皇帝は自分の権威のために神殿を建築することが多かったのです。エジプト帝国の神殿、中東諸帝国の神殿、ギリシャやローマの神殿は、そんな理由でとても巨大に建てられました。しかし、これは権力のために自分たちの神々を利用する行為でした。古代国家の神殿は、厳密には神々のための場所ではなく、皇帝の権力のための政治的な建築物だったのです。そして、彼らは自分の神々を自分の手で建てた神殿に閉じ込めておきました。最も重要なのは、実際にその神々が存在もしない偽りの神々だったということです。したがって、イスラエルの神殿は、主なる神を閉じ込める建物ではありませんでした。イスラエルの王権のための建物でもありませんでした。四つ目の神殿であるヘロデ神殿はヘロデ王の政治的人気のために建てられたと言われますが、それ以前の神殿は、主がご自分の民と共におられることを象徴する象徴物に近かったのです。 イザヤ書は語ります。「天は主の王座、地は主の足台である。」すなわち、主なる神の真の神殿は、主ご自身が建てられた全宇宙であり、人が建てたところに主はおられず、主はご自身でおられるということをこの言葉は強調しているのです。したがって、私たちは、昔のエルサレムの神殿や、この会堂を神の聖なる場所と誤解してはなりません。この建物が存在する理由は、主のためではなく、私たちのためです。主がご自分の民に集まる場所、雨と風を避けて暖かく穏やかな礼拝ができるようにしてくださるために、この会堂という建物を建てらせてくださったのです。主なる神は、ご自分の御手によって造られた、この宇宙という神殿におられます。そして、さらには、主はこの宇宙よりも大きなお方です。だから厳密に言えば、主なる神には神殿が必要ではありません。それにもかかわらず、主が出エジプト記の幕屋、イスラエル時代の神殿を許してくださった理由は、主の民がその幕屋と神殿によって、彼らの間に一緒におられる主を認識して生きることを望んでおられたからでしょう。したがって、神殿は主が一緒におられることを知らせる民のための表示板に過ぎません。 3. 神の真の神殿イエス ところで、今日の新約本文ではこう述べています。「イエスは答えて言われた。この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。それでユダヤ人たちは、この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのかと言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」(ヨハネ福音2:19-22) 過越祭が近づいてくると、イエスはエルサレムの神殿に行かれました。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと両替をしている者たちををご覧になり、怒って追い出されました。そもそも、ご自分の民と共にいるために神殿の建築を許してくださった主なる神は、民の罪を赦し、彼らと近くにおられるためにいけにえの献げ物を命じられました。なのに、イエスの時代の神殿は、そのような神殿の本来の存在理由ではなく、宗教的な儀式と人々の利益関係のための場所になっていました。純粋な信仰で家で大切に育て、連れてきたいけにえの家畜を傷ついていると騙し、安い値段で買い取り、他人にその家畜を高い値段で売り渡して差額を残しました。その金が大祭司や権力者のポケットに流れ込む形でした。主なる神のご臨在を象徴する神殿が誰かの利益のための場所に変質していたわけです。そのため、イエスは怒られたのです。 そもそも、神殿が建てられた理由は、ダビデとソロモンの純粋な信仰のゆえでした。彼らの信仰が子孫まで受け継がれたら良いが、罪によって汚された人間の本性は、その純粋さを保つことができません。結局、イスラエルの神殿は主のご臨在の象徴ではなく、主を神殿に閉じ込めて自分たちの欲望を満たそうとした宗教指導者たちによって変質してしまいました。真の主なる神の神殿は全宇宙であり、主はその宇宙よりさらに大きな存在であるにもかかわらず、人々は自分の欲望のために主を一介の建物に過ぎない神殿に閉じ込めておこうとしたのです。それが罪を持った人間の本性です。そんなわけでイエスは言われたのです。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」この言葉は人間の手で作った神殿の時代の終わりを告げる、イエスの偉大な宣言でした。人間が建てることの出来ない神殿、主なる神ご自身が建てられた神殿、人間の欲望によって変質しない神殿を、主イエスが完成されるという宣言だったのです。それはイエス·キリストご自身が、真の神殿になるということでした。イエスによって主なる神が共におられることを示し、イエスによって人々が主に真の礼拝を捧げることができるようになったことを示す宣言だったのです。主イエスの十字架での苦難は、この新しい神殿を建てるための崩れとしての出来事だったのです。 締め括り ルカによる福音書23章45-46節に、こんな言葉があります。「 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。こう言って息を引き取られた。」イエスが十字架の上で亡くなられた時、神殿の至聖所の垂れ幕が裂けたとのことです。つまり、建築物の神殿の時代は終わったという意味でしょう。イエス•キリストは人の手によらない神殿、絶対に変わらない純粋な神殿、特定された場所ではなくイエスの民がいるすべてのところにある神殿のためにご自身が神殿になってくださったのです。それによって、この世に神殿という建物がなくなったにもかかわらず、イエス•キリストという真の神殿によって主を信じるすべての民が、主イエスと共に至聖所に入れるようになったのです。この真の神殿になってくださった主イエスによって、主なる神は、いつも私たちと共におられ、私たちを守ってくださり、私たちの父、私たちの主になってくださるでしょう。

神の相続人

創世記17章1~8節 (旧21頁) ローマの信徒への手紙4章13~25節 (新278頁) 前置き 私たちはレントを過ごしながら、なぜ、イエス·キリストが罪人の救いのために十字架にかけられ、死んでくださらなければならなかったのかについて深く黙想する必要があります。なぜ、主なる神はご自分の一人だけの息子を、罪人の贖いのいけにえとして死に至らせ、その代わりに罪人を救い、ご自分の子供にしてくださったのでしょうか? 罪によって主なる神の敵となった私たちを赦され、ご自分の養子に迎えるために一人だけの実の息子を死へと導かれた主なる神の御心は、私たち人間には到底理解できない、計り知れないものであります。ところが、主なる神がそこまでなさった理由を、私たちは今日のローマ書の言葉を通じて推測することが出来ると思います。それは罪人を救い、神の相続人として立ててくださるためです。そして、それは信仰の父であるアブラハムと結ばれた約束を守ってくださるためです。今日は主なる神の救い、主イエスの贖い、そして、神の相続人になるということについて話してみたいと思います。 1。神の相続人となる。 今日の新約本文でも、旧約本文でも強調する2つの言葉があります。それらは「アブラハムと子孫(相続人)」です。聖書はアブラハムを「信仰の父」と言います。彼が常識的に不可能と感じられる主なる神の約束(アブラハム夫婦が高齢であるにもかかわらず、主なる神が相続人になる息子をくださるという約束)を不信せず、主ならお出来になると信じたので、主なる神に信仰の人、すなわち正しい人として認められたからです。そして、主はその約束どおりにアブラハムの100歳の時、息子イサクをくださり、孫ヤコブを通してはイスラエルという民族も打ち立ててくださいました。創世記15章5節で主はアブラハムにこう言われました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」という約束のように、主は以後イスラエル民族というアブラハムの子孫を造られ、さらにアブラハムの子孫イエス•キリストを通して新約時代の教会をも打ち立ててくださいました。したがって、アブラハムの子孫であるイエス•キリストの身体となった私たち(教会)は、アブラハムの霊的な子孫として認められています。アブラハムの霊的な子孫という意味は、このアブラハムの霊的な相続人であるという意味でもあります。 そして、これは単にアブラハムの相続人になるに止まりません。 ローマ書はこう述べています。「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ書8:10,14,17) 誰かの子孫とは、その誰かの相続人でもあるという意味です。この相続人とは、単に財産を受け継ぐ人だけの意味ではありません。先祖の血統、思想、価値観、信念などを受け継ぐことも相続だと言えます。私たちは、アブラハムが信仰によって義とされたことを知っています。そして、その信仰によってイスラエル民族が打ち立てられ、そのイスラエル民族から信仰の主であり救い主であるイエス•キリストが来られたことを知っています。私たちはそのイエス•キリストの体なる教会です。したがって、私たちはキリストを通じてアブラハムの信仰を受け継いだ、アブラハムの相続人です。私たちをアブラハムの相続人とする信仰はイエス•キリストの霊である聖霊によって私たちに与えられた賜物なのです。ところで、驚くべきことは、ローマ書はその聖霊によって信仰を持つ者がアブラハムの相続人を超え、神の相続人にもなると語っています。 2.神の相続人となるという言葉の意味 ヨハネの黙示録22章は、こう述べています。「もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」(黙示録22:3-5) キリストの民、すなわち神の相続人となった者は、最後の審判の時、主と共に永遠に統治するようになるという予言です。つまり、主なる神の民は神の相続人として真の王であるその方と共に永遠の王権を享受するという意味です。初めの時、主なる神は創造の最後の段階として人間を造られ、世界を治める権限を与えてくださいました。つまり、主なる神は、すべての被造物を最初の人間という相続人に任せてくださったのです。しかし、最初の人間はそれに満足せず、主なる神の座をむさぼり、堕落してしまいました。その罪によって神の相続人としての権限を失った最初の人間は、神の呪いの下にいる存在となります。堕落によって神の相続人としての権限を失った人間は、罪による悲惨な呪いの苦しみの中に生きることになります。いくら財物を集めても、名誉を積んでも、権力を握っても、彼らの人生は結局永遠の死に帰結します。 この世では王や貴族のように生きても、死後、神の裁きの下で罪と死の奴隷となって永遠の苦しみの中に生きなければなりません。そのような罪と死の奴隷のような人間は、自力でその恐ろしい裁きから抜け出すことはできません。さらに恐ろしいのは、権力者や金持ちだけでなく、貧しい人も、そのような裁きから逃れることができないということです。彼らはこの世でも苦しい生活をしたが、死後でも、それ以上の苦しみを経験しなければならないからです。しかし、主なる神は人間に下された永遠の呪いと苦しみを、ただ楽しまれる方ではありません。神は初めての人間を創造された時「極めて良かった」と言われました。主なる神は人間を愛しておられるのです。そのため、神は人間に再び神の相続人としての権限を与えてくださるために、人間の罪に代わる贖罪のいけにえを立てられました。その方が神のひとり子イエス•キリストであり、神は人間が受けるすべての苦しみと悲しみを十字架で、ひとり子イエスに担わせられました。そのひとり子の命の償いによって人間の罪は赦され、彼らを再び神の相続人という名誉を回復させてくださいました。もはや、私たちは神の相続人として永遠な死の恐怖から抜け出し、神と共に永遠に生きる真の平和と喜びに生きることができます。キリストによって、私たちは神の相続人となったからです。 3.神の相続人は行いではなく信仰によって定められる 今日の旧約本文を見ましょう。「わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。」(創世記17:6-7) 神はアブラハムに一方的な恩寵を与えられ、ご自分の民にされ、またアブラハムの子孫にも祝福を与えられると約束してくださいました。そして、アブラハムはその約束を堅く信じました。アブラハムが神に祝福をいただいた理由は、彼の行いが完璧だったからでも、彼が神の御心に適う優れた人だったからでもありません。主なる神が一方的に彼を選ばれ、祝福を約束され、アブラハムはそれを信じただけで、神の祝福は実現されたのです。これに対して、今日の新約本文は次のように証言します。「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。」(ローマ書4:13) この言葉によって私たちが分かるのは、イエス•キリストを信じる信仰によって救いを得るということです。もう一度、繰り返しますが、主なる神が私たちをご自分の相続人にしてくださった理由は、私たちに優れた何かがあるからではありません。私たちの立派な行いによるものでもありません。神がお定めになった祝福の源、アブラハムの子孫、神のひとり子、主イエス•キリストを私たちの真の救い主と信じて、その方の体なる教会になったからです。 締め括り イエス•キリストが苦しみを受けられた理由は、神の真の相続人であるご自身が贖いのいけにえになって罪人を救い、その罪人にご自分の功績による神の子としての資格を与えてくださるためでした。私たちは、自分自身の救いのために、たった 1% の貢献もしたことがありません。私にはできないが、イエス•キリストならお出来になるという信仰によって、私たちは救いを得たのです。ですので、私たちが神の相続人になったのは、すべてがキリストの恵みによるものです。昨日も、今日も、明日も、私たちは自分の本性と罪の性質から自由になることが出来ません。しかし、神が人類の救い主として定めてくださったキリストが、いつも私たちと共におられ、私たちを守り、神の相続人として生きるように執り成してくださいます。それを信じることによって、私たちの神の相続人としての権限は永遠に続くようになるのです。レントはそのイエスの愛を憶える期間です。私たちの主が私たちに神の相続人という祝福を与え、保たせてくださるために、私たちに代わって苦難をお受けになったことを憶える一週間でありますよう祈り願います。

レント(四旬節)

ヨブ記42章1~6節 (旧832頁) マタイによる福音書6章16~18節 (新10頁) 前置き 今日は、レント第一主日です。歴史上の教会はレントを通してイエス•キリストの苦難と復活を黙想し、祈りと断食をしながら、主の御業を記念したと言われます。今日はレントを始めるにあたって、レントとは何か、現代を生きる私たちは、この時をどのように過ごすべきかについて話してみたいと思います。 1.レントの由来と意味 レントは四旬節とも呼ばれますが、四旬節は漢字語で40日という意味です。イエス•キリストの復活を記念するイースター前の40日間のことです。それでは、レントとはどういう意味でしょうか?四旬節の原文を探ってみるとギリシャ語では「テサラコステ」、ラテン語では「クアドラゲシマ」でした。いずれも40日という意味です。つまり「レント」と「40日」の間に、そんなに関りがないということです。そこで、資料を探ってみたら、この表現の由来が古代アングロサクソン語の春を意味する「レンテン」であることが分かりました。初期キリスト教は迫害を乗り越え、ローマ帝国の国教となり、大きな影響力を及ぼすようになりました。その時代、ヨーロッパの辺境には数多くの迷信とシャーマニズムが存在していました。しかし、その地域の異教徒が少しずつ、信仰を受け入れ、これまでの迷信やシャーマニズムの祭りにキリスト教的な意味を与えるようになりました。おそらく、そのようなローマ帝国の辺境の異教徒の改宗につれて迷信とシャーマニズムの祭りがキリスト教式に変わり、キリスト教の四旬節の期間が辺境部族の春の祭りであったレント(レンテンに由来する)と重なるようになったのではないかと思います。 先ほど、レントは春を意味する古代アングロサクソン語のレンテンに由来したとお話しました。イエス•キリストの死は、主を信じるすべての者に真の命を与える、冬が来る前に命の種を蒔くような聖なる出来事でした。もしかしたら、四旬節にレントという名をつけた昔の教会の人々は、イエス•キリストの復活から真の命の春を見つけたわけではないでしょうか。レントという言葉の意味についての詳しい説明がないとその意味が分かりにくくて残念ですが、事実、その意味が分からなくても構いません。一番大事ななのは、主イエス•キリストが私たちの真の救いと命のために、苦難を受けられたこと、私たちの代わりに死んでくださったこと、そして復活によって死の権能に勝利されたこと、それらを憶えることです。 2.なぜ40日なのか? ところで、レントの期間は、なぜ40日なのでしょうか? レント期間を40日として守ったのかについては、様々な仮説がありますが、「聖書に現れる40という数字に深い意味がある」という説が有力だと思います。「ノアの洪水の時、40昼夜雨が降ったこと(創世記6:5-7)」「出エジプトの時代、イスラエルが荒野で40年間生活したこと(申命記29:4)」「モーセが神に十戒をいただくとき40昼夜断食したこと(申命記9:18)」「予言者エリヤが神の山に行くために40昼夜を過ごしたこと(列王期上19:7-8)」「イエスが公生涯を始められる前に40昼夜試練をお受けになったたこと」(マタイ4:1-11)「イエスが昇天される前に40日間地上におられたこと。(使徒言行録1:3)」など。すなわち40日という日数は断食と悔い改め、贖罪によって、自分の罪を顧み、神の御前に進んでいくための清めの時間という意味が強かったためです。とういうことで、レントの期間も40日になった可能性があります。 話しが少し変わりますが、昔から人々はレントが始まる水曜日を灰の水曜日と言いました。(今年は3月5日) 聖書において「灰」は非常に古い象徴です。今日の旧約本文を読んでみましょう。「わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(ヨブ記42:6)学者たちはヨブ記の時代が、アブラハムの時代と近いと推測しています。つまり、イスラエルが成立する前から、灰は悔い改めと反省の象徴を持っていたようです。創世記には神が塵で人間を創造されたと記してあります。(創2:7) エデンの園から追い出された最初の人間たちは、神に「塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3:19)と言われました。ヘブライ語の塵は、時には灰と翻訳される場合もあります。つまり、灰には「私は塵のようになにものでもない」という意味が含まれています。聖書全体的に灰は罪人たちが神の赦しを求める時、自分の罪を悲しむ時に使われる表現でした。古代の教会は額に灰を塗り、悔い改めの祈りによって、四旬節を始めたと言われます。灰を塗って悔い改めつつ、四旬節を始める水曜日という意味として灰の水曜日と呼ばれはじめたわけです。したがって、初代教会の信仰者たちは、この灰を自分の額に塗る象徴的な行為を通して、40日というレントの間、神の御前で悔い改めと断食をしつつ、自分の罪を顧みようとしたのです。 3.レントを過ごしながら プロテスタント教会の歴史の中に、1522年、スイスのチューリッヒで起こった「ソーセージ事件」という面白い名称の出来事がありました。中世教会には、数多くの宗教的な仕来りがあったと言われますが、その中、聖書の教えとは関係ない強制的な断食、免罪符などの宗教儀式が多かったと言われます。中にはレントの期間に肉食禁止という聖書にない制限もありました。ところで、チューリッヒの印刷業者のフローシャウアーと何人かは、レントの肉食禁止は聖書に基づいたことではないと批判し、食事の時、小さいお肉一枚とソーセージ2個を食べました。(レントにも肉食したいという意味ではなく、聖書による根拠のない仕来りに反抗するという意味として。)これが問題となり、彼らは大罪を犯したと教会の糾弾を受けることになりました。その時、彼らを弁護した者が、あの有名な宗教改革者「ツヴィングリ」でした。ツヴィングリは主の教会は虚礼虚飾の仕来りから脱し、ひとえに主の御言葉に基づいて生きなければならないという説教をしつづけました。教会は反発しましたが、宗教改革を支持する民衆は大声で歓呼しました。この面白い名称の出来事を皮切りとして、チューリッヒでは宗教改革の炎が燃え上がるようになり、最終的にスイスはプロテスタント教会が優勢な国になったわけです。私はレントの期間を、このような心で過ごしたいと思います。断食のような宗教的な行為も良いですが、さらに聖書が語る主の苦難、死、復活、愛を憶える期間であることを願います。 締め括り 最後に、今日の新約本文を読んで説教を終わりたいと思います。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:16-18)レントの期間に、主が望んでおられるのは、他人に長い断食や立派な祈りのような行為を見せるのではなく、ひたすら主なる神だけに自分の信仰と愛を表すことだと思います。レントを通して、信仰の虚礼を捨て、謙虚に苦難の主だけを黙想し、記念する志免教会であることを祈ります。

右にも左にも

ヨシュア記1章1~9節(旧340頁) コリントの信徒への手紙一 16章13節(新323頁) 前置き 出エジプト記で、モーセを用いられ、エジプト帝国からイスラエルの民を解放してくださった主なる神は、その昔イスラエルの先祖アブラハムに約束されたカナンの地にイスラエルの民を導いてくださいました。しかし、イスラエルの民は主のお導きを完全には信頼できず、数多くの不信心の罪を犯しました。その結果、主はイスラエルの民をすぐにカナンの地に入らせられず、40年という長い年月、荒野をさまようようになさいました。(彼らの信仰を訓練させるため) けれども、主は彼らを見捨てられず、昼は雲の柱で、夜は炎の柱で守ってくださいました。そして、モーセという指導者を通して、ご自分の民に御言葉をくださいました。不信心の世代が皆亡くなり、新しい世代が成人した時、ついに主はイスラエルをカナンに入らせてくださいました。それと同時に、旧世代の指導者であるモーセに代わって、新しい指導者のヨシュアを立ててくださいました。ヨシュア記は、そのヨシュアを中心として起きるイスラエルの民のカナン定着の物語です。 1.主が共におられる。 「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」(ヨシュア1:5) 40年間、イスラエルの指導者として働いてきたモーセが主なる神に召されました。彼は出エジプト当時の世代(神を疑い、不信心だった人々)が年を取って亡くなると、イスラエルの新しい世代をカナンの入口まで導き、120歳で神に召されました。モーセの死は、彼の後継ぎだったヨシュアとイスラエルの民に大きな衝撃となりました。例えば、牧師が急に辞任したり、逝去したりして、突然、無牧師教会になったような状況より、はるかに戸惑うようになることでした。無牧師教会を経験した志免教会は、牧師の不在がどういう意味かよくご存知でおられるでしょう。説教を準備し、教会の行事を計画し、主日礼拝と水曜祈祷会を導く牧師の不在は、信徒の皆さんに大きな負担になったでしょう。ましてや、40年もイスラエル社会という大きい団体を導いてきた指導者が突然亡くなったわけですから、彼ら全員に大きな混乱が生じたに違いありません。 しかし、主の御心には、より良い計画がありました。それはヨシュアという新しい指導者を立てることでした。(40年間苦労してきたモーセの念願だったカナンに入ることが出来なかったのは残念でしたが、主が天国でより良い報いをくださったと信じます。)モーセの逝去で人々は戸惑ったと思いますが、指導者の不在はイスラエルにとって良い訓練になると思います。イスラエルの民は、これまでモーセに心から頼ってきたはずです。しかし、彼の不在によって、重要なのはモーセという存在ではなく、そのモーセを遣わしてくださった、主なる神のお導きであるということに気づいたでしょう。まるで、無牧師教会を過ごす間、長老と執事を中心として教会員みんなが主に祈りつつ、より一層愛着を持って教会に仕えながら、主のお守りを感じるようにでしょう。最も重要なことは、指導者の有無ではなく、イスラエルを導く真の指導者は主であるということです。牧師がいなくても教会は保たれます。頭である主イエスが教会を導いて行かれるからです。指導者の不在は不安で心配なことです。多くの無牧師教会がそのような困難な経験をします。しかし、牧師がいても教会員と牧師の関係があまりよくなく、むしろ教会に害を及ぼす場合も多々あるでしょう。 大事なのは牧師ではなく、その牧師を用いられる教会の頭であるキリストです。 2.御言葉を守り、右にも左にもそれないように しかし、それでも主は指導者を立ててくださいます。主は人を立てて教会に仕えさせていかれるからです。ヨシュアはモーセの従者として長い間、彼の傍らにおり、指導者の資質を教わったでしょう。モーセを見て指導者の生き方はどうであるか分かるようになり、試行錯誤も目撃したでしょう。主はヨシュアを静かに、しかし少しずつ成長させて来られたのです。そのような主なる神がヨシュアを立てられ、以下のように励ましてくださいました。「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」(ヨシュア1:7-8) 主はモーセの死によって、最も心配していたヨシュアを呼び出され、強く雄々しくモーセの務めを受け継ぐようにと言われます。そのモーセの務めとは、律法、つまり主の言葉を中心として生き、右にも左にもそれないことでした。つまり、主以外の他のものに心を奪われず、ひとえに主の御言葉に信頼して生きろということでした。 その結果は栄えと成功だと主は言われました。 主は、おひとりで、すべてのことがお出来になる方です。三位一体の協力だけでこの世は造られました。人の助けがなくても、まったく問題ないということです。それにもかかわらず、主は人を呼び出され、用いられる方です。主の力不足で人を呼ばれるわけではなく、主が創造された最も大切な存在である人間に主と共に生きる機会をくださるためです。したがって、主はヨシュアに優れた指導力とカリスマ性を要求しておられません。雄々しく勇気を出してモーセがそうしたように、主の御言葉を中心とし、右にも左にも動揺せず、主だけについて来なさいと命じられるだけです。信仰生活をしながら疲れた経験がありますか。教会に行きたくないとか、信仰生活をやめたいとか思ったことがありますか? ほとんど、そのような疲れは、情熱すぎから始まる場合が多いです。信仰生活を情熱にしなくてもいいという意味ではありません。信仰生活、教会生活を立派に達成しなければならないという自分の過度な情熱が私たちを疲れさせるという意味です。主は言われます。「御言葉によって信仰に堅く立ち、わたし(キリスト)を中心として、右にも左にも動揺せずにただわたしだけについて来なさい。」私たちは信仰生活を完璧に達成しなければならない存在ではなく、ただキリストと共に主なる神に聞き従う存在であることを忘れないようにしましょう。 3.強く、雄々しくあれ 「強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。」(ヨシュア1:6) この言葉に書いてある「強く」のヘブライ語原文は「くっつく、つかむ、しっかり縛る」という意味の「ハザク」です。イスラエルの歴史上、主なる神に善良な王として認められたヒゼキヤ王の名前の由来でもあります。ちなみに「ヒゼキヤ」は「主は私の力である」という意味です。旧約聖書で言う「強さ」は自らの強さの意味ではないようです。誰かを掴んでいること、誰かにくっついていること、誰かとしっかり縛っていることが強さのイメージであるようです。言うまでもなくイスラエルの神をつかんでいる人、その方にくっついている人、その方と密接にしっかり縛られている人が旧約聖書が言う真の「強い人」ではないでしょうか? 主は私たちに自ら強くなることを命じておられません。主はいつも「わたしがあなたと共にいる」と言われます。私と共に歩んでくださると約束された主を離れず、近くにいること、それこそが私たちの真の強さではないでしょうか? 今回、新しい長老と執事が選ばれました。どなたにとっても長老、執事になるのはプレッシャーであるでしょう。しかし、長老、執事になったからといって、特別に変わることはありません。もうちょっとだけ積極的に教会に仕える立場になったということ以外に違いはありません。主なる神は長老、執事、そして牧師に優れた能力や結果を要求されません。ただ主を頼りにし、御言葉に従い、右にも左にもそれないで、キリストと共に生きること。それこそ牧師、長老、執事のあり方ではないでしょうか? それは、牧師、長老、執事だけでなく、誰にでも同様です。強く雄々しく勇気を出して主に寄りかかって生きていきましょう。特別な能力や結果を出すのではなく、主に信頼してついていくこと、それこそが真の強く雄々しくする信仰生活ではないでしょうか? 締め括り 今日の本文に出来事以来、ヨシュアは成功的に自分の務めを全うしていきます。そして、彼はいつも主の御言葉に従い、自分の業を行い、成功の可否は主の御心に委ねました。重要なのは私たちの能力ではありません。主の御言葉にどのように反応するのか、主とどのように一緒に歩いていくのか、動揺することなく信仰を守って生きていくのか、それらこそが最も重要な信仰者の心構えでなありませんか。使徒パウロの言葉が思い出されます。「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。 14何事も愛をもって行いなさい。」(一コリント人16:13) ヨシュア記で、主がくださった言葉は新約時代にも同じく適用できるものでした。強く雄々しく主だけに寄りかかって生きる志免教会のみんなでありますように祈り願います。