アルファであり、オメガである。

イザヤ書 44章6-8節 (旧1133頁) ヨハネの黙示録 1章3-8節(新452頁) 今日は2025年の最後の主日です。今年も世界にはさまざまな出来事がありました。そのたびに私たちは心配の中に生きなければなりませんでした。それにもかかわらず、すべての教会員がお互いに愛し合い、謙虚に教会に仕えながら、今まで生きてきたと思います。確かに心配事が沢山ありましたが、それでも、喜びの中で今年の終わりを迎えるようになり、主なる神に感謝します。今まで私たちを守ってくださり、共に歩んでくださった主に感謝と賛美をささげる年末であるよう祈り願います。このすべての恵みが主からいただいたものであると信じます。 1.苦難の中にも、神の御言葉が共にあります。 ヨハネの黙示録は解釈が難しい聖書です。ほとんどの言葉が象徴的に記され、それらが何を意味するのかが分かりにくいです。しかし、黙示録の中心的な内容はとても明らかです。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。」(黙示録1:3)主の御言葉を知ろうとする者、その御言葉を守ろうとする者は幸いな者であるというのが黙示録の中心的な内容です。つまり主の御言葉に聞き従う者は祝福されるという意味でしょう。ここでの祝福は、お金持ちになったり、名誉を得たりする世俗の祝福とは異なります。主に選ばれ、お守りと愛のもとに生きる霊的な祝福なのです。主の民が御言葉に聞き従い、その御言葉通りに生きようとするとき、主は祝福を限りなく注いでくださるのです。ヨハネの黙示録は西暦90年頃、記されたと知られています。当時のローマ皇帝はドミティアヌスという人でした。彼は残酷な独裁者で、暴政をしきながら、自分が主であり、神であると宣言しました。ひとえにイエス・キリストだけが主であり、神であると告白するキリスト者たちを残酷に迫害した者です。その時、苦難を受けている教会に慰めと希望を与えてくださるために、主イエスが使徒ヨハネを通してくださった言葉が、この黙示録であるのです。 主イエスの時代、主イエスが復活され、父なる神の右に座しておられ、聖霊なる神をお遣わしくださいましたが、地上のキリスト者は依然として迫害にさらされていました。むしろ、主を信じれば信じるほど、さらに辛くなりました。大勢のキリスト者が信仰を告白したゆえに、殺されてしまいました。それでも、キリスト者は、御言葉に頼り、世に立ち向かって生きました。主の御言葉には脅威と恐怖を圧倒する力があったからです。私たちがこの世に生まれ、生きる間、苦難は常に私たちと近くあります。時には、大きな罪を犯したこともないのに、苦難にあったり、誠実に生きて来たのに、失敗したりすることもあります。逆に他人を苦しめ、自分だけのために生きる人が、安らかに生きることもあり、理不尽と不法が蔓延っている場合も多々あります。しかし、今日の本文を通して主は言われます。「記されたことを守る人たちとは幸いである。」現状と世の理不尽に絶望しないで、変わらない主の御言葉から聞き、主に信頼する者は幸いです。永遠にありそうな世の不条理の終わりに、主なる神の恐ろしい裁きがあるからです。その時は、すぐに来るでしょう。その日が来れば、主はご自分の民のすべての苦難と辛さを慰めてくださり、報いてくださるでしょう。 2.恵みと平和の主が私たちを導いてくださる。 新しい一年を迎えると、期待と共に恐れもあります。来年の今ごろ、私はどう生きているだろうか。生きてはいるだろうか。明日、何が起こるか、私たちは到底予想できません。それが人生の漠然さでしょう。もし、明日、いきなり主が私たちを召されれば、私たちは、主のみもとに帰らなければなりません。私たちが一日を生きていることは、生命力が強いからではなく、毎日、主が私たちの命の延長を許してくださるからです。来年の年末ごろ、私たちは生きてはいるでしょうか。死を考えると本当に怖いです。もちろん、主のみもとに帰るという信仰がありますが、死が恐ろしいのは変わりません。2019年の12月、来日から一年経った時、車の事故にあったことがあります。事故当時、私の車は10メートル以上飛ばされ、車は完全に壊れました。事故にあった際「ああ、これが事故なのか。このまま死ぬのか。」と思いました。もし、運転席が反対側だったら、私は確実に死んだと思います。しかし、主は私を生かしてくださいました。幸いにも、膝の打撲傷で終わり、整形外科でリハビリを受けましたが、後遺症なく、全快しました。私が、その時死なず、今まで生きている理由は何でしょうか。まだ、主からの使命が残ってあるため、命を延ばしていただいたからではないでしょうか。 主なる神は主からいただいた使命を果たさせてくださるために、ご自分の民を生かし、導いてくださり、お守りくださる方です。ですので、私たちは一歩一歩を導かれる主の愛と恵みとを信じ、感謝しつつ生きるべきです。黙示録が記された時代、多くのキリスト者が殺されてしまいましたが、それにもかかわらず、主の教会は生き残って迫害と苦難をたくましく乗り越え、福音を宣べ伝えました。主は苦難の中でも恵みと平和とによって、主の教会を導いてくださったのです。「今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。」(黙示録1:4-5) この世は恐ろしいところです。しかし、私たちは使命を達成するまで、命を保たせてくださる主と共に生きています。永遠におられる父なる神、七つ(完全さ)として表現された聖霊と、世の王たちの支配者であるイエス・キリストが私たちと共に、永遠に歩んでくださるからです。 3.主はアルファであり、オメガである。 なぜ、キリスト者が苦難の中におり、また死の恐怖にさらされる時にも、主は私たちの命を守り、最後まで生き残らせ、使命を果たすように導いてくださいますでしょうか。それは、主こそがアルファであり、オメガ、つまり、万物の始まりであり、終わりであるからです。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。私はアルファであり、オメガである。」(黙示録1:8) ギリシャ語で「始まり」を意味する「アルケー」は「開始」という意味と同時に「根本」という意味をも持っています。また、ギリシャ語で「終わり」を意味する「テロス」は「終わり」という意味と同時に「完成」という意味をも持っています。つまり、アルファとオメガという言葉は、創造から終末までを意味するものであり、創造と終末が持っている永遠さと無限さの主である神が、私たちの主であることを古代ギリシャ風に示したものです。聖書はこれを旧約でも強調しています。「イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。私は初めであり、終わりである。私をおいて神はない。」(イザヤ44章6節) イザヤ書44章は偶像崇拝、悪行などにより神に見捨てられ、バビロンに捕えられたイスラエル民族が、主によって解放され、主に再び機会をいただいた時、宣言された希望の言葉です。 当時のバビロンは強い帝国でしたが、さらに強力なペルシャに滅ぼされました。しかし、その強力なペルシャでさえ、主の御手に用いられました。「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国を私に賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることを私に命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。」(歴代誌下36:23) 天地万物の始まりと終わりである主なる神は、どんな強力な存在でも逆らえない偉大な方です。巨大なペルシャの皇帝キュロスさえも、主のご命令の前では、取るに足らない被造物に過ぎなかったのです。神は王の中の王であり、神の中の神であられたからです。ところで、この大いなる神は今日の御言葉によって、イエス・キリストを通して、弱い民を選ばれ、罪から解放させ、彼らを王として、父である神に仕える祭司として生きさせてくださると約束されました。これは大いなる神が小さな民をお選びくださり、彼らのアルファとオメガになられ、最後まで一緒におられるという大事な意味です。キリスト者が出会う苦難と死は、キリスト者自らの力では乗り切ることの出来ない恐ろしいものです。しかし、その苦難と死さえも、主の御手の中にあることを信じれば、私たちは主によって克服するようになるでしょう。 締め括り 今年の終わりが近づいています。今年、たくさんの出来事がありました。しかし、私たちは無事に年末を迎えるようになりました。何一つ主の恵みでなかったことがありますでしょうか。主に感謝します。私たちの心配と不安の中で一緒におられた主が私たちを助けてくださり、無事に終わりを迎えさせてくださいました。誰かには、まだ苦難と心配が残っているかもしれませんが、アルファであり、オメガである主は、変わりなく私たちの歩みにともにいてくださるでしょう。 その主に希望をおいて、今年を終わり、喜びの新年を迎えたいと思います。2026年にも主による平和と祝福が私たちの上にありますよう祈り願います。

インマヌエル

マタイによる福音書 1章18~25節 (新2頁) 前置き 今日の礼拝は、全人類の救い主であられる主イエス・キリストのご降誕を記念するクリスマス記念礼拝です。毎年迎えるクリスマスですが、今年、私たちが向き合う降誕の意味はさらに格別です。アメリカと中国の貿易戦争、終わらないウクライナとロシアの戦争、日本と中国の対立、そして隣国の韓国では権力掌握のための戒厳令があり、今は裁判中であります。その他、世界の各地で数多くの大小様々な紛争がありました。世界は依然として混乱しており、個人の生活にもそれぞれの苦しみと霊的な渇きがあると思います。このような時、キリスト者である私たちが改めて貫く真理はたった一つです。それは「主が私たちと共におられる」というインマヌエルの約束です。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」インマヌエルを訳すると「主が私たちと共におられる」という意味になります。この言葉はキリスト教信仰の核心とも言える重要な教えです。今日はこの御言葉を通じて、主なる神が私たちと共に歩んでおられること、そして主イエス・キリストのご降誕の意味について話してみたいと思います。 1. 苦しみの中に共におられる神 主イエスのご誕生は、人間的に考えると、一人の人間の「苦しみ」から始まりました。本日の本文に登場する主イエスの父ヨセフはダビデの子孫でした。そして妻のマリアも系図上、同じくダビデの子孫でした。ダビデはイスラエル史上、最も偉大な王と言われる者でしたが、長い年月が流れる中で、その子孫はかなり衰退し、王族とは呼べない普通のイスラエルの民になっていました。しかし、ヨセフとマリアは偉大な王の子孫にふさわしく、気品があり善良な人々でした。彼らは貧しかったですが、他人に恥じることのない人々でした。ところが、ある日、あまりにも苦しい出来事が起きてしまいました。婚約した二人のうち、マリアが結婚の前に妊娠してしまったからです。当時のユダヤ社会において、婚約した女性が夫以外の誰かの子を身ごもると、石打ちにされて死ぬこともある重い罪になりました。それだけでなく、夫の立場からも屈辱的なことでした。ヨセフにとってこの状況は理解しがたい裏切りであり、人生最大の危機でした。しかし、19節は、このヨセフを「正しい人」と語っています。正しい人である彼は、マリアのことを表沙汰にして彼女を懲らしめずに、ただ密かに縁を切ろうとしました。ところが、その瞬間、主なる神の啓示が与えられました。 「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」(20節)ヨセフはマリアに対しては裏切られた気持ちを、自分に対しては無力な気持ちを感じていたでしょう。その時、夢に現れた主の御使いは驚くべきことを言いました。「マリアの子は不義の子ではない。主なる神が聖霊を通してくださった特別な方なのだ。」婚約者の不貞と誤解していたヨセフは、夢で啓示を聞いた瞬間、さっぱりした気持ちで婚約者を見直すことになったでしょう。おそらく以前、彼女は受胎の経緯をヨセフに打ち明けたはずです(ルカ1:26-38)。しかし、ヨセフはそれが信じられなかったでしょう。ところが、主なる神が自分の妻を通して偉大な人物を聖霊によって宿されたというのですから、もはや以前ほど戸惑ってはなかったでしょう。主はヨセフの苦しみと戸惑いをすでにご存知でおられる方でした。ヨセフの苦しみは心痛かったのですが、主の摂理の中でその苦しみはメシアの誕生という恵みへと繋がりました。時には、到底理解できない苦難が襲ってきます。経済の危機、不和、病気など、私たちを苦しめることがあり得ます。しかし、主はそれらの苦難の中に共におられ(インマヌエル)より良い結果へと私たちを導いてくださるでしょう。ヨセフの夢に現れたように、主はご自分の民の苦しみの中で語られます。「恐れるな、わたしがあなたと共にいる。」 2. インマヌエル — 主が私たちと共におられる インマヌエルとはヘブライ語で「主が私たちと共におられる」という意味です。「イン(イム)」は「共に」「ヌ」は「私たち」「エル」は「神」意味します。「イン(イム)」と「ヌ」がくっついて「インマヌ」と変わり、そこに神を意味する「エル」が付いて「インマヌエル」となるのです。それでは、「主が私たちと共におられる」ということには、どのような意味が込められているのでしょうか。新約聖書のローマの信徒への手紙にはこのような言葉があります。「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。」(ローマ1:23-24) 聖書はこの世界を主なる神が創造されたと創世記を通して証ししています。しかし、創造の中心である最初の人間の罪によって、人間は堕落のほだしに陥り、それによってこの世界も罪の影響で汚されたと証ししています。そのような罪の性質を持った人間は、神を主と認めず、自らが主となって自分の欲望に従って世界を乱し、神ではない他の存在を偶像として自分勝手に生き、結局滅ぼされることになりました。主なる神は罪の性質を持つ人間への裁きとして「彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ」つまり、罪人のままに放っておかれました。ということで、この世は常に悪へと走り、正義よりも不義が満ちる世界となったのです。 しかし、主が私たちと共におられるというのは、もはやこの世界を汚れの中に放っておかれるのではなく、積極的に関わって正しく導いていかれるという強い意志の表明なのです。主はそのために、ご自分の独り子をこの世に遣わしてくださったのです。21節で主の御使いはマリアが身ごもった子の名前を教えます。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」「イエス」は「神は救いである」という意味です。インマヌエルの目的は人間と世界の「救い」なのです。世の中の人々はクリスマスを単なる西洋の祭りだと思います。しかし、クリスマスの本質は、人類の最も根本的な問題である「罪」を解決するために、神ご自身が人間の間に来られたということです。人間は自分自身を救うことができません。自分の罪を解決する力が人間にはないからです。ですから、主なる神はインマヌエル、すなわち私たちの傍らに、ご自分の独り子(三位一体)を遣わされ、罪人の代わりに罪の償いにされたのです。クリスマスは、主なる神が他人事のように「頑張れ」とただ励ます日ではありません。泥沼のような私たちの人生の中に直接関わってくださり、私たちの手を握って救い出してくださったことを記念する日なのです。主が私たちと共におられる理由は、私たちの救いに積極的に関わってくださるためです。主が私たちと共におられるというインマヌエルの約束には、このような意味が隠されているのです。 3. 御言葉の成就 インマヌエルは神の御言葉の成就の結果です。本文22節と23節は、これらすべての出来事が偶然ではなく、主の緻密な計画と約束の成就であることを示しています。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばる。」(マタイ1:22-23) 旧約聖書にはこのような言葉があります。「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:14) この言葉は、周辺諸国の武力挑発によって混乱の中にあるイスラエルを助け救うという主なる神の救いの御言葉でしたが、その当時だけに限らない、ご自分の民に向けた主の御心が込められた救いの宣言でもあります。 また、この言葉は数百年という年月を経て、ヨセフとマリアを通して再び主の民に与えられた救いの宣言でもあります。そして、この言葉はイエス・キリストのご誕生によって成し遂げられました。主なる神は聖書の御言葉を通じて私たちに「わたしはあなたを離れない。共にいてあなたを守る」と約束されました。「インマヌエル」という言葉は、主なる神の変わることのない誠実さを象徴しています。世の約束は状況によって変わり、人の心は葦のように揺れ動きますが、主の約束は永遠に変わりません。インマヌエルはただの感情的な慰めではありません。それは「宇宙の創り主がご自分の民の味方となり、彼らの傍らに立っておられる」という厳然たる事実なのです。24節でヨセフは眠りから覚め、主の御使いに命じられた通りにマリアを迎え入れました。主なる神の約束を信じたからこそ、彼は恐れを乗り越え、従順に従うことができました。私たちもこのインマヌエルの約束を信じる時、世に打ち勝つ大胆さを主からいただくことでしょう。 締めくくり 私たちは毎年12月になると、クリスマスを準備し、クリスマス記念礼拝を捧げます。人生の中で数十回も迎えてきたクリスマスであるため、その感激はそれほど大きくないかもしれません。あまりにも慣れ親しんでいるからです。しかし、主なる神は独り子イエス・キリストをこの地上に遣わされることによって、主の民の人生に深く関わられました。そして、その御業を誰よりも喜んでおられるでしょう。主イエスを自分の救い主と告白し、その方によって神を信じる者は、主なる神の責任ある守りによって永遠に導かれることでしょう。年一度のクリスマスですが、私たちはこの期間を通して、なぜ主イエスが人間になられたのか、なぜ私たちの罪のために代わりに死んでくださったのか、なぜ私たちは毎年このクリスマスを記念すべきなのかを、憶え、振り返る機会となることを願います。

主イエスの御働き

イザヤ書61章1〜4節 (旧1162頁) マルコによる福音書 1章29~45節 (新61頁) 前置き 主イエスは洗礼者ヨハネの洗礼と荒野での試練を期して、公生涯すなわちキリストとしての人生を始められました。その後、主イエスは神の国の到来を告げ知らせ、弟子たちを呼び出し、救いのための本格的な旅に出られました。その最初のしるしは、汚れた霊に取り付かれた人から悪霊を追い出してくださることでした。悪霊が追い出すしるしの意味は、死の支配にある世に、主なる神のご統治が到来することの象徴でした。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28)つまり、悪霊を追い出された最初の御働きは、罪のため、滅びるべきこの世に主イエスによる新しい希望がもたらされるという象徴でした。今日の本文も、そのような新しい希望のための主イエスの御働きを描いています。今日の本文を通して主イエスの御働きについて話してみましょう。 1.主イエスという方。 主イエスはどんなお方でしょうか。キリスト教の教理では、このイエスが真の神でありながら、真の人であると教えています。それでは、まず、真の人間であるイエスについて話してみましょう。主イエスの時代のイスラエルには、イエスという名前が珍しくなかったと言われます。旧約の有名な人物の一人であるヨシュアに由来した名前だったからです。ヨシュアは「神の救い」という意味です。ヨシュアという名前は、時には「ホセア」や「イエス」とも呼ばれましたが、それらも「神の救い」という意味を持っていました。以後、主イエスは罪人の贖いのために十字架で処刑されましたが、ユダヤ教では、イエスが神に呪われて死んだと信じていました。そういうわけで、ユダヤ教では、イエスという名前を不浄に思い、タブー視したそうです。主イエスはベツレヘム出身のヨセフとマリアの長男でしたが、二人の祖先は共通して、ダビデ王だったと言われます。そのため、聖書は主イエスをダビデの子孫であると証しています。主イエスは公生涯が始まる時まで、家族と一緒に暮らし、大工を生業と生きてこられました。主イエスは30歳になった時から、ナザレを離れ、公生涯を始められたのです。 また、イエスは初めからおられた神でもあられます。私たちが三位一体と呼んでいる神は、御父、御子、聖霊の三位がおひとりの神としておられる方です。この三位一体は、世界が造られる前からおられ、世界の創造、維持、終末までの、すべてを司られる神です。三位一体なる神は、各自、限りの無い権能を持っておられますが、自ら謙虚になられ、お互いに協力し合い、神の摂理に従って、この世を治めておられる方です。そのような神のご統治は、今でも移り変わりなく、これからも永遠に続くでしょう。御父は、すべてをご計画される方です。御子は父なる神の御言葉、すなわち神のご意志でいらっしゃり、神の計画をこの世に啓示される方です。そして、聖霊は、その御父のご計画を御子の啓示によって、この世に成し遂げられる方です。主イエスが真な神でありながら、真の人間であるという意味は、神の全能さと人の弱さをすべて知っておられ、神と人の間で完全な執り成しがお出来になるということを意味します。イエスの御働きは、これらの真の神でありながら、真の人であるという、神と人への完全な知識にあって、この世を新たにしつつ、回復させる救いのお働きなのです。 2.イエス・キリストの御働き それでは、主イエスは、どんなお働きをなさったのでしょうか。私たちは今日の本文を通して、主イエスが3つのお働きをなさったことが分かります。一つ目に、イエスが癒しをなさったということです。 「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」(1:30-31)主イエスの時代のユダヤ地域は、邪悪な王の支配とローマ帝国の圧政のゆえに、力と富のある人々には住みやすい所でしたが、貧しくて弱い人々には、ますます苦しくなる所でした。神は旧約聖書を通して、常に貧しくて弱い者たちの世話を見なさいと命じられました。また、貧富の格差を無くし、誰もが神のご支配のもとで平和に生きる世界を追求するイスラエルをお望みになりました。しかし、イエスの時代は、そのような神の御意志とは、遠ざかっていました。王と総督は自分の力と富だけを貪り、宗教指導者たちも変わるところがありませんでした。 主イエスが、この地上に来られ、病人を癒し、悪霊を追い出し、弱者と一緒におられたというのは、そのような世の風潮に真正面から抵抗する行為でした。主イエスは貧しい弟子の家族を癒してくださることから、あらゆる病人を治され、人を苦しめる悪魔を追い出され、罪人を清めてくださいました。 「重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、御心ならば、わたしを清くすることがおできになりますと言った。 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、よろしい。清くなれと言われると、 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 」(1:40-42)主イエスのお癒しは、真の王でいらっしゃる神が、イエスを通して、弱者と一緒におられることを積極的に示す行為でした。最も高いところから来られた主イエスは、最も低いところに自ら臨まれて、慰めてくださり、癒してくださって、主なる神が民の間におられることを証明されました。 二つ目に、主イエスは宣教されました。 「イエスは言われた。近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(38)今日の本文に宣教と訳された言葉は、ギリシャ語で「ケリュッソ」と言いますが「宣言する、述べ伝える、告げる。」などを意味します。つまり、今日の本文の「宣教する」は、主イエスの説教、あるいは宣言として訳することが出来ます。この「ケリュッソ」という言葉から、キリストによる救い、罪の赦し、恵みなどを述べ伝えるという意味の「ケリュグマ」が由来しました。主イエスが病人を癒され、悪霊を追い出された理由は、神の国がこの地上に臨んだということを宣言する宣教のためでした。主イエスは、この宣教のために、神から人間となられたわけです。ただ、癒しばかり、悪霊の追い出しばかり、糧の配りばかりで、主イエスのお働きが終わったなら、主の御働きは中途半端になってしまったに違いありません。主が癒してくださった理由は、その癒しと伴う宣教を通して、人々が主イエスを信じて、神を知り、神の国に民へと導いてくださるためだったのです。 三つ目に、イエスは教えてくださいました。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」(44)主イエスは癒されるために、主のところに来た重い皮膚病を患っている人を清めてくださり、それから彼が何をすべきかを教えてくださいました。主はレビ記の御言葉に基づいて、回復された人の在り方を教えてくださったのです。主は旧約聖書の言葉をないがしろになさらず、その言葉に応じ、祭司のところに行ってモーセが定めたものを献げ、人々に証明してと命じられました。主は聖書の御言葉を生活の中で適用するように、導かれ、治った人が御言葉のように行なうことを望まれたのです。主イエスは癒しと共に御言葉を教えてくださる方です。癒しを通して体と生活を新たにしてくださり、御言葉の教えを通して、信仰を強めてくださいます。主イエスは今でも聖書の説教と、個人の黙想を通して、御心を教え、信徒の行くべき道を教えてくださるのです。 締め括り 「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」(イザヤ61:1) イザヤ書は、かつて神に油注がれたメシアが到来し、貧しくて弱い者たちを救い、慰めてくださると予告しました。主イエスがこの地に来られ、御働きを行われたのは、このようなメシアの到来を実際に証明することでした。主はお癒しを通して、弱い者を立ててくださり、宣教なさることを通して、主の救いを知らせてくださいました。そして教えてくださることを通して、信者の在り方を教えてくださいました。この主の3つの御働きが、キリストの教会が貫くべき働きであると思います。教会は主の体なる共同体です。世を愛された主のご意志を受け継ぐ群れなのです。だからこそ、主イエスが再び来られる日まで、主に倣って、教会は働きつづくべきです。

アドベントの意味

イザヤ書65章17-25節(旧1168頁) ペトロの手紙二3章8-13節(新439頁) 前置き アドベント即ち待降節の時になると、多くの教会がクリスマス飾り、4本のロウソクなどを用意し、主イエスのご降誕を祝います。また、クリスマスまでの約1ヶ月間、天の玉座から低い地上の飼い葉桶までおいでになった赤ん坊イエスを待ち望みつつ、聖書の黙想と祈り、教派によっては断食などを通して、 イエスのご誕生を記念します。それゆえに、多くの人々がこの待降節を主イエスのご誕生だけのための準備期間として理解しがちだと思います。しかし、待降節が持つ大事な意味は、単に受肉してお生まれになった初臨のイエスだけでなく、いつか再び臨まれる再臨の主イエスをも共に記念することにあります。したがって、待降節は主イエスのご誕生とともに、再臨される主イエスを記念する期間でもあります。昔、主イエスはなぜこの地上にお生まれになり、将来、主イエスはなぜこの地上にまたおいでになられるのでしょうか。今日はアドベントの意味を通して、おいでになったイエスと、おいでになるイエスについて話してみましょう。 1.待降節の起源と意味 現代は、太陽暦を使用して1年を数えています。しかし、古代と中世の教会はキリストの生涯、特にクリスマスとイースターを中心とした教会暦によって1年を数えたと言われます。教会暦によると、待降節が始まる主日が1年の初日だったそうです。つまり教会暦は主イエスのご誕生を期して1年間を始めたということです。日本の教会では待降節をアドベントと呼んでいます。待降節、つまり「主のご到来を待つ期間」という良い漢字語の表現があるのに、なぜ人々は、あえて外来語を使用しているのでしょうか。「アドベント」は「到来」を意味するラテンAdventus(アドベントス)に由来します。主イエスのご到来を記念しようという意味で、外来語をそのまま借用したので、今でもアドベントという表現を使っているのです。というわけで、アドベントの意味を知らずに、漠然と使っている人が多いでしょう。しかし、大丈夫です。アドベントは外来語ですが、その意味だけは待降節とまったく変わりがないからです。大事なのは、救いと平和の主イエス・キリストが、この地上にご到来なさったこと、それを憶えるにあるのではないでしょうか。 もともと待降節は、キリストの神性が、公に現れたことを記念する公現祭の準備期間だったと言われます。公現祭とは、貧しい大工の息子として、お生まれになった赤ん坊イエスのところに、東方からの占星術学者たちが訪れ、主イエスの出生が、実はいと高き神の子の顕現であることを、この世に公に現したことを記念する日なのです。待降節は、この公現祭を記念する期間だったのです。そのような待降節が時の経つにつれてクリスマスを記念する日と変わったわけです。教会は、最初はキリストのご誕生だけを記念して待降節を過ごしましたが、西暦6-7世紀頃に再臨のイエスへの待ち望みの意味も付け加えて、今の待降節はイエスの初臨と再臨を共に記念する意味を持つようになったと言われます。とにかく、待降節はイエスのご到来を記念する重要な期間です。日本ではクリスマスがハロウィンのように外国からの祭りとして、軽く取り扱われているようです。しかし、主の教会は、待降節の期間を通して、御救いのために初めて臨まれた主、また御裁きのために再び臨まれる主を憶えつつ慎んで過ごすべきでしょう。かつて、この地上に来られ、罪によって苦しんでいる人間を愛し、赦してくださった主の御救いと平和を憶え、また、やがて、再び来られる主の公平な御裁きを待ち望みつつ、この期間を過ごしましょう。 2.キリストの初臨 – 約束のメシアがおいでになる。 キリストのご誕生が大事な理由は、旧約のメシア信仰の成就という大きな意味を持っているからです。旧約のイスラエルには、神のメシアが、いつか到来し、この世を裁き、主の民を救ってくださるという信仰がありました。彼らは、メシアが来て、人間では成就できない真の癒しと慰めを与えくださると信じたのです。貧しい者、病んでいる者、縛られている者、閉じ込められている者、絶望に陥った者に、力を与え、導いてくださる存在が、まさにこのメシアだと信じていたわけでした。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」(イサヤ61:1)このようにメシア信仰は、主なる神がこの世で苦しんでいる民を見捨てられず、いつか必ず救ってくださるという、神への信頼と希望、この世の悪への抵抗という意味を持っていました。 教会が主イエスのご誕生を大切にする理由は、この旧約のメシア信仰がイエス・キリストによって成就されたと信じているからです。 イエスは永遠な神ご自身が、人間になって来られた存在です。元々神は人間と全く別の存在で、神学的には絶対他者と呼ばれる方です。創り主なる神が、被造物である人間になるのは有り得ないことであり、神と人間の間には絶対に共有できない神性と人性という雲泥の差があります。しかし、神は人間を赦し、救われるために神性とともに、人性を持って自ら人間になってくださいました。これはご自分の創造の秩序を自らくつがえされた神の特別な恵みです。このような例えはいかがでしょうか。(神の受肉とは比較できませんが、あえて例えれば) 人間が虫になるのは有り得ないことです。もし誰かが虫を助けるために、自ら虫のような存在になれば、それは映画に出てきそうなことでしょう。ところが、神は罪によって堕落した虫のような人間の救いために、自ら人間になって来られたのです。さながら映画のような出来事がイエス•キリストのご誕生によって、この地に起こったわけです。自ら人間になって来られた神であるイエスは、ご自分の命を捨ててまで、人間に代わって死に、復活して罪を赦してくださいました。そして、この世の終わりの日まで、ご自分を信じる者たちのために執り成してくださるでしょう。真のメシア主イエス•キリストは人間を愛し、被造の世界を神に導いてくださる、たったお独りの方です。 キリストのご誕生は、そのメシアであるイエスの最初の歩みなのです。 3.キリストの再臨 – 最も完全かつ新しい創造 それでは、待降節はなぜ、このようなイエスのご誕生だけでなく、イエスの再臨をも記念するのでしょうか。今日の旧約の本文を読んでみましょう。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。」(イサヤ65:17-19)私たちは、神が永遠な方であることを聖書を通じて学び、すでに知っています。ここで永遠とは何でしょうか。哲学では「永遠」と「不滅」という概念があります。私たちは、よく永遠を不滅と混同したりします。 永遠は「限りなく長く存在する。」という「不滅」とは異なる概念です。永遠とは、「最初から最後まですべてが完全に支配される。」という意味を持っています。 私たちは創世記を通じて、神がこの世をお造りになったことを学びました。ところで、聖書は、その神が終わりの日に、この世を再び新たに創造されることをも示しています。つまり、昔の創造と新しい創造の間のすべてを、神が司っておられるのです。その中には空間、時間の全ても含まれているのです。それがまさに聖書が語る永遠の本当の意味なのです。 主イエスの再臨とは、この新しい創造が完成する日のことです。神の初ての創造は、人間の罪によって汚されてしまいました。神は人間を被造物の頭としてくださいました。ところが、その頭である人間という存在が堕落し、神の被造の世界も堕落してしまったのです。イエス•キリストは初臨して、ご自分の犠牲を通して人間と被造の世界を救う手立てを備えてくださいました。そして、その象徴として主の教会を建ててくださったのです。教会の頭なるイエスは再び来られて、必ず救いを成し遂げてくださるでしょう。その時、主に逆らう邪悪な者は裁かれ、主に従う正しい者は救われるでしょう。「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(ペトロ二3:12-13)すなわち、御裁きと御救いは、キリストによる新しい創造の一面に過ぎないものです。再び来られる主は、神がご計画なさった最も完全な創造を成し遂げられるでしょう。そして、その新しく創造された世で、主の民である私たちは、至高の喜びと愛とを持って主と永遠の中に、一緒に生きるでしょう。私たちが待降節を通して、主の再臨を待ち望む理由は、主の再臨に新しい創造という意味が隠れているからです。 締め括り 待降節を通して、初臨と再臨のイエス•キリストを憶える時を過ごしましょう。この世での私たちの人生がいつも幸せだとは限りません。人にはいつか必ず死ぬことが定まっており、喜びより悲しみが多いのが、この世の有様です。しかし、主イエスは、悲しみと死を圧倒する真の喜びと生命が、ご自分の中にあると教えてくださるために、いと高き天から低い地上に来られました。そして、いつか父なる神の右から、ご自分の中にある真の喜びと生命を完全に成し遂げてくださるために、まさに新しい創造のために必ず再び来られるでしょう。このような、かつて臨まれたイエスと、また、いつか臨まれるイエスを記念し、待降節とクリスマスを過ごしたいと思います。愛と救い、平和と新しい創造の主イエス•キリストが、私たちと共におられ、限りのない祝福を与えてくださることを祈り願います。

王のためか、パンのためか。

申命記 8章3節(旧294頁) ヨハネによる福音書 6章1-15節(新174頁) 前置き 「どう生きるべきか」この問いは、古今東西を問わず、人間なら誰もが一度考えたことのある問いだと思います。みんな同じ方向に向かって駆けつけながらも、自分の人生について自ら真剣に問い掛けるべき質問。「私は何のために生きるのか。」皆さんは、この質問にどう答えておられますでしょうか。アメリカの16代大統領であるアブラハム・リンカーンは「40歳を過ぎると、人は自分の顔に責任を持つべき」と言いました。おそらく、リンカーンは「人は40年を生きると、自分が何のために生きているかをわきまえつつ生きるべき」という意味として、この言葉を残したでしょう。もちろん、個人差があるので、早めに気付く人も、遅く気付く人もいると思います。聖書は人の生きる理由についてこう語っています。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」今日は「キリスト者である私たちはなぜ、生まれてどう生きるべきか。」について話してみたいと思います。 1.パンに対する人間の本性- ヘロデ王 今日の新約本文は5つのパンと2匹の魚の奇跡と言われる有名な物語です。 4つの福音書に記録されているほど、奥深い意味を持っている箇所です。ところで、ヨハネによる福音書を除く3つの福音書では、この5つのパンと2匹の魚の奇跡の物語が出てくる直前にヘロデ王がバプテスマのヨハネを処刑する話が出てきます。なぜ、5つのパンと2匹の魚の物語の直前にヘロデ王の話が出てくるのでしょうか。それは、パンが持っている意味について語るためです。異民族出身の王で正当性が貧弱だったヘロデは、自分のパン、すなわち自分の権力を保つために、イスラエル血統の女性との結婚を望みました。結局、自分の本妻を捨てて、異母兄弟のイスラエル血統の妻と再婚することになります。バプテスマのヨハネは、そのようなヘロデの行為が律法に適わないと、ヘロデとその妻を糾弾します。すると、ヨハネを目の敵にしていたヘロデの妻はヘロデをあおり立て、ヨハネを殺させました。マタイ、マルコ、ルカの福音書では、この物語が出て来ています。 ヘロデがヨハネを殺した理由は、自分の権力のためでした。異民族血統の王が民族的な正当性を手に入れるために、律法に禁じられた結婚をし、ヨハネがその結婚を糾弾したゆえに、ヘロデはヨハネを殺したのです。聖書が語るパンは、単に食べ物に限ったものではありません。ヘロデはパンと象徴される自分の権力を強めるために、つまり、自分の欲望のために、神の預言者を殺したのです。人に適切な権力と富と名誉は要ると思います。聖書を読むと、主なる神もご自分の民に権力と富と名誉を許される場面があります。しかし、権力、富、名誉に心を奪われた者は、必ず主に裁かれました。私は今日、このパンを権力、富、名誉に例えたいと思います。人間には、このパンに執着する本能があります。自分のパンのために、他者を苦しめ、憎み、殺すのです。自分のパンへの執着、そのようなヘロデの行為は、イスラエルの民に大きな痛みと悲しみを与えました。 2.パンに対するイエスの御心。 ところで、神の独り子、イエス・キリストは、このパンについてヘロデと異なる見方を示してくださいます。「イエスはお答えになった。人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きると書いてある。」(マタイ4:4) 主イエスは、人がパンのために生きるのではなく、主なる神の御言葉によって生きるべきと教えてくださいました。パンだけを求める者は、主の御言葉から遠ざかってしまいます。自分の欲望だけを求める者は、主の御言葉に含まれた正義、公平、愛から離れてしまいます。主の御言葉を守りつつ生きれば、人は自分の欲望について行けなくなるからです。主イエスは徹底して人間のパンより、神の御言葉について行かれました。主イエスは、パンを独り占めされず、他者に分け与えてくださいました。ご自分の欲望ではなく、神の御言葉をはるかに大事にされたからです。主イエスは、病んでいる者、飢えている者を助けてくださいました。5つのパンと2匹の魚を用いられ、大勢の群衆に分け与えてくださいました。主イエスはパンの前に、まず治してくださり、御言葉を教えてくださり、最後にパンをくださったのです。弱い者を慰め、御言葉を教え、その次に食べ物を与えられたのです。 主イエスは人間の欲望のために、満足のために、奇跡を起こされたわけではありません。主は神の慰めと、教えの結果として食べ物をくださったわけです。ヘロデが自分のパンを得るために他者に害を及ぼし、苦しめたとは違って、主イエスは、他者に仕え、癒しと慰めを与えるために、ご自分のパンを分けてくださったのです。イエス・キリストは、いつもご自分の権力と富と名誉ではなく、人々の痛みと苦しみと悲しみに眼差しを注がれました。そして、父なる神の愛と御心が、この世に成し遂げられることを望まれました。主イエスはそのような主の御心が、主を信じる者たちに共有されることを望んでおられたのです。その結果として、主イエスは男だけでも、5000人にもなる多くの人々を満足させるほど、豊かな食べ物を施されました。王としての権力のために、罪のない人を殺したヘロデとは違って、ご自分の民のためにパンを分け与えてくださった主は、さながら、マナを通して、イスラエルに食料をくださった旧約の主なる神を象徴するかのように、民を助け、生かしてくださったのです。 3.私たちが選ぶべきパンは? 人間は常に二つの心を抱いて生きると思います。自分の欲望を追いかけるヘロデの心、他者への愛を追い求める主イエスの心。この二つの心が一塊となり、ある時は善を行なったり、ある時は悪を行なったりして生きるのです。主なる神は、今日も私たちの目の前に、二つのパンを置かれ、どっちのパンを選ぶか見ておられると思います。私たちが選ぶべきパンは、ヘロデのパンでしょうか。それとも、主イエスのパンでしょうか。ヨハネによる福音書には、主イエスの弟子たちとイスラエルの群衆が登場します。主イエスは飢えた群衆に与えるパンのために弟子たちを試み、彼らがどのように群衆を助けるかを見詰められました。弟子たちは、お金が足りないと困った顔をしましたが、それでも5つのパンと2匹の魚を持ってきて、主に差し上げました。彼らの力は弱かったのですが、彼らは主イエスに頼りました。そして、主イエスは彼らの小さい信仰に答えて、多くの群衆に食料をくださいました。私たちが持っているひとかけらのパン、小さな力を用いても、主イエスを信じ、主の御言葉に聞き従うならば、私たちを通して主なる神の偉大な御業が表されると信じます。 今日の本文の群衆は弱くて病んでいる群れでした。自分たちが食べるパンでさえ、用意できない貧しい群れでした。彼らにはパンが必要でした。そこで、主イエスは、彼らを哀れみ、喜んでお助けになりました。しかし、満腹した群衆は、イエスの御心に気付かず、続いて、食べ物を与える王としてイエス・キリストを無理やりに自分たちの王にしようとしました。「人々はイエスのなさったしるしを見て、まさにこの人こそ、世に来られる預言者であると言った。 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」(ヨハネ6:14-15) 主は貧しい人を愛しておられますが、貧しい人だからといって、皆が御心を知るわけではありません。彼らは貧しさの中、満腹になったあまり、主の本当の御心が理解できませんでした。主のパンを食べた彼らは、自分の所に帰り、主がいかに自分たちを助けてくださったのかを宣べ伝え、彼らも他者のためのパンのような存在として生きるべきだったのです。ですが、彼らは、ただパンだけに満足して、自分の在り方について、気づけなかったのです。主はそのような彼らから離れ、退かれました。 締めくくり 真の王であるイエス・キリストは、自己中心的なヘロデ王とは異なり、ご自身の権力や欲望のためではなく、ご自分の民に愛と生命を与えてくださるために自らパンとなられた方です。私たちキリスト者は、自分の権力や富に執着し、他者からパンを奪い取ろうとするヘロデの道ではなく、主の御心に従って自分のパンを分かち合い、他者を生かす「命のパン」となられたキリストの道を選び取るべきです。小さな存在である私たちが主の御手に用いられるひとかけらのパンとなる時、隣人に希望と救いの御言葉を伝えることができるでしょう。今日も私たちは、自己中心的な「王」の道と、愛と奉仕の「パン」の道のどちらを選ぶのかという決断の前に立たされています。主イエスの民である、志免教会の兄弟姉妹は、命のパンである主イエスの道に沿って生きるべきではないでしょうか。

アメイジング・グレイス(驚くべき主の恵み)

ヨハネによる福音書3章16~17節 (新167頁) 前置き 今日のタイトルは「アメイジング・グレイス」です。英語そのままなので「なんで、英語?」と思う方もおられるでしょう。「アメイジング・グレイス」は日本語で「驚くべき恵み」という意味です。私が敢えてこの英語の発音を説教のタイトルにした理由は「ただの恵み(グレイス)」と「驚くべき恵み(アメイジング・グレイス)」を分けて、覚えやすく説き明かすためです。私たちキリスト者は、ただの恵みの中に生きているのではなく、主なる神の驚くべき恵の中に生きています。キリスト教の神学における神の恩寵は、世のすべての被造物に与えられる「一般恩寵」と、主に選ばれた者らに与えられる「特別恩寵」に分けることが出来ると言われます。主は、ご自分のことを知らず信じない者たちにも、ご自身の民と同じように、太陽の光や雨といった自然の恵みを与えてくださいます。しかし、主の民には、それ以上の特別な救いの恵みを与えてくださいます。本日は、この主の特別な恵みについて、ヨハネによる福音書の言葉を通じて分かち合いたいと思います。 1. 神が世を愛された。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書 3:16) ヨハネによる福音書3章16節は、キリスト教において最も知られている聖句の一つです。それだけに、この言葉は教会で語られるメッセージの中心となるべき核心的な真理を含めており、キリスト者なら、心に深く刻み、日々告白して生きるべき信仰の根幹をなす言葉です。この言葉が伝えている最も重要なメッセージは、この世を創造された唯一の造り主なる神が、罪によって滅びるほかないこの世をあまりにも愛され、その愛の証明として、ご自分のかけがえのない独り子を世にくださったということです。また、この独り子イエス・キリストを救い主と信じ、頼りにするすべての者に、神の裁きから救われ、滅びることなく、永遠の生命を得られるという約束をもくださったことです。これこそ、福音(良い知らせ、すなわちイエス・キリストによる救い)の核心的な真理であり、聖書の最も簡潔な要約であると言えます。私たちはこの言葉から、三つのことが分かります。 まず、神についてです。 神のことについて、私たちは完全に知ることができません。聖書に記された言葉その程度が、私たちが知り得る限界です。しかし、聖書は、この神が世を愛されたと語ります。神は絶対的な存在であり、世界の創造者です。聖書は、世にある数多くの神々は偽りであり、断然この神のみが唯一にして真の神であると力を入れて述べています。次に、世についてです。 聖書に出てくる世は、ギリシャ語で「コスモス」と言います。これは「秩序、調和」などを意味します。古代ギリシャ人は、宇宙が秩序と調和によって成り立っていると思いました。そのため、コスモスを「宇宙、世」という意味としても使いました。そして、このコスモスには、その宇宙に住んでいる「居住者」(すなわち人間)という意味をもあります。したがって、「神が世を愛された」という言葉は「神が人間を愛された」と言い換えることができるでしょう。最後に、愛についてです。 ここで語られた愛は、ギリシャ語「アガペー」の翻訳です。アガペーは、人間が与えられない愛で、最も善意で、温かく、自己犠牲的で、完全無欠な愛、神の限りない愛を指します。上記の三つのことを通して、私たちに推論できるのは。「絶対者である神は、人間を最も完全に愛しておられる方ということです。 2. 独り子をお与えになった 聖書は、人間を最も完全に愛してくださる絶対者なる神の極めて深い愛のゆえに、「独り子をお与えになった」と語ります。ここで私たちは、三位一体という神のあり方について考えることになります。三位一体は信者でない方々も耳にしたことのある言葉でしょう。三位一体とは、唯一の神である方が、父、子、聖霊の三つの位格(人格)として同時におられるという意味です。どうして、唯一の神でありながら三つ位格として存在し得るのかは、人間の知識では到底理解しがたいかもしれません。しかし、聖書が、明確に唯一の神でありながら父と子と聖霊として存在すると証ししているため、私たちは限った知識で理解しようとするより、神ご自身が聖書を通して自らをそのように示されたと理解し、信仰をもって受け入れるべきです。ある学者たちは、この概念は知識ではなく神秘として理解すべきだと語ることもありました。とにかく、この三位一体から出てきた概念が「独り子」なのです。独り子は、かけがえのない神の御子イエス・キリストのことです。その方は肉体をとって人となり、罪によって聖なる神から離れた人間に代わって十字架にかかり、その贖いを通して人間を救ってくださいました。したがって、独り子をお与えになったという神の御業は、人間に対する創造主なる神の最も偉大な愛の証拠なのです。 新約聖書ヨハネの手紙第一4章16節は「神は愛である」と宣言しています。今日の本文にも、神が世を愛されたとあります。真に、主なる神は愛の神でおられます。しかし、その愛は盲目的で正義のない愛ではありません。親の健全な愛は、時にはおしかりとして現れることもあります。聖書はそれを裁き(審判)と表現します。裁きの根源は神の正義であり、神の正義は神の愛の一部でもあります。それゆえ、キリストの愛に力づけられて罪を悔い改める者には愛の救いが、キリストの救いをないがしろにして罪を悔い改めない者には正義の裁きが待っています。しかし、愛の神は、人間が自力で正義を果たすのができないことを誰よりもよく知っておられます。それゆえに、主なる神は罪はないが、神の正義を完全に満たせる存在を遣わされ、罪によって滅びる人間を救うようにしてくださいました。独り子イエス・キリストは、真の神でありながら、真の人間としてこの世に来られました。そして、ご自身が神の裁きへと進み、罪人のために代わりに死んでくださることで、神の愛と正義を成し遂げてくださったのです。聖書は、このイエス・キリストを自分の救い主と信じる者には、神の愛と救いが惜しみなく与えられると証ししています。 3. 主なる神の特別恩寵(アメイジング・グレイス) 今日の本文は、このように締めくくられています。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この世(人間)を愛された神は、その愛の証拠として、ご自身の独り子を十字架の犠牲にかけられました。そして、その独り子の贖いと執り成しによって、人間に主なる神の赦しと救いを与えてくださったのです。誰かが過去、どんな罪を犯したとしても、現在、罪によって汚されているとしても、将来、自分も知らないうちに罪を犯すとしても、自分の罪を真に悔い改め、神の御前で新しい人生を誓うならば、主なる神はキリストの恵みによってその人を赦し、新しい人生を歩めるように導いてくださるでしょう。今日の話を始める際、お話しした「特別恩寵」が、まさにそれなのです。神は世のすべての存在に、太陽の光と雨と空気を、ただで与えられます。彼が悪い人であろうが、善い人であろうが、差別なくすべての人に与えてくださいます。これが「一般恩寵」です。しかし、そのすべての人々が主なる神の赦しを受け、救いを得るわけではありません。神が遣わされた独り子イエス・キリストの贖いを信じ、自分の罪を悔い改め、主に頼ってその方の民として生きようとする人には、キリストの執り成しによって神の子として、新しい人生を始めることができます。それこそが、特別な恩寵「アメイジング・グレイス」なのです。 犯罪を犯して社会から見捨てられた者も、キリストを通して真に自分の罪を悔い改め、自分によって苦しんだ人々に謝罪し、信仰にあって新しく生きようとするならば、神は主イエス・キリストの執り成しを通して、喜んで彼らを赦してくださるでしょう。幼い頃の傷のために世に出ることができず、部屋に引きこもっている者も、キリストに依り頼み、神に近づくならば、神は彼に改めて始める力を与えてくださるでしょう。若い頃の過ちで風俗街を転々としていた者も、事業の失敗に挫折してホームレスとなった者も、イエス・キリストに寄りかかって神に近づくならば、主なる神は彼らを差別せず温かく受け入れ、再び始める心と機会を与えてくださるでしょう。主なる神の驚くべき恵みは、今日も主イエス・キリストを通して私たちに限りなく与えられています。日差しと雨と空気がこの世の自然を豊かにするように、独り子イエス・キリストの恵みによって、誰もが神の前で再び始めることができるのです。主なる神は、彼らが滅びることなく、この地上で、また天の国で、そしていつか到来する神の世界で、永遠の生命を享受して生きることができるように、最後まで共に歩んでくださるでしょう。それこそが、神の特別な恩寵、驚くべき恵み「アメイジング・グレイス」なのです。 締め括り 最後に、今日の本文をもう一度読んで終わりたいと思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」今日、私の話だけでは、この一行の御言葉が持つ豊なメッセージをすべて解き明かすことはできないと思います。しかし、この御言葉を通じて、私たちに与えられた最も大事な教え、すなわち、神が人間を愛しておられること、その人間を救ってくださるために独り子を遣わされたこと、その独り子を信じ頼る者には滅びではなく永遠の生命が与えられることは、もう一度お伝えしたいと思います。長きにわたり信仰生活を営んでこられた方々、キリスト教信仰に興味を持ち始められた方々、長い間求道者として歩んでこられた方々、今日の御言葉の中に隠されている神の愛を今一度深く考える機会となれば幸いです。主なる神は、キリストを通して私たちを永遠に愛し、導いてくださるでしょう。

キリスト者の富認識

マラキ書 3章6~12節 (旧1500頁) マタイによる福音書6章19~21節(新10頁) 前置き お金や財産、すなわち「富」は私たちの日常生活と密接に関わっています。そして、信仰生活においても非常に重要な意味を持っています。富は、祝福と呪い、献身と堕落の境界線の上で、絶えず私たちの信仰を試す試金石のようなものです。この世は富を成功の物差しとするよう私たちを駆り立て、聖書は富への過度な執着を警戒しています。私たちは、このような相反する価値観の間で、どんな心構えを持つべきか、悩み考えなければなりません。本日は、富の根源と目的、そして原理についてお話ししたいと思います。この世を生きる上で必要不可欠な「富」。この富に対する正しい認識を持って生きるキリスト者であることを祈り願います。 1. キリスト教徒の富の根源 今日の旧約の本文を読んでみましょう。「まことに、主であるわたしは変わることがない。あなたたちヤコブの子らにも終わりはない。」(マラキ書 3:6)旧約聖書は様々な箇所で、私たちが主と崇める神が、この世のすべてのものを創造されたと証言しています。また、創造主である神が変わりのない御方であるとも証言しています。そして、今日の旧約聖書の本文であるマラキ書には、その不変の創造主がヤコブの子ら(イスラエル)の主であり、その神の不変性によって主の民であるイスラエルも終わらないと記されています。つまり、創造主である変わらない神の存在のゆえに、その民であるイスラエルも滅びないで保たれるということです。したがって、主なる神の民であるイスラエル、新約時代では主の教会、そしてその教会に属する私たちの根源は、まさに主なる神にあるのです。主無しには主の民もなく、主の御守り無しには主の民の生活も保たれないということです。エフェソの信徒への手紙2章に「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1:4)とあり、主なる神が天地創造の前から、すでにご自分の民を知り、選び召してくださったことがわかります。キリスト者は、主なる神という根源によってこの世を生きているのです。キリスト者の富への認識は、まさにこの地点から始まるのです。 「私のすべてのものは主から始まった。私自身を含め、与えられたすべてのものは主のものである。したがって、私の富も主からいただいた祝福の一部である。」これらが、キリスト者が持つべき富への正しい認識です。ところで、ここでいう富とは「莫大な財産」ではありません。小さいものであっても、自分に出来るすべての物事のことです。主は、そのうちの一部を主に捧げなさいと命じられたのです。その理由は、それを用いり、神殿礼拝に奉仕する祭司への扶養、神殿の営繕費、そして貧しい人々への救済金として使用するためでした。(申命記 14章28-29節、列王記下 12章4-16節) 主なる神はこの一部を受け取られ、そのほかは主の民の富として認めてくださったのです。ところが、マラキ書が記録された時期、イスラエルの民は自分の富の一部を主に捧げなかったようです。「人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながら、どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と献納物においてである。あなたたちは、甚だしく呪われる。あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。」(マラキ3:8-9) 2. キリスト者の富の目的 イスラエルは、自分の罪のため、主に裁かれ、バビロン帝国に滅ぼされました。その後、捕囚に連れられ、ペルシャ帝国の皇帝キュロスによって解放され、故郷に帰還しました。帰還した彼らは集まって悔い改め、主の神殿をかろうじて再建しました。莫大な財産がないにもかかわらず神殿を再建した理由は、神殿に主のご臨在があるという象徴性があったからです。また、十分の一の献げ物と献納物といった、主なる神への自分の富の一部の献げも行いました。しかし、時間が経つにつれてイスラエルの民の心は再び怠り、旧約聖書に明記されている主なる神に捧げるべき十分の一の献げ物と献納物を捧げなくなりました。それによって、当然ながら、神殿の営繕もまともにできず、レビ人の生活も困窮になり、何よりも他人の助けを必要とする貧困層の生活もさらにきつくなりました。主からいただいたすべてが主のものであるにもかかわらず、イスラエルの民は自分の富であるかのように、主に捧げるべきものを自分のものにしたのです。その結果は、不作などの主の裁きでした。これに対して主はイスラエルの民に告げられました。「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと、万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。」(マラキ3:10) 主なる神を試すというのはあり得ないことですが、主はご自分の約束を明確にされるために、ご自身をかけてイスラエルの民に十分の一の献げ物と献納物を要求されたのです。 自分のすべてのものが主のものであり、その中の一部を主にお返しするということで、富への正しい認識を持つことを、主なる神は望まれたのです。私たちの献金は、教会が裕福になるためとか、あるいは、牧師や長老などの教会の指導者がお金持ちになるためとかのためにするのではありません。この世の中には、莫大な献金を集めた裕福な教会や金持ちの牧師もいます。異端の中には当然多く、正式な教会の中にもそのようなケースがあります。その中には、金銭的な問題で信徒たちと対立したり、背任罪で裁判にかけられる教会指導者もいます。それらのことの原因は、富に人々の心が奪われて起こった可能性が非常に高いです。富の目的、教会では献金の目的は、教会や教会の指導者が金持ちになるためではありません。まず、主なる神がくださった私たちのものの一部を再び主にお返しすることで、主の主権を認めるためです。次に、教会という主の共同体が問題なく保たれるように、主の民が力を合わせて教会を支えるためにあるのです。第三に、教会だけでなく、私たちの助けが必要な人々のために、愛の心で教会が仕えるためです。主が私たちに富をくださった目的は、主がくださったこの富を通して、教会がこの地上で主の御業を代行するためです。ですから、私たちは富を集めることだけに興味を持つべきではありません。その富を用いて、主の愛がこの世に広がるように正しく使うべきです。それが主なる神が私たちに富を与えてくださった目的なのです。 3. キリスト教徒の富の原理 今日の新約聖書の本文を読んでみましょう。「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ 6:19-21) 主イエスは、地上に積む富の三つの属性を警告されます。「虫」は服や織物を傷つけ、「さび」は金属を腐食させ「盗人」は物理的な強奪者のことです。これは、世の富が持つ根本的な限界、すなわち「永遠ではない」ことを象徴しています。今日の虫とさびは何でしょうか。それは、急変する経済状況の中での資産価値の下落、技術発展による資産の旧式化、そして、コントロールできない病や災いによる資産の損失でしょう。どんなに頑丈で安全に見える財産であっても、結局この世の時間の中では消滅するか損傷するしかありません。私たちが持っているすべての富は、明確な終わりがあり、永遠ではなくいつか変わり得る有限なものだという意味です。富の限界をご存じのイエス・キリストは、だからこそ、こう言われるのです。「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」(マタイ6:20) 天に富を積むこととは何でしょうか。たくさんの献金を求めることでしょうか。決してそうではありません。これは、永遠の価値を持つ主の福音のために、私たちの富と時間とエネルギーを使うことです。具体的には、貧しい人々を助ける慈善、福音を伝える伝道、教会に仕える献身、そしてキリスト者にふさわしく生きることと言えるでしょう。私たちが隣人に施した奉仕、伝道に使った時間、礼拝のために捧げた誠意は、決して消えたり腐ったりしません。それがまさに、天の倉に安全に保管される真の富なのです。ですから、この新約の御言葉を「献金をたくさんしなさい」という意味で使ってはなりません。教会維持のために一定の献金はするとしても、統一教会のように何千億円もの献金を要求するのは盗みと変わりません。私たちは、自分の富の一部を主に捧げるという名目で献金し、残りは自分の健全な生活のために利用し、また隣人のために、伝道のために使うのです。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:21)富は私たちの霊的な温度計であり、私たちの心の方向を指し示す羅針盤です。私たちがお金を使う方法こそが、私たちがどれだけ主を愛しているか、どれだけ世に頼っているかを表します。天に富を積む生活は、単に富を切り離して捧げる行為を超えて、私たちの心の中心を主に移し捧げる霊的な訓練なのです。これがまキリスト者の富の原理なのです。 締め括り 富は大切なものです。私たちは他人に迷惑をかけないためにも、自分の富をよく管理しなければなりません。しかし、その富に心を奪われてしまってはなりません。私たちが持っている富を思うとき「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」という御言葉を必ず憶えましょう。イエス・キリストは、この世でおられる間、清貧に生きられました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイ8:20) それは、キリスト者なら、無条件に貧しくあるべきという意味ではありません。主は、父なる神の御業の成就のために、ご自身の富と名誉ではなく、神の栄光を見つめて生きられたからです。私たちは、主なる神くださった富をよく管理しながらも、その富を利用して主の栄光が現れる生活を過ごすために力を入れて生きるべきです。私たちの富があるところに、私たちの心もあります。富への正しい認識を持って生きていきましょう。

罪から赦される

イザヤ書59章1~2節 (旧1158頁)   ローマ信徒への手紙 1章18~32節(新274頁) 前置き近代初期、ボヘミア(現代のチェコ)のモラヴィア兄弟団という教派所属のある宣教師が、グリーンランドで17年間宣教活動をしました。彼は現地の文化と言語を深く学びつつ宣教に尽力しました。彼は親切で先住民とも仲良かったですが、誰も改心していませんでした。ある日、親しくしていた先住民の一人とイエス・キリストの死と罪の赦しについて語り合うことになりました。その会話のあげく、その先住民は自分の罪に気づき、悔い改めるようになりました。この出来事が転機となって、本格的な伝道が始まり、多くの人が改心しました。この物語は、罪への警告と赦しの恵みという福音の大事なメッセージを私たちに伝えています。 1.罪の影響 キリスト教は幸せな来世のための宗教ではありません。この世での富や名誉や自己省察のための宗教でもありません。イエス・キリストによって、天地を創造された造り主なる神と出会い、和解し、主と共に生きるための宗教なのです。ところが、この主なる神に出会うことを妨げる深刻な問題があります。それは人の罪です。今日の旧約聖書を読んでみましょう。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろ、お前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ59:1-2) 罪により、造り主から離れた人間が救いを得るためには、絶対に造り主なる神の御前にいなければなりません。御前にいるということは、主なる神と共に歩むという意味です。しかし、罪というものがある限り、人は主の御前にいることが出来ません。罪が主と人の間を隔てているからです。 実に主なる神は、どんな状況にあっても、罪人を救える十分な権能を持っておられます。しかし、人が罪を持っている限り、主は人をお救いになりません。主の御手が短いわけでもなく、主の御耳が鈍いわけでもありません。それにもかかわらず、主なる神は人に罪がある限り、その人をお救いになりません。なぜなら、罪は主なる神の性質と正反対であるからです。罪は、主と人の間の大きい隔てをもたらします。罪は人間を憐れんでくださる主なる神の御顔を隠すものです。罪は主の怒りと裁きをもたらす恐ろしいものです。罪の影響は、人が主に救われることが出来なくする結果、人が主に見捨てられる悲惨な結果をもたらします。人が自分の罪をきれいに解決しない以上、その人は絶対に救いを得ることも、主と共に歩むことも許されません。 2.罪の悲惨さについて。 ギリシャの哲学者、ソクラテスは「無知は罪なり」と語りました。ソクラテスは紀元前の人物で信仰者ではありませんが、この言葉には真理が隠れていると思います。罪からもたらされる惨めさの一つは無知です。罪人は、自分にどんな罪があるのか、何が問題なのかが分かりません。分からないから解決が出来ず、解決が出来ないから、救いに至ることも出来ません。今日の新約本文を読んでみましょう。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることが出来ます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」(ローマ1:20) 創造の時、主はすべての被造物がご自分について知るように、主の神性を示してくださいました。だから、罪のない状態の人間は、何事においても主の存在を知ることが出来ました。しかし、罪によって主の神性から離れた人間は、主を知らない存在となってしまいました。「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(ローマ1:23) しかし、人間は本能的に、主の神性を認識しています。人間の本能がそれを証明します。「誰なのか詳しくは分からないけど、きっと全能者はいるだろう。」という漠然とした神認識はよくあることです。そのため、宗教が生まれたのです。しかし、人間は、罪のため、自分が願うものを神だと思い込んでしまいます。木、石を、獣、人を神にしてしまいます。日本は古代から太陽を神と崇めました。そこから生まれたのが天照大神ではありませんか。しかし、創世記1章は、はっきりと太陽を含むすべてのものが、主の被造物にすぎないと証しています。人間の罪は自分の罪への認識を鈍くさせ、真の神を冒瀆する偶像崇拝の罪までもたらします。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」(ローマ1:28) 罪のもとにいる人間への最も致命的で悲惨な主の裁きは、罪人を自分らの罪の中に放って置き、救ってくださらないことです。主がどのような形の憐みもくださらず、引き続き罪を犯すように放っておかれ、赦しなく裁かれるのです。つまり、永遠に見捨てられるということです。 3.罪を赦してくださるイエス・キリスト。キリスト教信仰において、人間は皆、罪人であるという教えは、受け入れがたい点の一つであるかもしれません。特に、凶悪犯罪を犯したことのない善良な人々にとっては、自分が罪人であると認めることがなおさら難しいでしょう。しかし、聖書(ローマ3:23)は「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」と述べています。罪とは、主が定められた基準、つまり「主の御心に聞き従い、神と共に歩むこと」を満たせない状態です。旧約聖書のアダムとエヴァが神を裏切って離れたという原罪以来、人は皆、この根本的な罪を抱えて生きています。罪人は、自分の力だけでは主なる神の要求を満たせず、罪を解決することも、主の赦しを得ることもできません。この状態が続くと、人は自然に罪のもとに生き、最終的には主なる神に見捨てられ、永遠の死を迎えることになるでしょう。 イエス・キリストがこの世に来られたのは、まさにこの罪の問題を解決してくださるためです。これが福音(良い知らせ)と呼ばれる理由です。主なる神から来られたイエス・キリストは、私たちの罪を赦してくださる方であり、人が満たせない神の要求を代わって満たしてくださる方です。私たちは、このイエス・キリストの罪を赦す力と、神の要求を満たす力を信じることによって、主なる神に赦しを得ることができます。キリストは私たちの過去、現在、未来の全ての罪を解決されるために、私たちに身代わって十字架にかかり、死なれました。そして、死から私たちを救い、神からの新しい命を与えてくださるために復活されました。イエス・キリストだけが、私たちを罪の結果である悲惨さから救い出す、神から遣わされた唯一の救い主であり、私たちに希望をもたらしてくださるお方であるのです。 締め括りパウロは今日の本文を通して、私たちにも罪があると教えています。私たちは、すでに救われ、主のもとにとどまっているのですが、罪ある人間ですので、主の民にふさわしくない行いをする時も多々あるでしょう。しかし、私たちが悔い改める時、主は私たちの罪を喜んで赦してくださいます。私たちがイエス・キリストを知り、信じるからです。私たちは、キリストの罪の赦しによって日々新たにされます。主イエス・キリストは私たちが悔い改めるとき、ご自分の贖いによって罪を赦してくださり、私たちが主なる神と一緒に生きるように導いてくださいます。志免教会の兄弟姉妹みんなが、このようなキリストの恵みに感謝し、毎日、罪を告白し、悔い改め、罪の惨めさから自由になり、主と共に歩んでいけるよう祈り願います。

世の国々を生きる神の民

イザヤ書11章6~8節(旧1078頁) テモテへの手紙一2章1~2節(新385頁) 前置き 先日、自民党の高市早苗氏が新総理に選出しました。今後、日本とアジアの平和のために素晴らしい政治活動をするよう祈ります。現代は一見平和に見えますが、決して平和とは言えない時代です。第一次、二次世界大戦が終わり、米ソを中心とした冷戦時代も過ぎ去りました。ソ連崩壊の時、人々は「もう戦争はないだろう」と思ったでしょう。しかし、現実は違いました。大小の戦争が続き、2020年代に入っても、ウクライナとロシアの戦争、中東の紛争、北朝鮮の核問題、米中の貿易対立が続いています。このような時代に総理となった高市氏の肩に重い責務があると感じます。それゆえ、日本の教会は国の指導者が正しい政治とリーダーシップで国政活動ができるよう祈るべきです。また、指導者が正しい道を歩めるよう、聖書の御言葉に基づいて、過ちには抗議を、正義には力添えをするべきです。今日は、世の国と主の民について、話してみたいと思います。 1. 神の国と世の国 元々、この世界は神の国として創造されました。神の国とは、物理的な領土や国家を意味するのではなく、主なる神のご支配が実現するすべての時空間を意味します。そして、はじめの神の国の中心には、最初の人間アダムがいました。主は全宇宙(神の国)の創造主でおられ、人間をご自身の子ども、そして、すべての被造物を代表して神を礼拝する祭司として創造されました。しかし、人間は主を裏切り、神の子であり、全宇宙の祭司である栄光の資格を剥奪されてしまいました。主を裏切ったその行為は人間の原罪となりました。その原罪によって、人間は一生、罪を犯しつつ生きることになります。最初の人間アダムの長男はカインでした。「カイン」はヘブライ語で「得る」を意味しますが、いくつかのセム系列の語族(ヘブライ語の親戚)では「鍛冶屋」を意味する場合もあります。つまり、カインは何かを得るために鉄を振るう者だったということです。創世記によれば、このカインは嫉妬心から弟アベルを無残に殺害したとあります。堕落したアダムの最初の息子は、自分の罪による悪のため、実の弟を殺してしまったのです。 その結果、カインは主に呪われ、追い出されてしまいました。その後、カインはエデンの東にあるノドの地に住むことになります。「カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。」(創世記4:16~17)「ノド」は「さすらい、さまよい」を意味します。罪によって悪を犯してしまったカインは、真の主である神から離れ、自分自身が主となってさまようことになったのです。自分が自身の主になるということは、一見自由で自立のような感じですが、実は「糸の切れた凧」のように、何のために生きるのか、どう生きるべきかが分からない孤児のような有様にすぎません。カインは、そんな「糸の切れた凧」のような哀れな存在となったのです。そして、カインは、そのような自分自身を守るために「エノク」という町を築きました。エノクの意味は「新しい始まり」ですが、「主無き始まり」という悲惨な意味でもあります。こうしてカインは、主の無いさすらう人生で、自分が王となる町を建てたのです。ここから人間の国、すなわち世の国が始まったのです。 2. 神の国と世の国の違い それゆえ、世の国は「主の不在のため、自らを守るべき」という強迫観念から始まりました。この世界を創造された神、この世界に秩序を与えられた主、この世界のすべてを統治される主なる神が不在であるため、世の国は堕落した罪人の本性に支配されます。それゆえ、世の国は再びカインのように兄弟を殺す罪を犯します。自分を守るという名目で、兄弟である隣国を侵略し、領土を広げ、また別の国々と戦争します。それによって、数多くの男性が犬死にし、女性は蹂躙され、老人や子どもたちは犠牲になります。弱肉強食、これが世の国の理屈であり、生き残るやり方なのです。自分自身を守るために隣国を侵攻し、征服した国は、ますます大きくなります。そして、やがて「帝国」となります。古代中東のエジプト、アッシリア、バビロン、ペルシャ、西洋のマケドニア、ローマ、東洋のモンゴルや中国大陸の諸帝国。近代のドイツ、日本などの国々が他国を侵略しました。現代に至っては、アメリカや中国のような巨大国家が、経済力と軍事力を背景にして、他国へ圧力をかけています。 このように、堕落したカインから始まったエノクという町は、その後、帝国という形で巨大になり、そのカインの本性が今に至るまで受け継がれ、時代や国が変わっても、大きい国が小さい国を踏みにじる罪の歴史は絶えず続いてきたのです。これこそが、世の国のやり方なのです。しかし、神の国のやり方は異なります。これについては、イザヤ書11章が詳細に語っています。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」(イザヤ11:6~8) 神が遣わされたメシアが王であり、その下の民は、狼のような人も、小羊のような人と共に宿り、ひょうのような人も子やぎのような人も共に伏し、牛のような人も獅子のような人も共に平和に生きるところ。みんなが平和に生き、互いに愛し仕えあい、メシアが中心となる恵みの世界。これこそが、神の国の本質であり、主のご統治の方式なのです。 3. 神の国の根源 キリスト者は、主イエスの十字架の贖いと恵みによって、神の国の民として受け入れられた存在です。私たちはアダムとカインの子孫、すなわち世の国の民として日本人、中国人、韓国人に生まれましたが、キリストの恵みによって神の国の民へと移された存在です。ですので、私たちはアダムとカインによって始まった世の国に住んではいますが、そのアイデンティティは神の国の民なのです。そして、主イエスにあって、私たちの真の国籍も変わりました。日本人である以前に神の国の民であり、中国人、韓国人である以前に神の国の国民なのです。したがって、私たちはキリストにあって、国籍と民族と思想と文化を超え、キリストという共通点のもとに共に生きています。世の中は戦争を語り、征服を追求し、民族主義を前面に掲げますが、私たちはそのすべてに反対し、キリストにあって一つとなった神の国を語ります。主の御言葉に背かない限り、強い者は弱い者に力づけ、弱い者は強い者のために祈りるべきです。富んだ者は貧しい者を助け、貧しい者は富んだ者に協力すべきです。自分が中心ではなく、主キリストが中心であるため、みんなが互いに支え合って主のみもとに生きるべきです。それによって、皆が主にあって互いに愛し合うのです。それが主の民の在り方です。 この主の民の在り方、神の国のやり方は、キリストの十字架の血潮に基づいています。エフェソ書はこう述べています。「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」(エフェソ2:13~14) 初めに世界を創造された主なる神のお望みは、主の最高の被造物である人間によって、主に造られた世界が正しく統治され、その人間の正しい統治のもとで、全宇宙が主を礼拝することでした。しかし、人間の罪によって歪められた世界は、主を呪い、他者を押し付ける世の国へと変質してしまいました。しかし、キリストの十字架の血潮は、その歪んだ世界を癒やし、神と人間、人間と世界、神と世界の関係を正しくする種を撒きました。キリストの再臨まで、世界は依然として完全には癒やされないかもしれません。しかし、主の時が来るまで、キリストはうまずたゆまず世界を直していかれるでしょう。神の国と召された主の教会はキリストの手足として主の御業に用いられるでしょう。主と共に世の国のやり方を乗り越えて生きること、それこそが、主の民である私たちの生き方なのです。 締め括り 先日、テレビで高市総理とトランプ大統領との会談の報道が出てきました。困難な時期に総理として働き始めた高市氏の姿を見て、応援したくなりました。テモテへの手紙一 2章1-2節の言葉を心に留めたいです。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。」日本は世の国の一部です。しかし、私たちは神の国の民として、世話になっている世の国日本が、神の国の価値観にふさわしい国となれるよう、心から応援し、祈らなければなりません。教会は、権力者に盲目的に反対だけする存在ではありません。主の御言葉に基づき、正義の指導者のためには祈りで応援し、不義の指導者には神の御言葉を宣べ伝え、主の御心を表すべきです。それが主の民の正しい姿ではないでしょうか。今日の言葉に基づき、日本が神の御心にかなう正義の国とありますよう、新総理のために祈りましょう。それも教会の大事な務めだからです。

新たに生まれる

ヨハネによる福音書3章1~5節(新167頁) 前置き 私たちの「信仰」の証拠とは何でしょうか。教会に通うこ、それとも、受洗したこと、正会員となること、あるいは、教会で奉仕することが、私たちの信仰の証拠なのでしょうか。誰かは教会に通い、洗礼を受けることを信仰の証拠と思うかもしれません。また誰かは教会の正会員となり、長老や執事として教会に仕える働きを信仰の証拠だと思うかもしれません。信仰への追求や深さは人それぞれですから、第三者が一方的に良し悪しを判断することは望ましくありません。しかし、私たちが主と崇めるイエス・キリストは、今日の聖書の御言葉を通して、真の信仰者に求められるものについて語られました。それは新たに生まれることです。今日は、この「新に生まれること」という言葉について、一緒に考えてみたいと思います。 1. 真の信仰とは何か 信仰とは何でしょうか。私たちは、どのような経緯であれ、信仰を持つことになりました。そして、信仰によって、キリスト者というアイデンティティを携えつつ生きることになりました。しかし、多くのキリスト者は、「信仰」というものについて、明確な定義を下していないのかもしれません。信仰への明確な定義がないため、ある人は教会に出席することそのものが、ある人は洗礼を受けたことが(洗礼の本質ではなく、洗礼式という形式的な儀式)、ある人は教会の正会員となったことが、ある人は聖餐式という儀式に参加することが、ある人は長老や執事、教師になることが、自分の信仰を表すしるしであると思うかもしれません。しかし、果たして、それらが、私たちの信仰の本質を証明する手立てとなれるでしょうか。「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。」(ヨハネ福音3:1) 今日の本文に登場するニコデモという人物はファリサイ派の人で、ユダヤ人の宗教指導者の一人でした。聖書学者の中には、このニコデモが「サンヘドリン(最高裁判所)」のメンバーだったと推測する人もいます。サンヘドリンは祭司(サドカイ派)、律法学者(ファリサイ派)、貴族の長老たちで構成されたユダヤ人の最高権力機関であり、ファリサイ派のニコデモは、そのサンヘドリンの70人の会員の一人だったと思われます。つまり、彼はユダヤ社会の高い階級の人だったと言うことです。 「ある夜、イエスのもとに来て言った。ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」(ヨハネ福音3:2) 社会的にも、宗教的にも、政治的にも、何一つ不足のないニコデモが、なぜ、ユダヤ社会で活動を始めたばかりの若いラビであるイエスを訪ねたのでしょうか。彼は「夜」にイエスを訪ねました。社会的な地位の高い人が若いラビを訪ねるのに、人々の目を気にしていたからでしょうか。しかし「夜」という言葉が持つ意味を含めて解釈すると、彼が持っている名誉や権力、地位の中に真の光がなく、ただ空しさと闇だけを感じていた彼の心の状態を示す象徴ではなかったでしょうか。ニコデモは表面的には最高の宗教家でした。ユダヤ人たちは彼を信仰の模範として尊敬していたでしょう。実際、ニコデモはユダヤ社会で尊敬される人だったようです。しかし、彼は表面的な自分の姿に真の霊的な満足を感じていなかったようです。名誉も、権力も、地位も、いかなる宗教儀式も、彼の内面を満たすことが出来なかったでしょう。彼の人生は成功でしたが、実際には空しかったでしょう。彼は真っ暗な夜道を歩く人のように光を探し求めていたかもしれません。 そういうわけで、彼はユダヤ社会に新しい風を吹き起こしていたイエスを訪ねたでしょう。彼が来ると、イエスは彼の悩みをすでにご存知であるかのように言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ福音3:3) 悩んでいたニコデモに、主イエスは彼が探していた何かに対する答えをくださいました。それが「新に生まれること」だったのです。先ほど申し上げましたように、キリスト者は信仰についてそれぞれ異なる思いを持っています。教会に出席すること、洗礼を受けたこと、執事や長老となって教会に仕えること、教師になることなど、数多くの信仰の意味をめいめい心の中に持っているかもしれません。しかし、主イエスはニコデモを通して私たちに語られます。「表面的なもので信仰を証明することはできない。真の信仰は、新に生まれることにある。」毎週教会に出席し、洗礼を受け、聖餐に参加し、教会に仕え、キリスト者であることを示しながら生きることは、とても重要です。しかし、ヨハネ福音は、それだけが全てではないとはっきりと示しているのです。あたかもニコデモが名高いファリサイ派の人であるにもかかわらず、霊的不足を感じていたように。 2. 真の信仰の始まり – 新たに生まれること では「新に生まれること」とは何でしょうか。ニコデモ自身も「新に生まれる」という言葉に戸惑い、こう質問します。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」(ヨハネ福音3:4)「新に生まれること」という表現は、生き返ること、生まれ変わること、あるいは輪廻転生のような意味とは違います。ヨハネ福音における「新に生まれること」は、私たちの霊と肉はそのままで、霊的に新たになるという意味、すなわち私たち自身の生き方と心構えが変わることを意味します。ですから「新に生まれること」は、ニコデモの言葉のように、赤ん坊になって母の胎から新しく生まれることではありません。それでは、私たちはどうすれば「新に生まれる」ことができるのでしょうか。これについて、主イエスは次のように言われました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ福音3:5) 3章3節でイエスは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。そして3章5節では「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と言われました。 したがって「新に生まれること」とは「水と霊によって生まれること」と言えます。まず「水によって生まれること」の意味について考えてみましょう。聖書における「水」とは、大きく二つの意味を持ちます。一つは死、もう一つは清めを意味します。旧約聖書の出エジプト記で、イスラエル民族はエジプトから脱出し、カナンへ向かう途中、紅海を渡る体験をします。これは、エジプトの奴隷の身分だったイスラエルが水(紅海)で死に、清められ、新たなイスラエルへと「新たに生まれる」ことを象徴します。つまり「水によって生まれること」の意味は、罪に汚されていた自分に対しては死に、主の贖いによって、新たな自分として清められ、新しい生き方と心構えに生き始めることを意味します。キリストを信じ、昔の自分が持っていたすべての罪、悪を捨て、主なる神の御心に従って新しい人生を始めることなのです。古い人は偽りを言い、人を憎み、欲望にひかれ、主をないがしろにして生きていたとすれば、水によって新たになった人は、真実を語り、人を愛し、欲望を節制して神中心に生きるのです。水によって死に、清められ、新たに生まれるのです。その新たな人生の象徴として、私たちは洗礼式を執り行うのです。 しかし、洗礼式を行ったからといって、私たちの人生が大幅に変わるとは限りません。新しい心で信仰者の人生を始めたとしても、生きていく中で、再び自分の古い人が出る経験を、誰もがすると思います。だから、ヨハネ福音は「霊によって生まれること」についても語るのです。使徒言行録では、霊(聖霊)を「火」にたとえました。火は垂直に上へと燃え上がります。聖霊がイエス・キリストの贖いによって私たちに来られると、私たちの心を新たにさせ、上におられる方を指して垂直に燃え上がらせます。水によって象徴的に洗い清められた私たちは、火のような聖霊の御導きによって実質的に清めを受けます。聖霊が臨まれると、私たちの心には、主なる神への純粋な愛と善を行おうとする熱望が現れます。まるで火が上に向かって燃え上がるように、私たちの心も火のような聖霊によって、主なる神の御心に向かって自分の欲望を制御し、主の御心に合わせて生きることを願うようになるのです。使徒言行録2章で、気が弱く臆病だったイエスの弟子たちが、聖霊によって新たになり、大胆に福音を宣べ伝えた出来事を思い出しましょう。それこそが、聖霊によって新たに生まれた者たちの人生の変化であり、その活躍の一歩だったのです。 締め括り 「新たに生まれること」とは、主イエスの贖いと聖霊の導きによって、私たちの心と人生が完全に変わることです。今まで自分を世界の中心に置いて生きてきた生き方をやめ、主イエスを自分の世界の中心と生きること。自分の思いのまま生きるのではなく、主の御心を自分の中心に置き、主に従って生きること。それこそが「水と霊によって生まれた者」すなわち「新たに生まれた者」の生き方なのです。私たちは果たして、新たに生まれた者でしょうか。習慣的に教会に通うことに満足してはいませんか。イエス・キリストを信じる私たちは新たに生まれた者でしょうか。私たちにとって大事なのは、表面的な信仰の熱心さではありません。イエス・キリストによって自分は新たになったのかと内面的な自問自答が重要なのです。私たちの信仰の根本は、教会での活動や他人に見せる表面的な姿ではなく、主なる神と私自身の関係にあります。本当に主こそが私たちの人生の理由であり、キリストこそが私たちの真の主であり、聖霊こそが私たちの真の先生であると、心の底から認める人生。そして、そのような人生から湧き出る主と隣人への真実な愛。それらこそが、自分自身が新に生まれた者であることを証明するしるしではないでしょうか。自分は、果たして、主イエスによって、新に生まれた者かどうか、この一週間、自分自身に問いながら、過ごしましょう。