わたしたちを助けてください

使徒言行録16章9~10節 (新245 頁) 前置き まず、説教の前に申し訳なく思います。説教題と内容が本文を除いて、そんなに関係なくなってしまったと思います。説教を書きながら、内容が変わってしまいました。皆さんのご理解をお願いします。本日の聖書の本文は、主なる神が小アジア、つまり現在のトルコ北部の地域で福音を伝えようと奮闘していたパウロに幻を見せ、マケドニアへ渡って伝道するよう促される場面です。ユダヤ人でありながら、現在のトルコ東南部で生まれ育ったパウロには、その地での伝道に情熱がありました。宣教学的にも、彼の考えは極めて妥当なものでした。にもかかわらず、主は彼が抱いていた小アジア(トルコ北部)伝道の熱意を拒否され、マケドニア(ヨーロッパ東部)地域での伝道を促されました。パウロは自分の思いとは違う、理解しがたい主のご命令にもかかわらず、自分の計画への固執をやめ、さっそく主の御言葉に従い、マケドニアへ旅立ちました。それによって、ついに公式的なヨーロッパでの伝道が始まることになったのです。そしてその結果、遠い将来、キリスト教がローマ帝国の国教となり、ヨーロッパ世界の精神的な基盤として爆発的に成長するという成果につながりました。今日は、使徒言行録16章9節と10節の聖書の箇所を通して、伝道と宣教について、そして、キリスト者のあり方について考えてみたいと思います。 1. 主が見せてくださる幻 「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてくださいと言ってパウロに願った。」(使徒言行録16:9)使徒言行録16章で、元々パウロが望んでいた伝道の地域はビティニア州(7節、現在のトルコ北部)でした。パウロは16章以前まで、おもに現在のトルコ南部地域の様々な場所を旅しながら伝道しましたが、北部のビティニア州に行ったことは、まだ、なかったからです。しかし、パウロの考えとは異なり、主は彼がビティニア州ではなく、海を渡ってマケドニア州、つまり現在のギリシャ地域へ行くことを望まれました。前置きでも、お話ししたように、トルコ出身者としてトルコ北部地域で伝道しようとするパウロの計画は間違っていませんでした。それでも、主は彼にビティニア州での伝道をやめ、マケドニア州へ行くことを力強く命じられたのです。主はこれを実現させるために、パウロに特別な幻を見せてくださいました。誰だか分からないマケドニア人がパウロに「マケドニア州へ来て助けてくれ」と願う幻でした。聖書で幻を意味する言葉にはいくつかのものがありますが、今日の聖書の箇所で使われている幻は、「ホラマ」というギリシャ語の言葉です。「ホラマ」は、動詞「ホラオ」の名詞形であり、「ホラオ」は「心で深く悟りながら見る」という意味です。「目で何かを見る」という以上の、「何が正しいかを悟りながら見る」という意味なのです。 「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。」(使徒言行録16:10)幻を通じて、主の御心に気づいたパウロは、ためらわずに自分の計画を撤回し、マケドニアへ渡ることを決心します。パウロは、主の幻の前で、長年抱いてきた自分の計画を完全に諦めたわけです。パウロは主からの幻(ホラマ)を見て悟り(ホラオ)、自分の情熱と計画を押さえ、主の御心に従うために思い切って計画を変更したのです。私たちはここで、主が見せてくださる幻の重要な意味について、学ぶことができます。主の幻は、ただ単に超自然的な現象が目に見えてくることだけを意味しません。聖書に記されている物語は、聖書が書かれる以前にあった出来事の記録です。その時代には、現代のように誰もが気軽に聖書を読むことができませんでした。主がパウロに幻を見せてくださった理由は、単純に神秘的で超自然的な現象を見せるためではなく、その中に込められた主の御心、つまり、生ける神の御言葉を悟らせて従わせるためでした。そういう意味として、主からの幻は神の御言葉と言い換えることもできるでしょう。聖書を読む時、「幻を見る」という表現が出てきたら、いつでもまず「主の御心(神の御言葉)を悟る」と理解していただきたいと思います。 2. 伝道と宣教の意味について 本日の聖書の本文以降、パウロは、ただちにこれまでの計画を変更し、マケドニア地域へ渡るために力を尽くしました。主の御言葉に従ってその地へ渡ったパウロは、多くの人々と出会い、新しい伝道活動を続けていきます。しかし、数多くの苦難と迫害もまた彼を待っていました。普通の人なら、「わざわざ主に言われた通りにしたのに、こんなに苦しくなるなんて」と愚痴をこぼすような出来事も多々あったかもしれません。しかし、主なる神の御心だけを望み、黙々と歩んだパウロは、様々な地域で伝道し、教会を打ち立て、多くの魂をキリストへと導き、成功的に伝道活動を続けていきました。主なる神の計画と導きの中で、従順に聞き従いつつ活動したパウロの苦労によって、マケドニア州にキリストの福音が広がっていくことになったのです。このようなパウロの従順と苦労の中で、彼がマケドニア地域に蒔いた福音の種は、しっかりと根を下ろしました。その結果、数百年がたった西暦4世紀末、キリスト教はローマ帝国の国教となり、キリストの福音は地中海世界の精神的な基盤にまで成長していきました。そして当然のように、パウロが元々伝道しようとしていたトルコ北部地域のビティニア州にまでも福音が伝えられていったことでしょう。実際に、福音はトルコをはるかに越えて極東の日本にまで届きました。主なる神の御心に従い、自分の計画を諦めたパウロ。彼の決断が、数百年後にさらに大きな実を結び、元々計画していた以上にキリストの教会を成長させる力となったことを、パウロは天国で確認し、喜んでいるに違いありません。 私たちは、伝道と宣教という言葉をよく口にします。しかし「知らない人にイエスと福音を伝えるのが伝道と宣教」という漠然とした固定観念のため、伝道と宣教を心の重荷のように感じがちです。しかし、伝道と宣教が「主の御言葉に従い、自分の固定観念や計画を落ち着け、主のご計画に合わせて生きようとする生き方」から始まることだとすれば、もう少しでも伝道と宣教への負担が軽くなれるのではないでしょうか。もちろん、伝道と宣教は明らかに難しいことです。知らない人に福音を伝えるには大きな勇気が必要だからです。しかし、主の御心に従おうとする生き方、謙遜に自分の考えを主の御心に合わせようとする心をもってキリスト者にふさわしく生きるなら、いつか必ず主が伝道の機会を与えてくださると信じます。伝道と宣教のある人生のために、今私たちが従わなければならない主の御言葉は何でしょうか。伝道のある人生のために、今私たちが諦めなければならないものは何でしょうか。主なる神の御心への従順な生き方と、自分の固定観念や欲望を落ち着けること、その中で主なる神は、さらに多くの御業を私たちの人生において成し遂げてくださるでしょう。私たちの伝道と宣教の始まりは、主の御言葉への従順な生き方と、自分の固定観念や欲望を落ち着けることからだと、あえて申し上げたいと思います。 締め括り 今日は、韓国釜山のUN平和教会の兄弟姉妹に志免教会で一緒に礼拝を捧げるために来ていただきました。志免教会が属する日本の代表的な長老教会である日本キリスト教会と、UN平和教会が属する韓国の代表的な長老教会である大韓イエス教長老会(合同)は、両方ともアメリカ北長老教会の宣教師たちの伝道によって打ち立てられました。つまり、両教会は同じルーツを持つ兄弟のような教会です。また、大会レベルでも公式的に宣教協約を結んでいる姉妹教会でもあります。日本と韓国は、きわめてつらい過去を共有する最も近くありながら最も遠くある国だと言われる関係です。しかし、少なくとも、キリストの教会だけは、主イエスの救いと愛によって一つとなった最も近い関係であります。両国が歴史観や価値観の違いで、互いに誤解や対立をすることがあっても、両国の教会だけは主にあって一つとなり、慰めあい、赦しあい、共に歩みつつあることを願います。主からの幻を見たパウロが従順に聞き従いと自分の計画のさっそく諦めたように、キリストの御言葉への従順な従いと自分の固定観念や欲望を落ち着けることで、志免教会とUN平和教会が、主が与えてくださる幻(御言葉)のままに生きていくことを心から祈り願います。

信仰の戦い

エフェソの信徒への手紙6章10-20節(新359頁) 前置き エフェソの信徒への手紙のおもなテーマは「教会とは何か」です。「天地創造の前から神にあらかじめ定めされ、キリストによって救われ、その御旨に適って生きるキリストの体なる共同体」これが教会の意義です。したがって、教会は神の御心によってキリストの民となった、キリストと共に歩まなければならない存在です。この世の思想、生き方ではなく、キリストの御心と生き方に聞き従わなければならない存在です。この地にいるが天に属している存在、それがキリストの体なる共同体、教会のあり方なのです。今日の本文は、その教会を成すキリスト者の信仰生活においての「信仰の戦い」について語ります。今日の本文を通じて、教会の生き方について考えてみましょう。 1. 血肉の戦いではなく、霊の戦いを 「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソ6:12) 戦いは控えるべきというのが常識です。聖書も隣人への愛、さらには敵への愛までも命じます。できるだけ、忍耐してどんな形でも戦わないのが望ましいです。しかし、聖書が勧める戦いがあります。それは霊の戦いです。今日の本文6章11節は、その戦いが血と肉の戦いではなく、悪の諸霊を相手にすることだと語ります。天にいる悪の諸霊、つまり悪魔を意味します。悪魔とは何でしょうか。昔のヘブライ人のある文献には、悪魔が堕落した天使であると記してあります。そして、彼らは主なる神に逆らう存在だと説明します。彼らは主なる神の座を奪い取るために、堕落して主を裏切り、悪魔になったとあります。このような悪魔の働きは創世記のアダムとエヴァを誘惑した蛇、ヨブ記のサタンのような存在から現れます。新約聖書にも悪魔についての記録があるほどです。実に悪魔はいると思います。しかし、私たちは悪魔が私たちの人生を操り、強制的に私たちを犯罪させる存在だと考えてはなりません。「悪魔の誘惑」という言葉があるように、確かに神に逆らう者、悪魔は人間を罪へと誘惑します。しかし、その罪を選ぶのは悪魔ではなく、人間そのものです。 古代のヘブライ人は、天使と悪魔が本当にいる霊的な存在ではあるが、それと共に人間も、神に従う者が即ち天使のような者であり、神に逆らう者が即ち悪魔のような者であると考えました。第3の存在である天使や悪魔だけでなく、人間そのものが、生き方によって天使にもなれ、悪魔にもなれるという思想だったのです。だから、霊の戦いとは、ある意味で、悪魔という霊的な存在との戦いだけでなく、悪と罪に誘惑され、神に逆らうようになり得る人間自分自身との戦いとも言えるでしょう。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ福音書16:33) 主イエスは「わたしは既に世に勝っている。(悪の権勢に勝利している)」と言われました。つまり、主と悪の戦いは、すでに終わり、結果は決まっています。主イエスが勝利され、この世はそのイエスの支配のもとにあるのです。したがって、主の民である私たちも、主によって、すでに勝利したのです。しかし、聖書は私たちにまだ残っている悪と罪の本性につまづかないよう、それと戦って勝つことを命じます。勝利者として、勝利者にふさわしい人生を勧めているのです。だから、霊の戦いは自分自身の罪との戦いです。誘惑と勝利の中で、私たちが取るべき生き方を選んで生き続けること、それが霊の戦い、信仰の戦いなのです。 2. 神の武具を身に着けなさい。 「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ書6:11,13) 今日の本文は、霊の戦いに勝利する人生のために「神の武具」を身に着けろと命じます。「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」(14-17)、神の武具は次の通りです。真理の帯、正義を胸当て、平和の福音の履物、信仰の盾、救いの兜、そして最も重要な(聖)霊の剣、すなわち神の御言葉なのです。このような武具は、古代ローマの兵隊の姿と似ています。①真理とは変わらない主の御心を意味します。ひとえに神だけが勝利者であり、真の主であるという変わらない事実のことです。ローマ軍兵の帯は腰を支えて強い力で武器を振るうようにする武具です。真理に立って主の御心に頼る時、強い信仰の力を発するようになります。 ②正義(義、正しさ)とは、キリストによる天地創造の摂理に忠実な模様です。つまり、神に属している欠けることのない完全さを意味します。人間はたとえ罪によって不完全であっても、主イエスの義によって完全な者と見なされ、神に認められるという意味です。胸当ては心臓を守る鎧のことです。私たちは生まれつき罪人ですが、キリストの義は私たちを正しい者と認めさせます。③平和とは、神と隣人との和解を意味します。平和の福音の履物は、キリストの福音によって、神と隣人を愛し、真の和解を成し遂げさせます。隣人を憎むということは、血肉の戦いを意味します。しかし、キリストの平和が私たちと共にある時、私たちは隣人を愛することで血肉の戦いを避け、霊の戦いだけに集中できるようになります。④また、大事な私たちの武具は信仰の盾です。盾は矢と刃物を防ぐ防具です。世は私たちに否定的で不信心の思想を絶えず伝えます。しかし、主への堅い信仰の盾があるなら、私たちは決して欺かれず、主の御心だけに従って生きるようになるでしょう。 ⑤救いの兜、兜は勝利を象徴します。ローマ時代、戦争に勝利した将軍は、月桂冠をかぶって行進しました。キリストの救いによって、私たちはすでに勝利した存在です。時々、人生の辛さや試練によって自分自身が負け犬のように感じられる時もありますが、主による私たちの勝利を忘れてはなりません。自分の状況を見る前に、主がどんなお方なのかを憶えましょう。主イエス•キリストはすでに勝利した方です。⑥最後、最も重要な武具は、私たちの武器、聖霊の剣です。今日の本文は、聖霊の剣が、神の言葉であると語ります。神の言葉は強いです。この世は教会を敗北者だと非難していますが、主の言葉は、教会が勝利者であると応援しています。この世は教会が失敗したと言いますが、主の言葉は教会が成功したと言います。自分の考え、世の考えに呑み込まれ迷っている時に、主の御言葉は、私たちの考えを新たにし、神の御心どおりに進むように導きます。したがって、神の御言葉は私たちの唯一の信仰の武器、聖霊の武器なのです。以上、6つの神の武具を通して、私たちはすでに勝利された、主に従ってこの世を生きていくのです。 3. 祈りによって生きる勝利の人生。 そして、本文は神の武具による信仰の人生に、祈りが伴うと語ります。祈りは神と私たちの会話です。ひざまずいて両手を合わせて敬虔にすることも祈りですが、私たちの人生のすべてにおいて、神に助けを求め、神の御心を待ち望み、主の御言葉通りに生きようとすることこそ祈りです。神とつながり、神の後をついていくことが、まさに祈りの人生なのです。このような人生を通してキリスト者は勝利を保ち、その共同体である教会も勝利することになるでしょう。「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。」(19) 神の武具によって信仰を守り、神の言葉の剣で罪と悪に勝ち、祈りによって神とつながり、祈りによって兄弟姉妹を助ける人生。それがエフェソ書が勧める教会の望ましい生き方ではないでしょうか? それがまさに勝利の人生ではないでしょうか? 締め括り キリスト者がこの世を生きることは、とてもたいへんな道のりの連続です。絶えない人生の試練がやってきます。けれども、自分の状況ではなく、主なる神がどのようなお方なのか憶えて生きましょう。自分は弱くても、神は変わることなく勝利者であることを憶えて、信仰の人生を生きてまいりましょう。そのような人生のために、今日の本文は神の武具と祈りの人生を話しているのです。私たちはすでにキリストによって勝利した者です。それが教会という共同体の意義なのです。したがって、最後までキリストの勝利を信じ、主に従って生きる私たちであることを祈ります。

御父のまなざし

ルカによる福音書 15章11‐24節(新139頁) 前置き キリスト教会が主とあがめる神という存在はどのようなお方でしょうか。今日は、難しい「三位一体」のような神学の話しではなく、神という存在が私たちの人生においてどのようなお方なのかについて、実存的な話をしてみたいと思います。神という存在を最も直観的に表す言葉は、万物の「父」と言えるでしょう。もちろん、神は人間のような性別がない方であるため、人間の基準で言う生物学的な父とは異なる存在です。すべてを創造し、司る絶対者としての「父」と理解するのが正しいでしょう。古代のヘブライ人は、この神を万物の「父」と理解していました。性別を超えて、すべてのものの創造主と信じていたのです。そして、現代の教会が主とあがめる神のひとり子イエス・キリストも、その神を父と呼ばれました。今日は、この父なる神について、そしてその方が人間をどのように思っておられるのかについて、話してみたいと思います。 1. 放蕩息子のたとえ話 今日の本文であるルカによる福音書15章には、父にかかわる主イエスの有名なたとえ話が出てきます。あらすじは下記のようです。ある人に二人の息子がいました。ある日、次男が父のところに来てこう言いました。「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください。」彼の発言は、このたとえ話の時代においてはありえない非常に失礼な要求でした。父がまだ生きているのに遺産を求めるのは、父を死んだものと扱うことと同じだったからです。しかし、父は次男の要求を聞き入れました。そして、次男は父から受け取った財産を持って遠い異国へ旅立ちました。彼は、そこで放蕩な暮らしをしたあげく、持っていた全財産をすべて使い果たしてしまいました。お金が尽きると友人も皆去ってしまい、ついには豚の世話をするようになり、豚が食べるイナゴ豆で腹を満たすほど悲惨な身の上になります。その時になってはじめて、この息子は「父の家には十分な食べ物があるのに、私はここで飢え死にそうだ。父のところへ帰ろう。私はもう父の息子と呼ばれる資格などないから、ただ雇人の一人として受け入れてくださいと願おう」と決心します。そうして、次男は父の家へ帰る長い道のりを歩み始めました。 ところが、驚くべき場面が繰り広げられます。次男がまだ遠くにいるのに、父がくたびれた息子を見て哀れに思い、走り寄って首を抱きしめ、口づけをしたからです。父はなぜ何の知らせもなく手ぶらで帰ってくる息子の帰還を知っていたのでしょうか。その理由は、父が毎日毎日、息子の帰還を待っていたからでしょう。息子は父に「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」と言いした。しかし、父は息子の言葉が終わらないうちにしもべたちに言います。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴を開きました。父はこの放蕩息子を咎めるどころか、愛をもって赦したのです。主イエスは、このたとえ話を通して、この世の人々に対する万物の父である神の御心を教えてくださいました。聖書はこのたとえ話を通して、人間が決して一人ぼっちではなく、神という真の父の極めて深い関心と愛を受けている貴い存在であることを教えてくれます。 2. 御父の心 今日の本文の、この「父」という存在を通して、私たちは「父なる神」の御心を垣間見ることができます。それは三つに分けて考えることができます。第一に「待ち望む心」です。父は息子が去った後も、毎日毎日息子の帰還を待ち望んでいました。私たちが人生の様々な理由で神を離れたり、世の中でさまよったりする時、父なる神は私たちを待っておられます。私たちのすべての不完全さや過ちにもかかわらず、私たちが帰ってくることを切に願われ、待ち望まれる心です。第二に「愛と赦しの心」です。息子が帰ってきた時、父は息子の以前の過ちを問いませんでした。むしろ、走り寄って抱きしめ、口づけをして歓迎しました。現在の私たちが取るに足りない姿であっても、真の父である神は私たちを愛し、赦してくださいます。父が息子と再会した喜びで宴を開いたようにです。第三に「回復を望む心」です。父は帰還した次男に一番良い服を着せ、指輪をはめ、履物を履かせました。それは再び息子としての尊厳と権威を回復させたという意味でしょう。神は私たちがどのような状況にあっても、再び私たちを神の子として完全に回復させることを望んでおられます。私たちの傷を癒やし、人生を新たにしてくださることを望まれる心を持っておられます。 キリスト者として長年生きてきた方も、まだキリスト者になっていない方も、父なる神のことを誤解しやすいです。自分とはあまりにも遠く離れておられる神、親しく接することのできない難しい存在、言動に間違いがあれば激怒する方など、近づきがたい方だと思いやすいです。しかし、今日の本文に現れる父の姿、すなわち神の姿は、私たちが漠然と想像しがちな権威と威厳の神とは全く違う暖かい父として描写されています。聖書は神について、自分から離れていった人間に怒りを覚えるよりも、絶えず待ち望み、愛し、赦し、回復させてくださる真の父のような存在として描いています。以前、教会に通っていたが信仰が弱まってしまい、教会を離れた人、キリスト教の神という存在について誤解している人、信仰生活の中、人にがっかりして神にまでも信頼できなくなった人、神がまったく自分と関係なく、遠くにおられる方だと思い、遠ざかってしまった人を、神は変わらず待ち望み、昨日も、今日も、明日も待っておられる温かくて愛に満ちているお方です。神は世のすべての人に神との和解の機会を与え、待っておられる真の父なのです。 3. 父なる神に立ち返る方法 この父なる神に立ち返るための、たった一つの方法は、神がこの世に遣わしてくださった唯一の救い主であるイエス・キリストを受け入れ、信じることです。聖書によれば、人間は皆、罪によって神を離れてしまったと言われます。しかし、神は人間と和解することを切に願っておられ、人間の罪を赦し、受け入れてくださる窓口としてイエス・キリストを遣わし、人間の罪を赦される手立てとして、十字架のいけにえにし、神と人間の間の隔てを打ち壊してくださいました。イエス・キリストは罪のない方ですが、人間の罪を赦してくださるために、十字架においてご自身を捧げられ、三日目に復活されることによって死に打ち勝ってくださったのです。私たちが救いを受け、神と和解する唯一の方法は、今も私たちを呼んでおられる父なる神の御心を受け入れ、父が遣わされた唯一の救い主イエス・キリストを信じ、拠り頼むことです。この信仰を通して、私たちは神の子となり、永遠の命を得、神と完全な関係を結びつけることになるのです。これがキリスト教が語る救いの最も基本的な教えであり、私たちを待っておられる父なる神のもとへ立ち返れる唯一の方法なのです。お金でも、権力でも、名誉でも得られない父との和解、それはただ、その方が遣わされたイエス・キリストの導きによってのみ出来ます。父なる神は今日も私たちを愛しておられます。その方は今日もあなたを愛しておられます。 締め括り 時々、この世の人生が孤独に感じられることがあります。誰も自分の味方になってくれず、自分だけが一人ぼっちになっているかのように感じられる時もあります。親も、家族も、友人も、同僚も自分を理解してくれないと感じられる時もあります。しかし、そのような時でさえ、父なる神は私たちを理解してくださり、助けてくださることを望んでおられ、愛のまなざしで私たちを見つめておられます。そして、私たちに助けを与えたいと望んでおられます。今日の聖書の本文のように、神は私たちを待っておられる、暖かい真の父です。父なる神は今日もあなたを見守っておられます。その父がイエス・キリストを通して常に私たちとともにおられることを忘れずに生きることを祈り願います。

わたしの父

イザヤ書49章13-15節 (旧1143頁) ヨハネによる福音書20章15~18節 (新209頁) 前置き 私たちは祈りを始めるとき、ごく自然に「父なる神様」と、その御名を呼びます。あまりにも当たり前の習慣なので、なぜそう呼ぶのか、深く意識することはないかもしれません。私たちが神を「父」と呼ぶのは、聖書がそのように教えているからです。しかし、忘れてはならない、とても重要な事実があります。それは、罪人としてこの世に生まれた私たちには、本来、神を父と呼ぶ資格がなかったということです。考えてみてください。神は完璧に聖なるお方であり、そこには一片の罪も存在しません。しかし、人間は生まれながらにして罪と無縁ではいられない存在です。聖と罪、全く相容れないはずの両者が、どうして「父」と「子」という親しい関係になれるのでしょうか。本日は、罪人である私たちが、聖なる神を「父」と呼べるようになったのはなぜか、その恵みの理由を探ってみたいと思います. 1.なぜ、神を父と呼ぶのか。 日本キリスト教会の小信仰問答 問31にはこういう質問があります。「問31:どうして神を父と呼ぶのですか?」「答:創造主はキリストの父ですから、キリストを信じて神の子とされている私たちも、父と呼ぶことを許されるのです。」私たちは、どうして神を父と呼んでいるのでしょうか? この世を創造された造り主だからでしょうか。自分に命をくださった方だからでしょうか。自分が神を父親として決めたからでしょうか? ある意味で、以上の質問はすべて一理あるかもしれません。しかし、それらが私たちが神を父と呼べる根本的で、決定的な理由だとは言えません。私たちが神を父と呼べる、最も根本的かつ決定的な理由は、神が私たちの救い主であるイエス·キリストの父であるからです。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、アッバ、父よと叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」(ガラテヤ4:4-6) もちろん、人間も神の被造物だから、広い意味で神を父と見なすことができます。しかし、問題は、人間が「すでに神に呪われ、見捨てられた存在」であるということです。 「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」(創3:24) 初めに神を裏切った人間は、取り返しのつかない死の呪いを受けました。そして、自力では二度と真の命を手に入れることが出来ない、惨めな存在となってしまったのです。しかし、神は一つの希望の約束をくださいました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創3:15) 先ほど読みましたガラテヤ書の言葉には「神は、その御子を女から…お遣わしになりました。」とありました。この言葉は創世記3章15節を引用した表現です。「エデンの園の東のケルビムと剣の炎」は象徴的に人間が自力では死に勝つ命を得ることが出来なくなったという意味です。しかし、ケルビムと剣の炎をお創りになった神ご自身が人間のところに来られ、その人間を連れて命の木への導かれるとすれば、話は違います。イエス·キリストは罪人を救い、命の木、つまり神による真の命に、私たちを導いてくださるために来られた救い主です。そして、このキリストと一緒にいる時、私たちは真の命に進むことができるようになるのです。私たちが神を父と呼ぶ理由は、まさしく、このためです。私たちが神を父と呼べるようにしてくださるキリストが、私たちのかしらになって、ご自分の父のみもとへ導いてくださるからです。 2.「キリストと父との関係」 それでは、キリストと父なる神は、どのような関係を結んでおられるでしょうか。日本キリスト教会 大信仰問答「問38 父なる神と子なる神と…の関係はどういうものでありますか。(一部抜書)」「答:…父は何ものよりも成らず、造られず、生まれざる永遠の子孫者、子は父より永遠において生まれたもの。(一部抜書)」御子の永遠の生まれは、創造や出生とは違う概念です。ギリシャ語には「ギノマイ」という言葉があります。その本来の意味は「存在するようにする。創造する。なる。」などです。しかし、文法的に使って「創造するようにする原因、ある存在を存在するようにする原因、あるものの発生的な根源」などを含む奥深い表現です。つまり「御父から御子が永遠において生まれた。」という表現は、創造されたとか、生まれたとかの意味ではなく、御子の存在性が永遠において御父の中にあるという意味で、創造された存在ではなく、御父と共に永遠において存在してこられた方であるという意味に解釈するのが正しいです。用語が本当に難しいですが、イエスは時空間が出来るずっと前から父と一緒に存在してこられた真の神であるという意味です。ヨハネによる福音書はこう語ります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」(ヨハネ1:1-2) つまり、イエスは神によって造られた普通の被造物とは異なる、最初から神の子として存在しておられた真の神の子であるという意味です。最初から父とおられ、父と創造も共になさった存在であるということです。私たちのような人間は神の被造物として神とは本質的に違う創造された存在です。しかし、主イエスは父と永遠に一緒におられ、最初から御子として存在された方です。そのため、キリスト教の神学では、イエスのことを神の唯一の真の実子であり、キリスト者はキリストによって神に養子縁組された養子だと表現しているのです。これを通じてキリスト者が神の被造物であるため、神を父と呼ぶのではないということが分かります。真の神の実子であるキリストによって神の子とみなされた存在であるということです。真の神の子キリストの犠牲と御救いによって、神を父と呼べない者たちが、神を父と呼べるようになったわけです。もちろん、旧約にも神はご自分の民を父親、あるいは母親の観点から扱われることもあります。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ49:15) しかし、ここでは神がイスラエルの民の創造者として彼らを子供のように考えておられるということであって、イエスのように存在そのものが完全な実子であるという意味ではありません。旧約においての神の子の概念と新約においての神の子の概念は、まったく違う意味を持っていることを忘れないようにしましょう。 3.堂々と神を父と呼べる者たち。 ですから、主は言われたのです。「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(ルカ7:28) 洗礼者ヨハネは旧約最後の預言者でした。イエスのご到来からは、新約の時代であり、イエスを主と崇める私たちは新約の民です。私たちの中で最も小さな者でも、神はイエス•キリストによって、旧約最後の偉大な預言者である洗礼者ヨハネより、さらに優れた存在として認めてくださるという意味です。ヨハネの時代、すなわち旧約時代には、キリストによって神の養子となったという概念がありませんでした。しかし、新約の民はイエス•キリストによって神の子と認められたのです。養子だからといって、神が私たちのことをニセ息子として思っておられるわけではありません。私たちはよく「キリストは教会の頭、教会はキリストの体」という表現を口にします。つまり、私たちはキリストのものとなった存在です。神は御子イエスを愛されるように、その体となった教会と教会に連なる一人一人をも愛しておられます。まるで、神がキリストを愛しておられるように、キリストの民をも愛しておられるのです。言葉だけ養子であって、実際はキリストに負けないほど私たちは愛されているのです。そんなに愛されていなかったら、父なる神は、独り子を十字架のいけにえとして犠牲されなかったでしょう。私たちはキリストによって、キリストのように神に愛される神の本当の子供になったのです。したがって、私たちは、いつでもどこでも神の子として堂々と立つのが出来るのです。 締め括り コラムデオという言葉をご存知ですか。この言葉はラテン語で「神の前で」という意味です。罪を持った人間は神の御前に立つ瞬間、神聖によって滅ぼされます。しかし、このコラムデオという言葉の裏には「キリストと共に神の前で」という意味が含まれています。神の真の子イエス•キリストによって、主の体となった私たちは、主と共に神の御前に堂々と立つことが出来ます。主イエスを通じて、神の子として生きることが出来るのです。イエスが、この地上に肉となって来られた理由は、まさに私たちを神の子にして神の前に堂々と立たせてくださるためです。そして、私たちは、そのキリストを信じて神の子、キリスト者と呼ばれるようになったのです。「イエスは言われた。…わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る。」(ヨハネ20:17) イエスが復活された朝、以上のように主は言われました。主のご誕生は、まさに私たちに真の父をくださるためです。なぜ神であるキリストが、この地上に来られたのだろうか、なぜ、私たちは神を父と呼べるのだろうか、今日の言葉を通じて、もう一度考えてみる機会になることを願います。

しばらく休むがよい

創世記2章1~3節 (旧2頁) マルコによる福音書 6章30~44節(新72頁) 前置き 人間は忙しい日常を過ごしながらも、適切に休むことを通して生きる力を得る存在です。なぜなら、休みとは単なる余暇活動ではなく、世界を造られた主なる神の摂理の一部であり、主ご自身が被造物に与えてくださった聖なる権利だからです。今日は、聖書の御言葉を通して、キリスト者の人生における「休み」という賜物が、どれほど深く、豊かな意味を持っているのかを話してみたいと思います。 1. 日曜日は教会へ 「日曜日は教会へ」という言葉があります。これは休日である日曜日は教会に来て主なる神に礼拝しょうという教会からの呼びかけです。日曜日が法定祝日ではない日本では会社に出勤する会社員や部活のために登校する生徒をよく見かけます。日曜日が法定祝日ではない国は、イスラム圏や中国の他、いくつかあります。(もちろん、法定祝日ではないが、日本では休日と認識されています。)一方、欧米の諸国では、日曜日を法定祝日としています。日曜日が休日に定められた歴史は遠くローマ帝国時代にまで遡ります。ローマ帝国で日曜日が正式な休日として定着したことには、ローマ帝国の第44代皇帝コンスタンティヌス1世の影響が大きかったです。彼はキリスト教を公認した何年後の西暦321年に「尊厳なる太陽の日を公休日とする」と勅令を出しました。それは当時ローマに存在した太陽神崇拝の日と、その日を礼拝日としていたキリスト者の状況を考慮した政治的な措置でした。皇帝はキリスト教と太陽神崇拝者の要求を政治的に合わせるために太陽の日を公休日にし、そこから日曜日に休む文化がローマ全域に広まったのです。そのため、人々は、その日を「日曜日」と呼ぶようになったのです。 では、この日曜日に礼拝を行うという初代教会の伝統は、どこに由来したのでしょうか?それは、ユダヤ教の「安息日」でした。旧約聖書「創世記」によれば、神は6日間で天地を創造され、7日目に安息されたと書いてあります。それで、ユダヤ教は、この7日目にあたる土曜日を安息日と定め、すべての労働を止め、安息日として守り続けてきました。ユダヤ教の影響を受けたキリスト教はイエス・キリストが復活された安息日の翌日(日曜日)を記念し、その日曜日を「主の日」すなわち「主日」と呼びました。初代のキリスト者たちは、ユダヤ教からの迫害を避け、またユダヤ教との区別のために、次第に日曜日に集まって礼拝を捧げるようになったのです。そして、西暦313年、コンスタンティヌス1世が発布した「ミラノ勅令」により、キリスト教はローマ帝国で公認されました。このような経緯から、コンスタンティヌス1世が太陽神を崇拝する日をキリスト教が礼拝する主日と重ね合わせ、キリスト教の影響により、休日となったのです。したがって「日曜日」は、主なる神に礼拝する日です。ローマ帝国の太陽神「ソル・インヴィクトゥス(無敵の太陽)」を祀る日だったものが、福音によって唯一の主なる神を礼拝する日として新たに生まれ変わったのです。日曜日が「休みの日だから」教会の礼拝に行くわけではありません。「神に礼拝する日だから」休むのです。「日曜日は教会へ」という言葉は、単に休みの日だから教会に来なさいという意味を遥かに超えています。もともと、日曜日が主に礼拝する日であるからこそ、その礼拝のために休み、教会へ来るべきという深い意味が込められているのです。 2.休みの神学 休みにも神学があります。多くの人は、休みをただ働かずにいること、あるいは遊ぶ行為だと考えがちです。特に、労働を重んじる東アジアでは、休みを否定的に考えることも少なからずあるでしょう。現代では休みへの認識が高まったため、十分な休日が確保されていますが、かつて日本が高度成長期を迎え、発展を遂げていた時代には、1ヵ月に一度、二度しか休まずに働き続ける人々もいたと言われます。その結果、過労死で亡くなる人も多かったでしょう。ひょっとすると、この時代の富みは、十分に休むこともなく働き続き、疲れに倒れていった世代の苦労の対価であるかもしれません。私たちはこの発展の実を享受していますが、その裏で犠牲になった方々の苦労を、忘れないで生きるべきでしょう。休みがなければ、労働の価値も光を失います。休みは人間の生において最も重要な価値の一つであり、必ず守るべき人間尊厳の物差しでもあるのです。「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」(創世記2章2節) 休み(安息)の神学は、神ご自身の安息から始まります。創造の御業を6日間で完成された神は、第七日に安息されました。神には休みが要りません、被造物に休みの模範を見せてくださったのです。この休みは、創造摂理の大事な要素であり、すべての被造物に与えられた主による権利なのです。 休み(安息)の神学には、三つの重要な教えがあります。①創造秩序の回復:主なる神が創造の時になさったように、労働と安息のバランスを取り、主の創造摂理に従うことです。主は天地創造を終えられた後、安息を通して「わたしが休んだように、あなたがたも休むように」と無言の啓示をくださったのです。②主なる神への信頼:休息は「一日働かなくても主が私を養ってくださる」という信仰告白です。絶え間ない生産性と効率性を追求するこの世で、休息を守ることは、自分の人生の主権が自分ではなく、主なる神にあるということを認める行為なのです。人間は必然的に経済に依存して生きざるを得ません。お金は常に足りなく、お金稼ぎためには絶えず何かをしなければなりません。しかし、一週間のうち一日を完全に休んでも、主が自分の人生を守ってくださるという信頼を通して、主が自分の主人であることを休息によって証明するのです。③社会的な正義と平等:旧約聖書の安息日の戒めは、奴隷、家畜、さらには土地まで休ませることで、すべての被造物が労働から解放されて安息する権利があることを教えています。これは、弱者や貧しい人々を大切にする社会的な正義の基礎となるものです。 3.キリストは休みをくださる方 新約の本文を読んでみましょう。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」(マルコ6:30〜31)6章7節では、主イエスが弟子たちを二人ずつ組して、伝道の旅に立つことを命じられました。どれくらいの期間だったかは分かりませんが、8節から9節で「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。」とあるように、弟子たちはかなり過酷な旅路を経験したに違いありません。30節で、彼らは戻ってきて、主イエスに事の次第を報告しました。その時、イエスは彼らを休ませられたのです。主ご自身は多用の中、苦しむ人々を助けておられましたが、旅から戻った弟子たちには休息を取るようにと勧められたのです。この箇所に直接つながっているのが今日の新約本文の後半に出てくる五つのパンと二匹の魚の奇跡です。弟子たちの休みと、その奇跡が直結していることに深い意味を感じます。主から休みをいただいた弟子たちは、その後、主と共に、この世から傷つき、苦しんでいる大勢の人々のための偉大な奇跡に加わることになったのです。 そして、その結果、成人男性だけで5,000人(女性、高齢者、子供まで含めると3万人以上と推定)が食べ、なお12のかごが残ったのです。この奇跡は、旧約聖書の出エジプト記に出てくるマナの奇跡を思い起こさせるしるしです。主なる神は、出エジプト後にイスラエル民族を荒野の険しい道へと導かれながらも、彼らにマナという日用の糧をくださいました。それはイスラエル民族がエジプトの奴隷として生きていた時の「働かなければ死ぬ」という奴隷の考え方から脱し、彼らの真の主である神が命と死を支配しておられる絶対者であることを悟らせてくだあるためでした。そのため、主は6日間は、毎朝マナを集めるように働かせましたが、安息日には6日目に二倍のマナを与え、彼らを休ませてくださいました。このように、主イエスもまた疲れ、重荷を負った人々を呼び集められ、食べ物を与えてくださることで、旧約における神の御業を思い起こさせ、彼らに安息をくださったのです。そして、先に休みを得た弟子たちは、群衆への主イエスの「休ませる」という御業に直接かかわり、主の証人となりました。主イエスは人々を休ませてくださる方です。休みを通して神の御業に気付かさせ、ご自分の民のために、最後まで責任を持って導かれるお方であることを教えてくださるのです。 締め括り 休みは、単なる肉体のリラックスや遊びではありません。それは、日々の忙しさから離れ、自分自身を顧み直し、心身共に回復するための霊的な行為です。肉体的な疲れがなくても、人生の重荷が精神的な疲れとなって私たちを苦しめることがあります。そのような時こそ、私たちは意識的に休み、心の安らぎを求める必要があります。休みの間、祈りと黙想によって分自身を顧み、健全な信仰において人生を満たしていくべきです。休みは、主なる神の摂理の一つです。適切な休みは、私たちが健全に、そして豊かに人生を過ごせるために不可欠です。私たちは皆、神が与えられた休みという恵みに感謝し、適切に休みつつ生きるべきです。

大祭司の祈り

民数記6章24~26節 (旧221頁) ヨハネによる福音書 17章1~26節(新202頁) 前置き ヨハネによる福音書17章は「大祭司の祈り」と呼ばれる箇所です。祈っておられる主イエスを通じて、いと高き主なる神と罪に汚された人間の間に立ち、神の怒りをしずめ、主の民を清める旧約の大祭司の姿が重なって見えてくるからです。特に主イエスは3つの部分に分かれている17章のお祈りを通して、1-5節主イエスご自身のための祈り、6-19弟子たちのための祈り、20-26全人類のための祈りを父なる神にささげておられます。今日は本文の言葉を通して、主イエス・キリストが私たちをいかに愛しておられるのか、主イエスが私たちにとって、どのようなお方なのかについて話したいと思います。 1.主ご自身のための祈り。 主イエスは、主の民と人類のために祈る前に、まずご自身のためにお祈りになりました。愛の主が、なぜ他人ではなく、先にご自分のために祈られたでしょうか?今日の本文では、主イエスが御父にご自分に栄光を求める場面が出てきます。私たちは、この栄光を誤解してはなりません。これは自分の欲望を満たす世俗的な意味としての栄光ではありません。ヨハネによる福音書での栄光は「御子の本質」のことです。主イエスの栄光は「主イエスの本質」つまり、主イエスが存在する理由にあります。主イエスは、罪に汚され、死ぬに決まっているご自分の民を救われるために来られました。つまり、主イエスの栄光は救いのための十字架での死でした。その過酷で、屈辱的な苦難が主イエスの「自分らしくいる様」つまり栄光だったのです。ところで、主イエスは天地創造の前から、すでにその栄光を持っておられたようです。「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしが御もとで持っていた、あの栄光を。」(ヨハネ17:5) ここで、私たちは創造の前から民を罪から救うために御子の犠牲が定まっていたというのが分かります。御子イエスが十字架で罪人のために死ぬことが、創造の前からの御子の栄光であるという意味です。主イエスは、このような栄光という名の苦難を乗り切るために、まず父なる神に祈られたのです。「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」(ヨハネ17:2) 主イエスは、この苦難の終わりにご自分の民に与えられる永遠の命のために世界を治める真の王として復活されるでしょう。父なる神は、ご自分の死によって栄光を輝かせられた主イエスを復活させられ、主イエスの栄光を完成してくださるでしょう。主イエスのご自身のための祈りは、父なる神の栄光、ご自分の栄光、そして、民の救いのための祈りだったのです。 2.弟子たちのための祈り 辞書を引いてみると弟子という言葉について「先生に教えを受ける人」と書いてあります。つまり、教育を受ける人です。教育とは、心と体の知識を得るため、すなわち知るための行為です。弟子は「知るために」先生に従う人です。それでは、主イエスの弟子は果たして何を知るべきでしょうか。「永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ福音17:3) 使徒ヨハネは真の神と主イエスを知るべきだと語りました。ところで、この「知る」ことによって、何が得られますでしょうか。聖書は永遠の命を得ると教えます。主イエスのお教えを受けた者は、神がどなたなのか、主イエスがどんな方なのか、知ることになります。そして、それを知る結果は永遠の命です。これは主イエスの弟子だけが得られる恵みです。十二弟子だけが主イエスの弟子ではありません。主を信じ、その方を知る人みんなが主の弟子になるのです。 ヨハネ17:3での「知ること」は、単純な知識のことではありません。聖書において「知ること」は、夫婦関係のように密接な関係を結ぶことを意味します。神との関係を結び、信頼するのが、神を知ることです。「神を知ること」とは、すなわち「神を信じる」と言い換えることが出来ます。永遠の命とは、唯一の真の神と、神から遣わされたイエス・キリストを信じることです。そのために、主イエスは2番目に弟子の信仰のために祈られたのです。「わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」(ヨハネ17:8)「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(ヨハネ17:11) 主は、キリストに御言葉を教えて頂き神様とイエス・キリストが誰なのかを知り、信じるようになった弟子たちを、神様が最後まで守ってくださることを祈り願われたのです。 3.全人類のための祈り また、主はご自分の民だけでなく、すべての人類のためにも祈ってくださいました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハネ17:21) 主イエスは、主を信じない人をみんな地獄に投げられ、主を信じる人だけを憐れむ方ではありません。この世界のすべての人々が主を知り、神を信じることが、主イエスの夢だといっても過言ではないでしょう。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(テモテ一2:4) なぜなら、世界のすべての人々が主イエスを信じる潜在性を持っているからです。神がお選びくださらなかったら、誰がキリスト者になれたでしょうか。主なる神が信仰をくださったので、私たちが主イエスを信じるようになり、そのイエスを信じることによって、神を知ることになったことを忘れてはならないでしょう。主なる神は、世界のすべての人々が主イエスを信じることを望んでおられます。神の御心は信者と未信者を問わず、イエス・キリストを通して、全ての人々に開かれています。主は今日も彼らのために教会の頭として、教会を通して福音を宣べ伝えさせておられます。 締め括り 今日の旧約本文に、大祭司アロンが神の代わりにイスラエルの民に祝福を伝える場面が出てきます。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。」(民数記6:24~26) アロンと比べられない真の大祭司である主イエスは、今でも父なる神にご自分の民のために祈ってくださいます。神と人間の間を執り成す大祭司は、神の祝福を民に伝え、民の祈りを神に伝える非常に大事な存在です。主なる神はイエス・キリストを通して私たちに祝福をくださいます。そのような神の御心をイエス・キリストが知っておられ、御心が成し遂げられるように祈られたのです。また、民からの願いや祈りも主イエスを通して、神様に捧げられるでしょう。イエス・キリストは私たちの大祭司です。主は今現在も御父の右から大祭司としてお祈りくださるでしょう。その恵みに感謝する志免教会の兄弟姉妹でありますよう祈り願います。

万物の支配者。

詩編104編1~9節(旧941頁) 使徒言行録17章24~25節(新248頁) 前置き 今年に入って宮崎県の海域で大小の地震が起きているそうです。国内では割と静かですが、周辺国では、日本での7月の大地震説が取りざたされています。たつき諒という漫画家の著書である「私が見た未来」という本に、2025年7月5日、日本で大きい地震が起こり、大勢の人々が苦しむと予言されたからです。(作家は予知夢をよく見る人のようです。)この本はかつて神戸大震災、3·11福島大震災、コロナ流行などを予言しました。そのため、一部の人々は、作家の別の予言、つまり今年7月、日本で大地震が起こるのではないかと恐れているわけです。 実際、今年の6月から宮崎のトカラ列島沖で大小の地震が後を絶たない状態です。地元の人々の中には、鹿児島市に避難した人たちもいるとニュースに出ました。外国では日本旅行を取り消す人もいるそうです。果たして、実際に大地震が起きるのでしょうか? 明らかなことは地震が起きる可能性も、起きない可能性もあるということです。誰かの予言でなくても、日本ではすでに多くの地震が起きてきたからです。このような状況の中で、キリスト者の持つべき心構えは何でしょうか。 1.天災地変への人間の恐怖 人類の歴史が始まって以来、人類は数多くの災害にさらされてきました。世の中に起きる災害は人によってもたらされる人災(戦争、放火による火災、安全事故、建築物の崩壊など)と自然に発生する天災(地震、津波、異常気温、自然発火による山火災、山崩れなど)に分けられます。人々は外交を通して出来るだけ戦争を避け、法律を強め、安全意識を固めて、人によってもたらされる人災をあらかじめ防ごうと努力してきました。しかし、自然からの災害は人の努力ではどうしても解決できない恐ろしいものでした。というわけで、昔から人間は自然現象を神の怒りや啓示などと認識してきました。特に、その影響を多く受けたのが日本の神道思想ともいえるでしょう。日本の原始宗教観は世の中のすべてに神が宿っているという汎神論的な思想を基盤にしているからです。このように、人々は自然の急変を恐れ、そこから信仰を生み出してきました。しかし、聖書は、自然は神ではなく、主なる神の支配の下にある被造物にすぎないと明確に述べています。 今日の新約の本文を読んでみましょう。「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(使徒言行録17:24-25) 使徒パウロは主なる神が、世のすべてを造られ、今でも導いておられると力強く証しました。自然への恐怖は人間だけでなく、この世のすべての生き物が感じる共通の本能です。ですから、自然災害のうわさが広がる時、「何も心配するな。何も起こらない。不安は愚かなことだ。」と人間の本能に逆らって楽観的に考え、心配する人々を非難することは望ましくないでしょう。 特に日本は地震発生が非常に多い国ですから、あらかじめ注意しておいて悪いことはないでしょう。しかし、キリスト者である私たちは、主なる神が世界のすべてのことをコントロールしておられるということを信じ、主を知らない世の中の人々と同じように、不安と心配に包まれ、何の基準もなく振舞ってはならないでしょう。 2.天災地変に対するキリスト者の心構え 私たちは、主なる神を信じればすべてがうまくいくだろうと漠然と思いがちです。しかし、実際にすべてがうまくいくとは断言できません。主を信じても、うまくいかない場合もあります。当たり前なことです。主は、私自身一人だけの神ではなく、全宇宙の神だからです。宇宙には、人間だけでなく他の動物、植物、海、空、大陸、月、星、太陽、銀河系などすべてが含まれます。そのすべてが神の被造物だと聖書は証言します。そのため、主なる神は、御手によって創造された秩序を用いて、この宇宙を支配しておられます。一人二人の人間だけのために、主の秩序をあきらめられたら、神の創造の摂理と秩序は乱れてしまい、宇宙にはさらに大きな混乱が来てしまうでしょう。以前にも、説教で何度か申し上げたことがありますが、創造は無から有を創造することだけに限りません。創造のもう一つの重要な特徴は、無秩序に秩序を与えることです。そのため、人間の立場からの天災地変は、主なる神の立場からでは宇宙を保たせる秩序が働く中で生じるやむを得ないトラブルの一つであるかもしれません。 日本に地震が多発する理由は、その地域のためです。日本が位置している地域は、環太平洋造山帯と呼ばれる地殻と地殻が向き合う接点です。南米のチリから北米西海岸、アレスカ、千島列島、日本列島、フィリピン、インドネシア、ニュージーランドまで続く太平洋を包む火山帯です。そのため、この地域の国々では地震が多発するのです。地球の表層はいくつかの地殻でできており、すごくのろいですが、動いています。このとき、地殻同士が押し合い、摩擦して巨大な揺れが起こります。それがまさに地震として現れるのです。もし、地殻が動かなくなって地震が起きなかったらどうでしょうか? それは生きている地球ではなく死んだ地球の姿であり、そうなれば私たち人間もこれ以上地球で生存できなくなるでしょう。地震が怖くて、なかったらいいかもしれませんが、皮肉なことにその地震がないということは地球が死んだということになり、私たちもその死んだ地球ではもう生きることが出来ないでしょう。 神の被造物である自然は、それなりの秩序によって働いているのです。そして、地震は、その自然の一部なのです。 だからといって、主なる神がわざと地震を起こし、人類には秩序だから仕方ない、文句言うなとおっしゃる方であるわけではありません。 地震で人類が苦しむのは、主も御心を痛めることでしょう。ですから、人間に知識と技術の発展を許され、災害の中でも再び起き上がれるように導いてくださるのではないでしょうか? 自然災害は恐ろしいものですが、地球が生きているためにはやむを得ず起き続けるしかない必然的なものです。そして、それは主なる神の自然の秩序に属する事柄です。したがって、キリスト者は地震という自然災害を漠然と恐れる前に地球が生きているという証拠であり、主が地震で苦しむ人々を憐れんでおられることを忘れてはならないでしょう。誰でも人生を生きながら天災地変に遭いうるでしょう。もし私たちが住んでいる福岡県に地震が起きるとしたら、恐ろしさの中でも主の秩序を思い出し、政府の指導に従って被害を最小にし、地震によって恐れ苦しむ隣人を助け仕えることで、無秩序の中に秩序を作り出すキリスト者になることを願います。そして、迷信による世の恐怖を超え、主なる神がすべてをコントロールしておられることを堅く信じ、苦難を乗り越える信仰を持つべきではないかと思います。 3.万物の支配者 「わたしの魂よ、主をたたえよ。主よ、わたしの神よ、あなたは大いなる方。栄えと輝きをまとい、光を衣として身を被っておられる。天を幕のように張り、天上の宮の梁を水の中にわたされた。雲を御自分のための車とし、風の翼に乗って行き巡り、さまざまな風を伝令とし、燃える火を御もとに仕えさせられる。主は地をその基の上に据えられた。地は、世々限りなく、揺らぐことがない。深淵は衣となって地を覆い、水は山々の上にとどまっていたが、あなたが叱咤されると散って行き、とどろく御声に驚いて逃げ去った。水は山々を上り、谷を下り、あなたが彼らのために設けられた所に向かった。あなたは境を置き、水に越えることを禁じ、再び地を覆うことを禁じられた。」(詩篇104:1-9) 詩篇は、主なる神が、世界の万物の支配者であることを唱えています。この世のすべての自然現象も結局は主の支配のもとにあります。しかし、自然現象によって苦しむ人が生じる時もあります。私たちは自然現象を防ぐことができません。全体的な大きな秩序の一部であるため、防いでもいけません。ただ、その自然よりも大きい主の権能と慰めと導きを信じ、自然災害に恐れる人々を慰め、助けて生きるべきだと思います。それが万物の支配者である主なる神の存在を知る人と知らない人の違いではないでしょうか? 締め括り 日本では、そんなに話題になっていないかもしれませんが、周辺国では7月の大地震のうわさで日本への訪問を心配していると言われます。昨年の能登半島地震、南海トラフなどが話題になったときから、さらに深まっています。しかし、日本列島は地球ができたときから地震の脅威から一度も避けたことがありません。今更、恐れるより、今までのように注意を持って過ごせばよいと思います。主なる神が日本を守ってくださることを望みます。誰も地震によって苦しむことなく犠牲にもならないことを祈ります。主の教会は地震も結局、主の支配下にあることを信じ、恐れ、不安に思う隣人を慰めながら助けなければならないでしょう。 主を信じる私たちは、世の中の他の人々とは違う視座から自然災害に対応して生きるべきでしょう。それも信仰の領域にある生き方だからです。

兄弟姉妹の助け合い

詩編133編1~3節(旧975頁) エフェソの信徒への手紙2章11~22節(新354頁) 前置き ソウル文化村教会からの兄弟姉妹の皆さんを歓迎します。志免教会は皆さんの訪問をお許しくださった主なる神に心から感謝申し上げます。一緒にささげる礼拝による聖霊のみもとでの美しい交わりを喜びます。今日一緒に守る、この礼拝を通して、二つの教会のアイデンティティを確認し、主にあってお互いに助け合い、愛し合う関係であることを憶える時間になることを願います。両教会の上に主なる神の限りない祝福と恵みとが与えられますよう祈ります。 1. キリストにおいて兄弟姉妹となる。 教会用語の中で、最も美しい言葉の一つは「主において兄弟姉妹となる」ではないかと思います。国が異なり、言葉と文化が違っても、主の民はイエス·キリストというおひとりを中心として一つとなった存在ですから、それらの相違の超える同じアイデンティティを持っているのです。この世の政治も、いかなる価値観も、主が結び付けてくださった「主において兄弟姉妹となる」という私たちのアイデンティティより先立つことはできません。志免教会は日本人だけでなく、韓国人、中国人、ニュージーランド人が一緒に集い、主イエスにおいて、同じ神を礼拝し、同じ聖書の言葉で主の福音を学んできました。そして、今日は韓国ソウルからの兄弟姉妹たちとも一緒に同じ主に礼拝しています。聖書は語ります。「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」(エフェソ2章中) 父なる神は、罪によって主を離れてしまったご自分の民を召し出してくださるためにイエス·キリストという救い主を、この地に遣わされました。主イエスは、主の民を救ってくださるために、この地上に来られ、彼らと共に過ごしながら、癒し、教え、福音を伝えてくださいました。以後、主イエスは罪人の贖いと救いを成し遂げるために十字架にかけられ死に、三日後に復活されました。復活されたイエスは、ご自分の血潮という身代金によって罪人を償い、神と人を遮る壁を崩し、主なる神の子供に召してくださいました。その時、私たちひとり一人を遮る壁をも共に崩してくださったのです。私たちがお互いに兄弟姉妹と呼ぶのが出来る理由は、そのような主イエスの恵みに基づきます。私たち自身が、自分の意志で兄弟姉妹と呼ぼうとしても、この世の価値観と自分の利益を考えるなら、口先では兄弟姉妹だと言っても心では違う考えを持ちやすいです。しかし、主イエスの贖いと救いによって、主において一つとなった私たちは、主イエスのかけがえのない恵み(主イエスというおひとりの主を崇める一つの存在となる)を根拠として、お互いを兄弟よ、姉妹よと呼べるようになったのです。 したがって、主イエスが永遠の方であれば、私たちの兄弟姉妹という関係も永遠であるのです。たとえ民族と言葉と文化が違うとしても、私たちにはイエス·キリストという永遠に移り変わりのない、たったお一人の主がおられるからです。 2. 日韓長老教会の歴史 私たちは、こうして主において一つとなり、兄弟姉妹の関係を結んでいます。それでは、お互いの関係について、歴史を通して考えてみたいと思います。日本と韓国という他国の教会どうしなので、遠くの人々、言葉も通じなく、考え方も違う相手と思われがちですが、日本と韓国の長老教会は意外と近い間柄です。日本キリスト教会と大韓イエス教長老会(合同派)は、いずれも長老派の教会です。日本の長老教会は、1859年、医療宣教師として来日したジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn)が、横浜港に入国することから始まります。彼はアメリカの北長老教会の派遣により、医療宣教とともにヘボン塾(現明治学院大学の前身)などを通して、近代日本の教育にも影響を及ぼしました。彼の活躍により、日本の三大キリスト教バンド(横浜、熊本、札幌を中心に形成されたプロテスタント教勢)の一つである横浜バンドが基盤を固め、その中心に日本キリスト教会の前身である日本キリスト公会がありました。韓国の長老教会は、1889年、朝鮮に入国したホレイス・グラント・アンダーウッド(Horace Grant Underwood)です。彼も日本のヘボン宣教師のようにアメリカの北長老教会の宣教師です。彼は朝鮮の広恵院という韓国最初の西洋式病院で物理学と化学を教え、その後、キリスト教系の学校を設立して教育活動を繰り広げました。彼の活動で韓国でのプロテスタント教会の影響力が広がっていき、韓国の長老教会も基盤を固めるようになりました。 このように日本と韓国の長老教会はアメリカの北長老教会という同じルーツから福音を受け入れ、改革教会という同じ神学と信仰を共有する関係です。日本と韓国という他民族、言語、文化の違いにもかかわらず、同じ教会から派遣された宣教師たちによって、そのすべての乗り越えるイエス·キリストの同じ福音が伝わってきたのです。この福音を伝えるために、ヘボンとアンダーウッドといった宣教師たちが自分の若さを主に捧げました。ですから、今日、私たちはお互いに初めて会いますが、遠くにいる関係ではありません。言語の違いは、言語が通じる人の通訳によって解決できます。それよりさらに重要なことは、同じ信仰と心を持った主イエスの同じ民であるということです。私たちは、キリストという同じ頭を中心に一つとなったキリストの肢です。ですから、志免教会の皆さん、今日、訪問してくださった韓国の青年たちをこれからも憶えてください。彼らの一生のために祈ってください。文化村教会の青年の皆さんも、ここにいる信仰の先輩たちを憶え、祈ってください。文化村教会の青年たちは、信仰が冷やかされる時代に自分の信仰を守りながら生きています。志免教会の先輩たちもキリスト教の教勢が弱い日本で、長年、信仰を守ってきました。 お互いを憶え合い、住む所は違うが、一心で助け合う私たちであることを望みます。 3. 価値観と政治観を飛び越て 私たちが、日本キリスト教会に加入するために来福したのは、2018年の秋でした。そして、2019年4月、志免教会の協力宣教師として赴任することになりました。ところが、ちょうどその頃から日本と韓国の関係が悪化するようになりました。いわゆる「ノージャパン運動」とも呼ばれる日韓対立の出来事だったのです。当時、私と妻はすごいストレスを受けました。まだ、志免教会の皆さんと十分に親しくなってもおらず、出掛ける時は妻となるべく会話を控えました。韓国語が聞こえると見つめる人たちがいたからです。やはり政治が問題でした。日本の安倍元首相は韓国が嫌いで、韓国の文元大統領は日本が嫌いでした。 互いに自分が正しいと主張しました。しかし、彼らは相手の国に住む自国民の心を配慮しませんでした。指導者どうしの政治的な異見により、日本の韓国人と韓国の日本人が苦しむようになりました。日本と韓国は歴史的な遺憾が山ほど積もっている隣国です。そういうわけで、「一番近いが、一番遠い国」という言葉もあります。人間の世界はそうです。対立と憎しみが根底にあるからです。 しかし、その時、私たちを支え、慰めてくれた人は志免教会の兄弟姉妹たちでした。一度も政治的な話題で、私たちを冷たく扱わず、むしろノージャパン時代とコロナ時代を経て、日本人、韓国人という違いよりもクリスチャンとしての同じさを、さらに大切に思ってくださいました。価値観と政治観がキリスト者というアイデンティティを損ねることが出来なかったのです。そのすべてが、同じ主であるイエス·キリストの肢であるという信仰で乗り越えた結果なのです。今日の旧約本文はこう述べています。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り、ヘルモンにおく露のようにシオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された祝福と、とこしえの命を。」(詩篇113編) 兄弟が「共に座っている」という言葉は一心を持って一緒に助け合いつつ生きることを意味します。古代の遊牧民族は、一族全員が一つの群れとして生きたと言われます。それを原文で「共に座る」と表現したようです。主なる神のみもとに、兄弟姉妹が共に座ることは正しいことであり、主が喜ばれる生き方ということでしょう。そのように共に座る人生の道のりで、憎しみと対立は消えて行くからです。そこに主の祝福ととこしえの命があると聖書は証しています。 締め括り 今日、私たちは初めて会いました。しかし、すでにキリストにおいて、一緒に座っており、神の国で再会するべきとこしえの教会姉妹です。 もちろん、その前にまた会う機会があるかもしれません。私たちは、お互いに外国人だと思わず、それよりもっと大事なキリストによる家族という信仰で助け合い、愛し合うべき関係です。この世での人生は短いです。100年を超えて生きる人は珍しいです。しかし、神の国での私たちは、主と共に永遠に生きるでしょう。100年にもならない時間の中で憎しみと対立を造らず、永遠な主の国での「共に座る」存在として仲良く過ごしていきたいと思います。 主なる神が、私たちの交わりを喜ばれ、祝福をしてくださるよう祈り願います。

主に賛美せよ。

詩編113編1~3節(旧954頁) エフェソの信徒への手紙1章3~6節(新352頁) 前置き 賛美とはどういうものでしょうか? 私たちは礼拝の際、何度も讃美歌を歌います。讃詠を皮切りに聖書朗読前の讃美歌、説教前の讃美歌、説教後の讃美歌、聖餐式の讃美歌、礼拝が終わる時の頌栄を歌います。教会によっては、礼拝開始の前に讃美歌を歌うか、礼拝の後に讃美歌を練習する場合もあります。大きい教会では、イースター、クリスマスなどの記念日に合わせて賛美のコンサートを開くところもあります。そのため、私たちは無意識に「賛美は歌である」と受け止めがちです。しかし、賛美は果たして歌だけに限るものなのでしょうか? 今日は聖書に現れる賛美について学び、その意味を、あらためて心に留める時間を持ちたいと思います。 1.聖書に現れる賛美 聖書の言語であるヘブライ語とギリシャ語には、数多くの賛美にかかわる言葉があります。日本語では「讃美、賛美」あるいは「ほめたたえ」くらいですが、聖書の言語では数多くの表現があるのです。そのすべてを一々取り上げて説明することは、かなり時間がかかりますので、今日の本文に出てくる四つの表現(ヘブライ語ハラルとギリシャ語翻訳エパイノスとヘブライ語バラクとギリシャ語翻訳エヴロゲオー)について考えてみたいと思います。まず、今日の旧約本文を読んでみましょう。「ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美(ハラル)せよ。主の御名を賛美(ハラル)せよ。今よりとこしえに、主の御名がたたえられる(バラク)ように。日の昇るところから日の沈むところまで、主の御名が賛美(ハラル)されるように。」(詩篇113:1-3)詩篇113編はイスラエルの民が過越祭のような大事な祭りに歌った賛美として知られています。 詩篇113編だけでなく114編から118編までも、そのような歌でしたが、それらは「ハレルの詩」と呼ばれました。このハレルという名称は、これから探ってみる「ハラル」に由来します。今日の旧約本文で主なる神への賛美、その一つ目のヘブライ語は「ハラル」です。 ハラルには、さまざまな意味がありますが、基本的に「明らかになる。輝く。」のイメージを持っています。そして、そのイメージから「賛美する。褒める。誇る。」などの表現が派生しました。主なる神が成し遂げられたすべてのことが「闇を退け、秩序をもたらす最も明らかで輝かしい御業」であるため、天地万物が主なる神を「ほめたたえ、誇りにする」のです。また、このハラルはギリシャ語では「エパイノス」と訳されますが「エパイノス」はそのままで「~に賛美する」という意味です。 賛美にかかわる、その二つ目のヘブライ語は「バラク」です。この表現のイメージは「ひざまずく」です。そして、もう少し意味を拡張して「主の御前にひざまずいて謙虚に屈服する。」と解き明かすことが出来ます。主なる神の偉大な御業に感謝し、謙虚にひれ伏し、主の偉大さをほめたたえるという意味です。この表現はギリシャ語ではエウロゲオ-と訳されますが、エウは「良い、立派な」を意味し「ロゲオー」は言葉、思想、理屈を意味する「ロゴス」の動詞形です。主なる神に一番良い言葉と思いをささげるという意味でしょう。賛美は狭い意味では礼拝の時に歌う「歌」として定義することが出来るでしょう。しかし、より広い意味としては「明らかで輝かしい御業を成し遂げられた主なる神に従順に聞き従い、良い言葉と思いによって信仰の人生を生きること」とも言えるでしょう。したがって、賛美はただの歌だけを意味するものではありません。私たちの人生のすべての姿が、私たちの賛美そのものになるのです。教会党に出席し、讃美歌を歌うだけで賛美を尽くしたと思ってはなりません。教会でも、家庭でも、社会でも、主の御言葉と御心に聞き従って正しい信仰の人生を生きること、それこそが私たちの真の賛美なのです。 2.主の明らかで輝かしい御業 それでは、主なる神が成し遂げられた明らかで輝かしい御業とは果たして何でしょうか? 今日の新約本文を読んでみましょう。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえ(エウロゲオ-)られますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえる(エパイノス)ためです。」(エフェソ1:3-6) 今日の旧約本文に出てきた賛美を意味する「ハラルとバラク」が、今日の新約本文でもギリシャ語(エパイノスとエウロゲオ-)に訳されて出てきています。使徒パウロは主なる神が成し遂げられた偉大な御業をハラル(エパイノス)とバラク(エウロゲオ-)という言葉を用いてたたえているのです。主の明らかで輝かしい御業を被造物の人間に過ぎない私たちが、すべて見抜くことは不可能です。しかし、私たちは新約本文に記録された言葉を通じて主の御業の一部を覗き見ることができます。 一、主なる神は、天のあらゆる霊的な祝福で私たちを満たしてくださいました。罪によって見捨てられた罪人をイエス·キリストの十字架の贖いよって救い、さらに霊的な祝福をくださったのです。(3節) 二、主なる神の救いは、偶然や即興的な救いではなく、天地創造の前から計画された永遠の愛に基づいています。(4節) 三、私たちは主なる神の御心のままに前もって定められ、キリストにおいて主の子供とされました。(5節) 四、これらによって、主なる神はキリストによって主の子供に召された私たちに、主の輝かしい恵みを賛美する資格を与えてくださいました。(6節) 主はすべての光の源であり、すべての正義と秩序の主です。主がなさるすべてのことが明らかで輝かしい御業です。聖書は、その中でも特にイエス·キリストによって主の民を選び、救い、主と共に生きるようにしてくださったことを最も偉大な御業であると証しています。私たちはイエス·キリストにあって、私たちの救いを成し遂げてくださった主なる神の明らかで輝かしい御業に感謝し、その方に私たちのすべてを捧げ、従順に聞き従う人生を生きるべきです。そして、そのような生き方そのものが、主なる神への私たちの賛美になるのです。素晴らしい歌唱力、美しい音色、きれいな奏楽も良い賛美です。しかし、最も根本的で基礎的な賛美は、断然主の民にふさわしく信仰にあって主と共に歩む私たちの日常の生活ではないでしょうか? 3。賛美について思いめぐらす逸話 アメリカの黒人解放期、黒人の人権のために尽力した女性作家がいました。   彼女は「アンクル・トムの小屋」という小説で有名な「ハリエット•ビーチャー•ストウ」でした。長老教会の牧師の娘に生まれ、神学を勉強した彼女は、黒人の悲惨な生活を目撃し、奴隷制度に反対する作品「アンクル・トムの小屋」を書いたのです。彼女の小説はアメリカ社会に大きな波紋を投げました。ある日、彼女はアメリカの南北戦争を勝利に導き、黒人奴隷解放を宣言したアブラハム・リンカーン大統領に会うことになりました。「ストウさんにお会いできてとても嬉しく思います。小説を読んだ後、作家が軍人あるいは政治家だろうと思いましたが、こんなに小さなご婦人であるとは思いませんでした。私はあなたの小説を読んで大きな感動を受けました。そんなに素晴らしい小説をどう書かれたのでしょうか。」ストウは答えました。「とんでもございません。それは私が受けるべき褒め言葉ではございません。主なる神にに才能をいただいたのですから、ひとえに主だけに栄光を捧げるだけです。それよりも、多くの黒人を悲惨な奴隷制度から解放された閣下の業績こそ、永く輝くでしょう。」するとリンカーンは謙虚に答えました。「いいえ、こちらこそ、とんでもございません。私はただ主のしもべに過ぎません。私自身には何の力もありません。すべてが、主のご命令に従った結果なのです。だから、すべての栄誉は主に帰すだけです。」黒人解放の主役である2人は自分の業績を自慢せず、そのすべてが主なる神の恵みであるとほめたたえました。 締め括り 上記の物語は、真偽のほどは定かではありませんが、少なくとも、思いめぐらせるところはあると思います。リンカーンとストウの会話を読みながら、これこそ真の賛美のあり方ではないかと思いました。毎週教会に出席して讃美歌を歌っているが、職場では冷たくて薄情な上司ではないか。毎週教会で奏楽しているが、学校では真面目でない生徒ではないか。毎週教会で奉仕をしているが、家庭では配偶者との関係は悪くないか。いろいろなケースがあるでしょう。そのような人々が歌う讃美歌は果たして主なる神に喜ばれる賛美になれるのでしょうか。今日学んだ賛美の意味についてもう一度復習して説教を終わりたいと思います。「明らかで輝かしい御業を成し遂げられた主なる神に従順に聞き従い、良い言葉と思いによって信仰の人生を生きること」それこそが私たちの生活に現れる真の賛美ではないでしょうか?

神の言葉は生きている。

イザヤ書55章6~8節(旧1152頁) ヘブライ人への手紙4章12節(新405頁) 前置き 私たちが主日ごとに教会に出席し、説教を聴く理由は聖書に記してある主なる神の御言葉を説教を通じて教えていただくためです。説教は説教者個人の知識の自慢でも、思想を広める手立てでもありません。説教は聖書に記してある主なる神の御言葉を現代の聞き手が理解できる言葉で解き明かし、数千年前の主の御心を教えるための大事な道具です。したがって、説教者も聞き手も、個人が追い求める欲望、思想、必要のため、御言葉を歪曲しないように格別に気を付けなければなりません。それにもかかわらず、不完全な人間が説教し、また、聴いているだけに神の御言葉が歪曲される可能性がないとはいえません。しかし、聖書は語ります。聖霊なる神が、聖書のまことの解釈者になってくださり、説教者の口と聞き手の耳を導いてくださると。つまり、聖書に記録された御言葉は聖霊によって生命を得、今でも働き、御言葉によって主の御心が伝えられるように生きているのです。今日は、主なる神の生きている御言葉について話しましょう。 1. この世の言葉とは異なる神の言葉。 「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。」(イザヤ55:6-8) 今日の旧約本文は、悪行と偶像崇拝の罪のため、罰を受け、滅ぼされたイスラエルの民を赦し、あらためて機会を与えようとする主の御心が書いてある箇所です。イスラエルは、神の祭司の王国と呼ばれる聖別された民族でした。他の国々のように武力で他国を征服したり、富で他国を圧倒したりするのではなく、ひとえに神の御救いの言葉を伝えるために生まれた、祭司長のような国として神に選ばれた民族でした。しかし、彼らは他の国々のように武力と富を求めました。その結果、イスラエル民族は真っ二つに分かれてしまい、その後にも、子孫の悪行と偶像崇拝のため、主なる神に用いられたアッシリアとバビロンといった帝国よって滅ぼされたのです。今日の旧約本文は、その滅びてしまったイスラエルへの主のお赦しと回復を呼びかける言葉です。 ご自分の民が失敗し、どうすれば良いか到底分からない時、主なる神は迷わずに主に帰ってきなさいと呼びかけられる方です。聖書を通して主は言われます。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる。」世の常識によれば、罪を犯した人は、赦されにくくなります。犯罪者が釈放されても、再出発しにくい理由も、社会が一度失敗した人を簡単に許さないからです。しかし、主なる神は、この世の常識とは異なる御心によって、罪人を扱っておられることが、今日の旧約本文から分かります。主の御言葉(思い)は、この世の常識とは全く違います。失敗して二度と起きられないような絶望の時にも、主の御言葉は「新しい始まりが出来る」と語ります。この世は失敗した者を蔑んでも、主は世の思いとは違って新しい始まりを語られます。私たちがこの世の言葉ではなく、主の御言葉に耳を傾けなければならない理由がここにあります。世の言葉は押さえつけて殺す言葉です。しかし、主の御言葉は立て直して生かす言葉です。世はもう終わりだと語っても、主の言葉はこれから始まりだと語ります。孤独で厳しい現代社会を生きる私たちに神の御言葉が必要な理由です。 2. 神の言葉は生きている。 「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブライ4:12)「言葉」は、ギリシア語で「ロゴス」です。この「ロゴス」は言葉を意味するとともに「考え、思い、理屈、思想、意見、説明」などの多い意味を持ちます。つまり、主の言葉としてのロゴスは、主なる神の「思い、理屈」とも言えるでしょう。ですから、先ほどの説教で主の言葉を主の思いとも言い換えることが出来るでしょう。ということで、新約聖書ヨハネによる福音書は、こう語っているのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ福音1:14) つまり、御言葉が肉となって、私たちに来られた神の子イエス•キリストは、主なる神の思いと理屈を人間に完全に伝える主のロゴスとして私たちの間に来られたということです。だから、説教の時、主なる神の思いと理屈を完全に表されるイエス・キリストとその御言葉をありのままに伝えなければなりません。説教という道具によって伝えられる主の御言葉が人間に正しい生き方を示す主の道具だからです。 日ごろ、私たちは、主の御言葉の働きを敏感に感じながら生きるのが難しいです。聖書を読んでもその意味が分かりにくく、毎日御言葉を黙想しても圧倒されるほどの生活の変化を経験するのは難しいです。しかし、毎日の御言葉からの小さい教えによって、私たちの人生は少しずつ主の御心に気づき、その御心に従って生きるようになります。隣人を愛しなさいという繰り返す主の御言葉は、私たちの生活において隣人への配慮を思い出させます。常に祈りなさいという御言葉は、心の中に「祈らないと」という望ましい負担感を与えます。御言葉に隠れている主の思いと理屈は、私たちの生活でいっぺんに大きな変化を起こすことはなくても、小さな変化を起こし続ける、変化の呼び水になることはできます。そして、その小さな変化が溜まっていき、ある瞬間(神の時が来れば)、私たちの人生に力強く働き始めます。神の御言葉は生きており、力を発揮して働くからです。今すぐはかすかに感じられても、決定的な瞬間、私たちの人生に強く働いて著しい変化をもたらすのです。その時になれば、するどい両刃の剣のように、私たちの心と良心と思いを刺し通し、主の御前に悔い改めさせ、神の御心を推し量らせ、人生の変化にまでつながるようになるのです。 3。だからこそ、聴かなければならない。 そういうわけで、使徒パウロはこう語ったのではないでしょうか? 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17) 私たちは御言葉を聴かなければなりません。御言葉が聞き取れるか、聞き取れないかを問わず、私たちは常に御言葉に耳を傾けなければなりません。今日、聞いた御言葉が、すぐに私たちの生活にあって働かないかもしれませんが、すぐに働かないといっても、御言葉の小さな一片一片が集まって、自分の人生を変える津波になって戻ってくるということを常に心に留めて生きていきたいと思います。御言葉は喜びのない者と絶望に陥っている者に、主なる神の思いが世の思いと違うということを、諦めたい者に新しい道が開かれているということを知らせる希望の道具です。今すぐ変化がなくても、いつか神の時になれば、大きな変化を起こす、主なる神の大事な道具なのです。御言葉は生きています。聖霊なる神が御言葉を用いられ、私たちの人生を美しく導いていかれるからです。ですから、私たちは、毎日、主の御言葉を読み、その御言葉に聞き従い、主の思いを待ち望みながら生きていかなければなりません。生きている神の言葉は、今日も私たちと共にあり、私たちの人生を正しい道へと導きながら生きています。