アメイジング・グレイス(驚くべき主の恵み)

ヨハネによる福音書3章16~17節 (新167頁) 前置き 今日のタイトルは「アメイジング・グレイス」です。英語そのままなので「なんで、英語?」と思う方もおられるでしょう。「アメイジング・グレイス」は日本語で「驚くべき恵み」という意味です。私が敢えてこの英語の発音を説教のタイトルにした理由は「ただの恵み(グレイス)」と「驚くべき恵み(アメイジング・グレイス)」を分けて、覚えやすく説き明かすためです。私たちキリスト者は、ただの恵みの中に生きているのではなく、主なる神の驚くべき恵の中に生きています。キリスト教の神学における神の恩寵は、世のすべての被造物に与えられる「一般恩寵」と、主に選ばれた者らに与えられる「特別恩寵」に分けることが出来ると言われます。主は、ご自分のことを知らず信じない者たちにも、ご自身の民と同じように、太陽の光や雨といった自然の恵みを与えてくださいます。しかし、主の民には、それ以上の特別な救いの恵みを与えてくださいます。本日は、この主の特別な恵みについて、ヨハネによる福音書の言葉を通じて分かち合いたいと思います。 1. 神が世を愛された。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書 3:16) ヨハネによる福音書3章16節は、キリスト教において最も知られている聖句の一つです。それだけに、この言葉は教会で語られるメッセージの中心となるべき核心的な真理を含めており、キリスト者なら、心に深く刻み、日々告白して生きるべき信仰の根幹をなす言葉です。この言葉が伝えている最も重要なメッセージは、この世を創造された唯一の造り主なる神が、罪によって滅びるほかないこの世をあまりにも愛され、その愛の証明として、ご自分のかけがえのない独り子を世にくださったということです。また、この独り子イエス・キリストを救い主と信じ、頼りにするすべての者に、神の裁きから救われ、滅びることなく、永遠の生命を得られるという約束をもくださったことです。これこそ、福音(良い知らせ、すなわちイエス・キリストによる救い)の核心的な真理であり、聖書の最も簡潔な要約であると言えます。私たちはこの言葉から、三つのことが分かります。 まず、神についてです。 神のことについて、私たちは完全に知ることができません。聖書に記された言葉その程度が、私たちが知り得る限界です。しかし、聖書は、この神が世を愛されたと語ります。神は絶対的な存在であり、世界の創造者です。聖書は、世にある数多くの神々は偽りであり、断然この神のみが唯一にして真の神であると力を入れて述べています。次に、世についてです。 聖書に出てくる世は、ギリシャ語で「コスモス」と言います。これは「秩序、調和」などを意味します。古代ギリシャ人は、宇宙が秩序と調和によって成り立っていると思いました。そのため、コスモスを「宇宙、世」という意味としても使いました。そして、このコスモスには、その宇宙に住んでいる「居住者」(すなわち人間)という意味をもあります。したがって、「神が世を愛された」という言葉は「神が人間を愛された」と言い換えることができるでしょう。最後に、愛についてです。 ここで語られた愛は、ギリシャ語「アガペー」の翻訳です。アガペーは、人間が与えられない愛で、最も善意で、温かく、自己犠牲的で、完全無欠な愛、神の限りない愛を指します。上記の三つのことを通して、私たちに推論できるのは。「絶対者である神は、人間を最も完全に愛しておられる方ということです。 2. 独り子をお与えになった 聖書は、人間を最も完全に愛してくださる絶対者なる神の極めて深い愛のゆえに、「独り子をお与えになった」と語ります。ここで私たちは、三位一体という神のあり方について考えることになります。三位一体は信者でない方々も耳にしたことのある言葉でしょう。三位一体とは、唯一の神である方が、父、子、聖霊の三つの位格(人格)として同時におられるという意味です。どうして、唯一の神でありながら三つ位格として存在し得るのかは、人間の知識では到底理解しがたいかもしれません。しかし、聖書が、明確に唯一の神でありながら父と子と聖霊として存在すると証ししているため、私たちは限った知識で理解しようとするより、神ご自身が聖書を通して自らをそのように示されたと理解し、信仰をもって受け入れるべきです。ある学者たちは、この概念は知識ではなく神秘として理解すべきだと語ることもありました。とにかく、この三位一体から出てきた概念が「独り子」なのです。独り子は、かけがえのない神の御子イエス・キリストのことです。その方は肉体をとって人となり、罪によって聖なる神から離れた人間に代わって十字架にかかり、その贖いを通して人間を救ってくださいました。したがって、独り子をお与えになったという神の御業は、人間に対する創造主なる神の最も偉大な愛の証拠なのです。 新約聖書ヨハネの手紙第一4章16節は「神は愛である」と宣言しています。今日の本文にも、神が世を愛されたとあります。真に、主なる神は愛の神でおられます。しかし、その愛は盲目的で正義のない愛ではありません。親の健全な愛は、時にはおしかりとして現れることもあります。聖書はそれを裁き(審判)と表現します。裁きの根源は神の正義であり、神の正義は神の愛の一部でもあります。それゆえ、キリストの愛に力づけられて罪を悔い改める者には愛の救いが、キリストの救いをないがしろにして罪を悔い改めない者には正義の裁きが待っています。しかし、愛の神は、人間が自力で正義を果たすのができないことを誰よりもよく知っておられます。それゆえに、主なる神は罪はないが、神の正義を完全に満たせる存在を遣わされ、罪によって滅びる人間を救うようにしてくださいました。独り子イエス・キリストは、真の神でありながら、真の人間としてこの世に来られました。そして、ご自身が神の裁きへと進み、罪人のために代わりに死んでくださることで、神の愛と正義を成し遂げてくださったのです。聖書は、このイエス・キリストを自分の救い主と信じる者には、神の愛と救いが惜しみなく与えられると証ししています。 3. 主なる神の特別恩寵(アメイジング・グレイス) 今日の本文は、このように締めくくられています。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この世(人間)を愛された神は、その愛の証拠として、ご自身の独り子を十字架の犠牲にかけられました。そして、その独り子の贖いと執り成しによって、人間に主なる神の赦しと救いを与えてくださったのです。誰かが過去、どんな罪を犯したとしても、現在、罪によって汚されているとしても、将来、自分も知らないうちに罪を犯すとしても、自分の罪を真に悔い改め、神の御前で新しい人生を誓うならば、主なる神はキリストの恵みによってその人を赦し、新しい人生を歩めるように導いてくださるでしょう。今日の話を始める際、お話しした「特別恩寵」が、まさにそれなのです。神は世のすべての存在に、太陽の光と雨と空気を、ただで与えられます。彼が悪い人であろうが、善い人であろうが、差別なくすべての人に与えてくださいます。これが「一般恩寵」です。しかし、そのすべての人々が主なる神の赦しを受け、救いを得るわけではありません。神が遣わされた独り子イエス・キリストの贖いを信じ、自分の罪を悔い改め、主に頼ってその方の民として生きようとする人には、キリストの執り成しによって神の子として、新しい人生を始めることができます。それこそが、特別な恩寵「アメイジング・グレイス」なのです。 犯罪を犯して社会から見捨てられた者も、キリストを通して真に自分の罪を悔い改め、自分によって苦しんだ人々に謝罪し、信仰にあって新しく生きようとするならば、神は主イエス・キリストの執り成しを通して、喜んで彼らを赦してくださるでしょう。幼い頃の傷のために世に出ることができず、部屋に引きこもっている者も、キリストに依り頼み、神に近づくならば、神は彼に改めて始める力を与えてくださるでしょう。若い頃の過ちで風俗街を転々としていた者も、事業の失敗に挫折してホームレスとなった者も、イエス・キリストに寄りかかって神に近づくならば、主なる神は彼らを差別せず温かく受け入れ、再び始める心と機会を与えてくださるでしょう。主なる神の驚くべき恵みは、今日も主イエス・キリストを通して私たちに限りなく与えられています。日差しと雨と空気がこの世の自然を豊かにするように、独り子イエス・キリストの恵みによって、誰もが神の前で再び始めることができるのです。主なる神は、彼らが滅びることなく、この地上で、また天の国で、そしていつか到来する神の世界で、永遠の生命を享受して生きることができるように、最後まで共に歩んでくださるでしょう。それこそが、神の特別な恩寵、驚くべき恵み「アメイジング・グレイス」なのです。 締め括り 最後に、今日の本文をもう一度読んで終わりたいと思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」今日、私の話だけでは、この一行の御言葉が持つ豊なメッセージをすべて解き明かすことはできないと思います。しかし、この御言葉を通じて、私たちに与えられた最も大事な教え、すなわち、神が人間を愛しておられること、その人間を救ってくださるために独り子を遣わされたこと、その独り子を信じ頼る者には滅びではなく永遠の生命が与えられることは、もう一度お伝えしたいと思います。長きにわたり信仰生活を営んでこられた方々、キリスト教信仰に興味を持ち始められた方々、長い間求道者として歩んでこられた方々、今日の御言葉の中に隠されている神の愛を今一度深く考える機会となれば幸いです。主なる神は、キリストを通して私たちを永遠に愛し、導いてくださるでしょう。

キリスト者の富認識

マラキ書 3章6~12節 (旧1500頁) マタイによる福音書6章19~21節(新10頁) 前置き お金や財産、すなわち「富」は私たちの日常生活と密接に関わっています。そして、信仰生活においても非常に重要な意味を持っています。富は、祝福と呪い、献身と堕落の境界線の上で、絶えず私たちの信仰を試す試金石のようなものです。この世は富を成功の物差しとするよう私たちを駆り立て、聖書は富への過度な執着を警戒しています。私たちは、このような相反する価値観の間で、どんな心構えを持つべきか、悩み考えなければなりません。本日は、富の根源と目的、そして原理についてお話ししたいと思います。この世を生きる上で必要不可欠な「富」。この富に対する正しい認識を持って生きるキリスト者であることを祈り願います。 1. キリスト教徒の富の根源 今日の旧約の本文を読んでみましょう。「まことに、主であるわたしは変わることがない。あなたたちヤコブの子らにも終わりはない。」(マラキ書 3:6)旧約聖書は様々な箇所で、私たちが主と崇める神が、この世のすべてのものを創造されたと証言しています。また、創造主である神が変わりのない御方であるとも証言しています。そして、今日の旧約聖書の本文であるマラキ書には、その不変の創造主がヤコブの子ら(イスラエル)の主であり、その神の不変性によって主の民であるイスラエルも終わらないと記されています。つまり、創造主である変わらない神の存在のゆえに、その民であるイスラエルも滅びないで保たれるということです。したがって、主なる神の民であるイスラエル、新約時代では主の教会、そしてその教会に属する私たちの根源は、まさに主なる神にあるのです。主無しには主の民もなく、主の御守り無しには主の民の生活も保たれないということです。エフェソの信徒への手紙2章に「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1:4)とあり、主なる神が天地創造の前から、すでにご自分の民を知り、選び召してくださったことがわかります。キリスト者は、主なる神という根源によってこの世を生きているのです。キリスト者の富への認識は、まさにこの地点から始まるのです。 「私のすべてのものは主から始まった。私自身を含め、与えられたすべてのものは主のものである。したがって、私の富も主からいただいた祝福の一部である。」これらが、キリスト者が持つべき富への正しい認識です。ところで、ここでいう富とは「莫大な財産」ではありません。小さいものであっても、自分に出来るすべての物事のことです。主は、そのうちの一部を主に捧げなさいと命じられたのです。その理由は、それを用いり、神殿礼拝に奉仕する祭司への扶養、神殿の営繕費、そして貧しい人々への救済金として使用するためでした。(申命記 14章28-29節、列王記下 12章4-16節) 主なる神はこの一部を受け取られ、そのほかは主の民の富として認めてくださったのです。ところが、マラキ書が記録された時期、イスラエルの民は自分の富の一部を主に捧げなかったようです。「人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながら、どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と献納物においてである。あなたたちは、甚だしく呪われる。あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。」(マラキ3:8-9) 2. キリスト者の富の目的 イスラエルは、自分の罪のため、主に裁かれ、バビロン帝国に滅ぼされました。その後、捕囚に連れられ、ペルシャ帝国の皇帝キュロスによって解放され、故郷に帰還しました。帰還した彼らは集まって悔い改め、主の神殿をかろうじて再建しました。莫大な財産がないにもかかわらず神殿を再建した理由は、神殿に主のご臨在があるという象徴性があったからです。また、十分の一の献げ物と献納物といった、主なる神への自分の富の一部の献げも行いました。しかし、時間が経つにつれてイスラエルの民の心は再び怠り、旧約聖書に明記されている主なる神に捧げるべき十分の一の献げ物と献納物を捧げなくなりました。それによって、当然ながら、神殿の営繕もまともにできず、レビ人の生活も困窮になり、何よりも他人の助けを必要とする貧困層の生活もさらにきつくなりました。主からいただいたすべてが主のものであるにもかかわらず、イスラエルの民は自分の富であるかのように、主に捧げるべきものを自分のものにしたのです。その結果は、不作などの主の裁きでした。これに対して主はイスラエルの民に告げられました。「十分の一の献げ物をすべて倉に運び、わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと、万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。」(マラキ3:10) 主なる神を試すというのはあり得ないことですが、主はご自分の約束を明確にされるために、ご自身をかけてイスラエルの民に十分の一の献げ物と献納物を要求されたのです。 自分のすべてのものが主のものであり、その中の一部を主にお返しするということで、富への正しい認識を持つことを、主なる神は望まれたのです。私たちの献金は、教会が裕福になるためとか、あるいは、牧師や長老などの教会の指導者がお金持ちになるためとかのためにするのではありません。この世の中には、莫大な献金を集めた裕福な教会や金持ちの牧師もいます。異端の中には当然多く、正式な教会の中にもそのようなケースがあります。その中には、金銭的な問題で信徒たちと対立したり、背任罪で裁判にかけられる教会指導者もいます。それらのことの原因は、富に人々の心が奪われて起こった可能性が非常に高いです。富の目的、教会では献金の目的は、教会や教会の指導者が金持ちになるためではありません。まず、主なる神がくださった私たちのものの一部を再び主にお返しすることで、主の主権を認めるためです。次に、教会という主の共同体が問題なく保たれるように、主の民が力を合わせて教会を支えるためにあるのです。第三に、教会だけでなく、私たちの助けが必要な人々のために、愛の心で教会が仕えるためです。主が私たちに富をくださった目的は、主がくださったこの富を通して、教会がこの地上で主の御業を代行するためです。ですから、私たちは富を集めることだけに興味を持つべきではありません。その富を用いて、主の愛がこの世に広がるように正しく使うべきです。それが主なる神が私たちに富を与えてくださった目的なのです。 3. キリスト教徒の富の原理 今日の新約聖書の本文を読んでみましょう。「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ 6:19-21) 主イエスは、地上に積む富の三つの属性を警告されます。「虫」は服や織物を傷つけ、「さび」は金属を腐食させ「盗人」は物理的な強奪者のことです。これは、世の富が持つ根本的な限界、すなわち「永遠ではない」ことを象徴しています。今日の虫とさびは何でしょうか。それは、急変する経済状況の中での資産価値の下落、技術発展による資産の旧式化、そして、コントロールできない病や災いによる資産の損失でしょう。どんなに頑丈で安全に見える財産であっても、結局この世の時間の中では消滅するか損傷するしかありません。私たちが持っているすべての富は、明確な終わりがあり、永遠ではなくいつか変わり得る有限なものだという意味です。富の限界をご存じのイエス・キリストは、だからこそ、こう言われるのです。「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」(マタイ6:20) 天に富を積むこととは何でしょうか。たくさんの献金を求めることでしょうか。決してそうではありません。これは、永遠の価値を持つ主の福音のために、私たちの富と時間とエネルギーを使うことです。具体的には、貧しい人々を助ける慈善、福音を伝える伝道、教会に仕える献身、そしてキリスト者にふさわしく生きることと言えるでしょう。私たちが隣人に施した奉仕、伝道に使った時間、礼拝のために捧げた誠意は、決して消えたり腐ったりしません。それがまさに、天の倉に安全に保管される真の富なのです。ですから、この新約の御言葉を「献金をたくさんしなさい」という意味で使ってはなりません。教会維持のために一定の献金はするとしても、統一教会のように何千億円もの献金を要求するのは盗みと変わりません。私たちは、自分の富の一部を主に捧げるという名目で献金し、残りは自分の健全な生活のために利用し、また隣人のために、伝道のために使うのです。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:21)富は私たちの霊的な温度計であり、私たちの心の方向を指し示す羅針盤です。私たちがお金を使う方法こそが、私たちがどれだけ主を愛しているか、どれだけ世に頼っているかを表します。天に富を積む生活は、単に富を切り離して捧げる行為を超えて、私たちの心の中心を主に移し捧げる霊的な訓練なのです。これがまキリスト者の富の原理なのです。 締め括り 富は大切なものです。私たちは他人に迷惑をかけないためにも、自分の富をよく管理しなければなりません。しかし、その富に心を奪われてしまってはなりません。私たちが持っている富を思うとき「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」という御言葉を必ず憶えましょう。イエス・キリストは、この世でおられる間、清貧に生きられました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイ8:20) それは、キリスト者なら、無条件に貧しくあるべきという意味ではありません。主は、父なる神の御業の成就のために、ご自身の富と名誉ではなく、神の栄光を見つめて生きられたからです。私たちは、主なる神くださった富をよく管理しながらも、その富を利用して主の栄光が現れる生活を過ごすために力を入れて生きるべきです。私たちの富があるところに、私たちの心もあります。富への正しい認識を持って生きていきましょう。

罪から赦される

イザヤ書59章1~2節 (旧1158頁)   ローマ信徒への手紙 1章18~32節(新274頁) 前置き近代初期、ボヘミア(現代のチェコ)のモラヴィア兄弟団という教派所属のある宣教師が、グリーンランドで17年間宣教活動をしました。彼は現地の文化と言語を深く学びつつ宣教に尽力しました。彼は親切で先住民とも仲良かったですが、誰も改心していませんでした。ある日、親しくしていた先住民の一人とイエス・キリストの死と罪の赦しについて語り合うことになりました。その会話のあげく、その先住民は自分の罪に気づき、悔い改めるようになりました。この出来事が転機となって、本格的な伝道が始まり、多くの人が改心しました。この物語は、罪への警告と赦しの恵みという福音の大事なメッセージを私たちに伝えています。 1.罪の影響 キリスト教は幸せな来世のための宗教ではありません。この世での富や名誉や自己省察のための宗教でもありません。イエス・キリストによって、天地を創造された造り主なる神と出会い、和解し、主と共に生きるための宗教なのです。ところが、この主なる神に出会うことを妨げる深刻な問題があります。それは人の罪です。今日の旧約聖書を読んでみましょう。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろ、お前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ59:1-2) 罪により、造り主から離れた人間が救いを得るためには、絶対に造り主なる神の御前にいなければなりません。御前にいるということは、主なる神と共に歩むという意味です。しかし、罪というものがある限り、人は主の御前にいることが出来ません。罪が主と人の間を隔てているからです。 実に主なる神は、どんな状況にあっても、罪人を救える十分な権能を持っておられます。しかし、人が罪を持っている限り、主は人をお救いになりません。主の御手が短いわけでもなく、主の御耳が鈍いわけでもありません。それにもかかわらず、主なる神は人に罪がある限り、その人をお救いになりません。なぜなら、罪は主なる神の性質と正反対であるからです。罪は、主と人の間の大きい隔てをもたらします。罪は人間を憐れんでくださる主なる神の御顔を隠すものです。罪は主の怒りと裁きをもたらす恐ろしいものです。罪の影響は、人が主に救われることが出来なくする結果、人が主に見捨てられる悲惨な結果をもたらします。人が自分の罪をきれいに解決しない以上、その人は絶対に救いを得ることも、主と共に歩むことも許されません。 2.罪の悲惨さについて。 ギリシャの哲学者、ソクラテスは「無知は罪なり」と語りました。ソクラテスは紀元前の人物で信仰者ではありませんが、この言葉には真理が隠れていると思います。罪からもたらされる惨めさの一つは無知です。罪人は、自分にどんな罪があるのか、何が問題なのかが分かりません。分からないから解決が出来ず、解決が出来ないから、救いに至ることも出来ません。今日の新約本文を読んでみましょう。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることが出来ます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」(ローマ1:20) 創造の時、主はすべての被造物がご自分について知るように、主の神性を示してくださいました。だから、罪のない状態の人間は、何事においても主の存在を知ることが出来ました。しかし、罪によって主の神性から離れた人間は、主を知らない存在となってしまいました。「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」(ローマ1:23) しかし、人間は本能的に、主の神性を認識しています。人間の本能がそれを証明します。「誰なのか詳しくは分からないけど、きっと全能者はいるだろう。」という漠然とした神認識はよくあることです。そのため、宗教が生まれたのです。しかし、人間は、罪のため、自分が願うものを神だと思い込んでしまいます。木、石を、獣、人を神にしてしまいます。日本は古代から太陽を神と崇めました。そこから生まれたのが天照大神ではありませんか。しかし、創世記1章は、はっきりと太陽を含むすべてのものが、主の被造物にすぎないと証しています。人間の罪は自分の罪への認識を鈍くさせ、真の神を冒瀆する偶像崇拝の罪までもたらします。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」(ローマ1:28) 罪のもとにいる人間への最も致命的で悲惨な主の裁きは、罪人を自分らの罪の中に放って置き、救ってくださらないことです。主がどのような形の憐みもくださらず、引き続き罪を犯すように放っておかれ、赦しなく裁かれるのです。つまり、永遠に見捨てられるということです。 3.罪を赦してくださるイエス・キリスト。キリスト教信仰において、人間は皆、罪人であるという教えは、受け入れがたい点の一つであるかもしれません。特に、凶悪犯罪を犯したことのない善良な人々にとっては、自分が罪人であると認めることがなおさら難しいでしょう。しかし、聖書(ローマ3:23)は「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」と述べています。罪とは、主が定められた基準、つまり「主の御心に聞き従い、神と共に歩むこと」を満たせない状態です。旧約聖書のアダムとエヴァが神を裏切って離れたという原罪以来、人は皆、この根本的な罪を抱えて生きています。罪人は、自分の力だけでは主なる神の要求を満たせず、罪を解決することも、主の赦しを得ることもできません。この状態が続くと、人は自然に罪のもとに生き、最終的には主なる神に見捨てられ、永遠の死を迎えることになるでしょう。 イエス・キリストがこの世に来られたのは、まさにこの罪の問題を解決してくださるためです。これが福音(良い知らせ)と呼ばれる理由です。主なる神から来られたイエス・キリストは、私たちの罪を赦してくださる方であり、人が満たせない神の要求を代わって満たしてくださる方です。私たちは、このイエス・キリストの罪を赦す力と、神の要求を満たす力を信じることによって、主なる神に赦しを得ることができます。キリストは私たちの過去、現在、未来の全ての罪を解決されるために、私たちに身代わって十字架にかかり、死なれました。そして、死から私たちを救い、神からの新しい命を与えてくださるために復活されました。イエス・キリストだけが、私たちを罪の結果である悲惨さから救い出す、神から遣わされた唯一の救い主であり、私たちに希望をもたらしてくださるお方であるのです。 締め括りパウロは今日の本文を通して、私たちにも罪があると教えています。私たちは、すでに救われ、主のもとにとどまっているのですが、罪ある人間ですので、主の民にふさわしくない行いをする時も多々あるでしょう。しかし、私たちが悔い改める時、主は私たちの罪を喜んで赦してくださいます。私たちがイエス・キリストを知り、信じるからです。私たちは、キリストの罪の赦しによって日々新たにされます。主イエス・キリストは私たちが悔い改めるとき、ご自分の贖いによって罪を赦してくださり、私たちが主なる神と一緒に生きるように導いてくださいます。志免教会の兄弟姉妹みんなが、このようなキリストの恵みに感謝し、毎日、罪を告白し、悔い改め、罪の惨めさから自由になり、主と共に歩んでいけるよう祈り願います。

世の国々を生きる神の民

イザヤ書11章6~8節(旧1078頁) テモテへの手紙一2章1~2節(新385頁) 前置き 先日、自民党の高市早苗氏が新総理に選出しました。今後、日本とアジアの平和のために素晴らしい政治活動をするよう祈ります。現代は一見平和に見えますが、決して平和とは言えない時代です。第一次、二次世界大戦が終わり、米ソを中心とした冷戦時代も過ぎ去りました。ソ連崩壊の時、人々は「もう戦争はないだろう」と思ったでしょう。しかし、現実は違いました。大小の戦争が続き、2020年代に入っても、ウクライナとロシアの戦争、中東の紛争、北朝鮮の核問題、米中の貿易対立が続いています。このような時代に総理となった高市氏の肩に重い責務があると感じます。それゆえ、日本の教会は国の指導者が正しい政治とリーダーシップで国政活動ができるよう祈るべきです。また、指導者が正しい道を歩めるよう、聖書の御言葉に基づいて、過ちには抗議を、正義には力添えをするべきです。今日は、世の国と主の民について、話してみたいと思います。 1. 神の国と世の国 元々、この世界は神の国として創造されました。神の国とは、物理的な領土や国家を意味するのではなく、主なる神のご支配が実現するすべての時空間を意味します。そして、はじめの神の国の中心には、最初の人間アダムがいました。主は全宇宙(神の国)の創造主でおられ、人間をご自身の子ども、そして、すべての被造物を代表して神を礼拝する祭司として創造されました。しかし、人間は主を裏切り、神の子であり、全宇宙の祭司である栄光の資格を剥奪されてしまいました。主を裏切ったその行為は人間の原罪となりました。その原罪によって、人間は一生、罪を犯しつつ生きることになります。最初の人間アダムの長男はカインでした。「カイン」はヘブライ語で「得る」を意味しますが、いくつかのセム系列の語族(ヘブライ語の親戚)では「鍛冶屋」を意味する場合もあります。つまり、カインは何かを得るために鉄を振るう者だったということです。創世記によれば、このカインは嫉妬心から弟アベルを無残に殺害したとあります。堕落したアダムの最初の息子は、自分の罪による悪のため、実の弟を殺してしまったのです。 その結果、カインは主に呪われ、追い出されてしまいました。その後、カインはエデンの東にあるノドの地に住むことになります。「カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。カインは妻を知った。彼女は身ごもってエノクを産んだ。カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた。」(創世記4:16~17)「ノド」は「さすらい、さまよい」を意味します。罪によって悪を犯してしまったカインは、真の主である神から離れ、自分自身が主となってさまようことになったのです。自分が自身の主になるということは、一見自由で自立のような感じですが、実は「糸の切れた凧」のように、何のために生きるのか、どう生きるべきかが分からない孤児のような有様にすぎません。カインは、そんな「糸の切れた凧」のような哀れな存在となったのです。そして、カインは、そのような自分自身を守るために「エノク」という町を築きました。エノクの意味は「新しい始まり」ですが、「主無き始まり」という悲惨な意味でもあります。こうしてカインは、主の無いさすらう人生で、自分が王となる町を建てたのです。ここから人間の国、すなわち世の国が始まったのです。 2. 神の国と世の国の違い それゆえ、世の国は「主の不在のため、自らを守るべき」という強迫観念から始まりました。この世界を創造された神、この世界に秩序を与えられた主、この世界のすべてを統治される主なる神が不在であるため、世の国は堕落した罪人の本性に支配されます。それゆえ、世の国は再びカインのように兄弟を殺す罪を犯します。自分を守るという名目で、兄弟である隣国を侵略し、領土を広げ、また別の国々と戦争します。それによって、数多くの男性が犬死にし、女性は蹂躙され、老人や子どもたちは犠牲になります。弱肉強食、これが世の国の理屈であり、生き残るやり方なのです。自分自身を守るために隣国を侵攻し、征服した国は、ますます大きくなります。そして、やがて「帝国」となります。古代中東のエジプト、アッシリア、バビロン、ペルシャ、西洋のマケドニア、ローマ、東洋のモンゴルや中国大陸の諸帝国。近代のドイツ、日本などの国々が他国を侵略しました。現代に至っては、アメリカや中国のような巨大国家が、経済力と軍事力を背景にして、他国へ圧力をかけています。 このように、堕落したカインから始まったエノクという町は、その後、帝国という形で巨大になり、そのカインの本性が今に至るまで受け継がれ、時代や国が変わっても、大きい国が小さい国を踏みにじる罪の歴史は絶えず続いてきたのです。これこそが、世の国のやり方なのです。しかし、神の国のやり方は異なります。これについては、イザヤ書11章が詳細に語っています。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」(イザヤ11:6~8) 神が遣わされたメシアが王であり、その下の民は、狼のような人も、小羊のような人と共に宿り、ひょうのような人も子やぎのような人も共に伏し、牛のような人も獅子のような人も共に平和に生きるところ。みんなが平和に生き、互いに愛し仕えあい、メシアが中心となる恵みの世界。これこそが、神の国の本質であり、主のご統治の方式なのです。 3. 神の国の根源 キリスト者は、主イエスの十字架の贖いと恵みによって、神の国の民として受け入れられた存在です。私たちはアダムとカインの子孫、すなわち世の国の民として日本人、中国人、韓国人に生まれましたが、キリストの恵みによって神の国の民へと移された存在です。ですので、私たちはアダムとカインによって始まった世の国に住んではいますが、そのアイデンティティは神の国の民なのです。そして、主イエスにあって、私たちの真の国籍も変わりました。日本人である以前に神の国の民であり、中国人、韓国人である以前に神の国の国民なのです。したがって、私たちはキリストにあって、国籍と民族と思想と文化を超え、キリストという共通点のもとに共に生きています。世の中は戦争を語り、征服を追求し、民族主義を前面に掲げますが、私たちはそのすべてに反対し、キリストにあって一つとなった神の国を語ります。主の御言葉に背かない限り、強い者は弱い者に力づけ、弱い者は強い者のために祈りるべきです。富んだ者は貧しい者を助け、貧しい者は富んだ者に協力すべきです。自分が中心ではなく、主キリストが中心であるため、みんなが互いに支え合って主のみもとに生きるべきです。それによって、皆が主にあって互いに愛し合うのです。それが主の民の在り方です。 この主の民の在り方、神の国のやり方は、キリストの十字架の血潮に基づいています。エフェソ書はこう述べています。「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」(エフェソ2:13~14) 初めに世界を創造された主なる神のお望みは、主の最高の被造物である人間によって、主に造られた世界が正しく統治され、その人間の正しい統治のもとで、全宇宙が主を礼拝することでした。しかし、人間の罪によって歪められた世界は、主を呪い、他者を押し付ける世の国へと変質してしまいました。しかし、キリストの十字架の血潮は、その歪んだ世界を癒やし、神と人間、人間と世界、神と世界の関係を正しくする種を撒きました。キリストの再臨まで、世界は依然として完全には癒やされないかもしれません。しかし、主の時が来るまで、キリストはうまずたゆまず世界を直していかれるでしょう。神の国と召された主の教会はキリストの手足として主の御業に用いられるでしょう。主と共に世の国のやり方を乗り越えて生きること、それこそが、主の民である私たちの生き方なのです。 締め括り 先日、テレビで高市総理とトランプ大統領との会談の報道が出てきました。困難な時期に総理として働き始めた高市氏の姿を見て、応援したくなりました。テモテへの手紙一 2章1-2節の言葉を心に留めたいです。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。」日本は世の国の一部です。しかし、私たちは神の国の民として、世話になっている世の国日本が、神の国の価値観にふさわしい国となれるよう、心から応援し、祈らなければなりません。教会は、権力者に盲目的に反対だけする存在ではありません。主の御言葉に基づき、正義の指導者のためには祈りで応援し、不義の指導者には神の御言葉を宣べ伝え、主の御心を表すべきです。それが主の民の正しい姿ではないでしょうか。今日の言葉に基づき、日本が神の御心にかなう正義の国とありますよう、新総理のために祈りましょう。それも教会の大事な務めだからです。

新たに生まれる

ヨハネによる福音書3章1~5節(新167頁) 前置き 私たちの「信仰」の証拠とは何でしょうか。教会に通うこ、それとも、受洗したこと、正会員となること、あるいは、教会で奉仕することが、私たちの信仰の証拠なのでしょうか。誰かは教会に通い、洗礼を受けることを信仰の証拠と思うかもしれません。また誰かは教会の正会員となり、長老や執事として教会に仕える働きを信仰の証拠だと思うかもしれません。信仰への追求や深さは人それぞれですから、第三者が一方的に良し悪しを判断することは望ましくありません。しかし、私たちが主と崇めるイエス・キリストは、今日の聖書の御言葉を通して、真の信仰者に求められるものについて語られました。それは新たに生まれることです。今日は、この「新に生まれること」という言葉について、一緒に考えてみたいと思います。 1. 真の信仰とは何か 信仰とは何でしょうか。私たちは、どのような経緯であれ、信仰を持つことになりました。そして、信仰によって、キリスト者というアイデンティティを携えつつ生きることになりました。しかし、多くのキリスト者は、「信仰」というものについて、明確な定義を下していないのかもしれません。信仰への明確な定義がないため、ある人は教会に出席することそのものが、ある人は洗礼を受けたことが(洗礼の本質ではなく、洗礼式という形式的な儀式)、ある人は教会の正会員となったことが、ある人は聖餐式という儀式に参加することが、ある人は長老や執事、教師になることが、自分の信仰を表すしるしであると思うかもしれません。しかし、果たして、それらが、私たちの信仰の本質を証明する手立てとなれるでしょうか。「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。」(ヨハネ福音3:1) 今日の本文に登場するニコデモという人物はファリサイ派の人で、ユダヤ人の宗教指導者の一人でした。聖書学者の中には、このニコデモが「サンヘドリン(最高裁判所)」のメンバーだったと推測する人もいます。サンヘドリンは祭司(サドカイ派)、律法学者(ファリサイ派)、貴族の長老たちで構成されたユダヤ人の最高権力機関であり、ファリサイ派のニコデモは、そのサンヘドリンの70人の会員の一人だったと思われます。つまり、彼はユダヤ社会の高い階級の人だったと言うことです。 「ある夜、イエスのもとに来て言った。ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」(ヨハネ福音3:2) 社会的にも、宗教的にも、政治的にも、何一つ不足のないニコデモが、なぜ、ユダヤ社会で活動を始めたばかりの若いラビであるイエスを訪ねたのでしょうか。彼は「夜」にイエスを訪ねました。社会的な地位の高い人が若いラビを訪ねるのに、人々の目を気にしていたからでしょうか。しかし「夜」という言葉が持つ意味を含めて解釈すると、彼が持っている名誉や権力、地位の中に真の光がなく、ただ空しさと闇だけを感じていた彼の心の状態を示す象徴ではなかったでしょうか。ニコデモは表面的には最高の宗教家でした。ユダヤ人たちは彼を信仰の模範として尊敬していたでしょう。実際、ニコデモはユダヤ社会で尊敬される人だったようです。しかし、彼は表面的な自分の姿に真の霊的な満足を感じていなかったようです。名誉も、権力も、地位も、いかなる宗教儀式も、彼の内面を満たすことが出来なかったでしょう。彼の人生は成功でしたが、実際には空しかったでしょう。彼は真っ暗な夜道を歩く人のように光を探し求めていたかもしれません。 そういうわけで、彼はユダヤ社会に新しい風を吹き起こしていたイエスを訪ねたでしょう。彼が来ると、イエスは彼の悩みをすでにご存知であるかのように言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ福音3:3) 悩んでいたニコデモに、主イエスは彼が探していた何かに対する答えをくださいました。それが「新に生まれること」だったのです。先ほど申し上げましたように、キリスト者は信仰についてそれぞれ異なる思いを持っています。教会に出席すること、洗礼を受けたこと、執事や長老となって教会に仕えること、教師になることなど、数多くの信仰の意味をめいめい心の中に持っているかもしれません。しかし、主イエスはニコデモを通して私たちに語られます。「表面的なもので信仰を証明することはできない。真の信仰は、新に生まれることにある。」毎週教会に出席し、洗礼を受け、聖餐に参加し、教会に仕え、キリスト者であることを示しながら生きることは、とても重要です。しかし、ヨハネ福音は、それだけが全てではないとはっきりと示しているのです。あたかもニコデモが名高いファリサイ派の人であるにもかかわらず、霊的不足を感じていたように。 2. 真の信仰の始まり – 新たに生まれること では「新に生まれること」とは何でしょうか。ニコデモ自身も「新に生まれる」という言葉に戸惑い、こう質問します。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」(ヨハネ福音3:4)「新に生まれること」という表現は、生き返ること、生まれ変わること、あるいは輪廻転生のような意味とは違います。ヨハネ福音における「新に生まれること」は、私たちの霊と肉はそのままで、霊的に新たになるという意味、すなわち私たち自身の生き方と心構えが変わることを意味します。ですから「新に生まれること」は、ニコデモの言葉のように、赤ん坊になって母の胎から新しく生まれることではありません。それでは、私たちはどうすれば「新に生まれる」ことができるのでしょうか。これについて、主イエスは次のように言われました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ福音3:5) 3章3節でイエスは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。そして3章5節では「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と言われました。 したがって「新に生まれること」とは「水と霊によって生まれること」と言えます。まず「水によって生まれること」の意味について考えてみましょう。聖書における「水」とは、大きく二つの意味を持ちます。一つは死、もう一つは清めを意味します。旧約聖書の出エジプト記で、イスラエル民族はエジプトから脱出し、カナンへ向かう途中、紅海を渡る体験をします。これは、エジプトの奴隷の身分だったイスラエルが水(紅海)で死に、清められ、新たなイスラエルへと「新たに生まれる」ことを象徴します。つまり「水によって生まれること」の意味は、罪に汚されていた自分に対しては死に、主の贖いによって、新たな自分として清められ、新しい生き方と心構えに生き始めることを意味します。キリストを信じ、昔の自分が持っていたすべての罪、悪を捨て、主なる神の御心に従って新しい人生を始めることなのです。古い人は偽りを言い、人を憎み、欲望にひかれ、主をないがしろにして生きていたとすれば、水によって新たになった人は、真実を語り、人を愛し、欲望を節制して神中心に生きるのです。水によって死に、清められ、新たに生まれるのです。その新たな人生の象徴として、私たちは洗礼式を執り行うのです。 しかし、洗礼式を行ったからといって、私たちの人生が大幅に変わるとは限りません。新しい心で信仰者の人生を始めたとしても、生きていく中で、再び自分の古い人が出る経験を、誰もがすると思います。だから、ヨハネ福音は「霊によって生まれること」についても語るのです。使徒言行録では、霊(聖霊)を「火」にたとえました。火は垂直に上へと燃え上がります。聖霊がイエス・キリストの贖いによって私たちに来られると、私たちの心を新たにさせ、上におられる方を指して垂直に燃え上がらせます。水によって象徴的に洗い清められた私たちは、火のような聖霊の御導きによって実質的に清めを受けます。聖霊が臨まれると、私たちの心には、主なる神への純粋な愛と善を行おうとする熱望が現れます。まるで火が上に向かって燃え上がるように、私たちの心も火のような聖霊によって、主なる神の御心に向かって自分の欲望を制御し、主の御心に合わせて生きることを願うようになるのです。使徒言行録2章で、気が弱く臆病だったイエスの弟子たちが、聖霊によって新たになり、大胆に福音を宣べ伝えた出来事を思い出しましょう。それこそが、聖霊によって新たに生まれた者たちの人生の変化であり、その活躍の一歩だったのです。 締め括り 「新たに生まれること」とは、主イエスの贖いと聖霊の導きによって、私たちの心と人生が完全に変わることです。今まで自分を世界の中心に置いて生きてきた生き方をやめ、主イエスを自分の世界の中心と生きること。自分の思いのまま生きるのではなく、主の御心を自分の中心に置き、主に従って生きること。それこそが「水と霊によって生まれた者」すなわち「新たに生まれた者」の生き方なのです。私たちは果たして、新たに生まれた者でしょうか。習慣的に教会に通うことに満足してはいませんか。イエス・キリストを信じる私たちは新たに生まれた者でしょうか。私たちにとって大事なのは、表面的な信仰の熱心さではありません。イエス・キリストによって自分は新たになったのかと内面的な自問自答が重要なのです。私たちの信仰の根本は、教会での活動や他人に見せる表面的な姿ではなく、主なる神と私自身の関係にあります。本当に主こそが私たちの人生の理由であり、キリストこそが私たちの真の主であり、聖霊こそが私たちの真の先生であると、心の底から認める人生。そして、そのような人生から湧き出る主と隣人への真実な愛。それらこそが、自分自身が新に生まれた者であることを証明するしるしではないでしょうか。自分は、果たして、主イエスによって、新に生まれた者かどうか、この一週間、自分自身に問いながら、過ごしましょう。

失敗した者へ

イザヤ書43章18∼19節(旧1131頁) ローマの信徒への手紙8章28節(新285頁) 前置き 聖書には数多くの失敗者の物語が出てきます。アダム、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデといった、多くの聖書の人物が主なる神の御心に適わず、失敗を経験してしまいます。また、イスラエル民族そのものも、主なる神への正しい信仰から離れ、失敗し、アッシリアとバビロンといった帝国によって滅ぼされてしまいました。主イエスの弟子たちも、主を見捨てる失敗を経験します。聖書は、数多くの失敗者の姿をありのままに示しています。しかし、聖書は、主なる神が彼らを決して見捨てられなかったことをも教えてくれます。私たちの人生にも失敗が訪れうるでしょう。しかし、主は失敗したご自分の民を再び立ち上がらせ、導いてくださる方です。ですから、主を信じる者には、失敗さえも恵みとなるのです。今日は、失敗した者を慰め、新たに始めさせてくださる主の恵みについて話してみたいと思います。 1. 失敗した民へ 主の民であるイスラエルは失敗した民族でした。主は創造の際、この世界を完璧に造られました。しかし、最初の人間であるアダムは、自分が主のようになることを願い、悪魔に惑わされて、主を裏切り、禁じられた「善悪の知識の木の実」を取って食べてしまいました。最初の人は主の被造物でしたが、主は彼がご自分の意志に操られる操り人形ではなく、自らの意志によって主に聞き従う自発的な存在になることを望まれました。それが主が人間に自由を与えられた理由です。しかし、アダムは主に逆らい、自分の欲望のために自由を勝手に使い、堕落して主に呪われてしまいました。このようなアダムの子孫は、祖先アダムのように、主の栄光ではなく自分の欲望のために生きる存在となりました。それが、人間の罪の根源なのです。それにもかかわらず、主はアダムの子孫と和解するために、一つの民族を召されましたが、それがイスラエルでした。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト記19:5-6)しかし、残念ながらイスラエルは「祭司の王国」になれませんでした。 祭司とは、主なる神と人をつなげる仲介の存在です。旧約聖書において、主なる神は祭司を通してイスラエルの民と会われ、また、イスラエルの民も祭司を通して、主の御前に立ちました。主がイスラエルを「祭司の王国」に召された理由は、イスラエルを用いられ、世のすべての国々が主と出会い、罪赦され、和解することを望まれたからです。しかし、イスラエルは結局、自分の使命を忘却し、他の国々と同じ道を歩んでしまいました。その結果、イスラエルは主を裏切り、不従順となり、偶像崇拝を犯して堕落してしまったのです。その裁きは、アッシリアとバビロンといった帝国によるイスラエルの滅亡でした。このようにイスラエルも自分の罪によって信仰に失敗し、滅びてしまったのです。しかし、主はこの失敗した民であるイスラエルを決して見捨てられませんでした。70年という時間はかかりましたが、彼らに再び故郷へ帰る恵みを与え、赦し、再び始めることを望まれたのです。そのイスラエルに対する主の御心が記された箇所が、まさに今日の旧約の本文なのです。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。」(イザヤ書43:18-19) 2. 人間の失敗 私たち人間は、主を知らないまま、罪人として、この世に生まれます。罪人として生まれた私たちには、最初の祖先であるアダムの罪の性質が潜んでいます。世の中には、性善説、性悪説、無善無悪説といった東洋哲学があります。まず、性善説は、人間の本性は生まれながらにして善であると見る立場です。古代中国哲学者の孟子が主張した説で、人間は先天的に善に生まれるが、後天的な環境によって悪を持つとの説です。次に、性悪説は、人間の本性は生まれながらにして悪であると見る立場です。古代中国の荀子が主張した説で、人間は利己的な欲望を持って生まれ、これをそのままにおくと社会的な混乱をもたらすとの説です。善は後天的に習得するという立場です。最後に、無善無悪説は、人間の本性は生まれるときに善でも悪でもないと見る立場です。古代中国の告子の主張で、人間は生まれながらに善または悪の性質を持つのではなく、後天的な環境、教育、修養などによって決定されると見る立場です。このうち、性悪説が聖書が語る人間像に最も近いですが、それでも性悪説は人間に善があり得ると見ています。人間にわずかな希望をおく説なのです。 しかし、聖書は、人間に善などなく、自力で善を行うわずかな可能性もないことを力強く証言しています。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって」(創世記6:5)「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。」(エレミヤ書17:9) 「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ書3:10-12)「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」(ローマ書7:18)つまり、聖書は罪を犯して堕落してしまった人間存在そのものが失敗であると語っているのです。しかし、私たちは全能なる神に失敗がないことを信じています。最初の人間は自分の罪によって失敗し、その子孫たちも祖先から受け継ぐ罪の性質によって失敗しましたが(罪人)、それにもかかわらず、決して失敗しない主なる神は、人間を失敗から救い出し、正しい人生を歩めるように導いてくださいます。私たち人間は、罪によって失敗した存在として生まれました。しかし、主は人間を失敗の中に放っておかれず、救いの手立てを与えてくださいました。 3. 失敗を恵みへと変えてくださる主 失敗した者をそのままに置かれず、生かし、良い道へと導いてくださるために、主なる神がくださった手立ては何でしょうか。失敗した者、つまり罪人のために、主が成し遂げられた輝かしい御業は罪と失敗から抜け出し、再び始めることができる贖いの根拠を造られたことです。それは、救い主イエス・キリストのご到来です。主は人間を創造されたとき、この世のすべての被造物よりも優れた大事な存在として造られました。人をご自分のために奉仕する奴隷ではなく、子どものような、被造物の中で最も優れた存在として造られたのです。主は、その人間に失敗の可能性があるにもかかわらず、人間自ら主を従うことを望まれたゆえに自由意志をくださったのです。そのような主のご配慮と愛にもかかわらず、人間は罪を犯し、失敗の道へと進んでしまったのです。しかし、主は堕落して死に値する人間を決して見捨てられませんでした。人間を罪と過ち、失敗をそのままにおかれなかった主は、三位一体の一位格である御子なる神に肉体を与え、人としてこの世に遣わされました。 真の神である御子なる神は、一人の女の人の体を通して生まれ、神の人間を完全に仲介できる存在(仲保者)となられました。彼には真の神としての神性と真の人間としての人性があり(神でありながら人間でもあったため)、堕落した他の人間の身代わりとなることができる資格を持っておられました。この御子なる神、すなわちイエス・キリストが、ご自分の血によって、失敗した罪人の身代金を代わりに払い、ご自身の死をもって罪人たちの失敗を挽回させるために、この世に来られたわけです。そして、イエス・キリストは、人の罪を代わりに担って主なる神の裁きを受け、十字架で死に、最終的に復活されました。これによって、罪人の罪は、主イエスの贖いのもとで完全に解決されたのです。これが、先ほど申し上げた失敗した者をそのままにおかれず、生かし、良い道へと導いてくださるための主なる神の御業です。主イエスを信じる者、そのもとにとどまる者は、このイエスによって罪赦され、失敗した者という汚名から解放され、主にあって再び始めることができるという贈り物を受けます。これこそが、キリストによって私たちに与えられた救いであり、恵みなのです。 締め括り 私たちは生きていきながら、失敗を経験します。人生が揺らぐほどの大きな失敗もあり、日常の小さな失敗もあります。失敗に遭うと、挫折したり、絶望したり、落胆したりします。しかし、イエス・キリストのもとにある私たちは、すでに最も大きな失敗である罪から解放された存在です。私たちは、イエス・キリストの救いによって、永遠に死ぬべき罪人という最も大きな失敗から解放され、キリストと共に正しい道へと進んでいる存在です。ですから、失敗に遭ったとき、挫折し、絶望し、落胆しながらも、根本的な失敗を解決してくださったイエス・キリストの恵みを覚え、今でも主が私たちと共におられることを思い起こしたいです。むしろ、今の失敗は、人生の養分として、私たちの血と肉となるでしょう。ローマ人への手紙はこう語ります。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ書8:29) 私たちの失敗でさえ、主にあって益となり、私たちに戻ってくるでしょう。キリスト者にとって、失敗はただの失敗ではありません。それは、主によって必ず恵みとなってくるでしょう。

命の水が湧き出る

ゼカリヤ書14章6~9節(旧1494頁) ヨハネによる福音書4章3~14節(新169頁) 戦後、堀田(ほった)綾子は思いも寄らない結核にかかり、十数年の長い闘病生活をすることになりました。長い間の病気による虚無主義で、生の理由を失った彼女は死ぬのを願っていました。そんな時、同じ病気を患っていた幼なじみの前川という男の人は献身的に彼女に仕えました。彼はキリスト者でした。堀田は彼の仕えにより、異性との恋を超える真の愛に気づきました。将来、堀田はこのように彼を振り返りました。「わたしはその時、彼の愛が全身を刺しつらぬくのを感じた。そしてその愛が、単なる男と女の恋ではないのを感じた。私はかつて知らなかった光を見たような気がした。彼の背後にある不思議な光は何だろうと思った。」堀田は前川の信仰と生涯を憶え、病床で文章を書きました。困難な人にキリストによる希望と愛を伝えようと誓いました。それが偉大な小説家三浦綾子の始まりでした。 1.疎外者を探しておられる主 戦争直後の日本は、まるで疲弊な病人のような状態でした。この時期、結核にかかっていた三浦綾子も、戦争のため、疲弊となった戦後日本のように、病を経験していたのです。ところが、日本のキリスト教は、こんなにつらい時代、爆発的に成長しました。慰めと癒しがほしい時代に、アメリカから宣教師たちが来日し、また日本の教会によって、多くの人々がキリスト教の信仰を受け入れたのです。三浦綾子もそんな時代に、一人のキリスト者の献身によってキリストに出会い、偉大な小説家となったわけです。そのためか、三浦綾子の病気と戦後の日本が重なって見えてきます。虚しさと悲しみにさらされていた三浦綾子は友人の前川からの愛により、イエスに出会い、主イエスは弱まった彼女に光を照らしてくださいました。戦後の痛みと虚しさに陥った日本でも、福音によって多くの人々がイエスを信じるようになったのです。主イエスの御心は最も低いところにあります。主はそのような御心をもって三浦綾子を訪れ、彼女に信仰をくださったのです。戦争という悲劇の後、日本に多い信仰者が生まれたのも、そのような主の愛と無関係ではないでしょう。今日の本文、ヨハネによる福音書には、疲弊して苦しんでいる女の人が登場します。 彼女は当時のユダヤ人に不浄に扱われていたサマリア出身で、5人の夫とつぎつぎ離婚し、今では夫でない人と暮らしていました。サマリアは北イスラエルが滅ぼされた時代、アッシリヤ人の政策によって異邦人と混血した地域でした。異邦人を極端に嫌っていたユダヤ人から、サマリアは正統性も純粋性もない不浄な所にされていました。その中でも五回の離婚、結婚関係ではない人と同居している彼女は、どれだけ批判されていたでしょうか。ところが、ダビデの子孫、真のユダヤ人イエス・キリストは、わざわざ彼女の所を訪れてくださいました。主イエスが不浄なサマリアに行かれ、その中でも嫌われる女に手を差し伸べたというのは、常識を破るあり得ないことでした。「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。」(ヨハネ4:6)近東の正午ごろは40度を上回る暑さで、誰も外に出かけない時です。そんな時、近所から疎外された女は他人の目を避け、その暑い時、密かに水がめを持って出てきたのです。水を汲むために出てきた彼女は井戸のそばにかけておられるイエスと出会いました。主イエスは誰も訪れない、その女に出会い、清めてくださり、御言葉をくださるために来られた神の子でした。 2.不浄な者を探しておられるイエス。 今日の旧約本文は偶像崇拝のゆえに裁かれたイスラエルの民が主からいただいた言葉です。「その日、エルサレムから命の水が湧き出で半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。」(ゼカリヤ14:8-9)主に裁かれたイスラエルですが、主が裁きを免れる道と恵みとを与えてくださるという祝福と約束です。主は、ご自分の民の不浄を決して許されない方ですが、しかし、罪を謙虚に悔い改め、主に立ち帰れば、必ず赦してくださる方です。そして、彼らにまた命の水とをくださる方です。今日の新約本文で主はユダヤ人に蔑視されたサマリア人、その中でも、さらに軽蔑された井戸の女を訪れてくださいました。王宮でも、神殿でもない不浄な地に来られたのです。そして、彼女に「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で父を礼拝する時が来る。まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」と希望の言葉を通して、その女を礼拝者として招かれました。 主は不浄な者を断られる方ではありません。自分の罪を認め、悔い改める者、主なる神に希望をおく者に、喜んで新しい機会を与え、再出発するように助けてくださる方です。すべての人に嫌われたサマリアの女は、不浄な出身という人種的な差別、不浄な女という社会的な差別、自分自身を批判する罪悪感に苦しんでいましたが、だからこそ、主イエスはさらに彼女を訪れられたわけです。エルサレムからガリラヤに行く時、通常ユダヤ人たちは地中海側の道、或いは東側のヨルダン川に沿って北に上がっていきました。つまり、わざわざサマリアを避けて行ったということです。しかし、主イエスはわざわざサマリアを通られました。なぜでしょうか。まさにこの女に出会うためでした。主はわざわざ最も疎外された所、最も不浄な所を探し訪れる方です。不浄を清める主の力を通して、どうしようもない罪人を赦され、彼らが疎外から脱出し、主を礼拝することが出来るよう新たに生まれ変わらさせてくださるためです。主イエスは不浄を清め、新にしてくださる命の水そのものでした。 3.主なる神と和解させてくださるイエス 神が主イエスを遣わされた理由は、主イエスにより、人の中から湧き出る命の水を通して、神から遠ざかった存在が霊的な渇きを癒し、罪を洗い、イエス・キリストを通して御父の御前に立つことが出来るよう、道をくださり、力をくださるためです。主イエスを通して、人を招かれる理由は、その人が主なる神に礼拝できるようにしてくださるためです。礼拝という言葉はπροσκυνέω(プロスクィネオ)というギリシャ語の翻訳です。プロスは「 – に向かって」で、クィネオは「口付ける」という意味です。併せて「誰かに口付ける、誰かにひれ伏す」という意味になります。ところで、面白いのは、クィネオの語源である「クィオン」の意味です。クィオンは犬という意味ですが、クィネオという言葉は主人の手を舐める犬の姿に由来したそうです。 この原文の意味から思ったのですが、主イエスが来られ、命の水をもって私たちを清めてくださった理由は、主なる神の手に口付けることが出来る清い存在として、私たちを生まれ変わらせてくださるためではないかとのことでした。もし、野良犬が手をなめたとしたらいかがでしょうか。噛まれるかもと心配するでしょう。しかし、愛犬が手をなめるとどうですか。頭を撫でて可愛がるでしょう。イエス・キリストを信じるということ、命の水である主によって清められたということは、いつ主なる神に近づいても拒まれない存在となるということではないしょうか。私たちが礼拝できるというのは、この主なる神との関係に壁がなくなるということです。主イエスは、疎外される者、不浄な者を召され、新たにされ、御父と和解させてくださる命の主です。私たちがどんな人生を生きてきたにせよ、主は私たちと一緒におられ、私たちを清めてくださり、ご自分を通して父なる神に堂々と礼拝することが出来るようにしてくださいます。 締め括り 今日も主イエスは疎外された者、不浄な者、罪人を探しておられます。そして、キリストの中にある命の水を惜しげもなく注いでくださる方です。主の命の水を通して霊的な渇きが癒され、主の命の水を通して霊的な清めが成し遂げられます。そのような新たになることにより、罪人は天の御父の御前に堂々と進むことが出来ます。今日の新約の本文で、サマリアの女を助けてくださったイエス・キリストは、今でも私たちと一緒におられます。疎外を感じる時、罪悪感の時、一人ぼっちとなったような時、私たちと喜んで一緒におられる主イエスを憶え、主の慰めと愛に寄り掛かり、主と共に歩む志免教会であることを祈り願います。

ほかの福音はない

ラテヤの信徒への手紙1章6~10節(新342頁) 前置き 現代は「多様性の時代」です。時代の移り変わりにつれて、かつて絶対的だったものの影響力は薄くなり、新しく多様なものが次々と生まれています。私たちが生きる日本社会にも、かつては日本人だけが共有する絶対的な価値観や感情があったはずです。しかし、現代のグローバル化は、そうした日本特有の価値観や感情とはまた異なる思想や文化をこの社会にもたらしました。その結果、社会には多様性が生まれたのです。新しく生まれた様々な価値観が昔の伝統的な価値観と衝突しながら、世の中は変わっていきます。もちろん、昔の伝統的な価値観が全て正しいとは言えません。多様性によって、悪い仕来りは消え去り、新しくて良い価値観が生まれるべきです。差別がなくなり、他者の存在が認められ、その中でこの世は平和になるべきです。しかし、一方で、決して変わってはならない伝統的な価値観もあります。多様性を認めながらも、必ず守るべきものは守らなければなりません。私はここで、日本だけでなく、世界において決して変わってはならない、最も伝統的で唯一の価値観について話したいと思います。それは、キリストの福音です。 1. 福音に対する一つの見解 「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」(ガラテヤ1:6)皆さんは、すでに福音についてある程度、神学的に理解しておられると思います。「キリストによる救い、永遠の命、罪の赦し」など、長年、教会に通いながら福音について知識を蓄えてきました。ところで、今日の本文6節も福音への知識を加えてくれます。「キリストの恵みへ招いてくださった方」私は福音にこの一つも加えたいです。「キリストの恵みによって私たちを招かれた主なる神と共に歩むこと」つまり、キリストを通じた神のお呼び出しによって神と共に歩むようになったこと、それこそ「良い知らせ」である福音の中身であり、救いではないでしょうか。人間の最も根本的な罪は何でしょうか。人をいじめること、人の物を盗むこと、人を傷つけること、これらのことでしょうか。もちろん、それらも罪なのですが、最も根本的な罪は「真の主である神を知らないこと、知ろうともしないこと、その方から離れること」と言えます。上に並べたいくつかの罪は「神を知らない人の霊的状態」から生まれる罪の結果だからです。すなわち、根本的な罪は神を離れ、神無しに、自分自身が人生の主となることです。 初めての人間アダムの堕落は、神がいなくても構わないという発想から始まりました。善悪を知る樹の実を食べて神のようになれという誘惑に負けてしまったからです。それは「神なしで自ら何かをする」という望ましくない意志から始まったのです。この世は「自発的に、自己主導的に人生を開拓していく」ことを強要しています。神の存在を否定する世なので、自らが主人として生きることを勧めるのです。そのため、主なる神を知らない人たちは「自分の努力で救いを得る」という誘惑に陥りやすいです。「多くの善行、莫大な寄付、情熱的な宗教行為、周期的な奉仕、深遠な悟り」などなど、キリスト以外のものを通して救いを得ようとするのです。そして、自分自身が救いの主体となり、一生自分中心的に救いを探してさまようのです。しかし、聖書ははっきり述べています。「キリストの恵みへ招いてくださった方」、人間の行為や努力ではなく、キリストの救いと神の御導きによってのみ、一方的で圧倒的に救いを得ることが出来るということを。これはガラテヤ書を書いたパウロの思想でもありました。「救いは人間の内から生まれない。ひとえに、人間の外からのキリストの恵みによってのみ与えられる。」福音は「キリストの恵みによって私たちを招かれた主なる神と共に歩むこと」です。 そこに真の救いがあります。それ以外はほかの福音は偽りとなってしまいます。 2.ガラテヤでおこったこと 「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」(ガラテヤ1:6) さて、今日の本文の舞台となるガラテヤ地方の教会で、何が起こっていたのでしょうか。パウロが伝えた「キリストの恵みによる福音」つまり、私たちの行いではなく、キリストへの信仰のみによって救いを得るという教えが、否定されていたのです。当時、イスラエル地方や小アジア(現在のトルコ)を巡回しながら律法を教える教師たちがいました。彼らはユダヤ出身でユダヤ教の影響、つまり「律法の行いを守ることによって義とされる」という教えを強く受けた人々でした。彼らはガラテヤ地方の教会に来て、こう教えたのです。「イエスを信じるだけでは不十分だ。律法の行いも守らないと、真の救いは得られない。」パウロが伝えた福音は、あまりにも明快でした。「神が与えてくださった唯一の救い主イエスを信じる信仰によってのみ、救いを得る」これこそが、真の福音です。しかし、当時の哲学や神学の影響を受け、複雑で深遠な教えを求めていた巡回教師たちは「キリストを信じるだけで救われる」という明快すぎる教えに満足できませんでした。そこで、彼らは「別の教え」を付け加えようとしたのです。その結果が、「イエスを信じるだけでは不十分だ。律法の行いも守らなければ救いは得られない」という教えになったのです。これはキリストの一方的で圧倒的な救いの御業を否定し、人間の努力や行いが必要だという考え方でした。それは、福音の核心そのものを否定する偽りでした。 「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」(ガラテヤ1:7∼9)パウロは、このガラテヤの教会に送った手紙を通して「神がくださった、たったお一人の救い主イエスを信じることによってのみ救われる」という真の福音、これ以外のいかなるものも偽りの教えであると、繰り返し「呪い」という厳しい表現をあげて、断固として警告しました。キリストのみによる救いを否定するいかなる教えも(それが、どんなに美辞麗句であり、もっともらしく聞こえる教えであっても)明確な偽りであり、正しくないものであると警告したのです。例えば、日本においても、キリスト教系の異端があります。九州地方では「原始福音・キリストの幕屋」がよく知られています。彼らは旧約聖書の「幕屋」の構造や祭儀を、人間の「魂」と「救いのプロセス」にたとえて、キリスト教の根源に立ち返るべきと主張し、自分らの福音を「原始福音」と呼んでいます。しかしながら、彼らの教えは、この「幕屋」に偏りすぎてしまい、イエス・キリストの十字架と復活による救いというキリスト教の最も核心となる教えから逸れているのです。それが問題です。 3.福音には多様性がない その外にも、韓国からの統一教会や新天地なども、主イエスの福音を歪めて悪質な教えを伝え、人々を惑わしています。先ほど、現代は多様性の時代だと申し上げました。数々の外国人が来日して暮らしており、様々な外からの文化が入っています。伝統的な価値観と新しく多様な価値観が衝突し、新しい価値観が生まれる時代です。しかし、そんな時代にあっても、私たちは昔から受け継いできた守るべき伝統を、必ず守っていきなければなりません。特にキリスト者にとっては、変わらない福音「キリストの恵みによって私たちを招かれた主なる神と共に歩むこと」を、この多様性の時代にあっても、必ず堅く守って生きるべきです。キリスト以外のいかなる存在にも救いの権限を許されなかった主なる神の御心を憶え、他の存在、行い、熱心、献金、活動などによるのではなく、ひとえにキリスト・イエスへの信仰と、その方のお赦しによってのみ、私たちの救いが成し遂げられるということを忘れてはなりません。少なくとも、福音には多様性がないということを心に刻み、信仰生活を続けていきたいと思います。時々、異端の人々が、家に訪問して、声をかけることがあります。そんな時、戸惑ったり、冷たく対応したりするのではなく「私はおひとりイエス・キリストによってのみ救われることを確信する日本のキリスト教会の教会員として神さまと共に歩んでいます。」と、私たちの信仰をはっきり示してはいかがでしょうか。今日、パウロが自分の福音への思いをはっきり語ったように、私たちも偽りを恐れず、真の福音を大胆に伝える勇気をもっていきたいと思います。 締め括り 最近、日本と韓国の社会で大きく物議を醸した統一教会の教祖、韓鶴子(ハン・ハクチャ)さんが韓国で逮捕されました。理由は政治と宗教の癒着による不正のためです。 2022年7月にも統一教会問題によって安倍晋三元首相が銃撃で亡くなる事件がありました。韓鶴子さんは裁判を受けながら、自分が「平和の母」だと主張しました。そして、神の一人娘だとも主張しました。世界中の数十数百万の人々が統一教会の偽りの教えにだまされ、金銭と時間と健康を無駄遣いにしてしまいました。私たちは絶対に、そのような偽りにだまされてはなりません。私たちに許された唯一の救い主、唯一の頭は、主なる神から遣わされたイエス·キリストおひとりだけであり、日本キリスト教会志免教会はひたすらその方だけを私たちの頭として信じているのです。その他に福音はありません。福音は唯一です。「キリストの恵みによって私たちを招かれた主なる神と共に歩むこと」「神が与えてくださった、たったお一人の救い主イエスを信じることによってのみ救われる」という変わらない福音を堅くつかみ、正しい信仰生活を営んでいく志免教会の兄弟姉妹でありますよう祈り願います。

私たちのいるべき場所

出エジプト記 2章11~25節(旧95頁) ローマの信徒への手紙14章8~9節(新294頁) 前置き イスラエルの先祖であるヤコブとその一族は、主なる神の御導きにより、ひどい飢饉を避けてエジプトに移住しました。ヤコブの子孫はエジプトで栄え続け、数十万人の民族に成長しました。しかし、ヤコブの時代の友好的なエジプトの王朝が滅び、他の王朝が復権して、ヤコブの子孫イスラエルに大きな試練が迫ってきました。しかし、それはイスラエルを滅ぼすための試練ではなく、それによって目を覚まし、主と先祖の約束の地、イスラエル民族のいるべき場所であるカナンに導かれる主なる神のご計画でした。主の民にはいるべき場所があります。いくら満足し、安らかなところにいるといっても、主のみ旨に適わない場所なら、そこはキリスト者のいるべき場所ではありません。主の民のいるべき場所ではなく、主と関係のない自分の罪の本性が願う場所にいる時、主は試練と苦難を装った御導きによって、ご自分の民の目を覚まさせ、主が備えてくださる場所に立ち戻る準備をさせてくださいます。出エジプト記は「主の民のいるべき場所」についての物語なのです。 1. 主の御業は人間の手によっては成し遂げられない エジプト王のイスラエル民族への弾圧を避け、ナイル川に捨てられた赤ちゃんモーセはファラオの王女に拾われ、エジプトの王宮に入りました。幸いにも、モーセは主の恵みによって実母を乳母に育つことが出来、「ヘブライ人」のアイデンティティを失わずにエジプト人として成人するようになりました。王女の息子モーセは当時の高級学問を学んでエリートとなり、エジプト社会で無視できない存在となりました。モーセはヘブライ人とエジプト人の境界にいる存在でした。おそらく、そんな位置だったモーセは、自分がヘブライ人を政治的に救う人物だと思い込んでいたかもしれません。彼だけがエジプトでの権力とヘブライ人への理解が両立する人だったからです。「モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。」(出2:11-12) しかし、そんなモーセの情熱が問題となってしまいました。ヘブライ人を助けるために、エジプト人を殺してしまったからです。彼はエジプト人の遺体を沙に隠し、なかったことにしようとしました。 「翌日、また出て行くと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが、どうして自分の仲間を殴るのかと悪い方をたしなめると、誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりかと言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った」(出2:13-14)モーセが再びヘブライ人のところに行き、争いを仲裁しようとした時、一人がモーセに言い返しました。「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」誰も知らないと思っていたのに、多くの人がモーセの殺害を知っていたわけです。ヘブライ人ではあるが、後ろ盾の王女によって、エジプト社会の一員となったモーセ。しかし、エジプト人殺害によって彼に敵対していたエジプトの何人かの権力者たちは、彼を攻めようとしたでしょう。だけでなく、ヘブライ人も彼を認めませんでした。そこでモーセは持ちこたえられず、エジプトから逃げてしまいました。モーセは自分の背景と権力を用いてヘブライ人の指導者になり、イスラエルを解放させようとしていたのかもしれません。彼には力と知識があったからです。しかし、彼の自信は、むしろ自分の計画を潰す障害となってしまいました。意気揚々だった彼は、一晩にエジプト人にも、ヘブライ人にも、認められない逃亡者になってしまったのです。 以上を通じて、私たちは主なる神の御業の成就について学ぶことが出来ます。主の御業は人間の情熱や力によって成し遂げられるものではありません。私の大学生の頃、韓国の教会では「高地論」という言葉が流行しました。文字通りに「キリスト者が社会の高い位置を占め、社会を変革する」という思想でした。ところが、二十数年たった今、韓国の教会はその社会でそんなに評判ではありません。一部のことですが、元大統領の不正にかかわった疑惑もあります。恥ずかしい現実です。また、日本の教会にも、高地論のような思想があるかもしれません。数年前、金子道仁という牧師が参議院議員に当選しました。他教派ではかなり人気だったと覚えています。彼を支持するキリスト者の中には、彼が高い位置に上がって日本社会に大きい影響を及ぼすだろうと、日本の教会の希望であるかのようなニュアンスで支持する人もいました。私個人も金子さんがとても立派な方だとは思いますが、彼によって日本社会が変革したとは言えません。世界を変えるというのは、特別な一人に託されるものではありません。唯一主なる神だけがご自分の御手を通して、御心によって成し遂げられる事柄です。教会は、そのために主の手と足として用いられるだけで十分です。もし教会が神の御心と関係なく自分で世を変えようとしたら、今日の本文のモーセのように困難な目にあってしまうかもしれません。 2. 主の御業は御心に基づいてのみ成し遂げられる。 だからといって「教会は何もしなくて良いから」という意味ではありません。先の金子道仁さんのような政治家は参議院議員という自分の場所で、また、志免教会のみんなは、めいめい日常の場所で、主に命じられた神と隣人への愛、そして福音伝道に努めていけば良いと思います。そのような日常の中で、主はご自分の御心に基づき、教会を用いられて世界を変えていかれるでしょう。私たちに出来るのは、主の御言葉に聞き従いつつ、日常を生きることだからです。「ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めたが、モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした。」(出2:23-25) エジプトから脱出したモーセは、ファラオの脅威を避け、ミディアン地方へ逃走しました。ミディアンは現在のアラビア半島の北西部を意味しますが、牧畜をしながら、流浪する、アブラハム系の一族の名でもありました。ミディアン地域は砂漠であるため、羊の餌が足りず、頻繁に移動しなければなりません。つまり、モーセは大帝国での落ち着いた生活から離れ、決まった場所なく、移動し続けなければならない不安定なミディアンでの生活へと、その居場所が変わったのでした。 「モーセがこの人のもとにとどまる決意をしたので、彼は自分の娘ツィポラをモーセと結婚させた。彼女は男の子を産み、モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼がわたしは異国にいる寄留者(ゲール)だと言ったからである。」(出2:21-22)ミディアンの祭司の配慮で落ち着くようになったモーセは、以後「ツィポラ」という名の妻をめとり、息子「ゲルショム」をもうけました。そうして、モーセはエジプトのエリートからミディアンの平凡な羊飼いへと、その位置が変わったのです。もはやモーセには昔の権力も地位もありませんでした。しかし、皮肉なことに彼がこんなに普通の人になった時、主なる神は彼に現れ、イスラエルの指導者に立ててくださいます。先ほど前置きでお話ししましたように、キリスト者には自分のいるべき場所があります。モーセはエジプトの王子のように育ちましたが、そこは彼の居場所ではありませんでした。モーセは自分の権力と知識でヘブライ人を導こうとしましたが、そこも彼の居場所ではなかったのです。彼の居場所は剣を持った政治的な指導者ではなく、杖を持ったごく平凡な羊飼い、このミディアンでの生活でした。しかし、彼がそうなった時はじめて、主なる神は彼を訪れて来られたのです。 「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。」(出2:23-25) そして、昔モーセがやろうとしたイスラエルの指導者の業を、主は改めて彼にお委ねになりました。40歳ごろ、モーセが情熱と血気で目指したイスラエルの解放は、実は神の御業ではありませんでした。それはモーセ自身の業だったのです。しかし、モーセがミディアンの羊飼いとなり、何の力もなくなった時、主なる神はイスラエルの先祖たちとの契約を思い起こされ、80歳の羊飼いモーセを召され、主の御業に招いてくださったのです。つまり、主の御業は主の時に、主のご意志によって成し遂げられるということです。また、主の御業は、人の意志や情熱ではなく、ご計画と約束によって、私たちに与えられるものです。重要なのは「私たち自身の情熱」ではなく「主なる神の御心」ということです。教会のあり方は徹底して主の御心に自分の歩みを合わせることです。そして、その主なる神がご自分の手を差し伸べられる時、教会は喜んで御手の道具として用いられるべきです。 締め括り 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ書14:8) 前置きで「キリスト者には自分のいるべき場所がある」と申し上げました。モーセは王宮での王子のような生活ではなく、荒野の羊飼いのような生活の中で、主なる神に出会い、真のイスラエルの指導者と召されました。人の目にはみすぼらしいミディアンの荒野が、主の御目にはイスラエルの指導者がいるべき最適な場所だったのです。私たちも時には、今こそ我が教会が動く時、あるいは何とかやらなければならないと気を揉む時があるかもしれません。しかし、そのたびに私たちは思い起こさなければなりません。今現在、自分がいるべき場所はどこか。自分のやるべきことは何か。「自分のために生きるのではなく、主のために生き、死ぬ人生」を憶え、私たちのいるべき場所を憶える一週間を過ごしてまいりましょう。

主の御名

出エジプト記3章13~15節(旧97頁) ヨハネによる福音書8章58~59節(新184頁) 前置き 1。「わたしはある」という言葉の意味。 「モーセは神に尋ねた。わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」(13) 出エジプト記で、エジプトの奴隷だったイスラエル民族を解放のために、主はモーセを召されました。その時、モーセは神にお聞きしました。「主が私を遣わされたと言ったら、同胞たちが私の言うことを信じてくれるでしょうか? 彼らがあなたについて聞いたら、私はあなたのことをどう言えば良いんですか?」東洋文化圏において、名前はとても大事な意味を持ちます。時代劇を観ると決闘の前に「何々家の誰、何々流の誰」と名乗る場面がよく出てきます。旧約聖書でも、ある存在の名前は大きな意味を持つ場合が多いです。「欺く者」という意味のヤコブが、主と出会った後「神を畏れる者(神に勝つという意味もある)」と名前が変わった物語が代表的です。このように聖書での名前は、ある一人の存在意味を明らかにする大事なものです。つまり、モーセが神の御名をお聞きしたのも、ただの身元確認ではなく、神の存在意味を確かめたいとの理由にあるでしょう。「イスラエルの解放を私に命じられるあなたは一体どなたですか?」という意味でしょう。 「神はモーセに、わたしはある。わたしはあるという者だと言われ、また、イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方が、わたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(14節)モーセの問いに主は「わたしはあるという者だ」と答えられました。主のこのお答は不思議で、文法的にも正しくありません。「私は誰である」と答えるのが一般的ですが、主はただ「わたしはある」と答えられたからです。これはヘブライ語「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」、ギリシャ語「エゴ・エイミー」の翻訳ですが、直訳で「わたしはわたしだ」に近います。いずれも意味が分かりにくいので、自然に意訳すれば「私は自ら存在する者である。」になると思います。万物には根源があります。人間には親がおり、先祖がいます。この会堂の材料もある山の岩、ある森の木、ある鉱山の金属に由来します。世の中のすべてのものは、自ら存在することが出来ません。しかし、自ら存在する神、「わたしはあるという者だ。」と言われた主なる神は、この世のすべての先におられ、すべてに存在理由を与えられた絶対者なのです。「わたしはある」という名前には「自ら存在する者」主なる神の絶対者としての権威と意味が隠れています。 モーセに現れられた主なる神は、自ら存在する方です。主はすべての存在の根源であり、すべての力と栄光の源です。この神がモーセを召され、遣わされたわけです。そして、主はモーセを用いてイスラエルを解放されました。大帝国エジプトでさえ、自ら存在する方のご意志に逆らうことが出来なかったのです。主が永遠にご自分の民と共におられ、その先祖アブラハムとイサクとヤコブと結ばれた約束どおりに、ご自分の業を成就してくださいました。ですから、主なる神はご自分の約束どおりに、永遠に主の民と共におられるでしょう (わたしは「我が民と共に」ある) 。そして、その約束はイマヌエル(神が私たちと共におられる。)という名の新約聖書のイエス・キリストのもとで成就するでしょう。 したがって、私たちは記憶しなければなりません。 私たちの主は「自ら存在する方、ご自分の御心のままに成し遂げられる方、ご自分の民と永遠に共におられる方」です。私たちはひとりぼっちではありません。「わたしはある」という方が私たちと共におられるからです。 2.イエス・キリストの「わたしはある」 現代を生きる私たちは、古代のヘブライ語やギリシャ語が理解できません。私たちはただ日本語だけで聖書を読んでいます。しかし、原文を理解して読むことができれば、さらに大きい恵みを得るようになるしょう。今日の新約の本文を読んでみましょう。「イエスは言われた。はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から『わたしはある』すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。」(ヨハネ福音8:58-59) ヨハネ福音8章はイエスに反対するファリサイ派の人々と主イエスの論争の場面です。主イエスは、神が自分たちの父であると言っている、主に反対するユダヤ人たちに「本当に神を父だと思うなら、私に反対しないでむしろ愛するだろう」と言われました。そして「イエスに反対するユダヤ人の先祖であるアブラハムは、主の日を見るのを楽しみにしており、それを見て、喜んだのである」と言われました。するとユダヤ人たちは50歳にもならないイエスがどうやってアブラハムを見たのか問い返します。その時、主イエスは「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」と答えられました。するとユダヤ人たちは石を取り上げ、イエスを殺そうとしました。 ユダヤ人たちは「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」という言葉に、なぜ憤ってしまったのでしょうか。 単純に先祖アブラハムを冒涜したからでしょうか。実は日本語では見えない表現のため、ユダヤ人は憤ってしまったわけです。新約本文58節を見ると「わたしはある」という言葉があります。この表現はギリシャ語の「エゴ・エイミー」なのです。先ほど「わたしはある」のヘブライ語は「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」であり、これをギリシャ語に訳すると「エゴ•エイミー」になるとお話ししました。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」すなわち、今日の旧約本文で主なる神がモーセに言われた「わたしはある」という言葉を主イエスも言われたわけです。「アブラハムが生まれる前から『わたしはある。』」という表現は「アブラハムが生まれる前から、私は自ら存在する者だ」という意味にもなるのです。イエスご自身がまさに父なる神と同一本質で、同等の存在であることを示す表現です。イエスがご自身がすなわち神であるということを宣言される言葉なのです。おそらく当時のユダヤ人なら、イエスの「わたしはある」という言葉に、非常に大きな衝撃を受けたに違いありません。イエスはこの本文でご自分のアイデンティティをはっきり示されたのです。まさに今日の旧約本文でモーセに「わたしはある」とおっしゃった神としてイエスはご自身の存在について明らかに言われたのです。 私たちが主と崇める主イエス・キリストは神です。主イエスは、三位一体の神の一位格、御子なる神です。主イエスは「自ら存在する方」です。イエスの栄光は、父なる神よりけっして劣っていません。同一の本質、同等の全能さを持っておられる方です。今日の旧約本文で「わたしはある」つまり「自ら存在する者」である主は、イスラエルの解放を約束されます。そして主はモーセを通して、実際にその解放を成し遂げられます。私たちの「わたしはある」と言われた方、「自ら存在する者」であるイエス•キリストは、父なる神から与えられた力と栄光で私たちを死と呪いから解放してくださいました。 私たちは教会の頭である主イエスが「自ら存在する者」であることを信じ、主なる神がイスラエルをエジプトから救い出され、乳と蜜の流れる土地に導いてくださったように、イエス•キリストも私たちを罪から救い出され、神の祝福のもとに導いてくださることに希望を置いて生きてまいりましょう。主の御名「わたしはある」すなわち、主はイエス•キリストを通して、今日も私たちと共に「おられます。」これが私たちと共におられるイマヌエル(神が私たちと共にいらっしゃる。)の証しではないでしょうか。 締め括り 主なる神には、数多くの名前があります。その中、聖書で最初に出てくる名前は、今日の「わたしはある」です。 主は私たちがひとりぼっちである時も、我が家族の中にも、我が職場、私たちの社会的な関係の中にも共におられる方です。主は世の中のすべてを満たしておられる全知全能の方です。私たちを一度選ばれた主は絶対に私たちを見捨てられず、いつも「わたしはある」という存在として、私たちの人生の道に共におられるでしょう。この主なる神がモーセを通してイスラエルを救われたのです。そして、この主なる神がイエス・キリストの民である私たち、キリストの教会を通して、主の御心を成し遂げていかれるでしょう。「わたしはある」という名の神、自ら存在する方、私たちと一緒におられるインマヌエルの主、キリストを通して、私たちと共におられる絶対者。主の恵みを憶え、感謝しつつ、この一週間を生きてまいりましょう。