御言葉にあって生きる

申命記 8章2~3節 (旧294頁) マタイによる福音書 4章1~11節(新4頁) 前置き レントの期間が始まりました。先週の水曜日「灰の水曜日」から、イースター直前の土曜日である「聖土曜日」までの40日間です。聖書において「40」という数字には特別な意味があります。ノアの洪水の際、40日間雨が降り注いだこと、若いモーセがエジプトから逃げ、ミディアンの荒野で40年間を暮らしたこと、そして出エジプトの後に十戒を授かるため、モーセがシナイ山で40日間を過ごしたこと。また、その後、イスラエルの民の40年の荒野での旅、そして何よりも主イエスが荒野で40日間断食し、試練を受けられたことがすべて40とかかわりがあります。このように、新旧約聖書のさまざまな場面で「40」という数字が象徴的に現れます。レントは、まさにこの「40」という数字の霊的な意味を、私たちの日常へと引き寄せる時間です。荒野のようなこの世にあって、自分自身を低くし、ただ、主の御言葉のみから満足を求める霊的な訓練の時間、それがこのレントの意義なのです。 1. 荒野での試練の意味 まずは、主イエスが受けられた荒野での40日間の試練について話しましょう。マタイによる福音書4章1節から2節にはこうあります。「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」主イエスはヨルダン川で洗礼を受けられ、間もなく試練を受けるために荒野へと向かわれました。主イエスが公生涯を始められるにあたって、真っ先にこの試練を受けられたのには理由があります。第一、失敗した「最初のアダム」の歩みとは異なる「第二のアダム」としての資格を証明するためです。最初のアダムは犯罪し、神を裏切り、堕落してしまいました。しかし、主なる神から遣わされた第二のアダムである主イエスは、その始まりからアダムとは完全に区別され、罪の誘惑に打ち勝つ姿を示すことで、救い主としての資格を証明されました。第二、出エジプト時代のイスラエルが犯した「偶像崇拝の罪」を克服される方であることを証明するためです。かつてエジプトを脱出したイスラエルの民は、荒野での40年間、不平不満を漏らした結果、偶像崇拝を犯してしまいました。しかし、主イエスは荒野での40日間を通して、そのイスラエルの失敗を乗り切り、主なる神への完全な服従を見せてくださいました。主イエスは、この荒野での40日間の試練を通して、昔、失敗したイスラエルとは異なり、罪の誘惑に打ち勝ち、不平や偶像崇拝を断ち切るお方であることを救い主としての資格をもって自ら証明されたのです。 レントの40日間は、こうした主イエスの荒野での試練を意味します。私たちはこのレントを通して、主イエスが経験された荒野の40日の意味を自分の生活の中へと取り入れて記念すべきです。私たちは、主イエスのように完全な勝利の40日間を過ごすことはできません。40日間ずっと断食をするには体力の弱い高齢の方々がおられ、社会生活や日常生活を営むためには、元気な若者でも40日間の断食は不可能です。そして、40日間祈りばかりして日常生活を諦めるのもあり得ないことです。しかし、私たちはレントという40日間の期間を通して、イエス・キリストの試練とその勝利の意味を心に刻むことはできます。また、この40日間を通じて、罪のゆえに主を裏切ったイスラエルの過ちを振り返り、自分自身の生き方について反省し、悔い改める時を持つことができます。主イエスの生涯から信仰を学び、かつてのイスラエルの民の失敗から教訓を得るのです。それゆえにレントは、主イエスとイスラエルの民が過ごした「荒野」を私たちの日常へと引き寄せ、自分自身を見つめ直す意義深い時間です。自らを省み、御言葉を黙想し、悔い改めることができる「荒野の生活」のようなレントの期間となりますよう、共にお祈りいたしましょう。 2. 主イエスの試練と苦難を憶えるレント 主イエスの苦難はいつから始まったのでしょうか。オリーブ山で捕らえられ、裁判にかけられ、鞭打たれ、十字架を背負って最終的に釘づけにされて死なれた、あの数時間のことでしょうか。いいえ、キリストの苦難は、御子なる神が人間になることをお決めになったその時から始まったのです。そして、その苦難がこの地上で明らかに現れ始めたのが、まさに荒野での40日間の試練であると言えるでしょう。私たちは、40日間にわたるキリストの試練と苦難を憶えながら、主が受けられた苦難の意味について深く黙想しなければなりません。主イエスの試練は、三つの段階に分けられます。第一、「石をパンに変える誘惑」の試練です。聖書にはこう記されています。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(マタイ4:3)これは、肉体的な情欲の試練を意味します。「パン」は肉体の欲求の象徴です。主イエスは御子なる神ですが、人間の肉体を着て来られたため、私たちと同じく空腹を感じるお方でした。40日間の飢えの中で、強烈な食欲を感じておられたはずです。しかし、主イエスはご自身の肉体的な欲望を、決して神の御言葉より優先させることはされませんでした。それゆえ、こう宣言されたのです。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3) 第二に、「神殿の端から飛び降る」試練です。これは「高慢」の試練を意味します。神の御子である主イエスは、すべての被造物の上に立たれるお方です。しかし、人間の肉体を着て来られたがゆえに、人間の限界をも同時に受けられました。最も高きお方が、進んで最も低き者と同然になられたのです。そのような主イエスに対して、神殿の端から飛び降り、天使に支えられ、神であることを示しなさいとの悪魔の誘惑は、大きな試練となったかもしれません。しかし、主イエスはそのような権能を十分持っておられたにもかかわらず、自らを高めることをやめ、謙遜を貫かれました。そしてこう言われました。「あなたたちの神、主を試してはならない。 」(申命記6章16節) 最後に「ひれ伏してわたしを拝め」という試練です。これは「偶像崇拝」と「自己顕示」の試練です。古今東西を問わず、権力、財力、名誉は人間を誘惑する最大の欲望です。もし誰かが、「権力、財力、名誉すべてを本当に与えるから、その代わりに信仰を諦めなさい」と言ってくるなら、誰でも動揺するかもしれません。自分の欲望を満たすために神への信仰が弱くなること、それこそが「偶像崇拝」の本質なのです。そして、その欲望は、結局、人間の世俗的な誇りへと行き着くのです。それに対し、主イエスはこう答えて試練を克服されました。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕えなさい。」(申命記6章13節) つまり、これら三つの試練は「欲望、高慢、偶像崇拝」に関わるものであり、自分自身が神になろうとする人間の本能を刺激するものであると言えるでしょう。こうした荒野の試練の本質を見事に言い表した新約聖書があります。「すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」(Ⅰヨハネ2章16節) 肉の欲は「欲望」を、目の欲は「高慢」を、そして生活のおごりは「偶像崇拝」の種になるものだと言っても良いでしょう。ヨハネの手紙第一は、これらすべてが父なる神からではなく、世から出たものであると警告しています。主イエスは、ご自身が神であるにもかかわらず、人間の肉体を着て来られ、父なる神の前で謙遜に自らを低くされました。そして、その謙遜さをもって世のものを退け、父なる神のものを求められました。そうして主イエスは、罪人を救える真の正しい者、救い主として、父なる神に認められたのです。荒野での試練と、その克服、そこには、私たち罪人の救いのための、イエス・キリストの決然たるご意志が込められていることを、私たちは決して忘れてはなりません。 3. 御言葉にあって生きる 私たちはここで、主イエスがいかにして試練を克服されたのかをはっきりと知り、それを自分自身の信仰生活に適用する必要があります。それは、主イエスが、ひたすら「神の御言葉」にのみ寄りかかられたということです。今日の旧約本文を読んでみましょう。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8:2〜3) 今日の新約本文において、主イエスが誘惑する者(悪魔)を退けられた際、引用された御言葉の一つが、この申命記にあるモーセの言葉「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」でした。レントは、荒野で試練を受けながらも、最後まで神の御言葉だけに従い、依りかかられた主イエス・キリストの決然たるご意志を、現代を生きる私たちに呼びかける期間です。このレントを通して、今一度主の御言葉を心に刻み、その御言葉に立って信仰を守り抜いていきましょう。主イエスに倣って、御言葉にあって生きる私たちの人生を改めて誓うレントでありますよう祈り願います。 締めくくり 今年のレントが始まりました。40日間、私たちの信仰を顧みる時間になることを願います。私たちはキリスト者でありながら、自分の欲望が制御できず、主の御言葉に従順に聞き従えない時も良くあるでしょう。主イエスは、ご自身が神であられるにもかかわらず、自らを低くされ、謙遜に主なる神に聞き従われました。そして、父なる神の御言葉にのみを拠り所とし、試練に打ち勝ち、堂々と救い主としての道を進まれました。私たちもまた、そのイエス・キリストの御心を憶え、自分を低くして、主なる神だけに従う信仰を貫いていくましょう。このレントの時期、主なる神の豊かな恵みが主の教会の上に降り注がれますよう祈り願います。

乗り越える力をくださる。

コリントの信徒への手紙一 10章1~13節(新311頁) ※写真:コリントの遺跡 前置き 本日の本文は、第一コリント10章の言葉です。特に13節の言葉「 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」は、苦難の中にある人に慰めを与える主なる神の恵みを思い起こさせます。しかし、今日の本文を正しく理解するためには、まず、当時のコリント教会がどのような状況に置かれていたのか、その背景と文脈をしっかりと把握しておく必要があります。今日の説教のタイトルだけを見ると「私たちに力をくださる味方なる主」についてのメッセージとして受け取りやすいです。しかし、本文は盲目的に味方になってくださる主を語っていません。むしろ、キリスト者の生活にあり得る「間違い」を指摘し、その間違いを乗り越えようとする者を主が助けてくださると語っているのです。今日の本文を通じて、主は私たちにどのようなメッセージを届けてくださいますでしょうか。聖書の御言葉を通じて、学びたいと思います。 1. 自由と放縦(わがまま) 本日の本文ではありませんが、第一コリント8章で、パウロはキリスト者の自由について警告しています。「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。」(一コリント 8:9) パウロが力を入れて警告した理由は、当時のコリント教会の中に、自由と放縦の区別がつかないまま、自分勝手に振る舞う者たちがいたからです。様々な淫らな行為、信徒の間の世の裁判所における争い、そして偶像崇拝など、キリスト者にあってはならない問題が教会員の間で行われていました。おそらく「すべてのことが許されている。」(一コリント 10:23)というパウロの教えを誤解した結果ではないかと思われます。このような放縦は、信仰を始めたばかりの人々にとって大きなつまずきとなりました。キリスト者は主イエスの救いによって真の自由を得たため、もはや迷信や強迫観念に縛られる必要はありません。昔の過ちから解き放たれ、新しい出発ができる真の自由が、キリストによって私たちに与えられました。しかし、この自由が決して「放縦」へと流れてはなりません。真の自由とは、常に信仰の弱い人々や教会全体の秩序に配慮する「愛」の中で実践されるべきものです。自由と放縦の違いとは何でしょうか。フランスの哲学者サルトルは無神論者であったため、信仰的な観点からは多少の距離がありますが、彼が残した「人間は自由という刑に処されている。」という名言は、私たちにも有意義だと思います。 このサルトルの言葉が意味するところは、自由とはわがままにする権利ではなく、自分の選びによる影響までも完全に引き受けなければならない「重荷」であるということです。ここに、自由と放縦の境界線があります。放縦とは、他者を排除したまま自分の欲望のみに溺れる無責任な状態を指しますが、真の自由とは、自らを制御し、自分の選びに伴う重みを耐え忍ぶことなのです。イエス・キリストがキリスト者を罪から救い、永遠の命を与え、自由になれる恵みを与えてくださった理由は、主なる神の民として、主の御心に従い、この地に御国をもたらすことにあります。御国がこの地にもたらされるということは、主の愛と恵みがこの世界に溢れ出るための「窓口」になるということです。そのために、私たちは主に与えられた自由を、御心を成し遂げるための道具として用いなければなりません。もちろん、キリスト者の自由は、サルトルが言うような「刑」とは異なります。主がくださる自由は、真の解放を意味するからです。しかし、もし、その自由が私たちの放縦のための道具へと成り下がるならば、その自由は私たちを縛りつける刑として残った方が、ましなのかもしれません。キリスト者は自由な存在です。しかし、私たちの自由は、主の御心が成し遂げられるために用いられる「責任ある自由」でなければなりません。私たちが自らの自由に責任を持たないならば、その無節制な自由によって、誰かが必ず試練に陥り、傷つき、教会を離れてしまうことになるからです。 2. 放縦ではなく謙遜と節制を パウロは、自由を放縦へと誤用した例として、かつての出エジプト時代のイスラエルの民について言及しています。「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。」(一コリント 10:5) 出エジプト記の記録によれば、主なる神はモーセを通してイスラエルの民をエジプトの奴隷から救い出し、約束の地カナンへと導かれました。彼らは昼は雲の柱、夜は炎の柱の下で、主の徹底したお守りの中にありました。紅海を分けて彼らを救い出した奇跡、追撃するエジプト軍を退けられた奇跡、天から降るマナと岩から湧き出た水の奇跡、これらはすべて、主のお守りの中でイスラエルが享受した「恵み」でした。(一コリント 10:1-4) しかし、これほどの恵みをいただきながらも、彼らは主の御前で偶像崇拝、不平不満、淫行といった深刻な罪を犯してしまいました。エジプトの奴隷という身分から脱し、主の民という「自由人」の身分に新たに生まれたにもかかわらず、主が与えてくださった真の自由の意味を悟らぬまま、肉体と罪の欲望に従う「放縦」に陥ってしまったのです。結局、彼らの荒れ野での歩みには、主の救いだけでなく、懲らしめと苦難の歴史も刻まれることとなりました。ある意味で、罪は「放縦」から生まれるものであるかもしれません。創世記において、主は最初の人間に「禁断の木の実」以外のすべての果実を食べる自由を与えられました。しかし、最初の人間はそれ以上のものを求めたあまり、放縦となり、ついには主が禁じられた「禁断の木の実」にまで手を伸ばしてしまったのです。 「彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。… 彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。… これらのことは前例として彼らに起こったのです。… だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」(一コリント 10:7-12) 今日の本文は、かつてのイスラエルの民の例をあげ、現代を生きる私たちも、自由と放縦を混同し、主の御前で罪を犯してはならないと訴えています。ここにおられる皆さんは、清い心で真実な信仰の歩みを切望しておられることと信じます。しかし、私たちの日常にも、このような放縦な心が芽生えることがあります。キリストに出会い、信仰者として生きていても、知らず知らずのうちに放縦に流れ、主の御前で罪を犯し得るのだということを、常に念頭に置いて生きなければなりません。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」聖書がこのように警告しているのも、そのためです。幸いなことに、私たちは主の御言葉によって、自分が自由と放縦を取り違えていないか、罪を犯していないか、いつでも自らを省みる機会を与えられています。謙遜と節制を伴う自由を持ち、日々悔い改め、慎み深く自らの歩みを振り返りながら生きていきましょう。謙遜と節制の信仰によって、放縦ではなく、真の自由を享受しながら歩んでいきましょう。 3. 主が助けてくださる人 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(一コリント 10:13)自由と放縦をわきまえ、謙遜と節制の生活を営む人に対し、主は「耐えられる試練」すなわち試練を乗り越える力を与えてくださいます。主は何もしようとせず、何の努力もせず、ただ受け身に生きる人を盲目的に助ける方ではありません。もちろん、私たちの「救い」に限られては、人間の努力は無用です。私たちの救いは、ただキリストによってのみ成し遂げられるからです。聖書は、自力で自分を救うことのできない弱き民を助ける主について証していますが、それはあくまで「救い」についてです。日常生活において何もしないまま、ただ天を仰いで祝福だけを願い、無気力に生きる人を正当化する言葉ではありません。私たちは、自分の人生において、自由が放縦へと流れないように、善い行いのために努力し、励むべきです。主はそのような人に、さらに成長できる恵みと力を与えてくださるでしょう。古代ギリシャの諺に「天は自ら助くる者を助く」という言葉があります。これは聖書の言葉ではありませんが、信仰生活においても有意義な格言だと思います。私たちの救いを除くあらゆる事柄において、主は自ら助けようとする者を助けてくださるということを忘れないようにしましょう。 締めくくり 2月も半ばを過ぎようとしています。今年が始まってから、すでに50日近くが経ちました。年のはじめに決心した思いが、少しずつ薄れ始めている頃ではないかと、自省させられます。このような時こそ、私たちはもう一度自らの信仰を振り返り、生き方を見つめ直しながら、より良い明日のために自らを顧みるべきだと思います。自由と放縦をわきまえ、謙遜と節制の生き方をもって日常の信仰に励みましょう。私たちの信仰は、特別な瞬間だけでなく、何の変化もない日常の暮らしの中でこそ、より一層輝くべきものです。そのような生を歩む私たちに、主なる神は、祝福を与えてくださるでしょう。

信仰による約束

創世記15章6節 (旧19頁) ローマの信徒への手紙 4章1‐25節(新278頁) 前置き 世界の多くの宗教は、人の行いに価値を与える傾向があります。神々の気に入られるために供物を捧げ、極楽に入るために苦しい修練を耐え忍び、功を認められるために自分の命をかけたりすることもあります。行いを通して自分の特別さを神々に示そうとするからです。ユダヤ人もそうでした。主なる神に委ねられた律法を行う選ばれた唯一の民族という独り善がりのため、自分を高め、異邦人を排除しました。世界の多くの宗教は、このような行いを通して自分らの正しさを神に示し、そんな自分の正しさによって、救いを得るという話を前面に押し出しています。ローマ書は、このような行いによる人間の義を断固として否定しています。人間は最初から罪を持っており、宗教人でさえ、罪人という軛から自由ではないと語っています。ローマ書は、ひとえに主イエスへの信仰による義だけが、人間を自由にする唯一の手立てだと教えているのです。今日はローマ書4章を通じて、なぜ信仰なのか、果たして信仰というのは何かについて話しましょう。 1.信仰の始まり、アブラハム アブラハムは75歳の時、主に召されました。今では75歳は割と元気な年齢ですが、古代においては非常に高齢で、死に近い年齢だったのです。主はアブラハムに、まるで、若者に命令するかのように、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」(創世記12:1-2)と信じがたい言葉をくださいました。 「すべてが終わった。」と断念する時、主はすべての始まる命令をくださったのです。アブラハムは非常に驚きました。しかし、さらに驚くべきことは、「わたしはあなたを大いなる国民にする。」という言葉でした。それは、75歳で子供のいないアブラハムにとんでもない約束でした。子供のいないアブラハムは甥のロトや僕エリエゼルに遺産を譲ろうとしていました。そんな、子供のいない絶望の時に、主はアブラハムに現れ、希望の言葉をくださったわけでした。「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」(15:4-5)古代社会において、後継ぎがないというのは、滅亡を意味しました。 しかし、主は滅びる直前のアブラハムの家が、夜空の星のように復興し、アブラハムが信仰の先祖になると言われました。それは、死んだアブラハムを生き返らせると同じような宣言だったのです。アブラハムが人間の弱さのため、諦め、挫折していた時、主は彼を信仰に招いてくださいました。主なる神は、人間アブラハムに義がないのをご存じでおられましたが、それでも、彼に信仰に招いてくださったのです。結局、アブラハムは主に頼り、信仰を通して、主のお招きに応じました。その瞬間、アブラハムは義と認められました。何もしないで、ただ主の招きに信仰によって応じただけなのに、主は彼の小さな信仰をご覧になって、義と認めてくださったのです。アブラハムは決して実現できない大きなことが全能なる神によって成し遂げられると信じました。その小さな信仰が、信仰の主であるキリストを私たちにもたらす偉大な種となりました。今日ローマ書がアブラハムの話を例え話に挙げる理由は、彼が自分の思いではなく、主の約束を信じたからです。「人間には出来ないことも、神には出来る」(ルカ18:27)アブラハムは、主に希望を置いて信じました。それが彼の信仰であり、この信仰によって、アブラハムは信仰の父となったのです。 2.律法の前に信仰によって結ばれた約束。 ここで、誰かは信仰について「それでも、信じるということも、結局、人間の行いではないか。」と疑問を抱くかもしれません。しかし、聖書が語る信仰は、人が主体となる、行いとしての信仰ではありません。聖書が語る信仰は、まるで農夫が蒔いた種のようなものです。種は小さいですが、農夫に養われ、土の重さにうち勝ち、芽を出します。そして少しずつ育っていきます。種を蒔いた農民は種が死なないように水と肥しをやり、雑草を取ってくれます。とうとう種は、小さい木になります。そして、小さな木は大きい木となり、美味しい実を結ぶようになります。主は農夫として、小さな種のような弱い信仰が、一抱えの木のような堅い信仰になるまで守られ、育ててくださいます。私たちが「主を信じている。」と自覚する時は、農夫のような神が、私たちの信仰という種を、既に木のように養ってくださった時です。信仰は、主が与えてくださるものです。人間の情熱や努力によって生じるものではありません。 聖書が示す「義」とは、神の養いのもとに生きることであり、それは人間の行いによるものではなく、主なる神の恵みによって与えられるものです。アブラハムは、律法が与えられる数百年も前に、ただ神を信じたことによって義と認められました。彼は完璧な人間ではありませんでした。主に相談せず独断で子を設けるという大きな失敗を犯し、信仰が揺らぐこともありました。しかし、主は彼を見捨てず、99歳の彼に「割礼」を命じられます。この割礼は、失敗した彼を赦し、主が一方的に約束を守り抜くという「印」であり、すでにあった信仰を裏付けるものでした。同様に、後の時代に与えられた律法も、人を義とするための道具ではありません。律法はあくまで主の民としての生活のガイドラインであり、自らの罪を自覚するためのものです。アブラハムが100歳にして約束の子イサクを授かった原動力は、彼の立派な行いではなく、主から与えられた「信仰」でした。割礼や律法という形に囚われるのではなく、ただ主を信じる信仰だけが、私たちを主の御前に立たせる唯一の道なのです。 3.約束を守られる神。 創世記15章17節には、主とアブラハムが契約を結ぶ場面が描かれています。古代近東には「双方束縛的契約」という、切り裂いた動物の肉の間を契約者が通り、もし約束を破れば自分もこの動物のように切り裂かれて死ぬと誓う慣習だったのです。しかし、この場面で肉の間を通り過ぎたのは、アブラハムではなく、「煙を吐く炉と燃える松明」に象徴される「主なる神」のみでした。しかも、アブラハムは契約の準備において、切り裂くべき鳥を切り裂かない不完全さを犯していました。それにもかかわらず、主はお独りでその間を通り過がれました。これは、主がご自身の責任だけでなく、アブラハムが負うべき責任や罪責までも、ご自身が引き受けるという驚くべき誓いです。アブラハムが失敗しても、主ご自身がその報いを担い、約束を成就させられるという一方的な愛の宣言だったのです。なぜ人は行いではなく「信仰」によってのみ義とされるのでしょうか。それは、主とアブラハムが結んだ約束が、形式的な義務ではなく「信頼関係」に基づいているからです。主は不完全なアブラハムを信頼し、正しい者(義)として受け入れられました。この主の深い信頼に対し、人間側がなし得る唯一の応答が、まさに「信仰」なのです。 律法や割礼といった人間の行いや手柄では、この主との深い信頼の約束を守ることはできません。ローマ書4章13節が語るように、約束は律法ではなく「信仰による義」に基づいています。私たちの信仰とは、単なる主観的な思い込みではなく、神が結んでくださった約束を有効にする「唯一の鍵」なのです。主イエスの十字架の死は、単なる同情によるものではありません。それは、アブラハムと結ばれた「命を懸けた契約」を神ご自身が守り抜かれた結果です。アブラハムもその子孫も、絶えず罪を犯し、契約を守り抜くことができませんでした。しかし、主はご自分の民を諦めませんでした。本来、霊である神は死ぬことができません。しかし、主なる神は死ぬことができないご自分を制約し、アブラハムとの約束を果たしてくださるために、肉体を持ってこの地上に来られました。そして、かつて契約の場で切り裂かれた動物のように、自らが十字架で切り裂かれ、死んでくださいました。主イエスは、人間が負うべき死の報いを身代わりに受け、守りきれなかった律法の精神を完全に全うされたのです。主イエスの十字架は、主の誠実さと愛の究極の証しです。キリストこそが、主の約束の達成者であり、私たちはこの方を信じることを通してのみ、主なる神との約束の民として義に留まることができるのです。 締めくくり なぜキリストだけが救い主なのか。それは、主イエスこそが主なる神とアブラハムの間に結ばれた「約束の実」だからです。かつて主がアブラハムを招かれたように、今、主はキリストを通して私たちを招き、限りのない信頼を示しておられます。信仰とは、この主なる神の信頼に応える「双方の約束」です。主は律法や他の手段ではなく、ただ信仰による契約を立てられました。したがって、この招きに信仰を持って答える時、私たちはキリストにあって主の民として義とされ、永遠の命を得るのです。キリストのみが救いの正解である理由は、その方が主なる神の約束の達成者であり、主の愛と信頼を私たちにつなげてくださる唯一の道だからに他なりません。私たちの信仰と主なる神の御働き、主イエスの御業を正しく理解する私たちであることを祈り願います。

三位一体を語る

申命記6章4-5節 (旧291頁) マタイによる福音書3章16-17節(新4頁) 前置き 私たちは「神」を信じています。人間という有限の存在が、神という無限の存在を完全に理解することは決してできませんが、私たちは、聖書に記された限られた神知識を通じて、私たちが信じる方がどのようなお方なのか、どのように存在し、どのように働かれるお方なのかを積極的に学ばなければなりません。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、知られざる神にと刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」(使徒言行録 17:23) 使徒パウロはギリシャのアテネを訪れた際、人々が誰なのかも知らない神々をも拝んでいるのを見て、自分が知っている真の神を大胆に宣べ伝えました。私たちはキリスト者として、自分の主である神がどのようなお方なのかをはっきりと認識し、信じるべきです。今日の説教を通じ、三位一体として存在される私たちの主なる神について、改めて学びたいと思います。 1. 三位一体:神の存在様式 「三位一体」という言葉を聞くとき、人は多かれ少なかれ違和感を覚えるものです。「三位一体、三つでありながら一つである」という言葉自体が、物理的にあり得ない話であり、論理的にも唯一の神が三人であるということは理解しがたいからです。また、三位一体という表現そのものも聖書に直接記されているわけではありません。それにもかかわらず、歴史の中で教会は神を三位一体として理解し、信じてきました。なぜなら、聖書全体が「主なる神は、父・子・聖霊という三つの「位格」として存在し、このお三方は本質において同一であるひとりの神である」と絶えず証ししているからです。しかし、三位一体なる神という言葉は依然として理解しがたい概念です。そのため、歴史上多くの人々が誤った仮説を立てて三位一体を語ってきました。その一つである①様態論(モーダリズム)は、 神はおひとりであるが、必要に応じて姿を変えられるとの仮説です。例えば、水が温度によって「蒸気、水、氷」と変化するように、神も父・子・聖霊へと変化すると思います。これは「一体」を強調するあまり、「三位」を軽んじた解釈であり、代表的な誤りです。 もう一つの仮説がありますが、三神論(トリティズム): 一家族が「父、母、子供」で構成されるように、三つの位格が一つの団体のようにおられると思う仮説です。これは「三位」を強調するあまり、「一体」を軽んじた解釈であり、これもまた代表的な誤りです。神は、私たち人間の説明方式では決して説明し尽くせない神秘に満ちたお方です。人間の有限な知性で、無限なる神の存在様式を完璧に理解することは不可能です。それはまるで、小さな紙コップの中に巨大な太平洋の水を全部注ぎ込もうとするようなことです。私たちは、理解できないからといって違和感を抱えるのではなく、神が啓示してくださった御言葉を通じて、この神秘を謙虚に受け入れなければなりません。「三つにいまして一つなる」という賛美歌の歌詞のように、神が三位一体であることを知識ではなく信仰によって理解し、その存在を信じる私たちでありたいと思います。 2. しかし、唯一なる神 三位一体は「三つにいまして一つなる」神の存在様式ですが、それでも聖書はこの神が「唯一」であると語ります。旧約聖書の御言葉を読んでみましょう。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記 6:4-5)今日のこの箇所は、イスラエル民族の信仰の土台となる御言葉です。本文の「聞け」という言葉は、ヘブライ語で「シェマ」と言います。「聞く」という意味の「シャマー」の命令形です。神は旧約のイスラエルの民に「あなた は、唯一の神のみを愛せよという私の命令を聞きなさい」と宣言されたのです。この宣言が告げられた当時、つまり、古代近東の世界は多くの神々を拝む多神教社会でした。豊穣の神、戦争の神など、人間の欲望に応じて神々が作られ、拝まれていました。そんな世の中で、主なる神は断固として「私の他に神はない。神は唯一私ひとりである」と宣言されたわけです。「唯一」という言葉は、単なる数字の「一」だけを意味するものではありません。それは、主なる神の絶対的な主権、唯一の創造主であり、支配者であることを意味します。三位一体において、私たちが決して見失ってはならないのは、この神の「単一性」です。 世の中には数多くの偶像があります。近くには他宗教の神々があり、また八百万の神という概念もあります。それはあらゆる場所に神が宿っているという汎神論的な思想です。また、自分の欲望そのものが神(偶像)となることもあるでしょう。しかし、三位一体教理の教えは、それらすべての「他の神々」の存在を否定します。「ひとえに主なる神という存在だけが、あなたが崇めるべき唯一の神である」。重要なのは「神は三人なのか一人なのか」という数字へのこだわりではなく、聖書が証しする「父・子・聖霊」こそが、私たちが信じるべき唯一の神であるということです。「おひとりの神」という言葉を数学的にのみ捉えないようにしましょう。その言葉には「万物の支配者、唯一かつ真の神」という意味が込められているからです。三位一体の神は、父・子・聖霊としておられる唯一の創造主、支配者、絶対者であることを信じましょう。 3. 三位の愛と協力 このように単一性を示される三位一体の神ですが、「父・子・聖霊」はそれぞれ固有の権能を持ち、お互いに協力しながら御業を成し遂げていかれます。新約聖書の御言葉を読んでみましょう。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者と言う声が、天から聞こえた。」(マタイ 3:16-17) 三位一体の神は、主イエスが公生涯を始められる時も共におられました。「御子」は、洗礼を受けることで救いの御業の始まりを告げられました。「聖霊」は、キリストの上に降り、その公生涯全体に力を注ぎ、主なる神の臨在を可視的に確証されました。「御父」は、主イエスが誰であるか、誰が壮大な救いの計画を司るのかを、天からの御声によって宣言されました。このように三位一体なる神は、それぞれが同等の力と権能を持ちながらも、一つの目的のために自らを低くし、謙虚に協力して、人類の救いという御業を始められたのです。 私たちは、ここから「三位の関係」を見つけることが出来ます。天地創造の前から、父・子・聖霊は、お互いに至高の愛をもって愛し、尊重し、喜び合う完全な共同体として存在してこられました。三位一体の核心は「区別されるが分離されず、一つであるが混雑ではない」という点にあります。父・子・聖霊はそれぞれ固有の御業をなさいますが、常に共に働かれます。御子が十字架を背負われたとき、御父と聖霊は傍観しておられたわけではありません。御父は独り子をいけにえにする苦しみを耐え忍ばれ、御霊は御子が最後まで従順に聞き従えるように支えられました。これを神学では「ペリコーレシス」すなわち「相互内在」と言います。三つの位格がお互いの中におられ、お互いの栄光を現し、お互いを高め合う完全な調和なのです。そして、この関係は、三位の相互への完全な愛があるからこそ可能なのです。この神の愛を、私たちは「アガペー」と呼びます。三位一体なる神は、三位が同一の本質を持ち、優劣のない完全な方々です。しかし、この三位はお互いを尊重し愛し合い、完全な関係を築かれておられます。三位一体なる神は、その完全な相互尊重と愛の関係の中で、これからも永遠に協力し、聖なる御業を成し遂げていかれるでしょう。 締めくくり 私たちは、この三位一体なる神の存在様式から、教会の生き方を学ばなければなりません。 お互いに愛し協力し、各々の欲望と目標があるにもかかわらず、互いに尊重し、主の御言葉に歩調を合わせて、頭なるキリストの御心に聞き従わなければなりません。 そのようにキリストにおいて、一つになった共同体というアイデンティティを持って、主なる神のみ旨にふさわしく、正しい信仰のために努力していかなければなりません。 そして、その信仰は、最終的に、神への真の愛に帰結しなければなりません。 三位一体の神学は、単に知識にとどまるものではありません。 それはキリスト者の生き方の根本であり、一生学ぶべき人生の原則なのです。 三位一体信仰への正しい理解を持って信仰生活を営んでいく志免教会のみんなでありますよう祈り願います。

主の体なる共同体

前置き 本日は、志免教会の2026年度の定期総会の日です。年に一度の総会ですので、私たちはこの集いが持つ意味を深く理解した上で、総会に臨むべきだと思います。我が教会の主人は、教会の信徒ではありません。私たちが月に一度告白している「日本キリスト教会信仰告白」は、この教会が主イエスのものであり、主の体であると告白しています。つまり、総会とは、教会の頭であられるキリストの御心に従い、その体である教会を健全に建て上げていくために、年に一度開かれる志免教会全会員による集会であるのです。そのような意味を込めて、本日は教会の主であられるイエス・キリストと、その体なる共同体である「教会」について話したいと思います。 1. 御言葉による回復の始まり 本日の旧約の本文であるエゼキエル書は、バビロンによって滅ぼされたイスラエルの民が、バビロン捕囚という苦難の時代を迎えた頃、預言者エゼキエルに与えられた主なる神の啓示を記録した書物です。本文によれば、主は預言者エゼキエルに、ある幻をお見せになります。それは、死の谷に散らばっている数多くの「枯れた骨」が生き返るという幻でした。この幻は、当時のイスラエルが置かれていた霊的な状態を象徴しています。主はエゼキエルにこう問われました。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」この問いかけと共に、主は骨に命が吹き込まれる幻を見せてくださいます。主がこの死に枯れた骨を再び生き返らせる幻を示された理由は、たとえイスラエルが滅びたとしても、彼らに対する主の関心と愛は決して絶えず、いつか再び新たに立ち上がらせてくださることをあらかじめ示してくださるためでした。これは、私たちの共同体にとっても、恵みと希望の幻として理解することができます。私たちの共同体がいかに弱く小さくとも、主の愛と関心は変わることなくこの共同体に注がれており、主の御心に従ってさらなる命を得ることができるという希望を与えてくれるのです。 「わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。」(エゼキエル書 37章7-8節)この「枯れた骨の幻」は、共同体が回復するための原理を示しています。その第一段階は「御言葉による連結」です。数多くの枯れた骨が自ら動いたのではありません。主の御言葉が宣べ伝えられたとき、初めて動き出したのです。同じく、共同体の結束は、人間的な親睦によって成るものではなく、御言葉の働きによって始まります。この時「骨と骨とが近づいた」ことは、それぞれ異なる賜物を授かった肢が、他の肢と結びつき、節々をつなぎ合わせて、初めて完全な「体の構造」が形作られることを意味します。しかし、骨の上に筋と肉が生じ、外見が整ったとしても、聖書は「その中に霊はなかった」と厳かに警告します。これは、いくら立派な組織を備えた共同体といっても、主なる神の生命の息(聖霊)がなければ、それはただ「傷のない遺体」に過ぎないからです。したがって、私たちは外的な形の回復に留まってはなりません。聖霊に導かれる「存在の回復」へと進む必要があります。御言葉によってつながり、聖霊の導きによって歩むこと。これこそが、枯れた骨のような共同体が生き返る唯一の道なのです。 2. 命を与える聖霊 それでは、主なる神の「霊」はどう得られるのでしょうか。「主はわたしに言われた。霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」(エゼキエル書 37章9-10節)神はエゼキエルに「霊に向かって預言せよ」と命じられます。ここで「霊」と訳されているヘブライ語「ルアハ」は、風、呼吸、そして「聖霊」を意味します。これは、創世記において主が土で人を形作り、その鼻に吹き入れられた、まさにあの「命の息」と同じものです。いかに骨が正しくつながり、肉に覆われたとしても、聖霊の息吹がなければ、その体は動くことができません。共同体を真に生かす動力は、人間の情熱や優れたプログラムではなく、ただ聖霊の働きにあります。「霊よ、四方から吹き来れ。」という御言葉は、主の恵みが特定の階層や場所に限られるものではないことを示しています。 聖霊の働きは、四方から吹いてこなければなりません。私たちの共同体の隅々にまで、疎外された人や、乾ききった心に、聖霊という命の息吹の風が吹く必要があります。祈りの風、賛美の風、悔い改めの風が四方から吹き荒れるとき、共同体は初めて真に呼吸し始めるのです。「霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」(エゼキエル書 37章10節) 命の息が入り、死んでいた骨に肉が付き、立ち上がった者たちを、聖書は「非常に大きな集団(軍隊)」と呼んでいます。一人ひとりでいた時は、ただ転がっているだけの枯れた骨に過ぎませんでしたが、聖霊にあって一つに結び合わされ、命の息を授かったとき、彼らは主の御心のために戦う力強い軍隊となったのです。主の体なる共同体は、単に私たちだけで慰め合い、交わりあうために存在しているのではありません。世に向かって出て行き、闇の権勢と戦い、死にゆく魂を救い出す「霊的な軍隊」とならなければならないのです。それこそが、命の息を授かった者の使命です。私たちがもつこの総会も、枯れた骨のように弱い私たちに、主の御言葉と聖霊の命の息を注いで立ち上がらせ、導いてくださる「聖霊の導き」をいただくための時間となるべきです。 3.主イエスが頭となる共同体 それでは、エゼキエルの幻を新約聖書の御言葉に適用してみましょう。コロサイの信徒への手紙1章18節は、共同体のアイデンティティを最終的に確かめてくれます。「また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。」(コロサイの信徒への手紙 1章18節) エゼキエルが見た「非常に大きな集団」が一糸乱れぬ動きをすることができた理由、また枯れた骨が連結されて一つの「体」を保つようになった根拠が、まさにここにあります。それは、主なる神が(新約的な表現で)イエス・キリストが「頭」であられるからです。体のすべての肢は、頭の命令に従います。いかにきれいな手があっても、頭の制御を離れて勝手に動くのであれば、それは病んでいるのです。我が共同体の頭は誰でしょうか。牧師でしょうか。いいえ、ただ主イエス・キリストのみが、この共同体の頭であられます。我が教会がいかに霊的に熱くなり、多くの人々が集まるようになったとしても、「頭」なるキリストの制御を受けないのであれば、その共同体は無秩序に陥ってしまうのです。 新約聖書の本文は、主イエス・キリストが「初め(根本)」であり、「死者の中から最初に生まれた方」であると宣言しています。エゼキエル書の枯れた骨が生き返ることができた根拠は、主なる神のご命令にありました。そして、新約の教会が主の救いにあずかり、新たに生まれた共同体として立つことができる根拠は、復活の初穂となられた主イエス・キリストにあります。我が共同体が、たとえ絶望的な状況の中にあるとしても、再び立ち上がることができる理由。それは、私たちの頭であるイエス・キリストが死に打ち勝ち、復活されたからです。「こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。」キリストの共同体である教会の目的は明らかです。それは、頭である主イエスが、我が教会を通して現されることです。我が共同体が数的に成長し、感情的に熱くなり、あらゆる面で上手くいくこと自体が目的ではありません。私たちを通して主イエスの栄光が現され、それによって主が世でほめたたえられること。それこそが、主の体なる共同体の存在理由なのです。 締めくくり 私たちのすべての務めと交わり、そして決断の中心に、主イエス・キリストがおられるべきです。頭なる主イエスの御心が、体なる教会の爪先にまで行き渡るとき、私たちは初めて健やかな一つの体となります。家庭で、職場で、そしてこの会堂において、主の体なる肢として互いに励まし合い、聖霊の命の息に満たされ、世を生かすキリストの民として歩んでいきましょう。本日の総会は、このように主の体なる志免教会が、これからの1年の歩みの方向を話し合う日です。ただキリストのみが私たちの総会の議長となってくださり、私たちに正しい道を指し示してくださるよう、共にお祈りいたしましょう。

私の福音

詩編33編8-15節 (旧863頁) ローマの信徒への手紙16章25-27節(新298頁) 前置き ローマの信徒への手紙は、キリスト教のとても大事な教えを終始一貫訴えています。人の罪と、その破壊力についての知識、それでも人間への変わらない主なる神の愛、罪人のために独り子を遣わして自らが犠牲になられた御業、そして、その独り子を通して、私たちに与えてくださった救い、最後に主なる神と共に生きる生き方など。多くの部分において、私たちに福音にあって生きる方法を教えています。今日は、そのローマの信徒への手紙から、福音への私たちのとるべき生き方について聞いてみたいと思います。 1.福音 パウロは、自分がなぜローマ書を書いたのかを、今日の本文を通して教えています。 「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。」パウロは福音を「他の誰かの福音」ではなく、自分の福音、即ち「私の福音」と語っています。福音は、この地上のものではありません。天の主から地の人に与えられるメッセージです。また、この福音はキリストのみによって与えられるものです。福音とは、主なる神が主イエスを通して、この地上に真の救いをくださると伝える「良い知らせ」です。だから、主以外の誰かが「私の教えのみが福音である。」と発言するなら、それは偽りなのでしょう。なのに、パウロはなぜ「わたしの福音」という言葉をわざわざ使っているのでしょうか。それは福音が自分にとって、いかに大事なものなのかを積極的に表す告白だからです。自分の人生をかけて、世の人々に伝えても全く惜しくない、大切なものが、まさにこのキリストによる福音であるという意味です。つまり「わたしの福音」は、キリストの福音へのパウロの堅い信仰告白だったのです。 2.パウロ(私)の福音 パウロは、ユダヤ人の若い人材でした。彼は有名なラビであるガマリエルの弟子であり、ローマ市民権者でもありました。ローマ市民権者なのにユダヤ人として深い信心を兼ね備えた素晴らしい知識人。そんな彼がユダヤ教の信仰のゆえに、異端であるイエス一党を処断するために立ち上がりました。そんなある日、深い信仰をもってイエス一党を捕まえるために出た旅で、パウロは人生が変わる不思議な経験をすることになりました。「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。 サウロは地に倒れ、サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのかと呼びかける声を聞いた。」(使徒9:3-4) 神と民族を愛していた青年パウロは、イエス一党を捕まえるために出た旅で、そんなにも嫌っているイエスに出会ったのです。「主よ、あなたはどなたですかと言うと、答えがあった。わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:5) 偽り者、異端、呪われた者と思っていたイエスが現れ、パウロの知識と信念を揺さぶりました。その瞬間、パウロの心に驚くべき変化が起こりました。彼が幼い頃から学んできた神の言葉が絶えず証してきた真のメシアが、自分がそんなに迫害してきたイエスであることを認識したからです。その時はじめて、パウロは神の福音が何かに気付きました。「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。」(25-26) キリストの福音は昔からすべての民族に伝えようとされた神の御計画でした。そして、それはキリストを通して、この世に与えられるべき救いと恵みの神の命令でもありました。その日、パウロはキリストに出会い、今までの知識を超え、神の福音を悟ることになりました。 福音は宗教的な知識に限るものではありません。福音とは、主なる神の御心が人の心の中で生き生きと働くものです。聖書の御言葉と教理をよく理解しているのも重要です。しかし、そのすべてを知っているとしても、その中に隠れている主の心が分からなければ、それは殻に過ぎないのです。教会で学んだ神の御心に私たちの心を従わせ、御心に従順に生きていくこと。神の御心を隣人に伝えること。それこそが、私たちが追い求めるべき福音、キリストを通して私たちに託された福音なのです。今、この福音は誰の福音なのでしょうか。それは今、私たちの福音となっていますでしょうか。昔の預言者と使徒たちの福音ではないでしょうか。本当に私たちの人生の中で、私たちを変え、隣人に良い影響を与え、真の私たちの人生の原動力となっている福音でしょうか。福音はほかの誰でもなく「私の福音」にならなければなりません。 3.イエス・キリストの福音 しかし「私の福音」の主人は私自身ではありません。それはイエス・キリストのものです。「わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります…その計画は…信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました」(16:25-26から)私たちを強め、導き、御心に従わせる福音は、ひとえにキリスト・イエスによってのみ生まれるものです。福音の権勢はキリストのみから出るという意味です。あまりにも伝道が難しい日本、その中でも小さな群れである志免教会を考えると、私たちは現実的な壁に直面し、挫折しやすいです。しかし、それにも関わらず福音は変わりません。福音の源である主イエスが変わらないお方だからです。聖書は一度も数字で、大きさで、教会を測ったことがありません。聖書に出てくる数値や規模は、神の民の集まりを意味するものであり、その大きさを重んじるわけではありません。 むしろ主なる神は、少数でも主イエスに希望を置いて従う真の信仰者を喜ばれるのです。 大事なのは、イエス・キリストが「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:18-19)と宣言されたということです。福音は「私のもの」である前にキリストのものです。主は教会の大きさと規模に関係なく、御自分を保証に福音を伝えることを命じられました。大事なのはキリストの福音を宣べ伝えることです。なぜなら、福音の真の所有者であるイエス御自身が福音に対して責任を負ってくださるからです。主の教会は、目に見える建物や団体ではありません。主の教会は、キリストの福音を告白する目に見えない主の民の集まりなのです。したがって、主はその教会を通して絶えずに福音を伝えて行かれるでしょう。私たちは、そのイエスに従い、現状にがっかりするよりは、折が良くても悪くても福音を伝えるべきでしょう。それこそが福音に対する私たちの在り方ではないでしょうか。 締めくくり 「全地は主を畏れ、世界に住むものは皆、主におののく。主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。主は国々の計らいを砕き、諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧になり、御座を置かれた所から、地に住むすべての人に目を留められる。人の心をすべて造られた主は、彼らの業をことごとく見分けられる。」(詩篇33:8-15)この言葉は、主なる神が世界を判断されることを示しています。世が主の教会を判断するのではなく、教会の主である神が世を判断されるのです。したがって、目の前の状況に恐れず、主イエスの福音の権勢を信じてまいりましょう。主イエス・キリストが、神に栄光を帰すために、御自分の福音を成し遂げて行かれるからです。

女性、教会を支える柱

創世記1章27節 (旧2 頁) 使徒言行録16章14-15節(新245頁) 前置き 本日、婦人会総会があります。婦人会総会に際し、教会における女性の使命について聖書の御言葉から聞きたいと思います。女性はとても重要な存在です。今日の旧約本文である創世記1章27節はこう述べています。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」この言葉は女性に対する偏見を破る宣言です。主なる神は男性だけでなく、女性をも、男性と同様にご自分の似姿に創造されました。これは男性と女性が、いずれも存在論的に同等であり、神の形を反映する大事な存在であるという意味します。 創世記2章によると、主は女性を男性の「助ける者」として創造されたとあります。ここで「助ける」というヘブライ語の「エゼル」は、劣等な存在が優越な存在を補助するという意味ではありません。この言葉は、主が苦しんでいるご自分の民を助けてくださる時にも使われる表現です。つまり、女性は男性には見えてこない共同体の欠点を発見し、満たし、完全にする「決定的な助力者」として造られた存在なのです。教会においても初代教会の設立以来、女性は教会共同体の基盤を磨き、教会を支える心強い柱として仕えてきたのです。 1. 女性の霊的な敏感さ 今日、新約聖書の本文に登場するリディアという人物を通じて、主が女性をどのように用いて、御国を広げていかれたかを考えてみましょう。使徒言行録16章で、使徒パウロがアジアを離れ、福音伝道のためにマケドニア(ヨーロッパ)のフィリピに到着した際、真っ先に出会ったのは、川岸にいる婦人たちでした。その中に「リディア」という女性もいましたが、使徒言行録16章14節は、彼女をこのように紹介しています。「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。」リディアは成功したビジネスウーマンでした。当時、紫色の布地は王族や貴族だけが身に着けることができる非常に高価な贅沢品でしたが、彼女はその紫布の商売をしていたのです。そのような事業を営んでいたということは、彼女が社会的な能力を備えた人であった証拠となります。しかし、聖書が強調するリディアの偉さは、彼女の財力や能力によるものではありませんでした。まさに、彼女の「傾聴する姿勢と霊的な敏感さ」にありました。 主なる神は、パウロがフィリピに到着するやいなや、彼を通してリディアに御言葉を伝えられました。そして、彼女はパウロが宣べ伝えた神の福音を注意深く聞き、即座に反応したのです。これこそが、教会を支える女性たちの第一の特徴である「傾聴する姿勢と霊的な敏感さ」です。歴史的に、教会の女性たちは、主の御言葉に対し、男性より敏感に反応してきました。祈りの場に積極的に加わり、御言葉の説教を傾聴し、その御言葉に反応して、生活の場に適用するのに、女性は常に先頭に立ってきました。婦人会員が持つこの「傾聴する姿勢と霊的な敏感さ」は、教会共同体の生命力を保たせる柱となります。神学の理論よりも強力なものは、御言葉を純粋に受け入れ、生活の中で実践しようとする熱い信仰の心なのです。リディアという一人の女性が、マケドニアのフィリピ教会という「ヨーロッパ宣教の幕開け」を助けたように、今日、我が教会を支えている目に見えない力は、主の御言葉を聞いて従順に聞き従う婦人会員の深い信仰から始まっていると言っても過言ではないでしょう。 2. 女性の歓待と仕え リディアの信仰は、御言葉を聞くだけにとどまりませんでした。彼女はすぐに行動をもって、自らの信仰を証明しました。15節を見ると、彼女は自分だけでなく家族全員が洗礼を受けるように勧め、家族が洗礼を受けた後、パウロ一行にこう申し出ています。「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください。」そして聖書は、彼女が「招待し、無理に承知させた。」と語っています。ここに教会を支える女性の第二の特徴である「歓待と仕え」を見出すことができます。リディアは、自身のプライベートな空間である家を、宣教の拠点として喜んで提供しました。彼女のような献身があったからこそ、フィリピ教会というヨーロッパ最初の信仰共同体が誕生したでしょう。彼女の家は、単なる宿泊所ではなく、礼拝の場所であり、信徒たちが交わりする「歓待と仕えの場」となったのです。もちろん、すべての女性が自分の家を教会のために開放し、共有すべきという意味ではないありません。聖書が記された古代中東と、現代の日本における「家」への考え方は異なっているからです。しかし、リディアが追い求めた精神、すなわち「自分が持っているものを最大限に用いて教会に仕える」というその心は、この時代を生きる婦人の皆さんにとっても、意義深い模範となるのではないかと思います。 伝統的に、女性は「歓待」と「仕え」において優れた賜物を持っています。教会の中で行われる数多くの奉仕、新しい方を歓迎し、病んでいる信徒を見舞い、共同体の食事を用意し、次世代を養育する働きの中心には、常に女性たちがいました。このような仕えは、決して些細なことではありません。それは建物の土台を築くことと同じです。講壇でかっこよく説教する牧師や、指導者として小会を成り立つ長老、行政や財務を担当する執事、そのような人々だけが教会に仕えているわけではありません。最も重要なことは、いかなる務めがあってもなくても、自らの心から湧き上がる歓待と仕えの心から教会は成長していくということです。リディアの「歓待と仕え」は、パウロの働きにとって大きな慰めと力になりました。このように、他者を温かく受け入れ、立てていく女性たちの母性的な奉仕は、冷ややかなこの世を変える強力な道具となりました。教会が単なる建物としての組織を超えて、真の「霊的な家族」になれる理由は、リディアのように自らの人生と心を開き、隣人を抱く女性たちの献身があるからに他なりません。 3. 忍耐と忠実さ 聖書全体に流れる女性のもう一つの特徴は、危機の瞬間に見せる「揺るぎない忠実さ」です。建物を支える柱は、普段はその姿を見えませんが、嵐が吹き荒れるときにはその価値が明らかになります。主イエスの公生涯の間にも、数多くの女性たちが自分の持ち物をもって主に仕えました。しかし、彼女たちの真価が発揮されたのは、ゴルゴダの丘においてでした。主イエスが捕らえられ、十字架にかけられたとき、勇ましく「死んでも主を身捨てはしません」と豪語していた男性の弟子たちのほとんどは、恐怖にかられて逃げ出してしまいました。しかし、十字架の下を最後まで守り抜いたのは、女性たちでした。彼女たちは、武装した兵士たちの脅威よりも、主への愛の方が大きかったために、その場を離れなかったのです。また、復活の朝、空になった墓を真っ先に訪ね、復活の最初の証人となったのも女性でした。彼女たちはまだ夜も明けきらぬ早朝、深い悲しみの中でも、主の体に香油を塗るために歩み出しました。その愛の足どりが、人類史上、最も喜ばしい知らせを一番に受け取るという祝福へとつながったのです。 リディアが中心となって立てたフィリピ教会もまた、同様でした。パウロがフィリピの牢獄に閉じ込められたとき、フィリピ教会の信徒たちは、最後までパウロを助け、祈りと金銭的な支えをもってパウロと共に歩みました。このような忍耐と忠実さは、今日の我が教会の中でも変わることなく流れています。教会に試練がやってくる時、共同体が分裂の危機に瀕するとき、真っ先にひざまずき、切に祈る人々の大多数が女性信徒たちです。雨風の中でも黙々とその場を守り、その重さを耐え抜く柱のように、女性の変わることのない忍耐と愛、そして忠実さと祈りは、教会を崩れさせないための「最後の砦」となります。主なる神は、このような女性の強さをすでにご存じであり、この教会を、男性だけの教会ではなく、男女を網羅する主の民のための「キリストの体なる教会」としてお立てになったのです。 締めくくり 私たちは、創世記の創造の原理とリディアの生涯を通して、女性が教会にとっていかに重要な存在であるかについて話しました。今日の説教のタイトル通り、女性は教会を支える重要な「柱」です。主なる神は女性を、男性に従属する存在としてではなく、神の形を共有するパートナーとして召してくださいました。そして、リディアのような女性を通して、ヨーロッパ伝道の第一歩を踏み出させてくださったのです。かつての志免教会の女性先達たちも、志免の地での伝道のために、心と身を尽くして仕えてこられたことでしょう。婦人会の皆さんは単なる教会の補助役ではありません。皆さんは、この教会を支える「霊的な柱」そのものなのです。ですから、誇りを持って信仰生活に励みましょう。志免教会の兄弟の皆さんも、常に婦人たちを尊重し、共に歩んでいきましょう。そのような歩みの上に、主なる神が豊かに祝福してくださると信じます。

アルファであり、オメガである。

イザヤ書 44章6-8節 (旧1133頁) ヨハネの黙示録 1章3-8節(新452頁) 今日は2025年の最後の主日です。今年も世界にはさまざまな出来事がありました。そのたびに私たちは心配の中に生きなければなりませんでした。それにもかかわらず、すべての教会員がお互いに愛し合い、謙虚に教会に仕えながら、今まで生きてきたと思います。確かに心配事が沢山ありましたが、それでも、喜びの中で今年の終わりを迎えるようになり、主なる神に感謝します。今まで私たちを守ってくださり、共に歩んでくださった主に感謝と賛美をささげる年末であるよう祈り願います。このすべての恵みが主からいただいたものであると信じます。 1.苦難の中にも、神の御言葉が共にあります。 ヨハネの黙示録は解釈が難しい聖書です。ほとんどの言葉が象徴的に記され、それらが何を意味するのかが分かりにくいです。しかし、黙示録の中心的な内容はとても明らかです。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。」(黙示録1:3)主の御言葉を知ろうとする者、その御言葉を守ろうとする者は幸いな者であるというのが黙示録の中心的な内容です。つまり主の御言葉に聞き従う者は祝福されるという意味でしょう。ここでの祝福は、お金持ちになったり、名誉を得たりする世俗の祝福とは異なります。主に選ばれ、お守りと愛のもとに生きる霊的な祝福なのです。主の民が御言葉に聞き従い、その御言葉通りに生きようとするとき、主は祝福を限りなく注いでくださるのです。ヨハネの黙示録は西暦90年頃、記されたと知られています。当時のローマ皇帝はドミティアヌスという人でした。彼は残酷な独裁者で、暴政をしきながら、自分が主であり、神であると宣言しました。ひとえにイエス・キリストだけが主であり、神であると告白するキリスト者たちを残酷に迫害した者です。その時、苦難を受けている教会に慰めと希望を与えてくださるために、主イエスが使徒ヨハネを通してくださった言葉が、この黙示録であるのです。 主イエスの時代、主イエスが復活され、父なる神の右に座しておられ、聖霊なる神をお遣わしくださいましたが、地上のキリスト者は依然として迫害にさらされていました。むしろ、主を信じれば信じるほど、さらに辛くなりました。大勢のキリスト者が信仰を告白したゆえに、殺されてしまいました。それでも、キリスト者は、御言葉に頼り、世に立ち向かって生きました。主の御言葉には脅威と恐怖を圧倒する力があったからです。私たちがこの世に生まれ、生きる間、苦難は常に私たちと近くあります。時には、大きな罪を犯したこともないのに、苦難にあったり、誠実に生きて来たのに、失敗したりすることもあります。逆に他人を苦しめ、自分だけのために生きる人が、安らかに生きることもあり、理不尽と不法が蔓延っている場合も多々あります。しかし、今日の本文を通して主は言われます。「記されたことを守る人たちとは幸いである。」現状と世の理不尽に絶望しないで、変わらない主の御言葉から聞き、主に信頼する者は幸いです。永遠にありそうな世の不条理の終わりに、主なる神の恐ろしい裁きがあるからです。その時は、すぐに来るでしょう。その日が来れば、主はご自分の民のすべての苦難と辛さを慰めてくださり、報いてくださるでしょう。 2.恵みと平和の主が私たちを導いてくださる。 新しい一年を迎えると、期待と共に恐れもあります。来年の今ごろ、私はどう生きているだろうか。生きてはいるだろうか。明日、何が起こるか、私たちは到底予想できません。それが人生の漠然さでしょう。もし、明日、いきなり主が私たちを召されれば、私たちは、主のみもとに帰らなければなりません。私たちが一日を生きていることは、生命力が強いからではなく、毎日、主が私たちの命の延長を許してくださるからです。来年の年末ごろ、私たちは生きてはいるでしょうか。死を考えると本当に怖いです。もちろん、主のみもとに帰るという信仰がありますが、死が恐ろしいのは変わりません。2019年の12月、来日から一年経った時、車の事故にあったことがあります。事故当時、私の車は10メートル以上飛ばされ、車は完全に壊れました。事故にあった際「ああ、これが事故なのか。このまま死ぬのか。」と思いました。もし、運転席が反対側だったら、私は確実に死んだと思います。しかし、主は私を生かしてくださいました。幸いにも、膝の打撲傷で終わり、整形外科でリハビリを受けましたが、後遺症なく、全快しました。私が、その時死なず、今まで生きている理由は何でしょうか。まだ、主からの使命が残ってあるため、命を延ばしていただいたからではないでしょうか。 主なる神は主からいただいた使命を果たさせてくださるために、ご自分の民を生かし、導いてくださり、お守りくださる方です。ですので、私たちは一歩一歩を導かれる主の愛と恵みとを信じ、感謝しつつ生きるべきです。黙示録が記された時代、多くのキリスト者が殺されてしまいましたが、それにもかかわらず、主の教会は生き残って迫害と苦難をたくましく乗り越え、福音を宣べ伝えました。主は苦難の中でも恵みと平和とによって、主の教会を導いてくださったのです。「今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。」(黙示録1:4-5) この世は恐ろしいところです。しかし、私たちは使命を達成するまで、命を保たせてくださる主と共に生きています。永遠におられる父なる神、七つ(完全さ)として表現された聖霊と、世の王たちの支配者であるイエス・キリストが私たちと共に、永遠に歩んでくださるからです。 3.主はアルファであり、オメガである。 なぜ、キリスト者が苦難の中におり、また死の恐怖にさらされる時にも、主は私たちの命を守り、最後まで生き残らせ、使命を果たすように導いてくださいますでしょうか。それは、主こそがアルファであり、オメガ、つまり、万物の始まりであり、終わりであるからです。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。私はアルファであり、オメガである。」(黙示録1:8) ギリシャ語で「始まり」を意味する「アルケー」は「開始」という意味と同時に「根本」という意味をも持っています。また、ギリシャ語で「終わり」を意味する「テロス」は「終わり」という意味と同時に「完成」という意味をも持っています。つまり、アルファとオメガという言葉は、創造から終末までを意味するものであり、創造と終末が持っている永遠さと無限さの主である神が、私たちの主であることを古代ギリシャ風に示したものです。聖書はこれを旧約でも強調しています。「イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。私は初めであり、終わりである。私をおいて神はない。」(イザヤ44章6節) イザヤ書44章は偶像崇拝、悪行などにより神に見捨てられ、バビロンに捕えられたイスラエル民族が、主によって解放され、主に再び機会をいただいた時、宣言された希望の言葉です。 当時のバビロンは強い帝国でしたが、さらに強力なペルシャに滅ぼされました。しかし、その強力なペルシャでさえ、主の御手に用いられました。「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国を私に賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることを私に命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。」(歴代誌下36:23) 天地万物の始まりと終わりである主なる神は、どんな強力な存在でも逆らえない偉大な方です。巨大なペルシャの皇帝キュロスさえも、主のご命令の前では、取るに足らない被造物に過ぎなかったのです。神は王の中の王であり、神の中の神であられたからです。ところで、この大いなる神は今日の御言葉によって、イエス・キリストを通して、弱い民を選ばれ、罪から解放させ、彼らを王として、父である神に仕える祭司として生きさせてくださると約束されました。これは大いなる神が小さな民をお選びくださり、彼らのアルファとオメガになられ、最後まで一緒におられるという大事な意味です。キリスト者が出会う苦難と死は、キリスト者自らの力では乗り切ることの出来ない恐ろしいものです。しかし、その苦難と死さえも、主の御手の中にあることを信じれば、私たちは主によって克服するようになるでしょう。 締め括り 今年の終わりが近づいています。今年、たくさんの出来事がありました。しかし、私たちは無事に年末を迎えるようになりました。何一つ主の恵みでなかったことがありますでしょうか。主に感謝します。私たちの心配と不安の中で一緒におられた主が私たちを助けてくださり、無事に終わりを迎えさせてくださいました。誰かには、まだ苦難と心配が残っているかもしれませんが、アルファであり、オメガである主は、変わりなく私たちの歩みにともにいてくださるでしょう。 その主に希望をおいて、今年を終わり、喜びの新年を迎えたいと思います。2026年にも主による平和と祝福が私たちの上にありますよう祈り願います。

インマヌエル

マタイによる福音書 1章18~25節 (新2頁) 前置き 今日の礼拝は、全人類の救い主であられる主イエス・キリストのご降誕を記念するクリスマス記念礼拝です。毎年迎えるクリスマスですが、今年、私たちが向き合う降誕の意味はさらに格別です。アメリカと中国の貿易戦争、終わらないウクライナとロシアの戦争、日本と中国の対立、そして隣国の韓国では権力掌握のための戒厳令があり、今は裁判中であります。その他、世界の各地で数多くの大小様々な紛争がありました。世界は依然として混乱しており、個人の生活にもそれぞれの苦しみと霊的な渇きがあると思います。このような時、キリスト者である私たちが改めて貫く真理はたった一つです。それは「主が私たちと共におられる」というインマヌエルの約束です。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」インマヌエルを訳すると「主が私たちと共におられる」という意味になります。この言葉はキリスト教信仰の核心とも言える重要な教えです。今日はこの御言葉を通じて、主なる神が私たちと共に歩んでおられること、そして主イエス・キリストのご降誕の意味について話してみたいと思います。 1. 苦しみの中に共におられる神 主イエスのご誕生は、人間的に考えると、一人の人間の「苦しみ」から始まりました。本日の本文に登場する主イエスの父ヨセフはダビデの子孫でした。そして妻のマリアも系図上、同じくダビデの子孫でした。ダビデはイスラエル史上、最も偉大な王と言われる者でしたが、長い年月が流れる中で、その子孫はかなり衰退し、王族とは呼べない普通のイスラエルの民になっていました。しかし、ヨセフとマリアは偉大な王の子孫にふさわしく、気品があり善良な人々でした。彼らは貧しかったですが、他人に恥じることのない人々でした。ところが、ある日、あまりにも苦しい出来事が起きてしまいました。婚約した二人のうち、マリアが結婚の前に妊娠してしまったからです。当時のユダヤ社会において、婚約した女性が夫以外の誰かの子を身ごもると、石打ちにされて死ぬこともある重い罪になりました。それだけでなく、夫の立場からも屈辱的なことでした。ヨセフにとってこの状況は理解しがたい裏切りであり、人生最大の危機でした。しかし、19節は、このヨセフを「正しい人」と語っています。正しい人である彼は、マリアのことを表沙汰にして彼女を懲らしめずに、ただ密かに縁を切ろうとしました。ところが、その瞬間、主なる神の啓示が与えられました。 「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」(20節)ヨセフはマリアに対しては裏切られた気持ちを、自分に対しては無力な気持ちを感じていたでしょう。その時、夢に現れた主の御使いは驚くべきことを言いました。「マリアの子は不義の子ではない。主なる神が聖霊を通してくださった特別な方なのだ。」婚約者の不貞と誤解していたヨセフは、夢で啓示を聞いた瞬間、さっぱりした気持ちで婚約者を見直すことになったでしょう。おそらく以前、彼女は受胎の経緯をヨセフに打ち明けたはずです(ルカ1:26-38)。しかし、ヨセフはそれが信じられなかったでしょう。ところが、主なる神が自分の妻を通して偉大な人物を聖霊によって宿されたというのですから、もはや以前ほど戸惑ってはなかったでしょう。主はヨセフの苦しみと戸惑いをすでにご存知でおられる方でした。ヨセフの苦しみは心痛かったのですが、主の摂理の中でその苦しみはメシアの誕生という恵みへと繋がりました。時には、到底理解できない苦難が襲ってきます。経済の危機、不和、病気など、私たちを苦しめることがあり得ます。しかし、主はそれらの苦難の中に共におられ(インマヌエル)より良い結果へと私たちを導いてくださるでしょう。ヨセフの夢に現れたように、主はご自分の民の苦しみの中で語られます。「恐れるな、わたしがあなたと共にいる。」 2. インマヌエル — 主が私たちと共におられる インマヌエルとはヘブライ語で「主が私たちと共におられる」という意味です。「イン(イム)」は「共に」「ヌ」は「私たち」「エル」は「神」意味します。「イン(イム)」と「ヌ」がくっついて「インマヌ」と変わり、そこに神を意味する「エル」が付いて「インマヌエル」となるのです。それでは、「主が私たちと共におられる」ということには、どのような意味が込められているのでしょうか。新約聖書のローマの信徒への手紙にはこのような言葉があります。「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。」(ローマ1:23-24) 聖書はこの世界を主なる神が創造されたと創世記を通して証ししています。しかし、創造の中心である最初の人間の罪によって、人間は堕落のほだしに陥り、それによってこの世界も罪の影響で汚されたと証ししています。そのような罪の性質を持った人間は、神を主と認めず、自らが主となって自分の欲望に従って世界を乱し、神ではない他の存在を偶像として自分勝手に生き、結局滅ぼされることになりました。主なる神は罪の性質を持つ人間への裁きとして「彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ」つまり、罪人のままに放っておかれました。ということで、この世は常に悪へと走り、正義よりも不義が満ちる世界となったのです。 しかし、主が私たちと共におられるというのは、もはやこの世界を汚れの中に放っておかれるのではなく、積極的に関わって正しく導いていかれるという強い意志の表明なのです。主はそのために、ご自分の独り子をこの世に遣わしてくださったのです。21節で主の御使いはマリアが身ごもった子の名前を教えます。「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」「イエス」は「神は救いである」という意味です。インマヌエルの目的は人間と世界の「救い」なのです。世の中の人々はクリスマスを単なる西洋の祭りだと思います。しかし、クリスマスの本質は、人類の最も根本的な問題である「罪」を解決するために、神ご自身が人間の間に来られたということです。人間は自分自身を救うことができません。自分の罪を解決する力が人間にはないからです。ですから、主なる神はインマヌエル、すなわち私たちの傍らに、ご自分の独り子(三位一体)を遣わされ、罪人の代わりに罪の償いにされたのです。クリスマスは、主なる神が他人事のように「頑張れ」とただ励ます日ではありません。泥沼のような私たちの人生の中に直接関わってくださり、私たちの手を握って救い出してくださったことを記念する日なのです。主が私たちと共におられる理由は、私たちの救いに積極的に関わってくださるためです。主が私たちと共におられるというインマヌエルの約束には、このような意味が隠されているのです。 3. 御言葉の成就 インマヌエルは神の御言葉の成就の結果です。本文22節と23節は、これらすべての出来事が偶然ではなく、主の緻密な計画と約束の成就であることを示しています。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばる。」(マタイ1:22-23) 旧約聖書にはこのような言葉があります。「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:14) この言葉は、周辺諸国の武力挑発によって混乱の中にあるイスラエルを助け救うという主なる神の救いの御言葉でしたが、その当時だけに限らない、ご自分の民に向けた主の御心が込められた救いの宣言でもあります。 また、この言葉は数百年という年月を経て、ヨセフとマリアを通して再び主の民に与えられた救いの宣言でもあります。そして、この言葉はイエス・キリストのご誕生によって成し遂げられました。主なる神は聖書の御言葉を通じて私たちに「わたしはあなたを離れない。共にいてあなたを守る」と約束されました。「インマヌエル」という言葉は、主なる神の変わることのない誠実さを象徴しています。世の約束は状況によって変わり、人の心は葦のように揺れ動きますが、主の約束は永遠に変わりません。インマヌエルはただの感情的な慰めではありません。それは「宇宙の創り主がご自分の民の味方となり、彼らの傍らに立っておられる」という厳然たる事実なのです。24節でヨセフは眠りから覚め、主の御使いに命じられた通りにマリアを迎え入れました。主なる神の約束を信じたからこそ、彼は恐れを乗り越え、従順に従うことができました。私たちもこのインマヌエルの約束を信じる時、世に打ち勝つ大胆さを主からいただくことでしょう。 締めくくり 私たちは毎年12月になると、クリスマスを準備し、クリスマス記念礼拝を捧げます。人生の中で数十回も迎えてきたクリスマスであるため、その感激はそれほど大きくないかもしれません。あまりにも慣れ親しんでいるからです。しかし、主なる神は独り子イエス・キリストをこの地上に遣わされることによって、主の民の人生に深く関わられました。そして、その御業を誰よりも喜んでおられるでしょう。主イエスを自分の救い主と告白し、その方によって神を信じる者は、主なる神の責任ある守りによって永遠に導かれることでしょう。年一度のクリスマスですが、私たちはこの期間を通して、なぜ主イエスが人間になられたのか、なぜ私たちの罪のために代わりに死んでくださったのか、なぜ私たちは毎年このクリスマスを記念すべきなのかを、憶え、振り返る機会となることを願います。

主イエスの御働き

イザヤ書61章1〜4節 (旧1162頁) マルコによる福音書 1章29~45節 (新61頁) 前置き 主イエスは洗礼者ヨハネの洗礼と荒野での試練を期して、公生涯すなわちキリストとしての人生を始められました。その後、主イエスは神の国の到来を告げ知らせ、弟子たちを呼び出し、救いのための本格的な旅に出られました。その最初のしるしは、汚れた霊に取り付かれた人から悪霊を追い出してくださることでした。悪霊が追い出すしるしの意味は、死の支配にある世に、主なる神のご統治が到来することの象徴でした。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28)つまり、悪霊を追い出された最初の御働きは、罪のため、滅びるべきこの世に主イエスによる新しい希望がもたらされるという象徴でした。今日の本文も、そのような新しい希望のための主イエスの御働きを描いています。今日の本文を通して主イエスの御働きについて話してみましょう。 1.主イエスという方。 主イエスはどんなお方でしょうか。キリスト教の教理では、このイエスが真の神でありながら、真の人であると教えています。それでは、まず、真の人間であるイエスについて話してみましょう。主イエスの時代のイスラエルには、イエスという名前が珍しくなかったと言われます。旧約の有名な人物の一人であるヨシュアに由来した名前だったからです。ヨシュアは「神の救い」という意味です。ヨシュアという名前は、時には「ホセア」や「イエス」とも呼ばれましたが、それらも「神の救い」という意味を持っていました。以後、主イエスは罪人の贖いのために十字架で処刑されましたが、ユダヤ教では、イエスが神に呪われて死んだと信じていました。そういうわけで、ユダヤ教では、イエスという名前を不浄に思い、タブー視したそうです。主イエスはベツレヘム出身のヨセフとマリアの長男でしたが、二人の祖先は共通して、ダビデ王だったと言われます。そのため、聖書は主イエスをダビデの子孫であると証しています。主イエスは公生涯が始まる時まで、家族と一緒に暮らし、大工を生業と生きてこられました。主イエスは30歳になった時から、ナザレを離れ、公生涯を始められたのです。 また、イエスは初めからおられた神でもあられます。私たちが三位一体と呼んでいる神は、御父、御子、聖霊の三位がおひとりの神としておられる方です。この三位一体は、世界が造られる前からおられ、世界の創造、維持、終末までの、すべてを司られる神です。三位一体なる神は、各自、限りの無い権能を持っておられますが、自ら謙虚になられ、お互いに協力し合い、神の摂理に従って、この世を治めておられる方です。そのような神のご統治は、今でも移り変わりなく、これからも永遠に続くでしょう。御父は、すべてをご計画される方です。御子は父なる神の御言葉、すなわち神のご意志でいらっしゃり、神の計画をこの世に啓示される方です。そして、聖霊は、その御父のご計画を御子の啓示によって、この世に成し遂げられる方です。主イエスが真な神でありながら、真の人間であるという意味は、神の全能さと人の弱さをすべて知っておられ、神と人の間で完全な執り成しがお出来になるということを意味します。イエスの御働きは、これらの真の神でありながら、真の人であるという、神と人への完全な知識にあって、この世を新たにしつつ、回復させる救いのお働きなのです。 2.イエス・キリストの御働き それでは、主イエスは、どんなお働きをなさったのでしょうか。私たちは今日の本文を通して、主イエスが3つのお働きをなさったことが分かります。一つ目に、イエスが癒しをなさったということです。 「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」(1:30-31)主イエスの時代のユダヤ地域は、邪悪な王の支配とローマ帝国の圧政のゆえに、力と富のある人々には住みやすい所でしたが、貧しくて弱い人々には、ますます苦しくなる所でした。神は旧約聖書を通して、常に貧しくて弱い者たちの世話を見なさいと命じられました。また、貧富の格差を無くし、誰もが神のご支配のもとで平和に生きる世界を追求するイスラエルをお望みになりました。しかし、イエスの時代は、そのような神の御意志とは、遠ざかっていました。王と総督は自分の力と富だけを貪り、宗教指導者たちも変わるところがありませんでした。 主イエスが、この地上に来られ、病人を癒し、悪霊を追い出し、弱者と一緒におられたというのは、そのような世の風潮に真正面から抵抗する行為でした。主イエスは貧しい弟子の家族を癒してくださることから、あらゆる病人を治され、人を苦しめる悪魔を追い出され、罪人を清めてくださいました。 「重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、御心ならば、わたしを清くすることがおできになりますと言った。 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、よろしい。清くなれと言われると、 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 」(1:40-42)主イエスのお癒しは、真の王でいらっしゃる神が、イエスを通して、弱者と一緒におられることを積極的に示す行為でした。最も高いところから来られた主イエスは、最も低いところに自ら臨まれて、慰めてくださり、癒してくださって、主なる神が民の間におられることを証明されました。 二つ目に、主イエスは宣教されました。 「イエスは言われた。近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(38)今日の本文に宣教と訳された言葉は、ギリシャ語で「ケリュッソ」と言いますが「宣言する、述べ伝える、告げる。」などを意味します。つまり、今日の本文の「宣教する」は、主イエスの説教、あるいは宣言として訳することが出来ます。この「ケリュッソ」という言葉から、キリストによる救い、罪の赦し、恵みなどを述べ伝えるという意味の「ケリュグマ」が由来しました。主イエスが病人を癒され、悪霊を追い出された理由は、神の国がこの地上に臨んだということを宣言する宣教のためでした。主イエスは、この宣教のために、神から人間となられたわけです。ただ、癒しばかり、悪霊の追い出しばかり、糧の配りばかりで、主イエスのお働きが終わったなら、主の御働きは中途半端になってしまったに違いありません。主が癒してくださった理由は、その癒しと伴う宣教を通して、人々が主イエスを信じて、神を知り、神の国に民へと導いてくださるためだったのです。 三つ目に、イエスは教えてくださいました。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」(44)主イエスは癒されるために、主のところに来た重い皮膚病を患っている人を清めてくださり、それから彼が何をすべきかを教えてくださいました。主はレビ記の御言葉に基づいて、回復された人の在り方を教えてくださったのです。主は旧約聖書の言葉をないがしろになさらず、その言葉に応じ、祭司のところに行ってモーセが定めたものを献げ、人々に証明してと命じられました。主は聖書の御言葉を生活の中で適用するように、導かれ、治った人が御言葉のように行なうことを望まれたのです。主イエスは癒しと共に御言葉を教えてくださる方です。癒しを通して体と生活を新たにしてくださり、御言葉の教えを通して、信仰を強めてくださいます。主イエスは今でも聖書の説教と、個人の黙想を通して、御心を教え、信徒の行くべき道を教えてくださるのです。 締め括り 「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」(イザヤ61:1) イザヤ書は、かつて神に油注がれたメシアが到来し、貧しくて弱い者たちを救い、慰めてくださると予告しました。主イエスがこの地に来られ、御働きを行われたのは、このようなメシアの到来を実際に証明することでした。主はお癒しを通して、弱い者を立ててくださり、宣教なさることを通して、主の救いを知らせてくださいました。そして教えてくださることを通して、信者の在り方を教えてくださいました。この主の3つの御働きが、キリストの教会が貫くべき働きであると思います。教会は主の体なる共同体です。世を愛された主のご意志を受け継ぐ群れなのです。だからこそ、主イエスが再び来られる日まで、主に倣って、教会は働きつづくべきです。