永遠の命の水が湧き出る。

ゼカリヤ書14章6-9節, ヨハネによる福音書 4章3‐14節 三浦綾子の改心。 戦後、結婚を控えていた三浦綾子は思いも寄らなかった肺結核の診断を受けることになりました。そして、それから十数年の長い長い闘病生活を始めることになります。長い間の病魔の痛みと虚無主義により、生きる理由を見失った彼女は、死にたいと思うほど精神的に衰えていきました。そのような時、一緒に闘病生活を見守った幼なじみの前川は献身的に彼女に仕えてくれました。彼はキリスト者でした。三浦綾子は、彼の支えにより、ただの恋ではなく、本当の愛を発見しました。しかし、前川は長い闘病生活のあげく、結局、先に神様に召されることになりました。三浦綾子はこのように彼を追憶しました。『わたしはその時、彼のわたしへの愛が、全身を刺しつらぬくのを感じた。そしてその愛が、単なる男と女の愛ではないのを感じた。私はかつて知らなかった光を見たような気がした。彼の背後にある不思議な光は何だろうと思った。私を女としてではなく、人間として、人格として愛してくれた、この人の信ずるキリストを私は私なりに尋ね求めたいと思った。』三浦綾子は前川の信仰と生涯を記念し、受け継ぐために病床で文章を書きました。そして、困難な状況にある人に希望とキリストの愛を伝えようと誓いました。後日、病気が全快した彼女は、一生の間に多くの小説を通して日本だけでなく、全世界に福音を伝える偉大な作家として生きるようになりました。 1.疎外された者を探しておられるイエス。 私は話を聞いただけですが、皆さんは私より遥かに戦後日本の状況について詳しく知っておられると思います。何年か前、「力道山」という映画を見たことがあります。その映画では終戦当時の日本が、戦争により、肉体的にも精神的にも疲弊した状態で描かれていました。このような時期に病気にかかっていた三浦綾子は、まるで戦争によって弱くなっていた戦後の日本のように、病気の痛みを経験していたのです。ところで、日本のキリスト教の歴史書では、この時期、日本に爆発的な教会の成長があったと記されています。慰めと癒しが必要だった時に、ちょうど良くアメリカから多くの宣教師が入って来て、また日本の教会によって、多くの人々がキリスト教の信仰を持つようになったと記されていました。三浦綾子もその時、1人のキリスト者の献身を通して、キリストに出会い、偉大なキリスト者の小説家になったのです。そのためか、三浦綾子の人生と戦後の日本がオーバーラップされて見えました。虚しさと悲しみに苦しめられた三浦綾子は自分の友人が与えた愛により、イエスに出会い、イエスは疎外された彼女に光を照らしてくださいました。戦後の痛みと虚しさに陥った日本でも、福音を通して多くの人々がイエスを信じるようになりました。 このように、イエスの関心はいつも最も疎外されたところ、低いところにあります。イエスはそのような関心を持って三浦綾子を訪ね、彼女に信仰を与えられたのです。戦争という悲劇の後に、日本に信仰者が多くなったのもそのような主の愛のためではないでしょうか?今日ヨハネによる福音書には、そのような疎外されて苦しんでいる女が登場します。彼女は当時のユダヤ人に不浄な場所として受けとめられていたサマリア出身で、5人の夫とつぎつぎ 離婚し、今では夫ではない人と暮らしていました。彼女は不浄な村に住んでいる不浄な女だったのです。サマリアは北イスラエルが滅ぼされた時、アッシリヤ人の政策によって有力なイスラエル人は捕囚として捕らわれ、他の地域の異邦人が入ってきて、残されたイスラエルの貧困層と結婚し、産んだ混血民族が住んでいるところでした。異邦人を極度に嫌っていたユダヤ人の立場から見ると、サマリアは正統性も純粋性もない不浄な場所だったのです。ところで、その中でも5回も離婚を経験し、最終的には婚姻関係ではなく同棲をしていた彼女だったため、どれほど不浄な女だと批判されたことでしょうか? ところが、ダビデの子孫、ユダヤ人の中のユダヤ人だったイエス・キリストは、わざわざ彼女を訪れてくださいました。イエス様が不浄なサマリアに行かれたというのは一般のユダヤ人としては想像も出来ないことであり、その中でも不浄な女だと知られている彼女に手を差し伸べられたということは、常識を破ることでした。『そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。』(ヨハネ4:6)近東の正午ごろと言えば40度を上回る暑さで、誰も外に出ない時です。不浄な女だと近所の人に嫌われたその女は他人の目を避け、その暑い時、密かに水がめを持って出てきたのです。水を汲むために出てきたその女は、井戸のそばに座っておられるイエスを発見しました。そのイエスは、最も暑い時に、誰も訪れない、その疎外された女性に出会い、不浄を清めてくださり、神の御言葉を伝えるために来られた神の子でした​​。 2.不浄な者を探しておられるイエス。 今日の旧約本文は偶像崇拝と不従順のため裁かれ、バビロンの捕囚として捕らわれたイスラエルの民が主の赦しと恵みにより帰還した後、主から頂いた御言葉です。罪によって神様に裁かれたイスラエルですが、神様は彼らに裁きを免れる道をくださり、御恵みを与えてくださるという言葉であり、『その日、エルサレムから命の水が湧き出で半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。』(ゼカリヤ14:8-9)という祝福と約束により、ご自分の民を慰めてくださる言葉であります。イスラエルが罪を犯したけれど、神様は決して彼らを見捨てられず、彼らが神様に真の悔い改めと愛をもって来れば、神様も彼らを赦し助けてくださるという約束の言葉です。 神様は、旧約聖書の多くの箇所で、常にご自分の民に悔い改めを促されました。『もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地を癒す。』(歴代誌下7:14)神様は、ご自分の民の不正を決して赦されない方ですが、その不正を謙虚に悔い改め、神に聞き従い、帰ってくれば、必ず癒し赦してくださる方です。そして彼らに裁きを免れる道と命の水とをくださり、彼らを守り、慰めてくださる方です。主はユダヤ人に軽蔑されたサマリア人に、特にそのサマリア人にも軽蔑された井戸の女を訪れてくださいました。神は王宮ではなく、神殿ではなく、権力者ではなく、不浄な地の最も不浄な女に来られたのです。そして彼女に『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で父を礼拝する時が来る。まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。』という言葉を通して、その女を礼拝者として神様に招かれました。 神は不浄な者を拒まれる方ではありません。自分の罪を認め、悔い改める者、神に希望を求める者、神様の権威を認める者に、いつでも喜んで新しい機会を与えてくださる方です。すべての人に嫌われたサマリアの女は、不浄な出身という人種的差別、不浄な女という社会的差別、自ら自分を批判する罪悪感に苦しめられましたが、だからこそイエス様は彼女を訪れられたのです。エルサレムからガリラヤに行く時、通常ユダヤ人たちは地中海側の道、或いは東側のヨルダン川端に沿って北に上がっていきました。つまり、わざわざサマリアを避けて行ったということです。しかし、主イエスはわざわざサマリアに行かれました。なぜでしょうか?まさにこの女に出会うためでした。イエス様はわざわざ最も疎外されたところ、最も不浄な場所を探し訪れる方です。不浄を清める神様の力を通して、自らどうしようもない罪人を赦され、彼らが疎外から切り抜け、神様を礼拝することが出来るよう新たに生まれさせてくださるためです。主イエスは不浄を清め、新たに生きさせてくださる命の水そのものでした。 3.神と和解させてくださる主イエス。 父なる神様がイエス・キリストを私たちに遣わされた理由は、主イエスにより人間の中から湧き出る命の水を通して、神から遠ざかった存在が霊的な渇きを癒し、罪を洗い、イエス・キリストを通して御父のところに出て来ることが出来るよう、道をくださり力をくださるためです。そのイエス・キリストを通して、人間を招かれる理由は、我々が神様に礼拝出来るようにするためです。礼拝という言葉はπροσκυνέω(プロスクィネオ)というギリシャ語を翻訳した言葉です。プロスは「 – に向かって」という意味であり、クィネオは「口付ける」という意味だそうです。 「誰かに口付ける、誰かにひれ伏す」という意味を持っているそうです。ところで、面白いのは、クィネオの語源である「クィオン」の意味です。このクィオンは犬という意味ですが、クィネオという言葉は主人の手を舐める犬の姿から来たそうです。 この原語の意味を研究しながら考えたことですが、イエス様が来られ命の水をもって私たちを清めてくださったのは、神様の手に口付けることが出来る清い存在として生まれ変わらせてくださったことではないかということです。お宅で犬や猫を育てておられる方もいらっしゃると思います。もし、主人のない野良犬が皆さんの手を嘗めたとしたらいかがでしょうか?噛まれるんじゃないかと心配されるでしょう?しかし、ご自宅で育てておられる愛犬が手を嘗めればいかがでしょうか?頭を撫でて可愛がられるでしょう?イエス・キリストを信じるということ、命の水である彼に清められたというのは、いつ神に近づいても神様に拒まれない者、そのような存在になるということではないしょうか?私たちが礼拝することが出来るというのは、正にこの神との関係に壁がなくなるということではないでしょうか?イエス・キリストは、疎外される者、不浄な者を召され、新たにされ、御父と和解させてくださる命の主でいらっしゃいます。私たちが過去どんな人生を生きてきたにせよ、どんな罪を犯したにせよ、どんな疎外を受けたにせよ、主は私たちと一緒におられ、私たちを清めてくださる方です。今日の本文が私たちに教えてくれる、明らかな事実は、過去私たちがどんな人生を生きてきたとしても、今は主イエスを通して父なる神様に堂々と礼拝することが出来るということです。  締め括り 今日も主イエスは疎外された者、不浄な者、罪人を探しておられます。そして、キリストの中にある命の水を惜しげもなく注いでくださる方です。主の命の水を通して霊的な渇きが癒され、主の命の水を通して霊的な清めが可能です。そのような新たになることにより、罪人は天の御父の御前に堂々と進むことが出来ます。イエス・キリストがいつも私たちの罪を洗い流し、新たにしてくださるからです。サマリアの女は今日、自分に訪れて来て、最も疎外され、不浄な自分に礼拝の機会を与えられた人が、まさにメシアであることを悟りました。その時、彼女は自分がなぜ井戸に来たのかも忘れてしまったように、水がめを置いといて、人々にイエスを伝えるために行きました。自分が、いつも求めてきた水を汲む水がめさえ捨てたのは、ひたすら真の命の水であるイエス様を伝えるためでした。主が彼女に永遠の命の水を与えてくださったからです。皆さん、サマリアの女を助けてくださったイエス・キリストは、今日も私たちと一緒におられます。疎外感を感じるとき、自分が汚れていると思われるとき、誰も自分の味方ではないと考えるとき、私たちと喜んで一緒におられる主イエスを覚え、主の慰めと愛に寄り掛かり、主と共に歩む私達、志免教会になりますように、祈ります。

イエスは命と復活の主。

詩編16編8-11節 ヨハネによる福音書 11章17‐27節 前置き イエス・キリストが罪人を救い、彼らに新しい命を与えるためには、必ずエルサレムに上られ、ご自分の命を捧げる十字架での死が必要でした。『私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。』(ローマ6:4)ローマ書の言葉のように、イエスの死と共に罪人が死に、イエスの復活と共に罪人も新しい命を得て復活するからです。そのため、イエスの死は、すでに定められた死であり、この死は逆説的にも、死に勝利するための第一歩でした。 人間にとって、死というのは、すべての終わりに等しいです。人間は死を克服する何の力もないからです。人間が死に至れば、肉体は土になって消え、魂は神に呼び出され裁かれます。しかし、イエスの死は、それとは異なります。その死は必ず復活を前提としている死であり、その復活が前提された死は命が終わる死ではなく、死を終えるための死であります。そういうわけで、イエス・キリストに於いて、死というのは終わりではなく、新たな始まりを意味します。ここに私たち、信者の希望があります。今日のラザロの死も、このような視点から見なければならないでしょう。死により、悲しみに満ちたところから、むしろ、その死を通して、復活の希望を見せてくださるキリストの恵み。私たちが、死に接する姿勢も漠然とした恐怖ではなく、死に打ち勝つキリストへの希望であるべきではないでしょうか? 1.復活は知識ではありません。 ラザロを蘇らせたしるしは、イエス様のエルサレム入城前の最後の奇跡でした。イエスは、ヨハネによる福音書の10章までの御教えとしるしを通して、民と共におられる神、民を赦してくださる神、民を愛しておられる神を示されました。しかし、このラザロを蘇らせたしるしからは、単なる教えとしるしではなく、イエス様ご自身が、ご自分の命を捧げ、神と民との間の壊された関係を治し、ご自分の死を通して民の罪を赦し、ご自分の復活と民の復活を成し遂げる真の救いの始まりを示してくださいます。イエス・キリストは思想家ではありません。革命家でもありません。単に知識を伝える理論家でもありません。イエスは、これまでの教えを網羅する完全な実践のためにエルサレムにいらっしゃって、自ら十字架にかかり、『救いを教える神』を超え『救いを行動する神』としての姿を見せてくださったのです。 大勢の人々が御救いについて知識としてだけ知り、復活を信仰の問題として考えています。しかし、イエスは、より実践的で、現実的な復活を示すことを望んでおられたのです。イエス様がラザロが病気にかかったという便りに接せられた時、彼の死についてこう語られました。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』(ヨハネ11:4)そして、しばらくして『私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く。』(ヨハネ11:11)と言われます。弟子たちはこれまで、イエスの多くのしるしを見てきたにも関わらず、イエスの言葉に懐疑的な態度をとります。『主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう。』(ヨハネ11:12)この言葉を通して、類推してみると、弟子たちは、いくらイエス様だといっても、死者についてはどうしようもないという考えを持っていたようです。イエスは、他の福音書を通して何度も、ご自分の死と復活を教えられました。イエス様こそが死に打ち勝つ方であるという事実を教えられました。しかし、ラザロの死の前で人々は、イエス様が命の持ち主であることを信じていませんでした。死ねば終わりだと思っていたのです。ただ知識としての教義については、主の言葉として喜んで頂きましたが、実際に死に勝利する主イエスの権威は信じていなかったということです。 そのような教義的な知識は、ラザロの妹であるマルタからも、そのまま示されます。『イエス様がここにいてくださいましたら、兄は死ななかったでしょう。私は今でも、イエス様が神に願ってくだされば、何でも神はかなえてくださると、知っています。しかし、私は終わりの日、復活の時に兄が復活することを知っています。』イエスは今や彼を蘇らせようとされたのに、むしろ彼の妹マルタは、イエスの力を信じているように言いながらも、現実を否むような姿をとっています。『将来、私たちがまだ知らない、いつか兄が復活するでしょう?私はそれを信じています。』 一見、マルタの信仰はとても成熟して合理的に見えます。イエス様を苦しめることもなく、自分の信仰も守ります。しかし、彼女は間違っていました。自分の前に、実際に人を蘇らせる方がおられることを見落としたのです。彼女はイエスを固く信じていました。しかし、彼女は自分の宗教的な知識に限って、イエスを信じていたのです。 2.復活とは何でしょう? そのような彼女の知識を破る出来事が起こります。イエス様が実際にラザロを蘇らせたことです。『イエスはラザロ、出て来なさいと大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。』(ヨハネ11:43-44)そのラザロの復活を見て、多くのユダヤ人がイエスを信じるようになりました。おそらく、マルタもイエス・キリストが、単に教義的な救い主、知識的な先生ではなく、実際に死に勝ち、生命を与えてくださる復活であり、命の主であることを信じるようになったのでしょう。神様がラザロを蘇らせるために主イエスをお遣わしになった理由は周りにいる群衆のためであり、彼らに信じさせるためでした。単に知識としてイエスを信じるのではなく、本当にそのイエスがご自分の言葉を成し遂げる力を持っておられることを教えてくださるためでした。そして、その御言葉のように、イエス様が十字架につけられて死に、実際に復活されることによって、主を信じる全ての人に永遠の命を与えてくださるということを予告されるためにラザロを蘇らせたのです。イエス・キリストがラザロを蘇らせたしるしは、教義的な知識に、実質的な体験を与えてくださる、知識と経験が一つになる本当の信仰を与えてくださる出来事になりました。 私たちは、人が復活するということについて、どういう考えを持っているでしょうか?もちろん、 キリスト者なら誰でも最後の日、イエスが再臨されると、自分も復活するという信仰を持っているのでしょう。しかし、今まさに、誰かが復活するということには簡単に頷けないでしょう。死んだ人が蘇ることは有り得ないことだからです。頭では信じるとしても、実際に起こるとは信じられないからです。しかし、主イエスは言われました。『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。』(ヨハネ11:25-26)イエスは、復活について、実際に存在しているものであり、私たちの中でも起こると言われました。しかし、イエス様が語られた復活はラザロのしるしとは別の概念です。それは永遠に再び死ぬことのない、復活を意味します。ラザロは永遠に生きることになったでしょうか?もし、そうだったら、今でもイスラエルには2000何歳のラザロが生きているはずでしょう。おそらくラザロは再び死んだでしょう。彼が再び蘇ったのは、永遠の命を与えてくださるイエス・キリストの復活の予告でした。彼を通して人間に復活と命をくださる方が、正に主イエスであるという教えを示すためだったのです。ですので、ラザロの復活は不完全でした。本当の復活は永遠に生きることであるからです。おそらく最後の日には、ラザロも完全に復活し、永遠に神と生き、二度と死を経験しないでしょう。 それでは、我々は、果たして復活について、どう考えるべきでしょうか?しばらく、原文を参照して言葉について勉強してみましょう。 25節に出てくる『私を信じる者』の「信じる」は、継続的に信じることを意味します。一度だけ信じて、やがて信仰を止めることではなく、主イエスへの絶え間ない信仰、どうなっても信じ込む信仰、ただ主イエスだけが唯一の拠り所であり、神様であるという信仰、そのような信仰を意味します。そんな者こそが『死んでも生きる。』者です。そして、その『死んでも生きる。』という文章での死はたった一度だけ死ぬことを意味します。物理的に一度死んでも、神は彼を永遠に覚えられ、死に置かず蘇らせてくださることを意味します。これは、イエスが再臨される時に起こる、体の復活だと考えてもいいでしょう。ところで、26節の言葉がちょっと気になります。 26節では、 26節では、生きている時イエスを信じた者が、継続的にその信仰を守れば、永遠に死ぬことはないという意味として記されています。 人は一度死ぬことが決まっている存在であり、最後の日に復活するというのは信じているのに、永遠に死なないというのは一体何の意味でしょうか?イエスを信じれば、1000年も生きるという意味でしょうか?それについて、ある神学者は、25節の言葉は、伝統的な復活を示す終末論的な復活を意味すると語りました。そして、26節の言葉は、イエスを信じる人は、その魂が神様から切られてしまう霊的な死から自由になり、永遠に神から見捨てられず、永遠な魂の命を得るという意味です。死んでも神様に守っていただくという意味です。そして、25節と26節の内容が一つになり、最後の日には体も、魂も新しく生きるようになるという意味です。 3.復活とは、神と連れあって歩むこと。 今日の旧約本文を詳しく見てみたいと思います。『私は絶えず主に相対しています。主は右にいまし、私は揺らぐことがありません。』(詩篇16:8)『あなたは私の魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。』(詩篇16:10)ダビデは、生前、何度も死に瀕する経験をしました。しかし、そのたびに主がダビデを助けてくださり、結局、彼を王にしてくださいました。ダビデは、死ぬほどの恐れと苦しみの中でも、彼を助け、愛してくださる神様を信じました。神はそのような彼を陰府に捨てられず、最後まで守ってくださり、ダビデはその神を信頼し、自分に「命の道」を教えてくださると喜び、褒め称えました。私たちが主イエスを信じ、彼からいただく永遠の命は、このようなものじゃないかと思います。常に死が私たちを脅かし、いつ私たちが消えてしまうかも知れない状況で、唯一の主イエスだけは、私たちの魂をご存知で、私たちと共に歩んでくださり、私たちを守ってくださる方だと信頼すること。もし、主イエスがいらっしゃらなければ、私たちの死後に何の希望もないはずだったけれど、イエス・キリストを通して神が私の命を召され、最後の日の復活の時まで、私たちの魂を大切に守ってくださるということ。復活は、このように神から離れないように、主イエスによる神の御守りが私達と共にあるということではないでしょうか? いくら蘇るといっても、再び死ぬなら、それは完全な復活ではないでしょう。また、死に決まっている復活ならば、真の復活ではないからです。むしろ主は、イエス・キリストを信じる信仰を通して得る希望、つまり神様がくださる永遠の命の希望を持って、誰でも経験しなければならない一度の肉体の死から、しばらく蘇らせられることにより、神から完全に見捨てられる魂の死、完全な死から自由になることこそが、真の復活であり、命であると言われているのではないでしょうか? 聖書は語ります。主イエスを信じて、主と共にいる私たちは、すでに復活を得た存在で​​あると。今日、イエスは言われました。 『私は復活であり、命である。』イエス・キリストは、私たちの復活のために死なれた方です。彼の死は、死に勝つための死でした。彼はすでに死に勝利され、彼と一緒にいる人は、その死の影響圏の外で生きていきます。私たちは、日増しに老いていくでしょう。死に近づいていくでしょう。しかし、私たちの魂は、日増しに右にも左にも揺るがず、神様に向かって進んでいくでしょう。そして死に会う日、死を乗り越え、神様に一歩近付く喜びと感動をもって神様と対面するでしょう。その日まで、私たちと絶えずおられる神の恵み、私たちを守ってくださるイエス・キリストの恵みが私たちと共に歩むでしょう。これが私たちの真の復活であり、命ではないでしょうか?  締め括り 母親の胎内にいる、胎児は何を考えているでしょうか?『ここを離れるとどうなるか?』という漠然とした不安を感じていることではないでしょうか?しかし、生まれてみると青空があり、広々とした海があり、暖かい日差しがあり、何よりも愛する人たちがいます。多分、私たちも、そんな胎児のように、死後に対する漠然とした不安を持って生きていくかも知れません。しかし、私達の長い生が終わり、神様に召される日、それ以来、むしろ今よりも遥かに美しく、幸せな主との歩みが繰り広げられると聖書は証言しています。ラザロが生き返った事件は、イエス・キリストの真の復活の予告でした。そしてラザロの復活を通して、私たちは、ただ知識的な信仰を経験的な信仰に変えてくださるイエス・キリストに会うことが出来ます。そして、ラザロを蘇らせた後、ご自分の民の復活のために自ら死に向かって行かれるイエス様に会うことも出来ます。明らかなことは、このイエス様がすでに復活され、死を征服されたということです。だから、イエスを信じる私たちは、死への永遠の恐怖から自由になることが出来ます。イエスが再び来られるその日、私たちは最も美しく、完全な姿で復活するでしょう。それからは、死は無くなり、神様は御自分の民とご一緒に永遠におられるでしょう。今日のラザロのしるしを通して、イエス様が私たちに示してくださった、この復活について深く考えてみる時間になることを願います。

良い羊飼い、悪い羊飼い。

エゼキエル34章7-10節 ヨハネによる福音書 10章1‐21節 キリスト教は三位一体なる神のみ、創り主、救い主、助け主として認められ、その中で、ひたすらイエス・キリストが中心となって、神と世界を理解するキリスト中心的な宗教であります。この世界の誰も、神様から遣わされたキリストに取って代わることが出来ず、そのキリストだけが神様に認められた世界の支配者であることを認め、信じる宗教です。父なる神様が旧約とは違って、イエス・キリストだけを三位一体の代表にしてくださり、玉座を譲ってくださった宗教であります。イエス・キリストは勝利者です。終わりの日には新約聖書の弱くて穏やかなイメージではなく、戦争に勝利した凱旋将軍の姿で再び、この世に来られるでしょう。イエス様が再臨される終わりの日、主イエスは、この世界のすべての善と悪を裁かれ、その栄光の玉座を父なる神様に返されるでしょう。これがキリスト教の伝統的な終末論なんです。 それにもかかわらず、このような勝利者イエス・キリストは、相変わらず羊を愛し、守る穏やかな良い羊飼いのイメージを持って、常に私たちに慰めと愛を与えてくださいます。そして、自らご自分を良い牧者だと称され、ご自分を信じる者をご自分の羊として招かれます。そして、お赦しくださり、お助けくださいます。イエス・キリストは、良い羊飼いです。彼に従って生きる者たちに『主は羊飼い、私には何も欠けることがない。』という詩篇の言葉のように希望と喜びを与えてくださる方です。ところで、私たちは、このイエス・キリストに選ばれ、彼の体なる教会の一員として生きています。それは私達がただの羊であるだけでなく、主の務めを分け与えられた存在だという意味です。この世で大牧者である主イエスの小さな羊飼いとして良い羊飼いの任務を持って生きているという意味です。主の羊として主の体なる教会になったら、主の小さな羊飼いとしての人生をも生きなければならないからです。そういう意味で、キリスト者なら、自分が羊であるということと共に羊飼いでもあるというアイデンティティを持って、この世界を生きて行くべきです。世の中には良い羊飼いと悪い羊飼いがいます。私たちは、果たして、どちらでしょうか?今日は、私たちが、果たして、どのような羊飼いなのか、また、どのような羊なのか考えてみたいと思います。 1.良い大牧者イエスと小さな羊飼いキリスト者。 イエス・キリストは、良い大牧者です。神を知らず、信じてもいないこの世で、神に選ばれた者たちを導かれ、神の牧場に連れて行かれる愛に満ちた大牧者です。また、イエス様は、羊の門です。誰でも自由に入ることが出来ない、ただ、選ばれた羊だけが入ることが出来る、たった1つの羊の門です。愛のない、他者のためではなく、もっぱら自分のために生きていく、自分のためなら他者が死んでも構わない邪悪な世界で、自らの命を捧げながらも、羊を愛してくださる真の羊の保護者になってくださる方です。『私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。』(ヨハネ10:11)ところで、このイエス様は自らが大牧者になってくださることと、同時に主の共同体の指導者にも、主の御心に聞き従う小さな牧者としての務めを与えてくださいました。今日の旧約本文に羊飼いという言葉が出てきます。これは、イスラエルを治める王と貴族を示す意味です。彼らは民を愛さず、自分らの欲望だけを満たそうとした人々でした。主はそんな彼らに滅亡という恐ろしい裁きを下しました。 良い大牧者イエス様は、ご自分の命すら捨ててまで、民を生かされた愛の主でしたが、滅ぼされたイスラエルの牧者たち、つまり指導者たちは、自分らの名誉、権威、富だけを考え、貧しくて可哀相な民の事情には何の興味も持っていませんでした。もちろん、神様に褒められた王と貴族もいましたが、ほとんどの王族や貴族は民の幸せより、自分の欲望を満たすのに忙しかったのです。神はこの世の一挙一動を全部知っておられる方です。私たちの髪の毛さえも数えられる方です。そのため、苦しんでいる民の呻き声と涙にさらに深い共感と関心を持っておられる方です。そのような神の御心を理解ぜず、むしろ民を放っておいた牧者たちのせいで、イスラエルは神に呪われ、他国に滅ぼされてしまいました。羊を愛さず、打ち捨てた羊飼いたちは、心深く羊を愛される大牧者に裁かれ、滅ぼされたのです。 皆さん、私達、教会はイエス・キリストの体です。教会は、イエスの手と足、唇になって、イエス様が愛する人々に仕え、主の福音を宣べ伝える使命を持っています。私たち志免教会の一人一人が皆、主の手と足、唇としての人生を生きています。隣人に仕え、愛することは、イエスの体であるキリスト者において、当たり前なことであり、近所の人々に主の福音を伝えることは、私たちが召される日まで止まってはならない非常に重要な価値であります。牧師、宣教師、伝道師、教職者だけが羊飼いではありません。大牧者であるキリストの教会を成す全ての信徒は、イエス・キリストに羊飼いとしての任務を与えられた主の小さな羊飼いです。ですので、私たちは教会員どうし、お互いに自分の羊のように愛しなければなりません。また、まだ信じていない周りの隣人にも、失われた羊だと思い、福音を伝え、愛をもって仕える義務があります。ただイエスを信じ、祝福され、天の国に入り、自分だけのために信仰生活をするなら、それは神に呪われた、昔のイスラエルの王族と貴族の形と、別に違いがないでしょう。大牧者イエス・キリストによって遣わされた私たちは、主の小さな羊飼いです。今、私達の心に小さな羊飼いとしての自覚があるかどうか、考えて見るべきだと思います。 2.羊は羊飼いの声を聞き分ける。 教会の真の良い羊飼いはイエス・キリストです。韓国の教会では、たまにあることですが、教会に仕えるために召された牧師が、『自分は特別に選ばれた羊飼いである。』という考えを持っている場合が少なくないと思います。言葉では牧師ですが、まるで、自分が教会の所有者のように振舞うケースがあるということです。しかし、厳密に言えば牧師も、結局、羊の群れの中で、教える務めを与えられた、羊を教える羊に過ぎないです。つまり、牧師も、信徒も、皆が主の羊であり、皆、お互い助け合う主の小さな羊飼いとして選ばれた者であると考えるのが正しいではないかと思います。ただ、教職者は神学、聖書について専門的に勉強したので、講壇では権威を認められるべきだと思いますが、牧師も基本的には主の羊ですので、教職者も、主の羊として、神の声を謙虚に受け入れなければなりません。時々。神学博士の知識を超える本質的な神の言葉が幼稚園の子供の口から出るときもあるからです。主の羊といえば、謙虚に主の御言葉に与かるものです。それでは、果たして主の言葉とは何でしょうか? それはイエス・キリストを通して聞こえて来る聖書の御言葉を意味します。イエスを通さずに、聞こえてくる全ての愛の言葉、聖書の言葉、救いの言葉、宗教的な言葉は注意する必要があります。韓国から渡ってきた統一教会、アメリカから渡ってきエホバの証人など、イエスを認めない、全ての聖書の教えは、残念ながら、全部嘘ばかりです。彼らは盗人であり、強盗であります。これは私たちだけが真理だという独断ではありません。これは彼らが正しい救いの道ではなく、イエス・キリストを示さない間違った教えを伝えるからです。今日の本文はこう語っています。『はっきり言っておく。私は羊の門である。 私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。』(ヨハネ10:7-8)本当にイエス・キリストの民となった者は、ただイエス・キリストの言葉だけを聞くものです。 『盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。』(ヨハネ10:10)私達は主の羊として主の言葉を聞き分け、主イエスだけを通して神様に行かなければなりません。イエスのない言葉は、虚しさに過ぎないのです。  今の私たちは、大牧者である主イエス・キリストをちゃんと伝えている良い羊飼いとして生きているでしょうか?そして、主イエス・キリストの御言葉をきちんと聞き分ける本当の羊として生きているでしょうか?私たちは、主の言葉を、どのように受け入れ、生きていっていますか?聖書は良い大牧者イエスと悪い羊飼いについて明確に比較しています。この聖書の言葉を通して主の御言葉に与かった私たちは、その違いを通して自分自身を省みるべきだと思います。このような反省を通して、悔い改めが始まり、その悔い改めを通して神の恵みが臨むからです。今日の話を締め括る前に、二人の日本のキリスト者の話しを分かち合いたいと思います。この話を聞きながら、真の羊飼い、真の羊は果たして、どちらか?考えてみる時間にしたいと思います。 3.良い羊飼い、悪い羊飼い。 1941年、昭和16年6月、日本の34個のプロテスタント教派は強制的に統合されます。これは軍国主義による教会統制の一環でした。このような統合により、生まれたのが、まさに日本キリスト教団です。その日本キリスト教団の初代議長は富田満という神学者でした。愛知県春日井市出身の富田満は、旧日本キリスト教会の大会議長であり、東京神学校の理事長などを歴任するほど、影響力のある牧師でした。彼は正統的なキリスト信仰とは違う自由主義的な神学を用い、軍国主義に賛同し、最終的には神社参拝は偶像崇拝ではなく、国民儀礼であるという言い訳をしました。また、彼の導きにより、日本の教会は、神社参拝を行います。それだけではなく、彼の主張の下で、朝鮮の教会も神社参拝を強要されます。韓国のチュ・キチョル牧師は神社参拝を拒否したため、投獄され、殉教しました。大勢の信徒が信仰を守るために投獄されたり、殺されたりしました。一方、大勢の朝鮮の牧師たちは、富田の主張に負け、朝鮮神宮で参拝を行なってしまいます。そのような韓国の牧師たちが、今も韓国のキリスト教の偉大な指導者として尊敬される場合があり、遺憾を禁じ得ません。富田満は、戦後、ちゃんとした懺悔や謝罪もせず、日本キリスト教団の影響力のある牧師として活動し、1961年に亡くなります。 韓国のソウルには楊花津宣教師墓地という場所があります。世界各国から来た宣教師たちを記念するところです。そこには日本人宣教師の墓が一つあります。まさに曾田嘉伊智の墓です。山口県出身の曾田嘉伊智は、植民地朝鮮で朝鮮の孤児たちを自分の子供のように面倒を見た義人です。彼は朝鮮の植民地独立のために朝鮮人たちと協力しようとした人ですが、朝鮮人にはスパイとして、日本人には裏切り者として両方から嫌われた人です。しかし、彼は信仰の力を通して、忍耐し、全ての誤解を乗り越えました。そして真の平和を望み、朝鮮人を助け、日本人を宣教しよう、という一念で生きました。朝鮮人たちは、彼の心に感服し、同胞のように信じ従います。日本が敗戦し、戦争が終わった時、本国に帰ろうとしていた北朝鮮地域の日本人たちが、ロシア軍に無惨に攻撃されたことがありました。当時、近所の教会で伝道に携わっていた曾田嘉伊智は自分が仕えている教会堂に信者、未信者を問わず、日本人を集め、命をかけて守りました。彼は朝鮮の民衆、日本の難民、民族を問わず、主の愛をもって、人々の面倒を見ました。また、80歳頃、福音を伝えるために下関行きの船に乗ります。そして、日本全国を巡り、神の福音を宣べ伝えました。そして1961年に韓国に戻って来て、翌年神様に召されました。 締め括り 富田満と曾田嘉伊智。果たして彼らは神様の審判台で、どんな評価を受けたでしょうか?果たして誰が良い羊そして羊飼いとしての人生を生きたと褒められたんでしょうか?裁きは神様の領域ですので評価出来ないと思いますけれど、聖霊が皆さんの心にお答えをくださると信じ、皆さんのご判断に任せたいと思います。今日の旧約本文に出てくる『羊を養う。』の『養う。』の原文は『面倒を見る、愛をもって治める、付き合う、友達になる。』などの意味をも持っています。私たちは主の羊です。大牧者、主イエスは、私たちを養われます。だから、主は、私たちを守り、愛する友達になってくださいます。その主に愛された私達は、また、他者を愛するために小さな羊飼いとして遣わされました。主から愛を受けた私たちは、今や、他者を助け、愛する友達になる番です。主の羊であり、小さな羊飼いとなる私たちの生活を通して、主は喜ばれ、私たちを祝福してくださるでしょう。来たる一週間、良い羊、良い羊飼いとして、神様の喜びになりますように祈ります。そのような生活のために、主イエスの恵みと助けが、限りなくありますように切に願います。

神様の栄光、私達の栄光

創世記1章1-3節(旧1頁)・コリント人への手紙2 4章5‐6節(新329頁) 前置き いつか、栄光という言葉が、ふだん、日本で、どのように使われているのか、気になってきて、インターネットのGoogleジャパンと、yahooジャパンとに検索して見た事があります。すると、ハリウッド映画のタイトル、ある野球選手の人間勝利の物語、戦後日本の回復ストーリー等、色んな記事の中に栄光という言葉が書かれていました。私はこの切っ掛けによって、日本で使われている栄光という表現も韓国の使い方と、そんなに違わない事に気付いたのです。 この平凡な言葉、栄光。古今東西を問わず、人々はこの栄光という言葉をよく使います。 この栄光というのは、 特にキリスト者によって、 神様の栄光、主の栄光などの表現として、使われる場合が少なくないと思います。でも、神様の栄光という言葉が完璧に理解できる事は人間にとっては、中々、容易くないかもしれません。 日本語の辞書を引いて見ると栄光とは『 1.輝かしい 誉れ。2.幸先のよい光 。』 と記されていました。でも、聖書に記されている栄光とは、元々日本語の意味とは少し違います。単に人間が感じる栄光という意味ではなく、いっそう、神様中心的な表現です。栄光の原文『ドクサ』はギリシャ語の『ドケオー』に基づいた表現です。この『ドケオー』は『~に見える。』『~に思われる。』 などの意味を持っています。これを原文によって、考えて見れば、栄光とは人間が辿り着く事が出来ない神様という超越的な存在を『~に見える。』『~に思われる。』のように間接的に理解させる物である。という事が出来ます。 まるで、ヒマワリが、いくら花弁を伸ばしても、太陽に触れる事が出来ないように、私達は神様に自分の力では、捜し求める事が出来ません。人間は自ら、神様に触る事も、見る事も、感じる事さえも、出来る力がありません。神様は私達がご自身を、直接に理解する事を許されませんでした。それにも関わらず、神様の御業によって、私達が神様に理解できるように、ご自身を見せてくだいました。見る事が出来ない神が、自らご自身を見せてくださる。こういう訳で人間が神様に気付く事が出来る。これこそが正に神から人間に照らされる恵みの光、神の栄光ではないかと思います。そう言えば、神の栄光とは神様だけの物だという事が分かります。今日の本文は、そういう、神の栄光が、どう私達に知らせるようになるのかを教えてくれます。 1.人間と被造物とにとって、神の栄光とは。 神様はこの世を造られた時、『光、あれ。』と命じられました。この光は神様の本質に似ている物ました。最初の世界、闇の内、水で満たされていた状態。闇と水は 虚しさと死の象徴でした。この虚しさと死を打ち破った最初の被造物が、この光でした。光は神様の秩序の始まりでした。無秩序と死を追い出し、造り主の初被造物となり、始めの秩序の第一歩となったのが、この光でした。光は被造物への神様の栄光の象徴でした。『 良い贈り物、 完全な賜物は みな、上から、光の源である 御父から 来るのです。 御父には,移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません.(ヤコブ1章17節) 』ヤコブは神様が光の源であると告げました。父なる神様を光の源だと呼んだのはヤコブが悟った創造への意味深い告白だと思います。このヤコブが告げた光は、今日の本文にある程度、関係があります。今日の本文の6節の2ヶ所に光が出ています。『 闇から 光が 輝き 出よと 命じられた 神は、 私達 の 心の 内に 輝いて、 イエス • キリスト の 御顔に 輝く 神の 栄光を 悟る 光を 与えてくださいました.(コリント2 4:5-6)』原文を見ると、前の『闇から光が輝き出よと』の光と、後の『神の栄光を悟る光』の光との単語の形が両方違います。前の光はギリシャ語のフォースと呼ばれます。このフォースは自ら光を照らす、光源の事です。言葉通り、光の源です。後の光はフォースによって照らされた光、映し出された光のフォーティスモスと呼ばれます。このフォーティスモスは暫く後で、お話します。 今日の旧約聖書の創世記1章の光もフォースで、ヤコブ書の1章17節の光もフォースです。即ち、今日の本文の、前の光、フォースと、今日読みました、創世記、ヤコブ書の光は全部、同じ意味として、フォースと使われているのです。このフォースは自ら、輝く光です。神様は自ら、光を照らされるお方です。他の存在から、照らされる方ではありません。他者を照らされる神様は、輝かす光、フォースの源であられます。この光は神の本質、被造物が敢えて見る事が出来ない神の栄光の象徴です。神様のこのフォースによって照らされた存在は、映し出された光を現すものです。フォースにはフォーティスモスが、必ずついて来るためです。神様に造られた被造物は、このフォーティスモスを持って生きるものです。被造物は神のようには、決して、なる事が出来ませんが、神のフォースに伴うフォーティスモスによって、生きて行くべき存在です。神様のように他者、他の被造物を愛しながら、神様のお望みの事を従っていく、生き方が、全ての被造物の造られた理屈です。 この創造のルールは被造物の頭である人間にとっては、当たり前な話だと思います。このようにフォーティスモスを持っている初めの人は神様の形にそっくり、似ている存在でした。神様のフォースに照らされた初めの人は神様のように、他者を愛し、仕える者でした。他者を愛し、仕える事が出来る、この力が神の形にそっくり、似ている人間の本来の形でした。神様がお望みになった通り、生きる事が出来た人間、エデンの園で他の被造物を助けながら、神に礼拝する事が出来た人間。これが、神様が計画された人間の本当の姿です。この人間がご計画によって、造られた通り、生きるのが、人間が元々持っていたフォーティスモスの生き方、人間の真の栄光への道でした。神様から与えられた人間の栄光は、このフォースから生ずるフォーティスモスであったという事を、忘れない私達になりたいと思います。さて、ある日、この人間に問題が起こってしまいました。 2. 人間の問題を取り戻される主。 初めの人は神様に従って生きる事、この生き方に対して、心に疑いを差し挟む事になりました。神様からだけ、発される栄光を人間が奪おうとした訳です。これについては色々の神学的な見解がありますが、一つだけ、例えば、一番有名で、代表的な理論は、アウグスティヌスという神学者が主張した原罪論です。原罪というのは、原始から、祖先と子孫に繋がって来る罪の原因に関する理論です。祖先アダムが犯した最初の罪が今まで、人間を罪人として、生まれさせるという理論です。この罪への見解の真ん中にある事は、神の栄光を貪った最初の人間の話です。私はアウグスティヌスが、こういう原罪論という、主張を繰り広げた主な理由が、フォースとフォーティスモスとの繋がりのルールが破れてしまった訳だと思います。神様に頼って生きるべき人が、自ら自分の力に頼り、神の栄光を奪おうとし、神の下から、離れようとした、この野望がフォースのないフォーティスモス、源のない光、神の栄光のない人間、結局、死んでしまう者となった第一の原因だと思います。 人間は、このつまらなくて、虚しい野望のため、死の下に陥ってしまったのです。人間が栄光を得る事が出来る唯一の方法は、ただ、神の栄光の下に、ある事だけです。このように神様から、離れてしまった人間に、今日の本文は驚くべき事を教えてくれます。『闇から光が輝き出よと、命じられた神は、私達の心の内に輝いて、イエス • キリストの御顔に輝く、神の栄光を悟る光を与えてくださいました。(コリント人への手紙2 4:6) 』神様から、離れて死ぬ事になった人間、ロマ3:23のように『人は 皆、罪を犯して…

目を覚まさせる主イエス・キリスト-あなたは遣わされた者。

今日は個人的な証をもって説教を始めたいと思います。皆さんが既に知っておられると思いますが、私は父と名字が異なります。義父だからです。実の父は私が生まれる、わずか数ヶ月前に船舶事故によって、今の私よりも若い時、生涯を終えました。突然の事故で夫を失った母は毎晩、涙でした。そして、そんな中で私を産みました。一人親としての苦しみも辛かったと思います。そのように苦しんでいる母を理解出来なかった私は、自分だけが苦しいと思っていました。なぜ、自分を生んだのか、母を恨みました。きっと、その恨みの中に神様への恨みもあったのでしょう。一般的に子供は、父親を通して世界を見るそうです。子供にとっては、素晴らしい父親は世界を見通す良い眼鏡になってくれるからです。子供は父を通して世界を学び、世界を見る目が成長していくそうです。父という眼鏡がなかった私は、自ら盲人だと思いました。義父は本当に優しい人でしたが、その時の私は拒みました。そういうわけで、私の子供の頃や学生時代は、自信の無い、劣等感の強い、被害意識と心の傷いっぱいの時代でした。これらの傷は、刺(とげ)となり、隣人と家族にも酷い傷を残しました。 ところが、今の自分を顧みれば、心にそんなに大きな傷がないということに気が付きます。誰かへの恨みも持っていません。物事に感謝して生きようとしています。何か起きた場合、他者よりは、自分に過ちを見つけようとしています。一体、過去の私と今の私との間に何が起こったのでしょうか?それはイエス・キリストとの出会いという出来事でした。神学校に入る、約1年半前、夏の日、好奇心で読み始めたローマの信徒への手紙を通して、自身の罪に気付き、悔い改めることがありました。涙が止まらず、神様の御前でこれまで思いも寄らなかった悔い改めを絶えずしました。どれほど悔い改めたのか分からないほどでした。私はその時、初めて目覚めました。そして、イエス・キリストが自分を愛しておられること、神様が自分を地上に遣わされた理由、自分が計り知れないほどに祝福された人であることを悟るようになりました。このような出来事を通じて、イエス様は私に『私が正に、この世が正しく見えるように導くあなたの眼鏡である。』という悟りを与えてくださいました。 1.盲人のような人間。 イエス・キリストは眼鏡です。罪のため、歪んだ世界を正しく眺めさせる、人の本質をありのままに見ることが出来ようにする非常に良い眼鏡です。ところで、大事なのは、このイエス・キリストが、特別な人だけの眼鏡ではないということです。彼は神の御子であり、神の御言葉であり、神ご自身です。この世のすべてのものの主でいらっしゃいます。そのため、キリストは、世界のすべての人々の眼鏡になることが出来る御方です。このイエスを通して世界を見てみると、世の中が持っている、ありのままの本質を見ることが出来ます。自分の罪も、他者の痛みも、人間を愛しておられる神様をも見ることが出来ます。 今日の新約本文には生まれつきの盲人が登場します。この盲人は幼い頃から家族、親戚、近所の人に世話になり、生きてきた障害者でした。今も同じだと思いますが、イエスの時代では、特に、障害者という存在は、多くの偏見と不自由に甘んじて生きなければならない存在でした。古代人は障害者が不正をもたらす者だと信じていました。スパルタでは障碍者が生まれたら打ち捨て、死なせたそうです。ギリシャの哲学者プラトンは『障害者は完全な世界を妨げる存在だ』と主張しました。イエス様がおられたイスラエルも、これらと大きな違いがありませんでした。障害者は、神に呪われた存在、全く役に立たない存在、罰せられた存在という認識がはびこっていました。おそらく、今日の本文の盲人も、そのような偏見と差別の中で生きていたのでしょう。親も彼を知らないふりしたかも知れません。自らも自分が何の価値もない者だと思ったかも知れません。 私は子供の頃、聖書を読む際に、この盲人の話しが私の話だと思いました。彼が生まれつきの盲人であるように、私も生まれた時から父がいなかったので、体は健やかだけど、心は障害者かも知れないと思ったのです。多分、世の中には私だけではなく、多くの人々が、このような考えを持って生きた経験があるのではないでしょうか。自分の心の傷、不満、痛みにより、自分が何の価値もない者だと考えながら生きてきた人がいるかも知れません。生まれなければ良かったと自己批判した人もいるかも知れません。おそらく、ほぼ全ての人が生きてゆきながら、『私はなぜ生きているんだろう?死んだ方が良いんじゃないか?』と思った経験があるでしょう。そのような経験、思いがある人は多分、今日の本文の盲人のように、自分は非常にみすぼらしい者だという気持ちを感じたからでしょう。しかし、その時、彼らの目には良い眼鏡がなかったのだと思います。その人々は、自分の曇った目を通して世界を見て、自分の状況を判断したんだと思います。自分が背負うには、あまりにも重い荷物のような大きな世界の前で、限りなく小さな自分を眺めると、人間は自分自身が無価値な存在だと思うからです。 2.目を覚まさせる主イエス・キリスト しかし、主が盲人のような人を訪ねて来られれば、話しは違います。今日の本文で、イエス様は一生、光もなく、力もなく生きてきた、ある盲人を通りすがられました。その時、弟子たちが主に尋ねました。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』(ヨハネ9:2)盲人は何の罪も犯さず、ただ物乞いしながら、辛うじて生きてきたのに、世の偏見は再び彼を罪人に仕立て上げました。その時、主は世の偏見、先入観とは正反対の話しをされます。 『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』(ヨハネ9:3)人々が、歪んだ世界を見ている時、主は世界の本質をご覧になったのです。イエス・キリストは世界を正確にご覧になるからです。私たちが自分自身を歪めて見る時、世が私たちを歪めて見る時、主は私たちをありのままに見てくださいます。私たちが、弱くて疲れた時、誰にも自分の事情を話すことが出来ない時、私たちは主だけには、そのまま打ち明けても大丈夫です。主は間違うことなく、私たちの事情の本質を見て理解されるからです。 そのため、神様はイエス・キリストを遣わされたのです。『わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 わたしは、世にいる間、世の光である。』(ヨハネ9:4-5)イエス・キリストは、この世界の光です。最も暗いところに落ちている者の痛みに、最も明るい光を持って照らしてくださる方です。それ故、私たちは、イエスを信じることが出来るのです。イエス様は闇の中にいる盲人の光になってくださいました。この光は、ただ、目だけに見える光ではありません。この光は、魂の光でした。主は、その光を盲人の心に照らしてくださったのです。主は彼が盲人として生まれたのが、罪への罰ではなく、神の証人として呼ばれるための訓練だったということを教えてくださいました。盲人は人々に無視され、排除される存在でしたが、イエス・キリストに出会い、神の恵みと愛の証人として生まれ変わりました。彼の障害は、イエス・キリストを通して強力に臨む神の慈しみと愛の道となりました。 イエスは唾で土を捏ねて、彼の目にお塗りになりました。そして、シロアムの池に行って洗いなさいと命じられました。唾で捏ねた土と言えば、汚いと思われるかも知れませんが、これには意味があります。まるで、初めに神様が土を捏ねて人を造られたように、イエス・キリストも土を捏ねて彼の目に塗り、新しい命を吹き入れたという意味です。そして、『遣わされた。』という意味のシロアム池に送って、一生、目を覆っていた闇を洗い流すように命じられました。一生、盲人として苦しんで生きていた彼は、新しい目を得て、光を見るようになりました。罪によって呪われたと思われていた彼は、イエス・キリストのお助けにより、光を得たのです。そして、自分が呪われた存在ではなく、自分の障害を通して、主の恵みを示すために遣わされた人であることを悟るようになりました。彼は人々の前で自分を救われたイエス・キリストについて告白し、伝えました。最も暗くて低いところで唸りを発していた彼は、イエス様に出会い、光と喜びを得、イエス様の栄光を伝える遣わされた者となったのです。 3.キリストを宣べ伝える。 『主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。』(詩篇27:1)今日の本文、詩編27編の詩人が歌ったように、主は私たちの光です。私たちが、暗闇の中で迷っている時、主は、私たちの傍で、私たちが誰なのか、私たちがどこへ行くべきなのかを教えてくださる光になってくださいます。その光によって私たちは私達の行くべき道を明らかに知るようになります。だから、私たちは、私達の人生の力になってくださる神への信仰により、もはや恐れず、大胆に進むことが出来ます。今の私たちの弱さと苦しみと悲しみは、私たちの不幸ではありません。当面は辛いかも、厳しいかも知れませんが、イエス様に用いられるならば、最終的に、神様は私たちの困難を通して、さらに明るくて美しい未来をくださると信じます。 イエス様に癒され、見られるようになった盲人は、自分のアイデンティティをしっかり悟ることになりました。彼はもうこれ以上、不幸な人ではありませんでした。もうこれ以上、自分の不幸に閉じ込められている人ではありませんでした。彼はイエスを見るようになり、知るようになったからです。彼はイエス様を通して自分の不幸より、自分の環境よりも、大いなる神に出会うようになりました。かえって彼は目を開いていても、イエス様が神であることに気付かない宗教指導者たちを発見しました。彼らは、身体も健やかで、聖書もよく分かっていて、目もしっかり見えていましたが、隣人を愛しておらず、却って憎み、まったく神を知らない人たちでした。ついに目が見えるようになった盲人はしみじみと悟ったことでしょう。『本物の盲人は私ではなく、彼らだったかも。』イエス様もこのように言われました。 『見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。』(ヨハネ9:39) 盲人は、結局、イエス・キリストに、この世を正しく見る目を頂きました。そして、誰が真の神様なのか、イエス様とは、どなたなのか認識しました。それから、彼はイエスを伝える証人としての人生を生きるようになりました。光を得た盲人はイエス様に遣わされた者となりました。優れた知識や能力を持っている宗教指導者たちが遣わされた者ではなく、イエス様に出会い、信じる者が遣わされた者となったのです。イエス・キリストを通して、自分の痛みと弱さを治された者は、本当に目が開かれた人です。それから、自分の環境や状況に制限されず、その上におられる偉大な主を信じるようになった人です。そして、そのような経験をした人は、イエス・キリストに用いられ、主の福音を伝えざるを得なくなります。私たちは、このイエスに出会った人々でしょうか?私たちの生活の中に主イエスの足跡があるでしょうか?もし、そうならば、私たちは、イエス・キリストに遣わされた者として生きる義務を持っている人です。私たちは、このイエスを伝えて生きなければなりません。それはイエス・キリストを通して光を見た人が、生きて行くべき、当たり前の道であるからです 。   締め括り 今日の旧約本文である詩篇27篇を読みながら、私たちは自分の民を愛して見守り、助けることを喜ばれる神様を見つけることが出来ます。誰も自分を助けてくれない時、自分を見捨てる時、自分を憎む時、誰よりも自分を愛し、助けてくださる神の手を発見した詩人。その詩編の詩人の神様は、私達の神様でもあります。神様は、いつも御自分の民を愛し、助けることを喜ばれます。神様は簡単に誰かを呪われる方ではありません。誰かを悪意を持って苦しめる方でもありません。むしろ、私たちが、苦難の中にいる時、神様はその後の回復と成長を備えてくださる方です。人生の道のりで痛みと悲しみに苦しむ時、主を呼びましょう。その主は、私たちの苦しみを知らないふりされる方ではありません。主は喜んで助けてくださると信じます。私たちの痛みは彼を通して、喜びに変わるものであり、いつの日か、私たちの人生の良い栄養素のような経験になるでしょう。一生、盲人だった人が、イエス・キリストを通して目が開け、魂まで光を得たように、目を開けてくださるイエス様を信じて生きましょう。そして、私達の隣人も主イエスに目を開くことが出来るように主を宣べ伝え、主に遣わされた者として生きていきましょう。一週間の生活の中に主の恵みが豊かにありますように祈ります。

私もあなたを罪に定めない。

イザヤ書 42章1-4節(旧1128頁) ヨハネによる福音書 8章1-11節(新180頁)  前置き イエス・キリストは、律法を全うした方です。イエス様は『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。』(マタイ5:17)と言われました。イエス様の到来により、旧約の律法は完成されたのです。もはや律法は旧約の生け贄を捧げる行為のような儀式を守るための教えではなく、律法が持っている愛と真理を行うための教えになったという意味です。『まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。』(ヨハネ4:23-24) イエス様は、新約の礼拝が神様に霊と真理を持って行うものだと言われました。だから、イエスを信じる私たちは、もはや神殿という特定の場所で、旧約の祭りのような儀式や行為を伴う礼拝は捧げておりません。私たちはイエス・キリストの中で、聖霊と御言葉を通して礼拝します。人間の手によって建てられた神殿ではなく、神様が手ずから建てられたイエス・キリストという神殿によって、いつでもどこでも礼拝することが出来ます。新約時代はそういう時代であるからです。したがって、今や旧約の祭りの外的な行為、エルサレムでの形式的な儀式だけを保つことは、何の意味もありません。私たちは、今や、旧約の行為の中に隠れていた神様への感謝と隣人への愛を、神殿ではなく私たちの生活の中で行い、律法の真の精神を守っていくことにより、自分の生活を神様に喜ばれる聖なる生ける生け贄として献げなければなりません。聖日の礼拝は、そのような礼拝の始まりです。今日の礼拝を終えて教会堂を出る私たちは一週間の生活の中で、真の礼拝を捧げ、生きるべきです。 1.神の愛と赦し。 今日の本文は、そのような視点から読まなければ本当の答えを得ることが出来ない箇所です。旧約聖書を読むと、イスラエルには、3つの祭りがあったそうです。除酵祭、七週祭、仮庵祭です。この祭りは、出エジプトを通して、イスラエルを解放させ、守ってくださった神様に感謝する記念の祭りです。イスラエルの男性は、この祭りを守るためにエルサレムの神殿で生け贄を捧げました。イスラエルの祭りについては複雑ですので、今日は詳しい説明を省略したいと思います。ですが、この除酵祭、七週祭、仮庵祭という祭りを通して神様はイスラエルに崇められました。この祭りを通して、イスラエルの民は、神についての知識を得たり、主を記念したり、神の御心とは何かについて学んだりしました。今日は祭りが持っている、その機能に集中したいと思います。 ヨハネによる福音書7章の2節を見ると、ユダヤ人の祭りである仮庵祭が近づいていたと記されています。今日の物語が、仮庵祭の間にあったということです。この仮庵祭という旧約の祭りは神の御心を学ぶ期間でした。ユダヤ人の文献によれば、この仮庵祭の間には、2つの特別な行事があったそうです。1つ目は司祭の庭で行われた水の祭りです。この祭司の庭とは焼き尽くす献げ物の祭壇があった神殿の前庭です。その時、人々はシュロの木の枝、ヤナギの枝などを振りながら神様のお赦しを喜びました。加えて祭壇右手にヤナギの枝を立てて祈祷文を朗読しました。また、シロアムの池から汲み運んだ水で祭壇を洗う清めの祭りをしました。この祭りは、雨を求める雨乞いの祭りとしての役割も兼ねていました。当時のユダヤ人たちは、このような祭りを通して罪を洗い流し、命を与えてくださる神様を記念したのです。 2つ目は、祭司の庭の外側にある女の庭で行われた祭りでした。先にお話しました祭司の庭の祭りが終わると場所を移り、女の庭に行って四隅に立てられている燭台に火を灯し、夜を明かす祭りを行ったそうです。このように火をつけておき、老若男女が集まって、神の御前で踊ったり歌ったりしながら、この世の光となってくださる神を記念する祭りでした。『若いときの罪を赦される者には福あり、かつて罪を犯したが、今、赦される者には福あり。』ラビの導きに沿って、このような歌を声を限りに歌いつつ、暁になって鶏の鳴き声が聞こえてくれば、自分らの罪を赦してくださった神様に感謝の祈りを捧げたそうです。これらの盛大な祭りを繰り広げながら、イスラエルの仮庵祭は終わったのです。神様は仮庵祭のこのような祭りを通して、ご自分が民の罪を赦してくださる、真の神であることを示されました。人々は、これらの神の赦しに感謝しました。 2.他者への赦しのない人間の本質。 ユダヤ人は、これらの水と光の祭りを通して、水のように清めてくださる神、光のように闇を明かしてくださる神様を思い描きました。仮庵祭の一週間、祭司の庭で行なった水の祭りと女の庭で行なった光の祭りを通して、人々は乾いた地を潤し、洗い清めてくださる命の水のような神様の愛と、暗い世の中を照らす光のような神の偉大さを改めて確信したのです。この祭りは、人々の心を集中させ、出エジプト後、荒野で彼らを救ってくださった神様の赦しへの感謝として昇華させたのです。 神様に逆らった罪によりバビロンに滅ぼされてしまったイスラエルは、二度と国を成すことが出来ない奴隷に過ぎない民族でした。しかし、彼らが最も弱くなっている時、神様は彼らを再度、呼ばれました。イスラエルは、神様の赦しと愛によって、新たに自由を得、また自分の所に戻ることが出来ました。その後、イスラエルの指導者たちは、イスラエル民族に、自分たちの罪について、自分たちを救われた神様の愛について、彼らの罪を洗い流し、未来を明かしてくださった主について絶えず教えました。そのため、彼らは、これらの祭りを通して神の赦しと愛を再確認し、神の恵みに感謝したのです。 しかし、今日の本文を見ると、夜もすがら神様に感謝し、主の恵みを喜んだ人々が、突然変わることが起こります。『律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。』(ヨハネ8:3-5)宗教指導者たちが姦淫の罪を犯した女性を捕らえて来たとき、人々は彼女を打ち殺そうとしました。数時間前まで、神の命の水と神の光を記念する祭りを通して神の愛と赦しに感動していた彼らは、他の罪人については、何の赦しも、愛もなく、ただ石を取って彼女を打ち殺すことを考えるだけだったのです。神様は仮庵祭を通して、彼らに赦しと愛を教えてくださったのに、彼らは自分の罪が無くなり、自分が赦されたことだけを感謝し、他者への赦しと愛という最も大事な教えは、見落としてしまいました。姦淫した女性はいまにも、石に打たれ、殺されようとしています。神の赦しが自分たちのためには感謝すべきことだったけれど、姦淫した女性には適用されないと考えたからです。 3.赦してくださるイエス・キリスト。 その騒ぎの中、イエス様は、彼らの間におられました。朝になって再び神殿に戻って来られたイエス様は、人々に神の言葉を教えておられました。その時、宗教指導者たちは姦淫した女を連れてイエス様のもとに来ました。罪を犯した女を殺せと殺気立った群衆も一緒に来ました。神殿での一週間の間、水と光の祭りを行い、神の赦しと愛を記念し、最も喜びに満ちているべきだった群衆が姦淫した女性に対しては、如何なる哀れみも、愛もなく、ただ彼女を殺そうとして、イエスの前に来たということです。主の恵みを求め、愛を求め、赦しを求めた群衆の中でも、誰よりも聖書に詳しいと言われる、律法を堅く守る律法学者たちやファリサイ派の人々が群衆を煽って、その女性を連行して来たのです。そして彼女を殺そうとしました。仮庵祭は、彼らの心に、一体何を残したのでしょうか?熱心に礼拝だけを守ったからといって、キリスト者になるわけではありません。礼拝を通して神の御心が自分の心に残って、その言葉によって、自分を省み、変わる時こそ、私たちは真のキリスト者になるのです。 姦淫した女性は明らかに罪を犯しました。律法に照らして見れば死に値する人です。私も姦淫した女は罪人だと思います。しかし、群衆がこの女を捕らえて来た日は、神の恵みに感謝し、また、神に罪を赦され、隣人を愛しようと誓った祭りの最後の日でした。仮庵祭自体が荒野で民を導き生かしてくださった神様に感謝する祭りです。彼らは自分の罪の赦しを感謝しながらも、他者の罪は赦していませんでした。イエス・キリストは短い一言で仮庵祭の精神を示されました。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』(ヨハネ8:7)祭りにより感謝と喜びに満ちたユダヤ人たちは、罪を犯した女の前では、瞬く間に殺気に満たされました。彼らに感謝と喜びをくださった神様。その神様自体であるイエスが彼らをご覧になる時、どのようなお気持ちだったでしょうか? 私はイエス様が言われた一言『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』の前に、このような長い言葉が含まれていると思います。『「私は、過ぐる一週間、仮庵祭を過ごしながら、あなたがたに赦しの喜びと罪の赦しを再び与えた、あなたがたの神、主である。私は昔から、あなたがたの罪を赦してきた。だから、私はまた、この女の罪をも赦すのだ。私はこの女を罪に定めない。私はこの女を哀れみ、愛する。この女も私に赦されるべき私の民である。それにもかかわらず、あなたがたを赦した私に不満があるなら。』『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』仮庵祭の水と光の祭りを通して民を赦された神様は、御子イエス・キリストの言葉を通して姦淫した女性を赦して下さいました。主ご自身の赦しを直接見た人々は、良心に責め苛まれて、もはや女を責められませんでした。そして、彼らは1人、2人、自分の所に帰って行ってしまいました。イエス様は神の真の赦しを示してくださったのです。今日、神様の赦しと愛を記念する私たちの姿が、平日の生活で、どのように現れるか御言葉を通して顧みるべきだと思います。 締め括り 真の命の水と光である主イエス・キリスト。 イエスは仮庵祭に神殿で、イスラエルの祭りに隠れている真の精神を教えてくださいました。それは単に罪を赦されて喜ぶことだけで終わってはならないという教えでした。イエス様は姦淫した女にも同じように教えてくださいました。『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』出エジプト後、40年の間、荒野で民を守ってくださった神様に感謝するなら、命の水の源、世の光として、罪を赦してくださった神様を愛するなら、律法をよく守って生きたいなら、自分が神様に赦されたことを覚え、そのように他者の罪をも赦し、愛の人生を生きなさいということです。今日の物語は赦しと愛こそが、まさにこの祭りの真の精神であることを教えています。 『 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』(ヨハネ7:37-38)『 イエスは再び言われた。わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』(ヨハネ8:12)  イエス様は、ご自分が命の水の川であり、世の光であると言われました。そして、主イエスは姦淫した女の罪をもお赦し下さり、救いの光を照らしてくださる、真の命の水と光になってくださいました。今日の物語を通して、私たちは赦してくださる主について学び、また、私たちも主の民として赦しを実践する者になるべきだと思います。来たる1週間の生活に真の赦しのある私達、志免教会になることを祈ります。私たちを通して命の水の源、世の光であるイエス・キリストの豊かな恵みが、この志免町に施されますように願います。

生かす言葉、死なせる言葉。

前置き インターネットでの論争。 今日は少し残念な話から始まります。約10年前にインターネットにエンジョイジャパン、エンジョイコリアというホームページがありました。最初は日本と韓国が互いに友好的に良い交わりを分かち合おうという意図によって作られたホームページでした。しかし、意図は非常に良かったけれど、インターネットというメディア特有の匿名性や無規律性により、むしろ互いに攻め合う投稿をしたり、激昂した言葉で貶す場合が多くなりました。良い会話をしたり、良い文章を載せる両国の人たちも少なくなかったと思いますが、あまりにも対立的に非難する人が多くなってしまって、最終的に、このホームページは閉鎖されてしまいました。互いの考えから出てくる深刻な非難と敵意を濾過(ろか)する装置がなかったため、最終的に閉鎖されたのです。私は当時、そのホームページを通じて日本人と穏やかな話をしましたし、それなりに良い思いを分かち合う人もいましたので、そのホームページがなくなったのが、本当に残念だと思いました。しかし、そのエンジョイジャパン、コリアを通じて、むしろ、互いに偏見と憎しみを持つようになっていたことがより多かったかも知れないと、今も複雑な思いを持っています。 1.言葉とは? 今日、始めから、このように残念な例え話を挙げた理由は、当時、そのホームページで、日本と韓国の人々が相手を攻撃していた道具が、この言葉だったからです。皆さん、言葉には力があります。互いに嫌ったり、愛したりすることは人の言葉から最初に表れるからです。言葉というのは、単に口から出てくる言語以上の何かです。その言語を成り立たせる意図、考え、心の中から始まるもの、全てが結局言葉であると言えます。もし、互いに良い心を持って、良い言葉を使ったら、前の出来事のような残念なことは起きなかったかも知れません?言葉は人の思いを含んでいる器です。ある人がどのような言葉を使うのかによって、その人の正体がばれるのです。人が言葉を使うように、言葉も人を用いるからです。言葉は人の思想を含んでいる器だからです。 神様が人間に「言葉」を与えられた理由は、この言葉を通して人と人が通じ合い、心と心を分かち合わせるためでした。人に言葉がなければ、どういうふうに隣人と心を分かち合い、通じることが出来るのでしょうか?そういう意味で、言葉は確かに重要な道具です。しかし、また、この言葉というのを誤って用いれば、人と人の間に障壁を建て、誤解をもたらす道具にもなります。ドイツの実存主義の哲学者であるハイデガーは、このような言葉を残しました。 『言葉とは人間の存在が現れる場所である。』言葉は目に見えないけれど、その言葉を吐き出した人が立っているところを示すということです。愛の言葉を使うか、憎しみの言葉を使うかに応じて、話し手の立場は変わります。人がどのような言葉を使うのかによって、その人の存在は変わるという意味です。人を生かす人になったりし、人を殺す人になったりします。神様は人類に言葉をくださいました。その言葉の使用次第で、人の存在が決まります。 ギリシャ語で言葉をあらわす単語は「ロゴス」です。このロゴスとは主に「言葉」を意味します。しかし、ロゴスは、より多くて深い意味を持っています。「理屈、法則、秩序、真理」など、より哲学的、宗教的な意味を持っている単語です。このロゴスをヘブライ語に翻訳すれば「ダバル」となります。この「ダバル」という言葉は、神様が天地を創造するときに言われた、その言葉です。「ダバル」は爆発的なエネルギーを抱いている言葉です。神様が「ダバル」されると光が造られました。神様が「ダバル」されると太陽と月が造られました。神様が「ダバル」された時、全世界が創造されました。神様が「ダバル」される際に、「理屈、法則、秩序、真理」が生じました。神様が「ダバル」された時に全ての良いものが生まれたのです。神様は、その「ダバル」を人にも与えてくださいました。人がその「ダバル」をどう使うかによって、この世は変わります。良く変えることも、悪く変えることも。神様から与えられた「ダバル」を使う人間次第です。 2.憎しみの言葉に満ちている世界。 日本と韓国は歴史上多くの関係を結び合って歩んできました。学者たちは、朝鮮半島を経由して仏教のような文化や、中国から始まった服飾文化などが流れ込んできたと語ります。また、日本から朝鮮半島に鳥銃のような西洋文物が入ってきた場合もあったそうです。特に、薩摩芋、唐辛子のような韓国の食文化に非常に大きな影響を及ぼしたものが、日本から入ったという学説は、ほぼ事実だそうです。正直、日本と韓国は、真心を込めて協力すれば、どこの国よりも互いに助け合う国になることが出来ると思います。私は今まで、約20カ国を旅行したり、数ヶ月暮らしたりしたことがあります。その中に日本と韓国のように文化的に、言語的に似ている国は見たことがありません。まるで兄弟のような両国だと思います。日韓両国は、最も仲良くなることが出来る国だと思います。 しかし、今の日本と韓国はそれが容易ではないようです。連日、互いに醜い心と言葉をメディアを通して吐き出しています。韓国社会では反日という言葉を聞くことは難しくないと思います。そして日本でも、本屋に嫌韓論コーナーが、別にあるほどです。一部の人々は、相手の国が滅びることを願うという言葉を躊躇(ためら)いなく話しています。しかし、私たちは、より広く眺める必要があると思います。日本も韓国も、結局は神の被造物です。先祖の先祖まで遡れば、最終的に一人の祖先、そして、彼の造り主、神様につながるのでしょう。日本と韓国は兄弟です。ところが、今の日本政府と韓国政府は、まるで敵のように相手を憎んでいます。何と悲劇的な現実なのでしょうか?互いに愛し合って生きるにも時間が足りないのに、なぜ、このように憎まなければならないのでしょうか。 私は創世記に登場する蛇に変わった悪魔の名前が、ひょっとしたら、仲たがいの原因ではないかと考えたことがあります。悪魔が神と人、人と人との間に仲たがいの種を植えたのではないかということです。もちろん、神様は仲たがいさせられる方ではありません。しかし、弱い人間は、簡単に仲が引き裂かれてしまうのです。結局、アダムは神様を憎むようになり、人間の間にも不和が生じたのです。例えば、アダムは神様と妻を責めました。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』そして、アダムの長男カインは弟のアベルを酷くも殺してしまった後、さらに神様に無礼に振舞います。『主はカインに言われた。お前の弟アベルは、どこにいるのか。カインは答えた。知りません。わたしは弟の番人でしょうか。』 初めの、神様の愛の言葉に満たされた世に、人間の罪に伴って嫌悪が入って来ました。そして、そのような嫌悪の言葉は、今まで残って、この世界に、日本と韓国の間に、そして私たちの中に影響を与え、相手を憎み、対立するようにさせていると思います。 3.言葉を変えなければなりません。 神様は愛の言葉によって世界を創造されました。神様は御自分の言葉に肉体をくださり、世界に遣わされ、人間を救われました。神様はご自分の言葉を悟らせる聖霊を送られ、今も私たちと一緒におられます。神の御言葉は、愛の言葉です。その言葉によって、私たちは今日も神の愛の中に生きていきます。しかし、世は神様とは異なります。絶えず憎しみの言葉を吐いています。時には口から出る言葉では褒めていても、本当の心では憎しみに満ちている場合も多いです。箴言はこう示しています。『死も生も舌の力に支配される。舌を愛する者はその実りを食らう。』(箴言18:21)イエス様はこう言われました。 『あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。』(マタイ12:37)そして、ヤコブはこう語りました。『舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。』(ヤコブの手紙3:6)聖書は、常に人の言葉について警告しています。神様の民である私たちは、どのような言葉を使って生きるべきでしょうか? この世界は今、憎しみと恨みに満たされています。人の面前ではニコニコしますが、背後では睨みつける偽善者も多い世界です。このような世の中で私たち、主イエス・キリストを信じる者は、他と同じではいけないと思います。言葉と心を一致させるべきだと思います。言葉を通して人を殺す世界で、私たちは言葉を通して人を生かすべきです。言葉を通して暴力を振るう世界で、私たちは言葉を通して神の愛と赦しを伝えるべきでしょう。イエス様ははっきりと言われたのです。『善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。』(マタイ12:35)私たちは、善い人ですか?悪い人ですか?私たちの言葉が私達を証明しています。私たちの言葉が神様に喜ばれることを祈ります。 言葉には力があります。韓国の諺に「一言で千両の借金を返す。」という話があります。良い言葉が持っている影響力を力説する表現です。なにげなく、口から出てくるひとことの言葉、時には誰かの人生を変える復活の言葉になったり、時には誰かの心を崩す死の言葉になることもあります。しかし、私たちは毎日、言いますので、その重さを見落としている場合が少なくなくあります。良い言葉が良い関係を作り、良い言葉が美しい世界をもたらします。最近、日韓関係を眺めながら良い言葉、良い心が、両国の間に、どれだけ必要なのかをしみじみと感じています。神様が日韓の両国の間に良い言葉と、良い関係を結ぶことができる心をくださるように祈ります。良い言葉が持っている強力な力が神様を通して現れるように切に祈ります。そして、私たち志免教会も愛の言葉、生かす言葉を通して、始めに神様から与えられた美しい言葉をきちんと使いながら生きていく共同体になることを望みます。

王か?パンか?

「私はどのような人生を生きるべきか?」この問いは、古今東西を問わず、すべての人が一度は考える問いだと思います。「私はどのように生きて行かなければならないのか?」忙しい現代人、皆と同じ方向に向かって行きながらも、そのような自分の人生について自ら真剣に問い掛けるべき設問。「私は何のために生きていくのか?」皆さんは、こういう質問への答えを出したことがありますか?アメリカの16代大統領であるアブラハム・リンカーンは「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持つべきだ。」という言葉を残しました。 多分、私はリンカーンが「人は40歳を過ぎると、自分が何のために生きるべきかを弁(わきま)えなければならない。」という意味で、この話を残したのだと思います。もちろん、個人差があるので、早めに気付く場合も、遅く気付く場合もあると思います。私の場合は、聖書のある言葉によって40歳になる前に、何のために生まれたのかについて悟ることができました。その言葉が、まさに今日の旧約本文の言葉です。『人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。』 今日は『キリスト者としての私達はなぜ、生まれたのか?どう生きるべきなのか?』について話してみたいと思います。 1.パンへの人間の本性 – ヘロデ王 今日の新約の言葉は5つのパンと2匹の魚の奇跡と呼ばれる非常に有名な物語です。 4つの福音書に、全部登場するほど、多くの深い意味を持っている箇所です。ところで、ヨハネによる福音書を除く3つの福音書では、この5つのパンと2匹の魚の奇跡の物語が出る直前にヘロデ王がバプテスマのヨハネを処刑したという話が出てきます。なぜ、5つのパンと2匹の魚の話の直前にヘロデ王の話が出てくるのでしょうか?まさにパンに隠されている意味について話すためです。異民族の血統の王として正当性が弱かった彼は、自分のパン、すなわち自分の力を保つために、イスラエルの血統の女性との結婚を望みました。結局、自分の元妻を捨てて、イスラエルの血統の異母兄弟の元妻と結婚することになります。バプテスマのヨハネは、そのようなヘロデの行為が律法に適わないと、ヘロデとその新しい妻を糾弾します。するとヘロデの新しい妻はヘロデを操ってバプテスマのヨハネを殺させました。マタイ、マルコ、ルカの福音書では、この物語が出て来ています。 ヘロデがヨハネを殺した理由は、自分の権力のためでした。異民族の血統を受け継いだ王が民族的な正当性を得るために、律法に禁じられた結婚をし、その結婚についてヨハネが糾弾したからです。ヘロデの新しい妻は、そのようなヨハネの非難を防ぐために、彼を無惨に殺しました。聖書が語っているパンは、単に食べることだけに限るものではありません。先月の聖餐礼拝の説教で、私は食べることは、神様が与えられた祝福ですが、自分の欲望だけを満たすためなら、神様の呪いになる可能性があると話しました。ヘロデはパンに象徴される、自分の権力を強めるために、つまり、自分の欲望のために、神の預言者を殺したのです。 人に適度な権力と富と名誉は必要かもしれません。聖書を読むと、神様も権力と富と名誉を許されました。しかし、権力、富、名誉に酔って暴れた者たちは、結局、神様に裁かれました。私は今日、このパンを権力、富、名誉に喩えようとしています。人間は、このパンへの過度な執心をする傾向があると思います。自分のパンのために、他者に害を及ぼし、他者を憎み、ひどい場合は、他者の命を奪うこともあります。結局、このパンへの欲望が更に大きくなり、他者を踏みにじる権力として象徴される王への欲を出し、そのため、より多くの罪を犯してしまいます。パンへの欲望は、他者のパンを奪い、他者に苦しみを与える暴力になります。このようなヘロデの行為は、イスラエルの民に大きな痛みと悲しみを与えました。私たちの心の中にあるパンは、どのようなパンでしょうか?もしかしたら、それは自分の欲を満たすためのパンではないでしょうか? 2.パンに対するイエスの御心。 ところで、真の権力者である神の独り子、神の御言葉、主イエス・キリストは、このパンについてヘロデとは違う姿を示されます。『イエスはお答えになった。人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きると書いてある。』(マタイ4:4)イエス様は、人はパンだけで生きるものではなく、神様がくださる言葉をもっと大事にして、生きるべきだと言われました。パンだけを求める者は、神の言葉から遠ざかってしまいます。自分の欲望だけを求める者は、神の言葉が持っている正義、公平、愛から離れてしまいます。神の言葉を守って生きては、自分の欲望を満たすことが出来ないからです。イエス様は徹底的に人間のパンより、神の御言葉に従って生きて行かれました。むしろ、イエスは、より多くのパンを持つことが出来る立場から自ら抜け出し、より少ないパンも分け合おうとされました。自分の欲望ではなく、神の御言葉を、より大事に思われたからです。 イエスは、病んでいる、飢えている民を憐れんでおられました。ですので病気を治され、御言葉を聞かせてくださいました。そして、5つのパンと2匹の魚をもって大勢の人々を食べさせてくださいました。イエス様はパンだけを下さったのではなく、まず治してくださり、御言葉を聞かせてくださり、最後にパンをくださったのです。弱い者を慰められ、御言葉を教えられ、その次に食べ物を与えられたのです。イエスは人間の欲望のために、満足感のために、奇跡を起こされたわけではありません。イエス様は神の慰めと、教えの結果として食べ物を与えられたのです。ヘロデ王が自分のパンを得るために他者に害を及ぼし、痛みを与えたとは違って、イエス様は、他者に仕え、癒しと慰めを与えるために、ご自分のパンを分けてくださったのです。 イエス・キリストは、いつもご自分の権力と富と名誉よりは、人々の痛みと苦しみと悲しみに眼差しを注がれました。そして、ご自分の愛と御心が、この世で成し遂げられることを望まれました。主イエスはそのような主の御心が、主を信じる者たちに共有されることを望んでおられたのです。ですので、主は弟子たちに『あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。』と命じられました。弟子たちは、力が足りなくて、子供の5つのパンと2匹の魚を借りて主イエスに差し上げることしか出来ませんでしたが、主はその弟子たちの小さな努力を受け入れられました。その日、主イエスは男だけでも、5000人にもなる多くの人々を満足させるほど、豊かな食べ物を施されました。王としての権力のために、罪のない人を殺したヘロデとは違って、民のためにパンを分かち合った主は、まるでマナと鶉を通して、イスラエルを食べさせてくださった神様を象徴するように、民を助け、生かしてくださいました。 3.我々は、どっちのパンを選んで生きていくべきか? 人間は常に二つの心を抱いて生きていくと思います。自分の欲望を追いかける心、他者への愛を追い求める心。この二つの心が一塊になり、ある時は善を行なったり、ある時は悪を行なったりする時もあります。神様は今日も私たちの目の前に、二つのパンを置かれ、我々がどっちのパンを選ぶか見ておられると思います。私たちが選ぶべきパンは、ヘロデが願っていたパンでしょうか?それとも、イエス様が分けてくださったパンでしょうか?今、私達、皆が追い求めているパンは、どっちの方でしょうか? ヨハネによる福音書ではイエス・キリストを従っていた、弟子たちと群衆が登場します。イエスは飢えた群衆に食べさせるパンのために弟子たちを試み、彼らがどのように群衆を助けるかを見詰められました。弟子たちは、お金では済まない問題だと考えて、弱気になりましたが、それでも5つのパンと2匹の魚を持ってきて、主に差し上げました。彼らの力は弱かったのですけれども、彼らは信仰を持って、主イエスに行きました。そして、イエス様はその信仰に呼応して、多くの群衆を食べさせました。弟子たちは、自分の欲望を満たすパンより、イエス・キリストの御心を成し遂げるパンを求めたのです。そして、そのパンを喜んで主に捧げました。私たちが持っているひとかけらのパン、小さな力、小さな財力、小さな名誉を用いても、イエス様を信じ、彼の御言葉に聞き従うならば、私たちを通して神様の偉大な御業が表されると信じます。 今日の本文の群衆は弱くて病んでいる群れでした。自分たちが食べるパンさえも、用意できない貧しい群れでした。彼らにはパンが必要でした。そこで、イエス様は、かれらを哀れみ、喜んでお助けになりました。しかし、満腹した群衆は、イエスの御心に気付かず、続いて、食べ物を与える王としてイエス・キリストを無理やりに自分らの王にしようとしました。『人々はイエスのなさったしるしを見て、まさにこの人こそ、世に来られる預言者であると言った。 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。』(ヨハネ6:14-15)主は貧しい人を愛しておられますが、貧しい人だからと言って、皆が神の御心を知ることは出来ません。彼らは貧しさの中、急におなかが満たされたあまり、主の本当の御心を理解できませんでした。主のパンを食べた彼らは、自分の所に帰って行き、主がいかに自分らを助けてくださったのかを宣べ伝え、彼らも他者のためにパンのような存在として生きて行くべきだったのです。ですが、彼らは、ただパンだけに満足して、自分の在り方は何かについて、悟れませんでした。主はそのような彼らから離れ、退かれました。 王か?パンか? イエス・キリストは王です。ヘロデのように自分のことだけを考える王ではなく、民を愛しておられる王です。イエス・キリストはパンです。ご自分の権力、富、名誉だけのためにパンを求める王ではなく、自らパンになられ、人々に愛と慰めのパンを与えてくださる生命のパンであります。このイエスを信じる人は、ヘロデの道のりではなく、イエスの道のりを歩むべきでしょう。自分だけのためにパンを持とうとする人は、王になろうとする人です。このように生きていく人は、自分の真の王であるイエス・キリストを見違えるようになってしまいます。つまり、主の御言葉の教えを悟ることが出来ないようになってしまいます。群衆がパンだけに満足し、イエスを無理やり王にしようとしたのは、イエスが本当の王であると思ったわけではありません。イエスを通して、自分たちのパン、隠れていた欲望を満たすことが出来るということを悟ったからです。これは王になろうとする、ヘロデのような人間の欲望と、非常に似ている本能です。 主の御言葉に聞き従い、自分のパンを分かち合おうとする人は、自ら、イエスに従い、パンになろうする人です。彼らは真の王であるイエスを認め、そのイエスのように自分自身を犠牲にして、他者を生かす者、つまり、主イエスの御手に用いられるパンになることが出来ます。イエスは、この小さなパンを用いて、自分の御心を成し遂げられ、多くの人々に命を施してくださいます。 「私」という小さな存在が、ひとかけらのパンになり、主の御手によって用いられる時、私たちは隣人に希望と喜びを与える者になるでしょう。そして、隣人と分け合うパンと共に伝わる主の御言葉は、真の魂の糧となり、隣人を福音と救いの道に招くでしょう。今日も私たちは、王になろうとするヘロデの道と命のパンになろうとするキリストの道の分かれ道で生きています。私たちは、いくつかの道を行くのですか?5匹の魚の奇跡を読むとき、私たちは果たして、どっちの道に赴くべきでしょうか?王か?パンか?主に喜ばれる道を選ぶ賢い民として、この1週間を過ごしたいと思います。主の豊かな愛と恵みが皆さんとご家族の上にありますように。

ベトザタのイエス。

自由への人間の渇望。 1973年作の映画パピヨンをご存知ですか?無実の殺人の濡れ衣を着せられた主人公は、南米のフランス領ギアナの刑務所に連行されます。そして、そこから万死を冒して何度も脱出を敢行します。脱出する途中捕らえられ、日の当たらない独房に2年間も閉じ込められたり、めためたに殴られたり、あまりにも飢えて蜚蠊(ごきぶり)を捕って食べたりします。やっと脱出したのに、信じていた人の密告により再び捕らえられるなど、とても、辛い時間を過ごすことになりました。主人公は最終的にサメの群れに囲まれた、ある島の刑務所に移送されたりして、もろもろの苦難を嘗めました。それにも拘わらず、主人公は最後まで自由を求め、脱出しようとします。結局、映画は主人公が脱出に成功したシーンで終わります。この映画のテーマは自由でした。最後まで主人公が望んでいたのは、解放でした。そして彼を常に動かした原動力は、自由と解放への希望でした。 人間は老若男女を問わず自由と解放を追い求めます。この自由を得るために誰かは絶え間ない挑戦をしたり、誰かは命をかけたりします。しかし、自由は簡単に得ることが出来ません。大抵の現代人は、自分が自由に生きていると思うかも知れませんが、富の束縛、権力の束縛、名誉の束縛により、自分も気付かないうちに、現実の奴隷のように生きていると思います。 1位、或いは権力者でない限り、尊敬されることがない現代社会で『皆と異なったら、どうしよう?皆のようにお金を儲けることができなかったら、どうしよう?社会で独り負けになったら、どうしよう?』と怯えるあまり、最終的には安定した今の生活に満足し、これが正常だと思って、自ら自由を諦めてしまう場合もあります。結局、自分のことだけを考え、隣人への関心を持たないようになる場合もあると思います。このような現代を生きて行く私達にとって真の自由とは何でしょうか?今日の新約本文の物語を通して、真の自由とは何か?その自由を束縛するものは何か?そして、その自由への解放者としてのイエス・キリストは誰かについて考えてみたいと思います。 1.慈しみの家 – ベトザタ。 ベトザタはイエスの時代、当時のユダヤ人たちが使っていた池です。その意味は、「慈しみの家」でした。この場所は、実際に池というより水の貯蔵庫の方に近かったです。その大きさが神殿の貯蔵庫の次だったと言われます。何故かと言うと、このベトザタには、病人を治療する病院があったからです。手術と治療に用いるための綺麗な水が必要だったので、大きい貯蔵庫があったということです。ところで、ここには数多くの病人が集まっていました。なぜなら、そのベトザタに不思議な噂があったからです。今日の本文を読むと3節の次に、4節がありません。そして、そのまま5節に進みます。なぜでしょうか?まず、欠けた言葉をお読みいたします。『彼らは、水が動くのを待っていた。それは主の使いが時々、池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていても、癒されたからである。』これは、初めに書かれたヨハネによる福音書ではなかった箇所ですが、後、誰かによって加えられたものです。後といっても、古代の話ですので、現代になって操作されたものではありません。この内容は、日本語版のヨハネによる福音書の最後の部分に追加されています。 この言葉によると、ベトザタには主の使いが、時々天から降りてきて、水を動かすという噂があり、その水が動いた後、真っ先に入って行く人には、どのような病気でも癒される奇跡があったそうです。これが事実なのか、ただの噂なのかは分かりませんが、多くの人々が、自分の病気を癒すために、そこに集まっていたのは事実でした。その中には、今日の本文に登場する38年も病気で苦しんでいる人もいました。皆さん、この話を聞きながら、欠けた箇所の中にある『主の使い』という表現が気にならないでしょうか?愛の神様がなぜ、こんなにケチンボウのようになさったのでしょうか。私はベトザタが慈しみの家と言われているのに、皆を治さないで、1位だけを治す神、人々に虚しい希望ばかり、与える神が、本当に主イエスの父なる神様なのかと考えるようになりました。それでギリシャ語聖書5冊、英語聖書3冊を比べてみました。ギリシャ語の聖書では、『主の』の部分が一冊も無くて、英語聖書では、書かれたのもあるし、無いのもありました。たぶん、その『主の』は原文を翻訳するとき、追加されたかも知れないと結論を下しました。 イエスの時代のエルサレムはユダヤ教のみ、存在したわけではありません。エルサレムはローマ帝国の植民地としてギリシャ、ローマの宗教と文化も混ざっている所でした。イエスの当時のミシュナーというユダヤ文献から見ると、このべトザタは、ローマ神のための場所だったそうです。アスクレピオスはギリシャ、ローマの医術の神でした。杖にヘビが巻き付いている絵をご覧になったことありますか?今日、週報にも乗せられている絵です。これはアスクレピオスの杖です。考古学者たちによって、このアスクレピオスと思われる神像がべトザタで見つかったと伝わっています。べトザタは慈しみの家でした。しかし、その慈しみは、私たちが信じる、イエスの父なる神様の慈しみではなく、ギリシャの神の慈しみだったかも知れません。病人たちは、このギリシャの神像を見て、その神の天使が天から降りてきて、水を動かしてくれることだけを切に待っていたのでしょう。慈しみの家という名の場所で、僅か、一人のみに施されるケチな慈しみを眺めながら、一生を捧げた病人たち。実際にアスクレピオスの天使が降りてきて、水を動かしたのか、どうかは分かりませんが、人々は病気からの自由という希望を持って、生涯、偽りの神を待っていました。その偽りの神を通して得る自由は、非常に限定的であり、競争的でした。ただ1位のみ得ることが出来る慈しみでした。ベトザタの慈しみは、果たして真の自由と慈しみだったのでしょうか? 2.ベトザタの束縛された者。 ベトザタの病人はたぶん、イエスの時代の最もどん底に束縛されている弱者だったかも知れません。その時代、イスラエルの政治は純粋ではありませんでした。ダビデの子孫、ユダ系列の人ではなく、異民族出身のヘロデ王に統治されており、彼の力でさえも、ローマ帝国に許されたものでした。当時、ヘロデは神殿をより大きくて華やかに改築しましたが、実際には、イスラエルのためでなく自分の政治的権力と人気のためのものでした。宗教も純粋さを失っていました。イスラエルの神様から与えられる託宣は現れず、ユダヤ教の宗教指導者たちの富と権力と名誉のためのものとなってしまいました。社会的な状況も、純粋ではなかったです。富む者はさらに富み、貧しい者はますます貧しくなりました。貧しい者たちの反乱もよく起こりました。イスラエルは、親のない孤児のようであり、夫のない寡婦のようであり、住まいのない旅人のようだったのです。そのような状況、病人や障碍者は更に疎外され、自分たちの罪によって、神に呪われたという蔑視も受ける存在でした。そんな彼らには真の慰めと自由と慈しみが必要でした。権力者たちは、彼らに興味がありませんでした。極めて弱い彼らに何の助けの手もありませんでした。彼らがそのような状況から抜け出すことが出来る何の救いもありませんでした。彼らは死ぬまで病人、弱者として生きることが定まっていました。  彼らは二つの束縛の中にいました。まずは、1位でない限り、抜け出せない政治的、社会的な束縛でした。 『彼らは、水が動くのを待っていた。それは主の使いが時々、池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いた時、真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていても、癒されたからである。』の病気によって苦しむ者が病気から自由になるためには、まず水に入らなければならないという前提を持っていました。スリを働く途中、指を痛めた人が足早に水に入ると治されたということです。他者に暴力を振るいながら、怪我をした人も、先に入ると癒されたということです。しかし、生まれながら足を使えなくなった人や、残念な事故によって目の見えない本当の弱者は、治されなかったということです。いくら悪い人でも1位なら、治されるシステムでした。公平ではありませんでした。社会は彼らのために何もしてくれませんでした。ただ、確証のない噂を信じろという傍観。しかも偽りの神への信仰の強要だけで、何の希望も与えませんでした。 また、宗教的、文化的な束縛がありました。 罹って38年になった病人が、イエスによって癒された後、ユダヤ人たちは、彼の回復を祝いませんでした。神に感謝もしなかったのです。彼らは自分らの教義を突きつけ、『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。』と無慈悲な話しかしませんでした。彼らにとっては、病人の回復、希望、幸せは何の意味もなかったのです。苦しむ病人の回復なんかは大事ではなく、ただ彼らに重要なのは、自分たちの考えに合わない現実に対する否定的な判断だけでした。そもそも病人の痛みに関心がなかったので、彼らの癒しにも関心がありませんでした。そして、却って、このような弱者を助け、治した者を罪人として扱い、迫害しました。正しくない世界で、何の慰めも得られなかった弱者の命を、誰も大切に扱っていなかったということです。ベトザタの束縛は、単なる個人の問題ではありませんでした。それは社会が持っていた問題であり、社会が作っていた束縛でした。ベトザタの病人は、そのような束縛から絶対に逃れることが出来なかったでしょう。 3.ベトザタの解放者。 こんなに地獄のような現実、1位だけが逃れることが出来たべトザタの池、そして、そのべトザタの池の不条理に知らないふりをしていた指導者たち、そこから抜け出しても、情けの無い基準を挙げて判断し、非難した宗教人たち。もはやベトザタは慈しみの家ではなく、イスラエルの政治、社会、宗教、文化の便所のような所だったかも知れません。誰にも歓迎されない弱者をゴミのように脇に置き、神話みたいな噂を希望とさせ、死ぬまで閉じ込めておく下水道だったかも知れません。そこは慈しみも、公平さも、希望でさえも無い墓のような所ではなかったでしょうか。しかし、このように最も低い所に神の御子が臨まれました。しかも、ユダヤ人の祭りの日でした。皆が高い所、明るい所、すっくと聳え立った神殿を憧れたとき、神殿の真の持ち主であるイエスは、誰も見ていない最も低い所、暗い所、ベトザタをご覧になったのです。 そして、到底1位になれない38年の間苦しんでいた病人に手を差し出されました。『イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、良くなりたいかと言われた。』(ヨハネ5:6)イスラエルの下水道のような低いところに臨まれたイエス様は、その中でも最下位に注目されたのです。そして、彼が最も望むことを語られました。「あなたは良くなりたいですか?」その時、病人は治されることを求めませんでした。ただ、自分の惨めさを告白するだけでした。誰も自分を助けてくれなかったことを話しています。すると、イエスは彼の話をお聞きになり、最も低いところで苦しんでいた彼に回復を許されました。その時、彼は38年という長い年月の間に自分を苦しめた病気から、自由になります。そして、ベトザタという1位だけを覚える地獄から解き放されました。政治、社会、宗教、文化から見捨てられた人が、イエス・キリストの慈しみによって新しい人生を始めるようになりました。  しかし、彼が治されたにも拘わらず、人々は喜んでいませんでした。帰って安息日に律法を犯したと叱りました。誰が彼を安息日に直したのかと迫ります。誰が安息日にそのようにしたのか、と問いただしてイエスを迫害し、殺そうとします。しかし、イエスは言われました。『わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。』(ヨハネ5:17)いくら世の不条理と悪が暴れても、イエスは淡々と言われました。「君たちがいくら暴れても、私は私の父が今もなお働かれるように、働く。」イエス・キリストは、束縛と抑圧の下で苦しんでいる人たちを、自分の名誉、権力、富とは関係なく、ただ治してくださいました。そして、自分の命までも投げ出されました。偽りの慈しみに束縛されている者を、喜んで回復させたイエス・キリストを通して、神の真の慈しみが、その日、エルサレムに臨んだのです。最も低いところで、いつも働いておられた神様の豊かな恵みが解放者イエス・キリストを通して、その地に臨んだのです。 解放者イエス・キリスト。 今日の旧約本文は第2イザヤ書に記されているメシアの働きを示す箇所です。第2イザヤ書はイザヤ書40-55章の言葉です。その前の第1イザヤ書の内容とは時代的な違いがあります。特に、バビロン捕囚の時と多くの関連があります。そういうわけで、解放者メシアへの歌が多く登場します。国を失って束縛の中で苦難を受けたイスラエルに神は言われました。 『彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。』(イザヤ49:10)神のメシアが臨まれれば、ご自分の民を正しい道、湧き出る水のほとりのような自由へ導かれるでしょう。そういう意味で、メシアとして来られるイエス・キリストは解放者です。イエス・キリストは、罪による差別と偏見と嫌悪に満ちている束縛の世界に自由を与えてくださる、真の解放者です。ですから、イエス・キリストのおられるところには自由があります。その自由は差別、偏見、嫌悪からの自由であり、誰もが人間らしく生きることが出来るようにする真の自由です。そのような人間らしい生活を施すために、イエス・キリストは、解放者として来られたのです。 このイエス・キリストを主と告白するキリスト者の在り方は、どうあるべきでしょうか?キリスト者である私たちは、もしかしたら1位ばかり、高いところばかり、明るいところばかり憧れているのではないでしょうか?冷暖房が完備された教会堂で礼拝したり、聖餐を分けたり、賛美したりしながら、満足しているではないでしょうか?世界3位の経済大国の一員という姿に満足しているのではないでしょうか?果たして私たちは、周りの困っている人々への配慮と愛を抱いているでしょうか?我が町の誰かが差別を受けているではないか、苦しんでいるではないか?政治家たちが善を行なっているか、悪を行なっているか?我が国、我が町が、どのような歩みをしているのか?キリスト者なら、悩むべきだと思います。もし、このような悩み抜きで信仰生活をしているならば、今もなお最も低い所から人を救っておられるイエス・キリストは私たちをどのように考えられるでしょうか?解放者イエス・キリストは、教会だけの解放者ではありません。彼は全世界の解放者です。主イエスの体なる教会である志免教会は、イエス・キリストの心に従って、正義と愛を持って隣人、政治、社会、文化、宗教など、全領域を省みるべきだと思います。イエス様が下さる真の自由と慈しみが志免教会を通して、ここ、日本、福岡、志免に現れることを切に望みます。

カナでの婚礼とイエスの最初のしるし。

カナでの婚礼とイエスの最初のしるし。 前置き 水が葡萄酒に変わったことを、偉大なしるしだと言えるのか? 皆さんはどんなお酒がお好きですか?私は鰻丼と楽しむエビスビールが一番好きです。恐らく多くの社会人が仕事の後、自分の好きな摘みと、お酒1杯でストレスをほぐすでしょう。酒は人間が造った最高の発明品の一つかも知れません。酒は人間の歴史と共に、古代から続いてきた、非常に重要な飲み物です。創世記では、箱舟に乗って命を取り留めたノアが地面に降りて、最初にしたのが、葡萄栽培だったと記されています。そして、ノアはその葡萄で葡萄酒を作って飲んだそうです。バビロン、ペルシャ等の古代帝国には、ワインを管理する高位役人があるほど、酒の価値は重要だったそうです。古代エジプトでは、労働者の給料としてビールを払ったという記録が残っているそうです。日本でも新しい天皇の即位のための大嘗祭の時、供え物として白酒と黒酒とがあると知っています。韓国でも先祖を祭る時、新米で作った酒を差し上げます。このようにお酒は、古代から現在まで、人間の文化と深い関係を結んでいる飲み物です。 そうかといって、飲酒を勧めるわけにはいかないでしょう。お酒には、副作用も多いからです。飲みすぎで病気にかかったり、慢性アルコール中毒で家庭が壊されたり、酒による犯罪などが起こったりする場合もあり、お酒が原因である事件事故が少なくないと思います。ところで、今日の本文を見ると、イエス様が水を葡萄酒に変えるしるしを行われたと記されています。そして、水を葡萄酒に変えたしるしを通して、イエス様が、ご自分の栄光を現されたと語っています。水が葡萄酒に変わるのは確かに驚くべきことですが、酒に悪いところもあるのに、なぜ、これに対して素晴らしいしるしを行い、栄光を受けるべきだと褒めているのでしょうか?イエス様が主人公だといって聖書が肩を持っているのでしょうか?決して、そうではありません。今日はカナでのしるしを通して、聖書が何を示そうとしているのか、この出来事が、私たちにどんな益を与えるのか、皆さんと話してみたいと思います。 1.聖書での結婚とは? 今日の話を通して、まず、この出来事の背景である結婚式について考えてみたいと思います。まず知っておくべきことは、聖書に出てくる、ほぼ全ての物語にかけて当時の文化に対する基本的な知識を知っておく必要があるということです。そして何よりも聖書に記された言葉の一つ一つに何の意味が隠れているかを認識すべきだということです。聖書に記されている結婚というものは、一体何の意味を持っているでしょうか?結婚式は新しい始まりを意味します。結婚式は花嫁が花婿によって新たに生まれることを意味します。日本の殆どの場合、妻が夫の名字に従っています。もはや父の名字を使わないようになります。離婚しない限り、最後まで夫の名字を使うのです。聖書が記された時代も、これに似ていたようです。結婚によって、妻は夫に従属し、妻の生活は父中心から夫中心に変えられたのです。もちろん、今はフェミニズムなどの思想により、だいぶん変わったと思いますが、聖書が記された時期には、そうだったということです。 聖書は、この結婚式という言葉を象徴的に用い、神に背いた民が、神のもとに戻ってくることを喩(たと)えたりします。『恐れるな、もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな。 5あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/全地の神と呼ばれる方。』(イザヤ54:4-5)『それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。』(黙示録19:9)聖書での結婚式はこのように、罪人への赦し、死者の蘇り、弱い者が強まること、神の恵みと愛などとして解釈される場合があります。神様がイエス・キリストを直に遣わされ、罪人の夫となるようにしてくださり、罪人を赦してくださり、この地上に神の愛と恵みを施してくださるという意味として、この結婚式が使われたということです。 そういう意味で、カナでの婚礼は非常に深い意味を持っているのです。花婿、イエス・キリストが来られたのは、聖書を読む、全ての読み手をキリストの花嫁として招くという意味だからです。ヨハネによる福音書の婚礼が、誰の結婚だったか、明らかには分かりません。しかし、確かなことは、この物語の中では、私たちは婚礼に現れられたイエス・キリストを見つけられるということであり、イエス様の最初のしるしが、この婚礼で起こったということがわかるということです。この婚礼のしるしを通して、今後ヨハネによる福音書で活躍されるイエス様は、罪人の花婿として贖いと愛を宣べ伝えられるでしょう。この婚礼の物語を読む私たちは花嫁の席に招かれた存在です。イエス様は、婚礼の真の花婿として、私たちを御迎えくださるでしょう。果たして私たちが、このイエス・キリストの花嫁に相応しく生きているのか?この婚礼の話を読みながら、花婿イエス様をしっかりと迎えているかどうか考えてみる時間にしたいと思います。 2.聖書での葡萄酒とは? 花婿として来られたイエス・キリストの物語を通して、私たち、教会を花嫁に召された主の恵みについて考えてみました。本当に感謝と賛美をすべきお招きだと思います。ところで、その結婚式と水を葡萄酒に変えることは、何の関係があるでしょうか?パレスチナで葡萄はとても重要な作物です。葡萄はパレスチナの高温乾燥した気候に良く適合する植物です。葡萄栽培は古代イスラエルの経済に大きい比重を占めるものでした。葡萄はイスラエル民族の繁栄の象徴だったのです。日本で豊作を象徴するものは何でしょうか?おそらく、お米ではないかと思います。パレスチナでは、その豊作の象徴が葡萄だと言っても過言ではないでしょう。そのため、聖書で葡萄が持っている重要さは、私たちが考えているデザート用くらいの果物のレベルとは違うと思います。葡萄は、イスラエル人の生活であり、喜びであり、豊かさであります。つまり、この葡萄に含まれていた意味は、神からの至福と愛だったのです。葡萄酒は、まさにこのような葡萄を持って作り上げた神様が与えられる喜びの象徴でした。 イエスの時代のパレスチナでの結婚式の葡萄酒は非常に重要なものだったそうです。葡萄酒はお客を手厚くもてなす道具だったからです。婚宴で葡萄酒が足りないということは、お客に対する侮辱とされることで、ひどい場合は法律的な問題になり、訴えられる場合もあったそうです。それほど結婚式での葡萄酒は意味のあるものでした。聖書で葡萄酒が持っている意味は、多いです。特に重要なのは、メシアの到来、神様から与えられる祝福と恵み、喜びなどです。イエスの時代、イスラエルで葡萄酒は、先にお話しました葡萄以上の喜びの象徴でした。二人の人生が一つになる、最も嬉しい儀式である結婚式は、それ自体で、目出度いことであり、周りの人も一緒に喜ぶべき良いものです。このような目出度い結婚式に喜び、祝福、豊かさを象徴する葡萄酒が加わることは、この上無い喜びを象徴するのではないでしょうか? ところが、このような結婚式で葡萄酒が無くなってしまうということは、そのような極めて喜ぶ状態に冷や水を浴びせる残念なことになるでしょう。ですが、このような状況で、イエス様は、水を葡萄酒に変えるしるしを行われました。イエス様はこの世には、全く存在しない豊かさをくださるために来られたかたです。水のように何の味もないこの世に葡萄酒のような神様の豊かさと喜びをくださるために来られたのです。聖書での水は、時々死を象徴したりします。主はこれらの死が満ちた世界を喜びの葡萄酒のように変えるために来られたのです。罪によって神から離れたこの世で、孤児のように生きる人のために父になってくださる御父、寡婦のように生きる人のために花婿になってくださるイエス・キリスト、連れ合いのない人のために友達になってくださる聖霊。イエス・キリスを通して罪人と共に歩んでくださる三位一体なる神様は水のように何の味もない世界に葡萄酒のような喜びと豊かさを与えてくださいます。今日のカナでの婚礼のしるしは、単に水が酒に変わったという不思議な話しを聞かせるためのものではありません。単に水を酒に変えることは、ギリシャ神話にもある話しです。この物語が持っている、より重要な意味は、罪によって何の希望もない世界にイエス・キリストが来られ、神様だけがお与えになることができる喜びと豊かさを許してくださったということです。そして、その喜びと豊かさに満たされた新しい世界を造って行かれることを予告する出来事だと考えることができるでしょう。葡萄酒は、神様が与えてくださる喜びと豊かさの象徴です。 3.イエス・キリストの最初のしるしが持つ意味。 まず結婚式と葡萄酒を通して、今日の話しをまとめたいと思います。今日ヨハネによる福音書の本文には、このような言葉が出てきます。 『イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた』(ヨハネ2:11)『最初のしるし』という言葉の『最初』とはギリシャ原文の『アルケ』という言葉です。創世記1章やヨハネによる福音書1章に出てくる『初めに』が、まさにこの「アルケ」であります。これは、一番、二番のような順序を意味することもありますが、また、『最も根源的だ。』という意味でも使えます。カナ婚宴のしるしは、水のような世界を葡萄酒のように変えていかれるイエス・キリストの栄光を示す、最も根源的なしるしであるという意味です。イエス様の公生涯を力強く始めさせた出来事なのです。罪人の救い主であられるイエス・キリストが、この世の歴史に登場されたという意味です。主がおられるところには、他の存在から与えられない豊かな喜びがあるでしょう。葡萄酒が無くなって失敗直前の結婚式のような世界が、再び元気を得、豊かになるでしょう。イエス様が水を葡萄酒に変えられたしるしはまさにそれを象徴するものでありす。 今日の旧約本文である創世記の言葉です。『王笏はユダから離れず、統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。彼は驢馬をぶどうの木に、雌驢馬の子を良い葡萄の木につなぐ。彼は自分の衣を葡萄酒で、着物を葡萄の汁で洗う。』(創49:10-11)、イスラエルの先祖ヤコブが自分の息子ユダに遺言を残しました。ユダの子孫からシロ、即ちメシヤが臨むという内容です。ところで、この遺言でも葡萄の木と葡萄酒が出て来ます。葡萄の木の枝は割と弱い方です。家畜を繋げば、木が壊されるかも知れません。それでも、驢馬を繋ぐというのは、葡萄の木が豊かにある同時に非常に強く育って驢馬でさえ、折ることが出来ないほど豊作であることを意味するでしょう。また、葡萄の栽培が豊作なので、貴重な葡萄の汁に服を洗濯しても、残るほど、葡萄があふれているということを意味します。メシアが来られれば世が、変わるという意味でしょう。神様が与えられる喜びと豊かさが、この世にいっぱいになるでしょう。この創世記の預言に呼応して、真のメシアであられるイエス・キリストが来られ、カナの婚宴を通して、その始まりを示してくださったのです。 締め括り 我らの人生の葡萄酒は何ですか? ところで、説教を作成している途中、一つの悩みが生じました。私がいくらイエス様は、我らの花婿、葡萄酒だと声を限りに叫んでも、この世の中には、結婚式とか葡萄酒のような喜びと豊かさを享受出来ない人が、あまりにも多いということです。果たして私たちの人生の中で、この葡萄酒として象徴される喜びとは何でしょうか?毎日繰り返される生活、そんなに特別ではない人生、時には安らかではない状況を見て、果たして葡萄酒のようなキリストの恵みというのは、存在するのだろうかと疑うかも知れません。しかし、私はそのような状況の中でも、私たちを諦められず、常に共におられる神様の存在自体が葡萄酒のような豊かさではないかと思います。 私たちは、私たちがどこから来たのか、どこに行くのかということ、誰も知らない自分の苦しみと痛みを、神様だけは知ってくださること、いつも慰めてくださり、愛してくださることを知っています。まさに私たちに神様という喜びと豊かさの葡萄酒を与えてくださったイエス・キリストを通してですね。今、私の人生が輝いていなくても、その暗い挫折と痛みの場で、いつも私と一緒におられる、揺るがない神様を覚えてください。私たちの人生の葡萄酒は、まさに私たちと永遠におられる神様です。神様は、ご自分のご計画に従って、葡萄酒のような豊かな恵みを、ご自分の民の上に注いでくださると信じます。そして、これらの神様の愛は、私たちがこの世を去った、その後も絶えずに続くでしょう。その神様を信じて生きていきましょう。来たる一週間、花婿イエス・キリストから送られる豊かな恵みと愛がありますように祈ります。