神様の栄光、私達の栄光

創世記1章1-3節(旧1頁)・コリント人への手紙2 4章5‐6節(新329頁) 前置き いつか、栄光という言葉が、ふだん、日本で、どのように使われているのか、気になってきて、インターネットのGoogleジャパンと、yahooジャパンとに検索して見た事があります。すると、ハリウッド映画のタイトル、ある野球選手の人間勝利の物語、戦後日本の回復ストーリー等、色んな記事の中に栄光という言葉が書かれていました。私はこの切っ掛けによって、日本で使われている栄光という表現も韓国の使い方と、そんなに違わない事に気付いたのです。 この平凡な言葉、栄光。古今東西を問わず、人々はこの栄光という言葉をよく使います。 この栄光というのは、 特にキリスト者によって、 神様の栄光、主の栄光などの表現として、使われる場合が少なくないと思います。でも、神様の栄光という言葉が完璧に理解できる事は人間にとっては、中々、容易くないかもしれません。 日本語の辞書を引いて見ると栄光とは『 1.輝かしい 誉れ。2.幸先のよい光 。』 と記されていました。でも、聖書に記されている栄光とは、元々日本語の意味とは少し違います。単に人間が感じる栄光という意味ではなく、いっそう、神様中心的な表現です。栄光の原文『ドクサ』はギリシャ語の『ドケオー』に基づいた表現です。この『ドケオー』は『~に見える。』『~に思われる。』 などの意味を持っています。これを原文によって、考えて見れば、栄光とは人間が辿り着く事が出来ない神様という超越的な存在を『~に見える。』『~に思われる。』のように間接的に理解させる物である。という事が出来ます。 まるで、ヒマワリが、いくら花弁を伸ばしても、太陽に触れる事が出来ないように、私達は神様に自分の力では、捜し求める事が出来ません。人間は自ら、神様に触る事も、見る事も、感じる事さえも、出来る力がありません。神様は私達がご自身を、直接に理解する事を許されませんでした。それにも関わらず、神様の御業によって、私達が神様に理解できるように、ご自身を見せてくだいました。見る事が出来ない神が、自らご自身を見せてくださる。こういう訳で人間が神様に気付く事が出来る。これこそが正に神から人間に照らされる恵みの光、神の栄光ではないかと思います。そう言えば、神の栄光とは神様だけの物だという事が分かります。今日の本文は、そういう、神の栄光が、どう私達に知らせるようになるのかを教えてくれます。 1.人間と被造物とにとって、神の栄光とは。 神様はこの世を造られた時、『光、あれ。』と命じられました。この光は神様の本質に似ている物ました。最初の世界、闇の内、水で満たされていた状態。闇と水は 虚しさと死の象徴でした。この虚しさと死を打ち破った最初の被造物が、この光でした。光は神様の秩序の始まりでした。無秩序と死を追い出し、造り主の初被造物となり、始めの秩序の第一歩となったのが、この光でした。光は被造物への神様の栄光の象徴でした。『 良い贈り物、 完全な賜物は みな、上から、光の源である 御父から 来るのです。 御父には,移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません.(ヤコブ1章17節) 』ヤコブは神様が光の源であると告げました。父なる神様を光の源だと呼んだのはヤコブが悟った創造への意味深い告白だと思います。このヤコブが告げた光は、今日の本文にある程度、関係があります。今日の本文の6節の2ヶ所に光が出ています。『 闇から 光が 輝き 出よと 命じられた 神は、 私達 の 心の 内に 輝いて、 イエス • キリスト の 御顔に 輝く 神の 栄光を 悟る 光を 与えてくださいました.(コリント2 4:5-6)』原文を見ると、前の『闇から光が輝き出よと』の光と、後の『神の栄光を悟る光』の光との単語の形が両方違います。前の光はギリシャ語のフォースと呼ばれます。このフォースは自ら光を照らす、光源の事です。言葉通り、光の源です。後の光はフォースによって照らされた光、映し出された光のフォーティスモスと呼ばれます。このフォーティスモスは暫く後で、お話します。 今日の旧約聖書の創世記1章の光もフォースで、ヤコブ書の1章17節の光もフォースです。即ち、今日の本文の、前の光、フォースと、今日読みました、創世記、ヤコブ書の光は全部、同じ意味として、フォースと使われているのです。このフォースは自ら、輝く光です。神様は自ら、光を照らされるお方です。他の存在から、照らされる方ではありません。他者を照らされる神様は、輝かす光、フォースの源であられます。この光は神の本質、被造物が敢えて見る事が出来ない神の栄光の象徴です。神様のこのフォースによって照らされた存在は、映し出された光を現すものです。フォースにはフォーティスモスが、必ずついて来るためです。神様に造られた被造物は、このフォーティスモスを持って生きるものです。被造物は神のようには、決して、なる事が出来ませんが、神のフォースに伴うフォーティスモスによって、生きて行くべき存在です。神様のように他者、他の被造物を愛しながら、神様のお望みの事を従っていく、生き方が、全ての被造物の造られた理屈です。 この創造のルールは被造物の頭である人間にとっては、当たり前な話だと思います。このようにフォーティスモスを持っている初めの人は神様の形にそっくり、似ている存在でした。神様のフォースに照らされた初めの人は神様のように、他者を愛し、仕える者でした。他者を愛し、仕える事が出来る、この力が神の形にそっくり、似ている人間の本来の形でした。神様がお望みになった通り、生きる事が出来た人間、エデンの園で他の被造物を助けながら、神に礼拝する事が出来た人間。これが、神様が計画された人間の本当の姿です。この人間がご計画によって、造られた通り、生きるのが、人間が元々持っていたフォーティスモスの生き方、人間の真の栄光への道でした。神様から与えられた人間の栄光は、このフォースから生ずるフォーティスモスであったという事を、忘れない私達になりたいと思います。さて、ある日、この人間に問題が起こってしまいました。 2. 人間の問題を取り戻される主。 初めの人は神様に従って生きる事、この生き方に対して、心に疑いを差し挟む事になりました。神様からだけ、発される栄光を人間が奪おうとした訳です。これについては色々の神学的な見解がありますが、一つだけ、例えば、一番有名で、代表的な理論は、アウグスティヌスという神学者が主張した原罪論です。原罪というのは、原始から、祖先と子孫に繋がって来る罪の原因に関する理論です。祖先アダムが犯した最初の罪が今まで、人間を罪人として、生まれさせるという理論です。この罪への見解の真ん中にある事は、神の栄光を貪った最初の人間の話です。私はアウグスティヌスが、こういう原罪論という、主張を繰り広げた主な理由が、フォースとフォーティスモスとの繋がりのルールが破れてしまった訳だと思います。神様に頼って生きるべき人が、自ら自分の力に頼り、神の栄光を奪おうとし、神の下から、離れようとした、この野望がフォースのないフォーティスモス、源のない光、神の栄光のない人間、結局、死んでしまう者となった第一の原因だと思います。 人間は、このつまらなくて、虚しい野望のため、死の下に陥ってしまったのです。人間が栄光を得る事が出来る唯一の方法は、ただ、神の栄光の下に、ある事だけです。このように神様から、離れてしまった人間に、今日の本文は驚くべき事を教えてくれます。『闇から光が輝き出よと、命じられた神は、私達の心の内に輝いて、イエス • キリストの御顔に輝く、神の栄光を悟る光を与えてくださいました。(コリント人への手紙2 4:6) 』神様から、離れて死ぬ事になった人間、ロマ3:23のように『人は 皆、罪を犯して…