私もあなたを罪に定めない。

イザヤ書 42章1-4節(旧1128頁) ヨハネによる福音書 8章1-11節(新180頁)  前置き イエス・キリストは、律法を全うした方です。イエス様は『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。』(マタイ5:17)と言われました。イエス様の到来により、旧約の律法は完成されたのです。もはや律法は旧約の生け贄を捧げる行為のような儀式を守るための教えではなく、律法が持っている愛と真理を行うための教えになったという意味です。『まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。』(ヨハネ4:23-24) イエス様は、新約の礼拝が神様に霊と真理を持って行うものだと言われました。だから、イエスを信じる私たちは、もはや神殿という特定の場所で、旧約の祭りのような儀式や行為を伴う礼拝は捧げておりません。私たちはイエス・キリストの中で、聖霊と御言葉を通して礼拝します。人間の手によって建てられた神殿ではなく、神様が手ずから建てられたイエス・キリストという神殿によって、いつでもどこでも礼拝することが出来ます。新約時代はそういう時代であるからです。したがって、今や旧約の祭りの外的な行為、エルサレムでの形式的な儀式だけを保つことは、何の意味もありません。私たちは、今や、旧約の行為の中に隠れていた神様への感謝と隣人への愛を、神殿ではなく私たちの生活の中で行い、律法の真の精神を守っていくことにより、自分の生活を神様に喜ばれる聖なる生ける生け贄として献げなければなりません。聖日の礼拝は、そのような礼拝の始まりです。今日の礼拝を終えて教会堂を出る私たちは一週間の生活の中で、真の礼拝を捧げ、生きるべきです。 1.神の愛と赦し。 今日の本文は、そのような視点から読まなければ本当の答えを得ることが出来ない箇所です。旧約聖書を読むと、イスラエルには、3つの祭りがあったそうです。除酵祭、七週祭、仮庵祭です。この祭りは、出エジプトを通して、イスラエルを解放させ、守ってくださった神様に感謝する記念の祭りです。イスラエルの男性は、この祭りを守るためにエルサレムの神殿で生け贄を捧げました。イスラエルの祭りについては複雑ですので、今日は詳しい説明を省略したいと思います。ですが、この除酵祭、七週祭、仮庵祭という祭りを通して神様はイスラエルに崇められました。この祭りを通して、イスラエルの民は、神についての知識を得たり、主を記念したり、神の御心とは何かについて学んだりしました。今日は祭りが持っている、その機能に集中したいと思います。 ヨハネによる福音書7章の2節を見ると、ユダヤ人の祭りである仮庵祭が近づいていたと記されています。今日の物語が、仮庵祭の間にあったということです。この仮庵祭という旧約の祭りは神の御心を学ぶ期間でした。ユダヤ人の文献によれば、この仮庵祭の間には、2つの特別な行事があったそうです。1つ目は司祭の庭で行われた水の祭りです。この祭司の庭とは焼き尽くす献げ物の祭壇があった神殿の前庭です。その時、人々はシュロの木の枝、ヤナギの枝などを振りながら神様のお赦しを喜びました。加えて祭壇右手にヤナギの枝を立てて祈祷文を朗読しました。また、シロアムの池から汲み運んだ水で祭壇を洗う清めの祭りをしました。この祭りは、雨を求める雨乞いの祭りとしての役割も兼ねていました。当時のユダヤ人たちは、このような祭りを通して罪を洗い流し、命を与えてくださる神様を記念したのです。 2つ目は、祭司の庭の外側にある女の庭で行われた祭りでした。先にお話しました祭司の庭の祭りが終わると場所を移り、女の庭に行って四隅に立てられている燭台に火を灯し、夜を明かす祭りを行ったそうです。このように火をつけておき、老若男女が集まって、神の御前で踊ったり歌ったりしながら、この世の光となってくださる神を記念する祭りでした。『若いときの罪を赦される者には福あり、かつて罪を犯したが、今、赦される者には福あり。』ラビの導きに沿って、このような歌を声を限りに歌いつつ、暁になって鶏の鳴き声が聞こえてくれば、自分らの罪を赦してくださった神様に感謝の祈りを捧げたそうです。これらの盛大な祭りを繰り広げながら、イスラエルの仮庵祭は終わったのです。神様は仮庵祭のこのような祭りを通して、ご自分が民の罪を赦してくださる、真の神であることを示されました。人々は、これらの神の赦しに感謝しました。 2.他者への赦しのない人間の本質。 ユダヤ人は、これらの水と光の祭りを通して、水のように清めてくださる神、光のように闇を明かしてくださる神様を思い描きました。仮庵祭の一週間、祭司の庭で行なった水の祭りと女の庭で行なった光の祭りを通して、人々は乾いた地を潤し、洗い清めてくださる命の水のような神様の愛と、暗い世の中を照らす光のような神の偉大さを改めて確信したのです。この祭りは、人々の心を集中させ、出エジプト後、荒野で彼らを救ってくださった神様の赦しへの感謝として昇華させたのです。 神様に逆らった罪によりバビロンに滅ぼされてしまったイスラエルは、二度と国を成すことが出来ない奴隷に過ぎない民族でした。しかし、彼らが最も弱くなっている時、神様は彼らを再度、呼ばれました。イスラエルは、神様の赦しと愛によって、新たに自由を得、また自分の所に戻ることが出来ました。その後、イスラエルの指導者たちは、イスラエル民族に、自分たちの罪について、自分たちを救われた神様の愛について、彼らの罪を洗い流し、未来を明かしてくださった主について絶えず教えました。そのため、彼らは、これらの祭りを通して神の赦しと愛を再確認し、神の恵みに感謝したのです。 しかし、今日の本文を見ると、夜もすがら神様に感謝し、主の恵みを喜んだ人々が、突然変わることが起こります。『律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。』(ヨハネ8:3-5)宗教指導者たちが姦淫の罪を犯した女性を捕らえて来たとき、人々は彼女を打ち殺そうとしました。数時間前まで、神の命の水と神の光を記念する祭りを通して神の愛と赦しに感動していた彼らは、他の罪人については、何の赦しも、愛もなく、ただ石を取って彼女を打ち殺すことを考えるだけだったのです。神様は仮庵祭を通して、彼らに赦しと愛を教えてくださったのに、彼らは自分の罪が無くなり、自分が赦されたことだけを感謝し、他者への赦しと愛という最も大事な教えは、見落としてしまいました。姦淫した女性はいまにも、石に打たれ、殺されようとしています。神の赦しが自分たちのためには感謝すべきことだったけれど、姦淫した女性には適用されないと考えたからです。 3.赦してくださるイエス・キリスト。 その騒ぎの中、イエス様は、彼らの間におられました。朝になって再び神殿に戻って来られたイエス様は、人々に神の言葉を教えておられました。その時、宗教指導者たちは姦淫した女を連れてイエス様のもとに来ました。罪を犯した女を殺せと殺気立った群衆も一緒に来ました。神殿での一週間の間、水と光の祭りを行い、神の赦しと愛を記念し、最も喜びに満ちているべきだった群衆が姦淫した女性に対しては、如何なる哀れみも、愛もなく、ただ彼女を殺そうとして、イエスの前に来たということです。主の恵みを求め、愛を求め、赦しを求めた群衆の中でも、誰よりも聖書に詳しいと言われる、律法を堅く守る律法学者たちやファリサイ派の人々が群衆を煽って、その女性を連行して来たのです。そして彼女を殺そうとしました。仮庵祭は、彼らの心に、一体何を残したのでしょうか?熱心に礼拝だけを守ったからといって、キリスト者になるわけではありません。礼拝を通して神の御心が自分の心に残って、その言葉によって、自分を省み、変わる時こそ、私たちは真のキリスト者になるのです。 姦淫した女性は明らかに罪を犯しました。律法に照らして見れば死に値する人です。私も姦淫した女は罪人だと思います。しかし、群衆がこの女を捕らえて来た日は、神の恵みに感謝し、また、神に罪を赦され、隣人を愛しようと誓った祭りの最後の日でした。仮庵祭自体が荒野で民を導き生かしてくださった神様に感謝する祭りです。彼らは自分の罪の赦しを感謝しながらも、他者の罪は赦していませんでした。イエス・キリストは短い一言で仮庵祭の精神を示されました。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』(ヨハネ8:7)祭りにより感謝と喜びに満ちたユダヤ人たちは、罪を犯した女の前では、瞬く間に殺気に満たされました。彼らに感謝と喜びをくださった神様。その神様自体であるイエスが彼らをご覧になる時、どのようなお気持ちだったでしょうか? 私はイエス様が言われた一言『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』の前に、このような長い言葉が含まれていると思います。『「私は、過ぐる一週間、仮庵祭を過ごしながら、あなたがたに赦しの喜びと罪の赦しを再び与えた、あなたがたの神、主である。私は昔から、あなたがたの罪を赦してきた。だから、私はまた、この女の罪をも赦すのだ。私はこの女を罪に定めない。私はこの女を哀れみ、愛する。この女も私に赦されるべき私の民である。それにもかかわらず、あなたがたを赦した私に不満があるなら。』『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』仮庵祭の水と光の祭りを通して民を赦された神様は、御子イエス・キリストの言葉を通して姦淫した女性を赦して下さいました。主ご自身の赦しを直接見た人々は、良心に責め苛まれて、もはや女を責められませんでした。そして、彼らは1人、2人、自分の所に帰って行ってしまいました。イエス様は神の真の赦しを示してくださったのです。今日、神様の赦しと愛を記念する私たちの姿が、平日の生活で、どのように現れるか御言葉を通して顧みるべきだと思います。 締め括り 真の命の水と光である主イエス・キリスト。 イエスは仮庵祭に神殿で、イスラエルの祭りに隠れている真の精神を教えてくださいました。それは単に罪を赦されて喜ぶことだけで終わってはならないという教えでした。イエス様は姦淫した女にも同じように教えてくださいました。『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』出エジプト後、40年の間、荒野で民を守ってくださった神様に感謝するなら、命の水の源、世の光として、罪を赦してくださった神様を愛するなら、律法をよく守って生きたいなら、自分が神様に赦されたことを覚え、そのように他者の罪をも赦し、愛の人生を生きなさいということです。今日の物語は赦しと愛こそが、まさにこの祭りの真の精神であることを教えています。 『 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』(ヨハネ7:37-38)『 イエスは再び言われた。わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』(ヨハネ8:12)  イエス様は、ご自分が命の水の川であり、世の光であると言われました。そして、主イエスは姦淫した女の罪をもお赦し下さり、救いの光を照らしてくださる、真の命の水と光になってくださいました。今日の物語を通して、私たちは赦してくださる主について学び、また、私たちも主の民として赦しを実践する者になるべきだと思います。来たる1週間の生活に真の赦しのある私達、志免教会になることを祈ります。私たちを通して命の水の源、世の光であるイエス・キリストの豊かな恵みが、この志免町に施されますように願います。