生かす言葉、死なせる言葉。

前置き インターネットでの論争。 今日は少し残念な話から始まります。約10年前にインターネットにエンジョイジャパン、エンジョイコリアというホームページがありました。最初は日本と韓国が互いに友好的に良い交わりを分かち合おうという意図によって作られたホームページでした。しかし、意図は非常に良かったけれど、インターネットというメディア特有の匿名性や無規律性により、むしろ互いに攻め合う投稿をしたり、激昂した言葉で貶す場合が多くなりました。良い会話をしたり、良い文章を載せる両国の人たちも少なくなかったと思いますが、あまりにも対立的に非難する人が多くなってしまって、最終的に、このホームページは閉鎖されてしまいました。互いの考えから出てくる深刻な非難と敵意を濾過(ろか)する装置がなかったため、最終的に閉鎖されたのです。私は当時、そのホームページを通じて日本人と穏やかな話をしましたし、それなりに良い思いを分かち合う人もいましたので、そのホームページがなくなったのが、本当に残念だと思いました。しかし、そのエンジョイジャパン、コリアを通じて、むしろ、互いに偏見と憎しみを持つようになっていたことがより多かったかも知れないと、今も複雑な思いを持っています。 1.言葉とは? 今日、始めから、このように残念な例え話を挙げた理由は、当時、そのホームページで、日本と韓国の人々が相手を攻撃していた道具が、この言葉だったからです。皆さん、言葉には力があります。互いに嫌ったり、愛したりすることは人の言葉から最初に表れるからです。言葉というのは、単に口から出てくる言語以上の何かです。その言語を成り立たせる意図、考え、心の中から始まるもの、全てが結局言葉であると言えます。もし、互いに良い心を持って、良い言葉を使ったら、前の出来事のような残念なことは起きなかったかも知れません?言葉は人の思いを含んでいる器です。ある人がどのような言葉を使うのかによって、その人の正体がばれるのです。人が言葉を使うように、言葉も人を用いるからです。言葉は人の思想を含んでいる器だからです。 神様が人間に「言葉」を与えられた理由は、この言葉を通して人と人が通じ合い、心と心を分かち合わせるためでした。人に言葉がなければ、どういうふうに隣人と心を分かち合い、通じることが出来るのでしょうか?そういう意味で、言葉は確かに重要な道具です。しかし、また、この言葉というのを誤って用いれば、人と人の間に障壁を建て、誤解をもたらす道具にもなります。ドイツの実存主義の哲学者であるハイデガーは、このような言葉を残しました。 『言葉とは人間の存在が現れる場所である。』言葉は目に見えないけれど、その言葉を吐き出した人が立っているところを示すということです。愛の言葉を使うか、憎しみの言葉を使うかに応じて、話し手の立場は変わります。人がどのような言葉を使うのかによって、その人の存在は変わるという意味です。人を生かす人になったりし、人を殺す人になったりします。神様は人類に言葉をくださいました。その言葉の使用次第で、人の存在が決まります。 ギリシャ語で言葉をあらわす単語は「ロゴス」です。このロゴスとは主に「言葉」を意味します。しかし、ロゴスは、より多くて深い意味を持っています。「理屈、法則、秩序、真理」など、より哲学的、宗教的な意味を持っている単語です。このロゴスをヘブライ語に翻訳すれば「ダバル」となります。この「ダバル」という言葉は、神様が天地を創造するときに言われた、その言葉です。「ダバル」は爆発的なエネルギーを抱いている言葉です。神様が「ダバル」されると光が造られました。神様が「ダバル」されると太陽と月が造られました。神様が「ダバル」された時、全世界が創造されました。神様が「ダバル」される際に、「理屈、法則、秩序、真理」が生じました。神様が「ダバル」された時に全ての良いものが生まれたのです。神様は、その「ダバル」を人にも与えてくださいました。人がその「ダバル」をどう使うかによって、この世は変わります。良く変えることも、悪く変えることも。神様から与えられた「ダバル」を使う人間次第です。 2.憎しみの言葉に満ちている世界。 日本と韓国は歴史上多くの関係を結び合って歩んできました。学者たちは、朝鮮半島を経由して仏教のような文化や、中国から始まった服飾文化などが流れ込んできたと語ります。また、日本から朝鮮半島に鳥銃のような西洋文物が入ってきた場合もあったそうです。特に、薩摩芋、唐辛子のような韓国の食文化に非常に大きな影響を及ぼしたものが、日本から入ったという学説は、ほぼ事実だそうです。正直、日本と韓国は、真心を込めて協力すれば、どこの国よりも互いに助け合う国になることが出来ると思います。私は今まで、約20カ国を旅行したり、数ヶ月暮らしたりしたことがあります。その中に日本と韓国のように文化的に、言語的に似ている国は見たことがありません。まるで兄弟のような両国だと思います。日韓両国は、最も仲良くなることが出来る国だと思います。 しかし、今の日本と韓国はそれが容易ではないようです。連日、互いに醜い心と言葉をメディアを通して吐き出しています。韓国社会では反日という言葉を聞くことは難しくないと思います。そして日本でも、本屋に嫌韓論コーナーが、別にあるほどです。一部の人々は、相手の国が滅びることを願うという言葉を躊躇(ためら)いなく話しています。しかし、私たちは、より広く眺める必要があると思います。日本も韓国も、結局は神の被造物です。先祖の先祖まで遡れば、最終的に一人の祖先、そして、彼の造り主、神様につながるのでしょう。日本と韓国は兄弟です。ところが、今の日本政府と韓国政府は、まるで敵のように相手を憎んでいます。何と悲劇的な現実なのでしょうか?互いに愛し合って生きるにも時間が足りないのに、なぜ、このように憎まなければならないのでしょうか。 私は創世記に登場する蛇に変わった悪魔の名前が、ひょっとしたら、仲たがいの原因ではないかと考えたことがあります。悪魔が神と人、人と人との間に仲たがいの種を植えたのではないかということです。もちろん、神様は仲たがいさせられる方ではありません。しかし、弱い人間は、簡単に仲が引き裂かれてしまうのです。結局、アダムは神様を憎むようになり、人間の間にも不和が生じたのです。例えば、アダムは神様と妻を責めました。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』そして、アダムの長男カインは弟のアベルを酷くも殺してしまった後、さらに神様に無礼に振舞います。『主はカインに言われた。お前の弟アベルは、どこにいるのか。カインは答えた。知りません。わたしは弟の番人でしょうか。』 初めの、神様の愛の言葉に満たされた世に、人間の罪に伴って嫌悪が入って来ました。そして、そのような嫌悪の言葉は、今まで残って、この世界に、日本と韓国の間に、そして私たちの中に影響を与え、相手を憎み、対立するようにさせていると思います。 3.言葉を変えなければなりません。 神様は愛の言葉によって世界を創造されました。神様は御自分の言葉に肉体をくださり、世界に遣わされ、人間を救われました。神様はご自分の言葉を悟らせる聖霊を送られ、今も私たちと一緒におられます。神の御言葉は、愛の言葉です。その言葉によって、私たちは今日も神の愛の中に生きていきます。しかし、世は神様とは異なります。絶えず憎しみの言葉を吐いています。時には口から出る言葉では褒めていても、本当の心では憎しみに満ちている場合も多いです。箴言はこう示しています。『死も生も舌の力に支配される。舌を愛する者はその実りを食らう。』(箴言18:21)イエス様はこう言われました。 『あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。』(マタイ12:37)そして、ヤコブはこう語りました。『舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。』(ヤコブの手紙3:6)聖書は、常に人の言葉について警告しています。神様の民である私たちは、どのような言葉を使って生きるべきでしょうか? この世界は今、憎しみと恨みに満たされています。人の面前ではニコニコしますが、背後では睨みつける偽善者も多い世界です。このような世の中で私たち、主イエス・キリストを信じる者は、他と同じではいけないと思います。言葉と心を一致させるべきだと思います。言葉を通して人を殺す世界で、私たちは言葉を通して人を生かすべきです。言葉を通して暴力を振るう世界で、私たちは言葉を通して神の愛と赦しを伝えるべきでしょう。イエス様ははっきりと言われたのです。『善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。』(マタイ12:35)私たちは、善い人ですか?悪い人ですか?私たちの言葉が私達を証明しています。私たちの言葉が神様に喜ばれることを祈ります。 言葉には力があります。韓国の諺に「一言で千両の借金を返す。」という話があります。良い言葉が持っている影響力を力説する表現です。なにげなく、口から出てくるひとことの言葉、時には誰かの人生を変える復活の言葉になったり、時には誰かの心を崩す死の言葉になることもあります。しかし、私たちは毎日、言いますので、その重さを見落としている場合が少なくなくあります。良い言葉が良い関係を作り、良い言葉が美しい世界をもたらします。最近、日韓関係を眺めながら良い言葉、良い心が、両国の間に、どれだけ必要なのかをしみじみと感じています。神様が日韓の両国の間に良い言葉と、良い関係を結ぶことができる心をくださるように祈ります。良い言葉が持っている強力な力が神様を通して現れるように切に祈ります。そして、私たち志免教会も愛の言葉、生かす言葉を通して、始めに神様から与えられた美しい言葉をきちんと使いながら生きていく共同体になることを望みます。