永遠の命の水が湧き出る。

ゼカリヤ書14章6-9節, ヨハネによる福音書 4章3‐14節 三浦綾子の改心。 戦後、結婚を控えていた三浦綾子は思いも寄らなかった肺結核の診断を受けることになりました。そして、それから十数年の長い長い闘病生活を始めることになります。長い間の病魔の痛みと虚無主義により、生きる理由を見失った彼女は、死にたいと思うほど精神的に衰えていきました。そのような時、一緒に闘病生活を見守った幼なじみの前川は献身的に彼女に仕えてくれました。彼はキリスト者でした。三浦綾子は、彼の支えにより、ただの恋ではなく、本当の愛を発見しました。しかし、前川は長い闘病生活のあげく、結局、先に神様に召されることになりました。三浦綾子はこのように彼を追憶しました。『わたしはその時、彼のわたしへの愛が、全身を刺しつらぬくのを感じた。そしてその愛が、単なる男と女の愛ではないのを感じた。私はかつて知らなかった光を見たような気がした。彼の背後にある不思議な光は何だろうと思った。私を女としてではなく、人間として、人格として愛してくれた、この人の信ずるキリストを私は私なりに尋ね求めたいと思った。』三浦綾子は前川の信仰と生涯を記念し、受け継ぐために病床で文章を書きました。そして、困難な状況にある人に希望とキリストの愛を伝えようと誓いました。後日、病気が全快した彼女は、一生の間に多くの小説を通して日本だけでなく、全世界に福音を伝える偉大な作家として生きるようになりました。 1.疎外された者を探しておられるイエス。 私は話を聞いただけですが、皆さんは私より遥かに戦後日本の状況について詳しく知っておられると思います。何年か前、「力道山」という映画を見たことがあります。その映画では終戦当時の日本が、戦争により、肉体的にも精神的にも疲弊した状態で描かれていました。このような時期に病気にかかっていた三浦綾子は、まるで戦争によって弱くなっていた戦後の日本のように、病気の痛みを経験していたのです。ところで、日本のキリスト教の歴史書では、この時期、日本に爆発的な教会の成長があったと記されています。慰めと癒しが必要だった時に、ちょうど良くアメリカから多くの宣教師が入って来て、また日本の教会によって、多くの人々がキリスト教の信仰を持つようになったと記されていました。三浦綾子もその時、1人のキリスト者の献身を通して、キリストに出会い、偉大なキリスト者の小説家になったのです。そのためか、三浦綾子の人生と戦後の日本がオーバーラップされて見えました。虚しさと悲しみに苦しめられた三浦綾子は自分の友人が与えた愛により、イエスに出会い、イエスは疎外された彼女に光を照らしてくださいました。戦後の痛みと虚しさに陥った日本でも、福音を通して多くの人々がイエスを信じるようになりました。 このように、イエスの関心はいつも最も疎外されたところ、低いところにあります。イエスはそのような関心を持って三浦綾子を訪ね、彼女に信仰を与えられたのです。戦争という悲劇の後に、日本に信仰者が多くなったのもそのような主の愛のためではないでしょうか?今日ヨハネによる福音書には、そのような疎外されて苦しんでいる女が登場します。彼女は当時のユダヤ人に不浄な場所として受けとめられていたサマリア出身で、5人の夫とつぎつぎ 離婚し、今では夫ではない人と暮らしていました。彼女は不浄な村に住んでいる不浄な女だったのです。サマリアは北イスラエルが滅ぼされた時、アッシリヤ人の政策によって有力なイスラエル人は捕囚として捕らわれ、他の地域の異邦人が入ってきて、残されたイスラエルの貧困層と結婚し、産んだ混血民族が住んでいるところでした。異邦人を極度に嫌っていたユダヤ人の立場から見ると、サマリアは正統性も純粋性もない不浄な場所だったのです。ところで、その中でも5回も離婚を経験し、最終的には婚姻関係ではなく同棲をしていた彼女だったため、どれほど不浄な女だと批判されたことでしょうか? ところが、ダビデの子孫、ユダヤ人の中のユダヤ人だったイエス・キリストは、わざわざ彼女を訪れてくださいました。イエス様が不浄なサマリアに行かれたというのは一般のユダヤ人としては想像も出来ないことであり、その中でも不浄な女だと知られている彼女に手を差し伸べられたということは、常識を破ることでした。『そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。』(ヨハネ4:6)近東の正午ごろと言えば40度を上回る暑さで、誰も外に出ない時です。不浄な女だと近所の人に嫌われたその女は他人の目を避け、その暑い時、密かに水がめを持って出てきたのです。水を汲むために出てきたその女は、井戸のそばに座っておられるイエスを発見しました。そのイエスは、最も暑い時に、誰も訪れない、その疎外された女性に出会い、不浄を清めてくださり、神の御言葉を伝えるために来られた神の子でした​​。 2.不浄な者を探しておられるイエス。 今日の旧約本文は偶像崇拝と不従順のため裁かれ、バビロンの捕囚として捕らわれたイスラエルの民が主の赦しと恵みにより帰還した後、主から頂いた御言葉です。罪によって神様に裁かれたイスラエルですが、神様は彼らに裁きを免れる道をくださり、御恵みを与えてくださるという言葉であり、『その日、エルサレムから命の水が湧き出で半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい夏も冬も流れ続ける。主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。』(ゼカリヤ14:8-9)という祝福と約束により、ご自分の民を慰めてくださる言葉であります。イスラエルが罪を犯したけれど、神様は決して彼らを見捨てられず、彼らが神様に真の悔い改めと愛をもって来れば、神様も彼らを赦し助けてくださるという約束の言葉です。 神様は、旧約聖書の多くの箇所で、常にご自分の民に悔い改めを促されました。『もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地を癒す。』(歴代誌下7:14)神様は、ご自分の民の不正を決して赦されない方ですが、その不正を謙虚に悔い改め、神に聞き従い、帰ってくれば、必ず癒し赦してくださる方です。そして彼らに裁きを免れる道と命の水とをくださり、彼らを守り、慰めてくださる方です。主はユダヤ人に軽蔑されたサマリア人に、特にそのサマリア人にも軽蔑された井戸の女を訪れてくださいました。神は王宮ではなく、神殿ではなく、権力者ではなく、不浄な地の最も不浄な女に来られたのです。そして彼女に『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で父を礼拝する時が来る。まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。』という言葉を通して、その女を礼拝者として神様に招かれました。 神は不浄な者を拒まれる方ではありません。自分の罪を認め、悔い改める者、神に希望を求める者、神様の権威を認める者に、いつでも喜んで新しい機会を与えてくださる方です。すべての人に嫌われたサマリアの女は、不浄な出身という人種的差別、不浄な女という社会的差別、自ら自分を批判する罪悪感に苦しめられましたが、だからこそイエス様は彼女を訪れられたのです。エルサレムからガリラヤに行く時、通常ユダヤ人たちは地中海側の道、或いは東側のヨルダン川端に沿って北に上がっていきました。つまり、わざわざサマリアを避けて行ったということです。しかし、主イエスはわざわざサマリアに行かれました。なぜでしょうか?まさにこの女に出会うためでした。イエス様はわざわざ最も疎外されたところ、最も不浄な場所を探し訪れる方です。不浄を清める神様の力を通して、自らどうしようもない罪人を赦され、彼らが疎外から切り抜け、神様を礼拝することが出来るよう新たに生まれさせてくださるためです。主イエスは不浄を清め、新たに生きさせてくださる命の水そのものでした。 3.神と和解させてくださる主イエス。 父なる神様がイエス・キリストを私たちに遣わされた理由は、主イエスにより人間の中から湧き出る命の水を通して、神から遠ざかった存在が霊的な渇きを癒し、罪を洗い、イエス・キリストを通して御父のところに出て来ることが出来るよう、道をくださり力をくださるためです。そのイエス・キリストを通して、人間を招かれる理由は、我々が神様に礼拝出来るようにするためです。礼拝という言葉はπροσκυνέω(プロスクィネオ)というギリシャ語を翻訳した言葉です。プロスは「 – に向かって」という意味であり、クィネオは「口付ける」という意味だそうです。 「誰かに口付ける、誰かにひれ伏す」という意味を持っているそうです。ところで、面白いのは、クィネオの語源である「クィオン」の意味です。このクィオンは犬という意味ですが、クィネオという言葉は主人の手を舐める犬の姿から来たそうです。 この原語の意味を研究しながら考えたことですが、イエス様が来られ命の水をもって私たちを清めてくださったのは、神様の手に口付けることが出来る清い存在として生まれ変わらせてくださったことではないかということです。お宅で犬や猫を育てておられる方もいらっしゃると思います。もし、主人のない野良犬が皆さんの手を嘗めたとしたらいかがでしょうか?噛まれるんじゃないかと心配されるでしょう?しかし、ご自宅で育てておられる愛犬が手を嘗めればいかがでしょうか?頭を撫でて可愛がられるでしょう?イエス・キリストを信じるということ、命の水である彼に清められたというのは、いつ神に近づいても神様に拒まれない者、そのような存在になるということではないしょうか?私たちが礼拝することが出来るというのは、正にこの神との関係に壁がなくなるということではないでしょうか?イエス・キリストは、疎外される者、不浄な者を召され、新たにされ、御父と和解させてくださる命の主でいらっしゃいます。私たちが過去どんな人生を生きてきたにせよ、どんな罪を犯したにせよ、どんな疎外を受けたにせよ、主は私たちと一緒におられ、私たちを清めてくださる方です。今日の本文が私たちに教えてくれる、明らかな事実は、過去私たちがどんな人生を生きてきたとしても、今は主イエスを通して父なる神様に堂々と礼拝することが出来るということです。  締め括り 今日も主イエスは疎外された者、不浄な者、罪人を探しておられます。そして、キリストの中にある命の水を惜しげもなく注いでくださる方です。主の命の水を通して霊的な渇きが癒され、主の命の水を通して霊的な清めが可能です。そのような新たになることにより、罪人は天の御父の御前に堂々と進むことが出来ます。イエス・キリストがいつも私たちの罪を洗い流し、新たにしてくださるからです。サマリアの女は今日、自分に訪れて来て、最も疎外され、不浄な自分に礼拝の機会を与えられた人が、まさにメシアであることを悟りました。その時、彼女は自分がなぜ井戸に来たのかも忘れてしまったように、水がめを置いといて、人々にイエスを伝えるために行きました。自分が、いつも求めてきた水を汲む水がめさえ捨てたのは、ひたすら真の命の水であるイエス様を伝えるためでした。主が彼女に永遠の命の水を与えてくださったからです。皆さん、サマリアの女を助けてくださったイエス・キリストは、今日も私たちと一緒におられます。疎外感を感じるとき、自分が汚れていると思われるとき、誰も自分の味方ではないと考えるとき、私たちと喜んで一緒におられる主イエスを覚え、主の慰めと愛に寄り掛かり、主と共に歩む私達、志免教会になりますように、祈ります。