目を覚まさせる主イエス・キリスト-あなたは遣わされた者。

今日は個人的な証をもって説教を始めたいと思います。皆さんが既に知っておられると思いますが、私は父と名字が異なります。義父だからです。実の父は私が生まれる、わずか数ヶ月前に船舶事故によって、今の私よりも若い時、生涯を終えました。突然の事故で夫を失った母は毎晩、涙でした。そして、そんな中で私を産みました。一人親としての苦しみも辛かったと思います。そのように苦しんでいる母を理解出来なかった私は、自分だけが苦しいと思っていました。なぜ、自分を生んだのか、母を恨みました。きっと、その恨みの中に神様への恨みもあったのでしょう。一般的に子供は、父親を通して世界を見るそうです。子供にとっては、素晴らしい父親は世界を見通す良い眼鏡になってくれるからです。子供は父を通して世界を学び、世界を見る目が成長していくそうです。父という眼鏡がなかった私は、自ら盲人だと思いました。義父は本当に優しい人でしたが、その時の私は拒みました。そういうわけで、私の子供の頃や学生時代は、自信の無い、劣等感の強い、被害意識と心の傷いっぱいの時代でした。これらの傷は、刺(とげ)となり、隣人と家族にも酷い傷を残しました。 ところが、今の自分を顧みれば、心にそんなに大きな傷がないということに気が付きます。誰かへの恨みも持っていません。物事に感謝して生きようとしています。何か起きた場合、他者よりは、自分に過ちを見つけようとしています。一体、過去の私と今の私との間に何が起こったのでしょうか?それはイエス・キリストとの出会いという出来事でした。神学校に入る、約1年半前、夏の日、好奇心で読み始めたローマの信徒への手紙を通して、自身の罪に気付き、悔い改めることがありました。涙が止まらず、神様の御前でこれまで思いも寄らなかった悔い改めを絶えずしました。どれほど悔い改めたのか分からないほどでした。私はその時、初めて目覚めました。そして、イエス・キリストが自分を愛しておられること、神様が自分を地上に遣わされた理由、自分が計り知れないほどに祝福された人であることを悟るようになりました。このような出来事を通じて、イエス様は私に『私が正に、この世が正しく見えるように導くあなたの眼鏡である。』という悟りを与えてくださいました。 1.盲人のような人間。 イエス・キリストは眼鏡です。罪のため、歪んだ世界を正しく眺めさせる、人の本質をありのままに見ることが出来ようにする非常に良い眼鏡です。ところで、大事なのは、このイエス・キリストが、特別な人だけの眼鏡ではないということです。彼は神の御子であり、神の御言葉であり、神ご自身です。この世のすべてのものの主でいらっしゃいます。そのため、キリストは、世界のすべての人々の眼鏡になることが出来る御方です。このイエスを通して世界を見てみると、世の中が持っている、ありのままの本質を見ることが出来ます。自分の罪も、他者の痛みも、人間を愛しておられる神様をも見ることが出来ます。 今日の新約本文には生まれつきの盲人が登場します。この盲人は幼い頃から家族、親戚、近所の人に世話になり、生きてきた障害者でした。今も同じだと思いますが、イエスの時代では、特に、障害者という存在は、多くの偏見と不自由に甘んじて生きなければならない存在でした。古代人は障害者が不正をもたらす者だと信じていました。スパルタでは障碍者が生まれたら打ち捨て、死なせたそうです。ギリシャの哲学者プラトンは『障害者は完全な世界を妨げる存在だ』と主張しました。イエス様がおられたイスラエルも、これらと大きな違いがありませんでした。障害者は、神に呪われた存在、全く役に立たない存在、罰せられた存在という認識がはびこっていました。おそらく、今日の本文の盲人も、そのような偏見と差別の中で生きていたのでしょう。親も彼を知らないふりしたかも知れません。自らも自分が何の価値もない者だと思ったかも知れません。 私は子供の頃、聖書を読む際に、この盲人の話しが私の話だと思いました。彼が生まれつきの盲人であるように、私も生まれた時から父がいなかったので、体は健やかだけど、心は障害者かも知れないと思ったのです。多分、世の中には私だけではなく、多くの人々が、このような考えを持って生きた経験があるのではないでしょうか。自分の心の傷、不満、痛みにより、自分が何の価値もない者だと考えながら生きてきた人がいるかも知れません。生まれなければ良かったと自己批判した人もいるかも知れません。おそらく、ほぼ全ての人が生きてゆきながら、『私はなぜ生きているんだろう?死んだ方が良いんじゃないか?』と思った経験があるでしょう。そのような経験、思いがある人は多分、今日の本文の盲人のように、自分は非常にみすぼらしい者だという気持ちを感じたからでしょう。しかし、その時、彼らの目には良い眼鏡がなかったのだと思います。その人々は、自分の曇った目を通して世界を見て、自分の状況を判断したんだと思います。自分が背負うには、あまりにも重い荷物のような大きな世界の前で、限りなく小さな自分を眺めると、人間は自分自身が無価値な存在だと思うからです。 2.目を覚まさせる主イエス・キリスト しかし、主が盲人のような人を訪ねて来られれば、話しは違います。今日の本文で、イエス様は一生、光もなく、力もなく生きてきた、ある盲人を通りすがられました。その時、弟子たちが主に尋ねました。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』(ヨハネ9:2)盲人は何の罪も犯さず、ただ物乞いしながら、辛うじて生きてきたのに、世の偏見は再び彼を罪人に仕立て上げました。その時、主は世の偏見、先入観とは正反対の話しをされます。 『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』(ヨハネ9:3)人々が、歪んだ世界を見ている時、主は世界の本質をご覧になったのです。イエス・キリストは世界を正確にご覧になるからです。私たちが自分自身を歪めて見る時、世が私たちを歪めて見る時、主は私たちをありのままに見てくださいます。私たちが、弱くて疲れた時、誰にも自分の事情を話すことが出来ない時、私たちは主だけには、そのまま打ち明けても大丈夫です。主は間違うことなく、私たちの事情の本質を見て理解されるからです。 そのため、神様はイエス・キリストを遣わされたのです。『わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 わたしは、世にいる間、世の光である。』(ヨハネ9:4-5)イエス・キリストは、この世界の光です。最も暗いところに落ちている者の痛みに、最も明るい光を持って照らしてくださる方です。それ故、私たちは、イエスを信じることが出来るのです。イエス様は闇の中にいる盲人の光になってくださいました。この光は、ただ、目だけに見える光ではありません。この光は、魂の光でした。主は、その光を盲人の心に照らしてくださったのです。主は彼が盲人として生まれたのが、罪への罰ではなく、神の証人として呼ばれるための訓練だったということを教えてくださいました。盲人は人々に無視され、排除される存在でしたが、イエス・キリストに出会い、神の恵みと愛の証人として生まれ変わりました。彼の障害は、イエス・キリストを通して強力に臨む神の慈しみと愛の道となりました。 イエスは唾で土を捏ねて、彼の目にお塗りになりました。そして、シロアムの池に行って洗いなさいと命じられました。唾で捏ねた土と言えば、汚いと思われるかも知れませんが、これには意味があります。まるで、初めに神様が土を捏ねて人を造られたように、イエス・キリストも土を捏ねて彼の目に塗り、新しい命を吹き入れたという意味です。そして、『遣わされた。』という意味のシロアム池に送って、一生、目を覆っていた闇を洗い流すように命じられました。一生、盲人として苦しんで生きていた彼は、新しい目を得て、光を見るようになりました。罪によって呪われたと思われていた彼は、イエス・キリストのお助けにより、光を得たのです。そして、自分が呪われた存在ではなく、自分の障害を通して、主の恵みを示すために遣わされた人であることを悟るようになりました。彼は人々の前で自分を救われたイエス・キリストについて告白し、伝えました。最も暗くて低いところで唸りを発していた彼は、イエス様に出会い、光と喜びを得、イエス様の栄光を伝える遣わされた者となったのです。 3.キリストを宣べ伝える。 『主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。』(詩篇27:1)今日の本文、詩編27編の詩人が歌ったように、主は私たちの光です。私たちが、暗闇の中で迷っている時、主は、私たちの傍で、私たちが誰なのか、私たちがどこへ行くべきなのかを教えてくださる光になってくださいます。その光によって私たちは私達の行くべき道を明らかに知るようになります。だから、私たちは、私達の人生の力になってくださる神への信仰により、もはや恐れず、大胆に進むことが出来ます。今の私たちの弱さと苦しみと悲しみは、私たちの不幸ではありません。当面は辛いかも、厳しいかも知れませんが、イエス様に用いられるならば、最終的に、神様は私たちの困難を通して、さらに明るくて美しい未来をくださると信じます。 イエス様に癒され、見られるようになった盲人は、自分のアイデンティティをしっかり悟ることになりました。彼はもうこれ以上、不幸な人ではありませんでした。もうこれ以上、自分の不幸に閉じ込められている人ではありませんでした。彼はイエスを見るようになり、知るようになったからです。彼はイエス様を通して自分の不幸より、自分の環境よりも、大いなる神に出会うようになりました。かえって彼は目を開いていても、イエス様が神であることに気付かない宗教指導者たちを発見しました。彼らは、身体も健やかで、聖書もよく分かっていて、目もしっかり見えていましたが、隣人を愛しておらず、却って憎み、まったく神を知らない人たちでした。ついに目が見えるようになった盲人はしみじみと悟ったことでしょう。『本物の盲人は私ではなく、彼らだったかも。』イエス様もこのように言われました。 『見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。』(ヨハネ9:39) 盲人は、結局、イエス・キリストに、この世を正しく見る目を頂きました。そして、誰が真の神様なのか、イエス様とは、どなたなのか認識しました。それから、彼はイエスを伝える証人としての人生を生きるようになりました。光を得た盲人はイエス様に遣わされた者となりました。優れた知識や能力を持っている宗教指導者たちが遣わされた者ではなく、イエス様に出会い、信じる者が遣わされた者となったのです。イエス・キリストを通して、自分の痛みと弱さを治された者は、本当に目が開かれた人です。それから、自分の環境や状況に制限されず、その上におられる偉大な主を信じるようになった人です。そして、そのような経験をした人は、イエス・キリストに用いられ、主の福音を伝えざるを得なくなります。私たちは、このイエスに出会った人々でしょうか?私たちの生活の中に主イエスの足跡があるでしょうか?もし、そうならば、私たちは、イエス・キリストに遣わされた者として生きる義務を持っている人です。私たちは、このイエスを伝えて生きなければなりません。それはイエス・キリストを通して光を見た人が、生きて行くべき、当たり前の道であるからです 。   締め括り 今日の旧約本文である詩篇27篇を読みながら、私たちは自分の民を愛して見守り、助けることを喜ばれる神様を見つけることが出来ます。誰も自分を助けてくれない時、自分を見捨てる時、自分を憎む時、誰よりも自分を愛し、助けてくださる神の手を発見した詩人。その詩編の詩人の神様は、私達の神様でもあります。神様は、いつも御自分の民を愛し、助けることを喜ばれます。神様は簡単に誰かを呪われる方ではありません。誰かを悪意を持って苦しめる方でもありません。むしろ、私たちが、苦難の中にいる時、神様はその後の回復と成長を備えてくださる方です。人生の道のりで痛みと悲しみに苦しむ時、主を呼びましょう。その主は、私たちの苦しみを知らないふりされる方ではありません。主は喜んで助けてくださると信じます。私たちの痛みは彼を通して、喜びに変わるものであり、いつの日か、私たちの人生の良い栄養素のような経験になるでしょう。一生、盲人だった人が、イエス・キリストを通して目が開け、魂まで光を得たように、目を開けてくださるイエス様を信じて生きましょう。そして、私達の隣人も主イエスに目を開くことが出来るように主を宣べ伝え、主に遣わされた者として生きていきましょう。一週間の生活の中に主の恵みが豊かにありますように祈ります。