主イエスの祈り(2)

マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 祈りは、キリスト教において、最も重要な信仰の行為の 1 つです。しかし「信仰」より「行為」のほうに集中したあまり、立派な文章の祈りをしなければならないという強迫観念にとらわれやすいと思います。しかし、イエスは言われました。「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」祈りは人に見せるための行為ではなく「神と私」という両者の対話なのです。静かに祈っても、奥まった部屋で声をあげて祈っても、歩きながら祈っても、体調不良の時は横になって祈っても、どんな形で祈っても大丈夫です。形式ではなく、祈る時の真心が大事です。祈りは明確かつ人格的にする必要があります。祈りは呪文でも、お経でもありません。祈りは神との対話です。神に「率直、淡白、明確」に祈り、聖書や説教を通じて、主の御心が何かを注意深考え、お答えを求めるべきです。「人の真心の祈りと聖書と説教による神のお答え。」それが祈りによって神と対話する祈り方です。以上が前回の説教で皆さんと分かち合った内容でした。今日は、その祈りの最も完璧な見本である主の祈りについて考えてみましょう。 1. 天におられる私の父よ。 主の祈りは「天におられる私の父よ」という文章から始まります。神は天におられる方です。しかし、天は空を意味する言葉ではありません。聖書にも空ではなく、天と記されています。聖書での天は人間が生きる、この世をはるかに越える絶対的な神の権能を意味する場合が多いです。つまり、天の神は人間が近づくことのできない権能を持っておられる絶対的な存在という意味です。ところで、主の祈りは、すぐその後に「私の父よ」と語ります。人間が絶対に近づくことのできない絶対的な存在が、誰でもない「私たちの父である」ということです。皆さん。父なる神は、私たちのお父さんです。イエスはヨハネによる福音書20章17節でこのように言われました。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」私たちを救ってくださったイエス·キリストがご自分で、主イエスの父なる神が、すなわち主の民の父でもあると言われたわけです。私たちがイエス·キリストを私たちの救い主と呼ぶことが出来る理由は、罪によって父と呼ぶことが出来ないイエス·キリストの父なる神を、キリストの救いによって「私の父よ」と呼べるようになったからです。 祈りは「父なる神」にするものです。時々、私たちはイエスや聖霊、あるいは神という言葉で区別なしに祈ったりします。しかし、基本的に祈りは「父なる神」にするものです。私たちの「素直、淡白、明確」な祈りを「聖霊なる神のお導きに従って、イエス·キリストの御名によって、父なる神に」するのです。この世の創造を計画し、御子と聖霊と共に創造を成し遂げられた父なる神にするのです。罪人の救いを計画し、御子の十字架の贖いと聖霊のお導きを通して御救いを成し遂げられた父なる神にするのです。すべてを計画される方に神とこの世を執りなしてくださる御子イエス·キリストの御名のみによって、聖霊のお助けによってするということです。もちろん、イエスや聖霊に祈っても問題はないでしょう。まとめて神に祈っても良いでしょう。そのような祈りも父なる神が聞いてくださるでしょう。しかし、イエスは父なる神に祈りなさいと言われました。三位一体のどの位格に祈っても、父なる神への祈りが基本である事実は覚えて祈りましょう。私たちは全能の神を父と呼ぶ存在です。私たちは一人ぼっちではなく、偉大な神の子供として生きているのです。だから、堂々と父なる神に祈りながらこの世を生きることができるのです。 2. 御名が崇められますように。 聖書の背景となる古代中東世界において「名前」は現代人が考える以上の重い意味を持っていました。もちろん、現代の私たちの名前も両親や家族が大事な意味を込めて付けてくれたでしょう。しかし、昔の新旧約時代の名前はそれ以上の意味を持っていたと言われます。その中でも、神の御名は、さらに特別で、律法学者たちは旧約聖書を書き写す時、その御名を一字一字記録する度に体をきれいに洗ったり、その名前を呼ぶことを控え、音なく口だけぱくぱくしたりしたと言われます。神の御名を呼ぶことを大きな失礼だと思い「アドナイ(私の主、ヘブライ語)」という別の表現を使ったりもしました。神の御名は神の存在そのものとされていたからです。したがって、神の御名が崇められるということは、ひとえに神だけがこの世のすべての上におられ、最も神聖な存在として確実に聖別されることを望むということです。私たちの祈りにおいて、自分の願いを求める前に、神をほめたたえ、礼拝し、特別に聖別して、神に栄光を帰すことを先に祈るべきということです。 この世界は、三位一体なる神によって創造されました。しかし、この世界は神を尊重することも、尊敬することも、信じることもしていません。もともと「神」という表現は、この世を創造された三位一体なる神にのみ使えるべき聖別された名称ですが、どこの文化圏に行っても「神」と呼ばれる偶像は存在しています。そして、多くの人はその偽物の神を本物の神として拝んで生きています。あるいは、他のどんな存在でもなく、自分自身が神のようになって自己中心的に生きる人もいます。したがって、この世は「イスラエルの神、三位一体なる神、真の神」を無視し、冒涜し、神を認めないつつあるのです。キリスト者は、このような世にあって「真の神」を憶え、その方の御名だけを聖別し、讃美と礼拝をささげることを求めて祈らなければなりません。神を自分より優先にし、自分の必要はその後にして、私たちの祈りの優先順位が「自分の欲望」ではなく「神の栄光」になるように、祈る時、気をつけるべきです。御名が崇められるよう祈るということは、神を最優先する信仰を表すものです。私たちの祈りはどうなっているでしょうか。神の御名が先に崇めれらる信仰であるように祈ります。 締め括り イエスは主の祈りを通して、まずは、神の栄光のために祈られました。今、自分の状況がどうであれ、まず神の栄光のために祈るべきであると教えてくださったのです。私たちは、祈りを神に何かを頼んだり求めたりするものだと思いがちです。だから「何かをしてください」というふうに言ってしまいます。もちろん、私たちは神の子供なので、真の父である神に必要なことを求めるのが当たり前だと思います。しかし、時には神に「感謝と讃美と栄光を帰す祈り」もささげたいと思います。両親に「お菓子買ってくれ、買ってくれないと泣いちゃうよ」と甘えばかりしていた子供が立派に育ち「お母さん、お父さん、いつも元気でいてくれ。幸せに生きてくれ。私頑張るから」と言うと、両親はどれほど大喜びで幸せになるでしょうか? 神にも「主なる神の栄光のために、御心が成し遂げられるように、御国が到来するように」と、立派に成長した信仰者としての祈りを捧げることができればどれほど神に喜ばれるでしょうか?毎週唱える主の祈りの時に、その意味を深く考えて私たちの祈りの見本として祈っていくことを願います。

主イエスの祈り(1)

マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 今年の志免教会の主題聖句は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16₋18)にしました。私たちは普段、神の御心(神の望んでおられること)という言葉をよく口にしていますが、案外と神の御心が何か全く分からない場合が多いです。しかし、神の御心が分からないのは、当然のことだと思います。家族の心も分からない私たちが、神の御心を分かるなんてとんでもないからです。ところが、聖書には明確に神の御心であると記してある箇所がありますが、それが「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」なのです。神の御心が全く分からないといっても、少なくとも「喜びなさい、祈りなさい、感謝しなさい。」といった三つのことは、確実に私たちへの様の御心として与えられているということです。今日はその中で「祈り」について、マタイによる福音書の言葉に照らして話してみたいと思います。 1. 祈りは神と私たちの対話 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:5-6) 当時のユダヤ人社会には、1日に3回の祈りの時間(午前9時、正午12時、午後3時)が定まっており、その時間になると家でも、市場でも、神殿でも、どこでも祈りを始めたようです。旧約聖書のダニエルも1日に何度も、時間を決めて祈ったと書いてありますから、ずいぶん前からそういう慣習があったようです。さて、今日の本文では、その祈りにおいてイエス・キリストが問題を提起しておられる場面が描かれています。祈りは紛れもなく望ましい信仰の行為ですが、その祈りという手立てを利用して、大勢の人々が見ているところで、見事な祈りをする人々の宗教的な偽善を警告されるのです。イエスはそのような人々が「偽善者」であり、彼らはすでに自分の報いを受けていると言われます。「自分の報いを受けている」とは、神に受けるべき信仰の報いの代わりに、他人に自分の宗教的な行為を自慢することで、神からは祝福されず、虚しくて無意味な優越感だけを得ることを意味します。それを避けるために主イエスは奥まった部屋で密かに神に祈ることを命じられます。他人に表すことなく、静かに神おひとりだけに集中して祈りなさいということです。 イエスの時代のユダヤの宗教指導者たちの中には、市場の道端や神殿のような目立つ場所で、あらゆる美辞麗句を使って見事な祈りをする人が多かったようです。普通の人は路上の隅でしばらく止まり、静かに祈り、再び足を早めたのに、彼らは他人に見せようとするかのように、難しくて素敵な言葉の祈りを長い時間唱えたわけです。自分の優れた宗教の熱心を自慢し、誇るためだったからでしょう。しかし、その祈りは神への純粋な祈りだったでしょうか? それとも、祈りにかこつけて自分を高める空威張りにすぎなかったでしょうか? イエスは彼らから純粋でないことを見つけられたのです。現代の教会にも、素敵な祈りの人と祈りに苦手な人がいます。もちろん、志免教会では、祈りの上手な方も、祈りの苦手な方も、ユダヤの宗教指導者たちと違って、純粋な心から祈りをしておられると信じます。時には礼拝のための祈りや献金のための祈りなどの公の祈りが必要な場合もあります。しかし、基本的に、祈りは他人に自分の信仰を表すための道具になってはなりません。とりわけ日本キリスト教会の場合、水曜祈祷会の時に一人ずつ順番に祈りますので、祈る人の考えや祈りのスタイルが赤裸々に表れます。ですから、私たちは祈る時に自分の信仰を自慢する道具にならないように祈りに気を付ける必要があります。 主イエスが提示しておられる祈り方は、奥まった部屋で密かに祈ることです。もちろん、これは本当に奥まった部屋で一人で祈りなさいという意味ではありません。他人に自分の信仰を自慢するためではなく、自分の欲望を叶えるために神を利用することでもなく「神と自分自身」という2人の人格が素直な対話と交わりにあって会う時間としての祈りをすべきだということです。祈りの言い方が立派でなくても大丈夫です。道を歩きながら心の中で小さく祈ってもいいです。他人が分からないような口ずさみの祈りも、誰もいない部屋で大声を叫ぶ祈りも結構です。時には悲しみに耐えられず黙って涙を流すだけの祈りも、喜びにあふれて感謝という言葉ばかり繰り返す祈りも良いです。大事なのは「神が自分のすべての事情を知り、祈りを聞いておられるから、ただ神にだけ自分の心を吐き出す。」という信頼で神に集中して祈ることです。祈りは「神と自分自身」という両者が対面して語り合う時間です。「神が私を創造され、私を救われ、私と一緒におられる方なので、ただ、その方だけに私の心の中のすべてを吐き出して声をかけること」なのです。祈りは、私たちの信仰と美辞麗句の誇りのための道具ではありません。言葉よりは心がさらに大事で、ただ神だけが聴いてくだされば良いという信仰で純粋さを失わないことが大事です。祈りは神と私二人きりの対話だからです。 2. 言葉ではない心。 「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイ6:7-8) イエスは祈る時の心構えについてもお話しになります。イエスは父なる神が、すでにキリスト者の必要をすべて知っておられるという前提を立てて祈る方法について言われましたが、 「くどくどと述べるな」がそれです。くどくどと述べる祈りとは何でしょうか? この表現に使われたギリシャ語の翻訳は「口ごもる。つまらなくしゃべりまくる。意味なく繰り返す」という言葉でした。仕方なくどもる障害の人もいますが、普通の人が口ごもる時は、明確な思考や確信がなく、何でも意味なくしゃべりまくって言葉に詰まってしまう結果としての場合が多いです。つまり、神の前で集中せず、長く祈れば聞いてくださるだろうという発想で全心を尽くさないイメージが「くどくどと述べる」なのです。私たちは「くどくどと述べる」祈りと、そうでない祈りをどのように見分けることができますでしょうか? 旧約聖書の列王記上18章には、預言者エリヤとバアルとアシェラ(イスラエルの偶像)の崇拝者たちの対立が描かれています。 預言者エリヤが偶像崇拝者850人と、各々の神から先に答えられる側が勝利する対決をしています。 850人もいる偶像崇拝者は、朝から夕方まで自分らの神バアルに叫び、答えを求めますが、そもそも存在しない神なので何も起こりません。しかし、エリヤがただ一度の短い祈りをした時、イスラエルの神はお答えくださり、天から神の火を降らせ、焼き尽くす献げ物を燃え上がらせてくださいます。神は本当におられる人格を持ったお方です。そのため、私たちの祈りを明確に聞いておられるのです。祈りは、呪文やお経のようなものではありません。祈りは、神へのキリスト者の明確なコミュニケーションです。ですから、意味なく話しまくるよりは、たった1分を祈っても明確な自分の心を込めることが大事です。神は生命も感覚もない虚しい偶像ではありません。今も生きておられ、私たちを見守って、私たちの祈りを聞いて答える準備をしておられる、確かに生ける人格的な存在です。だけでなく、神はすでに私たちの事情と必要を知っておられ、私たちが何を祈ろうとしているのかも知っておられます。神がお定めになった時が来れば、私たちの祈りに答えて私たちに真の満足と喜びをくださることを望んでおられる方です。したがって、私たちの祈りは簡潔で明確でなければなりません。多くの言葉ではなく、明確な心を込めて祈る時、主なる神は必ず聞いて私たちにお答えくださるでしょう。 締め括り 今日の本文を通じて考えてみた主イエスが望んでおられる祈り方は、3つの特徴で言えると思います。「素直、淡白、明確」神はくどくどと述べずに、はっきりとした祈りを望んでおられると言い換えることができるでしょう。もちろん、祈りを短くして終わらせるべきという意味ではありません。時間は関係ないのです。短くても長くても構いませんので、他人に見せようとする祈り、意味なく長く続ける祈りではなく、神に信頼して人格的で明確な祈りをしなさいということです。ですから、主イエスは今日の御言葉の後に「主の祈り」という、この世界で一番素直で淡泊で明確な祈りを教えてくださるのです。私たちの祈る時の姿はいかがでしょうか? 今日の本文を通じて私たちの祈り方について考える機会になれば幸いです。来週は「主の祈り」を通じてイエスはどんな祈りをされたのかを話してみたいと思います。素直で淡泊で明確な祈りをして、神と対話しつつ生きる私たちであることを願います。

幸いである。(4)

イザヤ書32章17節 (旧1112頁) マタイによる福音書5章3~12節(新6頁) 前置き 今日は「幸いである。」の最後の説教を話してみましょう。 私たちはここ 4 週間「幸い」について学んでいます。日本語の聖書には「幸い」と書いてありますが、中国語や韓国語の聖書を見ると、この幸いが「福」と書いてあります。原文に近い表現は「幸い」より「福」のほうが正しいと思います。私たちは、この「福」という漢字語を見ながら、どんなイメージが思い浮かんでくるでしょうか? 幸福、祝福など「幸せ」としての意味が真っ先に思い浮かぶのではないでしょうか。しかし、前の3回の説教を通して神がくださる福は、単純にこの世での幸せだけを意味するものではないということが分かりました。私は山上の垂訓でイエスが語られた幸いが「神が私たちを離れならないで永遠に共におられ、私たちを導いてくださること」だとお話ししました。神の幸いは、世の幸いとは異なります。この世だけでなく、来るべき新しい世(天の国、再臨の日)でも、神が私たちの主になってくださり、私たちと共におられ、守ってくださるのです。財力でも、権力でも、死でも切ることのできない、神と私たちの永遠の関係、イエス·キリストが語られた幸いとは、私たちがいつどこにいても私たちに与えられる、主なる神との永遠な付き合いと歩みの幸いであるのです。 1. 平和を実現する者は幸いである 七つ目の幸いは、平和を実現する者に与えられる幸いです。私たちは戦争と破壊、葛藤と対立の世界を生きています。日本も約80年前は戦争をしていました。戦争と破壊は依然として私たちの近場にあり、大勢の人々が苦しんでいます。このような世の中で私たちは真の平和を念願するようになります。ところで、平和とは何でしょうか? 明らかなことは、平和とは、単純に戦争と破壊、葛藤と対立がない状態だけを意味するものではないということです。ヘブライ語で平和を意味する「シャローム」は「安全である。満ちている。完全である」などを意味する『サラーム』に由来した言葉です。私はそれらの中で最も大事な言葉が「完全である」だと思います。完全な時にはじめて、安全になり、満たされることができるからです。それでは、完全さとは何でしょうか。私は、その原型を、神の創造から見つけたいと思います。真の完全さ「シャローム」は、神の創造世界が、まだ人間の罪によって汚されていない創造直後の姿に現れます。しかし、人間の罪が世の中に入ってき、それによって神の創造の世界に戦争と破壊、葛藤と対立とが生まれました。 神が世界の創造を終えられた時、この世をご覧になって「極めて良かった」(創1:31)と喜ばれました。すべてが完全であり、苦しみも悲しみも戦いも嘆きもない、この上ない完全な世界だったのです。神はその完全な世界を治めさせるために人間を造られました。人間は創造の世界で、神との平和(シャローム)の内に生きるだけで結構だったのです。しかし、人間はその平和に満足せず、神の玉座を貪ってしまいました。結局、人間は神の命令に逆らって、自ら神になろうとしました。その背反が人間の罪となり、その罪によって、完全な創造の世界に罪が入ってくるようになりました。そうして始まった人間の罪は葛藤と対立をもたらし、それによってこの世には戦争と破壊が満ち溢れるようになったのです。誰も戦わず、憎まず、殺さなくても、みんなが幸せに生きられるはずの神の創造の世界は、人間の罪によって平和が消え去り、阿鼻叫喚の世界になってしまったのです。真の平和とは、単に戦わずに仲良く過ごすことだけを意味するものではありません。神が創造を終えられた、その時の神による完全さ、恵みに満ちている状態、神のみ言葉通りにすべてが成し遂げられる状態こそが、真の平和の状態なのです。そんな状態では、戦争、苦しみ、悲しみがありえないからです。 平和を実現する者とは、神の創造の摂理がありのままに成し遂げられることを望む人を意味します。神が創世記で「極めて良かった」と言われた堕落していない人間の姿のように、罪を拒否し、神と隣人を愛し、神の御言葉に従い、神の御心が成し遂げられることを望みつつ生きる生き方から、私たち平和は始まるのです。主イエスが敵をも愛しなさいと言われたように、自分の嫌いな人でさえ、愛し、主が互いに助けあいなさいと言われたように、互に力になりあって生き、主が忍耐しなさいと言われたように、怒らず忍耐し、相手を理解しようとする生き方から、私たちの小さな平和は始まるのです。キリスト者一人一人の小さい平和の実践から、世界が変わっていくのです。聖書は、イエスこそ平和であると語っています。なぜなら、イエスは神の御言葉に反抗せず、完全に聞き従い、神の御心が成し遂げられることを願い、ご自分のすべてを捧げたからです。そのイエスの犠牲により、互いに赦しあわせる聖霊の導きがもたらされたからです。そのような主イエスの生き方にならおうとする時に、私たちにも小さな平和が生まれてくるでしょう。今日の本文は、平和を実現する者が、神の子と呼ばれるだろうと語っています。私たちが本当に神の子と呼ばれる存在なら、私たちは、まず神の御言葉に従うことで、私たちの中にキリスト・イエスによってよみがえった創造の完全さが生き生きと動いていることを証明すべきです。 2. 義のために迫害される者は幸いである。 「幸いである」の2回目の説教で、私はすでに6節の「義に飢え渇く者は幸いである」について話しました。その時、私は聖書が語る「義、正しさ」について、このように定義しました。「神が約束されたことを忠実に成し遂げてくださること。」つまり、聖書が語る義とは「神の約束どおりにご自分の御心を成し遂げていかれること」を意味します。聖書が語る義は、神という主語によって生まれるものです。神の義でなければ、この世に本当の「義」はないということです。今日の本文の言葉は、このように言い換えることができると思います。「神がご自分の約束どおりに主の御心を成し遂げられることのために迫害を受ける者は幸いである。」神はアブラハムの子孫を通して、この世に救いをくださると約束されました。そして、私たちはその子孫がイエス・キリストであると信じています。この世は罪に満ちており、神に逆らう人々が大多数の状態です。そんな世界であるにも関わらず、聖書に記録された主の言葉(約束)が、主の御心のままに成し遂げられることを願って、主イエスを愛し、主イエスだけに仕えながら生きて迫害を受けようとする者たちは幸いであるということです。朝鮮が日本帝国の植民地だった時代、韓国には「チュ·ギチョル」という牧師がいました。彼は朝鮮長老派の牧師で、日本帝国の弾圧にも屈せず、最後まで神社参拝に反対し、イエス・キリストへの信仰を堅く守ることで、投獄され、殉教しました。 彼は、神の約束の実現である「救い主イエス」だけが自分の王であると告白し、絶対に神社参拝をしませんでした。神の約束を信じたため、迫害の中でも自分の信仰を捨てなかったわけです。そして、その結果は、獄中の殉教でした。残念なことは、その時代に日本と朝鮮に神社参拝に加担して主を裏切った牧師たちがあまりにも多かったということです。ところが、その当時の牧師たちが悪かったと悪口する必要はありません。彼らではなく、私たち自身を顧みるべきです。そんな時代を生きていたら、自分自身は神社参拝に反対して殉教することが出来るだろうかと考えてみましょう。正直に言って、私は簡単に自信があるとは言えません。皆さんはいかがでしょうか? 神との約束の実現、イエス·キリストへの信仰のために、皆さんは自分の命をあきらめることができますでしょうか? 私たちに与えられた最も大事な「義」とは、まさにイエス·キリストを自分の主として何があっても信じることです。そして、私たちに求められる迫害への対応は、イエスのために自分自身の生命をも惜しまないことです。世の人々がローマ皇帝を、天皇を王としても、私たちだけは主への信仰により「私の唯一の王はただおひとりイエス·キリストだけだ。」と死ななければならないのなら、死ぬ覚悟で主に従うのです。それが義のために迫害を受ける者のあり方なのです。 私たちの信仰が銃と剣に屈して、倒れやすい砂の上に建てられた家のようなものでないことを願います。キリスト・イエスという岩の上に建てられた家のように、神への信仰を堅く守っていくことを願います。今日の本文は、そのような人が「天の国を所有する」と語っています。そして、天の国とは、前の説教でも申し上げたように、私たちがどこにいようとも、主が私たちと永遠に歩んでくださり、私たちを助けて導いてくださることです。(場所ではなく、状態)私たちは果たして義のために迫害を受ける人生を生きているでしょうか? 近所の人の目が気になって、キリスト者であることを隠したり、家族の顔色をうかがって消極的に信仰生活をしているのではないでしょうか? もちろん、伝道を強いることは控えた方が良いと思います。しかし、自分の信仰を恥じ、隠すことは望ましくありません。神もそんな者を喜ばれないからです。志免教会の兄弟姉妹が、主イエス·キリストへの恥じのない信仰により、義のために受ける迫害を恐れない方々であることを願います。そのような者たちが幸いな者であり、天の国を所有する者であると本文は教えています。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(11-12) 締め括り 今日は、八つの幸いの中の最後の二つの幸い、平和を実現する者、義のために迫害を受ける者の幸いについて、お話しました。平和と義は非常に密接な関係です。イザヤ書にこんな言葉があります。「正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものはとこしえに安らかな信頼である。」(イザヤ32:17) 神の義が守られなければ、真の平和も到来しないとのことです。平和と義が八つの幸いの最後に一緒に書いてある理由は、平和と義との密接な関係を表すためだと思います。神の義でおられるイエス·キリストを堅く信じる時、真の平和が私たちにもたらされることを信じて生きることを願います。今日で八つの幸いの説教は終わりです。ご帰宅なさって、お時間のよろしい時に、八つの幸いの言葉をお一人で静かに読んでいただければ幸いです。 キリストにならい、神に幸いをいただく志免教会であることを祈り願います。

幸いである(3)

箴言11章1節 (旧1004頁) マタイによる福音書5章3~11節(新6頁) 前置き 今日の説教は「幸いである」の3回目の説教です。私たちは前回の説教で、山上の垂訓の序盤に出てくる八つの幸いが神と隣人への私たちの姿勢と関りがあると学びました。前半の四つの幸いは、神への私たちの姿勢と、その中で私たちに与えられる幸いを、後半の四つの幸いは、隣人への私たちの姿勢と、その中で私たちに与えられる幸いを含んでいると話しました。心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者。以上が神への姿勢と関りのある八つの幸いの中の四つの幸いです。そして、今日からは、隣人に向けたキリスト者の姿勢と関りのある後半の四つの幸いを学んでいきたいと思います。 1. 私たちは主の御前に立っている。 イエスが山上の垂訓のすべての言葉を語り終えられたマタイによる福音書7章の最後尾にはこう書いてあります。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(マタイ7:28~29) イエスの長い説教を聴いた群衆は、イエスのお教えにユダヤ人の律法学者たちと違う何かがあることを感じました。彼らはイエスのお教えが「権威ある者」の教えのようだと考えました。説明が長くなりそうで単刀直入に言えば、権威のある者とは、ユダヤ人が尊敬してやまない律法の記録者であるモーセのことだと思います。つまり、人々はイエス·キリストの御言葉から、主なる神から律法をいただいたモーセのような特別さを見つけた意味ではないでしょうか? 彼らにとって、モーセは最高の預言者だったからです。しかし、イエスはそれ以上の方です。山上の垂訓の八つの幸いの言葉が終わると、イエスは「言っておく」という表現をよく使われます。「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:18) 神に律法(御言葉)をいただいた者なら、権威ある者モーセでも、律法学者でも、御言葉を教える時に自分の話(話し手の思想)をしてはなりません。ひたすら、御言葉の主である神の御言葉そのものを語り伝えなければなりません。しかし、イエスはそれとは異なり、直接ご自分の言葉を言われました。モーセや律法学者たちのように「主がこう言われた。」ではなく「わたしがあなたたちに言う。」と主は言われるのです。すなわち、イエスはモーセと律法学者たちを、はるかに越える神の御言葉の源、つまり神ご自身なのです。そして、その神ご自身であるイエスは山の上に集まっている群衆の前で、他人からの言葉ではなく、神であるご自身の言葉を言われたのです。したがって、山上の垂訓の言葉を聞いたその昔の群衆も、今日の礼拝で、その言葉をいただいている私たちも、自分がどなたの前に立っているのか憶えなければなりません。私たちは今、神であるイエス·キリストの御前に立ち、主の御言葉をいただいています。山上の垂訓の言葉は他の誰の言葉でもない神であるキリストの御言葉であり、主は御前に立っている私たちにその御言葉を与えておられます。 2. 憐れみ深い人々は幸いである。 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」(マタイ5:7) 主の祈りには、印象的な表現があります。「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」「主が私たちをお赦しくださったように、私たちも自分に罪を犯した者を赦すように導いてください。」ではなく、「私たちに罪を犯した者を赦したように、主が私たちをお赦しください」と、主語が反対になっているような文章です。これは一体どういう意味でしょうか? 結論的な意味は同じだと思います。赦しには垂直的な赦しと水平的な赦しがあります。垂直的な赦しとは、イエス·キリストの十字架の贖いによって、罪人の過去と現在と未来のすべての罪が赦されることを意味します。永遠の赦しとも言えるでしょう。水平的な赦しとは、キリストによって垂直的な赦しを受けた罪人が、主のその赦しに力づけられ、日常で、自分に罪を犯した人々を赦し、積極的に愛することを言います。つまり、主語の順序を変えることにより、垂直的に赦された人なら、必ず水平的に赦さなければならないことを表しているのです。 これは、キリスト者にとって、赦しが選択肢の一つではなく、必ず求められる生き方であるということです。私たちは、主によって赦されているからです。今日の本文は、この主の祈りの表現と似ています。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」私たちは自分の優れた人格のゆえに、他人を赦したり、憐れんだりするわけではありません。すでに垂直的な赦しを受けたので、必然的に水平的な赦しをするものです。だから、自分は信仰が弱いから赦せないという言い方は、言い訳にすぎません。神が私たちを憐れんで、主の民にしてくださったので、私たちも必然的に主のお憐れみに支えられて他人を憐れむべきなのです。私たちが他人を憐れむ時、主なる神は私たちが本当に赦された者であることをご確認なさるでしょう。主イエスが、そのように私たちを憐れんでくださり、ご自分を犠牲にされたからです。他人への赦しと憐れみは、神への最高の愛の表現です。垂直的な赦しと憐れみ、水平的な赦しと憐れみの関係を忘れない私たちであることを祈ります。 3. 心の清い人々は、幸いである。 「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8) 「清い」という表現のギリシャ語は「誠実、一途、一貫的」などの意味を持つ言葉です。つまり、善良や綺麗という意味より、神と人を欺かない、表と裏が違わない、偽りのない人のことです。この世は偽りに満ちています。自分の利益のために他人を騙す詐欺師のような人間が、少なくありません。表は立派な人格の人なのに、裏では邪悪なことをたくらむ人もいます。しかし、そういう人たちだけが心が清くないとは言えません。日常で表では微笑みながら、裏では陰口をたたく、時々私たちからも見られる姿も、ある意味で心の清くない人の姿ではないかと思います。心の清い者とは「然りは然り、否は否」と率直に言う、誠実で、一途で、一貫な人を意味します。もちろん、だからといって心の中に憎んでいるから隠さずに憎んでも良いという意味ではありません。主のお憐れみにならい、他人を憐れむ生き方の上に清い心を持つべきということです。 箴言はこう語ります。「偽りの天秤を主はいとい、十全なおもり石を喜ばれる。」(箴言11:1) また、ヤコブの手紙は、こう語ります。「罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち(二つの心を持つ者)、心を清めなさい。」(ヤコブ書4:8) 神の愛によって力づけられ、表と裏が違う人生を生きないで、すべてのことにおいて誠実、一途、一貫的に生きること。そのような人は、神を見ることでしょう。もちろん、神を目で見るというわけではありません。「神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方」(1テモテ6:15~16) 神は肉体の目ではなく、心の目で見ることができる方だからです。心の清い者は、この世と私たちの人生に働いておられる神の存在を見つけることができるでしょう。神を知らない偽りの世の中で偽りのない人生を生きるから当然の結果でしょう。清い心はキリスト者の必須的な生き方なのです。 締め括り 他人を憐れむ者は、神が憐れんでくださいます。心の清い者は神を見るようになります。私たちは、神であるキリストの御前に立っている者です。深い憐れみと誠実さで、この地上の人生を送られたイエス、私たちが一生求めるべき生き方ではないかと思います。罪に満ちている、この世を生きる私たちは、罪から完全に自由になることが出来ません。だから、八つの幸いに現れる生き方は到底無理だと思いやすいです。しかし、私たちの前におられる主イエスが、私たちの力になって助けてくださるでしょう。完璧ではなくても良いです。主に倣っていきたいとの心が大事です。主に頼って神の民にふさわしい人生を生き、八つの幸いに現れる人生を生きる私たちであることを祈り願います。

幸いである(2)

創世記 15章5~6節 (旧922頁) マタイによる福音書5章3~12節(新6頁) 前置き 今年は「幸いである」というマタイによる福音書の説教から一年を始めています。  私たちは先週の説教でマタイによる福音書5章のイエス・キリストの「山上の垂訓」に現れる「幸い」という言葉の意味について話しました。この言葉は新約聖書の言語である古代ギリシャ語の「マカリオス」を翻訳したものでした。その意味は、神から与えられる一方的な恵みとしての幸い(福)でした。ある人がまた別の人に与える物質的な幸い、あるいは自分の努力と幸運による幸いではなく、主なる神が、ご自分の民を祝福し、お交わりくださるために与えられる、この世の価値観とは全く違う幸いでした。キリストによって、神の民となったキリスト者は、神からの幸いのもとに生きなければならない存在です。しかし、その幸いは、この世が追い求める世俗的な幸せではなく、ひとえに神の恵みによってのみ与えられる霊的な幸いなのです。そして、その幸いはこの世に生きる時だけでなく、死後にもキリストによって永遠に私たちに与えてくださる限りのない恵みです。今日も先週に続き、キリスト者の幸いについて話してみましょう。 1.八つの幸いはキリスト者の生き方についての話しである。 まず、前回の説教で取り上げなかった話しがあり、その話しから始めたいと思います。八つの幸いには、主から与えられる、いくつかの幸い(福)だけでなく、キリスト者が求めるべき生き方についての教訓も含まれています。八つの幸いの「幸い」そのものも大事ですが、どんな人にその幸いが与えられるだろうかも大事だということです。だから、私たちは八つの幸いを通じて、キリスト者の望ましい生き方についても考えることができます。ある解説書を読むと、こんな言葉がありました。「八つの幸いの前半の四つの幸いは、主と民(教会)の関係からもたらされる幸いである。また、後半の四つの幸いは、主の民(教会)と隣人の関係からもたらされる幸いである。」つまり、私たちに与えられる神からの幸いは、神と私自身、私自身と隣人の関係から始まるということです。先週、私たちは心の貧しい人々、悲しむ人々には、主からの幸いがあると学びました。心の貧しい者とは、自分の罪と無力さに気づき、謙虚に主に寄りかかる者を意味しました。マタイによる福音書は、天の国が彼らのものであると語ります。また、悲しむ者とは、人生のすべての悲しみと苦しみへの助けを、ただ神おひとりのみに願い、主の慈しみを求める者を意味します。彼らは神によって慰められるとマタイによる福音書は語ります。神は心の貧しい者、悲しむ者を放っておかれず、彼らを助けてくださるということです。このような見方から、今日の本文も考えてみたいと思います。 2. 柔和な人々は、幸いである。 「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」(5) 前回の説教に続いて、今日の一つ目の「幸い」は「柔和な者に与えられる幸い」です。「柔和」という表現は、日常生活で時々使う言葉なので、親しみのある表現だと思います。辞書を引いてみると、柔和の意味は「性質や態度がものやわらかなさま」でした。何か穏やかな性格を意味するような言葉でした。しかし、私たちは、この文章の一次的な読み手が、現代の日本人ではなく、ローマ時代のイスラエル地域の人々だったということに注意する必要があります。つまり、聖書に記された「柔和」と現代日本人が理解する「柔和」の間には、言語、文化、歴史などの違いがあることを理解しなければなりません。マタイによる福音書に記された「柔和」の原文はギリシャ語「プラウス」ですが、その意味は「へりくだった態度から生まれるしなやかさ」です。ただの「ものやわらかさ」ではなく「謙虚さから生まれる落ち着いたさま」を意味します。辞書だけでは説明がもの足りないと思いますので、例を挙げてみましょう。野生馬は、その性格がものすごく荒いので、背中に人が乗ることを許しません。野生馬の足蹴りに打たれたら、クマやオオカミも大怪我をしてしまうかもしれません。 しかし、飼い慣らされた馬は、人を乗せるのを拒否しません。人より体も大きく、力も強いですが、自分の性格をコントロールして、人を自分の上として認めます。マタイによる福音書が語る「柔和、プラウス」には、飼い慣らされた馬のようなニュアンスがあります。自分の性格ではなく主人の意志に従順に従う馬から、そのイメージをかいま見ることが出来るのです。つまり、柔和な者とは、自分の意志、性格、環境を超えて、謙遜に主のお導きを求める者のことです。自分の性格、考え方があっても、神が望んおられることが何かを、先に考える人です。世の中に自分の性格と考え方のない人はいません。しかし、皆が自分の考えを貫こうとしたら、教会は成り立てないかもしれません。神の御心が何であるかを先に考え、自分の考えと行動を節制すること。聖書に記してある柔和は、そのようなものです。 聖書は、そのような者たちは、地を受け継ぐと語ります。ここで言う地は土地を意味するものではなりません。神が旧約聖書で、イスラエルにカナンの土地をお与えになった出来事は、神のご支配のもとにイスラエルを招かれる意味を持っていました。「この地に入る君たちは、わたしの民である。」という意味なのです。 したがって、地を受け継ぐという言葉の意味は、神の民として認められ、永遠に主の民として生きることとして理解しましょう。 3. 義に飢え渇く人々は、幸いである。 「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」(6)「義」とは何でしょうか?「義」という漢字を、日本人が分かりやすく言い換えれば「正しい」になると思います。「正しい」とはどういう意味でしょうか? 辞書には「理論、理屈に見合っている。 計算かあう。」と記されています。しかし、これは人間社会的な価値観で理解する概念です。もちろん、聖書が語る「義、正しさ」にも部分的に以上のような意味が含まれていますが、それより大事な意味は「神が約束されたことを忠実に成し遂げてくださること。」です。創世記にはこんな言葉があります。「主は彼を外に連れ出して言われた。天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。そして言われた。あなたの子孫はこのようになる。アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:5-6) 生物学的に老人になって、到底男の子をもうけることが出来ないアブラハムに、神は子孫が生まれると約束されました。常識的に到底ありえないことでしたが、アブラハムは神の約束だから、それを信じたのです。神がご自分の約束を忠実に行われること、すなわち神の義を信じたのです。アブラハムの主導的な行動としての「信じる」ではなく「神がご自分の約束を必ず、忠実に成し遂げてくださること」を信じたことが義となったのです。アブラハムは神の義を信じ、それがアブラハムの義となったのです。 キリスト者は、キリストによる神の義を信じ、正しい者と見なされました。私自身が主を信じること、私自身の意志と行動が私の義になったわけではなく「キリストが神の約束どおり忠実に、必ずわたしを導き、救ってくださるだろう」と神の約束を信じたので、私たちは正しい人として認められたのです。「神を信じる」という私たち自身の行動によって義となったわけではなく、神がご自分の約束どおり必ず忠実に成し遂げてくださること、そのものがすなわち義なのです。そのような背景から6節を理解する必要があると思います。「義に飢え渇く」という言葉は、その神の約束が成し遂げられることを、待ち望んでいるイメージを持っています。イエスが主の祈りで言われた「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」こそ、義に飢え渇いた者が、追い求めるべき最高の祈りです。自分の意志ではなく、神の義、主の御心が成し遂げられることを願う人生こそが、まさに義に飢え渇いた者の生き方なのです。その神の義を待ち望んで生きる人は、永遠に共におられる神との交わりによって満足して生きるでしょう。私たちと永遠に一緒におられ、私たちを助け、導いてくださることによって、主は私たちの魂の泉になってくださるでしょう。 締め括り 今日は、柔和な者の幸いと義に飢え渇く者の幸いについて話してみました。説教を準備しながら、私は自分自身に問うてみました。私は柔和な者なのか? 私は義に飢え渇いている者なのか? 答えは「自信がない」でした。率直に言うと、私はまったくそのような人間ではないかも知れません。皆さんはいかがでしょうか? もしかしたら、この世には、実際に柔和な者と義に飢え渇いている者はいないかも知れません。しかし、私たちが完全に神の御心のままに生きることができないということを主はご存知です。ですので、父なる神はイエス·キリストを遣わされ、私たちの代わりに私たちの弱さを担当させられたのではないでしょうか。そして、キリストは聖霊なる神を遣わされ、昨日も今日も明日も、私たちと共に私たちの弱さを助けておられるのではないでしょうか? だとえ、自分にはできないと思っていても決して諦めてはなりません。御父と御子と聖霊が協力され、今でも私たちを助けて導いてくださるからです。そういう意味として、私たちは「幸いな者」です。数多くの困難が私たちの人生にあっても、私たちを助けて祝福してくださる神に信頼していきましょう。それこそが幸いな者の生き方ではないでしょうか。

幸いである。(1)

詩編 84編6~8節 (旧922頁) マタイによる福音書5章3~11節(新6頁) 前置き 今年は、説教の方式を変えてみようとしています。今までは、新旧約聖書から各々一つの聖書を決め、2週間に一つずつ、連続的に説教をしてきました。連続して聖書を取り上げたので、一つの聖書を詳細に探ってみることができる長所がありましたが、目立った教訓のない箇所も無理やりに説教したため、分かりにくくなる短所もあったと思います。今年からは、今まで通りに連続説教もしますが、時には聖書のあちこちから独立したテーマを取り上げて説教をしてみたいと思います。どんな方法で説教しても、私たちの魂の糧となる良い言葉を主にいただくことを祈ります。今後、何週間、私はマタイによる福音書5章「山上の垂訓」の冒頭に出てくる   「八つの幸い」について話してみたいと思います。私たちが考える幸いと聖書が語る幸いにはどんな違いがあるでしょうか? 一緒に考えてみましょう。 1.「幸い」とは何か? 「幸い」とは何でしょうか? 聖書には「幸いである」という表現が新旧約を問わず、数回出てきます。「幸い」は単に、この世で享受する幸せのことでしょうか? 新約聖書の言語である「ギリシャ語」には、3つの「幸い」に関する表現があると言われんす。一つ目は「ユーロゲトス」です。これは基本的に「高める、ほめたたえる」という意味を持っています。ユーロゲトスという表現は、神と人間の相互的な行動に使用できます。神が人間を「ユーロゲトス」してくださるというのは、罪人を赦し、祝福してくださるのを意味します。人間が神を「ユーロゲトス」するというのは、偉大な神を讃美するのを意味します。二つ目は「ユーダイモニア」です。これはアリストテレスが使った表現ですが、人間が自分の存在目的に合わせて生きる時に感じる感情、「幸福感」のことです。しかし、神との関係からの幸福感ではないため、聖書では使われません。三つ目に「マカリオス」があります。マカリオスは、神からいただく一方的な幸いであって、神が与えて、人間が受ける、神の恩寵による人間の内的、外的の幸いを意味します。今日のマタイによる福音書5章の本文に出てくる「幸い」は、以上の3つの幸いの中で三つ目の「マカリオス」に当該します。イエスが語られた八つの幸いが、徹底的に神から与えられる一方的な恵みとして、私たちに与えられているということです。 2. 心の貧しい人々は、幸いである。 では、神が信仰者に与えてくださる八つの幸いには何がありますでしょうか?八つの幸いをいっぺんに取り上げるには時間が足りないので、何回の説教にわたって 考えてみたいと思います。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(3) イエスは地上での御業を始められる時「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と宣言されました。天の国といえば、死後に行く幸せな楽園を思い出しやすいです。きっと神が備えられた天の国は悲しみも苦しみもない、幸いに満ちたところでしょう。ところで、イエスは「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(ルカ11:20)と言われることで、ご自身がこの世に来られた時、すでに神の国(天の国)が到来したのだとおっしゃいました。つまり、天の国は主を信じる者が死後に安息する場所でもありますが、イエスが私たちと共におられる、すべての場所が天の国であるという2つの意味を持っているのです。しかし、私たちの人生の中に苦しみと悲しみが依然としてあるのに、どうして私たちの人生が天の国になると言えるでしょうか。 皆さんの日常は、天の国のように幸せですか? 私たちは、聖書が語る「幸い」の意味について顧みる必要があります。私たちが考える「幸い」は、この世の価値としての富、すべてがうまくいく幸運、感情的な幸せのことではないでしょうか。聖書が語る幸いとはそれらと違うものです。それらは、先に申し上げたアリストテレスの「ユーダイモイナ」的な幸いでしょう。しかし、その幸いは神とは関係ない人間の幸せです。ただ自分自身の満足であり、徹底的に自分が中心となるものです。 マタイによる福音書5章が語る幸いは、神が私たちに一方的にくださる恵みを意味します。つまり、苦しい時も、悲しい時も、イエスが私といつも共におられ、決して私から離れないということ。それが恵みであり、神からの真の幸いです。お金がなくても、力がなくても、地位の高低を問わず、主が永遠に共におられる幸いを祈り願います。心が貧しいということは、どこにも頼るところがなく、心の分かち合う人もない時、神でなければ到底助けがなく、どん底にいるさまを言います。すなわち、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」という言葉の意味は、何の希望もなく神しか頼るところがない失敗した者にくださる主の一方的な恵みのことです。そのような心で謙虚に主の恵みを求める時、主は、私たちから永遠に離れられない主イエスを通して、私たちを見守ってくださるでしょう。聖書はそれこそが、真の幸いであると語っているのです。 3.悲しむ人々は、幸いである。 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(5:4)二つ目は悲しむ者の幸いについてです。悲しむという言葉は文字通りに人間の悲しみのことです。しかし、何のための悲しみか、聖書には正確に記されていません。悲しむと翻訳された、ギリシャ語も、単純な意味としての「悲しみ、悔やみ、号泣」などを意味するからです。とにかく、マタイによる福音書は、悲しむ者には、主によって慰められる幸いがあると語っています。ある学者たちは非常に信仰的に「自分の罪を悔い改める霊的な悲しみ」と解釈しました。しかし、それも良いですが、すなおに、神は誰であれ、悲しむ者なら慰めてくださる方であると解釈しても良いのではないでしょうか? 信仰的に自分の罪に気づいて、悲しむ人もいるでしょうが、世の中の心配と苦しみ、悲しみによって悲しむ人もいるからです。時々、私たちは神という、誰よりも人格的で愛に満ちておられる方を教理という枠組みに閉じ込めているかもしれません。未来への不安で悲しむ人、家族との別れで悲しむ人、自分の罪のために苦しむ人、一人ぼっちで苦しむ人、世の中には数多くの悲しむ人々がいます。 愛に満ちておられる、主なる神は悲しむ者の人生を他人事にように見過ごす方ではありません。キリスト者であろうが、未信者であろうが、関係ありません。世の中のすべての存在が神の被造物であり、神の愛のもとにあります。神はすべての者の悲しみを聞いておられます。ただ、悲しむ者が誰の前に立っているのかが大事でしょう。人の前で悲しんでいるか?、偶像の前で悲しんでいるか、唯一の真の神の前で悲しんでいるか。もし主なる神に向かって悲しんでいる者なら、主は彼を知らないふりされず、慰めてくださるでしょう。だから、「慰められる」という言葉が重要です。この表現の原文的な意味は「自分のそばに呼び寄せる」だからです。神を探し求める者に必ず会ってくださる神のことです。本当の慰めは私から離れられない神ご自身です。そういう意味として、先ほどお話ししました「天の国はその人たちのものである。」という言葉とも一脈通じるものがあります。神に向かって悲しむ者たちを見過ごされない神は、主を求める者をご自分のそばにお呼び寄せくださり、信仰を与え、イエス·キリストを通して、永遠に共に歩んでくださるでしょう。他の誰でもない、主なる神を探し求める者、主はその人を絶対に見捨てられません。それが、主がくださる幸いなのです。 締め括り ここ一週間、信仰とは何かについて考えてみました。私は教師として働いて13年目を迎えています。この 13 年間、信仰のために感情的に幸せだった時は 3 ヵ月にも至りません。悩み、悲しみ、苦しみながら生きてきました。しかし、明らかなことは、神は一度も私から離れたことがないということです。それを信じて今も苦しみながらも希望を持って生きています。神からの幸い、つまりマカリオスは、神の一方的な恵みです。そして、それは絶対に私たちを離れません。信仰は苦しくて悲しい道です。しかし、苦しみと悲しみの中で、神はキリストを通して、いつも私たちと共におられます。それがキリスト者にとっての最高の幸いです。感情の幸せと霊の幸い、私たちはこの二つを混沌してはなりません。両方の違いをはっきり理解して生きるべきです。神の幸いは、この世が語る幸せと違うからです。最後に幸いについての旧約の言葉一ヶ所を読んで説教を終わりたいと思います。「いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み、ついに、シオンで神にまみえるでしょう。」(詩編84:6-8)

喜び、祈り、感謝。

エレミヤ書 29章11節 (旧1230頁) テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節(新379頁) 前置き 2024年が明けました。今年も主のお導きの中で、神に信頼し、隣人を愛し、正しい信仰に立っていく志免教会になることを祈り願います。今年の主題聖句は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケの信徒への手紙一 5:16-18)です。主の体なる教会である私たちが、日頃に主にあって生き、信仰によって喜びと祈りと感謝をもって生きていきたい希望で、この主題を決めました。使徒パウロは信仰者が常に喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して生きることこそ、神が望んでおられること、つまり「神の御心」だと明確に語りました。今年、志免教会が神の御心に従って、常に喜び、絶えず祈り、すべてにおいて感謝して歩む教会であることを願います。今日の本文を通じて、私たちが追い求めるべき信仰について考えてみましょう。 1. テサロニケ教会についての手短な知識。 使徒言行録15章でパウロはいわゆる「第2次伝道旅行」と呼ばれる宣教の旅を始めます。パウロは以前にもイエス·キリストの福音を宣べ伝えるためにエルサレムを離れ、小アジア地域(現在のトルコ)のあっちこっちに行巡り、イエス·キリストが神の子であり、人間を罪から救うために来られた唯一の救い主であると伝道しました。その宣教の旅の後、エルサレムに帰った彼は、また、福音伝道のために小アジアの方に2回目の旅行を始めたわけでした。パウロは、今のトルコ地域での宣教に特に意を注いでいたようです。そんなある日「トロアス」(トロイの木馬で有名な場所)という町に滞在していたパウロは、夜に主からの幻をいただくことになりました。それはマケドニア人、つまり現在のギリシャ北部の人が「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」という幻でした。小アジア地域での伝道に尽力していたパウロは、自分の関心と意志が小アジアにあったにもかかわらず、神がくださった幻に従って自分のすべての計画を撤回し、マケドニア州フィリピに向かうことになりました。 パウロは律法学者として相当の知識を持つ、現在日本でいえば「前途有望な東大出身博士」のようなエリートでした。イエスに出会う前、彼は頑固な信念で、ユダヤ教思想に傾倒し、キリスト者の絶滅を願っていた情熱的なユダヤ人でした。そうだった彼が、自分が気を遣っていた小アジアの宣教を一夜の幻で止め、神のご命令に従って他の地域に渡っていったわけです。そして彼はそこでの福音伝道によって大きな迫害と苦難を受けます。主の御心の前でパウロは自分のすべての計画とこだわりを止め、主に聞き従い、迫害までも覚悟したのです。そんな中、パウロはテサロニケという町に着き、そこでテサロニケ教会が打ち立てられる種になります。しかし、パウロはそこでも「イエス·キリストだけが真の王」と伝道し、敵対なユダヤ人たちとテサロニケの人々の脅威を受けて身を避けることになります。パウロはテサロニケを離れて命を救いましたが、生まれたばかりのテサロニケ教会はどうなるか分からない状態でした。それ以来、パウロにとってテサロニケ教会は、特に心に引っかかる教会になったに違いないでしょう。果たして、テサロニケ教会は迫害の中で生き残ったでしょうか? 2. 迫害と苦難の中でも勝利する教会。 ところで、テサロニケ人への手紙第一1章6、7節には、こう書いてあります。「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。」パウロは脅威を避けて離れなければならなかったが、彼の伝道によって生まれたテサロニケ教会は、パウロの不在、すなわち指導者の不在にもかかわらず、主の御言葉を大事にし、堅く信仰を守ったのです。テサロニケ教会のために心を痛めていたパウロにとって、テサロニケからの良い知らせは、大きな喜びであったに違いないでしょう。キリスト教の歴史上、教会が最も純粋だった時は迫害と苦難の時代でした。迫害と苦難があればあるほど、教会は信仰の上に立ち、純粋になりました。むしろ教会が帝国の国教となり、多くの財産と権力を手に入れた時、主の御言葉から離れて腐敗し始めました。神は、たとえ地上の教会がなくなるとしても信仰的に腐敗することは望んでおられません。今、志免教会の状況を考えてみると、高齢化の会員も多く、経済的にも豊かではありません。皆さんが神に召されたら、志免教会はすぐになくなるかもしれません。しかし、志免教会の存廃よりも重要なことがあります。それは、志免教会の純粋な信仰です。 「なくなると言われても純粋な信仰を守るか。」「世の中の価値観に妥協して生き残るか。」という分かれ道の前で、神への純粋な信仰を守るのが正解です。そのような信念で生きる時、主の御旨によって教会の存廃は定めされるでしょう。信仰者の真の勝利は、ただの生き残りではありません。志免教会の存廃はあくまでも主の計画と選びにかかっています。私たちにとって重要なことは、今この瞬間、主を愛し、その方の御言葉に従順に従い、伝道し、隣人を愛して生きることです。もしかしたら、私たちは今、私たちが信仰の上に正しく立っているより、将来に私たちの教会が無くなるのではないかというおそれに心を奪われ、必要以上に心配しているかもしれません。 私は志免教会が、これからも長く、この地域で礼拝と伝道をし、隣人を愛する共同体として残ることを願います。しかし「生き残り」に執着してしまい、人数、予算などに心を奪われ、一喜一憂することはなかったらと思います。苦難と言っても過言ではない、今の日本の教会の現実の中でも、最後まで主への信仰を守り、すべてを主にお委ねして従うことを願います。すぐになくなってもおかしくなかった無牧教会だったテサロニケ教会は、それにもかかわらず信仰を守り、主によって守られました。それが主が望んでおられる本当の勝利ではなかったでしょうか? 3.喜び、祈り、感謝 2024年1月現在、聖書に記されているテサロニケ教会はありません。現在のテサロニケには、その昔の古代テサロニケ教会の跡が残っているだけです。主に褒められた教会だったにもかかわらず、歴史の移り変わりの中で消えていったのです。しかし、その昔、テサロニケ教会が追い求めていた主イエスの福音、信仰、神と隣人への愛はいまだに生き残り、今の他の国と他の民族のまた別の教会で続いています。テサロニケ教会はなくなりましたが、テサロニケ教会の信仰は生き残って続いているということです。今日の本文は語ります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」喜ぶことがあまりなく、祈りをしても変わることがそんなにないように見え、感謝することより感謝しにくいことが、はるかに多いこの世の中で、キリスト者は、どのように喜びと祈りと感謝を保って生きればいいでしょうか? 教会は建物を意味しません。本当の教会は目に見えません。もちろん一つの地域の目に見える教会も教会と呼ばれますが、それよりも大きな意味としての教会は、イエス·キリストを主とあがめる全世界の神の民の集まりを意味します。そして、主はそのすべての教会の頭として、今も目に見えない大きい教会を導いておられます。 私たち自身の大変な状況に捕らえられ、喜べず、祈りへの確信もなく、感謝もできない教会になるより、私たちの現在の状況と事情がどうであれ、それらを乗り越えて、この世のすべての教会を見守っておられる主に信頼して生きることを望みます。喜べない時も、信仰によってあらかじめ喜び、祈りが早く叶わない時も、最後まで主のお導きを待ち望み、感謝することが、あまりないような状況でも、神への信頼によって感謝を作り出す私たちであることを願います。「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(18)今日の本文は、それこそがキリスト・イエスにおいて、私たちに求められる神の御心であると証ししているのです。長くても100年前後の短い人生の心配にとらわれて苦しむ私たちではなく、すべての結果を主に任せて決然と信仰を守って喜び、祈り、感謝しながら生きる私たちであることを願います。このような私たちの人生をご覧になり、主はご自分の御心に従って私たちの歩みを導いてくださるでしょう。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」という聖書の御言葉(ヘブライ人への手紙11:1)があります。自分の目に映る現実のために絶望せず、見えない主のお導きを信じて生きる2024年であることを願います。 締め括り 「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ29:11)旧約時代、神はご自分を背反し、偶像を崇拝し、悪事を犯して、結局滅ぼされていまったイスラエル民族にこのように言われました。そして、70年後、主は彼らを赦してくださいました。旧約の犯罪した民にもこのような計画を持っておられた神が、ご自分のひとり子の贖いによって救われた新約の教会に、いかに大きな計画を持っておられるでしょうか? 神の御心は主の民の平和であり、将来と希望であることを私たちは旧約の本文から知ることができます。このような主の御心を憶え、今日の新約聖書の本文のように神への信頼によって、常に喜び、祈り、感謝しつつ、今年を生きる私たちであることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。