幸いである(3)

箴言11章1節 (旧1004頁) マタイによる福音書5章3~11節(新6頁) 前置き 今日の説教は「幸いである」の3回目の説教です。私たちは前回の説教で、山上の垂訓の序盤に出てくる八つの幸いが神と隣人への私たちの姿勢と関りがあると学びました。前半の四つの幸いは、神への私たちの姿勢と、その中で私たちに与えられる幸いを、後半の四つの幸いは、隣人への私たちの姿勢と、その中で私たちに与えられる幸いを含んでいると話しました。心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者。以上が神への姿勢と関りのある八つの幸いの中の四つの幸いです。そして、今日からは、隣人に向けたキリスト者の姿勢と関りのある後半の四つの幸いを学んでいきたいと思います。 1. 私たちは主の御前に立っている。 イエスが山上の垂訓のすべての言葉を語り終えられたマタイによる福音書7章の最後尾にはこう書いてあります。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(マタイ7:28~29) イエスの長い説教を聴いた群衆は、イエスのお教えにユダヤ人の律法学者たちと違う何かがあることを感じました。彼らはイエスのお教えが「権威ある者」の教えのようだと考えました。説明が長くなりそうで単刀直入に言えば、権威のある者とは、ユダヤ人が尊敬してやまない律法の記録者であるモーセのことだと思います。つまり、人々はイエス·キリストの御言葉から、主なる神から律法をいただいたモーセのような特別さを見つけた意味ではないでしょうか? 彼らにとって、モーセは最高の預言者だったからです。しかし、イエスはそれ以上の方です。山上の垂訓の八つの幸いの言葉が終わると、イエスは「言っておく」という表現をよく使われます。「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイ5:18) 神に律法(御言葉)をいただいた者なら、権威ある者モーセでも、律法学者でも、御言葉を教える時に自分の話(話し手の思想)をしてはなりません。ひたすら、御言葉の主である神の御言葉そのものを語り伝えなければなりません。しかし、イエスはそれとは異なり、直接ご自分の言葉を言われました。モーセや律法学者たちのように「主がこう言われた。」ではなく「わたしがあなたたちに言う。」と主は言われるのです。すなわち、イエスはモーセと律法学者たちを、はるかに越える神の御言葉の源、つまり神ご自身なのです。そして、その神ご自身であるイエスは山の上に集まっている群衆の前で、他人からの言葉ではなく、神であるご自身の言葉を言われたのです。したがって、山上の垂訓の言葉を聞いたその昔の群衆も、今日の礼拝で、その言葉をいただいている私たちも、自分がどなたの前に立っているのか憶えなければなりません。私たちは今、神であるイエス·キリストの御前に立ち、主の御言葉をいただいています。山上の垂訓の言葉は他の誰の言葉でもない神であるキリストの御言葉であり、主は御前に立っている私たちにその御言葉を与えておられます。 2. 憐れみ深い人々は幸いである。 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」(マタイ5:7) 主の祈りには、印象的な表現があります。「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」「主が私たちをお赦しくださったように、私たちも自分に罪を犯した者を赦すように導いてください。」ではなく、「私たちに罪を犯した者を赦したように、主が私たちをお赦しください」と、主語が反対になっているような文章です。これは一体どういう意味でしょうか? 結論的な意味は同じだと思います。赦しには垂直的な赦しと水平的な赦しがあります。垂直的な赦しとは、イエス·キリストの十字架の贖いによって、罪人の過去と現在と未来のすべての罪が赦されることを意味します。永遠の赦しとも言えるでしょう。水平的な赦しとは、キリストによって垂直的な赦しを受けた罪人が、主のその赦しに力づけられ、日常で、自分に罪を犯した人々を赦し、積極的に愛することを言います。つまり、主語の順序を変えることにより、垂直的に赦された人なら、必ず水平的に赦さなければならないことを表しているのです。 これは、キリスト者にとって、赦しが選択肢の一つではなく、必ず求められる生き方であるということです。私たちは、主によって赦されているからです。今日の本文は、この主の祈りの表現と似ています。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」私たちは自分の優れた人格のゆえに、他人を赦したり、憐れんだりするわけではありません。すでに垂直的な赦しを受けたので、必然的に水平的な赦しをするものです。だから、自分は信仰が弱いから赦せないという言い方は、言い訳にすぎません。神が私たちを憐れんで、主の民にしてくださったので、私たちも必然的に主のお憐れみに支えられて他人を憐れむべきなのです。私たちが他人を憐れむ時、主なる神は私たちが本当に赦された者であることをご確認なさるでしょう。主イエスが、そのように私たちを憐れんでくださり、ご自分を犠牲にされたからです。他人への赦しと憐れみは、神への最高の愛の表現です。垂直的な赦しと憐れみ、水平的な赦しと憐れみの関係を忘れない私たちであることを祈ります。 3. 心の清い人々は、幸いである。 「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8) 「清い」という表現のギリシャ語は「誠実、一途、一貫的」などの意味を持つ言葉です。つまり、善良や綺麗という意味より、神と人を欺かない、表と裏が違わない、偽りのない人のことです。この世は偽りに満ちています。自分の利益のために他人を騙す詐欺師のような人間が、少なくありません。表は立派な人格の人なのに、裏では邪悪なことをたくらむ人もいます。しかし、そういう人たちだけが心が清くないとは言えません。日常で表では微笑みながら、裏では陰口をたたく、時々私たちからも見られる姿も、ある意味で心の清くない人の姿ではないかと思います。心の清い者とは「然りは然り、否は否」と率直に言う、誠実で、一途で、一貫な人を意味します。もちろん、だからといって心の中に憎んでいるから隠さずに憎んでも良いという意味ではありません。主のお憐れみにならい、他人を憐れむ生き方の上に清い心を持つべきということです。 箴言はこう語ります。「偽りの天秤を主はいとい、十全なおもり石を喜ばれる。」(箴言11:1) また、ヤコブの手紙は、こう語ります。「罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち(二つの心を持つ者)、心を清めなさい。」(ヤコブ書4:8) 神の愛によって力づけられ、表と裏が違う人生を生きないで、すべてのことにおいて誠実、一途、一貫的に生きること。そのような人は、神を見ることでしょう。もちろん、神を目で見るというわけではありません。「神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方」(1テモテ6:15~16) 神は肉体の目ではなく、心の目で見ることができる方だからです。心の清い者は、この世と私たちの人生に働いておられる神の存在を見つけることができるでしょう。神を知らない偽りの世の中で偽りのない人生を生きるから当然の結果でしょう。清い心はキリスト者の必須的な生き方なのです。 締め括り 他人を憐れむ者は、神が憐れんでくださいます。心の清い者は神を見るようになります。私たちは、神であるキリストの御前に立っている者です。深い憐れみと誠実さで、この地上の人生を送られたイエス、私たちが一生求めるべき生き方ではないかと思います。罪に満ちている、この世を生きる私たちは、罪から完全に自由になることが出来ません。だから、八つの幸いに現れる生き方は到底無理だと思いやすいです。しかし、私たちの前におられる主イエスが、私たちの力になって助けてくださるでしょう。完璧ではなくても良いです。主に倣っていきたいとの心が大事です。主に頼って神の民にふさわしい人生を生き、八つの幸いに現れる人生を生きる私たちであることを祈り願います。