幸いである(2)

創世記 15章5~6節 (旧922頁) マタイによる福音書5章3~12節(新6頁) 前置き 今年は「幸いである」というマタイによる福音書の説教から一年を始めています。  私たちは先週の説教でマタイによる福音書5章のイエス・キリストの「山上の垂訓」に現れる「幸い」という言葉の意味について話しました。この言葉は新約聖書の言語である古代ギリシャ語の「マカリオス」を翻訳したものでした。その意味は、神から与えられる一方的な恵みとしての幸い(福)でした。ある人がまた別の人に与える物質的な幸い、あるいは自分の努力と幸運による幸いではなく、主なる神が、ご自分の民を祝福し、お交わりくださるために与えられる、この世の価値観とは全く違う幸いでした。キリストによって、神の民となったキリスト者は、神からの幸いのもとに生きなければならない存在です。しかし、その幸いは、この世が追い求める世俗的な幸せではなく、ひとえに神の恵みによってのみ与えられる霊的な幸いなのです。そして、その幸いはこの世に生きる時だけでなく、死後にもキリストによって永遠に私たちに与えてくださる限りのない恵みです。今日も先週に続き、キリスト者の幸いについて話してみましょう。 1.八つの幸いはキリスト者の生き方についての話しである。 まず、前回の説教で取り上げなかった話しがあり、その話しから始めたいと思います。八つの幸いには、主から与えられる、いくつかの幸い(福)だけでなく、キリスト者が求めるべき生き方についての教訓も含まれています。八つの幸いの「幸い」そのものも大事ですが、どんな人にその幸いが与えられるだろうかも大事だということです。だから、私たちは八つの幸いを通じて、キリスト者の望ましい生き方についても考えることができます。ある解説書を読むと、こんな言葉がありました。「八つの幸いの前半の四つの幸いは、主と民(教会)の関係からもたらされる幸いである。また、後半の四つの幸いは、主の民(教会)と隣人の関係からもたらされる幸いである。」つまり、私たちに与えられる神からの幸いは、神と私自身、私自身と隣人の関係から始まるということです。先週、私たちは心の貧しい人々、悲しむ人々には、主からの幸いがあると学びました。心の貧しい者とは、自分の罪と無力さに気づき、謙虚に主に寄りかかる者を意味しました。マタイによる福音書は、天の国が彼らのものであると語ります。また、悲しむ者とは、人生のすべての悲しみと苦しみへの助けを、ただ神おひとりのみに願い、主の慈しみを求める者を意味します。彼らは神によって慰められるとマタイによる福音書は語ります。神は心の貧しい者、悲しむ者を放っておかれず、彼らを助けてくださるということです。このような見方から、今日の本文も考えてみたいと思います。 2. 柔和な人々は、幸いである。 「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」(5) 前回の説教に続いて、今日の一つ目の「幸い」は「柔和な者に与えられる幸い」です。「柔和」という表現は、日常生活で時々使う言葉なので、親しみのある表現だと思います。辞書を引いてみると、柔和の意味は「性質や態度がものやわらかなさま」でした。何か穏やかな性格を意味するような言葉でした。しかし、私たちは、この文章の一次的な読み手が、現代の日本人ではなく、ローマ時代のイスラエル地域の人々だったということに注意する必要があります。つまり、聖書に記された「柔和」と現代日本人が理解する「柔和」の間には、言語、文化、歴史などの違いがあることを理解しなければなりません。マタイによる福音書に記された「柔和」の原文はギリシャ語「プラウス」ですが、その意味は「へりくだった態度から生まれるしなやかさ」です。ただの「ものやわらかさ」ではなく「謙虚さから生まれる落ち着いたさま」を意味します。辞書だけでは説明がもの足りないと思いますので、例を挙げてみましょう。野生馬は、その性格がものすごく荒いので、背中に人が乗ることを許しません。野生馬の足蹴りに打たれたら、クマやオオカミも大怪我をしてしまうかもしれません。 しかし、飼い慣らされた馬は、人を乗せるのを拒否しません。人より体も大きく、力も強いですが、自分の性格をコントロールして、人を自分の上として認めます。マタイによる福音書が語る「柔和、プラウス」には、飼い慣らされた馬のようなニュアンスがあります。自分の性格ではなく主人の意志に従順に従う馬から、そのイメージをかいま見ることが出来るのです。つまり、柔和な者とは、自分の意志、性格、環境を超えて、謙遜に主のお導きを求める者のことです。自分の性格、考え方があっても、神が望んおられることが何かを、先に考える人です。世の中に自分の性格と考え方のない人はいません。しかし、皆が自分の考えを貫こうとしたら、教会は成り立てないかもしれません。神の御心が何であるかを先に考え、自分の考えと行動を節制すること。聖書に記してある柔和は、そのようなものです。 聖書は、そのような者たちは、地を受け継ぐと語ります。ここで言う地は土地を意味するものではなりません。神が旧約聖書で、イスラエルにカナンの土地をお与えになった出来事は、神のご支配のもとにイスラエルを招かれる意味を持っていました。「この地に入る君たちは、わたしの民である。」という意味なのです。 したがって、地を受け継ぐという言葉の意味は、神の民として認められ、永遠に主の民として生きることとして理解しましょう。 3. 義に飢え渇く人々は、幸いである。 「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」(6)「義」とは何でしょうか?「義」という漢字を、日本人が分かりやすく言い換えれば「正しい」になると思います。「正しい」とはどういう意味でしょうか? 辞書には「理論、理屈に見合っている。 計算かあう。」と記されています。しかし、これは人間社会的な価値観で理解する概念です。もちろん、聖書が語る「義、正しさ」にも部分的に以上のような意味が含まれていますが、それより大事な意味は「神が約束されたことを忠実に成し遂げてくださること。」です。創世記にはこんな言葉があります。「主は彼を外に連れ出して言われた。天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。そして言われた。あなたの子孫はこのようになる。アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:5-6) 生物学的に老人になって、到底男の子をもうけることが出来ないアブラハムに、神は子孫が生まれると約束されました。常識的に到底ありえないことでしたが、アブラハムは神の約束だから、それを信じたのです。神がご自分の約束を忠実に行われること、すなわち神の義を信じたのです。アブラハムの主導的な行動としての「信じる」ではなく「神がご自分の約束を必ず、忠実に成し遂げてくださること」を信じたことが義となったのです。アブラハムは神の義を信じ、それがアブラハムの義となったのです。 キリスト者は、キリストによる神の義を信じ、正しい者と見なされました。私自身が主を信じること、私自身の意志と行動が私の義になったわけではなく「キリストが神の約束どおり忠実に、必ずわたしを導き、救ってくださるだろう」と神の約束を信じたので、私たちは正しい人として認められたのです。「神を信じる」という私たち自身の行動によって義となったわけではなく、神がご自分の約束どおり必ず忠実に成し遂げてくださること、そのものがすなわち義なのです。そのような背景から6節を理解する必要があると思います。「義に飢え渇く」という言葉は、その神の約束が成し遂げられることを、待ち望んでいるイメージを持っています。イエスが主の祈りで言われた「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」こそ、義に飢え渇いた者が、追い求めるべき最高の祈りです。自分の意志ではなく、神の義、主の御心が成し遂げられることを願う人生こそが、まさに義に飢え渇いた者の生き方なのです。その神の義を待ち望んで生きる人は、永遠に共におられる神との交わりによって満足して生きるでしょう。私たちと永遠に一緒におられ、私たちを助け、導いてくださることによって、主は私たちの魂の泉になってくださるでしょう。 締め括り 今日は、柔和な者の幸いと義に飢え渇く者の幸いについて話してみました。説教を準備しながら、私は自分自身に問うてみました。私は柔和な者なのか? 私は義に飢え渇いている者なのか? 答えは「自信がない」でした。率直に言うと、私はまったくそのような人間ではないかも知れません。皆さんはいかがでしょうか? もしかしたら、この世には、実際に柔和な者と義に飢え渇いている者はいないかも知れません。しかし、私たちが完全に神の御心のままに生きることができないということを主はご存知です。ですので、父なる神はイエス·キリストを遣わされ、私たちの代わりに私たちの弱さを担当させられたのではないでしょうか。そして、キリストは聖霊なる神を遣わされ、昨日も今日も明日も、私たちと共に私たちの弱さを助けておられるのではないでしょうか? だとえ、自分にはできないと思っていても決して諦めてはなりません。御父と御子と聖霊が協力され、今でも私たちを助けて導いてくださるからです。そういう意味として、私たちは「幸いな者」です。数多くの困難が私たちの人生にあっても、私たちを助けて祝福してくださる神に信頼していきましょう。それこそが幸いな者の生き方ではないでしょうか。