幸いである。(1)

詩編 84編6~8節 (旧922頁) マタイによる福音書5章3~11節(新6頁) 前置き 今年は、説教の方式を変えてみようとしています。今までは、新旧約聖書から各々一つの聖書を決め、2週間に一つずつ、連続的に説教をしてきました。連続して聖書を取り上げたので、一つの聖書を詳細に探ってみることができる長所がありましたが、目立った教訓のない箇所も無理やりに説教したため、分かりにくくなる短所もあったと思います。今年からは、今まで通りに連続説教もしますが、時には聖書のあちこちから独立したテーマを取り上げて説教をしてみたいと思います。どんな方法で説教しても、私たちの魂の糧となる良い言葉を主にいただくことを祈ります。今後、何週間、私はマタイによる福音書5章「山上の垂訓」の冒頭に出てくる   「八つの幸い」について話してみたいと思います。私たちが考える幸いと聖書が語る幸いにはどんな違いがあるでしょうか? 一緒に考えてみましょう。 1.「幸い」とは何か? 「幸い」とは何でしょうか? 聖書には「幸いである」という表現が新旧約を問わず、数回出てきます。「幸い」は単に、この世で享受する幸せのことでしょうか? 新約聖書の言語である「ギリシャ語」には、3つの「幸い」に関する表現があると言われんす。一つ目は「ユーロゲトス」です。これは基本的に「高める、ほめたたえる」という意味を持っています。ユーロゲトスという表現は、神と人間の相互的な行動に使用できます。神が人間を「ユーロゲトス」してくださるというのは、罪人を赦し、祝福してくださるのを意味します。人間が神を「ユーロゲトス」するというのは、偉大な神を讃美するのを意味します。二つ目は「ユーダイモニア」です。これはアリストテレスが使った表現ですが、人間が自分の存在目的に合わせて生きる時に感じる感情、「幸福感」のことです。しかし、神との関係からの幸福感ではないため、聖書では使われません。三つ目に「マカリオス」があります。マカリオスは、神からいただく一方的な幸いであって、神が与えて、人間が受ける、神の恩寵による人間の内的、外的の幸いを意味します。今日のマタイによる福音書5章の本文に出てくる「幸い」は、以上の3つの幸いの中で三つ目の「マカリオス」に当該します。イエスが語られた八つの幸いが、徹底的に神から与えられる一方的な恵みとして、私たちに与えられているということです。 2. 心の貧しい人々は、幸いである。 では、神が信仰者に与えてくださる八つの幸いには何がありますでしょうか?八つの幸いをいっぺんに取り上げるには時間が足りないので、何回の説教にわたって 考えてみたいと思います。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(3) イエスは地上での御業を始められる時「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と宣言されました。天の国といえば、死後に行く幸せな楽園を思い出しやすいです。きっと神が備えられた天の国は悲しみも苦しみもない、幸いに満ちたところでしょう。ところで、イエスは「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(ルカ11:20)と言われることで、ご自身がこの世に来られた時、すでに神の国(天の国)が到来したのだとおっしゃいました。つまり、天の国は主を信じる者が死後に安息する場所でもありますが、イエスが私たちと共におられる、すべての場所が天の国であるという2つの意味を持っているのです。しかし、私たちの人生の中に苦しみと悲しみが依然としてあるのに、どうして私たちの人生が天の国になると言えるでしょうか。 皆さんの日常は、天の国のように幸せですか? 私たちは、聖書が語る「幸い」の意味について顧みる必要があります。私たちが考える「幸い」は、この世の価値としての富、すべてがうまくいく幸運、感情的な幸せのことではないでしょうか。聖書が語る幸いとはそれらと違うものです。それらは、先に申し上げたアリストテレスの「ユーダイモイナ」的な幸いでしょう。しかし、その幸いは神とは関係ない人間の幸せです。ただ自分自身の満足であり、徹底的に自分が中心となるものです。 マタイによる福音書5章が語る幸いは、神が私たちに一方的にくださる恵みを意味します。つまり、苦しい時も、悲しい時も、イエスが私といつも共におられ、決して私から離れないということ。それが恵みであり、神からの真の幸いです。お金がなくても、力がなくても、地位の高低を問わず、主が永遠に共におられる幸いを祈り願います。心が貧しいということは、どこにも頼るところがなく、心の分かち合う人もない時、神でなければ到底助けがなく、どん底にいるさまを言います。すなわち、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」という言葉の意味は、何の希望もなく神しか頼るところがない失敗した者にくださる主の一方的な恵みのことです。そのような心で謙虚に主の恵みを求める時、主は、私たちから永遠に離れられない主イエスを通して、私たちを見守ってくださるでしょう。聖書はそれこそが、真の幸いであると語っているのです。 3.悲しむ人々は、幸いである。 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(5:4)二つ目は悲しむ者の幸いについてです。悲しむという言葉は文字通りに人間の悲しみのことです。しかし、何のための悲しみか、聖書には正確に記されていません。悲しむと翻訳された、ギリシャ語も、単純な意味としての「悲しみ、悔やみ、号泣」などを意味するからです。とにかく、マタイによる福音書は、悲しむ者には、主によって慰められる幸いがあると語っています。ある学者たちは非常に信仰的に「自分の罪を悔い改める霊的な悲しみ」と解釈しました。しかし、それも良いですが、すなおに、神は誰であれ、悲しむ者なら慰めてくださる方であると解釈しても良いのではないでしょうか? 信仰的に自分の罪に気づいて、悲しむ人もいるでしょうが、世の中の心配と苦しみ、悲しみによって悲しむ人もいるからです。時々、私たちは神という、誰よりも人格的で愛に満ちておられる方を教理という枠組みに閉じ込めているかもしれません。未来への不安で悲しむ人、家族との別れで悲しむ人、自分の罪のために苦しむ人、一人ぼっちで苦しむ人、世の中には数多くの悲しむ人々がいます。 愛に満ちておられる、主なる神は悲しむ者の人生を他人事にように見過ごす方ではありません。キリスト者であろうが、未信者であろうが、関係ありません。世の中のすべての存在が神の被造物であり、神の愛のもとにあります。神はすべての者の悲しみを聞いておられます。ただ、悲しむ者が誰の前に立っているのかが大事でしょう。人の前で悲しんでいるか?、偶像の前で悲しんでいるか、唯一の真の神の前で悲しんでいるか。もし主なる神に向かって悲しんでいる者なら、主は彼を知らないふりされず、慰めてくださるでしょう。だから、「慰められる」という言葉が重要です。この表現の原文的な意味は「自分のそばに呼び寄せる」だからです。神を探し求める者に必ず会ってくださる神のことです。本当の慰めは私から離れられない神ご自身です。そういう意味として、先ほどお話ししました「天の国はその人たちのものである。」という言葉とも一脈通じるものがあります。神に向かって悲しむ者たちを見過ごされない神は、主を求める者をご自分のそばにお呼び寄せくださり、信仰を与え、イエス·キリストを通して、永遠に共に歩んでくださるでしょう。他の誰でもない、主なる神を探し求める者、主はその人を絶対に見捨てられません。それが、主がくださる幸いなのです。 締め括り ここ一週間、信仰とは何かについて考えてみました。私は教師として働いて13年目を迎えています。この 13 年間、信仰のために感情的に幸せだった時は 3 ヵ月にも至りません。悩み、悲しみ、苦しみながら生きてきました。しかし、明らかなことは、神は一度も私から離れたことがないということです。それを信じて今も苦しみながらも希望を持って生きています。神からの幸い、つまりマカリオスは、神の一方的な恵みです。そして、それは絶対に私たちを離れません。信仰は苦しくて悲しい道です。しかし、苦しみと悲しみの中で、神はキリストを通して、いつも私たちと共におられます。それがキリスト者にとっての最高の幸いです。感情の幸せと霊の幸い、私たちはこの二つを混沌してはなりません。両方の違いをはっきり理解して生きるべきです。神の幸いは、この世が語る幸せと違うからです。最後に幸いについての旧約の言葉一ヶ所を読んで説教を終わりたいと思います。「いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み、ついに、シオンで神にまみえるでしょう。」(詩編84:6-8)