主イエスの祈り(1)

マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 今年の志免教会の主題聖句は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16₋18)にしました。私たちは普段、神の御心(神の望んでおられること)という言葉をよく口にしていますが、案外と神の御心が何か全く分からない場合が多いです。しかし、神の御心が分からないのは、当然のことだと思います。家族の心も分からない私たちが、神の御心を分かるなんてとんでもないからです。ところが、聖書には明確に神の御心であると記してある箇所がありますが、それが「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」なのです。神の御心が全く分からないといっても、少なくとも「喜びなさい、祈りなさい、感謝しなさい。」といった三つのことは、確実に私たちへの様の御心として与えられているということです。今日はその中で「祈り」について、マタイによる福音書の言葉に照らして話してみたいと思います。 1. 祈りは神と私たちの対話 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:5-6) 当時のユダヤ人社会には、1日に3回の祈りの時間(午前9時、正午12時、午後3時)が定まっており、その時間になると家でも、市場でも、神殿でも、どこでも祈りを始めたようです。旧約聖書のダニエルも1日に何度も、時間を決めて祈ったと書いてありますから、ずいぶん前からそういう慣習があったようです。さて、今日の本文では、その祈りにおいてイエス・キリストが問題を提起しておられる場面が描かれています。祈りは紛れもなく望ましい信仰の行為ですが、その祈りという手立てを利用して、大勢の人々が見ているところで、見事な祈りをする人々の宗教的な偽善を警告されるのです。イエスはそのような人々が「偽善者」であり、彼らはすでに自分の報いを受けていると言われます。「自分の報いを受けている」とは、神に受けるべき信仰の報いの代わりに、他人に自分の宗教的な行為を自慢することで、神からは祝福されず、虚しくて無意味な優越感だけを得ることを意味します。それを避けるために主イエスは奥まった部屋で密かに神に祈ることを命じられます。他人に表すことなく、静かに神おひとりだけに集中して祈りなさいということです。 イエスの時代のユダヤの宗教指導者たちの中には、市場の道端や神殿のような目立つ場所で、あらゆる美辞麗句を使って見事な祈りをする人が多かったようです。普通の人は路上の隅でしばらく止まり、静かに祈り、再び足を早めたのに、彼らは他人に見せようとするかのように、難しくて素敵な言葉の祈りを長い時間唱えたわけです。自分の優れた宗教の熱心を自慢し、誇るためだったからでしょう。しかし、その祈りは神への純粋な祈りだったでしょうか? それとも、祈りにかこつけて自分を高める空威張りにすぎなかったでしょうか? イエスは彼らから純粋でないことを見つけられたのです。現代の教会にも、素敵な祈りの人と祈りに苦手な人がいます。もちろん、志免教会では、祈りの上手な方も、祈りの苦手な方も、ユダヤの宗教指導者たちと違って、純粋な心から祈りをしておられると信じます。時には礼拝のための祈りや献金のための祈りなどの公の祈りが必要な場合もあります。しかし、基本的に、祈りは他人に自分の信仰を表すための道具になってはなりません。とりわけ日本キリスト教会の場合、水曜祈祷会の時に一人ずつ順番に祈りますので、祈る人の考えや祈りのスタイルが赤裸々に表れます。ですから、私たちは祈る時に自分の信仰を自慢する道具にならないように祈りに気を付ける必要があります。 主イエスが提示しておられる祈り方は、奥まった部屋で密かに祈ることです。もちろん、これは本当に奥まった部屋で一人で祈りなさいという意味ではありません。他人に自分の信仰を自慢するためではなく、自分の欲望を叶えるために神を利用することでもなく「神と自分自身」という2人の人格が素直な対話と交わりにあって会う時間としての祈りをすべきだということです。祈りの言い方が立派でなくても大丈夫です。道を歩きながら心の中で小さく祈ってもいいです。他人が分からないような口ずさみの祈りも、誰もいない部屋で大声を叫ぶ祈りも結構です。時には悲しみに耐えられず黙って涙を流すだけの祈りも、喜びにあふれて感謝という言葉ばかり繰り返す祈りも良いです。大事なのは「神が自分のすべての事情を知り、祈りを聞いておられるから、ただ神にだけ自分の心を吐き出す。」という信頼で神に集中して祈ることです。祈りは「神と自分自身」という両者が対面して語り合う時間です。「神が私を創造され、私を救われ、私と一緒におられる方なので、ただ、その方だけに私の心の中のすべてを吐き出して声をかけること」なのです。祈りは、私たちの信仰と美辞麗句の誇りのための道具ではありません。言葉よりは心がさらに大事で、ただ神だけが聴いてくだされば良いという信仰で純粋さを失わないことが大事です。祈りは神と私二人きりの対話だからです。 2. 言葉ではない心。 「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイ6:7-8) イエスは祈る時の心構えについてもお話しになります。イエスは父なる神が、すでにキリスト者の必要をすべて知っておられるという前提を立てて祈る方法について言われましたが、 「くどくどと述べるな」がそれです。くどくどと述べる祈りとは何でしょうか? この表現に使われたギリシャ語の翻訳は「口ごもる。つまらなくしゃべりまくる。意味なく繰り返す」という言葉でした。仕方なくどもる障害の人もいますが、普通の人が口ごもる時は、明確な思考や確信がなく、何でも意味なくしゃべりまくって言葉に詰まってしまう結果としての場合が多いです。つまり、神の前で集中せず、長く祈れば聞いてくださるだろうという発想で全心を尽くさないイメージが「くどくどと述べる」なのです。私たちは「くどくどと述べる」祈りと、そうでない祈りをどのように見分けることができますでしょうか? 旧約聖書の列王記上18章には、預言者エリヤとバアルとアシェラ(イスラエルの偶像)の崇拝者たちの対立が描かれています。 預言者エリヤが偶像崇拝者850人と、各々の神から先に答えられる側が勝利する対決をしています。 850人もいる偶像崇拝者は、朝から夕方まで自分らの神バアルに叫び、答えを求めますが、そもそも存在しない神なので何も起こりません。しかし、エリヤがただ一度の短い祈りをした時、イスラエルの神はお答えくださり、天から神の火を降らせ、焼き尽くす献げ物を燃え上がらせてくださいます。神は本当におられる人格を持ったお方です。そのため、私たちの祈りを明確に聞いておられるのです。祈りは、呪文やお経のようなものではありません。祈りは、神へのキリスト者の明確なコミュニケーションです。ですから、意味なく話しまくるよりは、たった1分を祈っても明確な自分の心を込めることが大事です。神は生命も感覚もない虚しい偶像ではありません。今も生きておられ、私たちを見守って、私たちの祈りを聞いて答える準備をしておられる、確かに生ける人格的な存在です。だけでなく、神はすでに私たちの事情と必要を知っておられ、私たちが何を祈ろうとしているのかも知っておられます。神がお定めになった時が来れば、私たちの祈りに答えて私たちに真の満足と喜びをくださることを望んでおられる方です。したがって、私たちの祈りは簡潔で明確でなければなりません。多くの言葉ではなく、明確な心を込めて祈る時、主なる神は必ず聞いて私たちにお答えくださるでしょう。 締め括り 今日の本文を通じて考えてみた主イエスが望んでおられる祈り方は、3つの特徴で言えると思います。「素直、淡白、明確」神はくどくどと述べずに、はっきりとした祈りを望んでおられると言い換えることができるでしょう。もちろん、祈りを短くして終わらせるべきという意味ではありません。時間は関係ないのです。短くても長くても構いませんので、他人に見せようとする祈り、意味なく長く続ける祈りではなく、神に信頼して人格的で明確な祈りをしなさいということです。ですから、主イエスは今日の御言葉の後に「主の祈り」という、この世界で一番素直で淡泊で明確な祈りを教えてくださるのです。私たちの祈る時の姿はいかがでしょうか? 今日の本文を通じて私たちの祈り方について考える機会になれば幸いです。来週は「主の祈り」を通じてイエスはどんな祈りをされたのかを話してみたいと思います。素直で淡泊で明確な祈りをして、神と対話しつつ生きる私たちであることを願います。