主イエスの祈り(4)

マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 前回の説教の復習をしてから始めましょう。イエスは祈り方について、人々に見せつけとしての祈りではなく、ひとえに父なる神との対面としての祈りをすべきだと教えてくださいました。また主なる神に人格的に接し「素直、淡白、明確」に祈りなさいとも命じられました。イエスは、そのような祈りとはどういうものなのかの見本として「主の祈り」を教えてくださいました。主の祈りは神に栄光を帰す序盤の祈りと、私たち自身の願を求める中盤の祈り、最後に、またもう一度、主なる神に栄光を帰す終盤の祈りに分かれます。前回の説教で、私たちは序盤の祈りである「天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」(マタイ6:9-10)について学びました。それによって、私たちはまず神を褒めたたえる祈り、つまり、神に栄光を帰す祈りが何よりも優先であることが分かりました。私たちの祈りが、もっぱら自分の必要だけを求める祈りではなく、まず神に栄光を帰す祈りになることを願います。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)の言葉を憶えたいと思います。今日は主の祈りの中盤である私たちのための祈りについて話してみたいと思います。 1. 我らの日用の糧を今日も与えたまえ。 前回の説教で、私たちが「願い求め」の祈りばかりしているのではないか、反省する必要があると話しました。実際に私たちは神を褒めたたえ、栄光を帰す祈りより、自分の必要のための「願い求め」の祈りをもっとしているかもしれません。しかし、「願い求め」の祈りが、悪いとは言えません。私たちは主イエスによって、神の子となった存在です。だから、幼い子供が親に自分にかかわるほとんどのことを願い求めることと同じように、私たちが主なる神にさまざまな必要を求めるのは当たり前なことだと思います。ただし、親が子供のすべての願い求めを受け入れてくれないことと同じように、神も私たちの祈りの中で御旨にかなう祈りであれば受け入れてくださり、まだ時が満ちていないか、御旨にかなわない祈りであれば断られる場合もあることを忘れてはなりません。だから、私たちは、主なる神に「願い求め」の祈りをしても問題はありません。ただし、主の御心によって、私たちの祈りが叶わない時もあるということを理解しつつ祈るべきです。イエスはまず神に栄光を帰す序盤の祈りを教えてくださった後、私たちの生活に必要な「願い求め」の祈りについても語られました。その最初は「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」(マタイ6:11)です。「日用の糧」とは、ただの食べ物を意味するものではなりません。私たちが生きるために必要な最小限のものを意味します。 主は言われました。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(マタイ6:25-26)基本的に主なる神の民は、主によって生命をいただき、一日一日を生きる存在です。だから、自分のために必要以上の富を欲しがったり、必要以上にケチになったりするより、神に生命をいただいて、一日一日守られているという信仰を持って、心の余裕を持って、生きるべき存在なのです。そのため「日用の糧」を求める祈りは、単純な食べ物だけを求める祈りではなく、神が私たちを毎日導いてくださることを信じる信仰にあって、そのお導きを再び確認する祈りであると言えるでしょう。私たちは皆、自分の能力や力によって生きていくと思いやすいですが、主なる神の御守りがなければ、いつでもなくなり得る弱い存在です。私たちの人生のすべてにおいて、何一つ神の守りと導きのもとに置かれていないものはありません。神が毎日新しい生命を与えてくださることに感謝し、今日も生きることが出来るように導いてくださったことに感謝して「日用の糧」のまことの意味を理解していきたいです。 2. 我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。 次に主イエスは「赦し」について語られます。2014年夏ごろ、愛知県の小牧市にある先輩宣教師の教会で、3ヶ月間、短期宣教をしたことがあります。2012年の夏に最初訪問して約10日間過ごし、約2年後にまた訪問して日本語を学習しながら先輩宣教師を手伝ったのです。当時、先輩夫婦は韓国語教室をやっていました。2012年に訪問した際、韓国語教室の生徒、AさんとBさんは、いつも一緒に出席し、とても仲良くしていました。終始一貫和気あいあいな二人を見ながら「素晴らしいお友達二人」と思いました。ところが、2014年にもう一度、先輩の韓国語教室に訪問した時、Bさんは教室に出席していませんでした。Aさんに理由を聞いたら、Bさんと絶交したと言われました。小さな意見の違いで口げんかし、お互いに赦し合うことができず、結局は絶交したというわけでした。憎しみは小さなことから始まります。ちょっとした口げんかのような小さな理由から、心の中に憎しみが芽生えてくるのです。まもなく、その小さな憎しみは大きな木のように育ち、葉が茂るようになります。そして、その憎しみは最終的に人間関係を壊します。ですから、私たちの心の中の憎しみは小さな芽の時に抜いて無くさなければなりません。 特にキリスト者はなおさらです。私たちも人間なので、誰かを憎むようになりうるでしょう。しかし、聖書は語ります。キリスト者である私たちは、すでに神から大きな赦しをいただいていると。そのため、私たちは、自分が神からいただいた大きな赦しを憶え、自分に過ちを犯した隣人を赦し、愛しなければならないのです。確かにそれは、そう簡単なことではないかもしれません。しかし、自分がすでに神から、この上なく大きな赦しをいただいたと認めるならば、私たちは、絶対に赦さなければなりません。私たちが神に犯した罪が、私たちの隣人が、私たちに犯した過ちより、はるかに大きいからです。マタイによる福音書18章に、それと合うたとえ話があります。一万タラントンを借金(1タラントン=6,000デナリオン)したある王の家来と、百デナリオン借金をした家来の仲間の物語です。(マタイ18:21-35) ある王に一万タラントン借金した家来が返済しなくて良いと赦されたのですが、帰宅の途中に100デナリオンを借金した仲間に出会ってお金を返せと言い、返すまで牢に入れてしまいました。すると、王が1万タラントン借金をした家来のことを聞いて怒り、彼を呼びつけて借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡しました。そして、そのたとえ話の最後にはこんな言葉が記されています。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタイ18:35) 「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」という祈りは「私が先に隣人のことを赦したから、主も次に私のことを赦してください」という意味ではありません。私たちが主なる神から、すでに大きな罪責を赦されたから、主に赦された者にふさわしく生きたいという誓いの祈りなのです。私もこの説教を書きながら、自分のことを顧み、反省するようになりました。最近、私たちの大切な姉妹が、心の病で困った状況に置かれています。ここ数年、教会で大変な奉仕をして、そして、家族との間の事情で、何よりも息子さんの死で、すごく悩んでおられたからだと思います。最初、症状が現れたとき、私は彼女にひどい暴言を言われました。その時は心の病を知らなかったから、大きく傷つき、彼女にがっかりするようになりました。しかし、その後、彼女に深い心の病があることが分かり、そのがっかりは消えてなくなりました。そして、憐れむべきという心になりました。彼女のために何をすれば良いのだろうか、いろいろ工夫しています。彼女に言われた暴言や行動より、私が神に犯した罪の方が、さらに大きいと聖書は語ります。しかも、彼女は病で苦しんでいます。自分がすでに神に赦された人だということを信じているから、赦しの心、哀れみの心を持って彼女に接していきたいと思います。自分の気持ちによって誰かを憎んで赦さないならば、父なる神も、赦されないということを憶えて、隣の人々を愛していくべきだと誓うようになりました。 締め括り 主の祈りは、このように私たち自身のために祈る時にも、自分の欲望のための祈りではなく、神の御旨にかなう範囲内で祈ることを教えてくれます。立派に成長した子供は、親と会話する時に自分の欲望を求めて言いません。両親に悩みはないか、体と心は元気か、必要なものはないか、いろいろ配慮します。自分の欲望に充実な会話は、分別のない幼い頃の両親にした甘えだけで十分です。成熟した信仰者は、自分の必要だけのために祈りません。まずは主なる神を褒めたたえ、神に栄光を帰す祈りをしてから、自分の必要のための祈りを主の御旨にかなう範囲内でします。そんな意味として、主の祈りは最も完全な祈りではないか、もう一度考えるようになります。私はまだ祈りが難しいです。だから、歩きながらも、運転しながらも、寝る前に横になっても、神に声をかけ、それを祈りとしてする場合が多いです。その時、心のすべてを主に打ち明けます。そして、聖書の御言葉の教え、時には心の中に響かれる最も望ましい思い、みんなに害を及ぼさない思いを、聖霊なる神の御声だと信じて生きようとしています。皆さんにとって祈りとは何でしょうか? 主の祈りを通じて、望ましい祈りとは何かについて考えていきたいと思います。