三位一体なる神

イザヤ書6章1~8節(旧1069頁) コリントの信徒への手紙二13章13節(新341頁) 前置き 先週の主日は、ペンテコステ(聖霊降臨節)でした。キリスト教会にはクリスマス、イースター、ペンテコステなど、多くの記念主日があります。ところで、教会は、どんな基準で、その記念主日を決めるのでしょうか? それらは「日本キリスト教会」が、自分で決定した記念主日ではなく「教会暦」という、古くからの教会の伝統に由来するものです。教会暦とは古代のカトリック教会時代からイエス·キリストの生涯を中心にして作られた教会のカレンダーのようなものでした。それが、宗教改革後に、プロテスタント教会にも伝わり、プロテスタント的に変更され、現在の教会も使っているのです。教会暦においての一年の始まりは、各教派ごとにやや違いはありますが、一般的に1月1日ではなく、クリスマスを迎える「アドベント」の初日から始まります。ですので、今年の教会歴は去年のアドベントの初日だった、2023年12月3日からだと言えます。今日、説教の始めから教会暦の話を持ちかけた理由は、教会暦上、ペンテコステの翌週の主日が「三位一体主日」であるからです。つまり、今日は教会暦上、三位一体主日なのです。私たちはよく三位一体の神を口にしますが、その意味についてはあまり詳細でないかもしれません。今日も、一部ではあると思いますが、少しでも三位一体について語り、私たちにとって三位一体とは、どういう意味を持つのか考えてみたいと思います。 1. 誰が我々に代わって行くだろうか。 「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」(イザヤ6:8) 今日の旧約本文は、主なる神と預言者イザヤとの出会いが記されている、イザヤ書で特に意味深い箇所です。ここで、私たちは神がご自身のことを「我々」と呼ばれることが分かります。現代神学では、神のこの「我々」という複数表現が、三位一体を意味するのではなく、神の偉大さを強調する表現だと主張する人もいますが、教会は歴史的に「我々」という表現が、御父、御子、御霊の三位一体を意味するものだと信じてきました。今日の本文を含め、旧約聖書には神がご自身のことを「我々」と呼ばれる箇所が、いくつか出てきていますが、このような理由で、教会は神が「我々」という形で存在しておられる方だと思いました。おひとりですが、おひとりではない方だと理解したわけです。そういうわけで、近現代に入っては、三位一体への色々な解釈が出てきました。「三葉のクローバーのように根本は同じだが、父、子、霊に分かれる存在」あるいは「父、母、子のように相互別人だが、結局は一つの家族」という解釈など、いろいろな解釈がはびこりました。しかし、三位一体の存在の仕方は、人間の知性では理解できない神秘なので、上記のように無理な解釈は控えるべきだと思います。 ただ、私たちは聖書が証するように、神は「御父、御子、御霊」として存在しておられるが、一つの存在であるという理解で考えを止めるべきです。「三つにいまして、一つなる。」という讃美歌の歌詞を憶えましょう。旧約聖書のあちこちで、万物の父である神について語ります。また、詩編などでは子なる神について語ります。そして預言書などでは神の霊である聖霊について語ります。新約では、今日の新約本文のように「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」(第二コリント13:13)と三位一体なる神を直接示します。私たちが信じる神はおひとりの神です。しかし、聖書はその方が三つの位格として存在されると証します。この三位一体なる神はお互いに協力し合い、ご自分の御業を成し遂げていかれます。世界の創造も、罪人の救いも、教会と世への導きも、三位一体なる神は、一位格が独断的に主導されず、お互いに謙虚に愛しあい、仕えあい、すべてを協力しあって治めていかれるのです。今日の本文は、この三位一体なる神が、預言者イザヤを召され、罪を赦され、主の預言者として働く栄光を与えてくださる場面です。そのイザヤへの神の召しのように、神は主の教会を一つの位格が独断的に召されたわけではありません。父なる神の計画、御子キリストの救い、聖霊なる神の導き、三位一体がお互いに協力しあって教会を召され、主の民として生きる機会を与えてくださったのです。 2. 三位一体が教会に与える有益。 三位一体なる神の「お互いに協力しあって創造し、救い、導いておられる姿」は教会に教訓と有益を与えます。イエスは弟子たちにこう言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ福音13:34)イエスは弟子たちが互いに愛しあうことを命じられました。この世は、愛するより憎みやすい所です。人と人が、地域と地域が、国と国が、民族と民族が憎み合いやすいです。他人が自分に大きくやさしくしてくれたことよりは、自分に小さく誤ったことを赦さず返そうとするのが普通です。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」(ルカ福音6:32-35) このような憎しみに満ちた世界で、それにもかかわらず、イエスはご自分によって父なる神に赦されたキリスト者たちが、愛して生きることを命じておられるのです。それでは、そのイエスの愛は、どこに由来するものなのでしょうか? それは、三位一体なる神のお互いの愛からです。イエスが洗礼者ヨハネに洗礼を受けられた時、父なる神はこのように言われました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ福音3:17) 御父は御子を愛し、また御子は御父を愛しておられます。神の霊である聖霊も父と子を愛し、父と子も聖霊を愛しておられます。だから、聖書はこう語ります。「神は愛です。」(第一ヨハネ4:16) そのような三位一体の愛によって、イエスは主の民である教会にも愛を与えてくださいます。そのような三位一体の愛にならって、教会も愛を分かち合い、それを通して教会の肢である兄弟姉妹がお互いに愛しあうようになるのです。父なる神が三位一体の頭になり、共に三位一体を成される御子と御霊が愛の中で一つになられたように、イエス·キリストが頭となる神の教会も、この三位一体の愛にならって、互いに愛しあいながら生きるのです。ここに三位一体が持つ有益があります。 愛するのは決して簡単なことではありません。愛についての説教を頻繁に続けてきた私でさえ、正直、兄弟姉妹や隣人を自分自身のように愛することができない現実を痛感します。時々、人間は愛よりも憎しみの方が気楽な存在ではないかと思われるほどです。けれども、私たちが憎しみやすい存在であっても、私たちの主、三位一体なる神は、お互いに愛し合っておられるという事実が、憎みやすい私たち自身を振り返らせる理由になると思います。「私たちは完全な愛ができないかもしれないが、私たちが崇める三位一体なる神は、お互いに完全な愛をされ、また、その愛をこの世に与えてくださった。だから、私たちも三位一体なる神にならって愛を追い求めなければならない。」このように三位一体の存在は、私たちをその方の愛に招き、また私たちも他人を愛しながら生きるようにするのです。もう一つ重要なことは、この愛の中で三位一体の神がお互いに協力し合われるということです。これは教会にも見習うべき大事なあり方になります。愛するからこそ、お互いに協力し合うことができるのです。志免教会もお互いに愛しあい、お互いに感謝しあう心で、協力しつつ生きていきたいと思います。御父、御子、御霊が協力しあってこの世を造られ、罪人を救われ、教会を導かれるように、私たちも愛の中で互いに協力しあって教会を成し、仕え、立てていきたいと思います。 締め括り 三位一体は、人間の認識では、簡単に理解できない、難しくて神秘な神の存在し方です。しかし、聖書は明らかに神が三位一体として存在しておられると語っています。難解で神秘なので、理解するのは難しいかもしれませんが、少なくとも私たちは神がそのように存在しておられるという聖書の証を認め、信じるべきではないかと思います。何よりも大事なのは、三位一体という神の形より、その三位一体なる神が、お互いに愛しておられること、そして、愛によって協力しておられることなのです。この三位一体主日を通して、三位一体なる神について学び、三位一体に倣って互いに愛し協力しながら生きる志免教会であることを祈ります。

聖霊なる神によって。

ヨエル書3章1~2節(旧1425頁) ヨハネによる福音書15章26~27節(新199頁) 前置き 今日は、聖霊なる神の降臨を記念する「聖霊降臨節」です。日本の教会では「ペンテコステ」とよく呼ばれていますが、その意味は数字の「50」です。初代教会の聖霊降臨の背景となる時期である、「ユダヤ教の過越祭後の初日から7週目になる日」(七週祭)、つまり過越祭から50日目となる日だったので、ギリシャ語の50を意味する「ペンテコステ」と呼んでいるのです。ちなみに、この「ペンテコステ」はイエスの復活から50日目になる日でもあります。ところで、教会は、なぜ聖霊の降臨を記念するのでしょうか? 聖霊の降臨が持つ意味は何でしょうか? 今日は、聖霊降臨の意味について話し、聖霊降臨節、つまりペンテコステを記念する理由について考えてみたいと思います。 1.聖霊降臨の約束。 「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」(ヨエル3:1-2) 今日の旧約本文は「その後」という言葉から始まり、主なる神が主のしもべたちに主の霊(聖霊)を注いでくださると書いてあります。ここで「その後」とはどういう意味でしょうか。何の後に聖霊をくださるということでしょうか? その内容はヨエル書2章で確かめることができます。ヨエル書2章1節には「主の日が来る」と記してありますが、その日は主なる神の「裁き」の日であり、誰も主の裁きから自由ではないことを警告しています。ヨエル書は「主の日」が来る時に主の民が主なる神の御前で悔い改め、赦されることを呼びかけています。民が悔い改め、神が赦してくださるその日、主の民は真の喜びをいただき、二度と恥を受けないと預言しています。新約時代を生きる私たちは、この「主の日」をどのように解釈すべきでしょうか? 神は主イエスを救い主として遣わしてくださり、世のすべての人々に主イエスによる悔い改めの機会を与えてくださいました。いつか主なる神は必ずこの世を裁かれ、主に逆らうすべての者は、その裁きを受けることになるでしょう。神はその日のために主イエスという救い主を遣わされ、その方によって悔い改める者たちに主の裁きを避ける救いの道を与えてくださいました。 したがって、ヨエル書が語る「主の日」は「主の裁きの日」でありながら「主の救いの日」でもあります。キリストを知らない者にとって「主の日」は滅びの日となりますが、キリストを知る者にとって「主の日」は救いの日になるということでしょう。だから、今日の本文の「その後」という表現は、イエス·キリストによる救いの日の後のことでしょう。私たちはイエス·キリストが人類の罪を赦してくださるために十字架にかかられ、犠牲になったことを知っています。また、三日目に復活され、罪人への真の救いを完成してくださったことも知っています。また、私たちはキリストが、私たちにすでにご自分の恵みによる救いを与えてくださったことをも知っています。したがって、私たちはイエス·キリストによってすでに「救いの日」を経験し、その救いの中で生きている存在です。この救いの日を生きている私たちに、神は「聖霊を注いでくださる」と約束されたのです。ですので、聖霊降臨は主イエスによって救われた者たちなら、必ず与えられるに決まっている神の恵みです。この世に希望がなく、悲しみと苦しみが多くても、主が約束された聖霊は、私たちと一緒におられ、必ず私たちの人生を導いてくださるでしょう。それが神の約束だからです。 2. 聖霊はキリストを証する。 それなら、私たちは、すでに聖霊を受けた者として、ここに集っていると結論を下すことができます。しかし、神に聖霊を遣わしていただいたと自負できる人は少ないでしょう。聖霊が自分に来られた記憶がないからです。聖霊降臨というのはどういう意味でしょうか? まず知っておくべきことは、聖霊は遣り取りする物ではないということです。聖霊は三位一体の一位格の神です。「注ぐ」という表現のため、まるで聖霊がオリーブ油やぶどう酒のような旧約聖書に出てくる液体と感じられますが、「聖霊を注ぐ」という表現は比喩として理解すべきです。旧約時代には、主なる神が、王、預言者、祭司を選ばれる時、彼らの頭に香油を注げと命じられました。油が注がれる時、神の霊が彼らに臨まれ、主の御心通りに導かれました。「聖霊を注ぐ」という表現は、ここに由来したのです。したがって、聖霊は生ける神なのです。旧約において油を注ぐということは、聖霊なる神のご臨在を意味するものです。したがって、私たちは「聖霊なる神」を御父や御子より劣る存在だと考えてはなりません。キリストの御救いによって、私たちに聖霊が注がれたということは、旧約時代に香油を注ぎ、イスラエルの王、預言者、祭司を任命したように、新約時代には、主キリストによって、聖霊なる神が直接私たちに臨まれたということを意味します。そのような意味として、私たちにすでに聖霊が臨んだこの時代には、私たちは旧約の王、預言者、祭司のような特別な存在として召されているのです。 私たちは聖霊の降臨という表現を誤解しがちだと思います。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2:1-4)、このような使徒言行録の言葉のため、聖霊は私たちの日常に画期的な変化を引き起こすだろうと誤解しやすいです。もちろん、主の御心に応じて、このような目立つ大きな変化が起こる可能性もあります。しかし、すべての人に、そのような出来事があるとは言えません。聖霊の降臨を経験した人の最大の特徴は次の言葉から覗き見ることが出来ます。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ福音15:26) 聖霊降臨の最も大きな特徴はイエス·キリストを証しすることです。聖霊が人に臨まれると、イエスを主と告白しなかった人が、イエスが主だと告白するようになります。神の御心に興味がなかった人が、神の御心とは何か、知りたくなります。聖霊の最も重要なお働きは、激しい風や炎のような舌みたいな、特別な霊的現象ではなく、イエス·キリストという方を信じさせ、証しさせることです。 締め括り だから、その聖霊なる神が、私たちに臨まれると、私たちも自然にイエス・キリストを知り、証しするようになります。私たちは皆、生まれつき、イエスを知らない状態に生まれます。しかし、キリストが私たちを選び、救ってくださる時、私たちに聖霊が臨まれ、イエスを主と告白し、信じることになります。そして、イエスの御言葉を、「私たちに与えられた主の御心」として認め、聖書の御言葉を大切にするようになります。したがって、今日も聖書と説教を通じて、感謝して主の御言葉にあずかり、そのために礼拝に出席した私たちは、聖霊のともに生きる存在であるのです。特別な奇跡を経験しなくても大丈夫です。絶対的な霊的体験がなくても問題ありません。その影響はそんなに長く続かないからです。最も大事な聖霊臨在の経験は、イエスへの信仰が生まれたことだと言っても過言ではありません。私たちに主イエスへの信仰があり、主を自分の救い主と認め、その方と共に歩もうとするならば、私たちには、すでに聖霊が臨んでおられると信じても良いです。聖霊降臨節の主日、このペンテコステに私たちが必ず憶えなければならないことは、このイエス·キリストを証しする聖霊が私たちに臨んでおられるということです。そして、その聖霊の御心に従ってイエス·キリストを憶え、その方の御言葉に従順に聞き従いつつ生きようと努力することが、聖霊が私たちに臨まれた、第一の証拠であると信じます。聖霊と一緒に生きる志免教会の兄弟姉妹であるように祈ります。

神の言葉は生きている。

イザヤ書55章6~8節(旧1152頁) ヘブライ人への手紙4章12節(新405頁) 前置き なぜ、私たちは主日ごとに教会に出席して説教を聞いているのでしょうか? それは聖書に記された主なる神の御言葉を説教を通じて聞くためです。説教は説教者個人の知識を自慢する手立てでも、説教者の思想を広める手立てでもありません。説教は新旧約聖書に記された神の御言葉を(説教する当時の)聞き手が聞き取れる言葉で宣べ伝え、数千年前に記録された主の御心を、現代の言葉に教えるための大事な道具です。したがって、説教者も聞き手も、個人が追い求める欲望、思想、必要によって主の言葉を歪曲しないように格別に気を付けなければなりません。それにもかかわらず、不完全な人間が説教し、説教を聞きながら神の言葉が歪曲される可能性があり、心配です。しかし、聖書は語ります。聖霊なる神が、聖書の解釈者になって説教者の口と聞き手の耳を導いてくださると。つまり、聖書に記録された御言葉は、聖霊によって生命を得て、今も生き生きと働き、御言葉によって主の御心が伝えられるように生きているのです。今日は、主なる神の生きている御言葉について話してみたいと思います。 1. この世の言葉とは異なる神の言葉。 「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。」(イザヤ55:6-8) 今日の旧約本文は、罪と偶像崇拝によって罰を受け、滅ぼされてしまったイスラエルの民を赦し、もう一度機会を与えようとされる神の心が書いてある箇所です。イスラエルは神の祭司の王国と呼ばれる聖別された民族でした。他の国々のように武力で他国を征服したり、富で他国を圧倒するのではなく、ひとえに神の御救いの言葉を伝えるために生まれた、祭司長のような国として神に選ばれた民族でした。しかし、彼らは他の国々のように武力と富を求めました。その結果、イスラエル民族は、真っ二つに分かれてしまい、その後、子孫の罪と偶像崇拝のため、主なる神に用いられたアッシリアとバビロンによって滅ぼされたのです。今日の旧約本文は、そのように滅びてしまったイスラエルへの主なる神のお赦しと回復を呼びかける言葉です。「主はあなたたちイスラエルの近くにおられる。今こそ帰るべき時である。主を尋ね求めよ。罪を捨てて主のもとに帰れ、主がお憐れみで待っておられる。」 主の民が失敗して、何をすれば良いか、どうすれば良いか、到底見当がつかない時に、主なる神は迷わずに主に帰ってくることを呼びかけておられます。聖書を通して主は言われます。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる。」世の常識によれば、罪を犯した人は、赦されにくくなります。犯罪者が釈放後、再出発するのが難しい理由も、社会は一度の失敗を人を簡単に許さないからです。しかし、主なる神は、この世の常識とは異なる思いによって、罪人に接しておられるということを、今日の旧約本文は教えてくれます。主の御言葉(思い)は、この世の常識とは全く違います。失敗して到底二度と起きられないような絶望の中でも、主の御言葉は「新しく始めることが出来る」と語ります。この世は失敗した者を蔑視しても、主は世間の思いとは違って新しい始まりを語られます。私たちがこの世の言葉ではなく、主なる神の言葉に耳を傾けなければならない理由がここにあります。世の言葉は押さえつけて殺す言葉です。しかし、主の御言葉は立て直して生かす言葉です。世はもう終わりだと言っても、主の言葉はこれから始まりだと言います。孤独で厳しい現代社会を生きている私たちに神の御言葉が必要な理由です。 2. 神の言葉は生きている。 「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブライ4:12)以前にも説教の時に申し上げたことがありますが、「言葉」をギリシア語で言うと「ロゴス」になります。ところで「ロゴス」は言葉を意味するとともに「考え、思い、理屈、思想、意見、説明」などの意味も持ちます。つまり、主の言葉としてのロゴスは、主なる神の「思い、理屈」とも言えるでしょう。ですから、先ほどの説教で主の言葉を主の思いとも申し上げたのです。新約聖書ヨハネによる福音書は、このように語ります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ福音1:14) つまり、神の御言葉が肉体となって、私たちに来られた神の子イエス·キリストは、主なる神の思いと理屈を人間に完全に伝える主のロゴスとして私たちの間に一緒におられるのです。牧師の説教は、この主なる神の思いと理屈を完全に表されるイエス・キリストとその御言葉をありのままに伝えなければなりません。説教に通して宣べ伝えられる主の御言葉によって人間は御言葉どおりに望ましく変わることができるからです。 日頃、私たちは、主の御言葉の働きを力強く感じて生きるのが容易くありません。聖書を読んでもその意味が分かりにくく、毎日御言葉を黙想しても圧倒的な人生の変化を経験するのは難しいです。しかし、毎日少しずつの御言葉からの小さい学びによって、私たちの人生は少しずつ主の御心に気づいていき、その御心に従って生きるようになります。隣人を愛しなさいという繰り返しの主の御言葉は、私たちの生活にあって隣人を配慮しなければならないということを思い出させます。常に祈りなさいという御言葉は、心の中に「祈らないと」という聖なる負担感を与えます。主の御言葉に隠れている神の思いと理屈は、私たちの人生でいっぺんに大きな変化を起こすことはなくても、小さな変化が続く呼び水になることはできます。そして、その小さな変化が積もっていき、ある瞬間(あるいは神の時が来れば)、私たちの人生に大きな津波のように力強く働き始めます。神の言葉は生きており、力を発揮して働くからです。今すぐはかすかに感じられても、決定的な瞬間に私たちの人生に強く働いて著しい変化をもたらします。その時になれば、まるで両刃の剣のように、いや、それ以上鋭く、私たちの心と良心と思いを刺し通して、主の御前に悔い改めさせ、神の御心を推し量らせ、人生の変化にまでつながらせるようになるのです。 3。だからこそ、聞かなければならない。 そういうわけで、使徒パウロはこう語ったのではないでしょうか? 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17) 私たちは御言葉を聞かなければなりません。御言葉が聞き取れるか、聞き取れないかを問わず、私たちは常に御言葉に耳を傾けなければなりません。今日、聞いた御言葉が、すぐに私たちの人生にあって働くかもしれませんが、すぐに働かないと言っても、御言葉の小さな一片一片が集まって、自分の人生を変える津波になって戻ってくるということを常に心に留めて生きていきたいと思います。御言葉は喜びのない者と絶望に陥っている者に、主なる神の思いが世の思いと違うということを、諦めたい者に新しい道が開かれているということを知らせる希望の道具です。今すぐ変化がなくても、いつか神の時になれば、大きな変化を起こす、主なる神の大事な道具です。御言葉は生きています。聖霊なる神が御言葉を用いられ、私たちの人生を美しく導いていかれるからです。ですから、私たちは、毎日、主の御言葉を読み、その御言葉に聞き従い、主の思いを待ち望みながら生きていかなければなりません。生きている神の言葉は、今日も私たちと共にあり、私たちの人生を正しい道へと導きながら生きています。 締め括り 改革教会には非常に重要な二人の人物がいます。一人はアウグスティヌスであり、一人はマーティン・ルーサーであります。アウグスティヌスはプロテスタント教会、カトリック教会を問わない初期キリスト教会の教理を整理した尊敬される神学者です。マーティン·ルーサーは宗教改革の核心的な人物で、プロテスタント教会の歴史上、最も重要な人だと評価されます。この二人の共通点は偶然のきっかけでローマ書の言葉を読んだところにあります。二人とも、ローマ書の言葉によって人生が変わり、偉大な業を果たす勇気を得たのです。彼らのような偉大な人物でなくても、窓からの風で聖書が開き、そのページの偶然の言葉を読んで回心したり、信仰を持ったりしたとの証は数え切れないほど多いです。御言葉は聖書に記されており、動けない文字にすぎないと思われがちですが、神はその御言葉を通して、教会の歴史を導いてこられました。私たちも主なる神の御言葉を聖書の中の文字だけに思わず、自分の人生の中で力強く働けるように毎日毎日聖書を読み、学びつつ生きていきましょう。主なる神の御言葉は生きており、御言葉を大事にする私たちの人生にあって働いてくれるでしょう。

草は枯れ、花は散るが。

箴言16章9節(旧1011頁) ペトロの手紙一1章23~25節(新429頁) 前置き 「人事を尽くして天命を待つ」ということわざがあります。中国南宋時代、胡寅(こいん)という儒学者が残した言葉で、「人間の能力で可能な限りの努力をしたら、あとは焦らず静かに結果を天の意思に任せる」という意味です。南宋時代は西暦1098年~1156年頃ですが「人事を尽くして天命を待つ。」と似たような聖書の言葉がそれより数千年も前からありました。南宋時代は中国宣教が始まる数百年前ですので、聖書の影響で生まれた言葉ではないでしょうが、「人事を尽くして天命を待つ」という思想は古今東西を問わず、人々の一般的な認識だったようです。人事を尽くして天命を待つ。もしかしたら、とても聖書的な言葉であるかもしれません。今日は、箴言の言葉を通じて聖書的な「人事を尽くして天命を待つ」について考えてみたいと思います。 1. 自分の思い通りにならない人生。 何日前、妻と会話する時、心に迫ってくることがありました。「最近のあなたは来日したばかりの頃より冷めているよね」でした。最初、協力宣教師として赴任した頃は、情熱的に宣教と伝道を考え、熱心に説教と祈祷会の準備をしたあまり、過労で倒れそうに見えたが、最近はそんなに熱くないということでした。考えてみれば、本当にそうかもと思いました。志免教会に来て1年あまりの頃、私の説教は50分に近いほど長く、水曜祈祷会を2時間した時もありました。まるで、明日はないかのように何でも熱心だったと思います。しかし、時間の経ちにつれ、教会の人数は増えず、特にコロナ時代を経て、明確な変化なしに高齢化は進み、何人かの新しい方々は落ち着かず遠ざかってしまい、いろんな状況にがっかりするようになり、その結果、情熱も以前より冷めているかもしれないと思いました。最初の期待とトキメキが消えていきつつ、毎週の説教作りと皆さんとの最小限の交わり、中会の仕事だけで満足する消極的な自分になっているのではないか顧みることになりました。 なぜ、そうなってしまっただろうか、じっくり考えてみたら、「時間の経ちにつれて人は増えるだろう。目に見える結果があるだろう。」という自分の願いが叶わなかったのが原因ではないかと思います。いつも、教会は神の御心による共同体だと説教し、私自身もそう考えていましたが、結局、私は自分自身の願いが早く叶わないことで、知らず知らずに疲れてしまったかもしれません。私だけでなく、多くのキリスト者が自分の思い通りにならない現実のため、疲れてしまうかもしれません。長い間の祈りに神の答えは聞こえず、大きな変化もない人生に両手上げする人もいるかもしれません。長年、信仰生活をしてこられた、皆さんにもそのような経験がおありかもしれないと控えめに考えてみます。本当に私たちの人生は最初の計画や考えと違う結果につながる場合が多いです。そのような状況の中で、私たちは主なる神が本当に自分の祈りを聞いておられるのか、さらには神という存在が本当にいるのかと、信仰的な懐疑に陥るようになるかもしれません。しかし、人々のこういう悩みが、すでに遠い昔にもあったかのように、箴言はこう語っています。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」(箴言16:9) 2. 人間の計画と神の計画。 以上の言葉は、「人間が自分の道を計画すれば、神がその道を備えてくださる」のふうに読まれるかもしれません。しかし、原語のニュアンスはそれとは異なります。「人の心は積極的に自分の道を計画する。しかし、結局その道は主の御心にかかっている。」のほうが原文により近い意味だと思います。つまり、人が自分の心に立派な計画を立てても、結局そのすべては神の御心によって定められるということです。だから、私たちが計画を立てても、その計画通りにならないのは当然であるかもしれません。自分は100歳まで生きると決めても、今夜主に召されるかもしれないのが私たちの命です。幼い頃は皆に自分の夢があるでしょうが、すべての人がその夢を叶えるわけではありません。2019年に協力宣教師として赴任した私は、志免教会に新しい信者が増え、子供たちも来ると信じて祈りました。しかし、私が計画した通りにうまく行かなかったのです。そのため、がっかりしなかったとは言えないのが事実です。そして、だれにでもそんな経験があるかもしれません。 しかし、箴言は、すでにそのようなことについて語っています。もしかしたら、私たちの計画と考えが、思い通りにならないのはすごく自然なことであるかもしれません。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴言19:21)「人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。」(箴言20:24)人の計画には成し遂げられない可能性があり、私たちの人生は不確実性の中にあるということです。今日の旧約本文もそのような観点から理解する必要があります。私たちの計画は神の御心を超えることができません。神の御心とは何か、私たち自身は神ではないのではっきりは分かりません。しかし、神の御心が、すなわち神のご計画であるのは分かります。つまり、私たちの計画は神の計画のもとにあるとき、完全になります。私たちの思いでは、教会が大きくなり、明るい未来が見えてくるのが正しいかもしれません。しかし、神の計画ではすぐに教会が大きくなり、明るい未来が見えてくるよりは、小さな群れ、見えない未来の中でも、主なる神の民として、自分のあり方を守りつつ生きるのがより神の御心、ご計画に近いのであるかもしれません。したがって、私たちは自分の計画が成し遂げられないんだとがっかりする前に、神の計画は何であり、主が私たちに本当に望んでおられることは何であるかをまず考えならなければならないと思います。 3. 草は枯れ、花は散るが、主の言葉は永遠に変わらない。 「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(1ベドロ1:23-25) 今日の新約本文ペトロの手紙1は、今のトルコ地域に住んでいた初代教会のキリスト者たちへのペトロの教えです。当時、その地域のキリスト者たちはローマ帝国やユダヤ人たちの迫害によって辛い時を過ごしていました。誰かは教会と家族の平和のために祈り、誰かは自分の信仰を守るために祈ったでしょう。しかし、状況はそう簡単に改善されませんでした。一緒に礼拝していた兄弟姉妹の中で、背教して礼拝をやめる人も生じ、苦しい迫害に気がくじけて信仰を捨ててしまう者もいました。ペトロはそのように迫害される者たちにこう語ったのです。「あなたたちがイエス·キリストによっていただいた信仰は朽ちるものではなく、朽ちないものである。なぜなら、その信仰は主の御言葉によって与えられたものだから。すべての肉体は草のようで、その華やかさも花のようで、すべては枯れていくだろう。しかし、主の御言葉は永遠に変わることなく、あなたたちと共にあるだろう。」 人生を生きながら、自分の思い通りにならない現実と向き合う時がきっと迫ってくるでしょう。長年、信仰を続けてこられた皆さんは、何度も経験された、すでに知っておられる事実であるもしれません。しかし、聖書は語ります。「自分の思い通りにならないことにがっかりせず、それにもかかわらず、私たちのためのご計画を備えておられる主に信頼しなさい。」私たちの目に良くないのが、実は、主の御目には良いものであるかもしれず、また私たちの目に正しいのが神の御目には正しくないものであるかもしれません。良いことと悪いこと、正しいことと正しくないことの判断は、主なる神の事柄です。箴言16章25節は、このように述べています。「人間の前途がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある。」私たちは自分の目と考えを盲信してはなりません。主が何を望んでおられるのか、どんな計画を立てておられるのか、弱い私たち人間は絶対に分からないでしょう。しかし、少なくとも私たちの考えと計画が草と花のように枯れ散っても、私たちを助ける、主の御言葉は永遠にあり、私たちの道を導くことを信じて生きたいと思います。神は永遠に私たちを見捨てられず、御言葉通りに導いてくださるでしょう。その主なる神への信頼によって、決して順調でないこの世を生き抜いて進みたいと思います。 締め括り また、最初の話しに戻って、キリスト者にとって「人事を尽くして天命を待つ。」という言葉はどういう意味なのでしょうか。キリスト者に与えられた、全うすべき人事とは、神に出会い、神を知り、神を信じ、その方と共に生きることです。私たちは自分の願いを叶えるために神を信じているわけではありません。それは付随的なことであって、信仰の真の理由は「神と共に生きること」にあります。ですから、神を信じるからといって、私たちのすべての願いが叶い、すべての状況がうまくいくとは限りません。主なる神に出会って(肉体的に)うまくいく人もいれば、神に出会ってもうまく行かない人もいます。重要なのは自分に託された人生を全うして神と共に生き、その結果は一生の間、私たちと共におられる神に任せるものです。私たちは草と花のように弱い存在で、枯れ散っていきます。けれども、主の御言葉は永遠にあって私たちの道を導き、終わりには必ず豊かな祝福で報いてくれるでしょう。それを信じる人生の旅路が、真の意味の信仰の道ではないでしょうか。

新しい葡萄酒は新しい革袋に。

イザヤ55章1-7節(旧1152頁) マルコによる福音書2章18-22節(新64頁) 前置き 「新しい酒は新しい革袋に盛れ。」 という言葉があります。「新しい発想を実現したり、世代交代を進めたりしようとする時、それに応じる新たな形式や環境を促す」ために、よく使う表現です。ところで、この言葉は、実は新約聖書の「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という主イエスの御言葉に由来します。しかし、聖書の言葉を真似したこの表現は聖書の本当の意味を見落とした表現であるかもしれません。もともと、この表現にはイエスを信じる者にふさわしく生きろという意味が含まれているからです。イエスは、なぜ、この言葉を言われたのでしょうか? そして、この表現の本当の意味は何でしょうか? 今日は、「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という御言葉を通じて、この言葉が持つ意味について考えてみたいと思います。 1. 間違った宗教儀式に囚われていたイスラエル社会 イエスが公生涯を始められた時、イスラエル社会は宗教儀式に囚われていました。宗教の真の意味より、宗教行為に執着している社会だったということです。例えば、当時の宗教指導者、あるいは、宗教に熱心だったユダヤの宗教共同体は、少なくとも月に2回、多くは週に何度も断食をしたと言われます。特に、当時の尊敬されていたファリサイ派の人々は、頻繁に断食をしながら、貧しい者たちへ救済をしました。彼らは断食の時に、洗面もせずに、顔の辛い表情をも隠さずにいました。自分の宗教行為を隠さなかったということです。そして、そのような姿で救済を行い、救済でさえ、自分の宗教行為として用いたのです。そのような行いによって、イエスが登場する前まで、ファリサイ派の人々はユダヤ人社会で尊敬されたのです。「ファリサイ派の先生たちはやっぱり偉いんだ。私たちとはぜんぜん違う。彼らは神の正しい者なのだ。」のように、人々の褒め言葉と尊敬が彼らについてきました。 しかし、彼らの宗教行為の裏には「そうだ。この私は普通の人々とは違う。自分は正しい者だから。」という偽善が隠れていました。彼らの祈り、救済そのものには、確かに社会への良い影響があったのですが、心の奥底には、神に栄光帰すより、ひそかに自分の義を表わそうとする宗教的な欲望が隠れていたのです。ということで、何の褒め言葉も代価も求めないで、ただ人々を愛し、癒し、教えてくださるイエスは、自然に彼らに憎まれるようになったのです。彼らは、道端や神殿の入口で長く祈り、断食の時に苦しい顔を見せ、救済の時には偉そうに威張って、人々に褒められたのです。しかし、イエスは彼らよりさらに慰め、癒し、奇跡を行われながらも、何の代価も求められなかったのです。ただ、主イエスが望んでおられたことは、人々が悔い改めて、神に帰って来ることだけだったのです。だから、人々の関心と愛がイエスに集中されるのは当然の結果でした。それによって、彼らはイエスが人々の人気を横取りすると思い、イエスを憎むようになったのです。 2.私たちの姿はどうか。 イエスの時代のエルサレムには、表面上、神に献げ物を捧げる神殿があり、断食と祈りといった宗教儀式があり、貧しい人々への救済がある、それなりの宗教的な秩序が定着されている所でした。しかし、エルサレムを離れると、貧しい人々のうめき声が聞こえ、弱者が疎外され、既得権者の偽善が満ち溢れていました。今日の旧約本文のイザヤ書を通して、主なる神は言われました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。」(イサヤ55:1-2)神は、このように誰でも神の御前に来て、飾り気と偽善のない真の交わりを望まれる方だったのです。なのに、イエスの時代のイスラエル社会は多くの献金や祈りや宗教行為が、宗教的な熱心さに勘違いされ、それによって宗教的な欲望を満す、主なる神の御心とかけ離れた宗教社会だったのです。このような社会の中で、貧しくて弱い人々は何の慰めも、助けも得ることができませんでした。 残念なことにそれらは、聖書だけに記されている問題ではないということです。ひょっとしたら、これは現代を生きる私たちからも見える問題であるかもしれません。以前ある教会で説教するとき、ひどい目にあった未信者の知り合いの話をして、祈りを求めたことがあります。その話で時間が長くなり、説教の内容とも少しずれるところがあり、申し訳ないと思いました。ところで、案の定、礼拝後にある方に説教の時は余計な話は控えてほしいと言われました。意図は十分わかりましたが、一方では「ひどい目にあった未信者のための祈りが礼拝でなければ、はたして何が礼拝だろうか。苦しい隣人のために祈りを求める以上の礼拝はあるだろうか。」同時に、聖書の言葉が一つ思い起されてきました。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」(マタイ9:13)その日は、なんとなく寂しくなりました。 3. 宗教儀式ではなく信仰と愛を持って。 私は韓国の代表的な長老派教会である高神派出身の者です。高神派は神社参拝反対運動で有名な教会です。その信仰の誇りは韓国の教会の中でも目立つほどです。そういうわけで、私は子供の時から「高神派的な信仰」という言葉をよく耳にしながら育ちました。また、日本に来ては「日本キリスト教会的な説教」という表現を聞くことになりました。それを初めて聞いた時、母教会の高神派が思い浮かびながら、なんとなく日本キリスト教会のプライドが分かってきました。高神派教会と日本キリスト教会は、まるで双子のように感じられます。ところで、高神派的な信仰は何であり、また、日本キリスト教会的な説教とは何でありますでしょうか。イエスが望まれたのは、高神派的な信仰、または、日本キリスト教会的な説教なのでしょうか? キリストが望んでおられる価値は何であるだろうかと思うようになります。形式は大事です。しかし、主の教会には、もっと大事な普遍的な価値があります。ファリサイ派の人々とヨハネの弟子たちが断食する時、人々はイエスに「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」と尋ねました。しかし、それは弟子たちへの不満ではありませんでした。イエスへの抗議だったのです。おそらく、彼らにもユダヤ教への大きな誇りがあったはずです。彼らは「なぜ、あなたは私たちの形式(律法)を無視するのですか?」と問い詰めたわけです。 その時、イエスは「新しいぶどう酒は新しい革袋に。」という多少理解しにくい言葉を言われました。イエスは旧約の律法を完成なさるために来られた方です。そして、主は旧約の数多くの律法が「神と隣人への愛の実践」のために与えられたと教えてくださいました。つまり、律法の完成とは、律法の精神、つまり、愛の実践だと言って過言ではないでしょう。主は多くの宗教儀式や教義的な立場ではなく、神の愛を日常生活にあって実践することに関心を持っておられたのでです。もちろん、律法も教義も大事です。しかし、そのすべてが神のご命令、愛の実践ための道具であることを見逃してはなりません。イエスはご自身の福音を通して、偽善的な宗教儀式に縛られていた以前の姿を捨てて、神と隣人への真の愛と実践のある、新しい信仰を望まれたのです。自分の宗教的な欲望のための信仰ではなく、神がご計画なさった、生き生きとした信仰を望んでおられるのです。神が求められることは、何十年も繰り返してきた習慣的な宗教行為ではなく、ただ一分一秒でも隣人への真の憐れみと愛ではないかと顧みたいと思います。このイエスを信じる私たちは、昔のユダヤ人が追い求めた自分の信仰的な欲望や偽善的な宗教生活ではなく、真に主の手と足となり、主の栄光のために行い、神と隣人の喜びになるために努力しつつ生きるべきではないでしょうか。 締め括り 主イエスはご自分の犠牲を通して、愛の宗教という新しい革袋としての教会を打ち立てられました。そして、その教会に属する者たちは、新しいぶどう酒のように、神の御心に適う人生を生きるべきです。古い革袋に新しいぶどう酒を入れると、熟成する時のガスによって袋が裂けてしまいます。主イエスは新しい革袋として、愛の共同体である教会を与えてくださいました。そして、その中で生きる私たちは主による愛の実践を貫いていくべきでしょう。その時はじめて、私たちは美味しくて良いぶどう酒のように、神の喜びになるでしょう。神の国は宗教儀式と教理による所ではありません。それらを通して、さらにイエスを堅く信じ、主に倣って愛を実践する時、私たちの人生に現れるものです。そのように生きる者こそ、死後、神が備えてくださった天国に入ることになるでしょう。宗教生活ではなく、愛の実践、それが私たちが求めるべき、新しい革袋ではないでしょうか。

主が涙をぬぐい取ってくださる。

詩編27編1節(旧867頁) ヨハネの黙示録21章1-8節(新477頁) 前置き 先週の木曜日の夜、宣教師派遣元の釜山の告白教会から至急の祈りを願うメールが届きました。告白教会の設立から物心両面仕えてきた、ある姉妹が脳出血で入院したとのことでした。釜山の告白教会の団体メールがありますが、3時間前までも明るいメッセージを載せた方でした。その3時間後に脳出血で倒れたわけでした。素早く搬送装置したため、しっかりと治療を受け、また元気になるだろうと思っていたのに、火曜日の夕方、逝去したとの知らを聞きました。里帰り中の妻が葬儀場に行き、遺族を訪問しました。死というのは本当に突然近づいてくるものです。いつも明るい笑顔で私を励んでくれた姉妹でしたが、逝去は一瞬でした。しかし、私はまた会える希望を持っているので、落ちこんではいません。聖書は語ります。「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(黙示録21:3-4) 私たちは、いつか主に召され、亡くなるでしょう。しかし、主を信じる私たちは、それが終わりではないということを知っています。キリスト者にとって死は、この世のすべての憂いと悲しみを全て払い落とし、主のふところで慰められる至福の始まりだと思います。私たちは必ず天国でまた逢うでしょう。今日はキリスト者の死について考えてみたいと思います。 1.死について。 人間はなぜ死ぬのでしょうか? 実は科学的に人間だけでなく、すべての生物は死ぬに決まっています。すべての生物は生まれ、育ち、老いて死滅するようになります。そして、私たち自身もいつか必ず死を迎えるようになります。聖書もこう語ります。「人間にはただ一度死ぬこと…が定まっている」(ヘブライ語9:27) 科学的に死は「生きる機能を失うこと」を意味します。生まれた時、すべてが新しかった私たちの体は、時間の経過とともに古くなっていきます。私たちはこれを「老いていく」と言います。幼い頃は眼鏡なしでも本の字があきらかに見えたのですが、歳を取るにつれて虫眼鏡をかけなければならなくなります。目が古くなっていくということです。若い頃は音がはっきり聞こえたのですが、老いていくのにつれて補聴器をつけなければならない人もいます。耳が古くなっていくということです。真っ黒だった髪の毛が白髪に変わっていきます。顔のしわも増えていきます。私たちの肉体が、このように古くなって機能を失っていくのです。すべての生物は生まれ育って、少しずつ機能を失っていきます。そして、最終的に老化と病気によってすべての機能が永久的に失われます。私たちはそれを死と呼びます。 しかし、聖書は肉体の死だけがすべてではないと語ります。今日の新約本文はこう述べています。「おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(黙示録21:8) 先のヘブライ人への手紙には、人間は誰でも一度必ず死ぬことが決まっていると記してありました。おそらく、それは肉体の死の意味でしょう。しかし、本文はまた第二の死があると語ります。主の反対側で、主の御心通りに生きない者たちは、2度目の死、つまり霊的な死に襲われるということです。私はこれをもって「未信者たちは皆呪われて地獄に落ちる」という残酷な話をするつもりではありません。私たちみんなには未信者の家族がいます。ですので、あえて彼らが滅びるとは言いたくありません。そのような他の人々への判断は神にお任せしたいと思います。教理を用いて勝手に人を裁くのは望ましくないからです。ただ、この時間には私たち自身に当てはめて言いたいだけです。私たちには肉体の死が必ず訪れてくるでしょう。そして、その後、私たちは主への信仰によって永遠の生命と永遠の死の分かれ道の前で神の裁きを受けるでしょう。イエス·キリストを信じる者たちは救われるというのが聖書の教えですが、私たちはイエスを信じるふりばかりして、実は信じない者ではないか、神の民と自負するが、神の民のふりばかりをして、実は神に逆らう者ではないか、自ら振り返る必要があると思います。 にもかからわず、幸いなことは、私たちの救い主イエス·キリストが私たちのそのような弱さをよくご存知なので、今日も父なる神の右から私たちのために執り成しておられるということです。私たちの信仰が弱く、主の御前で至らない私たちを主イエスは憐れんでくださり、私たちのために祈って(執り成して)おられるということです。したがって、私たちには何の資格がないにもかかわらず、主なる神は、私たちを民として見なし認めてくださるのです。私たちは時々主の御心に適わない弱い存在であるかもしれません。私たちは神の民だと自分自身を思っていますが、実は逆らう存在であるかもしれません。それでも主イエスは聖霊によって、私たちの罪を悟らせ、悔い改めさせ、再び生きていけるように導いてくださいます。だから、イエス·キリストを信じる者には直りの機会が与えられるのです。そのため、私たちは一度の肉体的な死は経験しても、主イエスのお憐れみによって二度目の死を避けることができるのです。これがまさに聖書が語るキリストの救いであり、憐れみであるのです。一度お選びになった人は決して見捨てられない主イエス·キリストの恵み、その恵みによって私たちは資格のない罪人であるにも関わらず、主にあって生きることができるのです。主イエスは死に支配されている、この世にいる私たちに真の生命を与えてくださる方だからです。 2.主はわたしの命の砦。 今日の新約聖書の本文は私たちに語ります。「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4) この世の終わりの日が到来する時、神の幕屋が主の民の間にあり、主が民の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださるということです。本文に出てくる神の幕屋とは、旧約時代に神と人間をつなぐ掟の箱を置く場所でした。幕屋の中には聖所があり、聖所の一番奥には至聖所がありました。そこに掟の箱があったのです。至聖所は年に一度、イスラエルの大祭司だけが入ることができ、大祭司さえも贖罪の献げ物をささげなければ(悔い改めなければ)、入るやいなや罰を受けて死んでしまう恐ろしい場所でした。しかし、聖書はイエス·キリストがたった一度のご自分の犠牲によって、永遠の大祭司になられ、私たちを執り成してくださると証言しています。つまり、私たちはイエス·キリストの執り成しによって贖われ、主イエスとともに神の至聖所に入ることができる正しい人と認められたわけです。したがって、今日の本文の神の幕屋はイエス·キリストの贖いの恵みを意味するとも言えるでしょう。 この世には必ず終わりの日(イエス・キリストの再臨の日)が到来するでしょうが、その前に私たちは私たちの人生の終わり(死)の日を迎えることになるでしょう。しかし、私たちの霊は主なる神に召され、主のところに行くことになるでしょう。そして、イエス·キリストが再臨される、真の終わりの日まで、私たちは、主とともにその日を待ち望むでしょう。私たちの死はキリストの再臨による完全な神の国の到来をあらかじめ味わう、祝福された経験になるでしょう。世の人々にとって死は終わりであるかもしれませんが、私たちキリスト者にとって死は神の限りのない恵みを限りなく享受する至福に入る新しい始まりになるでしょう。その時、そこで主なる神は私たちの涙をことごとくぬぐい取ってくださるでしょう。そして、苦しくて悲しいこの世で本当によくやったと褒めてくださるでしょう。 私たちに二度目の霊的な死は決してなく、永遠に神の生命のもとでキリストの再臨を待ちのぞみながら、笑顔と喜びで生きるでしょう。これが死についてのキリスト者の正しい認識なるべきです。だから、死を恐れないようにしましょう。キリストにあって死を迎える者たちは、主の約束によって必ず平和と喜びの神の国に入るからです。 締め括り 「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。」(詩篇27:1)説教の序盤に韓国にいる知人の死について話しましたが、実は私たちの中にも先週家族を失った方がおられます。この説教を準備しながら、その方が思い起こされました。子供の頃から喜怒哀楽をともにしてきた大切なご家族だったはずです。亡くなられた方はキリストの民として召されました。ですから、今、主は約束どおりに、その方の目の涙をぬぐい取ってくださり、真の幸せを与えてくださるでしょう。わたしたちにもその日が近づいてきています。主の御心によって、誰かは先に召されるかもしれなく、また、誰かはもう少し長くいて召されるかもしれません。しかし、明らかなことは、主に召されるその日、私たちは悲しみではなく喜びの中にいるということです。キリストがくださった永遠の生命という賜物が、私たちを待っているからです。主が私たちの生命の砦としておられるかぎり、私たちは何も恐れおののく必要がありません。キリスト者にあって、死とは神の恵みへ進むもう一つの始まりだからです。私たちに生命を与え、神の国に導いてくださる主イエス・キリストを拠り所にして、残りの人生を生きていきたいと思います。

神のお招き

創世記11章27節-12章9節 (旧15頁) 使徒言行録7章2-5節(新224頁) 前置き 私たちは聖書の言葉の中でしばしば「アブラハムとイサクとヤコブの神」という言葉を目にします。そして新約聖書は、アブラハム、イサク、ヤコブを継承した彼らの霊的な子孫(霊的なイスラエル)が、キリストの体なる教会であると証しています。神はアブラハムをご自分の民として召され、以降モーセを通して主の民が追い求めるべき掟である律法とキリストによる全人類を救う良いお知らせ、つまり福音を与えてくださいました。神は、その律法と福音の中で、神に選ばれた民を教会と名づけてくださったのです。したがって、今日、私たちが取り上げるアブラハムの物語は、アブラハムという一人の人間の話だけでなく、その霊的な子孫、教会についての話しでもあります。今日の本文を通して、教会への神のお招きについて話してみたいと思います。 1.罪人をお招きくださる神。 ヨベル書というユダヤ教の古代文献にこんな物語があります。「ある日、カルデヤのウルで父テラと偶像制作業をしていたアブラハムは、父に質問した。お父さん、私たちが木で作る、この像は命も無いのに、なぜ人々はこれを神だと言うのですか。するとテラが答えた。息子よ、私も知っている。しかし、私たちがあの像を偽物だと扱ったら、それを神とする者たちに狙われて殺されるだろう。だから、知らないふりしなさい。」また、ミドラーシュというユダヤ教のモーセ五書の解説書にはこんな物語があります。「父と偶像制作業をしていたアブラハムは、命もない偶像を神とする人々が全く理解できなかった。ある日、アブラハムは棒で工房の小さい偶像をすべて叩き壊し、一番大きい偶像の手の上に棒を置いた。テラが戻って来た時、工房の中はめちゃくちゃになっていた。テラは怒って言った。何だ!これ!お前か!するとアブラハムは答えた。一番大きい像が小さい像たちを妬んで叩き潰しました。するとテラは顔が真っ赤になって叱った。馬鹿野郎!生きてもいない偶像が動けるもんか!」 ユダヤ人は先祖アブラハムを正しい人だと思いました。以上の物語には、偶像崇拝を拒んだアウラハムという、そのようなユダヤ人の心が含まれているのです。しかし、聖書のどこにも、アブラハムが正しいから神に選ばれたという言葉はありません。むしろ、何一つ正しさもなかったのに、信仰によって義とされたと書いてあります。アブラハムも罪人に過ぎなかったという証です。アブラハムの出身地ウルはメソポタミア文明の中心地でした。ウルは多神教社会であり、アブラハムの家族は偶像を作る偶像崇拝者だったのです。つまり、アブラハム自身が主なる神を見つけたわけではなく、主が彼を訪れ、選び、ご自分の民にしてくださったということです。私たちが信じる主なる神はご自分の独り子イエスの執り成しによって、正しくない者を正しいと見なしてくださり、保証してくださる方です。キリスト者は正しいから救われた存在ではありません。神は人の行いではなく、キリストの執り成しによって、罪人を赦してくださいます。ですので、民への主のお招きは、イエス・キリストによる条件なしの賜物であるのです。 2.主の民を先に知っておられる神。 創世記には、主が「ハラン」という町から、アブラハムを呼び出されたとあります。もともと、アブラハムの家族はウルに住んでいましたが、なぜ当時の文明の中心地であるウルを離れ、ハランに移住したでしょうか?聖書には書いてありませんので、理由は分かりません。ところで、使徒言行録7章のステファノの説教では「わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかった時、栄光の神が現れ、 あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行けと言われました。」ステファノはアブラハムの家族の移住が神のお招きによるものだというニュアンスで語りました。このように見れば、創世記と使徒言行録の言葉に矛盾があるように見えます。神がアブラハムに現れた場所が、創世記ではハランであり、また使徒言行録ではウルであると語っているからです。神がアブラハムをお招きくださった本当の場所はどこだったでしょうか? 様々な解釈があるでしょうが、明らかなことは、アブラハムが神に出会う前に、神はすでにアブラハムを知っておられ、選んでくださったということです。おそらく、ステファノは、すでにアブラハムを選ばれた主なる神の偉大さを示すために、ウルでアブラハムに現れたと語ったかもしれません。聖書外的な話ですが、アブラハムの時代と思われる紀元前2000年ごろ、ウルには栄えた王国があったと言われます。現代人はそれをウル第3王朝と名付けました。ところで、このウル第3王朝は、その歴史が100年くらいにしか至らかったと知られています。その理由は、当時ウルの土地に強い塩分が増えていたからです。長年の農業により、土地が荒れ果てて、飢饉につながったわけです。おそらくウル第3王朝は、その飢饉によって滅びてしまったでしょう。結局、全人口の4割くらいが故郷を離れ、ハランなどの地域に移住したと言われます。 私たちは、アブラハムの家族が、なぜウルを離れ、ハランに移住したか分かりません。上記のような歴史的な理由か、主のお招きか、聖書だけでは分かりません。しかし、明らかな事実は、そのすべてが神のご計画であったということです。神は、すでにアブラハムの先祖の時から彼へのお招きを準備してこられました。そして、時が満ち、創世記12章で彼の前に現れられたのです。アブラハムは神を知らなかったですが、神は世界の創造、人間の堕落、国々の盛衰興亡の中で、アブラハムの登場を備えてこられたのです。神のご計画は、民の考えと全く違う方法で成し遂げられます。主の民が神に出会うにも前に、神は民を知っておられ、民との会いを待ち望んでおられるのです。その神が御子の贖いを通して、ご自分の民を救い、お招きくださるのです。それだけに主の民は神にとって大切な存在であるのです。 締め括り 今日の説教のポイントは二つです。「一、主なる神は何の正しさもない罪人をお選びくださり、キリストの贖いによって赦し、正しい者と見なしてくださる。」「二、人間(罪人)が先に主なる神を見つけるわけではなく、主なる神が先に人間(罪人)を訪れ、ご自分の民にしてくださる。」主なる神のお招きは神学用語では「召命」と言われます。「神の恵みによって神に呼び出されること。」が辞書の説明です。救われる資格のない私たちは、主なる神の一方的な恵みによって救われ、主の民と呼ばれています。世の中で、苦難が襲ってくる時も、主はお選びくださった民を大事にしておられます。その主なる神への信仰によって、この一週間も生きたいと思います。豊かな主の恵みが志免教会の兄弟姉妹に注がれますように祈り願います。

信じる者になりなさい。

箴言3章5~6節 (旧993頁) ヨハネによる福音書 20章19~29節(新210頁) 前置き 生前のイエスは、何度もご自身が「死んで、復活する」と言われました。神は罪人の救いのために、ご自分の独り子イエスを贖いの献げ物とされ、死を命じられました。その死はイエスにとっては、呪いのような死でしたが、イエスを信じる者にとっては、祝福となりました。イエスの死で、主を信じる者たちには永遠の生命が与えられたからです。したがって、主の死は罪人の救いを計画された、父なる神の必要不可欠な御心の成就でした。そして、神は死で罪人の贖いを完成されたイエスを復活させてくださることで、イエスの死を価値あるものにしてくださいました。とういうことで、生前のイエスは、何度も「私は死ぬ。しかし復活する」と言われたのです。残念なことに、主の弟子たちは、このイエスの死の真の意味が分からず、主の死ですべてが終わったと思いました。だから、イエスの復活が信じられなかったわけです。信仰とは実に難しいものです。どうやって死者の復活があり得るのでしょうか? 世の常識でありえないことを信じることが信仰だからです。しかし、私たちの信仰は世の常識に基づいたものではなく、神の御言葉に基づくのです。私たちは一生自分の信仰について深く考えるべきです。今日は信仰について話してみたいと思います。 1. 私たちを訪れてこられるキリスト。 「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、わたしは主を見ましたと告げ、また、主から言われたことを伝えた。」(ヨハネ20:18) 先週の本文の最後の箇所には、マグダラのマリアがイエスの復活を目撃し、弟子たちに「私は主を見た」と告げる場面が出てきていました。生前、主が言われた通りに、主は復活されたのです。しかし、弟子たちの反応は、マリアとは全く違っていました。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」(ヨハネ福音書20:19) 弟子たちは、依然として主の復活を信じられず、むしろユダヤ人の迫害を恐れていました。先に申し上げましたように、生前のイエスが「私は死ぬ。しかし復活する」と言われ、イエスの死後にも主の遺体を守っていたマグダラのマリアが、イエスの復活を証ししたにもかかわらず、弟子たちには主の復活への信仰が全くなかったのです。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、あなたがたに平和があるようにと言われた。」(ヨハネ福音書20:19) そのような弟子たちにイエスが直接訪れて、ご自身の復活を証明してくださいました。その時になってやっと弟子たちはイエスの復活を信じ、喜ぶようになったのです。 イエスの弟子だからといって、皆が深い信仰を持っているわけではありませんでした。信仰は、イエスという存在を長く知ってきたからといって、他人より成長しているとは言えないものです。長年、イエスを信じてきた私たちも、今日の本文の弟子たちの姿から自由ではないかもしれません。私たちはイエスの復活をありのままに信じ、主の御言葉に全面的に信頼しているのでしょうか? おそらく、そうではない可能性が高いと思います。私たちには、イエスの復活や主の御言葉を自分の力で完全に信じることができる力がありません。私たちの中にある罪の本性がそれを妨げているからです。人間は、この世の常識のもとに生きる存在であり、目に見えない主の御言葉より、目に見えるこの世の常識にさらに目を注いでしまう弱い存在です。そのため、神は今日も御言葉を通して、私たちのところに訪れてくださるのです。主の復活が信じられず不安に震えている弟子たちに直接現れて証明され、信じる力をくださったように、主は今日も御言葉によって私たちに来られ、神への信仰を堅くしてくださり、ご自分について教えてくださるのです。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい。」(ヨハネ福音書20:22) ただし、聖書の御言葉のように、天の御父の右におられるイエスご自身が直接来られるわけではなく、約束通りに助け主でおられる聖霊なる神を通して来てくださるのです。(ヨハネ福音書16章) 2. トマスの信仰と私たちの信仰。 ところで、今日の本文に、目立つ人物が登場します。「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、わたしたちは主を見たと言うと、トマスは言った。あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(ヨハネ20:24-25)弟子トマスはイエスが復活して弟子たちを訪れられた時、その場にいなかったようです。それで、他の弟子たちがイエスに会ったと喜びで証しても、信じられなかったのです。トマスはヘブライ語式の名前で(テオム)、別の名前ディディモはギリシャ語式の表現です。日本語に訳すと「双子」となります。彼が本当に双子だったのかどうか、なぜ双子と名付けられたかは今日の本文ではわかりませんが、心理学的に双子は、普通の子供たちと違う心理状態で成長すると言われます。嫉妬も強く、疑いも多く、互いに争う場合も、割と普通の子供たちより多いと言われます。私個人としては、このようにも考えてみたりもしました。(神学的な根拠はない)この双子と呼ばれるトマスの、もう一人の双子は、主を完全に信じることが出来ない「私たち自身」ではないかとのことでした。 大学時代、私は英会話授業の時、アメリカ人の先生が、各自、英語の名前を作ってほしいと宿題を出しました。長く工夫した私は「トマス」を選びました。なぜなら、その時の私は神の存在への疑いを持っていたからです。両親に連れられ、幼い頃から教会に出席してきたのですが、イエスは本当に生きているだろうか? 神は本当に存在しているだろうかと疑問を抱いていたのです。30歳の会心の時まで、私はトマスと似たような人生を送りました。日曜学校で学んだ疑い深いトマスが、私とそっくりだと思いました。それで、英語の名前を「トマス·キム」と付けたのでした。私たちは自ら神を信じていると思いやすいます。長年の教会で信仰生活をしてきました。しかし、考えてみましょう。私たちは本当に主を信じているでしょうか? あまりにも長い間、教会に通っていたので、信じていると勘違いしているのではないでしょうか? むしろ、トマスのように疑って、信じられないのは信じられないと正直に言った方が健全であるかもしれません。私たちにはトマスの信仰が弱いと貶める資格がありません。むしろ、トマスのような率直さが私たちに有益であるかもしれません。自分には信仰があるかどうか、自分は本当に主の民かどうか。厳しく考える機会があれば幸いです。私たちは果たしてトマスより、成熟した信仰を持っていますでしょうか? 3.私たちの信仰を守ってくださる主。 だからといって、疑いで不信心であるトマスが正しいとは思いません。私たちは、明らかにキリストの復活と救い、そして神への信仰を追い求めて生きるべきだからです。それでも、信じられないならば、それは祈りの課題として、絶えず主に求めて、信仰の続きのために力を入れなければならないと思います。神が信じられないからといって、神がおられないわけではなく、信じられないからといって、イエスの復活と救いがなかったことになるわけではありません。信じられないのは、私たち自身の問題に過ぎません。聖書は明らかに神が存在していると、イエスが復活され、罪人を救ってくださったと証言しているからです。何よりも大事なのは、キリスト者の信仰の歩みにつれて、聖書の証である神の存在とイエスの復活と救いとが、少しずつ分かってくるということです。ですから、信仰は変わりません。変わるのは私たち自身なのです。このような弱い私たちのために、今日もイエス・キリストは、父なる神の右におられ、執り成してくださるのです。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:33-35) トマスは弱い信仰により、イエスの復活を疑う懐疑主義者でした。しかし、懐疑主義者が会心するとき、彼は他人の信仰を超える強い信仰を示すことになります。懐疑主義者をも変わらず愛し、執り成してくださるキリストの恵みによって、イエスに出会う時、最も印象的な信仰の告白をすることになるのです。今日、トマスはイエスに会って、その方の復活を信じるようになり、このような信仰の告白を言うことになります。「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28) 私たちの信仰の真の主は、私たち自身ではなく主なる神です。ですから、時々、私たちの信仰が弱まってきても終わりではありません。主イエスが、私たちの信仰を大切にしてくださり、今日も私たちの信仰のために、父なる神の右から執り成してくださるからです。だから、信じられない時が来ても、私たちの信仰をあきらめないようにしましょう。信じても何の変化も見えず、信仰への疑問が沸いてくる時も、主が私たちの信仰を応援しておられることを信じて、主に寄りかかって生きていきましょう。そして、私たちが見て信じる者ではなく、見なくても信じる、信仰者になっていくように、祈りつつ生きていきましょう。主イエス・キリストは必ず私たちの信仰を守ってくださるでしょう。 締め括り キリスト教の最も重要な価値の一つは、断然、信仰だと思います。信仰なしでは、父なる神の子供になることも、キリストの御救いを得ることも、聖霊なる神のお助けを得ることもできないからです。ですが、信仰は私たちの思い通りに簡単にできるものでも、簡単に守られるものでもありません。私たちの信仰は主の恵みによって与えられるからです。したがって、私たちは「自分の弱い信仰を守ってください。」と、毎日、主に祈らなければなりません。揺るぎやすい私たちの信仰は、復活されたキリストによって、しっかりと守られ、保たれています。必要なのは、主イエスのお声に答えて、信仰に立とうとする、私たちの心なのです。最後に今日の旧約本文を読んで終わりたいと思います。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」

信じる。走る。 語る。

ヨハネによる福音書20章1~18節(新209頁) 前置き イエス·キリストの復活を讃美します。世のすべてを無意味にする死にご勝利なさった主イエスが復活されました。天地万物が凍りつく冬が終わり、暖かい春が訪れてくるように主イエスは死から帰ってこられたのです。復活節は何の希望も許さない死に勝利され、新しい始まりを与えてくださった主イエスの復活を記念する日です。世の人々はこの日をイースターと呼んでいますが、イースターはアングロサクソン族の春の女神の名前に由来する呼び方です。初期の教会が異教徒の祝日をなくし、キリスト教の復活節に振り替えることで生まれた異教徒の祝日の残滓に過ぎません。ですから、この世が「イースター」と呼んでも、私たちはこの日をイエス·キリストの「復活節」とはっきり言い、記念すべきだと思います。今日はヨハネによる福音書20章の物語を通じて、主イエスが復活された日の朝の出来事について話したいと思います。2000年前のイエス物語を通して、2000年経った今を生きる私たちにとって、主イエスの復活とは、どういう意味なのかを考えてみたいと思います。 1.イエスの復活とイエスの人々の反応 今日の本文の朝は、イエスの人々にとってそれほど愉快な時ではありませんでした。その理由は、3年前に突然登場し、偉大なラビと呼ばれ、神の御言葉を宣べ伝え、病人を癒し、死者を生き返らせることで、ローマ帝国と悪い権力者たちの暴挙に苦しんでいるイスラエルに希望を与えた「イエス」という存在が3日前に十字架の上で最期を迎え、今や墓の中にいたからです。同時に世の人々はもうイエスの時代は終わり、おそらく、彼が人々の記から消えていくはずだと思っていました。ただ、彼に従った人々は最後までイエスに仕えようと心を籠めていました。その朝、マグダラのマリアという女は死んだイエスを記念するために朝早くイエスの墓に訪れました。ところが、墓に着いた彼女は驚愕してしまいました。大人の男性でも開けにくい重い石の門が取り除けてあり、イエスの遺体は見えなかったからです。もしかしたら、イエスに反対していた者たちが悪意を抱いて遺体を隠した可能性もありました。戸惑った彼女は、すぐに主の弟子たちに行き、イエスの遺体がなくなったと告げ(原文として語り)ました。その言葉を聞いてペトロと他の弟子(おそらく、弟子ヨハネ)は、急いでイエスの墓に向かって走りました。案の定、イエスの遺体はありませんでした。ただ、イエスの遺体を包んでいた亜麻布が置いてあるだけでした。その時になって彼らはイエスの遺体がなくなったことを信じ、絶望して家に帰っていきました。そして、マグダラのマリアは、すべてを失った人のように、墓の前に立って泣きばかりしていました。 しかし、彼らが見落としていることがありました。生前のイエスははっきり言われました。「イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」(マタイ16:21) イエスは他の誰でもない主なる神のご意志により必ず死んで必ず生き返ると何度も言われました。しかし、誰も常識を飛び超えるその言葉を信じることができませんでした。もし、誰でもその言葉を信じていたら、イエスの遺体がなくなった、この出来事を涙と絶望ではなく、喜びと希望の兆しとして受け止めたに違いありません。マグダラのマリアは絶望してイエスがなくなったことを「告げ(語り)」ました。二人の弟子たちはイエスがなくなったことを確認するために「走り」ました。そして、彼らはマグダラのマリアの絶望混じりの証言を「信じ」ました。彼らは「語り、走り、信じ」たのです。しかし、それらは自分たちの絶望と失敗だけに覆われ、主の約束が信じられない、間違った「語る、走る、信る」だったのです。彼らはまだイエスが言われた「三日目に復活する」という約束の真の意味を理解していなかったのです。主なる神は、聖書を通して、常に語っておられます。「わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福する。わたしを信じなさい。」しかし、私たちは主の御言葉を完全に受け入れることができない弱さを持っています。イエスが復活した朝、その時の弟子たちとマグダラのマリアも私たちと同じ反応だったのです。 2. イエスの復活が持つ意味。 マグダラのマリアは、2人の弟子が家に帰った後にも、イエスの墓の近くに残っていました。彼女は相変わらず泣いていました。もうイエスの教えも、癒しも、弟子たちの活動も、自分の人生もすべてが終りそうでした。そうするうちにもう一度涙を流しながら身をかがめて墓の中を見ると、彼女は驚いてしまいました。「イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。」(ヨハネ20:12) 神の二人の天使がイエスの遺体が置いてあったところの頭側と足側に座っていたからです。聖書の学者たちは語ります。イエスの遺体が置いてあったところの上に座っている二人の天使の場面、それは旧約時代の聖幕と神殿にあった神の掟の箱を象徴するものだと。旧約の掟の箱は、神の御言葉である十戒の石板を保管する聖なる箱でした。そして、その蓋には神の天使を意味するケルビム形の二つの像がありました。そして、掟の箱は「神の足台」(詩99:5)と呼ばれていました。つまり、掟の箱を置いた聖幕と神殿の至聖所は、主なる神のご臨在を象徴する聖なる場所だったのです。ソロモン王の時代に、掟の箱は聖幕から神殿に運ばれ、イスラエルが滅ぼされた紀元前6世紀には、掟の箱は他国の侵略によってなくなりました。しかし、今日の出来事によって、主なる神は、その昔なくなった掟の箱の恵みをキリストの復活によって、再び、この世に与えてくださったのです。それは、死が支配すると言われる墓から始まり、主イエスの復活によって、神の恵みは墓の外に広がっていきました。死に満ちていた墓は、もはや、キリストによって、神の恵みに満ちた至聖所に変わったわけでした。 「イエスは言われた。婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。マリアは、園丁だと思って言った。あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。イエスが、マリアと言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、ラボニと言った。先生という意味である。」(ヨハネ20:15-16) マリアが依然として泣いている時、後ろから誰かが声をかけました。マリアは彼を園丁だと思いました。彼女は泣きながら、イエスを探していました。その時、イエスは言われました。「マリアよ」その時、マリアの目が開き、彼が三日前に死んだ自分の主イエスであることに気づきました。すべての人がもう終わりだと思ったその朝、死んだイエスは御言葉通りに三日目によみがえられてマリアの目の前に立っておられました。旧約聖書のなくなった掟の箱の御言葉が神殿に帰ってきたかのように、二人の天使が守っている墓の外には神の真の御言葉であるイエス・キリストが死に打ち勝ち、帰ってきておられたのです。そして、言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上ると」(ヨハネ20:17) イエスの復活は死にご勝利なさった主なる神の権能であり、地上の民たちを神と再びつながせる神のご臨在の象徴でした。イエスの復活によって、希望のない、この世に神とつなぐことが出来る新しい道が開かれたのでした。 締め括り 今日の説教題は「信じる。走る。語る。」です。このタイトルは、今日の本文の序盤に出てくるマグダラのマリアとペトロ、ヨハネの行為とかかわりがあります。マリアは弟子たちにイエスの遺体がなくなったと告げ(語り)ました。ペトロとヨハネはイエスの遺体がなくなったことを確認するために走りました。そして、確認してイエスの遺体がなくなったことを信じました。彼らはなくなったイエスの遺体という前提から少しも抜け出すことができませんでした。彼らはイエスの復活が信じられなかったのです。しかし、復活されたイエスが彼らに再び現れ、以後ペンテコステになっては、彼らに聖霊を注いでくださいました。その時、彼らはイエスの復活を信じ、全生涯をイエスのために走り、イエスの復活と福音を宣べ伝えるために語りました。同じ行為でも、全く違う結果につながったわけです。キリスト教において復活は、死者がよみがえることだけを意味しません。イエスによってキリスト者として生まれ変わることでもあります。イエスは死と復活を通して、この地上に神の憐れみをもたらしてくださいました。掟の箱に象徴されていた主なる神のご臨在が、イエス·キリストの復活によって、再びこの地に許されたのです。主イエスの復活を記念する今、私たちはイエスへの信仰によって信じ、イエスに仕える熱望によって走り、イエスの復活を宣べ伝える福音のために語らなければなりません。私たちの生涯を通して、神と世の中をとりなしてくださるイエスを信じ、主の栄光のために走り、主の福音を語る私たちであることを祈り願います。

ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)

創世記22章1~14節 (旧31頁) ヘブライ人への手紙9章23~28節(新411頁) 前置き 主なる神は、他者の助けを必要とされない方です。神は、三位一体の権能のみで世界を創造し、導き、罪と悪とを裁き、ご自分の民を救ってくださる方です。私たちは「他者の助けを必要とせずに」神はお働きになるということを絶対に忘れてはなりません。それでは、なぜ、神はご自分の民を呼び寄せ、主の教会を打ち立てらせ、教会を用いられ、世界を導いていかれるのでしょうか? それは、神がご自分の民にくださる賜物なのです。私たちは神を助けるために集まり、礼拝と讃美をささげ、伝道するわけではありません。神はいつも他者の助けなしにご自分で働き、すべてを成し遂げていかれる方です。神がご自分の民を用いられる理由は、助けが必要だからではなく、主によって救われた民に神の栄光のために生きる機会を賜物としてくださるためです。ですから、私たちは神を助ける者ではありません。むしろ、私たちが神に助けられて生きるのです。「ヤーウェ・イルエ」は「主は備えてくださる」という意味のヘブライ語です。私たちは信仰生活を「神のために何かを備える」として理解してはなりません。信仰生活は徹底的に神が備えてくださる恵みと愛とをいただいて生きることであり、その一環として主なる神は私たちに地上での礼拝を許してくださったのです。 1. 主なる神がアブラハムを試された。 今日の旧約本文は、神がアブラハムを試される出来事から始まります。「神はアブラハムを試された。神が、アブラハムよと呼びかけ、彼が、はいと答えると、神は命じられた。あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(創世記22:1-2)前回の説教で、私たちは「神は人を誘惑されない。」という言葉を学びました。「誘惑に遭うとき、だれも、神に誘惑されていると言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。」(ヤコブ1:13) 前回の説教で聖書に出てくる「誘惑」と「試練(試み、試し)」は同じ原文を使うと話しました。文脈によって「誘惑」か「試練」に分かれるということでした。神は「試し(試練)」は与えられますが、決して「誘惑」される方ではありません。悪事をさせる誘惑は、完全な善でおられる神にありえない概念です。神は誘惑としての「試し」ではなく、信仰の成長のためのテストとしての「試し」だけを与えられる方です。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリント10:13) 主なる神からの試練は、悪事を引き起こす「誘惑」とは違います。神からの試練は、ご自分の民を鍛えさせる訓練であり、民を倒すためではなく、むしろより健全で堅い信仰を養う養分になります。もし、自分が、神からの試練の中にいると思われたら、それは神が自分に害を及ぼそうとする意図ではなく、自分の信仰を大切にしておられるという証として受け止めたらと思います。神からの試練は、敵への刑罰ではなく、子供への戒めのようなものだからです。そして何よりも、神は試練の真ん中に共におられ、ご自分の民の苦難を知らないふりされない方です。むしろ、神は民に逃れる道を備えてくださる方です。ある日、アブラハムは神の御声をいただきました。「あなたの愛する独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」すなわち「私のためにあなたの息子を殺せ。」という命令でした。アブラハムにとって、イサクはどんな息子だったでしょうか。アブラハムと本妻であるサラの間には、一生、子供がいませんでした。神は必ず息子をくださり、彼によって多くの子孫を与えると約束されましたが、アブラハム自身も妻のサラも、すでに白髪の年寄になっていました。子供をもうけるには、常識的にありえない状態だったのです。 しかし、神は2人の肉体的な限界と常識的な限界を跳び越え、結局アブラハムが100歳、サラが90歳になった時、息子「イサク」を与えてくださいました。人間の常識では、ありえない、かけがえのない貴い息子が、このイサクだったのです。なのに、今日、神はその貴い息子「イサク」を神への献げ物としてささげなさいと言われたわけです。子どものいない私には、子どもの死ということの意味がまったく分かりません。にもかかわらず、もし息子がいて、アブラハムのような命令を聞いたとしたら、神に逆らって信仰をあきらめるかもしれません。口先では簡単に何でも捧げますと言えるかもしれませんが、実際に、そんな命令があれば、絶対にそうはいかないと反発したでしょう。しかし、アブラハムは、私よりはるかに高いレベルの信仰を持っていたようです。神の御言葉に聞き従い、自分の大切な息子イサクを連れて神に言われたところに赴いたからです。神がこのような命令をされないと信じていますが、このような試練をうける時、私たちはどのように反応すれば良いでしょうか? 私はこの言葉を頼りにしたいと思います。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリント10:13) 2. 神がアブラハムの信仰を確認された。 この出来事について聖書はこう語ります。「この独り子については、イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれると言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。」(ヘブライ11:18-19) 神はイサクを殺す意図でアブラハムに息子を捧げろと命じられたわけではありません。神はすでに何度もイサクという息子を通して、アブラハムの多くの子孫が出ると約束されたからです。それが前提になるためには、イサクは必ず生き残って、息子をもうけなければなりません。つまり、イサクが死ぬというのは、神の約束が成し遂げられないということです。アブラハムは主なる神の約束を信じ、イサクが死んでも神は必ずイサクを生き返らせ、約束を守ってくださると神を堅く信じたのです。最初から神の計画にはイサクの死などありませんでした。神は約束の結果であるイサクより、約束の源である神をより大切にするかどうか、アブラハムの信仰を確認することを望んでおられただけです。「アブラハム、アブラハムと呼びかけた。彼が、はいと答えると、御使いは言った。その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。」(創世記22:11-12) 神は本当に息子を殺し、焼き尽くす献げ物としてささげようとするアブラハムをご覧になり、彼の信仰を確認されました。そして、イサクが死なないように急いでアブラハムの手を食い止められました。神とアブラハムの約束は、イサクの生まれで終わりではありません。イサクの生まれは、神の約束のごく一部に過ぎません。神はアブラハムの信仰を確認することによって、イサクの生まれから始まった真の約束の成就を本格的に進めていかれました。神はご自分の民の信仰を確認される方です。その信仰の確認のために、時には私たちの人生に試練(試み、試し)を与えられる時もあります。アブラハムは、息子でさえ惜しまない信仰によって神からの試練をパスしました。神は、信仰の確認のために、私たちにもアブラハムのような試練をくださるかもしれません。私たちに、信仰の確認のための試練が与えられたら、私たちはどのように対応していけばいいでしょうか。ある意味で、私たちに与えられる苦難は、今日のアブラハムに与えられた神からの試練のようなものであるかもしれません。 3. イエス·キリストの苦難と試練を憶えて。 レント期間の終わりが近づいています。来る金曜日はイエス·キリストの十字架の苦難を記念する受難節となります。主なる神は、ご自分の民だけに試練を与え、苦しめる方ではありません。ご自分の独り子、御子イエス·キリストに「あなたの命を捧げて、わたしの民を救いなさい。」という残酷な試練を先にお与えになりました。そして、イエス·キリストは残酷な苦難の中でご自分の命を捧げ、神からの試練を堂々とパスされました。その結果、主イエス·キリストは教会をはじめ、この世のすべてをご統治なさる真の王になられたのです。神からの試練があるということは、私たちが神のお憐れみと愛との中にいるという証です。神は、決して愛しない者に試練を与えられず、試練を経験しない者は未来に向かって進むことができません。今日の本文に、このような言葉があります。「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。」(創世記22:13) 神は雄羊一匹を送られ、イサクに取って代わる献げ物にしてくださいました。神はご自分の民の試練の前に、先にご自分の息子、子羊と呼ばれるイエスを試されることで、ご自分の民が試練を乗り越えるように逃れの道を開いてくださったのです。イサクの身代わりに雄羊をくださったように、私たちの身代わりにご自分の独り子を犠牲にしてくださったわけです。そして、その方は復活されました。したがって、苦難にあう私たちはキリストが先に試練を受け、乗り越えたことを憶え、主イエスに従って前を向いて進んでいかなければなりません。神が主イエスを備えてくださり、その方によって私たちの進むべき道を開いてくださったからです。 締め括り 先週の水曜日には、九州中会の定期中会がありました。志免教会だけでなく、各地の教会、伝道所にも多くの試練と苦難があることが分かりました。しかし、今日の説教を準備しながら神が九州中会を、いかに愛しておられるかが分かりました。苦難と試練があるということは、神が私たちをあきらめずに愛しておられるという良い兆しだと思います。主なる神は、イエス・キリストによる恵みとして、私たちに苦難と試練を乗り越える勇気と力とを与えてくださるでしょう。レントの期間、そして受難節を過ごし、来週の復活節(イースター)を準備していきたいと思います。苦難と試練の末に復活されたイエス·キリストを憶え、私たち志免教会の兄弟姉妹たちも勇気を持って信仰生活を続けていかれたらと思います。主なる神の恵みが志免教会に連なる皆さんの上に豊かに注がれることを祈り願います。