新しい葡萄酒は新しい革袋に。

イザヤ55章1-7節(旧1152頁) マルコによる福音書2章18-22節(新64頁) 前置き 「新しい酒は新しい革袋に盛れ。」 という言葉があります。「新しい発想を実現したり、世代交代を進めたりしようとする時、それに応じる新たな形式や環境を促す」ために、よく使う表現です。ところで、この言葉は、実は新約聖書の「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という主イエスの御言葉に由来します。しかし、聖書の言葉を真似したこの表現は聖書の本当の意味を見落とした表現であるかもしれません。もともと、この表現にはイエスを信じる者にふさわしく生きろという意味が含まれているからです。イエスは、なぜ、この言葉を言われたのでしょうか? そして、この表現の本当の意味は何でしょうか? 今日は、「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という御言葉を通じて、この言葉が持つ意味について考えてみたいと思います。 1. 間違った宗教儀式に囚われていたイスラエル社会 イエスが公生涯を始められた時、イスラエル社会は宗教儀式に囚われていました。宗教の真の意味より、宗教行為に執着している社会だったということです。例えば、当時の宗教指導者、あるいは、宗教に熱心だったユダヤの宗教共同体は、少なくとも月に2回、多くは週に何度も断食をしたと言われます。特に、当時の尊敬されていたファリサイ派の人々は、頻繁に断食をしながら、貧しい者たちへ救済をしました。彼らは断食の時に、洗面もせずに、顔の辛い表情をも隠さずにいました。自分の宗教行為を隠さなかったということです。そして、そのような姿で救済を行い、救済でさえ、自分の宗教行為として用いたのです。そのような行いによって、イエスが登場する前まで、ファリサイ派の人々はユダヤ人社会で尊敬されたのです。「ファリサイ派の先生たちはやっぱり偉いんだ。私たちとはぜんぜん違う。彼らは神の正しい者なのだ。」のように、人々の褒め言葉と尊敬が彼らについてきました。 しかし、彼らの宗教行為の裏には「そうだ。この私は普通の人々とは違う。自分は正しい者だから。」という偽善が隠れていました。彼らの祈り、救済そのものには、確かに社会への良い影響があったのですが、心の奥底には、神に栄光帰すより、ひそかに自分の義を表わそうとする宗教的な欲望が隠れていたのです。ということで、何の褒め言葉も代価も求めないで、ただ人々を愛し、癒し、教えてくださるイエスは、自然に彼らに憎まれるようになったのです。彼らは、道端や神殿の入口で長く祈り、断食の時に苦しい顔を見せ、救済の時には偉そうに威張って、人々に褒められたのです。しかし、イエスは彼らよりさらに慰め、癒し、奇跡を行われながらも、何の代価も求められなかったのです。ただ、主イエスが望んでおられたことは、人々が悔い改めて、神に帰って来ることだけだったのです。だから、人々の関心と愛がイエスに集中されるのは当然の結果でした。それによって、彼らはイエスが人々の人気を横取りすると思い、イエスを憎むようになったのです。 2.私たちの姿はどうか。 イエスの時代のエルサレムには、表面上、神に献げ物を捧げる神殿があり、断食と祈りといった宗教儀式があり、貧しい人々への救済がある、それなりの宗教的な秩序が定着されている所でした。しかし、エルサレムを離れると、貧しい人々のうめき声が聞こえ、弱者が疎外され、既得権者の偽善が満ち溢れていました。今日の旧約本文のイザヤ書を通して、主なる神は言われました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。」(イサヤ55:1-2)神は、このように誰でも神の御前に来て、飾り気と偽善のない真の交わりを望まれる方だったのです。なのに、イエスの時代のイスラエル社会は多くの献金や祈りや宗教行為が、宗教的な熱心さに勘違いされ、それによって宗教的な欲望を満す、主なる神の御心とかけ離れた宗教社会だったのです。このような社会の中で、貧しくて弱い人々は何の慰めも、助けも得ることができませんでした。 残念なことにそれらは、聖書だけに記されている問題ではないということです。ひょっとしたら、これは現代を生きる私たちからも見える問題であるかもしれません。以前ある教会で説教するとき、ひどい目にあった未信者の知り合いの話をして、祈りを求めたことがあります。その話で時間が長くなり、説教の内容とも少しずれるところがあり、申し訳ないと思いました。ところで、案の定、礼拝後にある方に説教の時は余計な話は控えてほしいと言われました。意図は十分わかりましたが、一方では「ひどい目にあった未信者のための祈りが礼拝でなければ、はたして何が礼拝だろうか。苦しい隣人のために祈りを求める以上の礼拝はあるだろうか。」同時に、聖書の言葉が一つ思い起されてきました。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」(マタイ9:13)その日は、なんとなく寂しくなりました。 3. 宗教儀式ではなく信仰と愛を持って。 私は韓国の代表的な長老派教会である高神派出身の者です。高神派は神社参拝反対運動で有名な教会です。その信仰の誇りは韓国の教会の中でも目立つほどです。そういうわけで、私は子供の時から「高神派的な信仰」という言葉をよく耳にしながら育ちました。また、日本に来ては「日本キリスト教会的な説教」という表現を聞くことになりました。それを初めて聞いた時、母教会の高神派が思い浮かびながら、なんとなく日本キリスト教会のプライドが分かってきました。高神派教会と日本キリスト教会は、まるで双子のように感じられます。ところで、高神派的な信仰は何であり、また、日本キリスト教会的な説教とは何でありますでしょうか。イエスが望まれたのは、高神派的な信仰、または、日本キリスト教会的な説教なのでしょうか? キリストが望んでおられる価値は何であるだろうかと思うようになります。形式は大事です。しかし、主の教会には、もっと大事な普遍的な価値があります。ファリサイ派の人々とヨハネの弟子たちが断食する時、人々はイエスに「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」と尋ねました。しかし、それは弟子たちへの不満ではありませんでした。イエスへの抗議だったのです。おそらく、彼らにもユダヤ教への大きな誇りがあったはずです。彼らは「なぜ、あなたは私たちの形式(律法)を無視するのですか?」と問い詰めたわけです。 その時、イエスは「新しいぶどう酒は新しい革袋に。」という多少理解しにくい言葉を言われました。イエスは旧約の律法を完成なさるために来られた方です。そして、主は旧約の数多くの律法が「神と隣人への愛の実践」のために与えられたと教えてくださいました。つまり、律法の完成とは、律法の精神、つまり、愛の実践だと言って過言ではないでしょう。主は多くの宗教儀式や教義的な立場ではなく、神の愛を日常生活にあって実践することに関心を持っておられたのでです。もちろん、律法も教義も大事です。しかし、そのすべてが神のご命令、愛の実践ための道具であることを見逃してはなりません。イエスはご自身の福音を通して、偽善的な宗教儀式に縛られていた以前の姿を捨てて、神と隣人への真の愛と実践のある、新しい信仰を望まれたのです。自分の宗教的な欲望のための信仰ではなく、神がご計画なさった、生き生きとした信仰を望んでおられるのです。神が求められることは、何十年も繰り返してきた習慣的な宗教行為ではなく、ただ一分一秒でも隣人への真の憐れみと愛ではないかと顧みたいと思います。このイエスを信じる私たちは、昔のユダヤ人が追い求めた自分の信仰的な欲望や偽善的な宗教生活ではなく、真に主の手と足となり、主の栄光のために行い、神と隣人の喜びになるために努力しつつ生きるべきではないでしょうか。 締め括り 主イエスはご自分の犠牲を通して、愛の宗教という新しい革袋としての教会を打ち立てられました。そして、その教会に属する者たちは、新しいぶどう酒のように、神の御心に適う人生を生きるべきです。古い革袋に新しいぶどう酒を入れると、熟成する時のガスによって袋が裂けてしまいます。主イエスは新しい革袋として、愛の共同体である教会を与えてくださいました。そして、その中で生きる私たちは主による愛の実践を貫いていくべきでしょう。その時はじめて、私たちは美味しくて良いぶどう酒のように、神の喜びになるでしょう。神の国は宗教儀式と教理による所ではありません。それらを通して、さらにイエスを堅く信じ、主に倣って愛を実践する時、私たちの人生に現れるものです。そのように生きる者こそ、死後、神が備えてくださった天国に入ることになるでしょう。宗教生活ではなく、愛の実践、それが私たちが求めるべき、新しい革袋ではないでしょうか。

主が涙をぬぐい取ってくださる。

詩編27編1節(旧867頁) ヨハネの黙示録21章1-8節(新477頁) 前置き 先週の木曜日の夜、宣教師派遣元の釜山の告白教会から至急の祈りを願うメールが届きました。告白教会の設立から物心両面仕えてきた、ある姉妹が脳出血で入院したとのことでした。釜山の告白教会の団体メールがありますが、3時間前までも明るいメッセージを載せた方でした。その3時間後に脳出血で倒れたわけでした。素早く搬送装置したため、しっかりと治療を受け、また元気になるだろうと思っていたのに、火曜日の夕方、逝去したとの知らを聞きました。里帰り中の妻が葬儀場に行き、遺族を訪問しました。死というのは本当に突然近づいてくるものです。いつも明るい笑顔で私を励んでくれた姉妹でしたが、逝去は一瞬でした。しかし、私はまた会える希望を持っているので、落ちこんではいません。聖書は語ります。「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(黙示録21:3-4) 私たちは、いつか主に召され、亡くなるでしょう。しかし、主を信じる私たちは、それが終わりではないということを知っています。キリスト者にとって死は、この世のすべての憂いと悲しみを全て払い落とし、主のふところで慰められる至福の始まりだと思います。私たちは必ず天国でまた逢うでしょう。今日はキリスト者の死について考えてみたいと思います。 1.死について。 人間はなぜ死ぬのでしょうか? 実は科学的に人間だけでなく、すべての生物は死ぬに決まっています。すべての生物は生まれ、育ち、老いて死滅するようになります。そして、私たち自身もいつか必ず死を迎えるようになります。聖書もこう語ります。「人間にはただ一度死ぬこと…が定まっている」(ヘブライ語9:27) 科学的に死は「生きる機能を失うこと」を意味します。生まれた時、すべてが新しかった私たちの体は、時間の経過とともに古くなっていきます。私たちはこれを「老いていく」と言います。幼い頃は眼鏡なしでも本の字があきらかに見えたのですが、歳を取るにつれて虫眼鏡をかけなければならなくなります。目が古くなっていくということです。若い頃は音がはっきり聞こえたのですが、老いていくのにつれて補聴器をつけなければならない人もいます。耳が古くなっていくということです。真っ黒だった髪の毛が白髪に変わっていきます。顔のしわも増えていきます。私たちの肉体が、このように古くなって機能を失っていくのです。すべての生物は生まれ育って、少しずつ機能を失っていきます。そして、最終的に老化と病気によってすべての機能が永久的に失われます。私たちはそれを死と呼びます。 しかし、聖書は肉体の死だけがすべてではないと語ります。今日の新約本文はこう述べています。「おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(黙示録21:8) 先のヘブライ人への手紙には、人間は誰でも一度必ず死ぬことが決まっていると記してありました。おそらく、それは肉体の死の意味でしょう。しかし、本文はまた第二の死があると語ります。主の反対側で、主の御心通りに生きない者たちは、2度目の死、つまり霊的な死に襲われるということです。私はこれをもって「未信者たちは皆呪われて地獄に落ちる」という残酷な話をするつもりではありません。私たちみんなには未信者の家族がいます。ですので、あえて彼らが滅びるとは言いたくありません。そのような他の人々への判断は神にお任せしたいと思います。教理を用いて勝手に人を裁くのは望ましくないからです。ただ、この時間には私たち自身に当てはめて言いたいだけです。私たちには肉体の死が必ず訪れてくるでしょう。そして、その後、私たちは主への信仰によって永遠の生命と永遠の死の分かれ道の前で神の裁きを受けるでしょう。イエス·キリストを信じる者たちは救われるというのが聖書の教えですが、私たちはイエスを信じるふりばかりして、実は信じない者ではないか、神の民と自負するが、神の民のふりばかりをして、実は神に逆らう者ではないか、自ら振り返る必要があると思います。 にもかからわず、幸いなことは、私たちの救い主イエス·キリストが私たちのそのような弱さをよくご存知なので、今日も父なる神の右から私たちのために執り成しておられるということです。私たちの信仰が弱く、主の御前で至らない私たちを主イエスは憐れんでくださり、私たちのために祈って(執り成して)おられるということです。したがって、私たちには何の資格がないにもかかわらず、主なる神は、私たちを民として見なし認めてくださるのです。私たちは時々主の御心に適わない弱い存在であるかもしれません。私たちは神の民だと自分自身を思っていますが、実は逆らう存在であるかもしれません。それでも主イエスは聖霊によって、私たちの罪を悟らせ、悔い改めさせ、再び生きていけるように導いてくださいます。だから、イエス·キリストを信じる者には直りの機会が与えられるのです。そのため、私たちは一度の肉体的な死は経験しても、主イエスのお憐れみによって二度目の死を避けることができるのです。これがまさに聖書が語るキリストの救いであり、憐れみであるのです。一度お選びになった人は決して見捨てられない主イエス·キリストの恵み、その恵みによって私たちは資格のない罪人であるにも関わらず、主にあって生きることができるのです。主イエスは死に支配されている、この世にいる私たちに真の生命を与えてくださる方だからです。 2.主はわたしの命の砦。 今日の新約聖書の本文は私たちに語ります。「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4) この世の終わりの日が到来する時、神の幕屋が主の民の間にあり、主が民の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださるということです。本文に出てくる神の幕屋とは、旧約時代に神と人間をつなぐ掟の箱を置く場所でした。幕屋の中には聖所があり、聖所の一番奥には至聖所がありました。そこに掟の箱があったのです。至聖所は年に一度、イスラエルの大祭司だけが入ることができ、大祭司さえも贖罪の献げ物をささげなければ(悔い改めなければ)、入るやいなや罰を受けて死んでしまう恐ろしい場所でした。しかし、聖書はイエス·キリストがたった一度のご自分の犠牲によって、永遠の大祭司になられ、私たちを執り成してくださると証言しています。つまり、私たちはイエス·キリストの執り成しによって贖われ、主イエスとともに神の至聖所に入ることができる正しい人と認められたわけです。したがって、今日の本文の神の幕屋はイエス·キリストの贖いの恵みを意味するとも言えるでしょう。 この世には必ず終わりの日(イエス・キリストの再臨の日)が到来するでしょうが、その前に私たちは私たちの人生の終わり(死)の日を迎えることになるでしょう。しかし、私たちの霊は主なる神に召され、主のところに行くことになるでしょう。そして、イエス·キリストが再臨される、真の終わりの日まで、私たちは、主とともにその日を待ち望むでしょう。私たちの死はキリストの再臨による完全な神の国の到来をあらかじめ味わう、祝福された経験になるでしょう。世の人々にとって死は終わりであるかもしれませんが、私たちキリスト者にとって死は神の限りのない恵みを限りなく享受する至福に入る新しい始まりになるでしょう。その時、そこで主なる神は私たちの涙をことごとくぬぐい取ってくださるでしょう。そして、苦しくて悲しいこの世で本当によくやったと褒めてくださるでしょう。 私たちに二度目の霊的な死は決してなく、永遠に神の生命のもとでキリストの再臨を待ちのぞみながら、笑顔と喜びで生きるでしょう。これが死についてのキリスト者の正しい認識なるべきです。だから、死を恐れないようにしましょう。キリストにあって死を迎える者たちは、主の約束によって必ず平和と喜びの神の国に入るからです。 締め括り 「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。」(詩篇27:1)説教の序盤に韓国にいる知人の死について話しましたが、実は私たちの中にも先週家族を失った方がおられます。この説教を準備しながら、その方が思い起こされました。子供の頃から喜怒哀楽をともにしてきた大切なご家族だったはずです。亡くなられた方はキリストの民として召されました。ですから、今、主は約束どおりに、その方の目の涙をぬぐい取ってくださり、真の幸せを与えてくださるでしょう。わたしたちにもその日が近づいてきています。主の御心によって、誰かは先に召されるかもしれなく、また、誰かはもう少し長くいて召されるかもしれません。しかし、明らかなことは、主に召されるその日、私たちは悲しみではなく喜びの中にいるということです。キリストがくださった永遠の生命という賜物が、私たちを待っているからです。主が私たちの生命の砦としておられるかぎり、私たちは何も恐れおののく必要がありません。キリスト者にあって、死とは神の恵みへ進むもう一つの始まりだからです。私たちに生命を与え、神の国に導いてくださる主イエス・キリストを拠り所にして、残りの人生を生きていきたいと思います。

神のお招き

創世記11章27節-12章9節 (旧15頁) 使徒言行録7章2-5節(新224頁) 前置き 私たちは聖書の言葉の中でしばしば「アブラハムとイサクとヤコブの神」という言葉を目にします。そして新約聖書は、アブラハム、イサク、ヤコブを継承した彼らの霊的な子孫(霊的なイスラエル)が、キリストの体なる教会であると証しています。神はアブラハムをご自分の民として召され、以降モーセを通して主の民が追い求めるべき掟である律法とキリストによる全人類を救う良いお知らせ、つまり福音を与えてくださいました。神は、その律法と福音の中で、神に選ばれた民を教会と名づけてくださったのです。したがって、今日、私たちが取り上げるアブラハムの物語は、アブラハムという一人の人間の話だけでなく、その霊的な子孫、教会についての話しでもあります。今日の本文を通して、教会への神のお招きについて話してみたいと思います。 1.罪人をお招きくださる神。 ヨベル書というユダヤ教の古代文献にこんな物語があります。「ある日、カルデヤのウルで父テラと偶像制作業をしていたアブラハムは、父に質問した。お父さん、私たちが木で作る、この像は命も無いのに、なぜ人々はこれを神だと言うのですか。するとテラが答えた。息子よ、私も知っている。しかし、私たちがあの像を偽物だと扱ったら、それを神とする者たちに狙われて殺されるだろう。だから、知らないふりしなさい。」また、ミドラーシュというユダヤ教のモーセ五書の解説書にはこんな物語があります。「父と偶像制作業をしていたアブラハムは、命もない偶像を神とする人々が全く理解できなかった。ある日、アブラハムは棒で工房の小さい偶像をすべて叩き壊し、一番大きい偶像の手の上に棒を置いた。テラが戻って来た時、工房の中はめちゃくちゃになっていた。テラは怒って言った。何だ!これ!お前か!するとアブラハムは答えた。一番大きい像が小さい像たちを妬んで叩き潰しました。するとテラは顔が真っ赤になって叱った。馬鹿野郎!生きてもいない偶像が動けるもんか!」 ユダヤ人は先祖アブラハムを正しい人だと思いました。以上の物語には、偶像崇拝を拒んだアウラハムという、そのようなユダヤ人の心が含まれているのです。しかし、聖書のどこにも、アブラハムが正しいから神に選ばれたという言葉はありません。むしろ、何一つ正しさもなかったのに、信仰によって義とされたと書いてあります。アブラハムも罪人に過ぎなかったという証です。アブラハムの出身地ウルはメソポタミア文明の中心地でした。ウルは多神教社会であり、アブラハムの家族は偶像を作る偶像崇拝者だったのです。つまり、アブラハム自身が主なる神を見つけたわけではなく、主が彼を訪れ、選び、ご自分の民にしてくださったということです。私たちが信じる主なる神はご自分の独り子イエスの執り成しによって、正しくない者を正しいと見なしてくださり、保証してくださる方です。キリスト者は正しいから救われた存在ではありません。神は人の行いではなく、キリストの執り成しによって、罪人を赦してくださいます。ですので、民への主のお招きは、イエス・キリストによる条件なしの賜物であるのです。 2.主の民を先に知っておられる神。 創世記には、主が「ハラン」という町から、アブラハムを呼び出されたとあります。もともと、アブラハムの家族はウルに住んでいましたが、なぜ当時の文明の中心地であるウルを離れ、ハランに移住したでしょうか?聖書には書いてありませんので、理由は分かりません。ところで、使徒言行録7章のステファノの説教では「わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかった時、栄光の神が現れ、 あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行けと言われました。」ステファノはアブラハムの家族の移住が神のお招きによるものだというニュアンスで語りました。このように見れば、創世記と使徒言行録の言葉に矛盾があるように見えます。神がアブラハムに現れた場所が、創世記ではハランであり、また使徒言行録ではウルであると語っているからです。神がアブラハムをお招きくださった本当の場所はどこだったでしょうか? 様々な解釈があるでしょうが、明らかなことは、アブラハムが神に出会う前に、神はすでにアブラハムを知っておられ、選んでくださったということです。おそらく、ステファノは、すでにアブラハムを選ばれた主なる神の偉大さを示すために、ウルでアブラハムに現れたと語ったかもしれません。聖書外的な話ですが、アブラハムの時代と思われる紀元前2000年ごろ、ウルには栄えた王国があったと言われます。現代人はそれをウル第3王朝と名付けました。ところで、このウル第3王朝は、その歴史が100年くらいにしか至らかったと知られています。その理由は、当時ウルの土地に強い塩分が増えていたからです。長年の農業により、土地が荒れ果てて、飢饉につながったわけです。おそらくウル第3王朝は、その飢饉によって滅びてしまったでしょう。結局、全人口の4割くらいが故郷を離れ、ハランなどの地域に移住したと言われます。 私たちは、アブラハムの家族が、なぜウルを離れ、ハランに移住したか分かりません。上記のような歴史的な理由か、主のお招きか、聖書だけでは分かりません。しかし、明らかな事実は、そのすべてが神のご計画であったということです。神は、すでにアブラハムの先祖の時から彼へのお招きを準備してこられました。そして、時が満ち、創世記12章で彼の前に現れられたのです。アブラハムは神を知らなかったですが、神は世界の創造、人間の堕落、国々の盛衰興亡の中で、アブラハムの登場を備えてこられたのです。神のご計画は、民の考えと全く違う方法で成し遂げられます。主の民が神に出会うにも前に、神は民を知っておられ、民との会いを待ち望んでおられるのです。その神が御子の贖いを通して、ご自分の民を救い、お招きくださるのです。それだけに主の民は神にとって大切な存在であるのです。 締め括り 今日の説教のポイントは二つです。「一、主なる神は何の正しさもない罪人をお選びくださり、キリストの贖いによって赦し、正しい者と見なしてくださる。」「二、人間(罪人)が先に主なる神を見つけるわけではなく、主なる神が先に人間(罪人)を訪れ、ご自分の民にしてくださる。」主なる神のお招きは神学用語では「召命」と言われます。「神の恵みによって神に呼び出されること。」が辞書の説明です。救われる資格のない私たちは、主なる神の一方的な恵みによって救われ、主の民と呼ばれています。世の中で、苦難が襲ってくる時も、主はお選びくださった民を大事にしておられます。その主なる神への信仰によって、この一週間も生きたいと思います。豊かな主の恵みが志免教会の兄弟姉妹に注がれますように祈り願います。

信じる者になりなさい。

箴言3章5~6節 (旧993頁) ヨハネによる福音書 20章19~29節(新210頁) 前置き 生前のイエスは、何度もご自身が「死んで、復活する」と言われました。神は罪人の救いのために、ご自分の独り子イエスを贖いの献げ物とされ、死を命じられました。その死はイエスにとっては、呪いのような死でしたが、イエスを信じる者にとっては、祝福となりました。イエスの死で、主を信じる者たちには永遠の生命が与えられたからです。したがって、主の死は罪人の救いを計画された、父なる神の必要不可欠な御心の成就でした。そして、神は死で罪人の贖いを完成されたイエスを復活させてくださることで、イエスの死を価値あるものにしてくださいました。とういうことで、生前のイエスは、何度も「私は死ぬ。しかし復活する」と言われたのです。残念なことに、主の弟子たちは、このイエスの死の真の意味が分からず、主の死ですべてが終わったと思いました。だから、イエスの復活が信じられなかったわけです。信仰とは実に難しいものです。どうやって死者の復活があり得るのでしょうか? 世の常識でありえないことを信じることが信仰だからです。しかし、私たちの信仰は世の常識に基づいたものではなく、神の御言葉に基づくのです。私たちは一生自分の信仰について深く考えるべきです。今日は信仰について話してみたいと思います。 1. 私たちを訪れてこられるキリスト。 「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、わたしは主を見ましたと告げ、また、主から言われたことを伝えた。」(ヨハネ20:18) 先週の本文の最後の箇所には、マグダラのマリアがイエスの復活を目撃し、弟子たちに「私は主を見た」と告げる場面が出てきていました。生前、主が言われた通りに、主は復活されたのです。しかし、弟子たちの反応は、マリアとは全く違っていました。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」(ヨハネ福音書20:19) 弟子たちは、依然として主の復活を信じられず、むしろユダヤ人の迫害を恐れていました。先に申し上げましたように、生前のイエスが「私は死ぬ。しかし復活する」と言われ、イエスの死後にも主の遺体を守っていたマグダラのマリアが、イエスの復活を証ししたにもかかわらず、弟子たちには主の復活への信仰が全くなかったのです。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、あなたがたに平和があるようにと言われた。」(ヨハネ福音書20:19) そのような弟子たちにイエスが直接訪れて、ご自身の復活を証明してくださいました。その時になってやっと弟子たちはイエスの復活を信じ、喜ぶようになったのです。 イエスの弟子だからといって、皆が深い信仰を持っているわけではありませんでした。信仰は、イエスという存在を長く知ってきたからといって、他人より成長しているとは言えないものです。長年、イエスを信じてきた私たちも、今日の本文の弟子たちの姿から自由ではないかもしれません。私たちはイエスの復活をありのままに信じ、主の御言葉に全面的に信頼しているのでしょうか? おそらく、そうではない可能性が高いと思います。私たちには、イエスの復活や主の御言葉を自分の力で完全に信じることができる力がありません。私たちの中にある罪の本性がそれを妨げているからです。人間は、この世の常識のもとに生きる存在であり、目に見えない主の御言葉より、目に見えるこの世の常識にさらに目を注いでしまう弱い存在です。そのため、神は今日も御言葉を通して、私たちのところに訪れてくださるのです。主の復活が信じられず不安に震えている弟子たちに直接現れて証明され、信じる力をくださったように、主は今日も御言葉によって私たちに来られ、神への信仰を堅くしてくださり、ご自分について教えてくださるのです。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい。」(ヨハネ福音書20:22) ただし、聖書の御言葉のように、天の御父の右におられるイエスご自身が直接来られるわけではなく、約束通りに助け主でおられる聖霊なる神を通して来てくださるのです。(ヨハネ福音書16章) 2. トマスの信仰と私たちの信仰。 ところで、今日の本文に、目立つ人物が登場します。「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、わたしたちは主を見たと言うと、トマスは言った。あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(ヨハネ20:24-25)弟子トマスはイエスが復活して弟子たちを訪れられた時、その場にいなかったようです。それで、他の弟子たちがイエスに会ったと喜びで証しても、信じられなかったのです。トマスはヘブライ語式の名前で(テオム)、別の名前ディディモはギリシャ語式の表現です。日本語に訳すと「双子」となります。彼が本当に双子だったのかどうか、なぜ双子と名付けられたかは今日の本文ではわかりませんが、心理学的に双子は、普通の子供たちと違う心理状態で成長すると言われます。嫉妬も強く、疑いも多く、互いに争う場合も、割と普通の子供たちより多いと言われます。私個人としては、このようにも考えてみたりもしました。(神学的な根拠はない)この双子と呼ばれるトマスの、もう一人の双子は、主を完全に信じることが出来ない「私たち自身」ではないかとのことでした。 大学時代、私は英会話授業の時、アメリカ人の先生が、各自、英語の名前を作ってほしいと宿題を出しました。長く工夫した私は「トマス」を選びました。なぜなら、その時の私は神の存在への疑いを持っていたからです。両親に連れられ、幼い頃から教会に出席してきたのですが、イエスは本当に生きているだろうか? 神は本当に存在しているだろうかと疑問を抱いていたのです。30歳の会心の時まで、私はトマスと似たような人生を送りました。日曜学校で学んだ疑い深いトマスが、私とそっくりだと思いました。それで、英語の名前を「トマス·キム」と付けたのでした。私たちは自ら神を信じていると思いやすいます。長年の教会で信仰生活をしてきました。しかし、考えてみましょう。私たちは本当に主を信じているでしょうか? あまりにも長い間、教会に通っていたので、信じていると勘違いしているのではないでしょうか? むしろ、トマスのように疑って、信じられないのは信じられないと正直に言った方が健全であるかもしれません。私たちにはトマスの信仰が弱いと貶める資格がありません。むしろ、トマスのような率直さが私たちに有益であるかもしれません。自分には信仰があるかどうか、自分は本当に主の民かどうか。厳しく考える機会があれば幸いです。私たちは果たしてトマスより、成熟した信仰を持っていますでしょうか? 3.私たちの信仰を守ってくださる主。 だからといって、疑いで不信心であるトマスが正しいとは思いません。私たちは、明らかにキリストの復活と救い、そして神への信仰を追い求めて生きるべきだからです。それでも、信じられないならば、それは祈りの課題として、絶えず主に求めて、信仰の続きのために力を入れなければならないと思います。神が信じられないからといって、神がおられないわけではなく、信じられないからといって、イエスの復活と救いがなかったことになるわけではありません。信じられないのは、私たち自身の問題に過ぎません。聖書は明らかに神が存在していると、イエスが復活され、罪人を救ってくださったと証言しているからです。何よりも大事なのは、キリスト者の信仰の歩みにつれて、聖書の証である神の存在とイエスの復活と救いとが、少しずつ分かってくるということです。ですから、信仰は変わりません。変わるのは私たち自身なのです。このような弱い私たちのために、今日もイエス・キリストは、父なる神の右におられ、執り成してくださるのです。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:33-35) トマスは弱い信仰により、イエスの復活を疑う懐疑主義者でした。しかし、懐疑主義者が会心するとき、彼は他人の信仰を超える強い信仰を示すことになります。懐疑主義者をも変わらず愛し、執り成してくださるキリストの恵みによって、イエスに出会う時、最も印象的な信仰の告白をすることになるのです。今日、トマスはイエスに会って、その方の復活を信じるようになり、このような信仰の告白を言うことになります。「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28) 私たちの信仰の真の主は、私たち自身ではなく主なる神です。ですから、時々、私たちの信仰が弱まってきても終わりではありません。主イエスが、私たちの信仰を大切にしてくださり、今日も私たちの信仰のために、父なる神の右から執り成してくださるからです。だから、信じられない時が来ても、私たちの信仰をあきらめないようにしましょう。信じても何の変化も見えず、信仰への疑問が沸いてくる時も、主が私たちの信仰を応援しておられることを信じて、主に寄りかかって生きていきましょう。そして、私たちが見て信じる者ではなく、見なくても信じる、信仰者になっていくように、祈りつつ生きていきましょう。主イエス・キリストは必ず私たちの信仰を守ってくださるでしょう。 締め括り キリスト教の最も重要な価値の一つは、断然、信仰だと思います。信仰なしでは、父なる神の子供になることも、キリストの御救いを得ることも、聖霊なる神のお助けを得ることもできないからです。ですが、信仰は私たちの思い通りに簡単にできるものでも、簡単に守られるものでもありません。私たちの信仰は主の恵みによって与えられるからです。したがって、私たちは「自分の弱い信仰を守ってください。」と、毎日、主に祈らなければなりません。揺るぎやすい私たちの信仰は、復活されたキリストによって、しっかりと守られ、保たれています。必要なのは、主イエスのお声に答えて、信仰に立とうとする、私たちの心なのです。最後に今日の旧約本文を読んで終わりたいと思います。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」

信じる。走る。 語る。

ヨハネによる福音書20章1~18節(新209頁) 前置き イエス·キリストの復活を讃美します。世のすべてを無意味にする死にご勝利なさった主イエスが復活されました。天地万物が凍りつく冬が終わり、暖かい春が訪れてくるように主イエスは死から帰ってこられたのです。復活節は何の希望も許さない死に勝利され、新しい始まりを与えてくださった主イエスの復活を記念する日です。世の人々はこの日をイースターと呼んでいますが、イースターはアングロサクソン族の春の女神の名前に由来する呼び方です。初期の教会が異教徒の祝日をなくし、キリスト教の復活節に振り替えることで生まれた異教徒の祝日の残滓に過ぎません。ですから、この世が「イースター」と呼んでも、私たちはこの日をイエス·キリストの「復活節」とはっきり言い、記念すべきだと思います。今日はヨハネによる福音書20章の物語を通じて、主イエスが復活された日の朝の出来事について話したいと思います。2000年前のイエス物語を通して、2000年経った今を生きる私たちにとって、主イエスの復活とは、どういう意味なのかを考えてみたいと思います。 1.イエスの復活とイエスの人々の反応 今日の本文の朝は、イエスの人々にとってそれほど愉快な時ではありませんでした。その理由は、3年前に突然登場し、偉大なラビと呼ばれ、神の御言葉を宣べ伝え、病人を癒し、死者を生き返らせることで、ローマ帝国と悪い権力者たちの暴挙に苦しんでいるイスラエルに希望を与えた「イエス」という存在が3日前に十字架の上で最期を迎え、今や墓の中にいたからです。同時に世の人々はもうイエスの時代は終わり、おそらく、彼が人々の記から消えていくはずだと思っていました。ただ、彼に従った人々は最後までイエスに仕えようと心を籠めていました。その朝、マグダラのマリアという女は死んだイエスを記念するために朝早くイエスの墓に訪れました。ところが、墓に着いた彼女は驚愕してしまいました。大人の男性でも開けにくい重い石の門が取り除けてあり、イエスの遺体は見えなかったからです。もしかしたら、イエスに反対していた者たちが悪意を抱いて遺体を隠した可能性もありました。戸惑った彼女は、すぐに主の弟子たちに行き、イエスの遺体がなくなったと告げ(原文として語り)ました。その言葉を聞いてペトロと他の弟子(おそらく、弟子ヨハネ)は、急いでイエスの墓に向かって走りました。案の定、イエスの遺体はありませんでした。ただ、イエスの遺体を包んでいた亜麻布が置いてあるだけでした。その時になって彼らはイエスの遺体がなくなったことを信じ、絶望して家に帰っていきました。そして、マグダラのマリアは、すべてを失った人のように、墓の前に立って泣きばかりしていました。 しかし、彼らが見落としていることがありました。生前のイエスははっきり言われました。「イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」(マタイ16:21) イエスは他の誰でもない主なる神のご意志により必ず死んで必ず生き返ると何度も言われました。しかし、誰も常識を飛び超えるその言葉を信じることができませんでした。もし、誰でもその言葉を信じていたら、イエスの遺体がなくなった、この出来事を涙と絶望ではなく、喜びと希望の兆しとして受け止めたに違いありません。マグダラのマリアは絶望してイエスがなくなったことを「告げ(語り)」ました。二人の弟子たちはイエスがなくなったことを確認するために「走り」ました。そして、彼らはマグダラのマリアの絶望混じりの証言を「信じ」ました。彼らは「語り、走り、信じ」たのです。しかし、それらは自分たちの絶望と失敗だけに覆われ、主の約束が信じられない、間違った「語る、走る、信る」だったのです。彼らはまだイエスが言われた「三日目に復活する」という約束の真の意味を理解していなかったのです。主なる神は、聖書を通して、常に語っておられます。「わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福する。わたしを信じなさい。」しかし、私たちは主の御言葉を完全に受け入れることができない弱さを持っています。イエスが復活した朝、その時の弟子たちとマグダラのマリアも私たちと同じ反応だったのです。 2. イエスの復活が持つ意味。 マグダラのマリアは、2人の弟子が家に帰った後にも、イエスの墓の近くに残っていました。彼女は相変わらず泣いていました。もうイエスの教えも、癒しも、弟子たちの活動も、自分の人生もすべてが終りそうでした。そうするうちにもう一度涙を流しながら身をかがめて墓の中を見ると、彼女は驚いてしまいました。「イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。」(ヨハネ20:12) 神の二人の天使がイエスの遺体が置いてあったところの頭側と足側に座っていたからです。聖書の学者たちは語ります。イエスの遺体が置いてあったところの上に座っている二人の天使の場面、それは旧約時代の聖幕と神殿にあった神の掟の箱を象徴するものだと。旧約の掟の箱は、神の御言葉である十戒の石板を保管する聖なる箱でした。そして、その蓋には神の天使を意味するケルビム形の二つの像がありました。そして、掟の箱は「神の足台」(詩99:5)と呼ばれていました。つまり、掟の箱を置いた聖幕と神殿の至聖所は、主なる神のご臨在を象徴する聖なる場所だったのです。ソロモン王の時代に、掟の箱は聖幕から神殿に運ばれ、イスラエルが滅ぼされた紀元前6世紀には、掟の箱は他国の侵略によってなくなりました。しかし、今日の出来事によって、主なる神は、その昔なくなった掟の箱の恵みをキリストの復活によって、再び、この世に与えてくださったのです。それは、死が支配すると言われる墓から始まり、主イエスの復活によって、神の恵みは墓の外に広がっていきました。死に満ちていた墓は、もはや、キリストによって、神の恵みに満ちた至聖所に変わったわけでした。 「イエスは言われた。婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。マリアは、園丁だと思って言った。あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。イエスが、マリアと言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、ラボニと言った。先生という意味である。」(ヨハネ20:15-16) マリアが依然として泣いている時、後ろから誰かが声をかけました。マリアは彼を園丁だと思いました。彼女は泣きながら、イエスを探していました。その時、イエスは言われました。「マリアよ」その時、マリアの目が開き、彼が三日前に死んだ自分の主イエスであることに気づきました。すべての人がもう終わりだと思ったその朝、死んだイエスは御言葉通りに三日目によみがえられてマリアの目の前に立っておられました。旧約聖書のなくなった掟の箱の御言葉が神殿に帰ってきたかのように、二人の天使が守っている墓の外には神の真の御言葉であるイエス・キリストが死に打ち勝ち、帰ってきておられたのです。そして、言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上ると」(ヨハネ20:17) イエスの復活は死にご勝利なさった主なる神の権能であり、地上の民たちを神と再びつながせる神のご臨在の象徴でした。イエスの復活によって、希望のない、この世に神とつなぐことが出来る新しい道が開かれたのでした。 締め括り 今日の説教題は「信じる。走る。語る。」です。このタイトルは、今日の本文の序盤に出てくるマグダラのマリアとペトロ、ヨハネの行為とかかわりがあります。マリアは弟子たちにイエスの遺体がなくなったと告げ(語り)ました。ペトロとヨハネはイエスの遺体がなくなったことを確認するために走りました。そして、確認してイエスの遺体がなくなったことを信じました。彼らはなくなったイエスの遺体という前提から少しも抜け出すことができませんでした。彼らはイエスの復活が信じられなかったのです。しかし、復活されたイエスが彼らに再び現れ、以後ペンテコステになっては、彼らに聖霊を注いでくださいました。その時、彼らはイエスの復活を信じ、全生涯をイエスのために走り、イエスの復活と福音を宣べ伝えるために語りました。同じ行為でも、全く違う結果につながったわけです。キリスト教において復活は、死者がよみがえることだけを意味しません。イエスによってキリスト者として生まれ変わることでもあります。イエスは死と復活を通して、この地上に神の憐れみをもたらしてくださいました。掟の箱に象徴されていた主なる神のご臨在が、イエス·キリストの復活によって、再びこの地に許されたのです。主イエスの復活を記念する今、私たちはイエスへの信仰によって信じ、イエスに仕える熱望によって走り、イエスの復活を宣べ伝える福音のために語らなければなりません。私たちの生涯を通して、神と世の中をとりなしてくださるイエスを信じ、主の栄光のために走り、主の福音を語る私たちであることを祈り願います。

ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)

創世記22章1~14節 (旧31頁) ヘブライ人への手紙9章23~28節(新411頁) 前置き 主なる神は、他者の助けを必要とされない方です。神は、三位一体の権能のみで世界を創造し、導き、罪と悪とを裁き、ご自分の民を救ってくださる方です。私たちは「他者の助けを必要とせずに」神はお働きになるということを絶対に忘れてはなりません。それでは、なぜ、神はご自分の民を呼び寄せ、主の教会を打ち立てらせ、教会を用いられ、世界を導いていかれるのでしょうか? それは、神がご自分の民にくださる賜物なのです。私たちは神を助けるために集まり、礼拝と讃美をささげ、伝道するわけではありません。神はいつも他者の助けなしにご自分で働き、すべてを成し遂げていかれる方です。神がご自分の民を用いられる理由は、助けが必要だからではなく、主によって救われた民に神の栄光のために生きる機会を賜物としてくださるためです。ですから、私たちは神を助ける者ではありません。むしろ、私たちが神に助けられて生きるのです。「ヤーウェ・イルエ」は「主は備えてくださる」という意味のヘブライ語です。私たちは信仰生活を「神のために何かを備える」として理解してはなりません。信仰生活は徹底的に神が備えてくださる恵みと愛とをいただいて生きることであり、その一環として主なる神は私たちに地上での礼拝を許してくださったのです。 1. 主なる神がアブラハムを試された。 今日の旧約本文は、神がアブラハムを試される出来事から始まります。「神はアブラハムを試された。神が、アブラハムよと呼びかけ、彼が、はいと答えると、神は命じられた。あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(創世記22:1-2)前回の説教で、私たちは「神は人を誘惑されない。」という言葉を学びました。「誘惑に遭うとき、だれも、神に誘惑されていると言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。」(ヤコブ1:13) 前回の説教で聖書に出てくる「誘惑」と「試練(試み、試し)」は同じ原文を使うと話しました。文脈によって「誘惑」か「試練」に分かれるということでした。神は「試し(試練)」は与えられますが、決して「誘惑」される方ではありません。悪事をさせる誘惑は、完全な善でおられる神にありえない概念です。神は誘惑としての「試し」ではなく、信仰の成長のためのテストとしての「試し」だけを与えられる方です。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリント10:13) 主なる神からの試練は、悪事を引き起こす「誘惑」とは違います。神からの試練は、ご自分の民を鍛えさせる訓練であり、民を倒すためではなく、むしろより健全で堅い信仰を養う養分になります。もし、自分が、神からの試練の中にいると思われたら、それは神が自分に害を及ぼそうとする意図ではなく、自分の信仰を大切にしておられるという証として受け止めたらと思います。神からの試練は、敵への刑罰ではなく、子供への戒めのようなものだからです。そして何よりも、神は試練の真ん中に共におられ、ご自分の民の苦難を知らないふりされない方です。むしろ、神は民に逃れる道を備えてくださる方です。ある日、アブラハムは神の御声をいただきました。「あなたの愛する独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」すなわち「私のためにあなたの息子を殺せ。」という命令でした。アブラハムにとって、イサクはどんな息子だったでしょうか。アブラハムと本妻であるサラの間には、一生、子供がいませんでした。神は必ず息子をくださり、彼によって多くの子孫を与えると約束されましたが、アブラハム自身も妻のサラも、すでに白髪の年寄になっていました。子供をもうけるには、常識的にありえない状態だったのです。 しかし、神は2人の肉体的な限界と常識的な限界を跳び越え、結局アブラハムが100歳、サラが90歳になった時、息子「イサク」を与えてくださいました。人間の常識では、ありえない、かけがえのない貴い息子が、このイサクだったのです。なのに、今日、神はその貴い息子「イサク」を神への献げ物としてささげなさいと言われたわけです。子どものいない私には、子どもの死ということの意味がまったく分かりません。にもかかわらず、もし息子がいて、アブラハムのような命令を聞いたとしたら、神に逆らって信仰をあきらめるかもしれません。口先では簡単に何でも捧げますと言えるかもしれませんが、実際に、そんな命令があれば、絶対にそうはいかないと反発したでしょう。しかし、アブラハムは、私よりはるかに高いレベルの信仰を持っていたようです。神の御言葉に聞き従い、自分の大切な息子イサクを連れて神に言われたところに赴いたからです。神がこのような命令をされないと信じていますが、このような試練をうける時、私たちはどのように反応すれば良いでしょうか? 私はこの言葉を頼りにしたいと思います。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(1コリント10:13) 2. 神がアブラハムの信仰を確認された。 この出来事について聖書はこう語ります。「この独り子については、イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれると言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。」(ヘブライ11:18-19) 神はイサクを殺す意図でアブラハムに息子を捧げろと命じられたわけではありません。神はすでに何度もイサクという息子を通して、アブラハムの多くの子孫が出ると約束されたからです。それが前提になるためには、イサクは必ず生き残って、息子をもうけなければなりません。つまり、イサクが死ぬというのは、神の約束が成し遂げられないということです。アブラハムは主なる神の約束を信じ、イサクが死んでも神は必ずイサクを生き返らせ、約束を守ってくださると神を堅く信じたのです。最初から神の計画にはイサクの死などありませんでした。神は約束の結果であるイサクより、約束の源である神をより大切にするかどうか、アブラハムの信仰を確認することを望んでおられただけです。「アブラハム、アブラハムと呼びかけた。彼が、はいと答えると、御使いは言った。その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。」(創世記22:11-12) 神は本当に息子を殺し、焼き尽くす献げ物としてささげようとするアブラハムをご覧になり、彼の信仰を確認されました。そして、イサクが死なないように急いでアブラハムの手を食い止められました。神とアブラハムの約束は、イサクの生まれで終わりではありません。イサクの生まれは、神の約束のごく一部に過ぎません。神はアブラハムの信仰を確認することによって、イサクの生まれから始まった真の約束の成就を本格的に進めていかれました。神はご自分の民の信仰を確認される方です。その信仰の確認のために、時には私たちの人生に試練(試み、試し)を与えられる時もあります。アブラハムは、息子でさえ惜しまない信仰によって神からの試練をパスしました。神は、信仰の確認のために、私たちにもアブラハムのような試練をくださるかもしれません。私たちに、信仰の確認のための試練が与えられたら、私たちはどのように対応していけばいいでしょうか。ある意味で、私たちに与えられる苦難は、今日のアブラハムに与えられた神からの試練のようなものであるかもしれません。 3. イエス·キリストの苦難と試練を憶えて。 レント期間の終わりが近づいています。来る金曜日はイエス·キリストの十字架の苦難を記念する受難節となります。主なる神は、ご自分の民だけに試練を与え、苦しめる方ではありません。ご自分の独り子、御子イエス·キリストに「あなたの命を捧げて、わたしの民を救いなさい。」という残酷な試練を先にお与えになりました。そして、イエス·キリストは残酷な苦難の中でご自分の命を捧げ、神からの試練を堂々とパスされました。その結果、主イエス·キリストは教会をはじめ、この世のすべてをご統治なさる真の王になられたのです。神からの試練があるということは、私たちが神のお憐れみと愛との中にいるという証です。神は、決して愛しない者に試練を与えられず、試練を経験しない者は未来に向かって進むことができません。今日の本文に、このような言葉があります。「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。」(創世記22:13) 神は雄羊一匹を送られ、イサクに取って代わる献げ物にしてくださいました。神はご自分の民の試練の前に、先にご自分の息子、子羊と呼ばれるイエスを試されることで、ご自分の民が試練を乗り越えるように逃れの道を開いてくださったのです。イサクの身代わりに雄羊をくださったように、私たちの身代わりにご自分の独り子を犠牲にしてくださったわけです。そして、その方は復活されました。したがって、苦難にあう私たちはキリストが先に試練を受け、乗り越えたことを憶え、主イエスに従って前を向いて進んでいかなければなりません。神が主イエスを備えてくださり、その方によって私たちの進むべき道を開いてくださったからです。 締め括り 先週の水曜日には、九州中会の定期中会がありました。志免教会だけでなく、各地の教会、伝道所にも多くの試練と苦難があることが分かりました。しかし、今日の説教を準備しながら神が九州中会を、いかに愛しておられるかが分かりました。苦難と試練があるということは、神が私たちをあきらめずに愛しておられるという良い兆しだと思います。主なる神は、イエス・キリストによる恵みとして、私たちに苦難と試練を乗り越える勇気と力とを与えてくださるでしょう。レントの期間、そして受難節を過ごし、来週の復活節(イースター)を準備していきたいと思います。苦難と試練の末に復活されたイエス·キリストを憶え、私たち志免教会の兄弟姉妹たちも勇気を持って信仰生活を続けていかれたらと思います。主なる神の恵みが志免教会に連なる皆さんの上に豊かに注がれることを祈り願います。

主イエスの祈り(完)

マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 今日は、マタイによる福音書の山上の垂訓の中で、主イエスが教えてくださった祈りについての最後の説教をしたいと思います。私たちは、今までの説教を通して、他人に自分の信仰を見せつけるための祈りではなく、ひとえに「神と自分」という両者の真の対話として祈らなければならないということを学びました。つまり、主なる神に人格として接し「素直、淡白、明確」に祈ることが何よりも大事であるということでした。その後は主イエスが、ご自身で「主の祈り」を通して、どのような祈りが望ましいのかについて教えてくださいました。「神へのほめたたえと栄光を帰す祈り」「主の御心にあって私たちの必要を求める祈り」を通じて、キリスト者なら、神の御旨にかなう祈りを追い求めなければならないということが分かりました。今日は「主イエスの祈り」その最後の時間です。主イエスが教えてくださった祈りによって、私たちも主に倣って祈ることができれば幸いです。 1.こころみ(誘惑)にあわせず。 神へのほめたたえと栄光を帰す祈りの後、主イエスは「日用の糧をあたえたまえ」という、主の民の必要についての祈りも教えてくださいました。(前回の説教のあらすじ)しかし、その糧を求める祈りは極めて短かったです。「天にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という割と長い、讃美の祈りの後に「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」という、たった一言くらいの私たち自身の必要のための祈りが記されているだけです。もちろん、人には、この世を生きるための最低限の必要があります。そのために、人はお金を稼ぎ、それが度を越えて欲張るようになってしまいます。しかし、主はその必要というのを重く考えておられないようです。「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。」(2ペトロ3:10)いつか、この世の富は、主の裁きによって全て意味を失ってしまうという終末的なキリスト教のことわりのためではないかと思います。ですから、イエスは物質的な必要より霊的な必要のほうが、さらに大事であると考えてくださったわけでしょう? そのため、体の必要を求める祈りのすぐ後に霊的な事柄である赦しについての祈りがおかれているかもしれません。 そういう意味として、今日学ぼうとしている「こころみにあわせず、悪より救い出したまえ。」も「霊的な祈り」であると言えるでしょう。「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」(マタイ6:13前)、私たちの必要を求める祈りより、さらに長くて重要に書いてあるのが、前回の説教で学んだ「隣人への赦し」、そして今日の「こころみ(誘惑)と悪からの救い」です。今日の聖書の本文には「誘惑」と記してあり、志免教会が使う主の祈りには「こころみ」と書いてありますが、ギリシャ語の原文は同じ言葉を使っています。文脈によって意味が変わるからです。しかし、ヤコブの手紙1章13節は語ります。「誘惑に遭うとき、だれも、神に誘惑されていると言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。」神は誰にも悪意を持って誘惑「こころみ」に遭わせる方ではありません。 もし、神がこころみられるならば、それは苦難の中で民の信仰を成長させるための「善意の試み」であるでしょう。ですから、主の祈りに記されているこの表現は今日の聖書のように「邪悪な存在の誘惑」と理解するのが正しいと思います。それでは、邪悪な存在とは誰でしょうか? 2. 悪より救い出したまえ。 聖書は、人間が創造されるも前から、神に逆らって裁かれた「邪悪な存在」があったかのように語っています。(ユダヤの黙示文学、カトリックのエノック書、外典、偽典など) その邪悪な存在は「アダムとエヴァ」が善悪を知る実を食べて堕落するようにした「蛇」。あるいは、ヨハネの黙示録で主なる神と教会に敵対する「竜」。 または、エフェソ書2章2節の「空中に勢力を持つ者」のことかもしれません。 私たちは、この「悪い者」を分別しやすいと考えるかもしれません。「バケモノ」や「鬼」のような不気味な存在が思い起こされるからです。しかし、聖書は語ります。「サタン(神に逆らう者、邪悪な存在、悪魔)でさえ光の天使を装うのです。」(2コリント11:14) 悪は私たちの全く分からない方法で私たちを欺き、誘惑して、私たちが罪を犯すよう世を操っていきます。私たち教会は、その「悪」が支配する裁かれるべき世の中で、主の民として生きている存在です。私たちは自力で悪に勝つことも、そのしわざを見抜くこともできません。だから、私たちは、自分も知らないうちに悪の「誘惑」のもとにおかれてしまうのです。主イエスは、私たちの弱さがすでにお分かりで、主なる神が私たちを憐れんでくださり、助けてくださるように祈りなさいと教えてくださったのです。私たちは悪が支配する世に生きる神の民です。私たちは自力では、彼らを知ることも勝つこともできません。だから、私たちは主なる神の助けを求め、主によりかかって生きるべき存在なのです。 しかし、私たちは「悪」という存在、「邪悪な者」という存在が悪いからといって、彼らだけのせいにして、私には責任がないと言うべきではありません。前も何度もお話ししましたが、悪の誘惑を受け入れるかいなかは、他の誰でもない私たち次第だからです。悪魔は自分の手で悪を行うより、人間を誘惑して自分の支配下におき、操るのを好んでいるからです。その誘惑を受け入れることも、断ることも私たち自身にかかっています。しかし、その誘惑はあまりにも強烈なものです。他人を愛するより憎むのが容易く、他人のために自分が損するより、自分のために他人が損するのが良いと考えるのが人間の一般的な思いです。そのような誘惑の世だから、主イエスは悪の誘惑に陥らないように主なる神の助けを求め、その悪から自分を救ってくださることを祈りなさいと命じられたのです。聖書に記してある、主の御言葉を通じて、私たちはこの世が悪に支配されており、私たち自身もその悪の誘惑に負けやすいということが分かります。だから私たちは、毎日主なる神に祈らなければなりません。「罪を犯させる悪の誘惑から私たちを守り、自力で悪に勝てない私たちを救ってください。」祈りによって助けを求め、御言葉によって私たち自身を顧み、信仰によって悪の誘惑に抵抗する力を得て生きる私たちであることを祈ります。 3.国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。 最後にイエスはもう一度、神をほめたたえ、栄光を帰す祈りによって、主の祈りを終わらせられます。つまり、主イエスの祈りは始まりも、終わりも、主なる神をほめたたえ、栄光を帰す姿勢を保っているということです。私たちの祈りが、短くて慣用句的な「ご在天の父なる神さま、主の御名を讃美します。」のような一言で始まり、「あれもしてください、これもしてください。 主の名前によって祈ります。」で終わるのとは非常に違います。もう一度申し上げたいですが、祈りは神と自分、両者の対話なのです。夫婦、親子、恋人が「あれしてくれ、これしてくれ」ばかりで対話することはありません。時には励まし、愛すると言い、口げんかもし、日常の話もするように、私たちも神との対話である祈りの時に、神に愛を告白し、苦しみと辛さで嘆き、感謝もし、極めて平凡な話しもしながら、神を人格として接するべきです。 それにより深い関係を結んでいくのが望ましい祈り方ではないかと思います。それに加えて、成熟したキリスト者ならば、それらのすべての上に神をほめたたえ、栄光を帰す祈りで祈りの始まりと終わりを作っていくべきだと思います。この世が悪の支配のもとにあると言ったのですが、しかし、それは神の許可のもとにある事柄です。つまり、悪の支配にはいつか終わりがあるということです。彼らの権勢は限界があるということです。真の権勢は神のものだからです。そして、終わりの日、主はすべての悪を裁かれ、主の栄光の中にご自分の民を導かれるでしょう。国と力と栄光は唯一の主なる神のものだからです。私たちは、その国と力と栄光の主の民だから、主なる神に、何の差支えもなく祈ることが出来るのです。 締め括り 以上、5週間、マタイによる福音書の主イエスの祈りについて考えてみました。主の祈りを通じて、決まり文句みたいな私たちの祈りを改善し、神とのより深い対話としての祈りに発展させていきたいです。最近、我が教会には祈るべき課題がたくさんあります。肉的、心的に弱まっている方々が多く、主なる神への願いも多くなってきています。しかし、このような時こそ、主イエスの祈りにならって、より一層主をほめたたえ、栄光を帰し、主のお導きを信じて、信頼を持って祈っていきたいと思います。主なる神が志免教会のすべてを、一番御旨にかなう方向に導いてくださることを願います。私たちの祈りの中に働いておられる神に信頼します。

主イエスの祈り(4)

マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 前回の説教の復習をしてから始めましょう。イエスは祈り方について、人々に見せつけとしての祈りではなく、ひとえに父なる神との対面としての祈りをすべきだと教えてくださいました。また主なる神に人格的に接し「素直、淡白、明確」に祈りなさいとも命じられました。イエスは、そのような祈りとはどういうものなのかの見本として「主の祈り」を教えてくださいました。主の祈りは神に栄光を帰す序盤の祈りと、私たち自身の願を求める中盤の祈り、最後に、またもう一度、主なる神に栄光を帰す終盤の祈りに分かれます。前回の説教で、私たちは序盤の祈りである「天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」(マタイ6:9-10)について学びました。それによって、私たちはまず神を褒めたたえる祈り、つまり、神に栄光を帰す祈りが何よりも優先であることが分かりました。私たちの祈りが、もっぱら自分の必要だけを求める祈りではなく、まず神に栄光を帰す祈りになることを願います。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)の言葉を憶えたいと思います。今日は主の祈りの中盤である私たちのための祈りについて話してみたいと思います。 1. 我らの日用の糧を今日も与えたまえ。 前回の説教で、私たちが「願い求め」の祈りばかりしているのではないか、反省する必要があると話しました。実際に私たちは神を褒めたたえ、栄光を帰す祈りより、自分の必要のための「願い求め」の祈りをもっとしているかもしれません。しかし、「願い求め」の祈りが、悪いとは言えません。私たちは主イエスによって、神の子となった存在です。だから、幼い子供が親に自分にかかわるほとんどのことを願い求めることと同じように、私たちが主なる神にさまざまな必要を求めるのは当たり前なことだと思います。ただし、親が子供のすべての願い求めを受け入れてくれないことと同じように、神も私たちの祈りの中で御旨にかなう祈りであれば受け入れてくださり、まだ時が満ちていないか、御旨にかなわない祈りであれば断られる場合もあることを忘れてはなりません。だから、私たちは、主なる神に「願い求め」の祈りをしても問題はありません。ただし、主の御心によって、私たちの祈りが叶わない時もあるということを理解しつつ祈るべきです。イエスはまず神に栄光を帰す序盤の祈りを教えてくださった後、私たちの生活に必要な「願い求め」の祈りについても語られました。その最初は「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」(マタイ6:11)です。「日用の糧」とは、ただの食べ物を意味するものではなりません。私たちが生きるために必要な最小限のものを意味します。 主は言われました。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(マタイ6:25-26)基本的に主なる神の民は、主によって生命をいただき、一日一日を生きる存在です。だから、自分のために必要以上の富を欲しがったり、必要以上にケチになったりするより、神に生命をいただいて、一日一日守られているという信仰を持って、心の余裕を持って、生きるべき存在なのです。そのため「日用の糧」を求める祈りは、単純な食べ物だけを求める祈りではなく、神が私たちを毎日導いてくださることを信じる信仰にあって、そのお導きを再び確認する祈りであると言えるでしょう。私たちは皆、自分の能力や力によって生きていくと思いやすいですが、主なる神の御守りがなければ、いつでもなくなり得る弱い存在です。私たちの人生のすべてにおいて、何一つ神の守りと導きのもとに置かれていないものはありません。神が毎日新しい生命を与えてくださることに感謝し、今日も生きることが出来るように導いてくださったことに感謝して「日用の糧」のまことの意味を理解していきたいです。 2. 我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。 次に主イエスは「赦し」について語られます。2014年夏ごろ、愛知県の小牧市にある先輩宣教師の教会で、3ヶ月間、短期宣教をしたことがあります。2012年の夏に最初訪問して約10日間過ごし、約2年後にまた訪問して日本語を学習しながら先輩宣教師を手伝ったのです。当時、先輩夫婦は韓国語教室をやっていました。2012年に訪問した際、韓国語教室の生徒、AさんとBさんは、いつも一緒に出席し、とても仲良くしていました。終始一貫和気あいあいな二人を見ながら「素晴らしいお友達二人」と思いました。ところが、2014年にもう一度、先輩の韓国語教室に訪問した時、Bさんは教室に出席していませんでした。Aさんに理由を聞いたら、Bさんと絶交したと言われました。小さな意見の違いで口げんかし、お互いに赦し合うことができず、結局は絶交したというわけでした。憎しみは小さなことから始まります。ちょっとした口げんかのような小さな理由から、心の中に憎しみが芽生えてくるのです。まもなく、その小さな憎しみは大きな木のように育ち、葉が茂るようになります。そして、その憎しみは最終的に人間関係を壊します。ですから、私たちの心の中の憎しみは小さな芽の時に抜いて無くさなければなりません。 特にキリスト者はなおさらです。私たちも人間なので、誰かを憎むようになりうるでしょう。しかし、聖書は語ります。キリスト者である私たちは、すでに神から大きな赦しをいただいていると。そのため、私たちは、自分が神からいただいた大きな赦しを憶え、自分に過ちを犯した隣人を赦し、愛しなければならないのです。確かにそれは、そう簡単なことではないかもしれません。しかし、自分がすでに神から、この上なく大きな赦しをいただいたと認めるならば、私たちは、絶対に赦さなければなりません。私たちが神に犯した罪が、私たちの隣人が、私たちに犯した過ちより、はるかに大きいからです。マタイによる福音書18章に、それと合うたとえ話があります。一万タラントンを借金(1タラントン=6,000デナリオン)したある王の家来と、百デナリオン借金をした家来の仲間の物語です。(マタイ18:21-35) ある王に一万タラントン借金した家来が返済しなくて良いと赦されたのですが、帰宅の途中に100デナリオンを借金した仲間に出会ってお金を返せと言い、返すまで牢に入れてしまいました。すると、王が1万タラントン借金をした家来のことを聞いて怒り、彼を呼びつけて借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡しました。そして、そのたとえ話の最後にはこんな言葉が記されています。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタイ18:35) 「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」という祈りは「私が先に隣人のことを赦したから、主も次に私のことを赦してください」という意味ではありません。私たちが主なる神から、すでに大きな罪責を赦されたから、主に赦された者にふさわしく生きたいという誓いの祈りなのです。私もこの説教を書きながら、自分のことを顧み、反省するようになりました。最近、私たちの大切な姉妹が、心の病で困った状況に置かれています。ここ数年、教会で大変な奉仕をして、そして、家族との間の事情で、何よりも息子さんの死で、すごく悩んでおられたからだと思います。最初、症状が現れたとき、私は彼女にひどい暴言を言われました。その時は心の病を知らなかったから、大きく傷つき、彼女にがっかりするようになりました。しかし、その後、彼女に深い心の病があることが分かり、そのがっかりは消えてなくなりました。そして、憐れむべきという心になりました。彼女のために何をすれば良いのだろうか、いろいろ工夫しています。彼女に言われた暴言や行動より、私が神に犯した罪の方が、さらに大きいと聖書は語ります。しかも、彼女は病で苦しんでいます。自分がすでに神に赦された人だということを信じているから、赦しの心、哀れみの心を持って彼女に接していきたいと思います。自分の気持ちによって誰かを憎んで赦さないならば、父なる神も、赦されないということを憶えて、隣の人々を愛していくべきだと誓うようになりました。 締め括り 主の祈りは、このように私たち自身のために祈る時にも、自分の欲望のための祈りではなく、神の御旨にかなう範囲内で祈ることを教えてくれます。立派に成長した子供は、親と会話する時に自分の欲望を求めて言いません。両親に悩みはないか、体と心は元気か、必要なものはないか、いろいろ配慮します。自分の欲望に充実な会話は、分別のない幼い頃の両親にした甘えだけで十分です。成熟した信仰者は、自分の必要だけのために祈りません。まずは主なる神を褒めたたえ、神に栄光を帰す祈りをしてから、自分の必要のための祈りを主の御旨にかなう範囲内でします。そんな意味として、主の祈りは最も完全な祈りではないか、もう一度考えるようになります。私はまだ祈りが難しいです。だから、歩きながらも、運転しながらも、寝る前に横になっても、神に声をかけ、それを祈りとしてする場合が多いです。その時、心のすべてを主に打ち明けます。そして、聖書の御言葉の教え、時には心の中に響かれる最も望ましい思い、みんなに害を及ぼさない思いを、聖霊なる神の御声だと信じて生きようとしています。皆さんにとって祈りとは何でしょうか? 主の祈りを通じて、望ましい祈りとは何かについて考えていきたいと思います。

悔い改めの実を結ぶ。

ルカによる福音書3章1~20節(新105頁) 前置き 私たちは今、イエス·キリストの苦難と復活を記念するレント(四旬節)の期間を過ごしています。レントはイエス・キリストの苦難を記憶するために「灰」(イスラエルの文化で、灰は涙と悔い改めのイメージを持っている。)を額に塗って祈る「灰の水曜日」(2月14日)からイエスの復活を記念する「復活節(イースター)」(3月31日)までの約40日間を意味します。この期間は大昔から代々の教会がイエスの苦難と復活とを失念しないで、記念するために守ってきたキリスト教の長い歴史の伝統であります。もちろん、聖書に記録された、神の命令ではありませんが、代々の信仰者たちは主の苦難と復活を黙想し、自分を顧みる機会として守ってきた大切な伝統なのです。今日は「主イエスの祈り」の連続説教を休んで、レント期間にふさわしい説教によって聖書の言葉を話してみたいと思います。私たちの罪を振り返り、信仰を堅くするレントになることを祈ります。 1。希望のない時代にも主の御言葉は与えられる。 「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」(ルカ3:1-2) 今日の本文は、当時のイスラエルが、どのような状況であったのかを詳しく説明しています。ティベリウスはローマの第2代の皇帝です。ローマ帝国が地中海地域を掌握し、他の国々を植民地にしている時代でした。イスラエル地域には、総督のローマ人「ポンティオ・ピラト」が派遣されており、他民族出身のヘロデ家の人々がイスラエルを分けて支配していました。ヘロデ家はイスラエル人の王女と結婚したエドム民族(アブラハムの息子イサクの長男エサウの子孫) 出身者の子孫だったので、イスラエル人はヘロデ家の支配に抵抗がありました。例えば、もし、日本がアメリカの植民地に転落して滅び、他国出身の乱暴な王が天皇家の女性と結婚してアメリカの許可を受け、日本を厳しく支配するとしたら、日本人の心はどうなるでしょうか? それが当時のイスラエル人の心だったのです。 だけでなく、イスラエル人を代表する「大祭司」はローマの権力にこびついて、権力を振るい、律法もまともに守っていませんでした。政治、経済、宗教的にイスラエルは完全に抑圧下にあったわけです。何の希望も、力もない状況です。イスラエルの民衆は何もできず、指導者はイスラエル民族の味方でなかったのです。しかし、そのような暗黒時期にも主なる神は御言葉をくださいました。「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」阿鼻叫喚のような残念ばかりの状況でも、主は御言葉をくださったのです。幸いなことに、現代を生きる私たちには、主の御言葉が記されている聖書があります。悲しみと苦しみにより、嘆きばかりしては変わることが何一つありません。困った状況の時こそ、主の御言葉を黙想しつつ祈るべきです。私たちの最も困難な時が、主の御言葉から最も大きな恵みを受ける機会であるかもしれません。神は洗礼者ヨハネを通して、主の御言葉をくださり、最終的には「神の御言が肉となった。」と言われるイエス·キリストを遣わしてくださいました。 2.悔い改めの実を結ぶ。 「そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。我々の父はアブラハムだなどという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(ルカ3:7-9) ところで、その主の御言葉はやさしいものではありませんでした。「蝮の子らよ。」この言葉は、当時のイスラエル地域にあって、最も厳しい毒舌だったと言われます。しかも、受洗のために来ている信仰者たちへの毒舌です。新約聖書のヘブライ人への手紙には、次のような言葉があります。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブライ4:12) 神は決して慰めだけの方ではありません。 時には、間違っている子供を厳しく戒める父親です。良い父親は無条件に慰め、子供の過ちを見過ごすものではありません。小遣いだけたくさんあげて、子供がどうなっても何の干渉もない無関心な存在でもありません。是非を問うて、正しい道に進むように助けることこそが本当に良い父親のあり方です。 神は罪を犯した子供が自分の罪に気づいて告白し、悔い改めることを望んでおられます。悔い改めしないからといって、愛していないわけではありません。神は私たち人間という存在自体を愛しておられます。「悔い改めをしたから愛し、悔い改めしなかったから愛していない。」のような条件的な方ではありません。しかし、罪を悔い改めない存在は神の恵みに入ることができません。自らの罪を悔い改める時に、より大きな神の恵みに入るようになるのです。したがって、悔い改めは神と民のお交わりのための最も基本的な段階です。だから悔い改めなければなりません。牧師は皆さんの幸せや良い気持ちだけのために、甘い説教をしてはいけません。時には聖書の御言葉に基づいて、皆さんがプレッシャーを感じられるほど、厳しい説教もしなければなりません。それにより、私と皆さんが悔い改めに進むことができるように、御言葉による正しい道を提示しなければなりません。私たちにまだ悔い改めていない罪があるかどうか考えてみましょう。そして、このレントの間、私たちの罪を赦し、父なる神との和解のために代わりに死んでくださったイエス・キリストの愛を憶えましょう。レントは罪を顧み、悔い改める時間です。ヨハネの手紙一の1章の言葉「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」を記憶しましょう。 ところで、洗礼者ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言います。これはどういう意味なのでしょうか? 「そこで群衆は、では、わたしたちはどうすればよいのですかと尋ねた。ヨハネは、下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよと答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、先生、わたしたちはどうすればよいのですかと言った。ヨハネは、規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、このわたしたちはどうすればよいのですかと尋ねた。ヨハネは、だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよと言った。」(ルカ3:10-14) 悔い改めは反省や後悔とは違います。これまでしてきた間違いをやめ、より良い信仰の生き方に変わっていくことです。例えば、虚しい欲望ばかりだったら欲望を減らし、人を憎んでいたら憎しみを減らし、嫉妬が多かったら嫉妬を減らすことです。早速に変わることは難しいですが、引き続き、主の御言葉にふさわしく変わっていこうとの志を持って生きるのです。イエス·キリストはご自分を嫌い、憎み、殺そうとしている者たちを赦してくださいました。十字架上でも「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られたのです。レントの期間を通して、このイエスの生き方に倣い、私たちも悔い改めつつ自分の間違いを減らしていくよう力を尽くしましょう。その中に悔い改めにふさわしい実は結ばれていくのではないでしょうか。 3.イエスだけが神から遣わされたメシア。 洗礼者ヨハネが悔い改めを宣言したとき、人々は彼が神から遣わされると記されたメシアではないかと思いました。しかし、洗礼者ヨハネは、さっそく彼らの心を見抜いてこう言いました。「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」(ルカ3:16)人々には絶対的な人に憧れる傾向があります。「自分はできないが彼はできる。」となりやすいです。それで、時には誰かを必要以上に憧れるようになりがちです。数多くの異端団体は、リーダーに憧れ、彼を神にしてしまった堕落の結果です。神がお許しになった真のメシアは「イエス·キリスト」おひとりだけです。誰もイエスに代わって神とか、主とか、御使いとかになることは決してできません。ですから、ある団体の代表、志免教会で言えば牧師にあまりあこがれたり、拠り所にしたりしないでください。宗教指導者はただ一介の人間に過ぎない存在です。いつでも失敗し、躓きやすいただの人間なのです。神はひとえに「イエス·キリスト」だけをメシアとして認めてくださいました。皆さんが頼れる唯一の存在は誰でもない、イエス·キリストだけです。 締め括り 3月が始まりました。3月31日がイースター礼拝の日ですが、それまでレント期間は続きます。レントだからといって、それにかかわる説教ばかりするつもりではありませんが、それでも、皆さんは、この3月がレントであることを憶え、私たちの罪を赦し救ってくださるために来られたイエス・キリストの苦難と復活を記念されることを願います。苦難が大きければ大きいほど、主の御言葉の力もさらに大きくなります。 主の御言葉を頼りにしましょう。悔い改めれば、悔い改めるほど、神の恵みは深まります。悔い改めの生活を見に付けましょう。イエス·キリストおひとりだけが私たちを救い、助けになってくださる唯一のメシアです。イエス·キリストだけを私たちの拠り所にしましょう。今年のレントの間、主なる神が志免教会の兄弟姉妹に豊かな恵みと愛とを与えてくださるように祈り願います。

主イエスの祈り。(3)

マタイによる福音書6章5~13節(新9頁) 前置き 私たちは前回の説教で、主の祈りの最初の部分について取り上げて話しました。まず、私たちは父なる神が天におられる方であり、その天とは被造物が近づくことのできない神の権能を意味するものであると学びました。さらに感謝すべきことは、被造物が近づくことのできない、天におられる権能の神が、イエス·キリストによって私たちの真の父になってくださったということでした。また、私たちはその神の御名を聖別して崇めるべきであるとも学びました。聖書において「名前」とは、ある存在そのものをあらわす大事なものです。神の御名が崇められるということは、神が聖別された存在で、尊敬と尊重をささげられるべき方であるということを意味します。私たちは全能と権能の神を父としている主なる神の民です。私たちはこの世がしない、また、できない神への尊敬と尊重を通して神の民にふさわしく生きなければなりません。イエスは主の祈りを通して、私たちの欲望と願いだけを望むわけではなく、そのすべてのことに先立って神に栄光を帰すことを優先的にすることを教えてくださいました。主の祈りを通じて教えていただいたイエスの祈り方によって、私たちの祈りにも良い変化がありますように祈ります。 1. 御国を来たらせたまえ。 その次、イエスは「御国」が到来することを祈ります。「御国(神の国)」私たちは天国や楽園を考えがちです。実際、御国には天国や楽園の意味も含まれています。しかし、より明確に言えば、「御国」とは、神のご支配が完全に成し遂げられるすべての状況と場所を意味します。前の説教で「御国すなわち神の国」は場所ではなく概念であると申し上げたことを覚えています。どこかに行ったら「御国」があるということではなく「神の御心が成し遂げられるすべての状況と場所」がすなわち神の国、御国になるのです。しかし、何度も申し上げましたように、この世は、主なる神に逆らい、神を無視するところです。全人類が神を知り、神を信じ、互いに愛しあい、協力しあい、助け合い、いつも喜び、絶えず祈り、すべてにおいて感謝して生きることが神の御心に含まれている人のあり方ですが、この世は反対に神を冒涜し、人間互いに憎み合い、争い合い、破壊しあい、悲しみと苦しみを作り上げていく、感謝のないところです。この世は神の国(御国)と全く逆の方向に向かっているのです。 このような世が神によって変わり、神の御心にふさわしい場所になっていくことが神の民、教会の祈りの課題にならなければなりません。そして、その神の御心を完璧には出来ないが、何とか役に立つようにと努力して生きる教会の生き方が、御国の到来を願う私たちのあり方ではないかと考えるようになります。まことに御国が来ることを願います。みんなが喜び、悩みもなく、悲しみもなく、幸いと幸せに満ちた、そのような世になることを祈ります。すべての人々が神を知り、信じ、頼って生きる主なる神の王国になることを祈ります。しかし、現実はそうでないため、私たちは御国が一日も早く到来するように神に祈り求めて生きなければならないでしょう。まことの神の国はイエス·キリストが再び来られる再臨の日に完成すると言われます。しかし、私たちは、その時がいつなのか分かりません。聖書には、ただ「父だけがご存じである。」と書いてあるだけです。しかし、その日は盗人のように不意にやってくるでしょう。その日が来れば、私たち皆が真の平安と幸せを享受することが出来るでしょう。その日を待ち望みつつ祈り、現在を生きていきたいと思います。 2. 御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。 イエスは、その次に神の御心が天において成し遂げられたように、地においても成し遂げられることを祈られます。「御心が天において成し遂げられる。」とは、どういう意味でしょうか? ここでの「天」は、先ほどと違って御国を意味する表現です。(しかし、同じく神の権能と関りがある。)「御国」と「御心」は非常に密接な関りを結んでいます。私は神の国がある特定を場所を意味するのではなく「神のご支配が成し遂げられるすべての状況と場所である」と話しました。「神のご支配が成し遂げられる」とは、言い換えれば「神の御心が成し遂げられる」になるのです。したがって「御国」は神の御心の成就を意味します。神の御心が何か、私たちは明らかにはわかりませんが、少なくともすべてが神のご計画通りに成し遂げられることであるのは分かります。そんな意味として、キリストが遣わされ、この世のすべての罪の問題を解決し、「救い主」になった時、神の御心はすでおおかた成し遂げられたと言えるでしょう。というわけで、イエスは十字架の上で「成し遂げられた。」と言われたわけでしょう。(ヨハネ福音19:30)イエスは罪人の過去、現在、未来のすべての罪を解決し、罪と死の権勢に永遠に勝利することで、神の御心を成し遂げられました。これを「御心が天において成し遂げられた。」と表現することが出来るでしょう。 ただし、神のご計画によって、まだ私たちが生きている、この世では神の御心が成し遂げられていないように見える時もあります。まだ戦争があり、憎しみがあり、悲しみがあります。しかし、それらすべては神のコントロールのもとにあります。神はすでに罪と死の権勢に勝利されました。また、神は、ご計画に従ってイエス·キリストを通して、この世から悪を処断し、神の完全なご支配を完成していかれるでしょう。御国と御心はすでに成し遂げられていますが、私たちが生きているこの世では、まだ、その姿を完全に現わしていないだけです。天において成し遂げられた主の御心は、いつか、私たちが生きる地においても必ず成し遂げられるでしょう。したがって、私たちは「すでに」と「まだ」の間に生きている存在です。神はこの地にあって、すでに成し遂げられた御国と御心を、その民である教会が現わして生きることを望んでおられます。神がこの世を愛されたように、教会もこの世の回復のために仕え、神がこの世を憐れんでおられるように、教会もこの世に支えて生きるべきなのです。イエスは神が天において、すでに成し遂げられた御心を、主の民である教会によって、地(この世)においても、成し遂げられることを望んでおられるのです。ですので、教会は神の御心を大事にし、祈りと実践によって生きるべきであります。 3.教会は御国と御心の成就を待ち望む共同体。 先週の水曜日、私たちの大事な姉妹が精神的、肉体的な痛みを訴えて入院することになりました。姉妹が信仰によって成長することを願い、熟慮して会計の奉仕をお願いしたのですが、むしろ、それが姉妹に大きなストレスになってしまったようです。姉妹の状態にあらかじめ気づいていなかったこと、配慮しなかったことに大きな責任を感じます。姉妹にとって、志免教会が御国と御心を伝える共同体になれなかったと思わされ、すごく心が痛いです。しかし、私たちはそれにもかかわらず、主なる神が志免教会と姉妹の人生を憐れんでくださり、今までと同じように、これからも見守ってくださることを信じます。 そして、いつか主によって姉妹が回復し、笑顔でまた再会することを信じます。今はたとえ挫折し、絶望しようとも、変わらず神が主の御心を成し遂げ、御国を来たらせてくださると信じます。それが志免教会の唯一の希望だと思います。だから、私たちは今日も主イエスのように祈らなければなりません。「御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」その信仰によって祈る時、御国と御心の成就を待ち望んで生きる時、神は主イエス•キリストによって私たちに答えてくださると信じます。 締め括り 先週の説教と今日の説教に取り上げた主の祈りの部分をもう一度読んでみます。「天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」このように主イエスの祈りは神への讃美と栄光を帰す言葉から始まります。その後はじめて「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」と私たちのための祈りを始めるのです。私たちは普段「ご在天の父なる神様、主の御名を讃美します。」のような、慣用句的な表現を語り、すぐに自分の願いを言い出す場合が多いです。私たちはただ主の栄光だけを思って、長く祈ったことがありますでしょうか? 私自身も会心して、神のもとに戻ってきた時以外はほとんど、そのような祈りはしていないような気がします。私たちの祈りの半分を神への讃美と感謝だけで祈ることができる信仰を願います。もちろん教会での公の祈りの時は無理かもしれませんが、少なくとも一人で祈る時は、時々そのような祈り方が出来たら幸いです。それが私たちの主イエス・キリストの祈り方だったからです。主の祈りの方法を見習って神への讃美と感謝と栄光を帰す祈りをしていく志免教会の兄弟姉妹であることを祈り願います。