信じる。走る。 語る。

ヨハネによる福音書20章1~18節(新209頁) 前置き イエス·キリストの復活を讃美します。世のすべてを無意味にする死にご勝利なさった主イエスが復活されました。天地万物が凍りつく冬が終わり、暖かい春が訪れてくるように主イエスは死から帰ってこられたのです。復活節は何の希望も許さない死に勝利され、新しい始まりを与えてくださった主イエスの復活を記念する日です。世の人々はこの日をイースターと呼んでいますが、イースターはアングロサクソン族の春の女神の名前に由来する呼び方です。初期の教会が異教徒の祝日をなくし、キリスト教の復活節に振り替えることで生まれた異教徒の祝日の残滓に過ぎません。ですから、この世が「イースター」と呼んでも、私たちはこの日をイエス·キリストの「復活節」とはっきり言い、記念すべきだと思います。今日はヨハネによる福音書20章の物語を通じて、主イエスが復活された日の朝の出来事について話したいと思います。2000年前のイエス物語を通して、2000年経った今を生きる私たちにとって、主イエスの復活とは、どういう意味なのかを考えてみたいと思います。 1.イエスの復活とイエスの人々の反応 今日の本文の朝は、イエスの人々にとってそれほど愉快な時ではありませんでした。その理由は、3年前に突然登場し、偉大なラビと呼ばれ、神の御言葉を宣べ伝え、病人を癒し、死者を生き返らせることで、ローマ帝国と悪い権力者たちの暴挙に苦しんでいるイスラエルに希望を与えた「イエス」という存在が3日前に十字架の上で最期を迎え、今や墓の中にいたからです。同時に世の人々はもうイエスの時代は終わり、おそらく、彼が人々の記から消えていくはずだと思っていました。ただ、彼に従った人々は最後までイエスに仕えようと心を籠めていました。その朝、マグダラのマリアという女は死んだイエスを記念するために朝早くイエスの墓に訪れました。ところが、墓に着いた彼女は驚愕してしまいました。大人の男性でも開けにくい重い石の門が取り除けてあり、イエスの遺体は見えなかったからです。もしかしたら、イエスに反対していた者たちが悪意を抱いて遺体を隠した可能性もありました。戸惑った彼女は、すぐに主の弟子たちに行き、イエスの遺体がなくなったと告げ(原文として語り)ました。その言葉を聞いてペトロと他の弟子(おそらく、弟子ヨハネ)は、急いでイエスの墓に向かって走りました。案の定、イエスの遺体はありませんでした。ただ、イエスの遺体を包んでいた亜麻布が置いてあるだけでした。その時になって彼らはイエスの遺体がなくなったことを信じ、絶望して家に帰っていきました。そして、マグダラのマリアは、すべてを失った人のように、墓の前に立って泣きばかりしていました。 しかし、彼らが見落としていることがありました。生前のイエスははっきり言われました。「イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」(マタイ16:21) イエスは他の誰でもない主なる神のご意志により必ず死んで必ず生き返ると何度も言われました。しかし、誰も常識を飛び超えるその言葉を信じることができませんでした。もし、誰でもその言葉を信じていたら、イエスの遺体がなくなった、この出来事を涙と絶望ではなく、喜びと希望の兆しとして受け止めたに違いありません。マグダラのマリアは絶望してイエスがなくなったことを「告げ(語り)」ました。二人の弟子たちはイエスがなくなったことを確認するために「走り」ました。そして、彼らはマグダラのマリアの絶望混じりの証言を「信じ」ました。彼らは「語り、走り、信じ」たのです。しかし、それらは自分たちの絶望と失敗だけに覆われ、主の約束が信じられない、間違った「語る、走る、信る」だったのです。彼らはまだイエスが言われた「三日目に復活する」という約束の真の意味を理解していなかったのです。主なる神は、聖書を通して、常に語っておられます。「わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福する。わたしを信じなさい。」しかし、私たちは主の御言葉を完全に受け入れることができない弱さを持っています。イエスが復活した朝、その時の弟子たちとマグダラのマリアも私たちと同じ反応だったのです。 2. イエスの復活が持つ意味。 マグダラのマリアは、2人の弟子が家に帰った後にも、イエスの墓の近くに残っていました。彼女は相変わらず泣いていました。もうイエスの教えも、癒しも、弟子たちの活動も、自分の人生もすべてが終りそうでした。そうするうちにもう一度涙を流しながら身をかがめて墓の中を見ると、彼女は驚いてしまいました。「イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。」(ヨハネ20:12) 神の二人の天使がイエスの遺体が置いてあったところの頭側と足側に座っていたからです。聖書の学者たちは語ります。イエスの遺体が置いてあったところの上に座っている二人の天使の場面、それは旧約時代の聖幕と神殿にあった神の掟の箱を象徴するものだと。旧約の掟の箱は、神の御言葉である十戒の石板を保管する聖なる箱でした。そして、その蓋には神の天使を意味するケルビム形の二つの像がありました。そして、掟の箱は「神の足台」(詩99:5)と呼ばれていました。つまり、掟の箱を置いた聖幕と神殿の至聖所は、主なる神のご臨在を象徴する聖なる場所だったのです。ソロモン王の時代に、掟の箱は聖幕から神殿に運ばれ、イスラエルが滅ぼされた紀元前6世紀には、掟の箱は他国の侵略によってなくなりました。しかし、今日の出来事によって、主なる神は、その昔なくなった掟の箱の恵みをキリストの復活によって、再び、この世に与えてくださったのです。それは、死が支配すると言われる墓から始まり、主イエスの復活によって、神の恵みは墓の外に広がっていきました。死に満ちていた墓は、もはや、キリストによって、神の恵みに満ちた至聖所に変わったわけでした。 「イエスは言われた。婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。マリアは、園丁だと思って言った。あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。イエスが、マリアと言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、ラボニと言った。先生という意味である。」(ヨハネ20:15-16) マリアが依然として泣いている時、後ろから誰かが声をかけました。マリアは彼を園丁だと思いました。彼女は泣きながら、イエスを探していました。その時、イエスは言われました。「マリアよ」その時、マリアの目が開き、彼が三日前に死んだ自分の主イエスであることに気づきました。すべての人がもう終わりだと思ったその朝、死んだイエスは御言葉通りに三日目によみがえられてマリアの目の前に立っておられました。旧約聖書のなくなった掟の箱の御言葉が神殿に帰ってきたかのように、二人の天使が守っている墓の外には神の真の御言葉であるイエス・キリストが死に打ち勝ち、帰ってきておられたのです。そして、言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上ると」(ヨハネ20:17) イエスの復活は死にご勝利なさった主なる神の権能であり、地上の民たちを神と再びつながせる神のご臨在の象徴でした。イエスの復活によって、希望のない、この世に神とつなぐことが出来る新しい道が開かれたのでした。 締め括り 今日の説教題は「信じる。走る。語る。」です。このタイトルは、今日の本文の序盤に出てくるマグダラのマリアとペトロ、ヨハネの行為とかかわりがあります。マリアは弟子たちにイエスの遺体がなくなったと告げ(語り)ました。ペトロとヨハネはイエスの遺体がなくなったことを確認するために走りました。そして、確認してイエスの遺体がなくなったことを信じました。彼らはなくなったイエスの遺体という前提から少しも抜け出すことができませんでした。彼らはイエスの復活が信じられなかったのです。しかし、復活されたイエスが彼らに再び現れ、以後ペンテコステになっては、彼らに聖霊を注いでくださいました。その時、彼らはイエスの復活を信じ、全生涯をイエスのために走り、イエスの復活と福音を宣べ伝えるために語りました。同じ行為でも、全く違う結果につながったわけです。キリスト教において復活は、死者がよみがえることだけを意味しません。イエスによってキリスト者として生まれ変わることでもあります。イエスは死と復活を通して、この地上に神の憐れみをもたらしてくださいました。掟の箱に象徴されていた主なる神のご臨在が、イエス·キリストの復活によって、再びこの地に許されたのです。主イエスの復活を記念する今、私たちはイエスへの信仰によって信じ、イエスに仕える熱望によって走り、イエスの復活を宣べ伝える福音のために語らなければなりません。私たちの生涯を通して、神と世の中をとりなしてくださるイエスを信じ、主の栄光のために走り、主の福音を語る私たちであることを祈り願います。