草は枯れ、花は散るが。

箴言16章9節(旧1011頁) ペトロの手紙一1章23~25節(新429頁) 前置き 「人事を尽くして天命を待つ」ということわざがあります。中国南宋時代、胡寅(こいん)という儒学者が残した言葉で、「人間の能力で可能な限りの努力をしたら、あとは焦らず静かに結果を天の意思に任せる」という意味です。南宋時代は西暦1098年~1156年頃ですが「人事を尽くして天命を待つ。」と似たような聖書の言葉がそれより数千年も前からありました。南宋時代は中国宣教が始まる数百年前ですので、聖書の影響で生まれた言葉ではないでしょうが、「人事を尽くして天命を待つ」という思想は古今東西を問わず、人々の一般的な認識だったようです。人事を尽くして天命を待つ。もしかしたら、とても聖書的な言葉であるかもしれません。今日は、箴言の言葉を通じて聖書的な「人事を尽くして天命を待つ」について考えてみたいと思います。 1. 自分の思い通りにならない人生。 何日前、妻と会話する時、心に迫ってくることがありました。「最近のあなたは来日したばかりの頃より冷めているよね」でした。最初、協力宣教師として赴任した頃は、情熱的に宣教と伝道を考え、熱心に説教と祈祷会の準備をしたあまり、過労で倒れそうに見えたが、最近はそんなに熱くないということでした。考えてみれば、本当にそうかもと思いました。志免教会に来て1年あまりの頃、私の説教は50分に近いほど長く、水曜祈祷会を2時間した時もありました。まるで、明日はないかのように何でも熱心だったと思います。しかし、時間の経ちにつれ、教会の人数は増えず、特にコロナ時代を経て、明確な変化なしに高齢化は進み、何人かの新しい方々は落ち着かず遠ざかってしまい、いろんな状況にがっかりするようになり、その結果、情熱も以前より冷めているかもしれないと思いました。最初の期待とトキメキが消えていきつつ、毎週の説教作りと皆さんとの最小限の交わり、中会の仕事だけで満足する消極的な自分になっているのではないか顧みることになりました。 なぜ、そうなってしまっただろうか、じっくり考えてみたら、「時間の経ちにつれて人は増えるだろう。目に見える結果があるだろう。」という自分の願いが叶わなかったのが原因ではないかと思います。いつも、教会は神の御心による共同体だと説教し、私自身もそう考えていましたが、結局、私は自分自身の願いが早く叶わないことで、知らず知らずに疲れてしまったかもしれません。私だけでなく、多くのキリスト者が自分の思い通りにならない現実のため、疲れてしまうかもしれません。長い間の祈りに神の答えは聞こえず、大きな変化もない人生に両手上げする人もいるかもしれません。長年、信仰生活をしてこられた、皆さんにもそのような経験がおありかもしれないと控えめに考えてみます。本当に私たちの人生は最初の計画や考えと違う結果につながる場合が多いです。そのような状況の中で、私たちは主なる神が本当に自分の祈りを聞いておられるのか、さらには神という存在が本当にいるのかと、信仰的な懐疑に陥るようになるかもしれません。しかし、人々のこういう悩みが、すでに遠い昔にもあったかのように、箴言はこう語っています。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」(箴言16:9) 2. 人間の計画と神の計画。 以上の言葉は、「人間が自分の道を計画すれば、神がその道を備えてくださる」のふうに読まれるかもしれません。しかし、原語のニュアンスはそれとは異なります。「人の心は積極的に自分の道を計画する。しかし、結局その道は主の御心にかかっている。」のほうが原文により近い意味だと思います。つまり、人が自分の心に立派な計画を立てても、結局そのすべては神の御心によって定められるということです。だから、私たちが計画を立てても、その計画通りにならないのは当然であるかもしれません。自分は100歳まで生きると決めても、今夜主に召されるかもしれないのが私たちの命です。幼い頃は皆に自分の夢があるでしょうが、すべての人がその夢を叶えるわけではありません。2019年に協力宣教師として赴任した私は、志免教会に新しい信者が増え、子供たちも来ると信じて祈りました。しかし、私が計画した通りにうまく行かなかったのです。そのため、がっかりしなかったとは言えないのが事実です。そして、だれにでもそんな経験があるかもしれません。 しかし、箴言は、すでにそのようなことについて語っています。もしかしたら、私たちの計画と考えが、思い通りにならないのはすごく自然なことであるかもしれません。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴言19:21)「人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。」(箴言20:24)人の計画には成し遂げられない可能性があり、私たちの人生は不確実性の中にあるということです。今日の旧約本文もそのような観点から理解する必要があります。私たちの計画は神の御心を超えることができません。神の御心とは何か、私たち自身は神ではないのではっきりは分かりません。しかし、神の御心が、すなわち神のご計画であるのは分かります。つまり、私たちの計画は神の計画のもとにあるとき、完全になります。私たちの思いでは、教会が大きくなり、明るい未来が見えてくるのが正しいかもしれません。しかし、神の計画ではすぐに教会が大きくなり、明るい未来が見えてくるよりは、小さな群れ、見えない未来の中でも、主なる神の民として、自分のあり方を守りつつ生きるのがより神の御心、ご計画に近いのであるかもしれません。したがって、私たちは自分の計画が成し遂げられないんだとがっかりする前に、神の計画は何であり、主が私たちに本当に望んでおられることは何であるかをまず考えならなければならないと思います。 3. 草は枯れ、花は散るが、主の言葉は永遠に変わらない。 「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(1ベドロ1:23-25) 今日の新約本文ペトロの手紙1は、今のトルコ地域に住んでいた初代教会のキリスト者たちへのペトロの教えです。当時、その地域のキリスト者たちはローマ帝国やユダヤ人たちの迫害によって辛い時を過ごしていました。誰かは教会と家族の平和のために祈り、誰かは自分の信仰を守るために祈ったでしょう。しかし、状況はそう簡単に改善されませんでした。一緒に礼拝していた兄弟姉妹の中で、背教して礼拝をやめる人も生じ、苦しい迫害に気がくじけて信仰を捨ててしまう者もいました。ペトロはそのように迫害される者たちにこう語ったのです。「あなたたちがイエス·キリストによっていただいた信仰は朽ちるものではなく、朽ちないものである。なぜなら、その信仰は主の御言葉によって与えられたものだから。すべての肉体は草のようで、その華やかさも花のようで、すべては枯れていくだろう。しかし、主の御言葉は永遠に変わることなく、あなたたちと共にあるだろう。」 人生を生きながら、自分の思い通りにならない現実と向き合う時がきっと迫ってくるでしょう。長年、信仰を続けてこられた皆さんは、何度も経験された、すでに知っておられる事実であるもしれません。しかし、聖書は語ります。「自分の思い通りにならないことにがっかりせず、それにもかかわらず、私たちのためのご計画を備えておられる主に信頼しなさい。」私たちの目に良くないのが、実は、主の御目には良いものであるかもしれず、また私たちの目に正しいのが神の御目には正しくないものであるかもしれません。良いことと悪いこと、正しいことと正しくないことの判断は、主なる神の事柄です。箴言16章25節は、このように述べています。「人間の前途がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある。」私たちは自分の目と考えを盲信してはなりません。主が何を望んでおられるのか、どんな計画を立てておられるのか、弱い私たち人間は絶対に分からないでしょう。しかし、少なくとも私たちの考えと計画が草と花のように枯れ散っても、私たちを助ける、主の御言葉は永遠にあり、私たちの道を導くことを信じて生きたいと思います。神は永遠に私たちを見捨てられず、御言葉通りに導いてくださるでしょう。その主なる神への信頼によって、決して順調でないこの世を生き抜いて進みたいと思います。 締め括り また、最初の話しに戻って、キリスト者にとって「人事を尽くして天命を待つ。」という言葉はどういう意味なのでしょうか。キリスト者に与えられた、全うすべき人事とは、神に出会い、神を知り、神を信じ、その方と共に生きることです。私たちは自分の願いを叶えるために神を信じているわけではありません。それは付随的なことであって、信仰の真の理由は「神と共に生きること」にあります。ですから、神を信じるからといって、私たちのすべての願いが叶い、すべての状況がうまくいくとは限りません。主なる神に出会って(肉体的に)うまくいく人もいれば、神に出会ってもうまく行かない人もいます。重要なのは自分に託された人生を全うして神と共に生き、その結果は一生の間、私たちと共におられる神に任せるものです。私たちは草と花のように弱い存在で、枯れ散っていきます。けれども、主の御言葉は永遠にあって私たちの道を導き、終わりには必ず豊かな祝福で報いてくれるでしょう。それを信じる人生の旅路が、真の意味の信仰の道ではないでしょうか。