信じる者になりなさい。

箴言3章5~6節 (旧993頁) ヨハネによる福音書 20章19~29節(新210頁) 前置き 生前のイエスは、何度もご自身が「死んで、復活する」と言われました。神は罪人の救いのために、ご自分の独り子イエスを贖いの献げ物とされ、死を命じられました。その死はイエスにとっては、呪いのような死でしたが、イエスを信じる者にとっては、祝福となりました。イエスの死で、主を信じる者たちには永遠の生命が与えられたからです。したがって、主の死は罪人の救いを計画された、父なる神の必要不可欠な御心の成就でした。そして、神は死で罪人の贖いを完成されたイエスを復活させてくださることで、イエスの死を価値あるものにしてくださいました。とういうことで、生前のイエスは、何度も「私は死ぬ。しかし復活する」と言われたのです。残念なことに、主の弟子たちは、このイエスの死の真の意味が分からず、主の死ですべてが終わったと思いました。だから、イエスの復活が信じられなかったわけです。信仰とは実に難しいものです。どうやって死者の復活があり得るのでしょうか? 世の常識でありえないことを信じることが信仰だからです。しかし、私たちの信仰は世の常識に基づいたものではなく、神の御言葉に基づくのです。私たちは一生自分の信仰について深く考えるべきです。今日は信仰について話してみたいと思います。 1. 私たちを訪れてこられるキリスト。 「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、わたしは主を見ましたと告げ、また、主から言われたことを伝えた。」(ヨハネ20:18) 先週の本文の最後の箇所には、マグダラのマリアがイエスの復活を目撃し、弟子たちに「私は主を見た」と告げる場面が出てきていました。生前、主が言われた通りに、主は復活されたのです。しかし、弟子たちの反応は、マリアとは全く違っていました。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」(ヨハネ福音書20:19) 弟子たちは、依然として主の復活を信じられず、むしろユダヤ人の迫害を恐れていました。先に申し上げましたように、生前のイエスが「私は死ぬ。しかし復活する」と言われ、イエスの死後にも主の遺体を守っていたマグダラのマリアが、イエスの復活を証ししたにもかかわらず、弟子たちには主の復活への信仰が全くなかったのです。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、あなたがたに平和があるようにと言われた。」(ヨハネ福音書20:19) そのような弟子たちにイエスが直接訪れて、ご自身の復活を証明してくださいました。その時になってやっと弟子たちはイエスの復活を信じ、喜ぶようになったのです。 イエスの弟子だからといって、皆が深い信仰を持っているわけではありませんでした。信仰は、イエスという存在を長く知ってきたからといって、他人より成長しているとは言えないものです。長年、イエスを信じてきた私たちも、今日の本文の弟子たちの姿から自由ではないかもしれません。私たちはイエスの復活をありのままに信じ、主の御言葉に全面的に信頼しているのでしょうか? おそらく、そうではない可能性が高いと思います。私たちには、イエスの復活や主の御言葉を自分の力で完全に信じることができる力がありません。私たちの中にある罪の本性がそれを妨げているからです。人間は、この世の常識のもとに生きる存在であり、目に見えない主の御言葉より、目に見えるこの世の常識にさらに目を注いでしまう弱い存在です。そのため、神は今日も御言葉を通して、私たちのところに訪れてくださるのです。主の復活が信じられず不安に震えている弟子たちに直接現れて証明され、信じる力をくださったように、主は今日も御言葉によって私たちに来られ、神への信仰を堅くしてくださり、ご自分について教えてくださるのです。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい。」(ヨハネ福音書20:22) ただし、聖書の御言葉のように、天の御父の右におられるイエスご自身が直接来られるわけではなく、約束通りに助け主でおられる聖霊なる神を通して来てくださるのです。(ヨハネ福音書16章) 2. トマスの信仰と私たちの信仰。 ところで、今日の本文に、目立つ人物が登場します。「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、わたしたちは主を見たと言うと、トマスは言った。あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(ヨハネ20:24-25)弟子トマスはイエスが復活して弟子たちを訪れられた時、その場にいなかったようです。それで、他の弟子たちがイエスに会ったと喜びで証しても、信じられなかったのです。トマスはヘブライ語式の名前で(テオム)、別の名前ディディモはギリシャ語式の表現です。日本語に訳すと「双子」となります。彼が本当に双子だったのかどうか、なぜ双子と名付けられたかは今日の本文ではわかりませんが、心理学的に双子は、普通の子供たちと違う心理状態で成長すると言われます。嫉妬も強く、疑いも多く、互いに争う場合も、割と普通の子供たちより多いと言われます。私個人としては、このようにも考えてみたりもしました。(神学的な根拠はない)この双子と呼ばれるトマスの、もう一人の双子は、主を完全に信じることが出来ない「私たち自身」ではないかとのことでした。 大学時代、私は英会話授業の時、アメリカ人の先生が、各自、英語の名前を作ってほしいと宿題を出しました。長く工夫した私は「トマス」を選びました。なぜなら、その時の私は神の存在への疑いを持っていたからです。両親に連れられ、幼い頃から教会に出席してきたのですが、イエスは本当に生きているだろうか? 神は本当に存在しているだろうかと疑問を抱いていたのです。30歳の会心の時まで、私はトマスと似たような人生を送りました。日曜学校で学んだ疑い深いトマスが、私とそっくりだと思いました。それで、英語の名前を「トマス·キム」と付けたのでした。私たちは自ら神を信じていると思いやすいます。長年の教会で信仰生活をしてきました。しかし、考えてみましょう。私たちは本当に主を信じているでしょうか? あまりにも長い間、教会に通っていたので、信じていると勘違いしているのではないでしょうか? むしろ、トマスのように疑って、信じられないのは信じられないと正直に言った方が健全であるかもしれません。私たちにはトマスの信仰が弱いと貶める資格がありません。むしろ、トマスのような率直さが私たちに有益であるかもしれません。自分には信仰があるかどうか、自分は本当に主の民かどうか。厳しく考える機会があれば幸いです。私たちは果たしてトマスより、成熟した信仰を持っていますでしょうか? 3.私たちの信仰を守ってくださる主。 だからといって、疑いで不信心であるトマスが正しいとは思いません。私たちは、明らかにキリストの復活と救い、そして神への信仰を追い求めて生きるべきだからです。それでも、信じられないならば、それは祈りの課題として、絶えず主に求めて、信仰の続きのために力を入れなければならないと思います。神が信じられないからといって、神がおられないわけではなく、信じられないからといって、イエスの復活と救いがなかったことになるわけではありません。信じられないのは、私たち自身の問題に過ぎません。聖書は明らかに神が存在していると、イエスが復活され、罪人を救ってくださったと証言しているからです。何よりも大事なのは、キリスト者の信仰の歩みにつれて、聖書の証である神の存在とイエスの復活と救いとが、少しずつ分かってくるということです。ですから、信仰は変わりません。変わるのは私たち自身なのです。このような弱い私たちのために、今日もイエス・キリストは、父なる神の右におられ、執り成してくださるのです。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:33-35) トマスは弱い信仰により、イエスの復活を疑う懐疑主義者でした。しかし、懐疑主義者が会心するとき、彼は他人の信仰を超える強い信仰を示すことになります。懐疑主義者をも変わらず愛し、執り成してくださるキリストの恵みによって、イエスに出会う時、最も印象的な信仰の告白をすることになるのです。今日、トマスはイエスに会って、その方の復活を信じるようになり、このような信仰の告白を言うことになります。「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28) 私たちの信仰の真の主は、私たち自身ではなく主なる神です。ですから、時々、私たちの信仰が弱まってきても終わりではありません。主イエスが、私たちの信仰を大切にしてくださり、今日も私たちの信仰のために、父なる神の右から執り成してくださるからです。だから、信じられない時が来ても、私たちの信仰をあきらめないようにしましょう。信じても何の変化も見えず、信仰への疑問が沸いてくる時も、主が私たちの信仰を応援しておられることを信じて、主に寄りかかって生きていきましょう。そして、私たちが見て信じる者ではなく、見なくても信じる、信仰者になっていくように、祈りつつ生きていきましょう。主イエス・キリストは必ず私たちの信仰を守ってくださるでしょう。 締め括り キリスト教の最も重要な価値の一つは、断然、信仰だと思います。信仰なしでは、父なる神の子供になることも、キリストの御救いを得ることも、聖霊なる神のお助けを得ることもできないからです。ですが、信仰は私たちの思い通りに簡単にできるものでも、簡単に守られるものでもありません。私たちの信仰は主の恵みによって与えられるからです。したがって、私たちは「自分の弱い信仰を守ってください。」と、毎日、主に祈らなければなりません。揺るぎやすい私たちの信仰は、復活されたキリストによって、しっかりと守られ、保たれています。必要なのは、主イエスのお声に答えて、信仰に立とうとする、私たちの心なのです。最後に今日の旧約本文を読んで終わりたいと思います。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」