主が涙をぬぐい取ってくださる。

詩編27編1節(旧867頁) ヨハネの黙示録21章1-8節(新477頁) 前置き 先週の木曜日の夜、宣教師派遣元の釜山の告白教会から至急の祈りを願うメールが届きました。告白教会の設立から物心両面仕えてきた、ある姉妹が脳出血で入院したとのことでした。釜山の告白教会の団体メールがありますが、3時間前までも明るいメッセージを載せた方でした。その3時間後に脳出血で倒れたわけでした。素早く搬送装置したため、しっかりと治療を受け、また元気になるだろうと思っていたのに、火曜日の夕方、逝去したとの知らを聞きました。里帰り中の妻が葬儀場に行き、遺族を訪問しました。死というのは本当に突然近づいてくるものです。いつも明るい笑顔で私を励んでくれた姉妹でしたが、逝去は一瞬でした。しかし、私はまた会える希望を持っているので、落ちこんではいません。聖書は語ります。「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(黙示録21:3-4) 私たちは、いつか主に召され、亡くなるでしょう。しかし、主を信じる私たちは、それが終わりではないということを知っています。キリスト者にとって死は、この世のすべての憂いと悲しみを全て払い落とし、主のふところで慰められる至福の始まりだと思います。私たちは必ず天国でまた逢うでしょう。今日はキリスト者の死について考えてみたいと思います。 1.死について。 人間はなぜ死ぬのでしょうか? 実は科学的に人間だけでなく、すべての生物は死ぬに決まっています。すべての生物は生まれ、育ち、老いて死滅するようになります。そして、私たち自身もいつか必ず死を迎えるようになります。聖書もこう語ります。「人間にはただ一度死ぬこと…が定まっている」(ヘブライ語9:27) 科学的に死は「生きる機能を失うこと」を意味します。生まれた時、すべてが新しかった私たちの体は、時間の経過とともに古くなっていきます。私たちはこれを「老いていく」と言います。幼い頃は眼鏡なしでも本の字があきらかに見えたのですが、歳を取るにつれて虫眼鏡をかけなければならなくなります。目が古くなっていくということです。若い頃は音がはっきり聞こえたのですが、老いていくのにつれて補聴器をつけなければならない人もいます。耳が古くなっていくということです。真っ黒だった髪の毛が白髪に変わっていきます。顔のしわも増えていきます。私たちの肉体が、このように古くなって機能を失っていくのです。すべての生物は生まれ育って、少しずつ機能を失っていきます。そして、最終的に老化と病気によってすべての機能が永久的に失われます。私たちはそれを死と呼びます。 しかし、聖書は肉体の死だけがすべてではないと語ります。今日の新約本文はこう述べています。「おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(黙示録21:8) 先のヘブライ人への手紙には、人間は誰でも一度必ず死ぬことが決まっていると記してありました。おそらく、それは肉体の死の意味でしょう。しかし、本文はまた第二の死があると語ります。主の反対側で、主の御心通りに生きない者たちは、2度目の死、つまり霊的な死に襲われるということです。私はこれをもって「未信者たちは皆呪われて地獄に落ちる」という残酷な話をするつもりではありません。私たちみんなには未信者の家族がいます。ですので、あえて彼らが滅びるとは言いたくありません。そのような他の人々への判断は神にお任せしたいと思います。教理を用いて勝手に人を裁くのは望ましくないからです。ただ、この時間には私たち自身に当てはめて言いたいだけです。私たちには肉体の死が必ず訪れてくるでしょう。そして、その後、私たちは主への信仰によって永遠の生命と永遠の死の分かれ道の前で神の裁きを受けるでしょう。イエス·キリストを信じる者たちは救われるというのが聖書の教えですが、私たちはイエスを信じるふりばかりして、実は信じない者ではないか、神の民と自負するが、神の民のふりばかりをして、実は神に逆らう者ではないか、自ら振り返る必要があると思います。 にもかからわず、幸いなことは、私たちの救い主イエス·キリストが私たちのそのような弱さをよくご存知なので、今日も父なる神の右から私たちのために執り成しておられるということです。私たちの信仰が弱く、主の御前で至らない私たちを主イエスは憐れんでくださり、私たちのために祈って(執り成して)おられるということです。したがって、私たちには何の資格がないにもかかわらず、主なる神は、私たちを民として見なし認めてくださるのです。私たちは時々主の御心に適わない弱い存在であるかもしれません。私たちは神の民だと自分自身を思っていますが、実は逆らう存在であるかもしれません。それでも主イエスは聖霊によって、私たちの罪を悟らせ、悔い改めさせ、再び生きていけるように導いてくださいます。だから、イエス·キリストを信じる者には直りの機会が与えられるのです。そのため、私たちは一度の肉体的な死は経験しても、主イエスのお憐れみによって二度目の死を避けることができるのです。これがまさに聖書が語るキリストの救いであり、憐れみであるのです。一度お選びになった人は決して見捨てられない主イエス·キリストの恵み、その恵みによって私たちは資格のない罪人であるにも関わらず、主にあって生きることができるのです。主イエスは死に支配されている、この世にいる私たちに真の生命を与えてくださる方だからです。 2.主はわたしの命の砦。 今日の新約聖書の本文は私たちに語ります。「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4) この世の終わりの日が到来する時、神の幕屋が主の民の間にあり、主が民の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださるということです。本文に出てくる神の幕屋とは、旧約時代に神と人間をつなぐ掟の箱を置く場所でした。幕屋の中には聖所があり、聖所の一番奥には至聖所がありました。そこに掟の箱があったのです。至聖所は年に一度、イスラエルの大祭司だけが入ることができ、大祭司さえも贖罪の献げ物をささげなければ(悔い改めなければ)、入るやいなや罰を受けて死んでしまう恐ろしい場所でした。しかし、聖書はイエス·キリストがたった一度のご自分の犠牲によって、永遠の大祭司になられ、私たちを執り成してくださると証言しています。つまり、私たちはイエス·キリストの執り成しによって贖われ、主イエスとともに神の至聖所に入ることができる正しい人と認められたわけです。したがって、今日の本文の神の幕屋はイエス·キリストの贖いの恵みを意味するとも言えるでしょう。 この世には必ず終わりの日(イエス・キリストの再臨の日)が到来するでしょうが、その前に私たちは私たちの人生の終わり(死)の日を迎えることになるでしょう。しかし、私たちの霊は主なる神に召され、主のところに行くことになるでしょう。そして、イエス·キリストが再臨される、真の終わりの日まで、私たちは、主とともにその日を待ち望むでしょう。私たちの死はキリストの再臨による完全な神の国の到来をあらかじめ味わう、祝福された経験になるでしょう。世の人々にとって死は終わりであるかもしれませんが、私たちキリスト者にとって死は神の限りのない恵みを限りなく享受する至福に入る新しい始まりになるでしょう。その時、そこで主なる神は私たちの涙をことごとくぬぐい取ってくださるでしょう。そして、苦しくて悲しいこの世で本当によくやったと褒めてくださるでしょう。 私たちに二度目の霊的な死は決してなく、永遠に神の生命のもとでキリストの再臨を待ちのぞみながら、笑顔と喜びで生きるでしょう。これが死についてのキリスト者の正しい認識なるべきです。だから、死を恐れないようにしましょう。キリストにあって死を迎える者たちは、主の約束によって必ず平和と喜びの神の国に入るからです。 締め括り 「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。」(詩篇27:1)説教の序盤に韓国にいる知人の死について話しましたが、実は私たちの中にも先週家族を失った方がおられます。この説教を準備しながら、その方が思い起こされました。子供の頃から喜怒哀楽をともにしてきた大切なご家族だったはずです。亡くなられた方はキリストの民として召されました。ですから、今、主は約束どおりに、その方の目の涙をぬぐい取ってくださり、真の幸せを与えてくださるでしょう。わたしたちにもその日が近づいてきています。主の御心によって、誰かは先に召されるかもしれなく、また、誰かはもう少し長くいて召されるかもしれません。しかし、明らかなことは、主に召されるその日、私たちは悲しみではなく喜びの中にいるということです。キリストがくださった永遠の生命という賜物が、私たちを待っているからです。主が私たちの生命の砦としておられるかぎり、私たちは何も恐れおののく必要がありません。キリスト者にあって、死とは神の恵みへ進むもう一つの始まりだからです。私たちに生命を与え、神の国に導いてくださる主イエス・キリストを拠り所にして、残りの人生を生きていきたいと思います。