終わる時に覚えるべきこと。

マラキ書 3章19-24節 (旧1501頁)        ヨハネの黙示録22章16-21節(新480頁) 前置き 2021年ももうじき終わりです。昨年から始まったコロナ禍の影響で今年も本当に恐ろしい一年だったと思います。しかし神は、その恐ろしさの中でも、私たちを見捨てず、守ってくださり、また、共に歩んでくださいました。コロナ禍の中でも神は志免教会を力強く導いてくださり、特に、新しい兄弟姉妹たちを送ってくださいました。本当に感謝せざるを得ない一年でした。しかし、志免教会が成長した喜びだけにとどまってはならないでしょう。来年は日本にある全てのキリストの教会が神の恵みにあって成長していきますように祈りましょう。願わくは、2022年の一年は、志免教会をはじめ、日本にある全ての主イエスの教会がますます祝福されますように、なによりも主の民が、主の恵みと御言葉のもとで忠実なしもべとして生きていけますように祈りましょう。今日は新旧約聖書の最後の箇所を通して、今年を締めくくる時間を持ちたいと思います。今年、最後の主日を送りながら、私たちが覚えるべきことについて、話してみましょう。 1.マラキの言葉 – 忠実な主の民として生きなさい。 旧約の時代、神の御言葉に聞き従わず、偶像を崇め、神に逆らって生きていたイスラエル民族は、イスラエルの神によって滅ぼされてしまいました。当時の強大国であったアッシリアとバビロンをムチのように用いられた神の御裁きによってイスラエルは滅びてしまったのです。イスラエルの指導者たちは捕囚となり、イスラエルはもはや国と呼べない様になってしまいました。それでも、神はイスラエルを完全には見捨てず、彼らを見守ってくださいました。以後、神はエゼキエルのような予言者たちを通して、絶えず希望の御言葉を与え、神の計画どおりに70年後にイスラエルを帰還させてくださいました。神がご自分の民に下される裁きは、絶滅のための懲らしめとしての裁きではありません。むしろ、回復と更生のための戒めとしての裁きなのです。まるで父が過ちを犯した息子を戒めるように、主は罪によって汚れたご自分の民を叱られるのです。神は決してご自分の民の滅びを望んでおられません。父のように民の悔い改めと回復を促すために、愛のムチを振るわれるのです。そのため、たまに、神はご自分の民に苦難を与えられる時もあります。実際、苦難はとても辛く苦しいものです。しかし、神から与えられる苦難の中には「必ず回復させよう」とする神のご意志が隠れています。信仰を持っている私たちはそれを見過ごしてはなりません。 神の恵みによって故郷に帰ることになったイスラエルは、最初は誠実に神に仕えるように見えました。神が再びイスラエルを立派に立ててくださると期待していたからです。しかし彼らは、いくらもせずに神に背を向けてしまいました。神が望んでおられるイスラエルの回復が、彼らが考えていた世俗的な回復ではなかったからです。神が望んでおられた回復は間違った信仰を正す霊的な回復でした。イスラエルはあまりにも世俗的な存在だったわけです。残念なことに、70年間の捕囚生活の中でも、彼らの本質は結局変わりませんでした。彼らは依然として神の御心より自分たちの欲望を大事にし、自分たちの欲望のために神を利用しようとしていたのです。マラキはそうした変わらないイスラエルに、主の警告を伝えて、悔い改めを呼びかけています。「見よ、その日が来る。炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る。」(マラキ3:19-20)国と民族が滅ぼされたにもかかわらず、相変わらず愚かに振舞ったイスラエル。神への信仰より、ただ再び立派な国になりたいとの世俗的な思いで満ちていたイスラエルは、実質的な変化が起こらないのを見ると、あまりにも簡単に神に背いてしまったのです。 そのようなマラキの時代のイスラエルを見つめながら、我々自身を顧みることになります。私たちにとって神はどんな存在でしょうか。私たちはなぜ、わざわざキリスト教の神を信じているのでしょうか?ただ自分の願いを叶え、自分の生活を助けてくれる誰かが必要だから、神への信仰を持って生きるのでしょうか? それとも、たとえ自分の願いを聞いてくださらないといっても、神が我々のたったお独りの唯一の神だから、その方だけを愛するから、信仰を持って生きているのでしょうか? 神はご自分を無視する高慢な者には裁きを、ご自分を畏れ敬う謙遜な者には恵みを与えてくださると、今日の本文は警告しています。今日の旧約の言葉を通して、私たちにとって神はどんな存在なのかを考えてみましょう。「私のための神」ではなく、「神のための私」という純粋な信仰を持って生きて行きましょう。「わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。」(マラキ3:22)マラキは神の御言葉を記憶し、その方の御心に従って生きることを訴えています。 2022年は「私のために」ではなく「神のために」生きる成熟した信仰の一年になりますように望みます。 2.黙示録の言葉 – 主を信頼し、その方の御心の中に生きなさい。 次は黙示録について考えてみましょう。世間の多くの人々が、ヨハネの黙示録を、いわゆる世紀末のファンタジーみたいに理解したりします。この世に恐ろしい終末が臨み、おびただしい苦難と災いが、地上に襲ってくるということでしょう。アメリカでは、このような黙示録の物語を素材としたファンタジードラマや映画が流行した時もありました。しかし、黙示録は無慈悲な神の恐ろしい裁きと終末の悲惨さを描いた書ではありません。世の中にいかなる苦難と災いがやって来ても、神が必ずご自分の民と一緒にいてくださることを証しする慰めと愛の書なのです。使徒ヨハネが、この黙示録の言葉を書き残した理由は、この言葉がキリスト教へのローマ帝国の迫害が極みに達した時、苦しんでいるご自分の民のために、神がくださった慰めと愛の言葉だったからです。ですので我々は、黙示録を読むとき、神の裁きではなく、神の恵みを見つけなければなりません。私の大好きな黙示録の言葉を一ヶ所読ませていただきます。 「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)神の御心とは何でしょうか。私は、主の民が神を知り、その御言葉のもとで、その方と一緒に生きることこそが神が望んでおられる御心だと思います。そのような人生に、神によるまことの慰めと恵みと愛があるからです。神が民に与えようとしていた幸せとは、そのようなものではないでしょうか? 死とともに消え去ってしまう財物、名誉、権力といった世俗の価値ではなく、この世での生命が終わるといっても永遠に続く私たちに与えられる神の同道と愛。主の民がそれを得ることこそが、神のまことの御心ではないでしょうか。「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。“霊”と花嫁とが言う。来てください。これを聞く者も言うがよい、来てくださいと。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」(黙示録22:16-17) そのような主の御心の成就のために、主は絶えず、ご自分の民を主のもとに呼び出してくださり、御言葉と御恵みとを与えてくださるのです。我々に伝道を命じられた理由も、そのような意味があるからでしょう。今日の礼拝が2021年の最後の礼拝であるように、いつかこの世にも終わりが来るでしょう。また、私たちの人生にも終わりがあるはずでしょう。しかし、神はその終りとは関係なく、主の民と共におられ、彼らに永遠の慰めと安らぎと愛を与えてくださるでしょう。 今日の新約本文である黙示録の最後の箇所は、主の御言葉を大事にし、主を拠り所とし、主を待ち望んで生きることを促しています。 神の御言葉をありのままに純粋に守り、神の御旨に適う人生を生き、いつか再びおいでになる主のご到来を待ち望み、神の喜ばしい民として生きることを呼び掛けているのです。 締め括り 2021年の我々の人生を守ってくださった主に感謝しましょう。また、主への信頼を持って、2022年も生きていきましょう。2022年にも私たちの人生には喜怒哀楽が存在するでしょう。すべてがうまくいく人もいれば、何事においても、うまくいかない人もいるでしょう。しかし、うまくいくにせよ、うまくいかないにせよ、神はすべての主の民と共におられ、ご自分の民の歩みを見守ってくださるでしょう。また、主が我々の進むべき道を教えてくださり、慰めと恵みをもって導いてくださるでしょう。そのような主なる神への変わらない信頼を持って、その方の御心のもとで生きていく私たちになることを願います。皆さん、今年もお疲れ様でした。一年の締め括りと来年の準備に主の恵みがありますように祈り願います。 神の御導きが2022度も志免教会のお一人おひとりと共にありますように。

平和をもたらす神の子

イザヤ書11章1-10節(旧1078頁)           ルカによる福音書2章8-14節(新103頁) 前置き 平和という単語ほど、切なる言葉があるでしょうか。私たちはみんな平和を望みます。家庭の平和、職場の平和、政治経済の平和、心の平和、社会の平和。人間は自分でも知らないうちに、平和を口にし、また心にいだいて生きています。しかし、平和は、そう簡単に手にはいるものではありません。また手に入れたとしても、いつ消えるか分からない不安定なものです。正直、人生にあっては平和より不安や恐れの方が多いかもしれません。「会社が潰れたら、家族が患ったら、戦争が起きてしまったら」など、今の平和が永遠に続くと、私たちは断言できません。そういうわけで、人はいつも平和への渇きを感じて生きています。始まりがあれば終わりもあるように、私たちが営むすべての生には終わりというものがあります。永遠の喜びも、永遠の満足も、永遠の安らぎもありません。このように終わりがある世の中で、果たして永遠な平和は成し遂げられるのでしょうか。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)しかし、聖書は神の栄光と人間の平和を永遠に保たせる、まことの王が来ると語っています。そして、我々はその王が我々の主イエスであると信じています。今日は、まことの平和の王、イエスについて話してみましょう。 1.聖書が語る平和。 シャロームという言葉をお聞きになったことがあると思います。4年前に一人旅でイスラエルに行ったことがあります。イスラエルの最南端のエイラトから最北端のヘルモン山までレンタカーで旅行をしました。全国の広さが九州くらいですので、一週間で、たくさんのところを訪れることが出来ました。ところで、行く先々で、多くの人々が私に手をあげて「シャローム」と挨拶してくれました。イスラエルにはイスラム地域(エリコ、ベツレヘム、シェケム、ヘブロン、死海北部)もあり、そこでは「アッサラーム・アライクム」と挨拶していました。面白いのは、イスラエル内のイスラム地域は言語の違いがあるにもかかわらず、サラームというシャロームに似た表現を使っていたということです。後で調べてみたら、シャロームもサラームも、同じ語源を持ち、いずれも「平和を祈る」という意味を持っていました。つまり「シャローム」は平和を意味する表現です。この「シャローム」はヘブライ語の「シャラム」という動詞から派生した言葉ですが、もともと「シャラム」は平和を意味する表現ではありません。その意味は「安全である。 完全になる。完成する。支払う。償う。いっぱいになる。補う」などで、つまり「欠落なく、完全な状態。」という意味なのです。従って、聖書が語る平和とは、単にお金への心配、子供への心配、国への心配が無く、気楽でのんびりしている状態という意味ではありません。人間に欠けていた何かが、完全に満たされている様だと言えるでしょう。この世が語る平和と聖書が語る平和には、このような違いがあるのです。 信仰生活を長く営んでこられた方は、おそらく、このように考えられた経験があるかも知れません。「キリスト教が極めて少ない、この日本で、思い切って信仰者になったのに、なぜ神は私の苦しみを取り除いてくださらないのだろうか?」あるいは「なぜ、イエスを信じているのに、私の人生には悩みと悲しみが依然としてあるのだろうか?」いつもそうではないとおっしゃるでしょうが、一度くらいは、そのような思いを抱き、神を疑ったことがありませんか? 本当に申し訳ありませんが、私は牧師であるのに、何度もそういった疑いの経験があります。結局、牧師も罪人だからでしょう。しかし、その都度、主は聖書の言葉、あるいは心の内面への働きかけによって教えてくださいました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」イエスは私たちに「まことの平和とは神を知らず、信じず、従わずに生きる者が、神のもとに立ち戻り、神によって生きること」だと教えてくださいます。いつか私たちが神に召され、この世から立ち去る時まで、そして、その後までも、神は私たちと共に歩んでくださるでしょう。苦しい時は一緒に苦しみ、悲しい時は一緒に悲しみ、嬉しい時は一緒に喜んでくださるでしょう。神は私たちの父になってくださり、私たちの友になってくださり、私たちの救いと助けになってくださるでしょう。聖書が語るまことの平和とは、こういうものなのです。神がキリストを通して永遠に私たちと共に歩んでくださることです。 2.平和をもたらしてくださるイエス。 今日の新約本文をもう一度、読んでみしょう。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」 (ルカ2:14) イエスがベツレヘムの馬小屋、しかも飼い葉桶にてお生まれになった時、天の天使の大軍が貧しくてみすぼらしい羊飼いたちの前に現われ、イエスの出生が神には栄光であり、人間には平和であると神をほめたたえました。私たちが信じる神は、すでに完全な方ですので、一欠けらの欠乏も無い方でいらっしゃいます。従って、神は、すでに平和を成し遂げられた存在、いや平和の源そのものでいらっしゃいます。しかし、自分の罪のために死ぬしかない人間は、完全さや平和とは程遠い存在です。人間は数え切れない欠乏の中にあり、神のような完全さから外れている存在です。人間は有限なもので、いつか必ず死ぬ、一分後の未来も分からない存在です。そんな欠乏があるからこそ、果てしなく欲望を持ち、互いに対立し合い、戦争して結局は殺し合うのでしょう。だから人間には、その欠乏を満たす、まことの平和が必ず与えられるべきです。聖書はイエス•キリストが、その欠乏を満たしてくれる、まことの平和の持ち主として来られたことを、力強く教えています。イエスはまことの平和の源でいらっしゃる、神の御心の成就をこの地にもたらされることで、神に栄光を帰されました。 また、イエスは人間の欠乏を癒してくださる平和の成就者として、人間に平和を与えてくださったのです。 この地上で生きていく間、私たちは常に欠乏感を覚えて生きていくでしょう。すでにイエスに出会い、イエスの民となったとしても、罪がある限り、私たちは欠乏から、完全には自由になれないでしょう。しかし、少なくとも我々は我々の欠乏を知り、満たしてくださるイエス・キリストを信じています。私たちの力では到底解決できないものですが、主イエスはいつも私たちと一緒におられ、私たちの問題を助けてくださるでしょう。旧約時代には、こういった平和の存在がまったくありませんでした。ただ、メシアという名の誰かがいつか来るだろうと漠然と信じていただけです。しかし、新約の時代を生きる私たちはすでに平和の存在であるイエスにあって生きています。ですから、今、完全ではなくても、がっかりする必要はありません。イエスが私たちの満足になってくださり、完全な存在として私たちのために執り成してくださるからです。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。」(イザヤ11:6-9) 締め括り 私たちは終わりの日、キリスト・イエスを通して主なる神の前に堂々と立つでしょう。そしてイエス・キリストの父なる神を、誇らしく私たちの父だと声を限りに張り上げるでしょう。その日が来れば、主のもとでは狼のような人も、小羊のような人も、子供のような人も和やかに生きるでしょう。まことの完全さと平和が我々の中に成し遂げられるでしょう。主イエスのご降臨は、まさにそのような終わりの日のための神の深い恵みなのです。最後に私の短い証しを分かち合って説教を終わりたいと思います。もうすでにご存知の方もおられるしょうが、今の私の父は義父です。実父は私が生まれる数ヶ月前に不慮の事故で亡くなりました。成長過程を通して父の不在は、私にとって大きな傷と欠乏を残しました。12年前、私が本当に神に出会った30歳まで、私の性格は今とは全く反対で、いつも不安定でした。私の心の中に大きな欠乏感の穴が空いていたからです。それは私の実存を脅かす虚しさそのものでした。しかし、神に出会った日、私はついに悟りました。神はその欠乏をすでに知り、見守り、私と出会う時を切に待っておられました。そして私が神に出会った当日、キリストを通して私の心の傷と欠乏を完全に癒してくださいました。そして心の中に神の声が聞えるかのように感じられました。「私がイエスを通して君の平和になる。」「私がイエスを通して君のまことの父となる。」イエス•キリストは罪人のあらゆる欠乏を満たし、真の平和を与えるためにおいでになりました。我々が毎年記念するクリスマスは、まさにその完全な平和の道をもたらしてくださったキリストのご降臨を記念する日なのです。平和の主が主を記念する皆さんを、限りなく祝福してくださるように。クリスマスまでの残りの期間を喜びと平和で過ごせますように祈り願います。

待降節の意味‐新しい天と新しい地。

イザヤ書65章17-25節(旧1168頁) ペトロの手紙二3章8-13節(新439頁) 前置き アドベント即ち待降節の時になると、多くの教会がクリスマス・ツリー、4本のロウソク、屋外での電飾、赤ん坊イエスと馬小屋の飾りなどをつけて、外面的にイエスのご誕生を祝います。また、クリスマスまでの約1ヶ月の間、高い天の玉座から低い地上の飼い葉桶までおいでになった赤ん坊イエスを待ち望みつつ、聖書の黙想と祈り、教派によっては断食などを通して、内面的にもイエスのご誕生を記念します。それゆえに、多くの人がこの待降節の時をイエスのご誕生だけのための準備期間として理解しがちだと思います。しかし、待降節が持つ真の意味は、単に受肉してお生まれになった初臨(初めて臨む)のイエスだけでなく、いつか再び臨まれる再臨のイエスをも、共に記念するところにあります。したがって、待降節は過去のイエスのご誕生とともに、未来に再臨されるイエスを記念する期間でもあります。過去のイエスは、なぜこの地上にお生まれになり、未来のイエスは、なぜこの地上にまたおいでになるのでしょうか? 今日は待降節の意味を通して、おいでになったイエスと、おいでになるイエスについて話してみたいと思います。 1.待降節の起源と意味 現代はいわゆるグレゴリオ暦と言われる太陽暦を使用して1年を数えています。しかし、古代と中世の教会はキリストの生涯、特にクリスマスとイースターを中心として作成した教会暦を使用して1年を数えたりしたと言われます。この教会暦によると、待降節が始まる主日は、1年が始まる日だったそうです。 教会暦は主イエスのご誕生を期して1年間を数え始めたということです。日本の教会では待降節をよくアドベントとも呼んでいます。待降節、つまり「主のご到来を待つ期間」という良い漢字語の表現があるのに、なぜ人々はあえて「アドベント」という外来語を使用しているのでしょうか? 待降節を意味する「アドベント」とは「到来」を意味するラテン語Adventus(アドベントス)に由来するものです。主イエスのご到来を記念しようという意味で、外来語をそのまま借用したので、今でもアドベントという表現を使っているのです。そういうわけで、アドベントの意味が分からずに、漠然と皆が使っているから使用する場合も多いと思います。しかし、大丈夫です。アドベントは外来語ですが、その意味だけは待降節とまったく変わりありません。大事なことは、救いと平和の主イエス・キリストが、この地上にご到来なさったこと、それを覚えることにあるのではないでしょうか? もともと待降節は、キリストの神性が、公に現れたことを記念する公現祭を準備する期間だったと言われます。公現祭とは、貧しい大工の子として、お生まれになった赤ん坊イエスのところに、東の方の占星術の学者たちが訪れ、実はイエスの出生が、いと高き神の子の顕現(表れ出る)であることを、この世に公に示したことを記念する日として知られています。つまり、待降節は、この公現祭を記念するための期間だったということです。そんな待降節が時の流れによってクリスマスを記念する日と変わったのです。教会は、最初はキリストのご誕生だけを記念して待降節を過ごしていましたが、西暦6-7世紀頃に再臨なさるイエスへの待ち望みの意味も付け加えて、今の待降節はイエスの初臨と再臨を共に記念する意味を持つようになったと言われます。とにかく、待降節はイエスのご到来を記念する重要な期間です。日本ではクリスマスがハロウィンのように外国からのフェスティバルとして、軽く取り扱われているようです。しかし、主の教会に属する私たちは、待降節の期間を通して、御救いのために初めて臨まれた主、また御裁きのために再び臨まれる主を覚えつつ慎んで過ごすべきでしょう。かつて、この地上に来られ、罪によって苦しんでいる人間を愛し、赦してくださった主の御救いと平和を覚え、また、やがて、再び来られる主の公平な御裁きを待ち望みつつ、この期間を過ごしてまいりましょう。 2.キリストの初臨 – 約束のメシアがおいでになる。 キリストのご誕生が大事な理由は、そこに旧約のイスラエルのメシア信仰の成就という大きな意味があるからです。旧約のイスラエルには、神のメシアが、いつか到来し、この世を立て直して、救ってくれるという信仰がありました。つまりメシア信仰には、神から特別な使命を与えられた神聖な存在が、この地にやって来て神の御心を成し遂げるという希望が含まれていたということです。旧約のイスラエル人たちは、メシアが来て、人間では成就できない真の癒しと慰めを与えくれると信じていました。つまり、貧しい者、病んでいる者、縛られている者、閉じ込められている者、絶望に陥った者に、力を与え、導き、立ててくれる存在が、まさにこのメシアだと信じていたのでした。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」(イサヤ61:1)このようにメシア信仰は、神がこの世での民を見捨てられず、いつか必ず救ってくださるという、神への信頼と、この世の悪への抵抗という意味を持っていました。 教会がイエスのご誕生を何よりも大切に扱っている理由は、この旧約のメシア信仰がイエス・キリストによって成就されたと信じているからです。 イエスは永遠な神ご自身が、人間になって来られた存在です。元々神は人間と全く別の存在で、神学的には絶対他者と呼ばれる方です。創り主の神が、被造物である人間になることは有り得ないことであり、神と人間の間には絶対に共有できない、神性と人性という雲泥の差があります。しかし、神は人間を赦し、救われるために神性とともに、人性を持って自ら人間になってくださいました。これはご自分の創造の秩序を自ら覆(くつがえ)された神の特別な恵みです。このような例えはどうでしょうか?(神の受肉とは比較できませんが、あえて例えれば) 人間が虫になることは有り得ないことです。もし誰かが虫を助けるために、自ら虫のような存在になれば、それは映画に出てきそうなことでしょう。ところで、神は罪によって堕落した虫のような人間のために、自ら人間になって来られたのです。まるで映画のような出来事がイエス·キリストのご誕生によって、この地に起こったわけです。自ら人間になって来られた神であるイエスは、ご自分の命を捨てて、人間に代わって死に、復活して罪を赦してくださいました。そして、この世を裁かれる終わりの日まで、主イエスはご自分を信じる人間のために執り成してくださるでしょう。 真のメシア主イエス·キリストは人間を愛し、被造の世界を神に導いてくださる、たったお独りの方です。 キリストのご誕生は、そのメシアであるイエスの最初の歩みなのです。 3.キリストの再臨 – 最も完全かつ新しい創造 それでは、待降節はなぜ、このようなイエスのご誕生だけでなく、イエスの再臨をも記念するのでしょうか? 今日の旧約の本文を読んでみましょう。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。」(イサヤ65:17-19)私たちは、神が永遠な方であることを聖書を通して学んで、すでに知っています。ここで永遠とは何でしょうか? 哲学では「永遠」と「不滅」という概念があります。我々は知らず知らず、永遠の意味をこの不滅の意味と混同したりします。 永遠とは「限りなく長く存在する。」という「不滅」とは異なる概念です。永遠とは、「最初から最後まですべての物事を司る。」という意味を持っています。 私たちは創世記を通して、神がこの世をお造りになったことを学びました。ところで、聖書は、その神が終わりの日に、この世を再び新たに創造されることを示唆しています。つまり、昔の創造と新しい創造の間のすべてを、神は司っておられるのです。その中には空間、時間の全ても含まれているのです。それがまさに聖書が語る永遠の本当の意味なのです。 イエスの再臨とは、この新しい創造が完成する日のことです。神の初ての創造は、人間の罪によって汚されてしまいました。神は人間を被造物の頭としてくださいました。ところが、その頭である人間という存在が堕落し、神の被造の世界も堕落してしまったのです。イエス·キリストは初臨して、ご自分の犠牲を通して人間と被造の世界を救う手立てを備えてくださいました。そして、その象徴として主の教会を建ててくださったのです。教会の頭なるイエスは再臨、すなわち再び来られて、必ず救いを叶えてくださるでしょう。その時、主に逆らう邪悪な者は裁かれ、主に従う正しい者は救われるでしょう。「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(ペトロ二3:12-13)すなわち、御裁きと御救いは、キリストによる新しい創造の一面に過ぎないものです。再び来られる主は、神がご計画なさった最も完全な創造を成し遂げられるでしょう。そして、その新しく創造された世で、主の民である私たちは、至高の喜びと愛とを持って主と永遠の中に、一緒に生きるでしょう。私たちが待降節を通して、主の再臨を待ち望む理由は、主の再臨に新しい創造という意味が隠れているからです。 締め括り 待降節を通して、初臨と再臨のイエス·キリストを覚えたいです。この世での人生が、常に幸せだとは言えません。人は、いつか必ず死ぬことに決まっており、喜びより悲しみの方がより多いのが、この世の有様です。しかし、イエスは、悲しみと死を圧倒する真の喜びと生命が、ご自分の中にあると教えてくださるために、高い天から低い地上に来られました。そして、いつか父なる神の右から、ご自分の中にある真の喜びと生命を完全に成し遂げてくださるために、まさに新しい創造のために必ず再び来られるでしょう。このような、かつて臨まれたイエスと、また臨まれるイエスを記念し、待降節とクリスマスを過ごしたいと思います。愛と救い、平和と新しい創造の主イエス·キリストが、皆さんと共におられ、限りのない祝福を与えてくださることを祈り願います。

律法の本義 -愛の命令。

出エジプト記20章1-17節(旧126頁) マタイによる福音書5章17-18節(新7頁) 律法の本義 -愛の命令 志免教会は来年から月一回、十戒の朗読をしようとしています。旧約の律法も神にいただいた大事な御言葉ですが、今まで志免教会は新約の福音に比べて、旧約の律法を比較的におろそかに扱ってきたのではないかと顧み、反省することになりました。今日は来年からの十戒の導入を控えて、律法の本当の意味、そして、福音との関係について話してみたいと思います。 皆さんは旧約の律法について、どう理解しておられますか? 旧約聖書に出てくるユダヤ人の古い指針、人間の信仰より行いをあおり立てる、福音に反するもの、イエス·キリストの到来後に廃止された昔の仕来り。もしかして、このように律法を理解しておられないでしょうか。ヨーロッパの宗教改革者たちと代々のプロテスタントの神学者たちは、十戒を福音と比べて劣るものだとは考えていませんでした。むしろ、律法と福音が適切に調和するとき、教会がより正しく立てられると信じていました。新約聖書はイエス・キリストを律法の目標であると証言しています。律法がキリストに出会う時、つまり福音と調和する時、その意味がより完全になるという意味です。それだけに律法はキリスト以来の新約時代にも有効な神のご命令なのです。ですので、旧約の律法と新約の福音の調和は、キリスト者なら誰でも大事にするべき課題であります。キリストの福音にあって、律法の精神である「神への愛と隣人への愛」を実践する我々になってほしいと思います。 十戒とは、神がイスラエルの代表的な預言者モーセを通してご自分の民に授けてくださった、全ての律法を代表する最も重要な掟です。出エジプト記19章でイスラエルをエジプトから導き出された神は、彼らをシナイ山という聖なる山に集わせてくださいました。そして、イスラエルに仰せになりました。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出エジプト記、19:5-6)神はエジプトという神を知らない罪に満ちた地から、アブラハムとの契約の実であるイスラエルを解放させ、シナイ山という神のご臨在の場で彼らをご自分の民にされました。そして、イスラエルをご自分の民にふさわしく導かれるために、出エジプト記の20章から、神の律法を教えてくださいました。その時、最初に登場する律法の教えが、この十戒なのです。十戒に代表される律法は、イスラエルを神の民に招く、神の神聖な掟でした。そして、これから彼らが大切に守り、聞き従っていくべき、神の民の生活の指針でした。 十戒は、その構成が「神への愛」と「隣人への愛」という二つの部分として明確に分けられています。 1-4の掟は神への愛、5-10の掟は隣人への愛を示しています。 旧約本文は長すぎますので、原文に照らして要約したものを読んでみたいと思います。週報の裏側の志免教会のための十戒の交読をご参照ください。 志免教会の交読十戒 ※太字は司式者が、細字は会衆が朗読する。   わたしは主、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した、   あなたの唯一のまことの神である。 1. あなたには、唯一のまことの神、主のほかに神々があってはならない。 2. あなたは、自分のために、いかなる像も造り拝んではならない。 3. あなたは、唯一のまことの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。 4. あなたは、安息日を覚え、その日を聖別して守れ。 5. あなたは、父と母を敬え。これは、主が賜る地で長生きするためである。 6. あなたは、殺してはならない。 7. あなたは、姦淫してはならない。 8. あなたは、盗んではならない。 9. あなたは、隣人に対して偽証してはならない。 10. あなたは、隣人の家の全てのものを一切貪ってはならない。   わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。   廃止するためではなく、完成するためである (翻訳 金東佑、監修 九州中会教師 富樫史朗、澤正幸、崔(チェ)炳(ビョン)一(イル)、金(キム)山(サン)徳(ドク)) このように十戒は、神がイスラエルの民にお求めになった、神への愛、隣人への愛といったキリスト者の望むべき生き方を示しています。 ある意味で律法は言葉どおりに、旧約の民の生活のための、宗教法、刑法、民法、憲法など数多くの法を記した、いわゆる法典だとも言えるでしょう。しかし、律法にはそれ以上の意味があります。律法は単なる法律を超える神と隣人への愛の実践を促す、旧約の信仰者の生活の基準です。しかし、時間が経ち、ユダヤ人たちは律法の精神を誤解し、自力で律法を完全に守ることで、すなわち行いを通して、義とされ、救われると間違って考えるようになりました。このような律法への誤解は、神の恵みではなく人間の行いを大事にさせ、弱い信仰や事情によって行いがうまく守れない隣人を卑しめさせ、律法の外の異邦人を憎ませる副作用を生み出すようになりました。そのため、現代のキリスト者の中には「キリストの福音によってのみ、救われるものだから、行いを強調する旧約の律法なんかは、もう要らない。」と主張する人もいます。 しかし、新約聖書ローマの信徒への手紙は、明らかに示しています。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」(ローマ10:4)主イエス・キリストは律法の目標として、すでに律法を成し遂げてくださいました。「主イエスが自分の代わりに律法のすべてを成し遂げてくださった。」と信じる者は、そのイエス・キリストによって救われると新約聖書は力強く証ししているのです。しかし、だからといって律法を無視しても良いという意味ではありません。「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」(ローマ3:31)キリストは律法を完全に成し遂げられ、キリストの中で完成された律法を、主の民である私たちが生活の中で行い、実践していくことを願っておられます。 つまり、キリスト者の生活を通して、神と隣人を愛する律法の精神を受け継いで生きていくことを望んでおられるということです。新約のキリスト者にとって、律法は救われるための義務や条件ではありません。すでに救われたから、神への感謝と隣人への愛のしるしとして、律法の精神を受け継ぎ、善を行って生きるのです。 そういう意味で、新約のキリスト者は、救われた者にふさわしい生き方として、律法を大事にして生きるべきでしょう。新約時代の今でも十戒の朗読を大事にすべき理由は、そのような意味があるからです。 宗教改革以来、改革教会では十戒をプロテスタントの重要な教理として認めました。使徒信条などの信仰告白によって「私たちが、どの方を信じているのか」を悟り、十戒によって「その方を信じている私たちは、どのように生きるべきか」を悟り、主の祈りによって「誰を信じ、どのように生きるべきか知る者は、何を祈るべきか」を悟るのです。ある文献によると、近代のヨーロッパの改革教会では、主日に午前、午後の二度の礼拝を行いましたが、午前には十戒を朗読し、午後には使徒信条を朗読する場合もあったと言われます。そして礼拝ごとに主の祈りを朗読したと言われます。志免教会は使徒信条や主の祈りは、常に大切に扱って朗読していますが、十戒は比較的に、おろそかにしているのではないかと、ここに来て反省しました。来年からの十戒朗読を通して、律法を完成してくださったイエス・キリストを記憶し、我々の生活を顧みるきっかけになればと願います。 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイによる福音書5章17-18節)イエス・キリストは律法の文字(律法の精神)から一点一画も消え去ることはないとおっしゃいました。これは昔のユダヤ人の誤解から生まれた「行いのために作られた掟(例えば、先週の昔の人の言い伝え)」を意味するものではありません。キリストを通して、「神や隣人を愛せよ」という律法の真の精神が、絶対に変わることなく固く守られるという意味です。2022年は、イエス·キリストにあって福音と律法をつり合いよく追い求める志免教会になることを願います。