律法の本義 -愛の命令。

出エジプト記20章1-17節(旧126頁) マタイによる福音書5章17-18節(新7頁) 律法の本義 -愛の命令 志免教会は来年から月一回、十戒の朗読をしようとしています。旧約の律法も神にいただいた大事な御言葉ですが、今まで志免教会は新約の福音に比べて、旧約の律法を比較的におろそかに扱ってきたのではないかと顧み、反省することになりました。今日は来年からの十戒の導入を控えて、律法の本当の意味、そして、福音との関係について話してみたいと思います。 皆さんは旧約の律法について、どう理解しておられますか? 旧約聖書に出てくるユダヤ人の古い指針、人間の信仰より行いをあおり立てる、福音に反するもの、イエス·キリストの到来後に廃止された昔の仕来り。もしかして、このように律法を理解しておられないでしょうか。ヨーロッパの宗教改革者たちと代々のプロテスタントの神学者たちは、十戒を福音と比べて劣るものだとは考えていませんでした。むしろ、律法と福音が適切に調和するとき、教会がより正しく立てられると信じていました。新約聖書はイエス・キリストを律法の目標であると証言しています。律法がキリストに出会う時、つまり福音と調和する時、その意味がより完全になるという意味です。それだけに律法はキリスト以来の新約時代にも有効な神のご命令なのです。ですので、旧約の律法と新約の福音の調和は、キリスト者なら誰でも大事にするべき課題であります。キリストの福音にあって、律法の精神である「神への愛と隣人への愛」を実践する我々になってほしいと思います。 十戒とは、神がイスラエルの代表的な預言者モーセを通してご自分の民に授けてくださった、全ての律法を代表する最も重要な掟です。出エジプト記19章でイスラエルをエジプトから導き出された神は、彼らをシナイ山という聖なる山に集わせてくださいました。そして、イスラエルに仰せになりました。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出エジプト記、19:5-6)神はエジプトという神を知らない罪に満ちた地から、アブラハムとの契約の実であるイスラエルを解放させ、シナイ山という神のご臨在の場で彼らをご自分の民にされました。そして、イスラエルをご自分の民にふさわしく導かれるために、出エジプト記の20章から、神の律法を教えてくださいました。その時、最初に登場する律法の教えが、この十戒なのです。十戒に代表される律法は、イスラエルを神の民に招く、神の神聖な掟でした。そして、これから彼らが大切に守り、聞き従っていくべき、神の民の生活の指針でした。 十戒は、その構成が「神への愛」と「隣人への愛」という二つの部分として明確に分けられています。 1-4の掟は神への愛、5-10の掟は隣人への愛を示しています。 旧約本文は長すぎますので、原文に照らして要約したものを読んでみたいと思います。週報の裏側の志免教会のための十戒の交読をご参照ください。 志免教会の交読十戒 ※太字は司式者が、細字は会衆が朗読する。   わたしは主、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した、   あなたの唯一のまことの神である。 1. あなたには、唯一のまことの神、主のほかに神々があってはならない。 2. あなたは、自分のために、いかなる像も造り拝んではならない。 3. あなたは、唯一のまことの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。 4. あなたは、安息日を覚え、その日を聖別して守れ。 5. あなたは、父と母を敬え。これは、主が賜る地で長生きするためである。 6. あなたは、殺してはならない。 7. あなたは、姦淫してはならない。 8. あなたは、盗んではならない。 9. あなたは、隣人に対して偽証してはならない。 10. あなたは、隣人の家の全てのものを一切貪ってはならない。   わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。   廃止するためではなく、完成するためである (翻訳 金東佑、監修 九州中会教師 富樫史朗、澤正幸、崔(チェ)炳(ビョン)一(イル)、金(キム)山(サン)徳(ドク)) このように十戒は、神がイスラエルの民にお求めになった、神への愛、隣人への愛といったキリスト者の望むべき生き方を示しています。 ある意味で律法は言葉どおりに、旧約の民の生活のための、宗教法、刑法、民法、憲法など数多くの法を記した、いわゆる法典だとも言えるでしょう。しかし、律法にはそれ以上の意味があります。律法は単なる法律を超える神と隣人への愛の実践を促す、旧約の信仰者の生活の基準です。しかし、時間が経ち、ユダヤ人たちは律法の精神を誤解し、自力で律法を完全に守ることで、すなわち行いを通して、義とされ、救われると間違って考えるようになりました。このような律法への誤解は、神の恵みではなく人間の行いを大事にさせ、弱い信仰や事情によって行いがうまく守れない隣人を卑しめさせ、律法の外の異邦人を憎ませる副作用を生み出すようになりました。そのため、現代のキリスト者の中には「キリストの福音によってのみ、救われるものだから、行いを強調する旧約の律法なんかは、もう要らない。」と主張する人もいます。 しかし、新約聖書ローマの信徒への手紙は、明らかに示しています。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」(ローマ10:4)主イエス・キリストは律法の目標として、すでに律法を成し遂げてくださいました。「主イエスが自分の代わりに律法のすべてを成し遂げてくださった。」と信じる者は、そのイエス・キリストによって救われると新約聖書は力強く証ししているのです。しかし、だからといって律法を無視しても良いという意味ではありません。「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」(ローマ3:31)キリストは律法を完全に成し遂げられ、キリストの中で完成された律法を、主の民である私たちが生活の中で行い、実践していくことを願っておられます。 つまり、キリスト者の生活を通して、神と隣人を愛する律法の精神を受け継いで生きていくことを望んでおられるということです。新約のキリスト者にとって、律法は救われるための義務や条件ではありません。すでに救われたから、神への感謝と隣人への愛のしるしとして、律法の精神を受け継ぎ、善を行って生きるのです。 そういう意味で、新約のキリスト者は、救われた者にふさわしい生き方として、律法を大事にして生きるべきでしょう。新約時代の今でも十戒の朗読を大事にすべき理由は、そのような意味があるからです。 宗教改革以来、改革教会では十戒をプロテスタントの重要な教理として認めました。使徒信条などの信仰告白によって「私たちが、どの方を信じているのか」を悟り、十戒によって「その方を信じている私たちは、どのように生きるべきか」を悟り、主の祈りによって「誰を信じ、どのように生きるべきか知る者は、何を祈るべきか」を悟るのです。ある文献によると、近代のヨーロッパの改革教会では、主日に午前、午後の二度の礼拝を行いましたが、午前には十戒を朗読し、午後には使徒信条を朗読する場合もあったと言われます。そして礼拝ごとに主の祈りを朗読したと言われます。志免教会は使徒信条や主の祈りは、常に大切に扱って朗読していますが、十戒は比較的に、おろそかにしているのではないかと、ここに来て反省しました。来年からの十戒朗読を通して、律法を完成してくださったイエス・キリストを記憶し、我々の生活を顧みるきっかけになればと願います。 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」(マタイによる福音書5章17-18節)イエス・キリストは律法の文字(律法の精神)から一点一画も消え去ることはないとおっしゃいました。これは昔のユダヤ人の誤解から生まれた「行いのために作られた掟(例えば、先週の昔の人の言い伝え)」を意味するものではありません。キリストを通して、「神や隣人を愛せよ」という律法の真の精神が、絶対に変わることなく固く守られるという意味です。2022年は、イエス·キリストにあって福音と律法をつり合いよく追い求める志免教会になることを願います。