帰っていくべき地。

創世記23章1-20節(旧32頁)          ヨハネによる福音書14章1-3節(新196頁) 前置き サラが神に召されました。長い間、夫と共に、神の民として生きてきたサラ。しかし、彼女の人生には数多くの出来事があり、その度にサラは傷つき、挫折しながら生きてきました。「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。」(ヘブライ11:11-12)けれど、彼女には神への信仰がありました。時には信仰の失敗もありましたが、それでも信仰を持って生きてきた彼女は、最終的に息子を得、その名前どおりに「諸国民の母」という誉も得ることになりました。確かにサラには短所もありましたが、神はその短所よりは彼女の信仰を見て、彼女を導いてくださいました。神は民の短所ではなく信頼をご覧になる方です。「私は出来ないが、神はお出来になる。」という信仰を持って生きる者は、一生、神に導かれ、終わりの日に褒められるでしょう。 1.サラを葬るアブラハム。 サラはヘブロンのマムレに葬られました。前回の説教のモリヤの山での出来事の後、アブラハムとイサクはベエル・シェバに帰ってきたのですが、なぜ、サラはヘブロンに葬られたのでしょうか。(ベエル・シェバとヘブロンの距離は約60km)ユダヤのあるラビはこのように主張したと言われます。「ふだん、アブラハムの信仰を妬んでいた天使たちが、アブラハムとイサクがモリヤに向かう間、サラにアブラハムの計画を言い付け、仲たがいをさせた。サラはその話を聞いてアブラハムの後ろを追った。サラは結局、二人を逃し、ヘブロンで立ち止まった。その後、アブラハムとイサクは無事に帰宅したが、衝撃を受けたサラはヘブロンに滞在し、夫と別居した。結局、サラはその衝撃の故に息を引き取ることになった。」昔のラビたちの話は信憑性が低いので、事実として受け入れる必要はありませんが、私たちはこの話からサラの悲しみを垣間見ることが出来ると思います。おそらくサラはイサクを生け贄にすることで、ひどく傷ついたはずです。我々は時々「神の御心だから」という言い訳で、知らず知らずに隣人を傷つけることがあります。人々は息子を捧げたアブラハムの信仰だけを称賛しがちですが、妻サラの心はどうだったでしょうか。聖書をさまざまな側面から読み、黙想しながら、神への信仰と隣人への愛と配慮の関係について深く考えるべきではないかと思います。 「サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり、ヘトの人々に頼んだ。」(創世記23:2-3)一生、サラと共に生きてきたアブラハム、妻の死去は、彼にとって大きな悲しみになったことでしょう。ある研究によると、「配偶者の死は子供の死を超える大きな衝撃を与える。」と言われます。いつも一緒だった人が亡くなってしまうと、比較できない甚だしい喪失感がやって来るからです。サラの生前、アブラハムは彼女を二度も見捨て、また側女との関係を傍観して、サラの心を傷つけました。アブラハムの悲しみは、そういう過去への悔恨からもたらされたものではないでしょうか。今、私たちのそばにいる人は本当に大切です。連れ合いを大事にして愛するべきです。今は日常ですが、いつか、「さよなら」と言う時が来るからです。また、先に連れ合いを亡くした方々は、過去の愛を記憶し、赦すべきことは赦し、大事にして生きるべきでしょう。さて、先に読みました3節には「立ち上がる」という表現がありましたが、これはヘブライ語で「クム」という表現です。どこかで聞いたこと、ございませんか。先週、登場したアラム語の「タリタ・クム」に係わりがあります。「クム」には「起きる、立ち上がる」という意味もありますが、何かを「確定する、確かめる」という意味もあるそうです。妻の死を経験したアブラハムは、今後の何かをはっきり定めるために立ち上がったのです。(ヘブライ語とアラム語は近い言語。) 2.ヘブロンの土地を買い取った理由。 「わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです。」(創23:4)アブラハムが立ち上がった理由は、妻のために墓を買い取るためでした。ところで、この墓はサラ一人だけのためのものではありませんでした。「こうして、マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、土地とそこの洞穴と、その周囲の境界内に生えている木を含め、町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立ち会いのもとに、アブラハムの所有となった。」(倉23:17-18)(新共同訳ではアブラハムの所有となったと記されているが、原文では前のクムを使ってアブラハムの所有と確定されたと記されている。)アブラハムはマムレの前のマクペラの洞穴と、その他を買い取りましたが、このマムレは非常に大事な場所でした。創世記18章で神の御使いたちがアブラハムに訪れた場所がマムレでした。神は、そこでイサクの誕生と、世界の全民族がアブラハムによって祝福に入ると確定してくださいました。マムレは神の民アブラハムが信仰的に成長するたびにいた場所です。つまり、ヘブロンのマムレは「神の民アブラハム」という存在が養われた場所であり、神とアブラハムの子孫イスラエルの関係を証明する記念碑的な場所であったのです。妻の死後、アブラハムは神との約束を記憶し、妻はもとより、自分と子孫たちの帰るべき「約束の地」を確実にしようとしました。それでマムレを買い取ろうとしたわけです。 「どうか、 御主人、お聞きください。あなたは、わたしどもの中で神に選ばれた方です。どうぞ、わたしどもの最も良い墓地を選んで、亡くなられた方を葬ってください。わたしどもの中には墓地の提供を拒んで、亡くなられた方を葬らせない者など、一人もいません。」(6) 「どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴も差し上げます。わたしの一族が立ち会っているところで、あなたに差し上げますから、早速、亡くなられた方を葬ってください。」(11) アブラハムが、その土地を買おうとした時、先住民の指導者だったエフロンは、土地をただであげると言っていました。しかし、それは婉曲な拒絶を含む表現でした。本音と建前という概念がありますが、エフロンの行動がそれに似ていました。エフロンは、表向きでは親切に行動しましたが、裏では土地を売りたくない気持ちを持っていました。しかし、アブラハムは神が確定してくださった、この地を必ず所有しなければならないという信念を持っていました。 結局、エフロンは銀400シェケルという、土地の本来の価値より、はるかに高値を示しました。それでも、アブラハムは意に介さず、その土地を買い取りました。神は創世記15章13節で、アブラハムの子孫がエジプトで400年間奴隷として生きるだろうと予言されました。アブラハムは妻の死をきっかけに、神が約束された土地を妻と自分が葬られる土地として買い、以後、自分の子孫たちが帰ってくるべき場所として備えたわけでした。 3.「主の民には帰るべき所がある」 古代ユダヤの墓を上から見下ろすと、まるで手のような形になっていたと言われます。入口に入ると手のひらのように広い場所があり、死者を亜麻布に包んで安置したそうです。そして数年後に、その遺体が骸骨になると、指のような別の墓室に移したということです。そのため、先祖の遺骨が古ければ古いほど、内側に安置されたそうです。つまり、同じ墓に同一家系の人々が代々に葬られるわけです。旧約聖書には、このような表現があります。「あなたは先祖の列に加えられる。」ユダヤ人にとって最も名誉ある死は、安らかに死に、先祖の墓室に安置されることであり、最も不名誉な死は遺体が毀損(きそん)されて先祖の墓室に入れないことです。そして、最後の日、復活の日には、その骨に生命が立ち戻り、蘇るということが彼らの信仰でした。それほど、アブラハムが妻と自分の墓に気を遣ったことには、子孫のためのこういう理由があったのです。実際に息子のイサク夫婦も、孫のヤコブ夫婦も(レアだけ、ラケルはベツレヘムに。)マクペラの畑の洞穴に葬られます。とにかく、マムレのマクペラにはアブラハムの子孫に与えられた、神からの恵みの場所であり、彼らが必ず帰るべき土地であるという記念碑的な意味がありました。現代にも外国に暮らしていたユダヤ人が、死後にイスラエルに葬られる場合が少なからずあると言われます。先祖の列に加えられたいという考え方が今でも残っているからです。 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ福音書14:1-3)今日の旧約と新約の本文の間に神学的な関りがあるかどうかは、私には、はっきり見つけられませんでした。しかし、アブラハムの子孫であるイスラエル民族に必ず帰るべき地があったように、私たちキリスト者にも必ず帰るべき所があるという点で、今日の新約本文が強く思い浮かびました。旧約が語る地という概念は、神の祝福と恵みを意味し、新約になっては、この地の意味がイエス・キリストの御救いに変わることになりました。神の祝福された神殿の意味がイエス・キリストの教会共同体と変わったように、旧約の地の概念も新約の主の御救いに変わったわけです。 締め括り アブラハムが、自分たちの帰っていくべき地であるマクペラの洞穴を備えたとすれば、我が主イエス·キリストは、ご自分の血潮によって御国に帰って行ける御救いを備えてくださいました。我々は、イエスを通して真の神に出会い、その方の国に入ることが出来るのです。アブラハムが愛する妻と子孫のために土地を買い取ったように、イエス·キリストは愛する民の救いのために、ご自分の血を流して神への道を設けられました。本日、旧約の本文を見ながら、我々は記憶しなければなりません。旧約のアブラハムが行なったことを、新約では誰が行なったのか、神の約束の地を記憶させた旧約のアブラハムの出来事を黙想しつつ、神の御救いを約束された新約のキリストを共に記憶すべきでしょう。 私たちには必ず帰っていくべき地があります。そこには苦しみも、悲しみも、痛みも、差別も、民族も、国家もありません。ただ、キリストの支配と神の愛だけがあるだけです。私たちは必ず帰っていかなければなりません。父なる神がキリストを通して、主の前に出てくるすべての民を喜んでお迎えくださるでしょう。 そのような信仰を持ってアブラハムの物語を理解し、キリスト・イエスの恵みを覚える私たち志免教会になることを願います。

生と死の支配者、キリスト。

列王記上17章17-24節(旧562頁)        マルコによる福音書5章35-43節(新70頁) 1.「会堂長ヤイロ」 今日の新約本文のヤイロはユダヤ教の会堂長でした。ところで、ヤイロが長として働いていた会堂とはどんな場所でしょうか? その由来を知るためには、旧約の歴史を探ってみる必要があります。旧約のイスラエルがバビロン帝国に滅ぼされた時、ソロモン王が建てた最初のエルサレム神殿は無残に破壊されました。イエスの時代のエルサレム神殿は、捕囚から解き放たれたイスラエルの民が建てた第2の神殿で、改築されたものでした。会堂は最初の神殿が破壊された後、無くなったエルサレム神殿に代わる場所として作られ、ユダヤ人の共同体を代表する建物でした。この会堂はイエスの時代に約300ヵ所が存在していたと言われていますが、ユダヤ人は会堂が神殿のように主のご臨在の場所だと信じていたそうです。そこではモーセ五書に関する研究、説教、教育などが行われ、時には民法、刑法、宗教法などを取り扱うこともあったと言われています。つまり、この会堂は宗教と社会をまとめるユダヤ社会の中心とされていたわけです。そして、ヤイロは、この会堂を指導する偉い身分の会堂長だったのです。私たちは今日の本文でイエスの御前に力なくひれ伏しているヤイロを見て、会堂長が持つ存在の重さを見落しがちかもしれませんが、当時の会堂長は相当な宗教的、社会的な権威を持っている者でした。 「会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(5:22-23)そんな会堂長ヤイロが働きを始めたばかりのイエスという若者にひれ伏したということは、自分のプライドを捨て去る、大きな勇気を伴う行為でした。ユダヤ教の指導者が、当時のユダヤ教において異端児のように見なされていたイエスに頭を下げるということは、会堂長の職を諦めようとするほどの覚悟があったからでしょう。ここまで自分のことを屈服させたヤイロは、イエスがすぐに自分の家に駆けつけて娘を治してくれると期待していたはずです。しかし、イエスは赴く途中、前回の説教の出血病の女に出会い、時間を使いました。一刻を争う状況でしたが、イエスには余裕があるように見えました。おそらく、ヤイロは、焦りと不安で辛かったことでしょう。その時、遠くから何人かの人々が駆けて来ました。「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」(5:35)彼らは、ヤイロの娘が、結局亡くなったという訃報を持って来た者らでした。イエスが到着する前に、ヤイロの娘は息を引き取ってしまったのです。 2.「信仰とは待ち望むこと」 しかし、主は依然としてお急ぎになりませんでした。「イエスはその話をそばで聞いて、恐れることはない。ただ信じなさいと会堂長に言われた。」イエスはヤイロに二つのことを求められました。それは「恐れるな。」と「ただ信じなさい。」でした。ここで、私たちはその前の表現にもっと目を注ぐべきだと思います。「イエスはその話をそばで聞いて。」この表現は「じっと聞いている。」というよりは、「それを聞いて気にしなかった。」というニュアンスで解釈したほうが、より正しいと思います。イエスは、「人々が何と言っても、あなたはそれに心を奪われるな。恐れずに、ただ私を信じなさい。」と求められたわけです。私たちの人生の中で自分の心を奪う自我からの声、社会からの声、この世からの声が、如何に多いことでしょうか。「私の知る限り、これは違うだろう。」「ニュースではそれは違うと言っただろう。」「この日本ではそうなるわけがないだろう。」など、数多くの声があります。しかし、主はそのすべての他の声を気にせず、ただ主のお声だけを聞くことを望んでおられます。私たちの信仰は、私たちの状況によって揺れるものになってはいけません。どんな状況であっても揺れることなく、ただ主の約束、御言葉だけを信じる信仰にならなければなりません。これを通して、キリスト者が追求すべき信仰の特徴が分かります。 我々の信仰を、真の信仰にする原動力は、イエス・キリストの存在そのものにあります。いつも揺れ動いてしまう私の「信じる。」という感情が、私の信仰を定めるわけではなく、私に信仰をくださり、その信仰を守り、保たせてくださる、移り変わりのない主イエスだけが私たちの信仰をお定めくださる方なのです。こんなイエスの御前で、「娘は死んだ。もう諦めよう。」という人々の声には、何の意味もありませんでした。イエスがヤイロの家に行かれることを、すでにお決めになり、その決定には「必ず、君の娘を治してあげる。」という主の約束が含まれていたからです。ヤイロに信仰と約束をくださった主は、ご自身が与えてくださった、その信仰と約束に答えくださるために、必ずヤイロの娘を生かしてくださるでしょう。大事なことは主の御心とご意志です。主の御心とご意志がある限り、必ず成し遂げられると信じるのが、真の信仰なのです。ですから信仰には待ち望むことが必要です。約束を必ず成し遂げてくださる主への待ち望みが必要なのです。神は高い確率で私たちが願っている時ではなく、神のお定めになった時に応えてくださる場合が多いです。ヤイロはその主の時を待ち望みました。切迫していましたが、出血病の女と共におられる主を待ち望んでおり、すでに娘の訃報を聞いたにも拘わらず、変わらず主を待ち望んでいました。主が死んだ娘のところに着かれるまで、彼は主を待ち望み続けていました。静かに主の時を待ち望むこと、それが、まさにヤイロの真の信仰の現れだったのです。 3.生と死を支配なさるイエス。 「一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。人々はイエスをあざ笑った。」(5:38-40)主がヤイロに堂々と「恐れることはない。ただ信じなさい。」と言われた理由は、主の御目に少女の死は死ではなく、ひと眠りから起き上がるための過程に過ぎなかったからです。ヤイロに娘を治してやると約束なさった主イエスにとって、娘の死は、間もなく目覚めるに決まっているひと眠りに過ぎませんでした。先駆けて、主はヤイロに信仰を与えてくださいました。そして娘の救いを約束してくださいました。待ち望みつつ主の約束を信じていたヤイロの信仰を通して、主は「君の娘は死んだのではなく、ただ寝ている。」という、この世の観点とは全く違う、新しい観点で世を見通す目を与えてくださいました。つまり、キリスト者に信仰が与えられたということは、この世を見直せる、新しい目が開かれたという意味なのです。ですから、私の自我からの声、社会からの声、この世からの声は何の力も持つことが出来ないのです。ただ主の約束の御言葉と主の約束を信じる我々の信仰があるだけです。人々は少女が寝ていると言われた主をあざ笑いましたが、主は彼女の手を取って実際に起き上がらせてくださいました。「タリタクム、少女よ、起きなさい。」ヤイロの信仰に応えてくださった主のご宣言によって、愛する娘の死という恐怖は、本当にひと眠りのようなものに変わってしまいました。 「タリタ、クム」という主のご宣言の中で、この世を虜にしていた死の権勢は、単なるひと眠りのように弱まってしまいました。 私たちがキリストの復活を信じ、そして、私たちもキリストのように終わりの日に新たなる存在として復活することを信じる理由は、このように主が死の権勢を弱めてくださったからです。主イエスはすべてを死に追いやる、ガリラヤ湖の嵐を静められました。ゲラサ人の地方で出会った悪霊に取り付かれていた者から、汚れた霊を追い払われました。12年間も出血病で苦しんでいた不浄な女を清めてくださいました。そして、今日の本文を通しては、既に死んでしまった少女を起き上がらせてくださいました。このすべての奇跡は、この世を支配していた邪悪な死の権勢へのキリストの勝利を意味します。主はすでに勝利を持って、この世に来られました。ですから、主はご自分を信じる者たちに信仰をお求めになるのです。「私はすでに勝利を持ってきた。私の勝利を受け入れるか否かは、あなたたちの信仰次第である。」主は聖書の御言葉を通して、私たちに、このように勝利なさった主への信仰を求めておられるのです。 私たちはすでに勝利を持ってこられ、主ご自身への信仰を求めておられる、キリストの御前にどのような生き方で生きるべきでしょうか? 締め括り 今日の旧約本文の言葉はアハブという悪い王が治めていたイスラエルの暗黒時代、神の預言者であったエリヤが、ある少年を蘇らせた話で、今日の新約の本文に非常に似ています。エリヤがある寡婦の息子を死から生き返らせた時、寡婦はエリヤに向かってこのように叫びました。「今私は分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」今日の新約本文は、おそらく、このような旧約のエリヤの物語と、ある程度、関りがあると思います。私たちは今日の旧約と新約の物語を通して、少女を生き返らせた主イエスが神から遣わされた方であり、その方を通して私たちに与えられる御言葉が、真実な神の御言葉であることが分かります。このように主は死を退け、生命をもたらす真の勝利者であり、その民に信仰をお求めになる信仰の主であります。私たちの生が、主による信仰に基づいた生であることを望みます。今日も主が私たちの間におられ、私たちの信仰の中で働いておられることを信じつつ生きることを願います。聖と死を支配される主、本当の勝利者イエスは、今日も我らの信仰を求めておられます。

ヤーウェ・イルエ(主が備えてくださる。)

創世記22章1-19節(旧31頁) ヨハネの手紙一4章9-10節(新445頁) 前置き 世の中で一番偉大な愛とは何でしょうか。神が人類を愛する無条件的な愛、いわゆるアガペーの愛を除いて、最も崇高で偉大な愛は断然子供に向けた親の愛、ステルゴではないかと思います。(ギリシャ語、ステルゴは献身。家族、親、子、君主への愛)恋人への愛を意味するエロスは、最初は燃え上がりますが時間が経つにつれて冷めていき(夫婦の愛はエロスから始まってステルゴになる)友達や恩師への愛、つまりフィレオは愛の感情というより、友情あるいは尊敬、尊重に近いでしょう。しかし、子供への親の愛、つまりステルゴは子供のために喜んで命を懸ける、献身的な愛なのです。もしかしたら親の愛ステルゴは人間の愛の中で、神の愛であるアガペーに最も似ている愛なのかも知れません。いつか、こんな話を読んだことがあります。朝鮮戦争の時、南下してくる北朝鮮軍が撃った砲弾のかけらに当たった、ある若い母親が、自らは死に行きながらも子どもを生かすために乳を飲ませ、母親の犠牲によって生き残った子どもが米軍によって救助され、養子縁組されたという話です。実に涙ぐましい母の愛の物語です。このような物語は、どの文化圏にでもあり、人々に親の愛を悟らせます。それだけに親の愛は何よりも偉大な愛であり、民族と文化と国家を貫く真の愛なのでしょう。 1.アブラハムに与えられた試練。 母の日、父の日でもないのに、冒頭から親の愛を取り上げた理由は、今日の本文に世の中で何よりも大切な息子を生贄にしなさいと、ご命令なさる神と、それに応ずるアブラハムの物語が登場するからです。アブラハムは前の21章で、愛する息子であるイシュマエルを捨てなければなりませんでした。「このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。」(21:11)たとえ、本妻サラの圧力と神のご命令の故にイシュマエルを行かせてしまったとしても、父アブラハムはイシュマエルも愛していたはずでしょう。しかし、アブラハムは神の御言葉に聞き従い、薄情にも息子を去らせてしまいました。おそらくアブラハムは、イシュマエルを捨てたことに罪悪感と苦しみを覚えたことでしょう。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(22:2)ところで、神は今度は100歳で儲けた最も大切な息子であるイサクさえ、焼き尽くす献げ物としてささげなさいと命じられたわけです。長男を去らせ、また残った次男さえも、お求めになる神。アブラハムも一人の父親として、親の愛、即ちステルゴの愛を持っていたはずです。にも拘わらず、主はアブラハムに、その最も可愛い息子を自分の手で殺し、その肉体を切り裂いて、祭壇で焼き尽くせという恐ろしい命令を下されたのです。 もし、私がアブラハムでしたら、何日も思い煩っていたことでしょう。神に「代わりに私を死なせてください。」と乞い願ったかも知れません。しかし、神の御命令をいただいたアブラハムは、一言もなく神の御言葉に従いました。「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。」(3)神学校に入学する前、ただ文字の上でだけ聖書を読んだ時の私は、到底、このアブラハムを理解することが出来ませんでした。いくら神の聖なる試練であるからと言っても、子どもを殺す仕打ちは、親として許せないと思ったからです。「三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えた。」(4)しかし、教師になって本文を研究する際に、アブラハムの苦しみと悲しみの感情に気付くことになりました。ある解説書によると、4節の「目を凝らすと。(直訳.目を上げて眺めると)」という表現には、聖書には記されていないアブラハムの苦悩が含まれているそうです。何気なく見えたアブラハムにとっても、息子の犠牲は、心が裂けるほどの痛みだったのです。しかし、アブラハムは、これまで自分の人生を正しく導いてくださった神が、この先もきっと正しく導いてくださると信じ込んでいたでしょう。しかし、それにもかかわらず、その神の本当の御心を知るためには、いちおう息子を神に捧げる、人間としては耐えられない試練を経験しなければなりませんでした。これはアブラハムの一生の試練だったのです。 2. 神への徹底した信頼が無ければ認められない。 一時、私はこの本文に対して、自分のすべてを捧げて、信仰を貫かなければ神に祝福されないという風に説教したりしました。ですが、今では登場人物の感情を無視しすぎたのではないかと反省しています。もし、聖書の登場人物ではなく、私の隣人に、このようなことが起こったら、私は気軽に「神を信じて家族を捧げましょう。神が祝福してくださるでしょう。」と言えるでしょうか?なぜ、神はこんなに無理やりにアブラハムに求められたのでしょうか? また、アブラハムは、なぜ無理やりな命令に従順に従ったのでしょうか。「イサクは言った。火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。アブラハムは答えた。私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。二人は一緒に歩いて行った。」(7-8)アブラハムは、神の約束を信じ込んでいました。「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサクと名付けなさい。私は彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。」(17:19)神は、確かにイサクという、たった一人の息子を通して、契約を立て、民族を立ち上がらせてくださると、固く約束なさったのです。過ぐる数十年の間、神はアブラハムとの約束を覚えておられ、固く守ってくださいました。アブラハムは、長年、その約束の神を経験してきたのです。神へのアブラハムの信頼は絶対的なものだったのです。 新約のヘブライ人への手紙は、今日の場面をこう説明しています。「アブラハムは、試練を受けた時、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれると言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもお出来になると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」(ヘブライ11:17-19)ヘブライ書の記録者はアブラハムが、「もし神がイサクをお受けになっても、既に結んでくださったアブラハムとの約束を守ってくださるために、イサクを死者の中から蘇らせてくださる。」と信じていたと証しています。その分、アブラハムは現在の目の前の状況より、神の御言葉にもっと重きを置いて、最後まで約束の神を信じ込んでいたわけです。「アブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。その時、天から主の御使いが、アブラハム、アブラハムと呼びかけた。彼が、はいと答えると、御使いは言った。その子に手を下すな。何もしてはならない。」(10-12) 神の御言葉への限りのない信仰、そして、もし、そうでなくても、神がそれに相当する他の方法で必ず約束を守ってくださるという信頼。過去、数十年の間、数多くの失敗と過ちの中で信仰の浮き沈みを経験してきたアブラハムでしたが、今回は成熟した堅い信仰を持って最後まで神を信じ込んだのです。そして、神は彼の堅い信仰をご覧になり、ついに彼の信仰を認めてくださいました。「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。」いよいよ彼は神に信仰の父と認められるようになったのです。 3.ヤーウェ・イルエ、主が備えてくださる。 そもそも神は人身御供、つまり人を生け贄にお受けになる方ではありません。旧約聖書のあちこちで、神は異邦人が神々に自分の息子を捧げる人身御供を禁じられました。つまり、神は異邦人のように人の命を軽んじる方ではないということです。神は当初からイサクを供え物にさせようと思っておられなかったのです。神はあくまでもアブラハムの信仰をお試しになるために息子を捧げるようにと言われたわけです。アブラハムが息子を捧げようとした時、神の御使いは、それを阻んで神へのアブラハムの絶対的な信仰を確かめました。これは過去、数十年間のアブラハムの信仰が、本物か偽物かを究め尽くす最終段階のテストだったのです。時々、神はご自分の民に試練をお許しになります。しかし、その試練は民を苦しめるための試練ではありません。より一層豊かな神のご恩寵に導くための、神の恵みの手立てなのです。過去の試練は厳しかったが、後々顧みると、その試練があって良かったと思われる場合が少なからずあるでしょう。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリント第一10:13) 実際に神は、この試験の後、より多くの祝福をくださり、イサクの将来を明るく輝かしてくださいました。我々は人生の試練に遭う時、神の祝福が目の前に来ていることに気づくべきです。もちろん試練が大変であることは当然のことです。それでも神への信仰だけは失わず、必ず報いてくださる神を信じていきたいと思います。 「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行って、その雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。」(13)むしろ、神はこの出来事を通して、まるで鏡のように主の御業をお示しくださいました。数多くのキリスト教の聖書の解釈者たちは、今日の本文を通じて、神が御自身で成し遂げられる偉大な御業を予告してくださったと告白しています。アブラハムがイサクを捧げたように、御父は御子を生け贄にされたからです。神はアブラハムとイサクのために茂みに角をとられた雄羊を送ってくださいました。アブラハムはイサクの代わりに、その雄羊を捧げ、2人は無事に帰ることが出来ました。キリスト教の解釈者たちは、旧約のこの雄羊が、自分の民の身代わりに死んでくださる新約のキリストのモデルであると信じていました。主なる神は常にご自分の民を導き、民の道を開いてくださる方です。主は異邦の神々のように民を虐げる方ではありません。むしろ、主が先に苦しみと悲しみをお受けになり、後についてくる民を安全に守り、導いてくださる愛の神です。イエス・キリストは罪の故に裁かれなければならない、罪人のために神が御自身で備えてくださった贖いの生け贄です。アブラハムは息子を捧げようとする信仰を見せただけですが、神は実際に独り子イエスを犠牲になさり、ご自分の民への真実な愛を確証してくださいました。 締め括り 「アブラハムは、その場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも、主の山に備えありと言っている。」(14)今日、アブラハムが祭壇を築いたモリヤの地の語源は「ラアー」ですが、その言葉には「備える。」という意味があります。そして、この「ラアー」は今日の説教の題に出てくる「イルエ」の語源でもあります。同じ語源を持つモリヤとイルエ。これは偶然の一致なのでしょうか? 主は初めからイサクを生かす御計画だったのです。その代わり、主は遠い後日、ご自分の独り子を犠牲にして、民の犠牲ではなく、ご自分の犠牲によって彼らを赦し救ってくださいました。三位一体のお一人の御子が死ぬということは、絶対に有り得ないことでしたが、父なる神は、それをなさったのです。三位一体において、それは大きな苦しみでした。私はその神の痛みについて、よくこう説明したりしました。「御父が民のために御子を死に追い込んでくださったことは、人が自分の胸を切り裂いて心臓を取り出すことでも比べ物にならないほど、極限の苦しみである。」それだけに主なる神は民を愛しておられる方なのです。主はご自分の民のために、まるで心臓のように大事な息子を進んでお捨てになったわけです。そして復活させることによって、御子を信じるすべての者に、真の赦しと和解を与えてくださいました。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。私たちの罪を償う生け贄として、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネ第一4:9-10)神の愛には限りがありません。そのような神が与えてくださる試練は、私たちの信仰を養うための、もう一つの愛の表現なのです。試練を恐れず、常に私たちを愛し、共に歩んでくださる神への信仰と愛を持って生きることを願います。

あなたの信仰があなたを救った。

出エジプト記29章38-46節(旧143頁)         マルコによる福音書5章21-34節(新70頁) 前置き 前回の説教でイエスは、湖の向こう岸の異邦の地であるゲラサ人の地方に足を運ばれ、汚れた霊に取りつかれた人を治してくださいました。これはイエスが御自分の本来の民であるイスラエルだけでなく、異邦人までもご自分の民として受け入れてくださる宣教の出来事でした。ここで汚れた霊に取りつかれたという意味は、一個人が精神的に狂ったということを超えて、神に対抗する悪の権勢に支配される世の中と社会の不条理を意味する、社会的な意味をも持っていました。主は、ゲラサ人の地方で、そのような悪の権勢に苦しめられている人をお治しになることで、キリストの癒しと教えと宣教が、この地方でも始まったということを教えてくださったのです。「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。」(20)ところで、主は悪霊に取りつかれていた人を治してくださった後、これ以上デカポリス地域には行かれず、またガリラヤに戻っていかれました。その代わりに主は、ご自分が治された悪霊に取り付かれていた人をデカポリス地域に遣わされました。主に治していただいた、その人は元々イエスと同行しようと思いましたが、主はむしろ彼を地元にお遣わしくださることで、主の御業を宣べ伝えさせられました。すなわち、主は彼を宣教師として派遣してくださったのです。この地上に宣教師として来られたイエスは、主の民を呼び出し、癒してくださり、教えてくださることで、彼らを再び宣教師として行かせる方です。このように宣教は神から始まり、その民、すなわち教会を通して行われるものなのです。 1.会堂長のヤイロと出血病の女性 「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。」イエスがまた、向こう岸にお渡りになると、大勢の群衆が主のところに集まってきました。その時、一人の男が主を訪ねてきました。「会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(22-23)ヤイロという人は当時のユダヤ人の中でも宗教的な権威を持っている、いわゆる「偉い方」でした。彼は会堂長で、その村の宗教指導者だったのです。そしてある意味でイエスを最も警戒する反対側の一人でした。そんなヤイロが危篤な娘のために、警戒すべきイエスの御前に出てきて、高いプライドを捨て、ひれ伏したわけです。彼が大事にしたのは、自分の自尊心より死んでいく娘が救われることでした。23節の「助かり」という表現にはギリシャ語「ソーテーイ 」つまり、「救い」の意味が含まれています。彼にとって「救い」とは、死んでいく娘が全快することでした。彼は会堂長という自分の地位も、ユダヤ教という宗教も、いかなる医学も、娘を治せないことに気付き、最後にイエスを訪ねたのです。そして主は快く彼の家に足を運ばれました。 ところで、今日の本文は25節で突然、会堂長のヤイロの物語から12年間も出血の止まらない女(以下、出血病の女)へ眼差しを移します。ヤイロの娘は死にそうな状態で、すぐさま駆けつけねばならず忙しいところに、なぜ本文は、いきなり他の人に関心を注ぎ始めるのでしょうか。初め説教が長くなるかと思って、ヤイロと出血病の女の物語を2回に分けてお話しする予定でしたが、実はこの会堂長ヤイロと出血病の女の物語は、ひとつの話なのです。(21-43)ハンバーガーを食べる時、2枚のパンの間に具材を差し入れて食べることと同じように、この物語は2つに分けられているヤイロの物語の間に出血病の女の物語が挟まれている様です。まず、ヤイロが娘のために主と出会い、主が娘のところに赴く途中、出血病の女に出会って治され、また、主が、すでに死んでしまったヤイロの娘を生き返らせるという仕組みなのです。ハンバーガーを具材別にではなく、一口で一緒に食べることと同じように、この物語も、ひとつの話として受け止めるべきなのです。本文は会堂長ヤイロと出血病の女という二人の信仰を通して、主イエスの御業を示すために、このようなハンバーガーのような仕組みで話を展開しているのです。それでは今日は出血病の女の信仰について話してみましょう。 2.命をかけてイエスを求めた出血病の女。 本日、登場する出血病の女は、当時イスラエル社会において極めて不正な存在とされていました。そもそも旧約律法で女は不正な存在と考えられていましたが、その理由は女性が子供を産む存在だったからです。これを聞くと「出産は生命を生む神聖な行為なのに、なぜ不正に扱われるだろうか?」と疑問が生じるかもしれません。「神は女に向かって言われた。お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。」(創世記3:16)なぜなら、古代イスラエルでは、出産の苦しみが人間の罪に対する神の呪いであるという間違った信念があったからです。出産時の出血、生理、女性の出血なども、それと同じ脈絡で理解できるでしょう。そのため、女と出血は律法において不正なものの一つでした。現代にも女性差別がありますが、イスラエルの律法までもが女性を悲しませていたわけです。また、律法は病気も不正なものだと見なしていました。今日、登場する出血病の女が極めて不正とされた理由は「女、出血、病気」といった3つをすべて持っている存在だったからです。「さて、ここに十二年間も出血病の女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」(25-26)しかし、当時の社会は、彼女の癒しのために何も出来ない状態でした。彼女は12年間、辱めと苦しみの中に生きてきましたが、快方に向かうことなく、さらに悪化し、かえって世間は非難で苦しめるばかりでした。そんなある日、彼女にイエスという方の噂が聞こえてきました。 哀れな出血病の女、人々は彼女と服が擦れることさえ不正だと思っていました。そういうわけで彼女は出かけることも出来ませんでした。不正な女が町を歩き回る途中に発覚したら、石に打たれて死ぬのは決まっていることでした。しかし、イエスという存在の噂は彼女が家の中にじっとしているのを許しませんでした。彼女はイエスに会うために出かけようと決心しました。それは命懸けの挑戦であり、険しい冒険でした。しかし、彼女はひたすらイエスを最後の希望にしていました。それはまさに彼女の信仰の表れでした。「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。」(27)彼女は死も気にせず、群衆の中に紛れ込んでいきました。発覚した瞬間、無惨に殺されるはずでした。しかし、結局、彼女は群衆の中からイエスの服に触れることになりました。「この方の服にでも触れればいやしていただけると思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。」(28-29)彼女はイエスだけは自分を清くすることがお出来になると信じており、その信仰通りに命をかけてイエスの方へ進みました。そして、イエスの服に触れた時、彼女は自分の信仰どおりに12年間の病気から救われることになりました。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、私の服に触れたのはだれかと言われた。」(30)その時、主は彼女が信仰を持って御自身のところに出てきて、また、その信仰によって治ったことをお知りになりました。 3.清めてくださる主イエスと出血病の女の信仰。 今日の本文が、ヤイロの家へ赴く途中、意図的に出血病の女性に目を注いだ理由は、当時の医師も、宗教も、社会も、治せなかった、この哀れな女を主イエスだけは治せるということを教えるためでした。旧約の律法には一つの法則があります。それは「清いものが不正なものに触れると不正になる。」ということです。イスラエル社会で不正な存在とされ、嫌われた、この女は人々の認識の中で、すべてを汚す、極めて忌まわしい存在でした。誰も彼女を清めることが出来ず、彼女を憎み、遠ざけるだけでした。しかし、イスラエルの中に彼女を清める、たった一つのものがありましたが、それは神殿の聖なる祭壇でした。「祭壇に触れるものはすべて、聖なるものとなる。私はその所でイスラエルの人々に会う。そこは、私の栄光によって聖別される。」(出29:37、43)私たちは旧約の律法を読む際に、聖と俗を分けて差別を煽っていると感じられるかも知れません。しかし、神は明らかに御自身からの祭壇を通して不正なものを聖なるものにする手立てをくださいました。律法では死んだ獣の肉が不正なものと記されていますが、なぜ、神に捧げる生け贄の肉は聖なるものと見なすのでしょうか?律法によると遺体はすべて不正なものではないでしょうか?色々解釈があるでしょうが、私は、肉そのものが聖なるものではなく、聖なる神の栄光によって祭壇が神聖になり、その祭壇を通して捧げる肉も主の栄光によって聖なるものに変わるためではないかと思います。 しかし、残念なことに、当時の不条理なイスラエル社会では、出血の故に嫌われ、迫害される彼女を祭壇まで連れて行く憐みも愛もありませんでした。ただ差別し、憎み、排除するだけでした。その時、真の神、祭壇を聖別される方、ご自分の民のために自らを犠牲になさる主イエスが、彼女の前に現われたのです。そして、彼女の信仰通りに、イエス·キリストは不正な女に服を触れられたにも関わらず、むしろ彼女を清く治してくださいました。社会は彼女を祭壇に連れても行かなかったのですが、主イエスは彼女の前に、神聖な祭壇より、もっと神聖な御自身を現わし、直接会ってくださったのです。「イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(32~34)12年間、不正な存在とされ、隠れて過ごさざるを得なかった女性、彼女は「イエスだけが、自分の不正を清めてくださる。」という信仰を持って、命を懸けて主の服に触れ、 その信仰通りに清められました。世のすべての人々は彼女を汚い女性と評価しましたが、主は彼女を神の娘と認めてくださったわけです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」彼女を娘と呼ばれた主の宣言の中には、彼女の信仰に応えられる神の救いがありました。 締め括り。あなたの信仰があなたを救った。 聖書は、常に神への信仰を求めています。「あなたが信じた通りになる。」という言葉で、私たちの信仰を促しているのです。しかし、私たちの信仰とは、私の情熱と努力を意味するものではありません。 出血病の女は命をかけて、主を訪ねてくる信仰の行動を見せましたが、彼女の信仰を真の信仰にした原動力は、不正を清める主イエスの存在にありました。したがって、我々の信仰の前提条件はイエス·キリストという存在の完全さから始まるのです。私たちは、そのイエスが完全な方であること、その方だけが私たちを救ってくださることを信じる信仰によって本当の信仰者になるのです。つまり、自分の熱情的な信念によるのではなく、キリストの存在によって認められるのです。自分が罪人だと思われますか。自分はどうしようもない情けない者だと思われますか。もし、そうであれば、不正なものを聖なるものにしてくださる、主イエスに手を触れてください。その方だけは、自分を清められる方であるという信仰を持って、主の御前に進んでください。主は「娘よ、息子よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と宣言なさるでしょう。今日、出血病の女が救われる間に、会堂長ヤイロの娘は死んで、また他の不正な存在になってしまいました。しかし、完全な主イエスは、この後の出来事を通して、死んで不正になった娘を、蘇らせることで清めてくださるでしょう。ただ、主だけが私たちの信仰の対象であり、ただ、その方への信仰だけが、私たちを救いへと導くでしょう。その主の完全さを信じつつ生きる私たちになることを祈り願います。