福音の種と心の畑。

イザヤ書6章8-13節(旧1070頁) マルコによる福音書4章1-20節(新66頁) 前置き イエスの時代のイスラエルの民は、旧約の予言によって約束されたメシアが必ず来るだろうと信じていました。昔、神とアブラハムの契約によって約束された大いなる国民、モーセの導きによって民族の基礎を築いた選ばれた民族、偉大な王ダビデを通して築き上げられた強力な国家であることなどと。イスラエルは過去の栄光が再びもたらされると信じていました。メシアが現れ、かつてのアブラハムやモーセ、ダビデのような偉大な業を成し遂げるだろうと待ち望んでいたのです。つまり彼らが待っていたのは、当時イスラエルを支配していたローマ帝国と異民族出身のヘロデ王を追い出し、強力な国家を再建する政治的なメシアでした。しかし、ある日突然現れ、メシアと呼ばれたナザレの青年は、あまりにもみすぼらしい者でした。彼には軍隊も宮殿もありませんでした。いつも弱くて貧しい人々といる元大工にすぎなかったのです。そのため、マルコによる福音書3章ではイスラエルの指導者たちも、彼の家族たちも、彼を認めませんでした。しかし、彼の外見ではなく、真の価値を見抜いた人々には、人生が変わるほどの癒しと回復が与えられました。今日の言葉は、そのような3章の内容と深い関係を持っています。種を蒔く人の種として描かれた福音をどのように受け入れるかによって、その結果が変わるということを教えてくれるのです。 1.古代イスラエルの種まきの方法。 まずは、今日の本文に出てくる種を蒔く人の喩えが持つ背景から探ってみましょう。古代イスラエルでも基本的には現代の農業と同じような仕方で種まきをしていたそうです。つまり、種を蒔く前に土を耕して、その上に種を蒔き、覆うことです。「恵みの業をもたらす種を蒔け、愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。」(ホセア10:12)旧約聖書は、それを「新しい土地を耕す。」と表現しています。このような種まきの仕方は、小麦や大麦の種まきに用いられたのですが、冬の間、固まった土地を耕し、種が深く根を下ろせるように春の農作業によく用いられる仕方でした。ところで、イスラエルでは日本の稲作のように丁寧に田植えをするのではなく、小麦や大麦などの種を適当に撒き散らす方法を取っていたそうです。イスラエル地域は年間降水量がそんなに多くなく、土地には塩分が多かったので、水田農業に不適合なところだったからです。つまり、稲が育たない環境だったのです。そのため、主な穀物は乾きや塩分に強い小麦や大麦などでした。これがイスラエルの主な春の農作業でした。小麦や大麦以降の夏の農業としては、ぶどう、いちじく、オリーブなどがほとんどだったそうです。なので、今日のイエスの喩えは、まさに春の耕しの後の小麦と大麦の農作業に関するお話でした。 ところで、イスラエルは石灰岩が多い地域で、畑を耕しても多量の石や砂利が畑に残っていました。そしてイスラエルは比較的に乾いた気候のため茨の藪などの雑草もたくさん生えていました。だから種をたくさん蒔くと言っても、すべての種がよく育つわけではなかったのです。そういう意味で、日本での農業は自然の特に恵まれていると思います。イスラエルの農夫が小麦や大麦の種を畑に蒔くと、ある種は畑と畑の間の道端の硬い地面に落ちたり、ある種は石灰岩の石だらけで土の少ない所に蒔かれたり、ある種は茨の中に落ちたりするのです。それらの種は、結局鳥に食われたり、日に焼けて枯れてしまったり、腐ってなくなったりするのです。 しかし、その中でも、良い土地に落ちた種は、たくさんの実を結びます。 イエス様はこのようなイスラエルの農業を喩えにして、主の御言葉、つまり福音という種が人々の心の中でどのように反応するのかを説明してくださるのです。主の福音は毎日、聖書を通して、説教を通して、様々な宣教を通して世に伝わっています。信じない者たちにも伝わっていますが、既に信じている私たちにも伝わっています。しかし、そのすべての福音が、いつも実を結んでいるとは言えません。聞く者の心の状態によって、最初から成長しない場合も、しばらく心を響かせてすぐに消える場合も、福音の言葉が深く根を下ろして生活の中に、その恵みが現れる場合もあります。 2.イエスが喩えを通して教えられる理由。 ところで、イエスはなぜ、このような喩えを通して福音の言葉を宣べ伝えられたのでしょうか? 「イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。」(10)本文によると、イエスの喩えそのものは難しい内容ではなかったようです。ですが、その喩えの真の意味は分かりにくかったようです。 イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい。」(9)と言われ、喩えの本当の意味を悟れる者だけに聞かせてくださいました。 なぜだったでしょうか? 最初から分かりやすく伝え、一人でも多くの人が御言葉を聞いて悟ることが、より良いのではないでしょうか? しかし、我々は、すべての人々が福音を悟り、受け入れるわけではないことを知らなければなりません。確かに神はすべての人のために福音をくださいました。まるで今日、喩えの種を蒔く人のように、すべての人に福音が伝わるように、世界中に主の教会を建て、伝道させてくださったのです。だから、教会は神の御言葉を誠実に宣べ伝え、伝道しつつ生きるべきです。しかし、だからといって私たちの伝道のメッセージを聞いた、すべての人が神を信じるようになるわけではありません。ある人はとんでもない話だと無視したり、ある人ははむしろ反感を示したりします。人の心の畑の状態によって、ある人は道端のような心、ある人は茨の藪のような心、ある人は良い土地のような心を持って神の御言葉に反応するのです。 イエスをベルゼブルの手下だと考えていた律法学者たちは、モーセ五書の専門家でした。彼らはモーセ五書を完全に覚えており、律法書無しで朗読できるほどでした。しかし、彼らは律法の主であるイエスの福音が全く理解できず、むしろイエスを迫害しました。イエスの家族はどうだったでしょうか。イエス様と一生を一緒に暮してきた母親も、兄弟姉妹たちもイエスの福音が理解できなくて、気が変になっていると思っていました。 むしろ、イエスと何の繋がりもなかったイスラエルの貧しい者たち、弱い者たちがイエスの福音の真の価値に気づき、イエス様に付き従ったのです。今日の旧約本文はこう語っています。「主は言われた。行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。」(イサヤ6:9-10)主は真に自分の弱さを認め、神だけが自分を助けてくださる救い主であることを信じ、従順に聞き従う者に御言葉を悟らせてくださる方です。その反面、主を拒否し、自分自身を神のように高める傲慢な者には、むしろ悟りを塞がれる方でもあります。主の御言葉は目で読み、耳で聞くものではありません。主の御言葉は心で聞き、信仰で受け入れる、自らを省み、悔い改める謙遜な者に与えられる祝福なのです。 主の福音の実とは、自分のことを弁え、神の力に依り頼み、完全に聞き従おうとする者たちに与えられる主の恵みなのです。 3.「自分の心の畑を顧みさせる主」 そういう意味で、今日の言葉は私たちにくださる主の教訓でもあると言えるでしょう。教職者だといって皆が主の御言葉に適う人なのでしょうか? 聖書を数十回読み、ヨーロッパに留学し、聖書の原文を勉強し、多くの神学理論を知る牧師だと、果たして立派な信者なのでしょうか? 正直、私は教師としての自分のことを高く評価できません。毎週、説教していますが、自分の説教のように生きられない偽善的な姿が見えるからです。隣人愛を語りながら、隣人を愛していないことに反省させられます。伝道を語りながら、伝道していないことを省みさせられます。もしかしたら私は既に習得した神学理論と固定観念に閉じ籠り、毎日新しく与えられる主の御言葉に鈍く反応しているのかも知れません。そういう意味で、教職者こそ日々悔い改め、絶えず自らを振り返る場に立つべきだと思います。ひょっとしたら教職者が神の御言葉から最も遠ざかっている、まるでイエスの時代の律法学者のような存在かも知れないからです。それでは、私たちみんなはどうでしょうか? 日曜日に教会に出席し、一度、礼拝を守ることだけに満足しているのではないでしょうか? 主日の30分の説教に満足して、1週間ずっと主の御言葉から遠ざかって、御言葉から学んだ教えを実践もせず、道端、石だらけ、茨の藪のような心の畑を持って生きているのではないでしょうか? 伝道も、祈りも、隣人への愛も手放しで生きているのではないでしょうか? 我々は、自分の心の畑が本当に良い状態だと自負できるのでしょうか。今日の言葉を通して、私たち自身のことを顧みる時間になれば幸いだと思います。 主は毎日私たちに福音の御言葉をくださいます。主日の説教を通して、聖書の御言葉を通して、水曜祈祷会の聖書と教理の勉強を通して、絶えず御言葉をくださいます。しかし、その御言葉を受け入れる状態かどうかは私たち次第です。お祈りを通して自らを悔い改め、自分のことを弁え、自分の心の畑が道端ではないか、石だらけではないか、茨ではないか自分の状態をきちんと知り、改善して生きるべきです。改革派神学には「御霊の照明」という表現があります。つまり、主の民が御言葉を聞いたり、読んだりする時に聖霊なる神が悟りの光を照らしてくださるという意味です。キリスト者への御霊の照明は毎日照らされています。イエスは十字架の犠牲と復活を通して、御霊の照明が一分一秒も途絶えることなく私たちに照らされるように恵みを与えておられます。そして、神はそのキリストの恵みの中で、自らの心の畑を耕す務めを主の民に任せてくださいました。我々の心の畑は道端にも、石だらけにも、茨にも、良い土地にもなり得ます。したがって、我々は常に自分の心の状態を綺麗に磨き、主の御言葉にいつでも反応できるように自らの心の畑を立派に耕していくべきです。 締め括り 「イエスは言われた。あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがないようにするためである。」(11-12) 主イエス・キリストの福音は神の国の秘密です。つまり、誰もが理解できるものではないということでしょう。福音を聞いて、みんなが悟れるのであるなら、少なくとも日本の人口の4割はキリスト者になったはずでしょう。神はすべての人に向けて福音をくださいましたが、それを聞いて受け入れ、悟る人はごくわずかです。しかし、今日の新約本文の13-20節の言葉のように、主を信じるご自分の民たちには悟れる機会を与えてくださいます。だから、我々の心を綺麗に耕し、主の御教えを求めて生きていきましょう。毎日、悔い改めの人生を生き、神の御言葉を大事にし、実践できる力を求めて生きていきましょう。そのような私たちの人生の中に、主はご自分の御言葉による実を30倍、60倍、100倍も結べるよう導いてくださるでしょう。信仰は神と民の相互の契約です。主は悟りを与え、民はその悟りを得るために、聖霊のお導きの中で謙遜に生きるのです。そのような良い心の畑を持って生きていく志免教会になることを祈ります。

逆説的な神の恵み

イザヤ書40章6-8節(旧1124頁) ルカによる福音書15章11-24節(新139頁) 前置き キリスト教でよく使われている言葉の中には、どんな表現があるでしょうか。 まずは「神の愛、隣人への愛」のように愛に関する表現をよく使っていると思います。また、キリスト教の主な教えの一つである「悔い改め」という表現も、よく使われているでしょう。そして、先にお話ししました二つの言葉と同じくらいの頻度で「恵み」という表現も少なからず使われていると思います。「主の恵みに満ちた教会になりますように。」「日本と全世界の教会に主の恵みを注いでください。」などの言葉は、お祈りや説教の時でもよく使われている表現でしょう。「愛、悔い改め、恵み」いずれも大事な表現かと思いますが、特に今日は「恵み」という表現について話してみたいと思います。私たちは何気なく、恵みという表現を口にしていますが、果たして、この「恵み」とは何を意味するものでしょうか。人間が抱いている漠然とした意味としての「恵み」ではなく、聖書が私たちに語っている恵みについて、探ってみたいと思います。 1.ご自分の民を滅ぼされる(?)神。 冒頭から「民を滅ぼす神」というかなり違和感のある表題語が書いてありますが、これは実際に民が神に滅ぼされるという意味ではありません。これは、私たちが漠然と考えている「復興、平和、喜び」ばかりのイメージとしての恵みだけではなく、時には「衰退、苦難、逆境」なども、神の恵みとなり得るということを強調するための表現なのです。恵みとは、ヘブライ語では「ヘセド」、ギリシャ語では「カリス」と言いますが、いずれも「契約に基づいた神の一方的な恩寵、慈悲、憐み、賜物」のことだと言われます。ここで重要なことは「契約に基づく」という表現でしょう。神の恵みとは「人間が身勝手に振舞っても関係せず放っておく。」という意味ではありません。神と人の「契約(旧約の神とイスラエルの契約、新約のキリストと教会の契約)」の中で、神が人を正しい方向に導いてくださるということを意味します。「契約」とは、神が主になって民を導き守り、民は主なる神だけにつき従って仕えるという相互約束としての意味を持っています。つまり、神の御心に従って生きるのが、神との約束に対する人のあり方であるということです。 神は主の恵みの中で、神とのこの契約を忠実に守る者たちを神との旅路にお招きくださいます。そして終わりの日、彼らが神に召され、神のもとへ帰るまで、神は彼らを導いてくださるのです。キリスト教が語る恵みとは、まさにそのようなものなです。天地万物をお創りになった神が、「私」という小さな存在を最後までお見捨てにならず、支えられ、御国に至るまで同道してくださるということです。自分がこの世で権力者になり、すべてのことがうまくいって成功し、お金をたくさん儲け、気楽に生きることが恵みではなく、神の御心に聞き従い、苦難の中でも神を拠り所にし、成功の中でも神を忘れず、主に召されるその日まで、いや死後でも、その神と共に歩むことこそが、まさに真の恵みなのです。だから、もし神の民と呼ばれる者が神の望んでおられる人生を生きていないなら、神の恵みに適う人生を生きていないなら、神は彼を恵みに連れ戻してくださるために、ご自分の民に試練と苦難とを与えてくださる時もあります。その時の試練と苦難は非常に苦しいものですが、結論的には神に帰るための「恵み」となるのです。 2.枯らす恵みの後爆風 私は2001年から2003年にかけて軍隊の炊事兵(調理兵)として生活をしました。ある人は戦闘兵、ある人は運転兵、また、ある人は行政兵として軍隊生活をしますが、私は行政兵に属する炊事兵だったのです。ところで、戦闘兵の中に迫撃砲兵という兵種もいました。迫撃砲とは地面に据え付けて使う武器で、拳サイズの砲弾を放つ武器です。ところで、その砲兵が訓練中に前方に迫撃砲を撃つと、後方の草や木が枯れてしまうことがよく見られるそうです。まさに迫撃砲が噴き出す後爆風のためです。後爆風とは、砲弾が放たれる時に生じる熱や衝撃を、迫撃砲の後尾に噴き出す強い熱風のことです。前方の敵に向かって迫撃砲が発射されますが、その砲の後爆風の故に後方の草が焼けて枯れてしまうのです。いきなり軍隊の武器の話を出して、ええっとされたかもしれませんが、私が神学校に通っていた時、私を指導した担当教授は、このような比喩をあげて神の恵みの特徴について説明したりしました。 神の恵みは、人間の罪によって汚れた世界を新たにする日まで(キリストの再臨の日)この世に生きるご自分の民を諦めない、神の変わりのない愛です。神は主の民を正しい道に導いてくださるために、神の恵みの反対側に向かう者たちを恵みの後爆風で枯らされる方です。主は「愛、信仰、救い、従順、奉仕」を求めておられますが、その反対側で「情欲、不信心、不従順、嫌悪」を追い求める主の民がいれば、彼に人生の試練と苦難を与え、その罪と情欲の生活を枯らし、主のもとに帰らせてくださる方です。たとえば、牧師や宣教師になるという誓願を破って、わがままに生きていた人々が、どうしようもない人生の逆境にあって、結局、神のもとに帰り、教会に仕える場合が、この恵みの後爆風による例の一つでしょう。ただ聖職者だけでなく、病気によって、ビジネスの失敗によってなどの様々な理由で神から遠ざかった人が倒れて帰ってくる場合が多いと思います。今日の新約本文の「放蕩息子」のたとえも一種の恵みの後爆風に関する物語だと思います。 3.逆説的な神の恵み。 ルカによる福音書15章の今日の本文は、キリスト者なら誰もが知っている有名な物語です。ある人の次男が、父の遺産をあらかじめもらって遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くした挙句、結局、全ての財産を無駄遣いしてしまいました。豚の餌さえも食べられなくほど困窮した彼は、結局、我に返って父の家に帰ることになります。その時、父は彼を喜んで迎え入れてくれます。もし彼がすべてを失わなかったら、彼は決して父のもとに帰っていかなかったでしょう。彼の失敗と苦難が、かえって父のもとへ帰る理由になったわけです。その例え話の父親は父なる神の象徴です。このように神は愛する者の回復のために苦難も与えられる方です。愛するからこそ苦難を与えられるのです。まるで親が訓戒によって愛する子供を教えるように、神も戒めによってご自分の民を導いてくださるのです。神の御心に聞き従わない、とあるキリスト者がただ成功するばかりで、何の苦難も経験しないなら、むしろそれは神の祝福ではなく呪いであるかもしれません。神は罪と悪に陥っている愛するご自分の民を枯らしてでも必ず恵みの道へと導かれる方だからです。 このように神の恵みは、人間が漠然と理解している成功や祝福だけを意味するものではありません。最も重要なことは、神様は「民が欲望に満ちて、不正な豊や成功の中に生きるのではなく、神との契約の中で変わることなく共に生きることを望んでおられる。」ということです。その道のりで肉体的な豊や成功が与えられる場合もあるでしょうが、それが信仰の目標だとは言えません。 主の恵みは、この地上での肉体的な幸いだけでなく、死後の永遠の命まで、つながっていることを忘れてはなりません。その永遠の命と幸いのために、主は苦難という名の恵みを下されるのです。だから、苦難と逆境に直面した時の私たちは「神の恵みが切れた。」と考えるより、「神の恵みがより一層強く私たちに与えられている。」と考えるべきです。そのような試練と苦難の中で真の悔い改めを回復し、主のお助けを求めて生きるのが神の恵みへの正しい理解でしょう。 締め括り。 「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イサヤ40:6-8)旧約のイスラエルの民は自分たちの豊と栄のために神を裏切りました。異邦の偶像を拝み、社会の弱者を苦しめました。強い国には弱者から奪い取った財物を貢ぎました。結局彼らは神に裁かれ、滅びてしまいました。しかし、主は今日の旧約本文であるイザヤ書40章全体を通して、神がイスラエルを滅ぼされても、主の御言葉を通して再び興すと約束してくださいました。この約束は真の主の御言葉でいらっしゃるイエス・キリストによって成就されました。しかし、罪に満ちた過去のイスラエルは草と花のように枯らされました。その代わりに神の御言葉による新しいイスラエル、教会を打ち立ててくださったのです。私たちはこのような逆説的な主の恵みを覚えつつ生きるべきです。ご自分の民を主の道へ導いてくださることこそが真の恵みなのです。欲望の満足が恵みではなく、神の御心通りに導かれるのが本当の恵みなのです。その点を心に留め、主の恵みへの正しい理解を持って生きる志免教会になることを祈り願います。

真実を見抜く目。

 サムエル記上16章1-13節(旧453頁) マルコによる福音書3章31-35節(新66頁) 前置き 人間は世界を自己中心的に認識する傾向の存在です。クイズを出してみましょう。次はどの国に関する内容でしょうか? 「ナシレマッ、プトラジャヤ、バハサ・ムラユ」 おそらく、何のことなのか全くお分かりにならないと思います。それでは、これはいかがでしょうか? 「ハンバーガー、ニューヨーク、イングリッシュ」 この言葉は多分お分かりだと思います。それではこれはいかがでしょうか? 「お寿司、大阪、日本語」一番前にお話ししたのは、マレーシアの代表的な食べ物、ナシレマッ、代表的な行政地区プトラジャヤ、そしてマレーシア語を意味するバハサ・ムラユでした。遠いし、あまり興味がないので、普通の日本人は知らない人が多いと思います。しかし、アメリカの食べ物、都市、言語の場合は日本と多少関係があるため、お分かりになるでしょう。もし寿司、大阪、日本語が分からないなら、その人は日本人ではないでしょう。このように人は自分のことを中心に物事を認識していく傾向があります。このような自己中心的な認識は人のアイデンティティを築いていく大事なものでしょうが、また、多くの偏見と限界をもたらすものでもあります。そのため、人間は世界を自己中心的に歪曲して認識したりします。人間はいつも真実とは関係ない自己中心的な受け入れ方で、すべてのことを判断するものです。今日の本文は、イエスの身内の人々がイエスをどのように認識し、誤解していたのかについて教えています。互いによく知り合っている家族という歪んだ認識のため、メシアを見損なったイエスの身内の姿。このような姿が私たちのなかには無いでしょうか。今日は真実を見抜く目について話してみたいと思います。 1.自分の認識を通してイエスを理解していた主の親族。 今日の本文には含まれていないですが、前回の説教の本文には、このような言葉がありました。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。あの男は気が変になっていると言われていたからである。」(マルコ3:21)イエスが貧しい群れを「癒し、教え、宣教している時」主は食事も碌に摂れないほど、ご多忙の状況でした。一方では主は世話をしなければならない可哀想な人々を助けられ、他方ではイエスを中傷する人々と論争をしておられました。当時、イエスに対する評価は二つに分かれていました。1つは、「イエスは神に遣わされた偉大な預言者である。」という肯定的な評価と、もう1つは、「イエスはイスラエルを乱す気狂いである。」という否定的な評価でした。多くの人がイエスに癒され、苦しみから抜け出して自由を得てイエス様を称えました。しかし、ある人たちはイエスの権威を認めず、イエスへの間違った噂を作り出しました。イエスに対する偽りの認識から脱し、信仰を持って頼んだ人々は癒しを得、イエスの本質をまともに認識するようになりましたが、イエスに対する偽りの認識を作り、イエスを信じない人々はイエスを「気が変になっている。」と歪曲してしまったのです。ところで、残念なことに、イエスの身内の人々はイエスについての良い噂ではなく、悪い噂を受け入れたということでした。なぜなら、彼らは家族という固定した視座からイエスを認識していたからです。 聖書には、こういう言葉があります。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけであると言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いて癒されただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがお出来にならなかった。」(マルコ6:3-5)いくら、イエスが偉大な命の言葉を宣べ伝えられるといっても、イエスの故郷の人々はイエスを、ただの隣の息子、知り合い、平凡な人として受け入れました。今まで自分たちが持ってきた認識の中においてだけ、イエスのことを考えていた彼らは、神がイエスにくださったメシアという大事な役割への認識を見逃したというわけでした。そして、そのような認識を見逃がした人々に、イエスは何の奇跡も行うことが出来ませんでした。神は人の信仰をご覧になってお働きになる方ですが、歪んだ認識を持っている彼らには全く信仰がなかったからです。同じくイエスの身内の人々は、歪んだ認識による不信仰によって、イエスに与えられた本当の役割、つまりメシアとしてのイエスのことを見抜くことが出来なかったのです。 2.人は自分がすでに認識したものだけを受け入れようとする。 旧約からも認識に関する話が見られます。今日の旧約本文で、イスラエルの第一代の王であったサウルの不信仰の故に、神は新しい王を立てようとされました。そのために神は預言者サムエルをベツレヘムの人エッサイのところにお送りになりました。サムエルがエッサイに会い、彼の息子たちにも会った時、彼はエッサイの長男であるエリアブを見て、「彼こそ主の前に油を注がれる者だ。」と思いました。おそらくエリアブは王になれるほどの容姿を持っていたのでしょう。ところが、その時、神はこう言われました。「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16:7)エッサイには8人の息子がいましたが、エリアブを含む7人の息子たちは、みな候補から外れることになりました。かえって神は、エッサイが呼びもしなかった素朴な羊飼いの末っ子ダビデをお選びになり、満足され、彼を王に立ててくださいました。サムエルも含め人々は人の外見だけを見ました。しかし、神は人の心をご覧になり、王を立てられたのです。サムエルとエッサイの頭の中には、「王と言えば、こうあるべきだ。」という過去から作られてきた認識があったのでしょう。しかし、神は人々の持つ、そのような固定観念を超越し、真に王とするに値する存在を見つけ出されたのです。これは人間の間違った認識が神によって拒まれたということでしょう 旧約本文7節で「目に映ること」とはアインというヘブライ語を翻訳した表現です。これは「自分が好きなものだけを見る。」という意味で、創世記ではエヴァが知識の木の実を見た時に使われた言葉です。エヴァの目に、その木の実はとても見栄えの良いものでした。しかし、神の御目にその木は、人間に死をもたらすものでした。サムエルの目に、エレアブは非常に立派に見えました。しかし、神様が知識の木の実の本質を知っておられたように、エリアブは本質的に神の御心に適わない者でした。「長兄エリアブは、ダビデが兵と話しているのを聞き、ダビデに腹を立てて言った。何をしにここへ来たのか。荒れ野にいるあの少しばかりの羊を、誰に任せてきたのか。お前の思い上がりと野心は私が知っている。お前がやって来たのは、戦いを見るためだろう。」(サムエル上17:28)末っ子という自分の固定した認識により、ダビデをお遣わしになった神の御心に気づくことが出来なかったことから、彼が王になれなかった理由が分かります。神は本質をご覧になる方です。人間の本質である心をご覧になる方なのです。まだ、若くて未成熟なダビデでしたが、彼の心の本質は、神への純粋な信仰に満ちていました。その本質を見抜かれた神がダビデをお選びになり、彼にイスラエル王国をお預けになったのです。「私は人間が見るようには見ない。」神の御心と人間の思いは違います。しかし、人間は自分が、すでに認識したものだけを選ぼうとします。しかし、それはいつも神の御心と相反する可能性を持っています。そして、その人間の認識は、神への信仰を妨げる要素になりがちです。 3.信仰―自分が持っている認識を飛び越えること。 大信仰問答を始めた時、私たちは神認識という言葉を学びました。それは「人間は神をどう認識するのか?」という質問から始まるものでした。ある人は路傍の地蔵尊を神だと認識したり、ある人は神社の巨木を神だと認識したり、ある人はお寺の仏像を神だと認識したり、またある人は一介の人間を神だと認識したりします。いくら、彼らに聖書の御言葉を見せながら、真の神はイエス·キリストの父なる神だと言っても、そう簡単には信じられません。なぜならば、すでに彼らには、歪んだ神認識が備わっているからです。だから、伝道が難しいわけです。この前の説教でイエスを悪魔ベルゼブルの手下だと中傷した律法学者たちも、結局は自分の認識に捉われ、イエスの存在を押し曲げたのです。また、イエスに「気が変になっている。」と乱暴に言ってしまった何人かのユダヤ人も、自分の認識に捉われ、イエスを信じられなかったのです。そしてイエスの身内の人々さえも、イエスの存在を正しく認識できず、自分たちの経験と考えに閉じ籠ってイエスのことを誤解したのです。 このように人間の認識は、人が信仰によって生きるのに大きな障害になるものです。 「大勢の人が、イエスの周りに座っていた。御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます。」(32)今日イエスを取り押さえに来た家族は、その歪んだ認識による不信仰のため、イエスを一介の人間、自分の子供、兄弟、親戚にしか考えられませんでした。「まさか、彼がメシアであるはずがないだろう?」これがイエスの家族の認識だったのです。その時、イエスは人がどんな認識を持って生きるべきなのか教えてくださいます。「イエスは、私の母、私の兄弟とはだれかと答え、周りに座っている人々を見回して言われた。見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」(33-35)主はただの同じ血統、家柄、出身がイエスの家族の印ではなく、到底信じられない状況であっても、イエスの本質を受け入れる者たち、自分の認識を飛び越えてキリストによる新しい認識を受け入れる者たち、すなわち神の御心を行う人たちをイエスの家族と呼んでくださったのです。ここで私たちは真の信仰とは、自分が持っている認識の範囲の中でのみ信じるのではなく、自分が持っているすべての認識と思想を超越し、神がお望みになるものを受け入れ、信じる時にはじめて、生まれるものであることが分かります。信仰を持っている私たちは、今日、自分が持っているすべての自己中心的な考え方を神に捧げ、ひとえに神の御言葉が示すことを受け入れようとする生き方を持つべきでしょう。自分が認識している範囲の中だけで信じることは、自分の認識によって歪められ、結局は変質してしまうものだからです。 締め括り。 「私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(フィリピ3:7-9) 当時のユダヤ最高の学者、ガマリエルの弟子として、ファリサイ派の次期指導者として適任者だった使徒パウロは、キリスト者を迫害するために、勢いよく振舞っている途中、主なるキリストに出会い、キリスト者となりました。彼はローマ市民権を持ち、前途有望なファリサイ派の人でした。しかし、イエスに出会ってからの彼は、自分が持っていた、すべての認識と思想を残さず捨てました。そして彼は、真の霊的真実、つまり真理であるイエスの福音を追い求め、殉教してこの世を去りました。しかし、彼は偉大な使徒として、2000年が経った今でも我々に福音の教えを宣べ伝えています。真実を見抜くためには、自分の知識と認識を捨てなければならない時もあります。自分が持っているものが、全てではないということを認めなければならない時もあるものです。自分の考えを抑え、聖書が教えてくれる神の御言葉で自分の認識を満たしていく時、私たちは真実を見抜く目を得られるでしょう。今まで、一生、自分が正しいと思ってきた全ての物事には、いつでも移り変わる恐れがあります。変わることなく永遠なものは、唯一の神と、その御言葉だけであるということを覚え、自分のことを弁え、へりくだって生きる志免教会になることを願います。

ソドムが滅ぼされた理由。

創世記19章1-11節(旧25頁)ユダの手紙1章7節(新450頁) 前置き 私たちは、なぜ神様を信じるのでしょうか? 教会に行けば心の平和を得るから、聖書の御言葉を聞けば慰められるから、祈れば不安が消えるから、イエスを信じれば天国に行くと言われるからなど、数多くの信仰の理由があるでしょう。しかし、平和、慰め、安定、天国は信仰の目標ではなく、信仰がもたらす賜物に過ぎないというのが聖書の主な教えです。私たちに信仰が与えられた理由は、神と共に生きる人生そのもののためです。私たちを造られ、救われ、導かれる三位一体なる神と共に生きさせるため、私たちに信仰が与えられ、その人生の結果として私たちに平和、慰め、安定、天国が与えられるということです。ですから、信仰が持つ真の意味は「キリストを通じて神様を信じ、神と共に生きる人生」と言えるでしょう。それでは、果たして神と共に生きる人生とは、どんな人生なのでしょうか? マタイによる福音書22章37-40節では、そのような生き方を神と隣人を愛する人生だと教えています。神を信じ、一緒に生きる人なら、神と隣人への愛を実践して生きるべきであるということです。結論から申し上げますと、今日本文のソドムと周辺地域が滅ぼされた理由は、まさに、この神への愛、隣人への愛、つまり愛の無い社会だったからです。ソドムの人たちは、どのように生きていたので、神に裁かれ、滅ぼされたのでしょうか? 本文を通して確認してみましょう。 1.なぜ、神はお裁きになるのか? この前、説教で私はこんなことを言ったことがあります。「神の御愛と御裁きはコインの両面のようなものです。」神は、この世を愛する方であり、ヨハネ第一の手紙には 「神は愛だからです。」という語句もあるほど、愛は神の代表的なイメージです。しかし、神の愛は公明正大で、正義に満ちた愛です。すべての存在を愛するという言い訳で、何の関心もなく、世の中を無秩序に放っておいたら、それは愛ではなく、むしろ無関心になるでしょう。ですから、神は神の御心に逆らう物事には裁きを下される方なのです。裁きを通して、この世の秩序を守ってくださり、世への真の愛を示してくださるわけです。しかし、明らかなことは、神は、ただ滅ぼすために裁かれる方ではなく、すべての存在が救われることを望んでおられる方だということです。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(テモテⅠ2:4)前回の旧約本文と今回の本文の間には、神とアブラハムとの会話があります。本文が長過ぎになると思い、やむなく省略したのですが、その内容は皆さんがよくご存知だと思います。「もし、ソドムに10人の正しい者がいるなら、その十人のために私は滅ぼさない。」という内容です。(創世記18:16-33) その言葉の中には、こういう語句もありました。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。 私は降って行き、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びの通りかどうか見て確かめよう。」(創世記18:20-21)もし、神が無慈悲な裁きだけを望んでいる存在だったら、神はあえてソドムの行跡をご自分で確かめるために御使いを遣わされなかったでしょう。すでにご存知のことをお確かめになる必要がないからです。しかし、神は御使いたちを遣わされ、ソドム地域の人々に本当に重い罪があるかどうか、自ら確かめようとされました。彼らに小さなことでも正しい姿があれば、赦してくださるお気持ちを持っておられたからでしょう。ソドムに御使いたちをお送りになる神にアブラハムは、「もし、あの町に正しい者が何人かいたら。」と仮定して、しつこく神の憐みを求めました。 なぜならば、ソドムには甥ロトも住んでいたからです。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。」(創18:23)アブラハムは、たとえロトと財産の葛藤で別れたといっても、ロトが信仰者であり、正しい者だと思っていました。だから、アブラハムは甥のために、神にしつこく訴えたわけです。これは即ちアブラハムの執り成しの祈りでした。自分の必要だけのための祈りではなく、自分を捨て去った甥のための愛の祈りだったのです。そこで、神はその祈りをお聞きになり、10人でも正しい者がいるなら滅ぼさないと約束され、アブラハムの祈りを受け入れてくださいました。 2.「ソドムの人々の罪」 夕方に神の御使いたちは、ソドムの門のところに到着しました。その時アブラハムの甥ロトは、神からの二人の御使いを見て迎えました。 「二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏した。」(創世記19:1)ロトは叔父のアブラハムのように、神の御使いに会うやいなや、歓待して自分の家に招き、叔父のように手厚く持て成しました。これによって私たちは、ロトもアブラハムのように寄留者を歓待する信仰者であることが分かります。また、ロトが座っていた門という場所からも、ロトの性格を推し測ってみることが出来ます。 旧約時代の城門は、地域の指導者が民衆の気の毒な事情を聞き、判決を下した場所でした。おそらく、ロトは正当な裁判にも目を注ぎ、社会的な正義を守ろうと努める人だったわけでしょう。たとえ過去に財産による葛藤でアブラハムと別れたロトだといっても、彼は基本的に神の御言葉を大切にし、正しく生きようとする人だったと思われます。しかし、後に出てくるロトの行為の故に、彼にも信仰の欠点があったことが分かります。それを知るためには、まず、ソドムの人たちの罪から探ってみる必要があります。そのソドムの人々の罪による出来事を通じて現れるロトの姿から、私たちはロトの過ちを見つけることが出来るからです。 それでは、ソドムの人々の罪は何だったでしょうか。18章20節には「訴える叫び」という表現があります。これは「暴力を告発する訴え、大号泣、苦しみによる叫び」を意味するもので、他人によって苦しめられる人間の苦しみと悲しみを意味する言葉です。神がソドムを裁こうとなさった理由は、ソドムによってソドム周辺の人々、より正確には弱い者たちが受ける苦難を見付けられたからです。今日の本文では、そうしたソドムの罪を、ある出来事を通して詳しく見せています。「彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、 わめきたてた。今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」(4-5)夜になって御使いたちが休もうとする時、ロトの家の外では大騒ぎが起こりました。それはソドムの人々が御使いたちに会いに来たことでした。 ここで私たちは、「なぶりものにする。」という表現を注意深く見守るべきだと思います。それは暴力的に性的関係を持つという意味です。この表現は、男性が男性と性的関係を持つというニュアンスがあるため、時々同性愛を意味すると解釈する場合もありますが、この表現には、より深い意味が含まれています。それは自分たちの力を見せ付け、弱い者たちを暴力的に屈服させるという意味です。 私は、前の創世記の説教で、古代中東社会での歓待は一つの特定の社会の中でのみ、通じるものだったとお話ししました。たとえば、「ある種族同士は互いに親切にしても、その種族以外の人には親切にする必要がない。」という、社会的なルールがあったわけです。アブラハムの時代にはしばしば同性、異性を問わず、自分より弱い人に、性暴力を犯すことで自分が優位にあることを示そうとする悪習がありました。つまり、ソドムの人々の罪は、単なる性犯罪のレベルを超える、寄留者を押さえつけ、弱い者を苦しめる、歓待しない生き方にありました。ところで、このような姿はロトにも見えたのです。最初は罪に満ちたソドムの中でも、ロトは正しい者の姿を保っている様でした。ですが、ロトの一言によってロトもソドムの罪に染まっていることが分かります。 「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、私には、まだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」(倉19:7-8)一見、ロトは神の御使いを守ろうとする正しい心を持っているように見えました。しかし、ロトは神の御使いを守る代わりに、自分の娘たちを暴力の生け贄にしようとしました。結局、ロトも社会的な弱者である女性を簡単に暴力の被害者に追い込んでしまいました。残念なことにソドムに住んでいたロトさえも、不義に満ちたソドムの文化に染まってしまったというわけでした。 3.正しい10人の不在のため、滅ぼされるソドム。 結局、最後の希望だったロトさえ、正しくないと判定されました。 「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」(9)ソドムの人たちも、ロトも、結局は弱い者の世話をし、善を行う姿から遠ざかり、寄留者を抑圧し、弱い者を軽んじる罪を現わしてしまいました。しかも、ソドムの人々はロトをも攻撃しようとしました。実に阿鼻叫喚の様でした。彼らには、愛も、正義も、歓待もありませんでした。ただ、彼らは他人を抑えつけ、自分の欲望だけを追い求め、身勝手に悪を行う罪悪そのものの存在になっているのでした。こういうわけで、ソドムに赦しの機会を与えるために派遣された神の御使いたちは、ソドムを無惨に裁く審判官になってしまいました。神の御使いたちは、まるで、ソドムの人たちの霊的な状態を意味するかのように、彼らの目を潰し、その場から退けようとしました。以後、ソドムは神の激しい裁きにより、滅びてしまいます。神は華やかな供え物や多くの財物を願う方ではありません。神は神を愛し、隣人を愛する素朴だが正しい者の生き方から喜びをお求めになる方なのです。しかし、ソドムの人々は、そのような素朴で正しい人生より、自分の強さと力を誇り、隣人を貶め、結局、神まで蔑む人生を生きました。ソドムには、神の御心に適う10人がいなかったので、ついに滅ぼされてしまったのです。 締め括り 今日の新約本文にはソドムの罪に関する言及が記されています。「自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。」(6-7)ユダヤ人たちの伝説によると、ある天使たちが神の王座を狙ったところ、永遠の鎖に縛られ、裁かれたと言われます。ソドムの人々は、その堕落した天使たちに似ていました。彼らには、神への愛や隣人への愛なんて、重要ではありませんでした。過去の堕落した天使たちのように、ただ自分が高くなることだけを願っていたのです。他人を配慮せず、自分だけが高められる人生、一時は賢い生き方に見えるかもしれません。 世の中の政治家や金持ちの中に、このように弱者を配慮しない人は結構多いです。しかし、私たちははっきり知っておくべきです。私たちの社会が弱者を大切にしなければ、結局、神に裁かれ、滅ぼされるでしょう。ソドムの物語は、現代でも同様に適用される見せしめです。弱者を苦しめ、強者だけを高める社会は結局滅びるでしょう。私たちの教会は、このような社会において、どのように生きていくべきでしょうか。私たちはこの地域の正しい人10人として生きているでしょうか。神は隣人愛を通して、神への愛を確かめられる方です。神を本当に愛するなら、自分のことを弁え、隣人を尊重し、主が望んでおられる正しい生き方を実践しつつ生きるべきでしょう。