神の子イエス

創世記18章1-15節(旧23頁)マタイによる福音書18章10-14節(新35頁) 前置き もう、マルコ福音書を始めてから半年が経っています。それにも拘わらず、話の進みが遅すぎて、先々週やっと2章を終えて、今週からは3章に入ることになりました。もちろん、一週間おきに創世記をも取り上げているため、もっと遅くなっていると思いますが、マルコ福音書の短い文章の中には、奥深い意味が多く含まれていて、さらに遅くなっているかと思います。しかし、マルコ福音書には21世紀を生きる我々に、依然として有効な教えが、たくさん隠れているので、ゆっくり吟味しつつ語り合っていきたいと思います。イエスはローマ帝国の下で迫害を受けていた主の教会にキリストによる希望を与えてくださり、またイエスご自身が罪と悪に満ちたこの世に、どのように対抗なさったのかを教えてくださるために、私たちにマルコ福音書を残してくださったと思います。マルコ福音書を通して、主イエスがどれだけご自分の民を愛しておられるのかを、また現代を生きていく私たちに、どれだけ希望と勇気を与えることを望んでおられるのかを、一緒に学び、覚えていきましょう。今日は神の子イエスという題で皆さんとマルコ福音書3章の言葉を話してみたいと思います。 1.人を愛されたイエス·キリスト イエス様はマルコ福音書2章後半で、安息日の本当の意味について教えてくださいました。 ‘安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。'(マルコ2:27)主は安息日に宗教儀式としての礼拝だけでなく、神が与えられた隣人に愛を実践することで、真の安息日の精神を守ることを命じられました。今日の本文3章1-6節は、もう一度安息日を背景にし、イエス様が人をどのように愛されたのか、実践的なイエス様の生き方を示してくれます。当時、ユダヤ人は安息日に「働かないこと」という旧約の律法を誤解し、安息日に人を助けることさえ犯罪だと見なしていました。もともと律法が安息日の労働を禁じた理由は、「自分の欲望のための労働や娯楽を止め、神様に完全な礼拝を捧げなさい。」という意味だったからです。 つまり、きちんと聖別された安息日を過ごせとの意味だったのです。 しかし、イエス当時の宗教者たちは、それを誤解して安息日にすべての労働を禁止し、さらに隣人を助け、人を生かすことさえ労働と見なしてしまいました。特に、律法を研究していたファリサイ派の人々は、そのような評価基準に基づき、人々を罪に定めたりしました。 聖別のための禁止が、人を罪に定めるための禁止に変質したわけです。 「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。」(3:1-2)そのため、彼らは安息日に片手の萎えた人を治そうとしていたイエス様に注目し、何とかイエス様を罪に定めたがっていました。イエス様が前の2章で「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」と仰ったにもかかわらず、彼らはものともせず、イエスを不正な者として中傷するために血眼になっていました。それでも、主は彼らの評価よりも、片手の萎えた人を治されることに力を注いでおられました。ここでの「片手の萎えた人」という表現は、自力では何もできない弱い者を意味する表現です。しばしば聖書は「手」という表現を「力」と解釈したりします。神様は安息日という、本質を失い、口実だけ残っている宗教儀式より、安息日に何もできない者、他人の助けを切実に求めている者を助けることに心を注がれることで、真の聖別とは何か、神様の御心とは何かを教えることをお望みになったのです。そのために力の弱い者に力を与え、助けを求める者を助けてくださったわけです。キリストは神への真の礼拝とは、神様が私たちに与えて下さった隣人を愛し、助ける生き方を伴うことだと教えてくださったのです。 安息日の後、イエスはガリラヤ湖に足を運ばれました。その時、おびただしい群衆がイエスのところに従って来ました。彼らの中にはイスラエル人だけでなく、異邦の人々もいました。彼らはローマ帝国の支配下にある貧しくて哀れな人々でした。イエスのうわさをことごとく聞いた彼らは、自分たちの宗教やローマ帝国では満たされなかった慰めと癒しを請うために、イエスのそばに集まって来たのです。群衆はイエスに会うために押しつぶされるほど、たくさん集まりました。 しかし、イエスは彼らを無視なさらず、皆が怪我せずに主を見ることが出来るように、小船にお乗りになりました。イエスは彼らを癒され、悪霊を追い出してくださいました。イエスは彼らの苦しみと悲しみを知っておられ、治すことを望んでおられたのです。神の聖なる者、油注がれた者イエス·キリストは、人を愛し、彼らを助けるために来られた方でした。イエスは、真の神でありますが、人間でもある、神と人の間の仲保者でした。みずから人間になるほどに、主は人間を愛してくださったのです。神の子イエスは、このように神という絶対的な存在でしたが、人間を愛する憐れみの主でした。 そして、その主は今日もキリストの愛と助けを望んでいる、私たちを喜んで愛してくださる方なのです。 2.神の子という表現について。 「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、あなたは神の子だと叫んだ。」(3:11)その時、貧しくて病んでいる人々を苦しめていた汚れた霊どもは、イエスを見てひれ伏し、「あなたは神の子だ」と叫びました。イエスはまだご自分の時ではなかったので、彼らに「ご自分のことを言いふらさないように」と厳しく戒められました。御父から来られ、人間の間にいらっしゃるイエスは、実に神の子でした。そして、イエスを敵視する汚れた霊どもは、イエスが神の子であることを見抜き、証ししました。敵対する者がイエスを神の子と認めるとは、いかに皮肉なことなのでしょうか。ところで、イエスの当時のローマ帝国において、「神の子」という言葉には、どのような意味があったのでしょうか? 聖書がイエスのことを「神の子」だと証しするから、当たり前にイエスは神の子なのでしょうか? それとも、他の裏の意味があるのでしょうか?事実、この「神の子」という短い表現には、当時の歴史的、文化的、政治的な奥深い意味が隠されていました。イエスはなぜ、このように「神の子」と表現した霊どもを叱られ、戒められたでしょうか? これを理解するためにはイエスの時代から約400年前に遡らなければなりません。 紀元前、約360年ごろ、古代ギリシャの小さな国家、マケドニア王国にアレクサンドロスという王子が生まれました。当時、マケドニアはそれほど大きな国ではありませんでした。しかし、20歳になったアレクサンドロスは特有の勇猛さと実力を発揮し、周辺のギリシャ諸国とエジプトを征服していきました。彼はギリシャ、エジプト征服にとどまらず、西のペルシャを攻撃しました。当時のイスラエル民族はペルシャの支配下にありましたが、アレクサンドロスはペルシャを征服し、イスラエル民族をも支配することになりました。その後、アレクサンドロスは西へと進撃し続け、現在のインドの一部までも掌握し、ギリシャ帝国を打ち立てました。(広さ九州→アメリカ)このすべての征服活動は、わずか10年にしかならない短い期間に行なわれました。 それで人々は今でもアレクサンドロスを偉大な王という意味で、大王と呼びます。ところが、アレクサンドロスの業績は土地の拡張だけにとどまることではありませんでした。彼はギリシャの文化をペルシャとインドの地域まで伝え、西洋と東洋の文化が結びついた、いわゆるヘレニズム文化の発端となりました。以後、ヘレニズム文化は西洋に逆流入し、その影響はギリシャ帝国のみならず、ギリシャ帝国の滅亡後、ローマ帝国の全盛期にも影響を及ぼすほど、強力なものでした。 そのヘレニズムの影響で、ローマ帝国の支配下で記された新約聖書は、ほとんどがギリシャ語版であり、ローマ帝国が誕生する前、すでに旧約聖書はギリシャ語に翻訳されたのです。 ところで、アレクサンドロス大王は自らをゼウスの子だと言いました。つまり「神の子」だと主張したわけです。以降、ローマ帝国の皇帝たちが自らを神の子と呼んだ理由も、こうしたアレクサンドロス大王への羨望と嫉妬、尊敬の意味を盛り込んでいるためでした。したがって、イエスの時代にあって、「神の子」という言葉は、ローマ皇帝を意味する表現でした。ところで、イエスに敵対していた悪霊たちは、このようなイエスの真の存在意味を見抜き、イエスにまるでアレクサンドロス大王のような権威を込めて「神の子」と呼んだわけです。当時、「神の子」と呼ばれることには、政治的な意味が深くあったため、政治犯と見なされ、十字架につけられ、殺される危険性を持っていました。そういうわけで、イエスはまだご自分の時になっていないとご判断なさり、悪霊どもにイエスについて言い表すことを厳しく戒められたのです。当時のローマの皇帝は、自分の名誉と権力を高めるために、「神の子」と呼ばれることを望んでいました。貧しい人々を支配し、弱い者たちを征服し、もっぱら自分の既得権だけのために世界を治めようとしていたのです。しかし、真の神の子、イエスは彼らと違いました。イエスは「神の子」でいらっしゃいましたが、ご自分の名誉、権力、既得権のためではなく、父なる神が憐れんで愛しておられた弱い者たちの名誉、力、回復のために神の子として来られたのです。イエスはアレクサンドロス大王より偉大なお方でしたが、高いところではなく、最も低いところに来られ、愛と慰めと希望を与えてくださった、真の神の子だったのです。 締め括り 今日の旧約本文である詩編2編は、「神の子(メシア)への賛美」です。この詩篇2編がいつ記録されたのかは詳しく分かりませんが、イスラエル民族がバビロンに滅ぼされる前、王政時代に記録されたという仮説が有力です。つまり、アレクサンドロス大王やローマ皇帝を意味する「神の子」よりも、ずっと前の概念だという意味です。 おそらく、このような詩編2編の影響で、イエスの時代の人々も、神の子という表現に対する旧約のイメージを知っていたと言えるでしょう。 それにアレクサンドロスによるヘレニズム文化的な「神の子」という意味も知っていたはずでしょう。結局イエスは、このようなヘブライ的な、そしてヘレニズム的な文化が重なっているローマ帝国の支配下のイスラエル社会に真の「神の子」として来られた方なのです。しかし、イエスはこの世が示すローマ皇帝としての神の子ではありませんでした。詩編2編のように、世の権力の上におられ、この世とあの世、両方とも治められる真の神の子でした。 この真の神の子イエスは、いつかこの世の悪い権勢を退け、正義と愛の王として再臨されるでしょう。我々キリスト者は、そのイエスを信じて、イエスが行われた神と隣人への愛を重要な価値として、生きていくべきでしょう。 神の子イエスは、敵には審判者として、民には救い主として来られる方です。そのイエスの再臨を待ち望む存在として、イエスに倣い、聖別されたものとして、正義をもって生きる私たちになることを願います。

聖霊と教会。

ハガイ書2章1-9節(旧1477頁)エフェソの信徒への手紙2章14-22節(新354頁) 前置き キリスト教は、御父、御子、聖霊の三位一体なる神を信じる共同体です。創造から終末まで、すべてをご計画なさる父なる神と、その御父の御言葉であり、ご意志として神と人の間をお執り成しになる御子イエスと、御父と御子から遣わされ、教会と世を導いていかれる聖霊、このように3位が一つになって三位一体の神としておられる方です。しかし、私たちには主に父なる神と御子イエスにだけ集中する傾向があり、聖霊に対しては、よく見落としたりする場合があると思います。このように聖霊が見落とされる傾向について、アメリカの、ある神学者は、このように語りました。「聖霊は長い間、まるでシンデレラのような存在だった。2人の姉妹は舞踏会によく行き、シンデレラは全く行けなかったように、聖霊は御父と御子に比べ、いつも冷遇を受けた。」それほど、聖霊は頻繁には取り上げられない方だと思います。私たちは普段、聖霊について、どんな認識を持って生きているでしょうか? 実際、父なる神やイエス・キリストに比べて、聖霊への認識は薄いのではないでしょうか。私たちは毎年聖霊降臨節(ペンテコステ)を記念していますが、私たちの実生活の中で聖霊はどのような位置を占めておられるのでしょうか。今日は三位一体の聖霊と、そのご降臨について話してみたいと思います。 1.「聖霊がご降臨なさる。」 イエスは十字架で御救いを成し遂げられた後、3日目に復活されました。復活なさった主は40日間、弟子たちとイエスに従っていた人々に現われ、ご自分の復活を証しし、この世の終わりまで福音を宣べ伝えることを命じられました。そして昇天なさり、父なる神の右に行かれました。弟子たちは復活された主を目撃し、その方が本当に神の子であると信じるようになりました。それでも、彼らは主イエスの不在を恐れていました。しかし弟子たちは主の御言葉に従い、ご命令通りに行いました。その命令とは、神の約束、つまり聖霊の降臨を待つことでした。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1:4-5)生前のイエスは繰り返し聖霊が来られると予告してくださいました。 使徒言行録によると、その聖霊が降れば、主の民は神に力を受け、地の果てに至るまで主の証人になると記されています。そして、その結果、聖霊によって主の教会が打ち立てられました。 主が天に昇られた後、10日間、弟子たちは主が約束してくださった聖霊を待ちながら祈りに力を尽くしました。そんな五旬節の日、(過ぎ越し祭後50日目、イエス昇天後10日目、ユダヤ人の祭り七週祭)突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響きました。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。すると、一同は聖霊に満たされ、ほかの国々の言葉で話し出しました。聖霊に満たされたペトロは、過去のような恐れではなく、確信を持ってイエス・キリストと、その福音を堂々と宣べ伝えました。そして、その日、彼の伝道によって3000人の人々がイエスを信じるようになりました。主の教会はこのように聖霊のご降臨から本格的に始まりました。イエス様が繰り返して予告された聖霊の登場は弱い信仰を強く、不信を信頼に変える、また、主の福音を地の果てに至るまで伝える原動力になりました。このすべては、聖霊の降臨から、はじめて実現したのでした。 2.聖霊はどなたであり、何をなさる方なのか。 それでは、聖霊はどんなお方なのでしょうか。聖霊はヘブライ語では「ルーアッハ」、ギリシャ語では「プニュマ」と言います。いずれの単語も「風、息」という意味を持っています。神の霊である聖霊は、人間が触れることも、見ることもできない超越的な存在です。しかし、風が見えなくても存在するのと同様に、御父と御子から来られた聖霊は、民の生活に介入し、共にいてくださる方です。聖霊はまるで風のように人間の統制を超える方です。時には、そよ風のように優しく私たちの間にいらっしゃる方で、時には嵐のように強く私たちを導いてくださる方です。聖霊は創造の前から御父、御子と共にいらっしゃった神様で、創世記1章でも現れる方です。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(倉1:2)また聖霊は息のような方です。生き物が息をついて生命をつないでいくように、聖霊はキリスト者に神による御言葉と信仰、すなわち神による生命を与える方です。聖霊を通して生命の主であるキリストを知るようになり、信じるようになり、日常生活で神様の御言葉に聞き従って生きるように導いてくださいます。初めの混沌と暗闇と無秩序に満ちた世界に秩序と生命を与えてくださったように、聖霊は地上のキリスト者に信仰と生命と秩序を与えてくださる生命の息のような方なのです。 聖霊は教会と切っても切れない方です。御父と御子がご計画なさり、成し遂げられた、すべてのことが聖霊を通して、この世に成就されます。イエスは頭、教会は体という教会論の概念も、イエス様と私たちを一つにつなげてくださる聖霊がいらっしゃらなければ、成り立たない話です。私たちに与えられた聖書も各時代の預言者たちが、聖霊を通して書き残した神の御言葉の記録です。江戸時代にカクレキリシタンへの迫害が激しかったにもかかわらず、19世紀に再びプロテスタントの宣教師が来日したことも、宣教に対する聖霊の情熱のゆえです。聖書を読む時の悟りも、主日の説教も聖霊によるものです。教会員の国籍が異なる志免教会が、一つの心を持って礼拝する理由も、聖霊によって一つになったため、可能なのです。キリスト者が自分だけを愛する人間の本性を乗り越え、神と隣人を愛するようになるのも、この聖霊による信仰と愛のゆえです。 もし、聖霊が来られなかったら、2000年前に打ち立てられたキリスト教会は100年も経たないうちに消えてしまったのかも知れません。しかし、御父と御子から我々に遣わされた聖霊のお導きによって、教会は2000年間の歴史で健在に続いて来ました。 3.教会を保たせてくださる聖霊 今日の旧約本文は、この聖霊が旧約時代にも主の民と共におられ、活動された方であるということを示してくれます。「今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると万軍の主は言われる。ここに、お前たちがエジプトを出たとき、わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。(ハガイ2:4-5)聖霊は初めからおられ、旧約時代の神様の民とも常にいてくださった方です。イスラエルの国が滅び、神様がいらっしゃらないように感じられる時も、聖霊は変わらず常に民の間におられました。それでは、このように旧約時代から存在しておられた聖霊が、なぜ五旬節に再びキリスト者たちに臨まれたのでしょうか。これは、これまで不在だった聖霊が、新しく臨まれるという意味ではなく、常におられた聖霊がキリストの新約の教会を打ち立ててくださるために、新しい力をくださったと理解するのが正しいでしょう。初めから常におられた聖霊が、イエスの十字架での犠牲と復活によって建てられた主イエスの教会を支え、その教会を保たせてくださることを示すために降臨という出来事を起こしてくださったわけでしょう。 このように、新約の民、つまりキリスト者に臨まれた聖霊は、聖書を通して現れる神の御言葉を我々に教えてくださる方です。またキリスト者の心に神の御心に聞き従おうとする聖なる熱望をくださる方です。聖霊はキリストへの信仰をくださり、神と隣人への愛をくださる方です。このように主の教会がキリストを中心にし、しっかりと建てられるように、聖霊は教会を助けてくれる方です。そういうわけで、イエス様はヨハネによる福音書を通じて「助け主」聖霊が来られると何度も強調してくださったのです。イエス様は肉体を持った方でしたので、世の中のすべての所にいらっしゃることが出来ませんでしたが、霊でいらっしゃる聖霊は、時空間を越えて、いつでもどこでもキリストの民と共にいてくださる方です。したがって、主イエスの教会がある場所には、かならず聖霊が一緒におられます。「(教会は)使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:20-22)聖霊は今日も教会を導かれる方として父と子のご意志を私たちに教えてくださり、この世の終わりまで教会と共にいてくださるでしょう。 締め括り プロテスタント教会の代表的な神学者、ジャン·カルバンは、著書『キリスト教綱要』で、「聖霊はキリスト者だけでなく、神を信じない者の中でも、ご自分の御業を成し遂げ得る方である。」と語りました。それは聖霊が教会だけに限られる方ではなく、この世のすべてのことをご覧になる方であり、治めておられる方であるという意味でしょう。この聖霊が特別に教会のために降臨してくださったということは、教会を神の民として認め、愛と恵みとを持って教会を守るという神様の強いご意志の表現ではないでしょうか。キリスト者である私たちは、主の御心に聞き従い、神への信仰と隣人への愛を持って生きていきます。また、もし罪を犯したり、間違ったりすると罪悪感を感じて悔い改めの座に進みます。これらのすべては、私たちキリスト者の意志ではなく、キリストによって私たちに与えられた聖霊の善良な影響力からではないでしょうか。だから、信仰を持って、愛を持って、悔い改めの心を持って生きていく私たちの中には、聖霊が共にいらっしゃるのです。聖霊は絶対に遠くにおられる方ではありません。聖霊は常に私たちの中に一緒におられ、私たちが感じるにしろ、感じられないにしろ、私たちの人生を導いてくださいます。聖霊降臨節を迎え、私たちの間にいらっしゃる聖霊を覚え、御父、御子だけでなく、聖霊まで、三位一体なる神様が私たちの主となられ、私たちの生を守ってくださることを信じ、感謝をささげる志免教会になることを切に祈り願います。

私の名前はキリスト者です。

創世記17章4-8節(旧21頁) マタイによる福音書28章18-20節(新60頁) 前置き 創世記17章で神はアブラハムと契約を結ばれた後、24年ぶりにアブラハムに現われられました。しかし、アブラハムには約束された相続人も土地も、どれ一つ、まともに成就されたものがありませんでした。むしろ、相次ぐアブラハムの不信仰のため、問題が起こる一方でした。それでも、アブラハムに再び現れた神様は、変わらずアブラハムの相続人が生まれ、また、大いなる国民になるとの約束を思い起こさせてくださいました。アブラハムは変わりましたが、神様のご意志には移り変わりがなかったわけです。神様は 24年前に結ばれた契約を再確認なさり、依然としてアブラハムが神との契約関係の中にいるということを明らかにしてくださいました。そして、その契約の象徴として、アブラハムと彼に属している男子全員に割礼を命じられました。割礼とは、人間に与えられた神との契約の象徴でした。それによって、割礼を受けた者が神様との変わらない契約の中にいることを覚えさせてくださったということです。以上が前回の創世記説教の粗筋でした。 今日は17章に登場するまた違う話、アブラハムの改名を取り上げて聖書に現れる改名と神のお導きについて話してみたいと思います。 1.名前が持つ意味。 幼い頃、私はドンウという名前が気に入りませんでした。私の名前には ‘東側、助ける’という意味の漢字が含まれています。今では週に2回くらい食べるほど、饂飩が好きですが、当時の私は、逆に発音すれば、ウドンというあだ名になってしまいましたので、自分の名前が本当に恥ずかしかったのです。また、あだ名が日本の食べ物で、かなり丸々と太っていたゆえ、相撲取りとも言われていました。私の名前は祖父が占い師からもらった名前で、別に意味がありませんでした。東側のドンに、人助けのウで、東側を手伝う人という意味だったのです。それで同じ名前のまま漢字を変えて改名しようかと悩んだこともありました。しかし、30代に入ってから日本の宣教への確信を持ち、その準備を始めた時、母に「ドンウが東側にある日本へ宣教をしに行く人だから、神様がドンウと名付けてくださったようだ。」と言われました。これが本当に神の御旨かは分かるすべがないと思いましたが、そう言われると、今まで好きではなかった自分の名前が意味のあるものと感じられました。また、日本に来て、自己紹介をする時に、饂飩を逆に言うとドンウになると説明すれば簡単ですので、本当に便利です。そういうわけで、今では、私の名前がとても好きになっています。 人の名前には、その人のアイデンティティが含まれています。もちろん、大した意味が無さそうな名前もあるでしょうが、少なくとも両親や家族が心を込めて名づけてくれたのは確かでしょう。そのような意味でアブラムの名前にも深い意味がありました。アブラムは当時の有り触れた名前で「神は尊い。」または「尊い父」という意味だったそうです。アブラハムの家族が祭っていた異邦の神を称える名前であると同時にアブラハム自身を高める名前でもありました。おそらくアブラハムの家族は、彼が異邦の神の祝福の中で尊い者として暮らすことを願い、このように名付けたのかも知れません。聖書は登場人物の名前を重要に扱っています。例えば、出エジプト記に登場するモーセは、水(死)から引き上げるという意味として(死のようなエジプトの奴隷から引き上げ)、また、彼の跡継ぎであったヨシュア(主は救いである。)は、イスラエルの戦争を勝利へと導き、定住を指揮した救済者のような存在として、聖書に、その名が記されています。同じく創世記17章で神は、信仰の父となる存在として、アブラムの名をアブラハムに変えてくださいました。主は彼が神によって名前が変わった新しい存在として信仰の父らしく生きることを望まれたからです。 2.名前が変わったという意味。 人の名前には、その人が生きていた時代の状況が反映されています。 1900年代の初めから、戦後、日本と国交を再開した1965年にかけて、韓国には「子」で終わる女性の名前が非常に多かったです。明子、英子、淑子、順子、涼子など、日本の和名と同じ、韓国語式発音の韓国語の名前でした。なぜなら、その時の韓国は今とは比べ物にならないほど、日本から影響を受けていたからです。朝鮮戦争以後、アメリカとの関係が深まるにつれ、デイヴィッド·キム、トーマス·キムなど、英語の名前を使う人も増えました。このように人の名前は、当時の文化、経済、社会的な影響を受けます。つまり、名前にその時代の価値観や、状況が染み込んでいるということです。アブラハムの孫ヤコブは、兄の踵を掴んで生まれた存在で、ヤコブという名前には「踵、誤魔化す者、奪う者」という意味がありました。これによって、父のイサクが兄に比べて、ヤコブが好きでなかったこと、ヤコブが野望と欲望の強い人だったことが分かります。 世の中の全ての人は生まれるや否や名前をもらいます。そして、その名前のままで生きていく場合が多いです。しかし、途中で名前を変える場合もあります。日本の有名な細菌学者の野口英世は、もともと野口清作という名前を持っていました。しかし、ある日、ある小説を読んでいる際に、自分と同じ名前の医者が怠惰のため人生を台無しにするという話を読み、名前を変えたと言われます。しかし、聖書で名前を変えた人たちには、ほとんど神様によって新しい名前が与えられました。「神は尊い」あるいは「尊い父」という意味のアブラムは、「あらゆる国の父」という意味のアブラハムに改名されました。神様は異邦の神と自身を高める名前を持っていたアブラムに偶像と自分自身ではなく、唯一の神様だけを高める、信仰の父になれという意味でアブラハムという名前を与えてくださったのです。また、その孫ヤコブは、ヤボク川辺で神にイスラエルという名前を頂きましたが、これは「神様と戦って勝った。」という意味でした。人を騙し、詐欺師のように生きてきた過去の人生を清算し、神様と誠実に関係し、神様の民らしく生きろという意味を持つ名前でした。 また、新約聖書にも名前と関連した事例があります。今日の新約本文に出てくる使徒ペトロのことです。もちろん、この場合は名前が変わったというよりは、普段の名前を使いつつ、象徴的な新しい名前を頂いたことになります。「シモン・ペトロが、あなたはメシア、生ける神の子ですと答えた。すると、イエスはお答えになった。シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたに、このことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」ペトロは「主イエスが神の子である」と信仰告白をしました。その時、主はイエスへの信仰を告白したシモンにペトロという新しい名前を与えてくださいました。ペトロとは「岩」という意味です。主はペトロに岩という名を授けられることによって、ペトロが告白した信仰告白の上に、岩のように堅牢で変わらない教会を建て、その教会を通して陰府の力を打ち砕くと仰せられました。(新共同訳には対抗できないと記されていますが、叩き壊すという言葉が本来の意味に近いです。)このように聖書で名前が変わったり、新しい名前をもらったりすることは、人の人生が変わる全く新しい始まりを意味するものでした。 3.我らの名前はキリスト者。 それでは、今日の、この名前が変わるという話は、私たちにとって、どういう意味があるのでしょうか? カトリック教会では信徒たちに洗礼名を与えます。洗礼名を与えることで洗礼前後の生き方をはっきりと区別する意味があるそうです。しかし、プロテスタント教会では、そこまではしていません。しかし、我々はイエスへの信仰によって、キリスト者という新しいアイデンティティーと名前を持つようになります。イエス・キリストの教会は普遍的で使徒的な教えを受け入れ、イエスの体となった共同体というアイデンティティを持ちます。 普遍的で使徒的な教えという言葉は、すべての信じる者が同様に共有する使徒によって伝えられたキリストへの信仰告白と主の福音を意味します。そして、そのような告白と福音のある人生を生きるキリスト・イエスの人々という意味で、キリスト者と呼ばれるようになるのです。私たちはキリストを信じることで、過去の人生とは完全に別の存在となったのです。神を知らなかった存在が、神を知るようになり、イエスを信じなかった者が信じるようになり、自分だけを愛した存在が、隣人も愛するようになったのです。我々はキリストを信じることにより、その存在の意味自体が変わった、キリスト者になりました。 そして、その変わった名前のように、私たちは貫くべき新しい生き方を求められるようになりました。 締め括り 主はアブラハム、ヤコブ、ペトロの名前を変えてくださることで、彼らに新しい人生を与えてくださいました。名前を変えてくださった上で、いつも彼らと一緒に歩んでくださいました。イエスもペトロが告白した信仰告白の上に岩のような堅い教会を建て、その教会と世の終わりまで一緒におられると約束してくださいました。イエスは、ご自分によってキリスト者という名前を持つようになった私たちと、いつも一緒に歩んでくださる方なのです。主がその名をくださったからです。なので、私たちは日本人、ニュージーランド人、韓国人、中国人として生まれましたが、キリスト者として同じアイデンティティーを持っています。それは誰にも奪われることのない、変わらない事実です。私たちは神様に選ばれた存在として、誰でもは受けることの出来ない、名誉な名前をいただいたのです。だから、私自身がキリスト者であることを恥じ入ったり、隠したりしないようにしましょう。私たちを通してキリストが現れるからです。私たちが自分の身分を隠せば、キリストも私たちによって隠されるでしょう。神様は今日も私たちに「君は誰なのか」とお聞きになります。その時、私たちは「私の名前はキリスト者です。」と誇りを持って答えるべきでしょう。アブラハムは、主にいただいたアブラハムという名前で残りの人生を生き、信仰の父と認められました。私たちもまた神様にいただいたキリスト者という名前通りに生きていき、キリスト者として神様に帰っていく日を待ち望みましょう。

新しい葡萄酒は新しい革袋に。

イザヤ55章1-5節(旧1152頁) マルコによる福音書2章21-22節(新64頁) 前置き 「新しい酒は新しい革袋に盛れ。」 テレビや新聞、インターネットなどで、このような語句をしばしば目にします。「新しい考えを表現したり、新しいものを生かしたりするためには、それに応じた新たな形式や環境が必要であること。」のたとえとして、他国はもちろん日本でもよく使われる表現です。皆さんも、よくご存じだと思われますが、この語句は新約聖書の「新しい葡萄酒は新しい革袋に」という言葉に由来するものです。しかし、社会で一般的に使われる、この表現は聖書の本当の意味を見落とした表現だと思います。なぜかというと、もともと、この表現にはイエスを信じる者として、それに相応しい生き方を促す意味が含まれているからです。イエス様は、なぜ、このような表現をお使いになったのでしょうか? そして、この表現の本当の意味は何でしょうか? 今日の話はマルコによる福音書2章の話を復習する気持ちで分かち合いたいと思います。それでは、「新しい葡萄酒は新しい革袋に」という表現を通じて、神の共同体、教会が貫くべき在り方ついて考えてみましょう。 1. 間違った宗教儀式に陥っていたイエスの時代のイスラエル社会。 もともと、今日の本文は、一ヵ月前に取り上げた断食に直接的な関係がある言葉です。その時、私は断食について語りつつ、断食に代表される、宗教儀式に陥った信仰生活の問題点について語りました。私たちは、その断食に関する言葉を通して、現代の私たちも礼拝、献金、祈りなどの宗教行為にあまりにも集中したあげく、私たちが望むべき実質的な信仰の在り方を忘れ去る可能性があるという警告を受けました。断食は、イスラエルの代表的な宗教行為でした。 当時の宗教指導者、もしくは宗教に熱心だったユダヤの宗教共同体は、少なくとも月に2回、多くは週に何度も断食をしたと言われます。特に、当時尊敬されていたファリサイ派の人々は、頻繁に断食を行い、貧しい者たちへ救済を施したりしました。彼らは断食の時に、洗面もせず、顔の辛い表情をも隠さずいたそうです。自分が断食していることを隠さなかったわけです。そして、そのような姿を取りつつ救済を行なったりしました。そのような行為を通じて、イエス様が登場する前まで、ファリサイ派の人々はユダヤ人の社会で多くの尊敬を受けました。「今日もファリサイ派の先生たちが偉いことをしておられる。」「彼らは私たちと違う。神の正しい者たちだ。」そのような一般の民らの褒め言葉と尊敬が彼らの後についてきました。 しかし、彼らのその行為の裏には「そうだ。この私はあなた達とは違うのだ。私は正しい者だから。」という偽善的な姿が隠れていました。彼らの救済の行為そのものには、確かに社会的な良い機能があったのでしょうが、彼らの心の奥底には、神の栄光よりは、ひそかに自分の義を表わそうとする宗教的な欲望が潜んでいたわけです。そのため、彼らは、何の褒め言葉も代価も求めずに、ただ貧しい者たちを治し、宣教し、教えてくださるイエス様に憎しみを抱くようになりました。イエスが自分らの人気を横取りすると思ったからです。彼らは、道端や神殿の入口に立って長い時間祈ったり、断食の時には苦しい様子を見せたり、救済の時にはたいそうな物を与えるかのように威張ったりして、人々に立派な先生だと褒められたのです。しかし、イエス様は彼らよりもっと多くの慰めと癒しと奇跡を行われながら、何の代価も求められませんでした。ただ、主が望んでおられたことは、人々が悔い改めて、神の懐に帰って来ることだけだったのです。そういうわけで人々の関心と愛がイエス様に集中するのは当然の結果でした。それにより、ファリサイ派の人々とユダヤ人の宗教指導者たちは自然とイエスを憎むようになったわけです。 2.私たちの姿はどうなのか。 イエスの当時、都エルサレムは表向きは神に生け贄を捧げる神殿があり、断食と祈りを行い、貧しい者たちに救済を施し、それなりに宗教的な秩序が定着された所でした。しかし、エルサレムを離れると、貧しい人々の呻き声が聞かれ、少数者が疎外され、既得権者の偽善による理不尽に満ちた場所でした。今日の本文イザヤ書を通じて神様は仰いました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。」(イサヤ55:1-2)神は、このように誰でも神様の御前に来て、飾り気と偽善のない真のお交わりをお望みになる方でした。でも、イエスの時代のイスラエル社会は多くの献金や祈りや目に見える宗教的な行為が、宗教的な熱心さを代弁し、それによって自分の宗教的な欲望を満たしていく、神様とはあまりにも、かけ離れた宗教社会だったのです。このような社会の中で、最も貧しく低い所の者たちは何の慰めも、助けも得ることができませんでした。 恐ろしいことは、このような様子が、単に聖書の中にだけ、存在する問題ではないということです。ひょっとしたら、これは現代の私たちの中にも存在する姿かも知れません。以前ある教会で働いている時に、このような経験をしたことがあります。礼拝の時、説教をしていたとき、ふと辛い目にあった未信者の近所の方の話をして、祈りを求めたことがあります。しかし、その話で時間が少し長くなりました。その日の説教の内容とは少し、ずれるところもあり、信徒たちに申し訳ない気がありました。ところで案の定、礼拝後に信者の一人が来て、説教する時は余計な話は控えてほしいと言いました。その近所さんの話以外に特に聖書から外れた話をした記憶がなかったので、その話を指摘されるんだと思い、丁寧に謝りました。その方の意図は十分わかりました。礼拝の時間には礼拝に集中しようという願いだったはずです。その意図は非常に正しいと思われました。しかし、一方ではこんな気もしました。「一体、神様への礼拝とは何だろう?」同時に、聖書の言葉が一つ思い浮かんできました。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」(マタイ9:13)その日は、なんとなく悲しくなりました。 3. 宗教儀式ではなく信仰と愛を持って。 私は韓国の長老教の高神派出身です。高神派は旧日本帝国の神社参拝強制への反対運動で有名な教派です。彼らの信仰的な誇りは韓国の教会の中でも非常に高いことで有名です。なので、私が韓国にいた時は「高神派的な信仰」という表現をよく聞きました。また、日本に来てからは、「日本キリスト教会的な説教」という表現もよく耳にしました。ですので、日本キリスト教会も高神派教会のように信仰的なプライドがとても高いと感じました。ところで、その度に高神派的な信仰とは何か? 日本キリスト教会的な説教とは何か?と問い返さざるをえませんでした。イエス様が望まれたのは、高神派的な信仰、また日キ的な説教なのでしょうか? キリストが望んでおられる価値は何なのかと思いました。もちろん、形式も大事です。が、主の教会には、もっと大事な普遍的な価値があると思いました。ファリサイ派の人々とヨハネの弟子たちが断食する時、人々はイエスに「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」と尋ねました。しかし、それは弟子たちへの不満ではありません。イエス様への不満の抗議だったのです。おそらく、彼らにもユダヤ教への大きな誇りがあったはずでしょう。彼らは「なぜ、あなたは我々の律法を無視するのですか?」と問い詰めたのです。皮肉にも自分たちに律法を与えてくださった方に、律法を守れと問い詰めたわけです。 その時、イエス様は「新しい葡萄酒は新しい革袋に。」というやや理解しにくいお話をされました。これは果たしてどういう意味なのでしょうか。イエス様は旧約の律法を完成なさるために来られた方です。そして、主は旧約の数多くの律法が「神と隣人への愛の実践」のために与えられたものであると教えてくださいました。つまり、律法の完成とは、律法に含まれている精神、愛を明らかにすることだと言って過言ではないでしょう。主は多くの宗教儀式や教義的な立場ではなく、神の愛をどうすればもっとこの地で行なうことが出来るのかに関心を持っておられたのです。もちろん、律法も教義も大事なものです。しかし、そのすべてが神が命じた愛の実践ための道具であることを見逃してはならないでしょう。イエス様はご自身の福音を通して、偽善的な宗教儀式に縛られていた過去の姿を捨てて、神様と隣人への真の愛と実践のある、新しい信仰をお望みになりました。自分の宗教的な欲望のための信仰ではなく、神様がご計画なさった、真に生き生きとする信仰を望まれるのです。神がお求めになることは、何十年も繰り返される習慣的な宗教活動ではなく、ただ一分一秒でも隣人への真の憐れみと愛ではないでしょうか。このイエスを信じる私たちは、過去ユダヤ人が追い求めた自分の信仰的な欲望や偽善的な宗教生活ではなく、真に主の手と足となり、主の栄光のために行い、神と隣人の喜びになるために努力しつつ生きるべきでしょう。 締め括り 主イエスはご自分の犠牲を通して、愛の宗教という新しい革袋としての教会を打ち立てられました。そして、その教会に属する者たちは、新しい葡萄酒のように、神の御心に適う人生を生きるべきです。古い革袋に新しい葡萄酒を入れると、熟成から生まれるガスによって袋が裂けて使えなくなってしまいます。主イエスは新しい革袋として、愛の共同体である教会を与えてくださいました。そして、その中で生きている私たちは主による愛の実践を貫いて生きるべきでしょう。その時はじめて、私たちは良質の美味しい葡萄酒のように、神の喜びになれるでしょう。短い例話をあげて説教を終わりたいと思います。どこかで読んだ文章ですが、ある教派の牧師が天国に行く夢を見たそうです。宝石のような川が流れ、青い草原が広がり、神の24人の長老たちと真っ白な天使たちが神に賛美をしていました。うっとりした彼はそばの天使に尋ねました。「天国にはカトリック信者が多いですか。プロテスタント信者が多いですか?」彼は教理的な質問をしたわけです。その時の天使は、たった一言で言いました。「ここには、神の子羊だけがいる。」そして、彼は夢から覚めたという話でした。神の国は宗教儀式と教理のみで行く所ではありません。それを通して、自分の人生でイエスを信じ、主に倣った愛と実践がある時、私の人生の中に現れるものです。また、そのように生きる者こそ、きっと死後、神が備えてくださった天国に入るでしょう。宗教ではなく実生活として神への信仰と隣人への愛を持って生きていく私たちになることを祈り願います。

契約と割礼

創世記17章1-10節(旧21頁)ローマの信徒への手紙2章28-29節(新276頁) 前置き 前回は2度にわたる創世記16章の説教を通して、アブラハム、サラ、ハガルの不信仰を考えてみることが出来ました。「相続人を与える。」という神の約束を完全に信頼することが出来なかったアブラハムとサラの不信仰、アブラハムの子を身ごもって、鼻高々になったハガルの傲慢など。アブラハム、サラ、ハガルが罪のゆえ、どれだけ不完全な存在だったのかを通して、人間の限界について改めて顧みることが出来ました。しかし、重要なことは、そのような人間の限界があるにも関わらず、神は決して彼らを見捨てられず、堪忍して待ってくださり、憐れんでくださり、導いてくださったということでした。今日の創世記17章は、その愛の神がアブラハムとサラに、いっそう具体的な相続人の誕生の約束をくださり、かつてアブラハムと結ばれた契約を堅く守っていかれることを強調する箇所です。このように神は罪人に罰だけを下される無慈悲な存在ではなく、罪人のことを顧みられ、回復を望んでおられる愛の神なのです。私たちは、初めの人間の堕落以来、一貫性を持って変わらず人間を見捨てず、愛し、導いてこられた神の愛を深く覚えるべきです。今日は創世記17章を通じて愛の神が罪を犯す不完全な人間と結ばれた契約、またその証拠であった割礼について分かち合いましょう。 1.民と契約を結んでくださる神様。 創世記15章で、神はアブラハムと契約を結んでくださいました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」(創15:5)現代の我々は、「契約とはビジネス的なものであり、いざという時は破棄も在り得るだろう。」と考えるかもしれません。しかし、アブラハムの時代の契約は違いました。 契約を破った者は、相手によって、どんな悲惨な目に遭っても抗議できない、まるで命がけのような行為でした。15章で、神は真っ二つに切り裂かれた動物の間を通り過ぎ、アブラハムに相続人を与え、彼を通して大いなる国民を打ち立ててくださるという約束をくださいました。真っ二つに切り裂かれた動物の間を通り過ぎる当時の契約のやり方は、契約を破った者が、そのように惨めに死ぬという意味でした。 ところで、神はアブラハムではなくご自分だけが、そこを通り過ぎてくださいました。それは「完全なる神様が、不完全なアブラハムではなく、移り変わりのない御自身を保証にして、永遠にアブラハムとその子孫を守ってくださる。」という契約への堅い御意志と愛とを示すものでした。そして今日の本文は15章のその契約をもう一度確かめる場面から始まります。「アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。 わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」(創世記17:1-2) 神様はアブラハムが75歳の時、彼と契約を結ばれて以来、それを忘れず24年ぶりに現れ、過去のその契約をもう一度確証されました。人間は神様との約束を忘れても、神様は人間との約束を決して忘れられません。神は、「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」と言われました。ところで、この言葉のヘブライ語の文章は、古代中東の国々の条約の前置きのような形で書いてあるそうです。歴史家たちによると、古代世界では国家間に主従関係があったそうです。強い国が弱い国を屈服させ、強制的に保護者としての役割を自任し、変わらぬ忠誠と貢物を求めたということです。そして、本文で神様はこのような方式でアブラハムとの契約を再確認なさいました。もちろん、神が当時の強大国のように武力で強制的にアブラハムを征服され、苦しめられたという意味ではありません。ただし、人間であるアブラハムが神様の御心を理解できるように、人間のやり方を借りて、武力による忠誠ではなく、愛による信仰を求められたということです。アブラハムは、過去24年間、少なからず不信仰な生き方をしてきました。そういうわけで神様は、「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」という言葉をもって、アブラハムに「神様と契約を結んだ民なら、それにふさわしい人生を生きなさい。」と婉曲的に戒められたわけです。その時はじめて、アブラハムは神様と結んだ契約の中で栄えていくからでしょう。 今日本文に登場する契約という言葉はヘブライ語で「ベリット」と言います。この「ベリット」は「断ち切る」を意味する動詞「バサール」に由来する名詞だそうです。それでは、何を断ち切るという意味でしょうか? おそらく、神様と何の係わりも無かった過去の罪に満ちた人生を断ち切り、今後、神様の民として新たな人生を生き始めるという意味ではないでしょうか? 基本的に神様はその民と契約を結び、お交わりになる方です。これは罪によって神様を離れてしまった人間が、過去の生き方を断ち切り、改めて神様の民になるという意味だからです。 つまり、神様は罪人をご自分の子としてお呼びくださり、新しい人生を生きさせてくださるために、罪人と契約を結ばれるのです。 これは神様のためではなく、罪人のための契約なのです。我々は、このような神の契約を、またキリストを通しても、改めて見ることができます。アブラハムの子孫と呼ばれるイエスはなぜ十字架につけられ、真っ二つに切り裂かれた動物のように悲惨に死なれたのでしょうか。それはイエスが贖罪のために民の代わりに死に、罪の呪いを断ち切るためでした。契約を守れない存在が死ななければならなかった古代社会において、イエスの犠牲は神様が罪人の代わりに死んでくださったという意味を持っています。(15章参照)そして、イエスは復活なさり、罪人との契約を全うしてくださいました。私たちは、このようなキリストを信じることによって、アブラハムが神様と結んだ契約を再確認することが出来ます。そして、そのイエスを通して、私たちは神様の子供として、神様との契約者として、御国の民として永遠に生きるです。 2.人間側の契約の象徴-割礼。 「あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。」(倉17:10)神様は今日の言葉を通じてアブラハムとの契約を再確認され、アブラハムに割礼を命じられました。この割礼には一体どんな意味があったのでしょうか。「あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。 包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」(創世記17:13-14)割礼は神の民が神様と契約を結んだという象徴であり、男性の重要な部分に痕跡を残す行為でありました。つまり、包皮を切る行為(バサール)を通して、神様との契約(ベリット)の痕跡を民の体に残すことでした。神様はこの割礼を非常に重要に思われ、割礼を受けなかった者は神様との契約を拒否し、破った者と見なされ、民の中から断たれるほど厳重な刑罰に処されました。 なぜなら、この割礼とは神様の契約に応える人間の応答だったからです。神様が切り裂かれ動物の間を通り過ぎて契約を結ばれたならば、民は男性の包皮を切り取ることで神様と結んだ契約の証拠にしたわけです。神様は契約を結んだ人間が必ず割礼を受けることで、神様との契約を確証し、記憶することを望まれたのです。 また、割礼には二つの別の意味が含まれていたと主張する学者たちもいます。一つは子孫の繁栄のためでした。古代中東ではアブラハムの子孫であるイスラエルが打ち立てられる前にも、エジプトでは種族にしたがって割礼を行う場合があったと言われます。なぜなら、男性の包皮のゆえに生じやすい性病を予防し、また割礼を受ける前より、受けた後のほうが、妊娠の確率が高くなったからだと言われます。面白いことに、現代医学でも、この主張がある程度、認められており、世界保健機関でも男性の包皮を切る手術を勧める発表があったそうです。二つ目は、割礼を通して子孫の出産を神にお委ねするという意味があったからという主張です。古代の社会では男の性に子孫を残す重要な機能があるため、大事にされました。しかし、その一部を刃物で切り取るということは男の性の死を意味することだったのです。つまり割礼は男性、すなわち人間の力で子孫を栄えさせるのではなく、神だけが子孫を栄えさせてくださるという象徴だったのでしょう。したがって、割礼には神様に種族の繁栄をお任せし、その方が子孫を守り、導いてくださるという信仰が込められていたということです。神様は生命をくださる方だからです。このように割礼には科学的にも信仰的にも少なからず意味があるという主張も存在します。 それでは、私たちが生きる現代において、割礼はどのような意味を持っているのでしょうか。明らかなことは、イエスの復活以来、この旧約の割礼という儀式の機能は無くなったということです。「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。」(ローマ4:11)使徒パウロはローマ書を通して、割礼が持つ本来の意味について解き明かしました。当時ユダヤ人たちは、割礼を受けなければ、神の民ではないと主張し、初代教会の中にも、そのような思想を持った者が少なからず存在しました。しかし、パウロは割礼そのものに力があるわけではなく、割礼は神への信仰の象徴にすぎないと力説しました。イエス様が十字架で罪人たちを救ってくださった後、主はイエスへの信仰を持って生きる罪人たちをお赦しくださり、永遠の契約を結んで神様の民と認めてくださいました。旧約時代には割礼の痕跡を通して神様との契約を表したとすれば、キリストの復活後からはキリストへの信仰を通して神様との契約を表すということです。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、律法の条文ではなく、霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(ローマ2:28-29)したがって、イエスを信じる私たちは体や行いで神様との契約を証明することが出来ません。 ひとえにイエス·キリストを信じる信仰だけで、神との契約を証明することが出来るのです。 前置き 今日は創世記17章を通して、契約と割礼について話してみました。私たちは神様との契約の中に生きています。神様は御自分の民と契約を結ばれ、彼らが過去のように罪人としてではなく、契約の中にいる神様の子供として生きることをお望みになります。旧約では、その契約の証拠として体に割礼を受けたとすれば、現代を生きる我々キリスト者は、イエスへの信仰を証として、神との契約を結んだ存在です。もうこれ以上肉体の割礼で神の民になるのではなく、ひたすらキリストへの信仰と関係を通して神様と契約を結ぶのです。ですから、キリストを通して神様と契約を結んだ者らしく、私たちの心を神様に捧げ、神様の御心に聞き従う者として生きていきましょう。今日の新約本文のように「霊によって心に施された割礼こそ割礼」なのです。神様を信じない罪、他人を憎む罪を心から断ち切るために神様のお導きを求めて生きましょう。ご自分の血潮を流して私たちを神との契約へと導いてくださったイエス様が、私たちの心の中に聖霊による割礼をくださり、毎日私たちを新しく導いてくださるでしょう。キリストによって神様と契約を結んだ存在、主の聖霊によって心の中に割礼を受けた存在という我々のアイデンティティを覚え、主と共に一週間を生きていく志免教会になることを祈り願います。