聖霊と教会。

ハガイ書2章1-9節(旧1477頁)エフェソの信徒への手紙2章14-22節(新354頁) 前置き キリスト教は、御父、御子、聖霊の三位一体なる神を信じる共同体です。創造から終末まで、すべてをご計画なさる父なる神と、その御父の御言葉であり、ご意志として神と人の間をお執り成しになる御子イエスと、御父と御子から遣わされ、教会と世を導いていかれる聖霊、このように3位が一つになって三位一体の神としておられる方です。しかし、私たちには主に父なる神と御子イエスにだけ集中する傾向があり、聖霊に対しては、よく見落としたりする場合があると思います。このように聖霊が見落とされる傾向について、アメリカの、ある神学者は、このように語りました。「聖霊は長い間、まるでシンデレラのような存在だった。2人の姉妹は舞踏会によく行き、シンデレラは全く行けなかったように、聖霊は御父と御子に比べ、いつも冷遇を受けた。」それほど、聖霊は頻繁には取り上げられない方だと思います。私たちは普段、聖霊について、どんな認識を持って生きているでしょうか? 実際、父なる神やイエス・キリストに比べて、聖霊への認識は薄いのではないでしょうか。私たちは毎年聖霊降臨節(ペンテコステ)を記念していますが、私たちの実生活の中で聖霊はどのような位置を占めておられるのでしょうか。今日は三位一体の聖霊と、そのご降臨について話してみたいと思います。 1.「聖霊がご降臨なさる。」 イエスは十字架で御救いを成し遂げられた後、3日目に復活されました。復活なさった主は40日間、弟子たちとイエスに従っていた人々に現われ、ご自分の復活を証しし、この世の終わりまで福音を宣べ伝えることを命じられました。そして昇天なさり、父なる神の右に行かれました。弟子たちは復活された主を目撃し、その方が本当に神の子であると信じるようになりました。それでも、彼らは主イエスの不在を恐れていました。しかし弟子たちは主の御言葉に従い、ご命令通りに行いました。その命令とは、神の約束、つまり聖霊の降臨を待つことでした。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1:4-5)生前のイエスは繰り返し聖霊が来られると予告してくださいました。 使徒言行録によると、その聖霊が降れば、主の民は神に力を受け、地の果てに至るまで主の証人になると記されています。そして、その結果、聖霊によって主の教会が打ち立てられました。 主が天に昇られた後、10日間、弟子たちは主が約束してくださった聖霊を待ちながら祈りに力を尽くしました。そんな五旬節の日、(過ぎ越し祭後50日目、イエス昇天後10日目、ユダヤ人の祭り七週祭)突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響きました。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。すると、一同は聖霊に満たされ、ほかの国々の言葉で話し出しました。聖霊に満たされたペトロは、過去のような恐れではなく、確信を持ってイエス・キリストと、その福音を堂々と宣べ伝えました。そして、その日、彼の伝道によって3000人の人々がイエスを信じるようになりました。主の教会はこのように聖霊のご降臨から本格的に始まりました。イエス様が繰り返して予告された聖霊の登場は弱い信仰を強く、不信を信頼に変える、また、主の福音を地の果てに至るまで伝える原動力になりました。このすべては、聖霊の降臨から、はじめて実現したのでした。 2.聖霊はどなたであり、何をなさる方なのか。 それでは、聖霊はどんなお方なのでしょうか。聖霊はヘブライ語では「ルーアッハ」、ギリシャ語では「プニュマ」と言います。いずれの単語も「風、息」という意味を持っています。神の霊である聖霊は、人間が触れることも、見ることもできない超越的な存在です。しかし、風が見えなくても存在するのと同様に、御父と御子から来られた聖霊は、民の生活に介入し、共にいてくださる方です。聖霊はまるで風のように人間の統制を超える方です。時には、そよ風のように優しく私たちの間にいらっしゃる方で、時には嵐のように強く私たちを導いてくださる方です。聖霊は創造の前から御父、御子と共にいらっしゃった神様で、創世記1章でも現れる方です。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(倉1:2)また聖霊は息のような方です。生き物が息をついて生命をつないでいくように、聖霊はキリスト者に神による御言葉と信仰、すなわち神による生命を与える方です。聖霊を通して生命の主であるキリストを知るようになり、信じるようになり、日常生活で神様の御言葉に聞き従って生きるように導いてくださいます。初めの混沌と暗闇と無秩序に満ちた世界に秩序と生命を与えてくださったように、聖霊は地上のキリスト者に信仰と生命と秩序を与えてくださる生命の息のような方なのです。 聖霊は教会と切っても切れない方です。御父と御子がご計画なさり、成し遂げられた、すべてのことが聖霊を通して、この世に成就されます。イエスは頭、教会は体という教会論の概念も、イエス様と私たちを一つにつなげてくださる聖霊がいらっしゃらなければ、成り立たない話です。私たちに与えられた聖書も各時代の預言者たちが、聖霊を通して書き残した神の御言葉の記録です。江戸時代にカクレキリシタンへの迫害が激しかったにもかかわらず、19世紀に再びプロテスタントの宣教師が来日したことも、宣教に対する聖霊の情熱のゆえです。聖書を読む時の悟りも、主日の説教も聖霊によるものです。教会員の国籍が異なる志免教会が、一つの心を持って礼拝する理由も、聖霊によって一つになったため、可能なのです。キリスト者が自分だけを愛する人間の本性を乗り越え、神と隣人を愛するようになるのも、この聖霊による信仰と愛のゆえです。 もし、聖霊が来られなかったら、2000年前に打ち立てられたキリスト教会は100年も経たないうちに消えてしまったのかも知れません。しかし、御父と御子から我々に遣わされた聖霊のお導きによって、教会は2000年間の歴史で健在に続いて来ました。 3.教会を保たせてくださる聖霊 今日の旧約本文は、この聖霊が旧約時代にも主の民と共におられ、活動された方であるということを示してくれます。「今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと主は言われる。大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。働け、わたしはお前たちと共にいると万軍の主は言われる。ここに、お前たちがエジプトを出たとき、わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない。(ハガイ2:4-5)聖霊は初めからおられ、旧約時代の神様の民とも常にいてくださった方です。イスラエルの国が滅び、神様がいらっしゃらないように感じられる時も、聖霊は変わらず常に民の間におられました。それでは、このように旧約時代から存在しておられた聖霊が、なぜ五旬節に再びキリスト者たちに臨まれたのでしょうか。これは、これまで不在だった聖霊が、新しく臨まれるという意味ではなく、常におられた聖霊がキリストの新約の教会を打ち立ててくださるために、新しい力をくださったと理解するのが正しいでしょう。初めから常におられた聖霊が、イエスの十字架での犠牲と復活によって建てられた主イエスの教会を支え、その教会を保たせてくださることを示すために降臨という出来事を起こしてくださったわけでしょう。 このように、新約の民、つまりキリスト者に臨まれた聖霊は、聖書を通して現れる神の御言葉を我々に教えてくださる方です。またキリスト者の心に神の御心に聞き従おうとする聖なる熱望をくださる方です。聖霊はキリストへの信仰をくださり、神と隣人への愛をくださる方です。このように主の教会がキリストを中心にし、しっかりと建てられるように、聖霊は教会を助けてくれる方です。そういうわけで、イエス様はヨハネによる福音書を通じて「助け主」聖霊が来られると何度も強調してくださったのです。イエス様は肉体を持った方でしたので、世の中のすべての所にいらっしゃることが出来ませんでしたが、霊でいらっしゃる聖霊は、時空間を越えて、いつでもどこでもキリストの民と共にいてくださる方です。したがって、主イエスの教会がある場所には、かならず聖霊が一緒におられます。「(教会は)使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:20-22)聖霊は今日も教会を導かれる方として父と子のご意志を私たちに教えてくださり、この世の終わりまで教会と共にいてくださるでしょう。 締め括り プロテスタント教会の代表的な神学者、ジャン·カルバンは、著書『キリスト教綱要』で、「聖霊はキリスト者だけでなく、神を信じない者の中でも、ご自分の御業を成し遂げ得る方である。」と語りました。それは聖霊が教会だけに限られる方ではなく、この世のすべてのことをご覧になる方であり、治めておられる方であるという意味でしょう。この聖霊が特別に教会のために降臨してくださったということは、教会を神の民として認め、愛と恵みとを持って教会を守るという神様の強いご意志の表現ではないでしょうか。キリスト者である私たちは、主の御心に聞き従い、神への信仰と隣人への愛を持って生きていきます。また、もし罪を犯したり、間違ったりすると罪悪感を感じて悔い改めの座に進みます。これらのすべては、私たちキリスト者の意志ではなく、キリストによって私たちに与えられた聖霊の善良な影響力からではないでしょうか。だから、信仰を持って、愛を持って、悔い改めの心を持って生きていく私たちの中には、聖霊が共にいらっしゃるのです。聖霊は絶対に遠くにおられる方ではありません。聖霊は常に私たちの中に一緒におられ、私たちが感じるにしろ、感じられないにしろ、私たちの人生を導いてくださいます。聖霊降臨節を迎え、私たちの間にいらっしゃる聖霊を覚え、御父、御子だけでなく、聖霊まで、三位一体なる神様が私たちの主となられ、私たちの生を守ってくださることを信じ、感謝をささげる志免教会になることを切に祈り願います。