キリストと新しい出発を。

イザヤ書43章18~19節(旧1131頁) コリントの信徒への手紙二5章17節(新331頁) むかしむかしあるところに、善い羊飼いがいました。彼には100匹の愛する羊がいました。そんなある日、突然、空に黒い雲が垂れ込め、激しい雨風が吹き出しました。彼は急いで野原の羊の群れを呼び集め、羊小屋に入らせました。羊の数を数えた後、自分も家に入ろうとしたのですが、何度数えても1匹の羊がいませんでした。心細くなった彼は急いで上着を着て、雨風の中に走っていきました。風雨が強すぎて、見失った羊を見つけることは出来なさそうでした。それにもかかわらず、彼はあきらめず、野原へ、森へ、また川沿いへ、その羊1匹のために探し回りました。99匹の羊がいるから、あきらめれば良かったのに、彼は羊1匹のために探し続けたのです。結局、彼は川に溺れてもがいている羊を見つけました。川の水が増えて危険だったのに、彼はあきらめずに命をかけて羊を助け救いました。彼はすごく疲れてしまったのですが、救い出された羊を見て、疲れを忘れ、笑顔満面になりました。いつの間にか雨風はおさまり、晴間が見えてきました。羊を担いで家に帰ってきた羊飼いは大喜びで、友達や近所の人々を呼び集めて祝宴を張りました。 1. 新しい始まりを語る聖書。 以上の物語は、新約聖書のルカによる福音書15章に出てくる短い話を脚色したものです。キリスト教の神が、このように見失った一人の魂のために、ご自分のすべてを惜しげもなく、喜んで犠牲になさり、ご自分の愛する民を救い出してくださることを示す例え話なのです。聖書は、神が見失った民を愛されたあまり、ご自分の子イエス·キリストを十字架の犠牲にし、その代わりに見失った民を救われる神の愛の物語です。そして、神はこのように見失った民たちがキリストによって救われ、神と和解することを誰よりも望んでおられます。ですから、神は世のすべての人々がキリストを知り、もう一度、新しく始まる機会を与えてくださることを望んでおられる方なのです。キリスト教は、実に新しい始まりのための宗教であると言っても過言ではないほど、回復と和解と再出発を信仰の大事な価値にしているのです。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。」(イザヤ43:18-19) 新約聖書でもない旧約聖書の預言者に、神の御言葉をこのように宣べ伝えさせるほど、神はご自分の民の過去の罪を赦され、新しく始まることが出来るように、御心を遣っておられる方なのです。 新しい始まりは、本当に感激的で喜ばしいことであり、私たちの人生にとってかけがえのない祝福であります。私たちは人生を歩みながら、一度以上「あの時、ああしてたら、その時、こうしてたら」のような後悔をしがちです。しかし、誰かはこのように言いました。「歴史にもしもはない。」 実際、歴史にもしもはありません。すでに起こったことを元に戻すことは、映画でしか見られないことだからです。しかし、聖書は語ります。「過去のことは後ろにして、イエス·キリストによって、今から新しく進みなさい。」歴史の巻き戻しはありえないことですが、過去の生き方を反省し、新しく生き始めることは出来るということです。たとえ失敗、挫折、悲しみ、そして後悔が、私たちの人生の進みをさえぎっているとしても、聖書はそれにもかかわらず、神はあなたと一緒におられ、あなたが新しい出発をして幸せに生きることを望んでおられると声を限りに訴えているのです。過去のことに足を引っ張られて座り込んでいませんか? 昔の罪により、二度と前に進めないと悩んでいませんか? 世の中の皆が、君にはできないと指差ししていると思い、つまづていませんか? しかし、そのような世のささやきに騙されないようにしましょう。この世を創造し、あなたを知り、誰よりもあなたを愛しておられる、造り主なる神は、今日もあなたに語っておられます。「昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。」これが、あなたに向けた神の本当の御心なのです。 2. キリストによる新しい出発。 ところで、聖書は真の新しい出発のために、一つ先にしなければならないことがあると語ります。それはキリストの贖いによって、罪赦されることです。聖書の教えによると、世のすべての良くない物事が、人間の罪から生まれるので、その罪への解決が絶対に必要であります。聖書が語る新しい始まりは、その罪の解決の後、有効になるのです。名称からも分かるように、キリスト教はイエス·キリストを信じる宗教です。しかし、キリスト教が、他宗教と異なる点は、天国に入るため、あるいは欲望の実現のため、それとも自分の有益のために信仰を持つことではないということです。(他宗教を非難するわけではありません。違いを話しているだけです。) キリスト教の目標は、キリストによって自分の罪が赦され、神と和解し、主と一緒に生きることなのです。それによる神のお贈り物(おまけ)が死後の楽園、人生の有益などなのです。夫婦が互いの財産を狙って結婚するわけではなく、愛しているから結婚すると同じように、キリスト教も他の理由ではなく、神と和解し、共に生きるためにイエスを信じ、信仰を持つということです。したがって、キリスト教の最も重要な信仰の姿はまさに「キリストによって、自分の罪を赦され、神と和解する新しい人生。」なのです。旧約聖書の創世記には、神の天地創造以後、人間が自分の意志で堕落する姿が描かれています。蛇に誘惑されたアダムとエヴァが、すすんで知識の木の実を取って食べ、神を裏切って呪いを受けるという物語は、皆さんも聞いたことがあると思います。 これは、人間は悪の影響を受けやすく、その結果、罪を犯し、結局は滅びに至りやすい存在であるということを意味する物語です。そういうことで、神は自分の罪に束縛され、自ら真の善を行うことが出来ない人間のために、一つの計画を立てられましたが、それは人間の罪を赦し、真の善へと導く完全な存在を、この世に遣わしてくださることでした。そして、聖書は、その完全な存在が、「イエス·キリスト」であると証言しています。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマ6:23) 聖書が語る罪とは、殺人、暴力、詐欺などの凶悪な犯罪だけを意味するわけではありません。隣人を愛しないこと、心の中に憎しみと怒りがあること、怠惰と貪欲、淫らな行為と暴言、造り主を知ろうともせず、拒否することなど、人間が行うべき善を行わない、すべてのことも罪であると語っているのです。しかし、聖書は神に遣わされた存在、イエス·キリストによって、それらの罪が赦されると力強く証しています。そして、その罪の赦しによって、もう一度新しい人生を始める力を得ることができると述べています。そういうわけで、今日の新約本文は「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(2コリント5:17)と語っているのです。つまり、聖書は新しい始まりへの第一歩はキリストとの出会いに基づくと教えているのです。 締め括り 最後に、ある日本人の牧師の話をして、説教を終わりたいと思います。前科7犯のヤクザ出身の進藤龍也牧師は、高校中退後、18歳にヤクザになりました。悪いことばかり犯しながら生きていた彼は、28歳の時、暴力組織の組長代行となりましたが、覚醒剤中毒が原因で破門になり、組織から退出されました。彼は3度目の刑務所服役中に前妻が差し入れた聖書を読み、イエスを信じ、回心することになりました。彼の人生は完全に壊れていたのですが、聖書に記された神の御言葉は、彼の罪を悟らせ、神の赦しを得る方法を教えたのです。そして、彼は結局イエス·キリストに出会い、信仰者になりました。それから、彼は昔の生き方をきれいに清算し、牧師としての新しい人生を始めることになりました。彼は出所後、2005年に神学校を卒業し、同時に開拓伝道を始め、現在は埼玉県川口市の単立教会「罪人の友、主イエス・キリスト教会」の牧師として働いています。今では、日本各地の刑務所の収監者との手紙連絡および面会を通して、キリストの福音を宣べ伝えています。 彼は後日書いた著書でこう語りました。「人生が計画通りにうまく行かず、絶望して間違った人生を生きてきたと後悔と挫折に陥る時、一人の命を大切にしてくださる神は決して、あなたのことを諦められないことを覚えてください。」神は、あなたの新しい始まりを応援しておられます。神はあなたを絶対に諦められません。イエス・キリストの恵みにより、この神と出会いがありますように切に祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

わたしは主である。

出エジプト記6章1~13節(旧101頁) フィリピの信徒への手紙2章10~11節(新363頁) 前置き 前回の説教では「わたしの民を去らせなさい」という神のご命令を告げ知らせるために、ファラオの前に行ったモーセの話が描かれました。モーセはファラオに神の厳重な命令を申し伝えましたが、ファラオはその言葉を無視して、むしろイスラエルの民に今までより、さらに重い労役を命令した後、モーセを追い出しました。ファラオとモーセとの出来事によって、むしろ労役が増えてしまったイスラエルの民はモーセを恨みました。そして、このような結果に失望したモーセも神に嘆きました。その話を通して、私たちは神の御言葉に従ったにもかかわらず、物事がうまくいかない場合もありうるということが分かりました。しかし、神は主の御心とご計画を、必ず成し遂げられる方です。たかが100年も生きることのできない人間の愚かな考えで、永遠におられる神の知恵と計画を判断しようとするなら、人間は必ず神に失望し恨むことになってしまいます。しかし、主の御心に信頼し、その御業の成就を待ち望む者は、最後には、必ずご自分の計画を成就される神の恵みに気づき、感謝するようになるでしょう。私たちは前回の説教で、神への変わらない信頼を持って神の御心を待ち望みながら生きる信仰の人生の大事さを学びました。 1. わたしがあなたたちの主である。 6章が始まるやいなや、神はモーセに言われました。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」(出エジプト6:1) それはイスラエルの民が必ずエジプトから解放されるという希望のメッセージでした。ただ、ほうほうの体で逃げるのではなく、主の強い手(ファラオとは比べ物にならない圧倒的な権能)によって解放されるということです。そして、ファラオが持ちこたえられず、イスラエルを追い出してしまうほど、二度と狙わないほどの絶対的な力でイスラエルを解放させるという約束です。イスラエル民族とモーセは人間の目に、あまりにも強くて大きく見えるファラオの権力に圧倒されてしまいましたが、主はそのファラオでさえ、どうしようもない、より大きな力によってイスラエルを救うことを約束されます。前の5章でイスラエルとモーセはたった一度のファラオの横暴に圧倒され、怯えてしまいました。そして、むしろ、ファラオより偉大なイスラエルの神を恨みました。人間は自分が感じること、見ること、聞くことによって、この世界を判断しがちな存在です。そんな理由で、目に見えませんが、確かにおられる偉大な神の権能をもすぐ見落としてしまう傾向があります。 しかし、神は、人間の考えを、はるかに超える偉大な方です。ファラオは神を奴隷たちの神に過ぎないと思って無視しましたが、その結果は奴隷たちの神の裁きによる滅びでした。現代の日本を生きる私たちも、小さくて弱く見える日本の教会を見ながら神の威厳をすぐ忘れてしまうかもしまうかもしれません。日本の政治家、財閥、権力者に比べて、日本の教会が、あまりにも小さくて弱い群れであるのは事実だからです。しかし、私たちの目に映るのがすべてではありません。神は世のすべてのものの上におられ、世のすべてのものは主の支配のもとにあります。私たちの目には見えないだけで、聖書は神があらゆる名にまさる名を持っておられる真の王であることを常に証しています。ところで、この偉大な神が今日の本文を通して、こう語っておられます。「わたしは主である。…わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。…」(6-7中)神は、ご自分への弱い信頼と不信仰で生きる民でさえ哀れみ、救って導くことを望んでおられる私たちの主です。主は決して弱い民を嫌に思われることなく、むしろ、わたしはあなたの神であると宣言なさる方です。このような主なる神を憶え、目に見えることだけを信じるのではなく、目に見えない主の偉大さを拠り所とし、信仰を堅く守る私たちであることを願います。 2. わたしは主である。 「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した。」(3-5) 神はなぜ信仰の弱いイスラエルの民を見捨てられず、憐れんで救ってくださることを望まれたでしょうか? それは、神がかつてイスラエルの先祖たちと結ばれた「約束(契約)」のためです。前の説教で、私たちは神がモーセにご自分の御名を教えてくださったと学びました。ヘブライ語の「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」直訳すると「わたしはある」、意訳すると「わたしは自ら存在する者である。」「わたしはすべてのものの源である。」がそれでした。今日の本文によると、神はモーセとイスラエルの祖先であるアブラハムとイサクとヤコブには、主という神の御名を知らせなかったと書いてあります。ただ全能の神であるとご自分のことを現わされたのです。ところで、 以前の説教では「わたしはある」が神の御名であると学んだのに、なぜ今日の本文は「主(ヘブライ語ヤハウェ・エホバ)」という名が神の御名であると語っているのでしょうか? その理由は、「わたしはある。」と訳された原文と「主」と訳された原文に深い関係があるからです。日本語の聖書では説明が難しい理由が原文の聖書には書いてあるからです。日本の教会では「ヤハウェ」あるいは「エホバ」という表現をあまり使いません。 「エホバの証人」のような異端団体が使っているから、なるべく控えようとの理由もあるかもしれないし、「ヤハウェ」という表現を全て「主」と翻訳したギリシャ語旧約聖書に影響を受けたからであるかもしれません。しかし、ヤハウェやエホバという表現は異端的でも悪い言葉でもありません。「ヤハウェ」は「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」というヘブライ語を略して読んだ表現だという説もあります。つまり「ヤハウェ」(日本語聖書で「主」)という表現は「わたしはある」という神の御名を圧縮した言葉であり、今日の本文ではその表現を「主」と訳しているのです。したがって、今日の説教のタイトルである「わたしは主である」という言葉は、「わたしはヤハウェである。」との翻訳ができ、その意味は「わたしはあるという者である」「わたしは自ら存在する者である」と理解しても問題ないと思います。自ら存在する神は、その昔、イスラエルの先祖たちと約束を結ばれましたが、彼らにはご自分の御名を教えてくださいませんでした。しかし、彼らとの約束を憶えておられる神は、先祖たちへの恵みよりも、いっそう豊かな恵みでイスラエルの民にご自分の御名を教えてくださいました。旧約聖書で名前を知らせるということは、より深い関係を結ぶという意味だと解説書に書いてありました。イスラエルの先祖たちと契約を結んだ神は、今やその子孫であるイスラエルとより深い関係を結んで約束を守っていかれるということです。憐れみ豊かな神は、昨日よりさらに大きな恵みで今日の民たちを愛してくださる方です。全能の主は今よりもっと大きな恵みで明日を生きる民と歩んでいかれる神です。 3。わたしは契約を憶える神である。 「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である。」(6:8)ファラオには追い出され、民には恨まれることになったモーセ、失望したモーセに神はもう一度ご自分の計画についてお話しになりました。その昔、イスラエルの先祖であるアブラハムとイサクとヤコブと結んだ契約(約束)を憶えておられる神は、約束通りに必ずその子孫イスラエルを解放させ、約束の地に導き入れると言われました。たとえ、イスラエルが奴隷だとしても、ファラオの権力が強いとしても、モーセが失敗したとしても、神にとってそれらは何の問題にもなりませんでした。神は必ずご自分の約束を守られ、主の御心のままにご計画を成し遂げて行かれる方だからです。神が約束を憶えておられるということは、民と結んだ約束を必ず守るという神の情熱を表す表現です。何があっても必ず守るという神の堅いご意志なのです。創世記で、神はアブラハムにこう言われました。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」(創世記12:2) また、イサクにはこう言われました。「わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。」(創26:4) 最後にヤコブにはこう言われました。「あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。」(創28:14) このようにアブラハムとイサクとヤコブと約束された神は、その約束通りにイスラエルを解放し、カナンに導いて行かれるでしょう。そして、その約束はもうすぐ出エジプト記で成し遂げられます。神は必ず約束(契約)を守られる方です。ところで、私たちは一つ憶えておかなければなりません。アブラハムとイサクとヤコブと結んだ神の約束は出エジプト記だけに限られる約束ではないということです。主の約束は出エジプト記でも成し遂げられますが、究極的には新約聖書のイエス·キリストによって完全に成就しました。旧約の神の約束は、旧約に限るものではなく、以後ダビデにつながり、最後にはイエス·キリストの十字架の救いによって完成します。したがって、神がアブラハムとイサクとヤコブと結んだ契約は、新約時代を生る私たちにも同じく適用されるものです。アブラハムとイサクとヤコブへの神の祝福の約束は、キリストによって私たちにも有効です。しかも、キリストによってさらに堅くなった約束です。約束を憶えておられる神は、キリストを通してより豊かな恵みをもって、私たちを祝福してくださいます。そして、その約束はキリストによって永遠に守られます。このように、神の約束は旧約だけでなく、新約にまでつながる、私たちに与えられた変わらない永遠の約束なのです。 締め括り 聖書が語る「主」という表現は、漠然と誰かを高めるための謙譲表現ではありません。私たちの人生を司る絶対的な方に捧げるべき最高の呼称です。ローマ時代には皇帝や王族、あるいは自分の命を左右する主人に使う表現でした。神が私たちの主になったということ、キリストが私たちの主になったということは、私たちのすべてを知り、導き、治める方が神、キリストしかないという意味です。神が私たちの主であるということは、私たちの生と死を神お独りだけが支配しておられるということです。その主がアブラハムとイサクとヤコブを通してご自分の民を祝福してくださいました。そして、その祝福によって旧約のイスラエルは救われ、その祝福によって新約の私たちは永遠に神の祝福のもとに生きることが出来るのです。したがって「主」という言葉が持つ大きな意味を憶えつつ生きるわたしたちであることを祈ります。最後に、今日の新約本文を読んで説教を終わりたいと思います。「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、イエス・キリストは主であると公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:10-11)神が、この「主」としてイエス·キリストを私たちに遣わしてくださいました。それを憶え、主の約束を信頼しつつ生きる志免教会であることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

キリストが教会になさったように。

創世記2章24節(旧3頁) エフェソの信徒への手紙5章21~33節(新358頁) 前置き 前のエフェソ書の説教で、私は1-3章ではキリストと教会(キリスト者)の関係についての神学的な話が、また、4-6章では、キリストと教会の神学的な話に伴う実質的かつ実践的な生き方についての話が書いてあると申し上げました。教会は神によって天地創造の前にあらかじめ定められ、キリストによって救われ(キリストを頭とし)、聖霊の導きによって歩む、主の体なる共同体として神に召された存在であるとお話ししました。そういうわけで、教会は、もはや神を知らない世に属した人の生き方ではなく、主の体なる共同体にふさわしく、キリストに似ていく生き方を追い求めて生きるべきであるというのが、今までの説教の主な内容でした。今日は教会の実践的な生き方の中でも、最も重要なことについてお話したいと思います。それは夫と妻の関係、つまり夫婦の関係についての話です。パウロは、今日の話を通して、夫婦の関係をキリストと教会の関係につなげて教えています。それだけにキリスト者の夫婦関係は、信仰と密接な関係を結んでいるものです。今日の説教を通して夫婦の関係、そして、キリストと教会の関係について考えてみたいと思います。 1.互いに仕え合いなさい。 今日の本文は夫婦の関係について話す前に、まず、エフェソ教会の信徒たちにキリストへの畏れをもって、互いに仕えあうことを勧めています。 「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(エフェソ5:21) ここで「互いに仕えあう」という表現の原文は「降伏する。屈服する。服従する」という意味の言葉です。21節は今日の本文とも深い関りを持っていますが、前の本文とも繋がる箇所です。キリストによって救われ、神の民となり、神に倣っていこうとする者はキリストに属する者として、兄弟姉妹に対して謙虚に生きなければならないという意味の言葉です。この箇所を読むと、フィリピ書の言葉が思い起こされます。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい…キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2:3-7) つまり、主の民はイエス·キリストにならって、自分の血気と固執を捨て、謙虚に兄弟姉妹、隣人に仕えて生きるべきであるということです。 そして、今日の本文は、この「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」という言葉が、夫婦関係にも適用されると語っているのです。夫婦は世界で一番近い間柄です。親と子供の関係も夫婦関係に勝らないと思います。したがって、夫婦は一生を一緒に生きる、最も身近な隣人どうしなのです。一番身近で、一番よく知り、一番よく接する隣人なので、何よりもお互いへの理解と愛が先に出来なければなりません。しかし、実際、それは本当に難しいものです。現代を背景にしたドラマや映画を観ると、夫が妻を殴ったり、無視したり、見下ろしたりする場面がたびたび出てきます。ドラマは現実の反映ですから、本当にそういうことがあるでしょう。あるいは、激しい気性の妻がいる家庭では、逆に妻が夫を無視したり、見下したり、ひどい場合は妻に暴行される夫もいると言われます。夫と妻が互いに暴言、暴力をふるうことはキリスト者にとって、絶対にありえない、あってはならない、キリスト者にふさわしくない夫婦関係です。クリスチャンホーム、特に夫婦関係において最も基礎的かつ重要な課題は「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合うこと」なのです。夫だからといって妻を軽く扱ってはならず、妻も同じように夫を大事にしなければなりません。ここからキリスト者の家庭の秩序は始まるのです。 2.妻と夫へのパウロの勧告。 「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自ら、その体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。」(エフェソ5:22-24) まず、パウロは妻たちに自分の夫に仕えなさいと勧めています。ここで「仕える」は21節に書いてあった「互いに仕える」と同じギリシャ語です。つまり、妻だけが夫に仕えるべきということではなく、夫も妻に仕えるべきという意味を含んでいるでしょう。パウロは夫は妻の頭(ケファリ)だと語ります。 私たちはよく「キリストは教会の頭」という言葉を使いますが、この「頭」の語源が「ケファリ」なのです。今日の「夫は妻の頭である」という表現にも、このケファリが使われました。ケファリという言葉は「カプト」という表現に由来したという見解がありますが、カプトは「つかむ、握る」を意味します。つまり、ある存在のアイデンティティを表す基礎かつ代表的なもの、すなわち根本を意味する表現です。古代の人々は、人の頭が体全体の根本だと考えたようです。そのためパウロは体なる教会の根本はイエス•キリストであり、それに似た夫婦関係として、妻の根本は夫だと語ったわけです。 根本となるということは、「権威とともに責任を持つ」ということです。真の権威のある夫なら、責任を持って自分の妻を愛しなければなりません。昔から日本や韓国のような北東アジアの文化では、女性の権威が男性の権威に比べて劣るものとされました。だから、男尊女卑という言葉も生まれたのでしょう。しかし、それは男の権威だけを強いた誤った結果です。聖書は妻が夫より劣るという話をしていません。夫に権威と責任を与え、権威と共に責任をも持って、妻を愛するように教えているのです。それが、イエスが教会へなさった愛と似ているからです。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(エフェソ5:25) 父なる神は、イエス·キリストに教会の頭という権威を委ねられました。加えて、教会への責任をも与えられました。そのため、イエス·キリストは、教会のためにご自分の命を惜しげなく捧げました。したがって、キリストと教会との関係と似ている夫婦の関係において、夫は妻のために自分の命をかけるほど深く愛し、仕え、責任を負わなければなりません。キリストが教会になさった、そのすべてのことが、まさにキリスト者の夫たちに与えられた主の教えなのです。それが聖書が語る夫の権威であり、責任であるのです。 3。夫婦は世界で一番小さい教会。 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」(エフェソ5:31-33) 今日の本文は、旧約の創世記2章24節を引用した言葉です。神は創造の時、最後の段階として人(男)を造られました。そして、神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2:16)と言われ、女も造られました。つまり、神は創造の完成を男と女の完成、つまり夫婦の完成として成し遂げられたわけです。そのため、結婚は夫婦二人が一つとなり、主の創造の秩序を果たす偉大な行為なのです。だから、夫なしでは妻もなく、妻なしでは夫もいません。キリストのおられない教会がありえないように、キリストにとっても教会はとても大切で重要な存在です。そのため、キリストは教会を命かけてまで愛されたのです。夫婦は、このように二人が互いに仕えあって一つとなる時、完全になるのです。パウロは夫婦が、キリストと教会との関係に見習って生きることを願ったのです。 私は、世界で一番小さな教会が夫婦だと思います。まるで三位一体なる神が御父、御子、御霊として一つになられたように、キリストと夫と妻が一つになり、地上の一番小さな三位一体を成すのが、夫婦という教会だと思います。(これは神学的な教えではなく、私の個人の見解です。) したがって、神が私たちにくださった配偶者を愛をもって仕えるべきです。私たちは決して偶然出会い、夫婦になったわけではありません。神が天地創造の前に主の教会をあらかじめお定めになって呼んでくださったように、世界で一番小さな教会である夫婦も天地創造の前から、神によって定められ、教会として召されたのです。ですから、配偶者に仕え、愛し、その仕えと愛とを通して、教会を愛されたキリストの恵みを憶えて生きたいと思います。だからといって、配偶者が先に亡くなったり、独身の方や配偶者が未信者である方は、がっかりしないようにしましょう。私たちには共通した夫(花婿)であるキリストがおられるからです。真の夫であるキリストが、皆さんを花嫁として愛しておられることを忘れないでください。むしろ、真の夫であるキリストの愛によって、信じない配偶者に仕えてください。もし、配偶者がいなければ、キリストの愛によって、自分の隣人や家族や教会の兄弟姉妹に仕えてください。大事なのは夫と妻の関係を通して、キリストと教会の関係、尊敬と奉仕と愛の関係を学ぶことだからです。 締め括り 9月8日は、私たち夫婦の結婚5周年の日でした。お見合いで出会ってから、相手のことも深く知らず、たった105日で結婚しました。以後、福岡に渡って5年経ちました。ということは、宣教師としての私の人生は、妻との夫婦生活とあらゆる面において重なります。この5年間、喜怒哀楽を共に経験しつつ一緒に歩んできました。結論的に、神がこの結婚を計画されたということをしみじみと感じる時間でした。だからこそ、今日の言葉は、私自身への主の言葉であるかもしれないと思いました。私はこれからも妻を大切にしながら、互いに仕えあって生きていきたいと思います。今日の説教によって、皆さんにも聖霊なる神がくださる教訓があったと思います。キリスト者の配偶者がいたら、今日の言葉のようにお互いに仕え合いながら、これからも幸せに生きてください。未信者の配偶者がいたら、キリストの愛によって仕えてください。独身者ならキリストを自分の夫とし、主に倣って神と隣人を愛して生きてください。キリストが教会にくださった愛を身につけて生きていくことを願います。今日の御言葉を通じて夫婦関係、そしてキリストと教会の関係について、もう一度考える機会となることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。

主の御言葉に従ったのに。

出エジプト記5章1~23節(旧100頁) コリントの信徒への手紙一 1章25節(新300頁) 前置き モーセは、主なる神に召され、ついにエジプトに出発することになりました。アブラハムとイサクとヤコブの神、誰よりも偉大なイスラエルの神の御使いとなり、苦しんでいるイスラエルの民を救い出すために、モーセはエジプトに赴いたのです。ところが、残念なことに、今日の本文ではモーセの失敗の話が出てきます。モーセは神の御言葉に聞き従い、自分の意志を捨てて主のご命令どおりにファラオのもとに行き、主の御言葉を申し伝えたのに、むしろ、その結果はファラオの怒りとイスラエルの苦しみにつながってしまいました。神の御言葉に従ったのに、結果は失敗と民からの恨みだったわけです。私たちは、これをどう理解すれば良いでしょうか? 今日は出エジプト記5章の言葉を通じて、私たちの信仰の大きな難題の一つである「主の言葉に従ったのに、なぜうまくいかないだろうか?」について考えてみたいと思います。 1.二人の王の対立。 まずは、今日の本文の背景について話しましょう。「その後、モーセとアロンはファラオのもとに出かけて行き、言った。イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と。ファラオは、『主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない』と答えた。」(出5:1-2) エジプトに到着したモーセは、兄弟のアロンと一緒にファラオのもとに行きます。そして、自分を遣わされたイスラエルの神が「ご自分の民であるイスラエルの解放」を命令されたと述べ伝えます。しかし、ファラオは「主とは一体何者なのか。わたしは主など知らない。」と神を敵対しつつ無視します。古代中東の人々は、各地域ごとに神々がいると信じていました。エジプトには太陽の神、河の神、空気の神といった様々な神々があり、他の国々にも数多くの神々への信仰があったのです。当時の古代人たちは、それぞれの神々に自分の場所があり、そこを支配し、それぞれの名前を持っていると信じていました。そのため、エジプトを支配するファラオも、神同然に扱われていたのです。つまり、奴隷イスラエルに主と言われる名前も居場所も知らない突然現れた神という存在を、エジプトで神とされていたファラオは認められなかったわけです。このように出エジプト記5章は、始めから「イスラエルの神とエジプトのファラオ」という真の王と世の王の対立を描いています。 ファラオは、イスラエルの神を無視でもするかのように、モーセが伝えた言葉を聞かず、かえって、イスラエルをさらに苦しめました。当時はレンガを作る時、泥がよく固まるように、わらを入れたのですが、ファラオは、これ以上そのわらを提供せず、イスラエルが自分たちで集めるようにさせました。(レンガの数量はそのまま。)   主なる神はイスラエルを解放するためにモーセを遣わされたのに、それとは違って ファラオはさらに積極的に自分の権力を用いてイスラエルへの束縛を厳しく加えたのです。「ファラオはこう言われる。『今後、お前たちにわらは一切与えない。お前たちはどこにでも行って、自分でわらを見つけて取って来い。ただし、仕事の量は少しも減らさない』」(出5:10-11) ここで「仕事」の語源であるヘブライ語「アバド」は「神に仕える」という意味の表現です。つまり、イスラエルの神という方の命令を無視したファラオは、むしろ自分こそが神であるというニュアンスでイスラエルの民に重労働の弾圧をしたのです。ところで、神とファラオの対立の中、イスラエルの民は、ファラオより、むしろモーセのほうを恨むようになります。神の解放の命令のため、自分たちの労働が増えたことに対する不満だったのです。つまり、神の民と言われるイスラエルがファラオではなく、むしろ、神を恨むようになったということです。 2.主の御言葉に従ったのに。 「彼らは、二人に抗議した。どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです。」(出5:20-21) 先祖の神の命令により、イスラエルを解放するためにエジプトへ来たモーセ。もしかしたら、イスラエルはそのモーセの登場に一抹の希望を持ったのかもしれません。しかし、結論として、そのモーセの登場のため、イスラエルの労働はさらに厳しくなってしまいました。イスラエル人は、幼い頃から自分たちの先祖の話を聞いて育ったはずです。そして先祖を召された神についても、よく聞いてきたはずです。だから、先祖の神がいつか現れ、イスラエルを解放してくださるという希望があったに違いありません。とういうことで、モーセを応援する人もいたでしょう。しかし、彼らはモーセのため、自分たちの労働が増えたという現実に失望し、あまりにも簡単にモーセと神を恨むようになってしまいました。私たちは第三者の立場からモーセの話を読んでいるため、イスラエルの民の恨みを情けないものと思いやすいです。もう少しでエジプトから救われるのに、辛抱強くない彼らの信仰がとても弱く 感じられるかもしれません。しかし、それが私たち自身のことであれば、私たちは果たして、おとなしく神に信頼しつづけ、恨みも文句も一言も言わず、忍耐できますでしょうか。 「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。」(出5:22) イスラエルの民はモーセに、またモーセは神に、恨みと不満を言うのを見て、私たちは彼らの不信仰を非難するだけにとどまってはなりません。むしろ、それを自分に適用し、果たして自分は、こんな状況で神を恨まず、信頼しつづけていけるだろうかと、自分のことを振り返ってみなければなりません。信仰生活をつづけながら、こんな経験はとても起こりやすいです。「神様の御言葉に従ったのに、何もかもうまくいかない。」と神の業を疑うのはよくあることです。  私たちはなぜ「神様の御言葉に従ったのに、うまくいかない。」と恨み、文句するようになるのでしょうか? それは、人間には自分の物差しで、世のすべて(神の業でさえ)を確かめようとする傾向があるからです。長いといっても、100年にも至らない人間が、昔おられ、今おられ、永遠におられる神の御業を自分の物差しで判断しようとするからです。神が一日の計画を立てられたのに、たった1秒後に「自分の思い通りになっていない」と勝手に思って不満を抱いてしまうからです。 3.神への信頼 つまり「神の御言葉どおりに従ったのに、うまくいかない。」と思い、傷つく理由は、神への弱い信頼に基づきます。今日の本文でイスラエル民族は、神という真の王とファラオという世の王の間で迷っています。神についての理解も足りず、その方の権能を経験したこともなかったので、直ちに自分の生活に影響を及ぼすファラオの暴政に屈服してしまうのです。そして、その結果が、神の御使いモーセに対する恨みになったわけです。これは、実はモーセではなく、神への恨みなのです。神より世の王を大きく思い、恐れるから、神に対して恨むわけです。私たちは神を信じていると公に言っていますが、果たして世の王の支配から自由になれるでしょうか? 今、私たちにとって、世の王は誰でしょうか? ファラオでしょうか? 天皇でしょうか? それとも首相でしょうか? いいえ、神に逆らうこの世の風潮に従う私たち自身が、この世の王なのです。私たちはこの世界を70年、80年生きながら、自分が立てた基準のもとで、この世の価値観に足並をそろえていきやすいです。口先では信仰を語りますが、実際、自分自身の基準と世の基準とで世界を眺めているかもしれません。神は聖書を通して「私を信じろ」と語っておられますが、私たち自身の経験と世の中の風潮を見ている私たちは「信じずに信じるふり」ばかりしているかもしれません。 そして、事がうまくいかないと、それを神のせいにしているかもしれません。つまり、私たち自身が神に逆らうファラオであり、神を恨むイスラエルの民であり、モーセのようになっているかもしれないということです。そんな私たちに聖書はこう言います。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いです。」(一コリント1:25) また、イエスはこのように言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ福音20:29) 私たちは神の全能さ、賢さ、強さに信頼し、その方のお導きを忍耐しつつ待ち望んでいく必要があります。そして、今すぐ自分の目の前の結果に執着せず、神の御心を最後まで疑わずに信じ続けていく必要があります。5章でイスラエルとモーセはファラオの暴政のため、神を恨みました。しかし、すぐ次の箇所である6章1節で神はこう言われます。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。」(出6:1)そして、7章ではエジプトへの神の裁きが始まります。イスラエルとモーセが神への信頼を守り、もう少し忍耐していたら、彼らはまもなく神の御業を目撃し、恨みの代わりに讃美と感謝を捧げることになったでしょう。 締め括り 今日の説教のテーマは「神への信頼と忍耐」です。神の民と呼ばれていますが、この世に生きなければならない私たちは、必然的に神に逆らう世の風潮のもとに生きることになっています。ですから、私たちは聖書の御言葉を、しっかり自分の基準とし、世の風潮と自分の思いに流されないように注意する必要があります。私たちは主の御言葉に信頼し、忍耐をもって生きることで、神の御心を待ち望んでいかなければなりません。そうでなければ、私たちは結局イスラエルの民とモーセがしたように、神を恨んでしまうようになるかもしれません。もし、「神様の御言葉に従ったのに、うまくいかない。」と思うようになったら、その時が「私たちの信仰を顧みるべき時」なのです。神の計画を私たち自身の思いで判断してはいないか、私たちは果たして神の御言葉に信頼しているどうか顧みるのです。神と私たちの時間は全く違う速度で流れています。主の時を待ち望んで「神様の御言葉に従ったのに、うまくいかない。」ではなく「今は辛いが、私への主の計画は必ず成し遂げられる。」という信仰で生きる志免教会であることを祈り願います。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。