主の御言葉に従ったのに。

出エジプト記5章1~23節(旧100頁) コリントの信徒への手紙一 1章25節(新300頁) 前置き モーセは、主なる神に召され、ついにエジプトに出発することになりました。アブラハムとイサクとヤコブの神、誰よりも偉大なイスラエルの神の御使いとなり、苦しんでいるイスラエルの民を救い出すために、モーセはエジプトに赴いたのです。ところが、残念なことに、今日の本文ではモーセの失敗の話が出てきます。モーセは神の御言葉に聞き従い、自分の意志を捨てて主のご命令どおりにファラオのもとに行き、主の御言葉を申し伝えたのに、むしろ、その結果はファラオの怒りとイスラエルの苦しみにつながってしまいました。神の御言葉に従ったのに、結果は失敗と民からの恨みだったわけです。私たちは、これをどう理解すれば良いでしょうか? 今日は出エジプト記5章の言葉を通じて、私たちの信仰の大きな難題の一つである「主の言葉に従ったのに、なぜうまくいかないだろうか?」について考えてみたいと思います。 1.二人の王の対立。 まずは、今日の本文の背景について話しましょう。「その後、モーセとアロンはファラオのもとに出かけて行き、言った。イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と。ファラオは、『主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない』と答えた。」(出5:1-2) エジプトに到着したモーセは、兄弟のアロンと一緒にファラオのもとに行きます。そして、自分を遣わされたイスラエルの神が「ご自分の民であるイスラエルの解放」を命令されたと述べ伝えます。しかし、ファラオは「主とは一体何者なのか。わたしは主など知らない。」と神を敵対しつつ無視します。古代中東の人々は、各地域ごとに神々がいると信じていました。エジプトには太陽の神、河の神、空気の神といった様々な神々があり、他の国々にも数多くの神々への信仰があったのです。当時の古代人たちは、それぞれの神々に自分の場所があり、そこを支配し、それぞれの名前を持っていると信じていました。そのため、エジプトを支配するファラオも、神同然に扱われていたのです。つまり、奴隷イスラエルに主と言われる名前も居場所も知らない突然現れた神という存在を、エジプトで神とされていたファラオは認められなかったわけです。このように出エジプト記5章は、始めから「イスラエルの神とエジプトのファラオ」という真の王と世の王の対立を描いています。 ファラオは、イスラエルの神を無視でもするかのように、モーセが伝えた言葉を聞かず、かえって、イスラエルをさらに苦しめました。当時はレンガを作る時、泥がよく固まるように、わらを入れたのですが、ファラオは、これ以上そのわらを提供せず、イスラエルが自分たちで集めるようにさせました。(レンガの数量はそのまま。)   主なる神はイスラエルを解放するためにモーセを遣わされたのに、それとは違って ファラオはさらに積極的に自分の権力を用いてイスラエルへの束縛を厳しく加えたのです。「ファラオはこう言われる。『今後、お前たちにわらは一切与えない。お前たちはどこにでも行って、自分でわらを見つけて取って来い。ただし、仕事の量は少しも減らさない』」(出5:10-11) ここで「仕事」の語源であるヘブライ語「アバド」は「神に仕える」という意味の表現です。つまり、イスラエルの神という方の命令を無視したファラオは、むしろ自分こそが神であるというニュアンスでイスラエルの民に重労働の弾圧をしたのです。ところで、神とファラオの対立の中、イスラエルの民は、ファラオより、むしろモーセのほうを恨むようになります。神の解放の命令のため、自分たちの労働が増えたことに対する不満だったのです。つまり、神の民と言われるイスラエルがファラオではなく、むしろ、神を恨むようになったということです。 2.主の御言葉に従ったのに。 「彼らは、二人に抗議した。どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです。」(出5:20-21) 先祖の神の命令により、イスラエルを解放するためにエジプトへ来たモーセ。もしかしたら、イスラエルはそのモーセの登場に一抹の希望を持ったのかもしれません。しかし、結論として、そのモーセの登場のため、イスラエルの労働はさらに厳しくなってしまいました。イスラエル人は、幼い頃から自分たちの先祖の話を聞いて育ったはずです。そして先祖を召された神についても、よく聞いてきたはずです。だから、先祖の神がいつか現れ、イスラエルを解放してくださるという希望があったに違いありません。とういうことで、モーセを応援する人もいたでしょう。しかし、彼らはモーセのため、自分たちの労働が増えたという現実に失望し、あまりにも簡単にモーセと神を恨むようになってしまいました。私たちは第三者の立場からモーセの話を読んでいるため、イスラエルの民の恨みを情けないものと思いやすいです。もう少しでエジプトから救われるのに、辛抱強くない彼らの信仰がとても弱く 感じられるかもしれません。しかし、それが私たち自身のことであれば、私たちは果たして、おとなしく神に信頼しつづけ、恨みも文句も一言も言わず、忍耐できますでしょうか。 「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。」(出5:22) イスラエルの民はモーセに、またモーセは神に、恨みと不満を言うのを見て、私たちは彼らの不信仰を非難するだけにとどまってはなりません。むしろ、それを自分に適用し、果たして自分は、こんな状況で神を恨まず、信頼しつづけていけるだろうかと、自分のことを振り返ってみなければなりません。信仰生活をつづけながら、こんな経験はとても起こりやすいです。「神様の御言葉に従ったのに、何もかもうまくいかない。」と神の業を疑うのはよくあることです。  私たちはなぜ「神様の御言葉に従ったのに、うまくいかない。」と恨み、文句するようになるのでしょうか? それは、人間には自分の物差しで、世のすべて(神の業でさえ)を確かめようとする傾向があるからです。長いといっても、100年にも至らない人間が、昔おられ、今おられ、永遠におられる神の御業を自分の物差しで判断しようとするからです。神が一日の計画を立てられたのに、たった1秒後に「自分の思い通りになっていない」と勝手に思って不満を抱いてしまうからです。 3.神への信頼 つまり「神の御言葉どおりに従ったのに、うまくいかない。」と思い、傷つく理由は、神への弱い信頼に基づきます。今日の本文でイスラエル民族は、神という真の王とファラオという世の王の間で迷っています。神についての理解も足りず、その方の権能を経験したこともなかったので、直ちに自分の生活に影響を及ぼすファラオの暴政に屈服してしまうのです。そして、その結果が、神の御使いモーセに対する恨みになったわけです。これは、実はモーセではなく、神への恨みなのです。神より世の王を大きく思い、恐れるから、神に対して恨むわけです。私たちは神を信じていると公に言っていますが、果たして世の王の支配から自由になれるでしょうか? 今、私たちにとって、世の王は誰でしょうか? ファラオでしょうか? 天皇でしょうか? それとも首相でしょうか? いいえ、神に逆らうこの世の風潮に従う私たち自身が、この世の王なのです。私たちはこの世界を70年、80年生きながら、自分が立てた基準のもとで、この世の価値観に足並をそろえていきやすいです。口先では信仰を語りますが、実際、自分自身の基準と世の基準とで世界を眺めているかもしれません。神は聖書を通して「私を信じろ」と語っておられますが、私たち自身の経験と世の中の風潮を見ている私たちは「信じずに信じるふり」ばかりしているかもしれません。 そして、事がうまくいかないと、それを神のせいにしているかもしれません。つまり、私たち自身が神に逆らうファラオであり、神を恨むイスラエルの民であり、モーセのようになっているかもしれないということです。そんな私たちに聖書はこう言います。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いです。」(一コリント1:25) また、イエスはこのように言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ福音20:29) 私たちは神の全能さ、賢さ、強さに信頼し、その方のお導きを忍耐しつつ待ち望んでいく必要があります。そして、今すぐ自分の目の前の結果に執着せず、神の御心を最後まで疑わずに信じ続けていく必要があります。5章でイスラエルとモーセはファラオの暴政のため、神を恨みました。しかし、すぐ次の箇所である6章1節で神はこう言われます。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。」(出6:1)そして、7章ではエジプトへの神の裁きが始まります。イスラエルとモーセが神への信頼を守り、もう少し忍耐していたら、彼らはまもなく神の御業を目撃し、恨みの代わりに讃美と感謝を捧げることになったでしょう。 締め括り 今日の説教のテーマは「神への信頼と忍耐」です。神の民と呼ばれていますが、この世に生きなければならない私たちは、必然的に神に逆らう世の風潮のもとに生きることになっています。ですから、私たちは聖書の御言葉を、しっかり自分の基準とし、世の風潮と自分の思いに流されないように注意する必要があります。私たちは主の御言葉に信頼し、忍耐をもって生きることで、神の御心を待ち望んでいかなければなりません。そうでなければ、私たちは結局イスラエルの民とモーセがしたように、神を恨んでしまうようになるかもしれません。もし、「神様の御言葉に従ったのに、うまくいかない。」と思うようになったら、その時が「私たちの信仰を顧みるべき時」なのです。神の計画を私たち自身の思いで判断してはいないか、私たちは果たして神の御言葉に信頼しているどうか顧みるのです。神と私たちの時間は全く違う速度で流れています。主の時を待ち望んで「神様の御言葉に従ったのに、うまくいかない。」ではなく「今は辛いが、私への主の計画は必ず成し遂げられる。」という信仰で生きる志免教会であることを祈り願います。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。