わたしは主である。

出エジプト記6章1~13節(旧101頁) フィリピの信徒への手紙2章10~11節(新363頁) 前置き 前回の説教では「わたしの民を去らせなさい」という神のご命令を告げ知らせるために、ファラオの前に行ったモーセの話が描かれました。モーセはファラオに神の厳重な命令を申し伝えましたが、ファラオはその言葉を無視して、むしろイスラエルの民に今までより、さらに重い労役を命令した後、モーセを追い出しました。ファラオとモーセとの出来事によって、むしろ労役が増えてしまったイスラエルの民はモーセを恨みました。そして、このような結果に失望したモーセも神に嘆きました。その話を通して、私たちは神の御言葉に従ったにもかかわらず、物事がうまくいかない場合もありうるということが分かりました。しかし、神は主の御心とご計画を、必ず成し遂げられる方です。たかが100年も生きることのできない人間の愚かな考えで、永遠におられる神の知恵と計画を判断しようとするなら、人間は必ず神に失望し恨むことになってしまいます。しかし、主の御心に信頼し、その御業の成就を待ち望む者は、最後には、必ずご自分の計画を成就される神の恵みに気づき、感謝するようになるでしょう。私たちは前回の説教で、神への変わらない信頼を持って神の御心を待ち望みながら生きる信仰の人生の大事さを学びました。 1. わたしがあなたたちの主である。 6章が始まるやいなや、神はモーセに言われました。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」(出エジプト6:1) それはイスラエルの民が必ずエジプトから解放されるという希望のメッセージでした。ただ、ほうほうの体で逃げるのではなく、主の強い手(ファラオとは比べ物にならない圧倒的な権能)によって解放されるということです。そして、ファラオが持ちこたえられず、イスラエルを追い出してしまうほど、二度と狙わないほどの絶対的な力でイスラエルを解放させるという約束です。イスラエル民族とモーセは人間の目に、あまりにも強くて大きく見えるファラオの権力に圧倒されてしまいましたが、主はそのファラオでさえ、どうしようもない、より大きな力によってイスラエルを救うことを約束されます。前の5章でイスラエルとモーセはたった一度のファラオの横暴に圧倒され、怯えてしまいました。そして、むしろ、ファラオより偉大なイスラエルの神を恨みました。人間は自分が感じること、見ること、聞くことによって、この世界を判断しがちな存在です。そんな理由で、目に見えませんが、確かにおられる偉大な神の権能をもすぐ見落としてしまう傾向があります。 しかし、神は、人間の考えを、はるかに超える偉大な方です。ファラオは神を奴隷たちの神に過ぎないと思って無視しましたが、その結果は奴隷たちの神の裁きによる滅びでした。現代の日本を生きる私たちも、小さくて弱く見える日本の教会を見ながら神の威厳をすぐ忘れてしまうかもしまうかもしれません。日本の政治家、財閥、権力者に比べて、日本の教会が、あまりにも小さくて弱い群れであるのは事実だからです。しかし、私たちの目に映るのがすべてではありません。神は世のすべてのものの上におられ、世のすべてのものは主の支配のもとにあります。私たちの目には見えないだけで、聖書は神があらゆる名にまさる名を持っておられる真の王であることを常に証しています。ところで、この偉大な神が今日の本文を通して、こう語っておられます。「わたしは主である。…わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。…」(6-7中)神は、ご自分への弱い信頼と不信仰で生きる民でさえ哀れみ、救って導くことを望んでおられる私たちの主です。主は決して弱い民を嫌に思われることなく、むしろ、わたしはあなたの神であると宣言なさる方です。このような主なる神を憶え、目に見えることだけを信じるのではなく、目に見えない主の偉大さを拠り所とし、信仰を堅く守る私たちであることを願います。 2. わたしは主である。 「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主というわたしの名を知らせなかった。わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した。」(3-5) 神はなぜ信仰の弱いイスラエルの民を見捨てられず、憐れんで救ってくださることを望まれたでしょうか? それは、神がかつてイスラエルの先祖たちと結ばれた「約束(契約)」のためです。前の説教で、私たちは神がモーセにご自分の御名を教えてくださったと学びました。ヘブライ語の「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」直訳すると「わたしはある」、意訳すると「わたしは自ら存在する者である。」「わたしはすべてのものの源である。」がそれでした。今日の本文によると、神はモーセとイスラエルの祖先であるアブラハムとイサクとヤコブには、主という神の御名を知らせなかったと書いてあります。ただ全能の神であるとご自分のことを現わされたのです。ところで、 以前の説教では「わたしはある」が神の御名であると学んだのに、なぜ今日の本文は「主(ヘブライ語ヤハウェ・エホバ)」という名が神の御名であると語っているのでしょうか? その理由は、「わたしはある。」と訳された原文と「主」と訳された原文に深い関係があるからです。日本語の聖書では説明が難しい理由が原文の聖書には書いてあるからです。日本の教会では「ヤハウェ」あるいは「エホバ」という表現をあまり使いません。 「エホバの証人」のような異端団体が使っているから、なるべく控えようとの理由もあるかもしれないし、「ヤハウェ」という表現を全て「主」と翻訳したギリシャ語旧約聖書に影響を受けたからであるかもしれません。しかし、ヤハウェやエホバという表現は異端的でも悪い言葉でもありません。「ヤハウェ」は「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」というヘブライ語を略して読んだ表現だという説もあります。つまり「ヤハウェ」(日本語聖書で「主」)という表現は「わたしはある」という神の御名を圧縮した言葉であり、今日の本文ではその表現を「主」と訳しているのです。したがって、今日の説教のタイトルである「わたしは主である」という言葉は、「わたしはヤハウェである。」との翻訳ができ、その意味は「わたしはあるという者である」「わたしは自ら存在する者である」と理解しても問題ないと思います。自ら存在する神は、その昔、イスラエルの先祖たちと約束を結ばれましたが、彼らにはご自分の御名を教えてくださいませんでした。しかし、彼らとの約束を憶えておられる神は、先祖たちへの恵みよりも、いっそう豊かな恵みでイスラエルの民にご自分の御名を教えてくださいました。旧約聖書で名前を知らせるということは、より深い関係を結ぶという意味だと解説書に書いてありました。イスラエルの先祖たちと契約を結んだ神は、今やその子孫であるイスラエルとより深い関係を結んで約束を守っていかれるということです。憐れみ豊かな神は、昨日よりさらに大きな恵みで今日の民たちを愛してくださる方です。全能の主は今よりもっと大きな恵みで明日を生きる民と歩んでいかれる神です。 3。わたしは契約を憶える神である。 「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である。」(6:8)ファラオには追い出され、民には恨まれることになったモーセ、失望したモーセに神はもう一度ご自分の計画についてお話しになりました。その昔、イスラエルの先祖であるアブラハムとイサクとヤコブと結んだ契約(約束)を憶えておられる神は、約束通りに必ずその子孫イスラエルを解放させ、約束の地に導き入れると言われました。たとえ、イスラエルが奴隷だとしても、ファラオの権力が強いとしても、モーセが失敗したとしても、神にとってそれらは何の問題にもなりませんでした。神は必ずご自分の約束を守られ、主の御心のままにご計画を成し遂げて行かれる方だからです。神が約束を憶えておられるということは、民と結んだ約束を必ず守るという神の情熱を表す表現です。何があっても必ず守るという神の堅いご意志なのです。創世記で、神はアブラハムにこう言われました。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」(創世記12:2) また、イサクにはこう言われました。「わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。」(創26:4) 最後にヤコブにはこう言われました。「あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。」(創28:14) このようにアブラハムとイサクとヤコブと約束された神は、その約束通りにイスラエルを解放し、カナンに導いて行かれるでしょう。そして、その約束はもうすぐ出エジプト記で成し遂げられます。神は必ず約束(契約)を守られる方です。ところで、私たちは一つ憶えておかなければなりません。アブラハムとイサクとヤコブと結んだ神の約束は出エジプト記だけに限られる約束ではないということです。主の約束は出エジプト記でも成し遂げられますが、究極的には新約聖書のイエス·キリストによって完全に成就しました。旧約の神の約束は、旧約に限るものではなく、以後ダビデにつながり、最後にはイエス·キリストの十字架の救いによって完成します。したがって、神がアブラハムとイサクとヤコブと結んだ契約は、新約時代を生る私たちにも同じく適用されるものです。アブラハムとイサクとヤコブへの神の祝福の約束は、キリストによって私たちにも有効です。しかも、キリストによってさらに堅くなった約束です。約束を憶えておられる神は、キリストを通してより豊かな恵みをもって、私たちを祝福してくださいます。そして、その約束はキリストによって永遠に守られます。このように、神の約束は旧約だけでなく、新約にまでつながる、私たちに与えられた変わらない永遠の約束なのです。 締め括り 聖書が語る「主」という表現は、漠然と誰かを高めるための謙譲表現ではありません。私たちの人生を司る絶対的な方に捧げるべき最高の呼称です。ローマ時代には皇帝や王族、あるいは自分の命を左右する主人に使う表現でした。神が私たちの主になったということ、キリストが私たちの主になったということは、私たちのすべてを知り、導き、治める方が神、キリストしかないという意味です。神が私たちの主であるということは、私たちの生と死を神お独りだけが支配しておられるということです。その主がアブラハムとイサクとヤコブを通してご自分の民を祝福してくださいました。そして、その祝福によって旧約のイスラエルは救われ、その祝福によって新約の私たちは永遠に神の祝福のもとに生きることが出来るのです。したがって「主」という言葉が持つ大きな意味を憶えつつ生きるわたしたちであることを祈ります。最後に、今日の新約本文を読んで説教を終わりたいと思います。「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、イエス・キリストは主であると公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:10-11)神が、この「主」としてイエス·キリストを私たちに遣わしてくださいました。それを憶え、主の約束を信頼しつつ生きる志免教会であることを祈り願います。 父と子と聖霊の御名によって。 アーメン。