聖霊なる神。

歴代誌上 12章17~19節(旧645頁) ローマの信徒への手紙 8章9~11節(新284頁) 前置き 毎年5月になると、キリスト教会はペンテコステを迎えます。ペンテコステとはギリシャ語で50日という意味です。この50日は果たして何を意味するのでしょうか? 聖書はイエスが十字架にかけられ死に、3日後に復活されてから50日たった日、三位一体の一位格(キリスト教用語)である聖霊なる神が到来されたと証しています。イエスの昇天後、主のご命令に従って(使徒言行録1章)部屋に集まって祈っていたイエスの弟子たちは、とても不思議な経験をするようになります。それは主が言われた通りに父なる神からキリストの弟子たちに聖霊が遣わされる出来事でした。主の弟子たちに聖霊が臨まれると、彼らは今まで、この世を恐れていた姿を捨てて大胆にイエス·キリストと主の福音を宣べ伝えるようになりました。つまり、イエスが復活してから50日後に聖霊が降臨した出来事が起こったため、人々はギリシャ語式に50日(ペンテコステ)と呼んでいるわけです。したがって、ペンテコステのより正確な名称は、聖霊の降臨を記念する聖霊降臨節なのです。現代を生きる私たちにとって聖霊は誰であり、聖霊の降臨はどういう意味を持つのでしょうか? 一緒に考えてみたいと思います。 1. 聖霊について。 聖霊とはどんな存在でしょうか? 私たちは祈る時に「父なる神」あるいは「イエスの御名によって」という表現をよく使います。しかし、聖霊を意識的に呼ぶのはほとんどないと思います。キリスト教は伝統的に三位一体の教理を信じています。私たちが信じる神が御父と御子と聖霊の三位が一体でおられると信じているということです。つまり、聖霊は御父と御子と共に三位一体をなしておられ、明らかに神であるということです。それでも、聖書は父と子についてはよく語っているのに、聖霊については比較的に少ないと思います。その理由は聖書の真の記録者である聖霊が、ご自身のことより父と子についてさらに示しておられるためではないかと思います。私たちの主イエスは、聖霊について次のように語られました。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ15:26) 主は聖霊が父のもとから主イエス·キリストの名によって遣わされる方だと語られました。また真理の霊であり、主の御言葉を思い起こさせ、イエスのことを証しする方だとも言われました。 聖霊は全能な三位一体なる神の一位格であるにもかかわらず、ご自分のことを隠してむしろ御父と御子をより明確に表される方なのです。父と子と同質であり、同等な力を持っておられるにもかかわらず、自ら父と子に謙遜に従われる方なのです。したがって、私たちは聖霊が神であるにもかかわらず、誰よりも謙遜な方であることが分かります。聖霊は創造の時にもおられました。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1:2) また、聖霊は旧約の人物たちとも共におられました。「すると霊が三十人隊の頭アマサイに降った。ダビデよ、わたしたちはあなたのもの。エッサイの子よ、あなたの味方です。平和がありますように。あなたに平和、あなたを助ける者に平和。あなたの神こそ、あなたを助ける者。ダビデは彼らを受け入れ、部隊の頭とした。」(歴代誌上12:19) そして、聖霊は新約時代にも私たちと共にいらっしゃいます。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26) この聖霊はご自身ではなく父と子をより一層証ししつつ、信徒の歩みと弱さを助けてくださる真の神なのです。 聖霊は、ヘブライ語で「ルーアッハ」、ギリシャ語では「プニュマ」と言われます。そしていずれも「風」あるいは「息」を意味する表現です。聖霊は風や息のように目には見えない存在ですが、確かに働いておられる方です。だからといって、聖霊を風や息あるいは気のように人格もなく意志もない、ただ神のいきおいだと思ってはなりません。聖書は明らかに、聖霊が神であることを証言しているからです。風はどうですか? 目には見えませんが、確かな力を持っています。時には暑い夏、爽やかな夕風を。また、時には恐ろしい台風となり、暴風と大雨を伴います。そのように聖霊は目には見えませんが、明らかな力と意志を持って父なる神のご計画と御子イエスのご意志に従って力強く世のすべてを司る方なのです。ですから、私たちは神を考えるとき、父と子にだけ留まってはなりません。聖霊が確かにおられ、御父と御子イエス·キリストと共にこの世界を統治しておられることを忘れてはなりません。見えないからといって存在しないわけではないからです。ご自分のことを隠して父と子を示される、その謙遜さを憶え、私たちは常に聖霊を神と認め、その方を尊重し、その御心に従順に聞き従うべきです。聖霊降臨節を迎え、この聖霊について黙想する機会になれば幸いです。 2.現代のキリスト者において聖霊とは? それでは、現代を生きる私たちにとって、聖霊はどのような意味を持つのでしょうか? 神学用語に「聖霊の照明」という表現があります。漢字語としては、天井についている蛍光灯のような照明器具のあの照明です。しかし、神学においてはその使い道が違い「悟りの光を照らし、主の御言葉を解き明かしてくれる。」という意味としての照明なのです。つまり、この照明は聖霊と聖書の関係を説明する用語なのです。聖書は紀元前1500年ごろから西暦100年ごろにわたって記録された文書だと知られています。複数の著者によって記されており、数多くの筆写本(手書きの写し)が残されており、原本は大昔に消失したと言われます。世々の複数の人によって記録されたため、時代の移り変わりによる歴史、文化、思想の違いがあります。それでは、このような聖書を何千年もたっている21世紀の今日、どうして理解し説教することができますでしょうか? それは聖霊の照明があるからです。聖霊は聖書の真の著者です。何千年という長い期間、聖霊のお導きによって聖書は記され、それによって「神の救い」という聖書の主なテーマは少しも変わらず保たれてきたわけです。つまり聖書は聖霊によって神の救いについての変わらないテキストとして今でも残っているのです。また、聖霊の導きによって、現代の牧師たちは神の救いについて説教することが出来るのです。現代人にとって、聖霊は聖書を照明して正しく理解させる、言葉の光としての存在です。聖霊のお導きによって、私たちは今日も聖書の言葉を聞き、主の御心を知り、信じるようになるのです。 また、聖霊はイエスについて教え、信じるように導いてくださる霊です。先ほど引用しましたように、イエスは聖霊について、こう言われました。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ15:26)また、今日の本文はこう述べています。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」(ローマ8:9) だから聖霊はイエス·キリストのことを示し、主の救いの御業と福音を証しし、罪人を悔い改めさせてキリストを信じるように導いてくださる存在なのです。人が自力でイエスを信じようとしても、罪のため、絶対にイエスを信じることは出来ません。聖書の言葉を聞いても「古代人たちの立派な教えだ。」あるいは「イエスは偉大な思想家だ。」くらいで終わるのです。人は聖霊の導きによって神の御言葉が分かり、自分を顧みるようになり、悔い改めるようになり、そのような過程を通して、はじめてイエスを主と崇めるキリスト者になっていくのです。したがって、聖霊はイエスについて教え信じるようにしてくださる霊です。聖霊のお導きがあるからこそ、私たちはイエスを自分の主と告白し、その方の民となるのです。つまり、聖霊の御業でなければ、誰もイエスを正しく信じ、さらに三位一体の神を知ることは出来ないのです。 最後に、聖霊はキリスト者の人生を導いてくださる方です。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ローマ書8:11) 先日、復活について説教しながら死んだ肉体が再び生き返ることだけが復活ではなく、神を知らずに霊的に死んでいた者が、神を知り、信じ、新たに生き始めるのも、また別の意味としての復活だと言いました。聖霊が私たちの内におられれば、私たちはキリストを知り、信じるようになり、キリストの恵みのもとで以前とは異なる新しい人生を生きるようになります。聖霊によって聖書に記された主の御言葉を自分のものと受け入れるようになり、その御言葉に基づいて、過去とは違う人生を始めるのです。その後もキリスト者が神に召される日まで、聖霊なる神はキリストの恵みにあってキリスト者と常に共に歩んで下さり、日々正しい人生を歩んで行けるよう導いてくださるのです。キリスト教の神学では、このような聖霊による変化のある生き方を聖化(日本キリスト教会信仰の告白参照)と呼んでいます。そのため、主はヨハネによる福音書を通して聖霊を「弁護者(助け主)」と称され、主が昇天された後も、私たちと共におられる方だと言われたのです。 締め括り 今日は普段の説教では、あまり詳しく扱わない聖霊なる神について話しました。実は、本格的に聖霊について学ぼうとしたら、時間を決めて週に2、3時間ずつ1ヶ月くらいは勉強する必要があると思います。聖霊がなさる御業が、絶対に少なくないということです。今日の説教を通して、三位一体なる神の一位格である聖霊についてもう一度考えてみる機会となったら幸いです。聖霊は真の神です。聖霊は目に見えませんが、明らかに存在する全能な方です。聖霊はキリストの福音と言葉を悟らせてくださる方です。聖霊はキリストを信じるように導いてくださる方です。聖霊は私たちが主の御言葉に聞き従い、正しく生きるように助けてくださる方です。このような聖霊への知識を持って、常に認識して生きる私たちであることを願います。創造の時から、旧約時代と新約時代を経て、今もなお私たちと共におられる聖霊。私たちを助け導いてくださる助け主、聖霊を憶え、その方に頼って生きる私たち志免教会の兄弟姉妹でありますように祈ります。 父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

教会はキリストの体。

詩編33編12節(旧864頁) エフェソの信徒への手紙 1章15~23節(新352頁) 前置き 前回の本文の内容を手短に話してから説教に入りましょう。キリスト者は天地創造の前に、神の予定により、キリストにおいて選ばれ、教会に召された者です。キリスト者が神に選ばれ、教会に召された理由は、キリストによって与えられた神の輝かしい恵みをたたえるためです。神はキリスト者をお呼びになるために、御子イエスを十字架にかけられ、その贖いによってキリスト者をお買取りなさいました。また、神は十字架で死んだキリストを復活させられ、その方に世界を支配する権勢を与え、その方を神の真の相続人にしてくださいました。ですので、キリストは教会だけでなく、この世のすべての頭でもある方です。そして、神はキリストの贖いによって買い取られたキリスト者にも、主イエスの肢として主と共に神の相続人と呼ばれる光栄を与えてくださいました。したがって、キリスト者はキリストによって天地創造の前から選ばれた神の相続人として、主のご計画への堅い信仰で生きるべき存在です。志免教会はとても小さな群れですが、私たちをお呼びくださった大きな神の相続人なのです。その資格にふさわしく生きる私たちでありますよう祈ります。 1.「パウロの感謝の祈り」(15-16節) 前回の本文でパウロは、キリスト者が、どのようにして神に選ばれ、教会に召されるようになったのかについて話しました。パウロはまた、この手紙の受取人であるエフェソ教会も、そのように神に選ばれ、キリストによって神の相続人となったことを喜び感謝しています。「こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。」(エフェソ1:15-16) パウロはすべて4回の宣教旅行をしたと知られていますが、エフェソ教会は3番目の宣教旅行の時、パウロによって開拓された教会です。つまりエフェソ教会はパウロにとって自分の子供のような教会なのです。ちなみに2番目の宣教旅行の時には、コリント教会が開拓されたんですが、いろいろなトラブルで問題だったコリント教会とは違い、エフェソ教会は比較的に健全な教会だったと思われます。(比較的と書いた理由は、ヨハネの黙示録2章に描かれたエフェソ教会は主イエスの称賛と叱責を共に受けているからです。) パウロは今日の本文の15節と16節で、このエフェソ教会のために絶えず感謝の祈りをしていると言いました。 パウロはエフェソ教会の信仰と愛の便りを聞いて心から喜んでいたようです。おそらくパウロは天地創造の前に神に選ばれた存在であり、キリストの体であるエフェソ教会が、信仰と愛とによって健全に進んでいることに喜んだでしょう。私たちはこれを通じて神に選ばれた主の教会のあり方が「信仰と愛」にあることが分かります。信仰と愛の欠けた教会は虚しいです。主への信仰と隣人への愛、それこそが私たち教会が自らを証明する大事な基準なのです。それでは、パウロの祈りはどういうものだったでしょうか。彼は4番目宣教旅行以後、ローマの監獄でエフェソ書を書いたと知られていますが、彼は長い時間エフェソ教会を訪問できなかったにもかかわらず、自分の子供のようなエフェソ教会を愛し、覚えつつ祈ったのです。私たちは、こパウロの祈りを通じて何を祈るべきかを教えてもらいます。パウロは投獄され、いつどうなるかも分からない状態だったにもかかわらず、エフェソ教会の信仰と愛の便りを聞いて喜びつつ感謝の祈りを捧げました。私たちは隣の教会のために、どれくらい祈っているでしょうか? いつも自分あるいは我が教会だけのために祈っているのではないでしょうか? 私たちもまた、自分の状況を問わず、エフェソ教会のために祈ったパウロにならいたいです。主への信仰と隣人への愛にあって生きている兄弟と姉妹、そして隣の教会のために喜び感謝しつつ祈る私たちであることを祈ります。 2.信仰と愛の上に立って神の御心を悟っていこう」(17-18節) エフェソ教会の信仰と愛の便りを聞き、喜びと感謝の祈りを捧げたパウロは、エフェソ教会がさらに進み、主において成長していくことを祈ります。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、」(17) まず、パウロはエフェソ教会が「知恵と啓示との霊」によって「神を深く知る」ようにと祈りました。つまり、聖霊のお導きによって神への知識が増えることを願っているのです。人は自分で神を知ることが出来ません。人間には神との関係を妨げる罪の本性があるからです。つまり、神に教えていただかなければ、人間は絶対に神のことを自分で知ることは出来ないのです。ところで、キリストの贖いと赦しは、このような人間の罪の問題を解決し、聖霊のお導きによって、神を知る道を開きました。キリストに遣わされた聖霊は「神の知恵と啓示」を喜んで教えてくださる方です。私たちは聖霊の照明(光を照らして明らかにしてくださる。)によって聖書の言葉を聞き、悟り、実践しつつ、神のことを知っていきます。本当に信仰と愛とに立っている教会なら、聖霊によって神の御言葉を学び、神のことをますます知っていく健全な教会でなければなりません。人間は神を知ることが出来ませんが、御父と御子によって遣わされた聖霊は、キリストの恵みの中で、私たちに神への知識を喜んで与えてくださいます。 「心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」(18)また、パウロは、主がエフェソ教会の心の目を開かせ、神の招き(神のお呼び)による希望と神の相続人となったキリスト者の受け継ぐもの(神の嗣業)の豊かな栄光を悟らせてくださることを祈ります。「招き(お呼び)」とはキリスト者が天地創造の前から主の予定によってキリストにおいて神の相続人として召されたことであり、「受け継ぐもの(嗣業)の豊かなの栄光」とは、神の相続人となったキリスト者が神に嗣業を受け継いだ栄光を意味するものです。詩篇にはこういう言葉があります。「いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。」(詩編33:12) つまり神の相続人となり、嗣業を受け継いだということは、罪の束縛から自由になり、神と和解し、祝福の中で神の所有となったという意味ではないでしょうか? 旧約聖書の創世記には、エデン(ヘブライ語喜び)の園に住んでいた最初の人の物語が書いてあります。最初の人はエデンで神の相続人のような存在であり、エデンは彼に委ねられた神の受け継ぐもののような場所でした。しかし最初の人は罪によってエデンから追い出され、神の相続人、主の嗣業を受け継ぐ特権を失ってしまいました。そして、その呪いは彼の子孫である全人類に同じく与えられました。しかし、神はキリストを通して人類の罪を赦し、主を信じるすべての者に回復を許してくださいました。だから相続人、受け継ぐものという言葉は、最初の人間が失ったエデンの特権をキリストによって回復するという意味ではないでしょうか? 3.「キリストは教会の頭であり、全世界の頭でもある」(19-23節) つまり、エフェソ教会が、先ほどお話しました主の恵みの中で進んでいくようにと自分の祈りを通して願っているのです。そしてパウロは19節を通して、そのようなすべての恵みが、絶対的な神の力によってなされるということを、神がエフェソ教会に悟らせてくださるように祈ります。「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(19) その後、20節から22節までは、その神の絶対的な力への説明が書いてあります。その「神の絶対的な力」とは、まさにイエス•キリストの御業のことです。パウロはそれを通して、イエス•キリストの十字架での犠牲と復活、そして昇天といった主の御業が、キリスト者において「聖霊のお導きのもとで、神の御言葉を悟らせ、キリストと共に神の相続人として神の嗣業を受け継がせる」原動力であり、神の絶対的な力であることを示します。つまり、パウロはキリストご自身が、神の祝福を私たちに与える神の力であることを証言するのです。「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」(21-22) さらにパウロはこのキリストが教会だけでなく、この世の真の支配者であることを語り、そのキリストがまた教会の頭であると力強く語っているのです。 「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(23)ここで私たちはキリストが教会の頭であるということと、教会がキリストの体であるということの大事さを知ることが出来ます。これまでのエフェソ書1章の内容をまとめてわかりやすく話してみましょう。第一、キリスト者は天地創造の前に神の予定によりキリストにおいて選ばれ、教会に召された。第二、パウロはエフェソ教会が、主に召された教会として信仰と愛とで生きることを喜び、神に感謝した。第三、パウロはさらにエフェソ教会が信仰と愛との上に立ち、聖霊のお導きのもとで神を知るようにと祈った。第四、神のことを知りつつ、エヴェソ教会に与えられた神の招きの希望と神の嗣業が持つ栄光の豊かさに目覚めることを祈った。招きの希望とはキリストによって神の相続人となったことであり、神の嗣業の栄光の豊かさとは神との真の和解と交わりが出来るようになったことを意味する。第五、そのすべての恵みは神の絶対的な力であるキリストによってなされたものである。第六、神はキリストを教会だけでなく、全世界の支配者としてくださった。第七、エフェソ教会は、まさにこのキリストの体なる共同体としてすべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場である。それが昔のエフェソ教会と現在の志免教会のアイデンティティーであります。 締め括り 前回の説教は割と分かりやすいと思いましたが(教会はキリストによって天地創造の前の神の予定通りに召された存在)今日はその教会がどんな存在であるかを説明する、多少複雑な内容だったと思います。いつもパウロの手紙を研究しつつ、パウロの文章の難しさを感じます。しかし、今日の本文から学べる何かがあると思います。今日の説教で最も重要な内容は、私たちにあらゆる恵みを与える神の絶対的な力はイエス·キリストであり、私たち教会はその「神の絶対的な力」である「キリストの体」だということです。全世界の支配者であるキリストは、教会のみを通して、この世の中にご自分の声をお伝えになる方です。世の中のすべての人の分からない神の御心を、教会は聖霊によって知るようになり、世の中に伝えるのです。したがって、私たちは「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」というアイデンティティーを持っているのです。教会は単純に神を信じる人々が集まる同好会のような共同体ではありません。教会はまた建物を指す意味でもありません。私たちは、この世をご支配なさるキリストの福音を、この世に伝える主イエスの体なる共同体です。これからも、パウロの手紙を通じて教会のあり方と真の意味と大事さについて学んでいきたいと思います。私たち志免教会は「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」です。そのアイデンティティを憶えつつ生きる私たちであることを祈ります。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

抵抗の精神。

出エジプト記1章15-22節(旧94頁) エフェソの信徒への手紙 6章9節(新359頁) 前置き 前回の説教では、神の救いの歴史の余白について話しました。前回の説教の内容を手短に話してから、今日の説教に入りたいと思います。この世を生きながら、時々、私たちは神の助けが全く感じられない状況にあったりします。そんな時、私たちは神が本当に自分と共におられるのか疑うようになりがちです。しかし、そのように神の助けが感じられない時、私たちはそれを神の不在だと思ってはなりません。主は全能であり、全宇宙に満ちておられる方なので、どこにでも存在しておられる方です。したがって、不在は神の本質に合わない概念です。私たちは神の助けが感じられない時を、主がより深い恵みと救いを与えてくださるために、わざわざ置かれた余白の時間として受け止めなければなりません。主なる神は、ご自分の民一人一人の救いのために御子までも十字架で見捨てられた方です。そのような主が、ご自分の民を放っておかれるなんてあり得ないことです。主の意図的な余白はあるかもしれませんが、主は絶対にご自分の民を離れて不在になる方ではありません。出エジプト記のイスラエルの民が苦難のもとで泣き叫んでいた時、主はその余白の時間の中でイスラエルの救いを備えておられました。主は決して不在の方ではありません。主は救いのために余白を置かれるだけです。主の余白を不在としてではなく計画の一部として理解し、主の救いを待ち望む信仰者になりたいです。 1. ファラオの命令とヘブライ人の助産婦たち。 出エジプト記1章と2章にはヘブライ人(川を渡ってきた者たちという意味、すなわちユーフラテス川を渡ってきたアブラハムの子孫イスラエルを指す言葉。エジプト人は軽蔑の意味として呼んだという説もある。) に対するファラオの3段階の抑圧が出てきています。 一つ目は、前回の説教で学んだ重労働による抑圧です。しかし、聖書はこう述べています。「しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し」(出エジプト記1:12) 前回の本文には、神が登場しておられなかったですが、神は見えないところで、むしろイスラエルを栄えさせ、守ってくださったわけです。そして今日、その二つ目の抑圧が出てきています。「エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」(出エジプト記1:15-16) 大人のイスラエル人たちが重労働にも関わらず減らなかったため、ファラオは生まれたばかりの赤ちゃんを対象にして、悪いことをたくらんだわけです。ファラオはヘブライ人の助産師であるシフラとプアを呼び出し、男の子が生まれたら殺せと命じます。古代の帝国で、皇帝の命令は絶対的です。皇帝の命令に逆らうことは、すなわち死を覚悟するという意味です。しかし、シフラとプアは皇帝の命令があったにも関わらず、ヘブライ人の男の子たちを生かしました。 「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。」(出エジプト記1:17) 助産婦たちがファラオより全能な神をさらに畏れていたためです。神への助産婦たちの信仰は、自分の命への脅威さえも超えるものでした。むしろ彼らは命をかけて、このように報告します。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」(出エジプト記1:19) ある意味で、とんでもなく、むしろ反抗のように感じられるほどの報告でしたが、ファラオは彼らに罰を与えられなかったです。神が彼らを祝福し、守ってくださったからです。エフェソ書6章9節には、こんな言葉があります。「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」(エフェソ6:9) 世の中には、数多くの権力者がいますが、そのすべての権力は神のお許しなしには成り立つことの出来ないものです。世の権力者たちは主の民の肉体の命を脅かすのは出来るかもしれませんが、その魂まで滅ぼすのは出来ないからです。主なる神は肉体も魂も両方とも滅ぼすことがお出来になる真の主人です。目の前の人間の脅威よりも恐ろしいのが、全能の至尊者である神の権威なのです。世の中の脅威と神の権威の間で、より偉大なものを選ぶのが信仰なのです。 2. キリスト者の抵抗の精神は神への信仰に基づく。 ここで、私たちはキリスト者の抵抗の精神の根本について知ることができます。キリスト者の抵抗は、ある特定の政治思想によるものではありません。私たちの抵抗は神の御言葉にその根拠を置き、神への信仰から始まるものです。今日の本文には助産師たちの名前が記してありますが、シフラとプアです。シフラの語源は「清い」プアの語源は「輝かしい」です。 新約聖書マタイによる福音書の山上の垂訓には「清い」と「輝かしい」に係わる2つの言葉があります。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」(マタイ5:14)シフラとプアは単純に当時の助産師2人の名前だけを意味するわけではないと思います。彼らがどのような人々だったかを示すしるしだったはずです。清くて輝かしい信仰の助産師たちは、神を世の中の権力者よりも畏れていた人々でした。そして彼らは神への信仰によって当時エジプトの支配者であり、イスラエルを迫害者であったファラオの命令に抵抗しました。彼らは信仰によって命の危険に屈せず、神の御心をわきまえて従順に行ったわけです。そんな二人の信仰によってイスラエル民は数を増したのです。 キリスト者はひとえに三位一体なる神だけを真の王として崇める者です。そして、キリスト者の真の法は、三位一体なる神がお与えくださった聖書の御言葉のみです。世の中の法律も私たちに与えられた法ではありますが「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」(ローマ書13:1) 私たちはこのローマ書の御言葉に基づいて、一時的にこの世の法を了解しているだけです。永遠に私たちに与えられた法は主のみ言葉だけです。つまり、私たちは神の御言葉に逆らう間違ったこの世の法については、決して認めてはなりません。私たちは間違った法に抵抗しなければならない存在です。新日本キリスト教会の先輩たちは、日本帝国時代の旧日本キリスト教会に対して、このように評価しました。「旧日本キリスト教会は神の御言葉に背き、日本帝国の御用団体になってしまった。」神とその方の御言葉ではなく、権力と民族に屈服してしまったという意味です。また、植民地朝鮮の教会はどうだったでしょうか? 神社参拝に反対した人はきわめて少なく、多数の牧師は宮城腰背をただの国家儀礼だと言い訳をし、日本帝国に屈服してしまいました。その人たちが、まさに私と皆さんの先達なのです。彼らの姿には、今日の本文の助産師たちのような信仰は見えません。信仰による抵抗に失敗したのです。キリスト者は抵抗しなければなりません。聖書に照らして正しいことを支持し、間違ったことには拒否しなければなりません。命がけの覚悟で、主の御言葉に逆らう間違ったことに徹底して抵抗するべきです。 3. 世の権力への抵抗、自分の罪への抵抗。 私たちは 2 つの存在に抵抗しなければなりません。第一に、この世の悪い権力です。去年の韓国の大統領選挙以来、私に「ユン大統領が当選し、日韓が仲良くなって良かったね。」と言われる方が何人かいました。確かにユン氏が大統領になって日韓の関係が良くなって良かったと思います。しかし、韓国の国内でのユン氏の歩みはどうでしょうか? 労働者を弾圧し、検察が国政の要職に入って牛耳り、夫人の母の不正に知らないふりをし、庶民のための政治はしていません。弱い者よりは強い者のために政治をしているのです。「日本での生活が楽になった」という私自身の益一つあるだけで、韓国国内の弱い者の事情は悪くなったという事実に私はどうすればいいか戸惑っています。日本の政治はいかがでしょうか? 自分は日本人ではないので良い悪いとは言えませんが、皆さんのご判断はいかがでしょうか。もし、日本でも韓国でも悪い政治があるなら、教会は抵抗しなければなりません。その良し悪しの判断は、主の御言葉である聖書に照らしてするものです。日本キリスト教会は、日本の政治家が間違った政策を広げようとしたり、主張したりすれば、すぐに首相宛てに抗議声明を送ります。首相に「それは正しくありません。間違っています」と激しく抵抗するのです。私が日本キリスト教会を愛する理由の一つです。 第二に、私たちが抵抗しなければならない、もう一つの存在は私たち自身の罪の本性です。悪魔は絶えずキリスト者の信仰を妨げます。まるで、本文でイスラエルを弾圧するファラオのようです。しかし、誘惑と妨害を拒否するのも私たち自身であり、受け入れるのも私たち自身です。悪魔は補助するだけで、罪を選ぶのは自分自身なのです。私たちは、このような自分自身の罪の本性に向かって抵抗しなければなりません。人を憎むことも、御言葉に逆らうことも、罪を犯すことも、すべての決定は私たち自身次第です。そんな自分の罪の本性に抵抗しなければなりません。私は志免教会の皆さんを愛していますが、皆さんの罪の本性までも愛しているわけではありません。私自身の罪の本性をも愛していません。愛する妻ですが、彼女の罪の本性までも愛してはいません。私たちはこの自分自身の罪の本性に抵抗しなければなりません。使徒パウロはローマ書でこう言いました。「善にさとく、悪には疎くあることを望みます。」(ローマ16:19) 他人を愛し、善を行い、自分への節制には賢く、他人を憎み、罪を犯し、自分の欲望には愚かであるべきということです。それがキリスト者の抵抗の生き方なのです。ヘブライ人の助産師たちのように清くて輝かしい信仰によって、ファラオ(罪の本性)に抵抗するキリスト者として生きていきたいです。 締め括り 「ファラオは全国民に命じた。生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」(出エジプト記1:22) 助産師たちの抵抗が激しくなると、ファラオは直接エジプトの国民にヘブライ人の男の子たちを川にほうり込めと命じます。これがファラオの3番目の弾圧でした。助産師たちが抵抗したにもかかわらず、結局世の権力は3番目の弾圧を推し進めたわけです。しかし、こんな弾圧の中でも神はモーセを生かしてくださり、彼を通して結局出エジプトを成し遂げられました。事実、キリスト者の抵抗は、世の大きな権力に勝つことはできません。私たちはあまりにも弱い存在だからです。しかし、私たちが抵抗する時に真の権力者である神は私たちの抵抗を無視されず、また別の恵みを備えてくださいます。助産師たちの小さな抵抗はイスラエルの指導者モーセを生かし、神は彼を用いてイスラエルをエジプトから救ってくださいました。世の権力への抵抗、私たちの罪の本性への抵抗、私たちの抵抗は弱いですが、私たちは決して忘れてはなりません。真の権力者である、主イエス・キリストが私たちの抵抗を祝福し、助けておられるということを。今日の御言葉に登場した二人の助産師シフラとプアの信仰にならい、抵抗して生きる私たちになることを祈ります。父と子と聖霊の名で。 アーメン。

言葉の力

箴言18章20-21節(旧1014頁) マタイによる福音書 12章35-37節(新23頁) 前置き 約十何年前のことです。インターネットにエンジョイジャパン、エンジョイコリアというウエブサイトがありました。最初は日韓の若者たちの友好拡大のために作られたウエブサイトでした。しかし、意図は非常に良かったものの、インターネット特有の匿名性により、むしろ互いにとがめ合う投稿が満ち溢れ、見事な喧嘩の場になってしまいました。良い会話を分かちあい、有益な文章を掲載する両国の人たちも少なからずいましたが、あまりにも対立的で非難ばかりの人が多くなってしまい、結局、そのウエブサイトは閉鎖してしまいました。各々の考えから湧き出てくる行き過ぎた非難と敵意を濾過する装置がなかったため、最終的に閉鎖したわけです。 当時、そのウエブサイトで穏やかな会話を交えた両国の人もおり、それなりの良い思いと写真を分かち合う人もいましたので、閉鎖がとても残念だと思いました。すごく良い交流の場になり得るところだったに、今でも残念な記憶が残っています。 1.言葉とは? 今日、最初からこのような残念な例えを挙げた理由は、当時、そのウエブで、日本と韓国の人々が相手を攻めつけた道具が、他ならぬ、人の言葉だったからです。言葉には強い力があります。人どうしの好き嫌いが一番最初に言葉によって現れるからです。言葉とは、単純に口から出てくる言語だけを意味するわけではなりません。それ以上の何かが言葉には込められています。言語を形成するための要素、つまり意図、考え、思い、それら全てが結局言葉に由来するからです。もし、互いに良い心を持って、良い言葉を使おうとしたら、前置きのような残念な出来事はなかったはずです。言葉は人の思想をおく器です。ある人がどのような言葉を使うのかにつれて、その人の正体が明らかになるのです。人が言葉を用いることと同じように、言葉も人を用いるからです。 神が人間に「言葉」を与えられた理由は、言葉を用いて人と人が交わりあい、心と心を分かちあうからです。人に言葉がなければ、どういうふうに他人と心を分かち合い、交わることが出来るでしょうか?そういう意味で、言葉は確かに重要な道具です。しかし、また、この言葉を間違って用いれば、人と人の間に壁を立て、誤解をもたらす道具にもなり得ます。ドイツの実存主義の哲学者ハイデガーは、こう語ったと言われます。『言葉とは人間の存在が現れる場である。』たとえ言葉が目に見えないといっても、その言葉によって、言葉を吐き出した人の思想や哲学が示されるからです。愛の言葉を使うか、憎しみの言葉を使うかにつれて、話し手の立場が変わります。人がどのような言葉を使うのかによって、その人の存在は変わるという意味です。言葉によって人を生かす者となり、 言葉によって人を殺す者となるのです。言葉の使い方によって、人の実存が決まるということです。 ギリシャ語で言葉を意味する単語は「ロゴス」です。このロゴスは、主に「言葉」を意味しまが、他により多くて深い意味をも含まれています。「理屈、法則、秩序、真理」など、より哲学的で、宗教的な意味が隠れているのです。このロゴスをヘブライ語に訳すれば「ダバル」となります。この「ダバル」は、神が天地創造のときにおっしゃった、その言葉のことです。「ダバル」は爆発的なエネルギーを含んでいる言葉なのです。神が「ダバル」されると光が造ら、神が「ダバル」されると太陽と月と星々が造られ、神が「ダバル」されると、天地万物が造られました。また、神が「ダバル」される際に「理屈、法則、秩序、真理」が明らかになりました。神が「ダバル」された時に全ての良いものが生まれたわけです。神は、その「ダバル」を人にも与えてくださいました。人がその「ダバル」をどう使うのかにつれて、この世は変わるわけなのです。善く変わることも、悪く変わることも神から与えられた「ダバル」の使い次第です。 2.悪の言葉に満ちた世界。 日本と韓国は歴史的に深い関係を結んできました。学者たちは、朝鮮半島を経由して仏教文化や、服飾文化などの古代文化が流れ込んできたと言います。また、日本から朝鮮半島に西洋文物が本格的に入り込んだとも言います。特に近代の法律や行政体系のほとんどが日本から朝鮮半島に入ったという学説は紛れもなく事実です。(ただし、植民地経営のためという残念な経緯はありますが。)とにかく、互いに大きい影響を及ぼしたに違いありません。もし、日本と韓国が、真心を込めて協力することが出来れば、どこの国々よりも互いに助け合える良い相手になるでしょう。私は今まで、約20カ国以上を旅行したり、数ヶ月間暮らしたりした経験があります。その中に日本と韓国のように文化的に、言語的に似ている国は見たことがありません。まるで兄弟のような両国だと思います。 しかし、事実、日本と韓国はそう簡単な関係ではありません。ニュースや雑誌、新聞などを見たら、相手への厳しい評価が少なくありません。韓国社会で日本を非難する言葉を聞くのは難しいことではありません。そして日本でも、韓国を蔑視する人がおり、東京の有名な本屋には嫌韓論コーナーが別に備わっているほどです。一部の人々は、相手の国が滅びてしまうことを願うという言葉をためらいなく出しています。しかし、私たちは、より広く眺める必要があります。日本も韓国も、結局は神の被造物であるということです。先祖の先祖まで遡れば、最終的に一人の祖先、そして、彼の造り主である神にまでつながるでしょう。だから、日本と韓国は実に兄弟関係なのです。しかし、日韓の間にはいまだに微妙な緊張感がしゃがんでおり、少しでも隙間が見えたら相互批判が跳ねてくる状態です。何と悲劇的な現実なのでしょうか?互いに愛し合って生きるにも時間が足りないのに、なぜ、このように憎まなければならない状態になっているのでしょうか? 私は創世記3章の蛇を操った悪魔の名前が、ひょっとしたら、離間ではないかと思います。悪魔が神と人間、人と人との間に離間の種を蒔いたわけではないかということです。もちろん、神は悪魔に離間される方ではありません。しかし、問題は人間です。弱い人間という存在は、離間により、簡単に仲が悪くなってしまうでしょう。結局、最初の人は神を憎むようになり、人と人の間にも不和が入ってきたのでしょう。例えば、アダムは神と妻、両方を責めました。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』そして、アダムの長男カインは弟のアベルを無慈悲に殺した後、さらに神にも無礼に言いました。 『主はカインに言われた。お前の弟アベルは、どこにいるのか。カインは答えた。知りません。わたしは弟の番人でしょうか。』 初めの神の愛の言葉に満ちていた、この世に、人間の罪によって憎しみが入って来ました。そして、そのような憎しみに汚された言葉は、今まで残っており、この世界に、日本と韓国の間に、そして私たちの間にも影響を及ぼし、相手を憎み、対立するようにさせているのです。 3.言葉(言い方)を変えなければなりません。 神は愛の言葉によって世界を創造されました。神はご自分の御言葉(神の理屈、法則、秩序、真理を通達しておられる御子のこと)に肉を与え、この世に遣わされ、罪人の救い主にしてくださいました。神はご自分のみ言葉を教えてくださる御霊を送られ、今でも私たちと共に歩んでくださいます。神の御言葉は、愛の言葉です。その愛の言葉によって、私たちは今日も神の愛のもとに生きているのです。しかし、この世は神の言葉に逆らいます。絶えず、憎しみの言葉を生み出しているのです。時には建前ではほめているが、本音では憎しみに満ちている場合も多いです。箴言はこう語っています。『死も生も舌の力に支配される。舌を愛する者はその実りを食らう。 』(箴言18:21)イエスはこう言われました。 『あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。』(マタイ12:37)そして、ヤコブはこう語りました。 『舌は火です。舌は不義の世界です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。』(ヤコブの手紙3:6)聖書は、常に人の言葉を警告しています。主の民である私たちは、どのような言葉を話しつつ生きるべきでしょうか? この世界は今、憎しみと恨みに満ち溢れています。人の前ではニコニコしますが、後ろでは睨みつける偽善者も多い世界です。このような世の中で、私たち、主イエス・キリストを信じるキリスト者は、違う生き方をとるべきだと思います。言葉と心が同じでなければなりません。言葉で人を殺す世界の中で、私たちは言葉を通して人をを生かすべきではないでしょうか。言葉で暴力を振るう世界の中で、私たちは言葉を通して神の平和を宣べ伝えるべきではないでしょうか。イエスは明らかに言われました。『善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。』(マタイ12:35)私たちは、善い人でしょうか?悪い人でしょうか?私たちの言葉が自分のことを証明するのです。私たちの日常の言葉が神に恵まれた愛の言葉であることを祈ります。 言葉には力があります。韓国には「一言で千両の借金を返す。」ということわざがあります。良い言葉の力を強調する表現です。なにげなく、口から出てくる一言の言葉、時には誰かの人生を変える復活の言葉になり、また時には誰かの心を崩す死の言葉になり得ます。しかし、私たちは毎日言葉を使っているので 、その重さを見落としてしまうことが多いと思います。良い言葉が良い関係を生み出し、良い言葉が美しい世界をもたらします。神が私たちに常に良い言葉だけを追い求める力をくださるように祈ります。良い言葉が持っている強い力が、私たちの口を通して響かれることを祈ります。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。