神の変わらない約束。

創世記46章1-7節 (旧83頁) ローマの信徒への手紙8章33-35節 (新285頁) 前置き ヤコブの最愛の息子ヨセフは、兄たちに憎まれ、エジプトに売られてしまいました。しかし、神のお導きによって祝福され、あらゆる困難を乗り越えて、最終的にエジプトの総理になりました。また、彼は神からの知恵により、ひどい大飢饉を見抜き、あらかじめ徹底して備えました。彼が治めるエジプトは大飢饉でも、食糧を売ることが出来るほど、豊かになりました。そんなある日、皮肉なことに、そのひどい大飢饉によってヨセフは家族と再会することになります。食糧が底をついたヤコブの家族が穀物を買うためにエジプトに来たからです。神と長い間、歩んできたヨセフは、信仰によって兄たちへの恨みを振り払い、自分は兄たちに売られたわけではなく、イスラエルを救うために神に先立って遣わされたと告白しつつ彼らを赦しました。そして、父と家族全員をエジプトに呼び入れました。神はヤコブの家族の悲劇を用いられ、むしろヤコブの家族に生きる道を備えてくださったのです。近くから見ると悲劇だったことが、遠くから見ると恵みであったわけです。人知を超える神のお導きがヤコブの家族を大飢饉から救ったのです。 1.エジプトへ呼び入れ、しかし、先にベエル・シェバへ。 キリスト者は、主のお導きの恵みを信じて生きる存在です。今、自分の人生が、たとえ自分の予想とはまったく違うようになってしまっても、その中に主の御心が必ずあるということを信じ、主のお導きを待ち望んで生きるということです。そのお導きを待ち望むのが、まさに信仰なのです。時には、自分が乗り切れないほどの、悲しみと苦しみが襲ってくる場合もあります。そのような時、私たちは絶対に信仰を諦めてはなりません。神が必ず導いておられ、最も善い道を備えておられることを信じるべきです。私たちの人生のすべての経験が、結局、神のご計画によって最も善いものとして戻ってくると信じたいです。神のお導きの恵みへの信仰で生きていくことを願います。キリスト者の喜怒哀楽が一つになって、結局は神の祝福として戻ってくるということ、それがヨセフの物語から学ぶ大事な教訓ではないでしょうか。さて、すでに死んだはずの最愛の息子ヨセフが生きているという知らせを聞いたヤコブは驚きました。おそらく彼は夢を見ている気持ちだったでしょう。一日も早くエジプトに行って出世した息子との再会を願望していたはずです。 いや、ヤコブが出世できず、依然として奴隷だったとしても、ヤコブは一息にエジプトに駆けつけて、全財産を払ってでも息子を救おうとしたでしょう。それが父の愛だからです。なのに、その息子が大帝国の総理だなんて、信じられなかったでしょう。「イスラエルは、一家を挙げて旅立った。そして、ベエル・シェバに着くと、父イサクの神にいけにえをささげた。」(創世記46:1) しかし、ヤコブはすぐにエジプトへ足を運びませんでした。彼はまずベエル・シェバに着き、アブラハムとイサクの神にいけにえを捧げました。ベエル・シェバはアブラハムとイサクの信仰の場所でした。かつてアブラハムとイサクがそこで神の名を呼び、いけにえを捧げると、神は彼らに現れて言われました。ヤコブもエジプトに向かう前にいけにえを捧げ、神はヤコブにも現れて主の御言葉をくださいました。新約聖書マタイによる福音書6章33節でイエスはこう言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」 神の国を求めるというのは、神の御心によって治められる神の国の国民として、神に従順に聞き従いなさいという意味であり、義を求めるというのは、キリストによって神の義をいただいた者として、民らしく生きなさいという意味です。そうすれば、神がご自分の民のすべてのことを導かれるということです。昔、かかとをつかむ者、すなわち、だます者というあだ名で呼ばれたヤコブでしたが、その人生の中に共におられた神は、ヤコブを信仰へと導き、生まれ変わらせてくださいました。若き日のヤコブだったら、おそらく権力者になった息子を通して、利益を得ようと神の御心とは関係なく、自分勝手に動いたでしょうが、一生の間、数多くの苦しみと思い煩いを信仰によって乗り越えてきたヤコブは、もはや、神の民としてのアイデンティティを身につけ、自分の思いではなく、神の御心を問うようになっていたのです。 「その夜、幻の中で神がイスラエルに、ヤコブ、ヤコブと呼びかけた。」(創世記46:2) キリスト者である私たちも、自分の思いのまま、動く前に神の御心とは何か、主に問うて生きべきなのです。自分の思いの前に神の御心を先に聞こうとすること、キリスト者の信仰生活の基本なのです。 2。 神がエジプト行きをお許しになった理由。 「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。」(創世記46:3) ここでしばらくエジプトについて考えてみたいと思います。創世記の説教の序盤、アブラハムについて取り上げた時、私たちはアブラハムが神の御心を問わずに、勝手にエジプトへ下った出来事について話しました。 当時、神はアブラハムのエジプト行きを喜ばれませんでした。また、出エジプト記でも、エジプトをイスラエルを迫害する絶対的な悪のように描いています。旧約聖書では、時々エジプトを「罪」の象徴として描く場合があります。なのに、なぜ神はヤコブの家族のエジプト行きを許されたでしょうか? ある神学者は、ヤコブの息子たちのカナンでの偶像信仰を根絶するために、神がヤコブ家をエジプトに行かしたとも言いました。しかし、エジプトも代表的な罪の象徴なので、説得力が弱いと思います。それで、私はこう解釈したいと思います。エジプトがたとえ「罪」を象徴する場所だったとしても、神にはその罪を圧倒する力があったからではないでしょうか。 たとえば、ある意味で、私たちは「世の中」という霊的なエジプトに住んでいる存在であるかもしれません。この世は罪に支配される汚された場所だからです。しかし、神はそのような世の中でも、イエス•キリストを通してご自分の民を選び、呼び出して、主の共同体である教会にしてくださいました。 主イエスの血によって清められ、神の民というアイデンティティを持って生きるようにしてくださったのです。世の中がいくら罪によって汚されたといっても、神は全くお気になさらず、この世にこられ、民を救ってくださったのです。神には罪に勝利する力があり、罪によって汚されない至高の神聖さがあるからです。神であるイエス•キリストが人になり、罪人の代わりに死に、復活されたのも、まさにこの罪に勝利する主の力のためではないでしょうか。神は罪の象徴として描かれるエジプトでも、ご自分の民を育てられ、御心によって呼び出すことが出来るお方です。いかなる罪にも妨げられず、私たちを清め守ってくださる神、私たちは、そのような偉大な神を信じているのです。 3。 変わらない神の約束。 「わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」(創世記46:4) このように神は罪を象徴するエジプトでも、常にイスラエルと共におられ、時がくれば必ず連れ戻すと予言されました。実際、神はアブラハムにも、似たようなことを言われました。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。」(創世記15:13-14)、神がヤコブのエジプト行きをご自身で命じた理由は、アブラハムとの約束を成し遂げられるためでした。彼らがエジプトに行っても、神は必ず彼らを無事に戻すと約束されたからです。神にはそのような力があるからです。神の約束は絶対に変わりません。主の約束は必ず成就します。その約束は神の存在のように永遠に変わらないのです。 締め括り このアブラハムとヤコブへの神の約束は出エジプト記で一部成就します。そして、主の御言葉通りに、アブラハムとイサクとヤコブの子孫は空の星のように、海の砂のように繁盛します。また、新約時代になってはイエス•キリストを通じてもう一度その約束が完全に成就します。罪に支配される霊的なエジプトである、この世の中で、神はまるで出エジプト記のモーセのようなイエス•キリストを通して罪の支配下で、奴隷のようになった私たちを救ってくださいました。そして、乳と蜜の流れるカナンのような神の国の国民として私たちを召されたのです。私たちの教会は、その神の国の影のようなものです。今後とも、その神の約束は変わりません。これに対して使徒パウロはローマ書で、こう言いました。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ローマ書8:35) 神がアブラハムとイサクとヤコブになさった、いつまでも共におられるという約束は、イエス•キリストによって私たちにも適用されます。今日、ヤコブは罪を象徴するエジプトに入ります。私たちも罪が支配するこの世に生きています。しかし、主はその約束に基づいてヤコブとその子孫を守り、また、その霊的な子孫である私たちも守ってくださるでしょう。それを信じる私たち志免教会であることを祈り願います。