神の教会

出エジプト記19章3-6節 (旧124頁) ペトロの手紙一2章9節 (新429頁) 前置き 今日は、2023年度の志免教会の総会の日です。私たちは今日の総会を通して、昨年の歩みを顧み、また今年の歩みを準備して、主の共同体である教会にうまく仕えていくために一緒に話し合います。そして、今年の志免教会の主題聖句は「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ書2:22)であります。主が打ち立ててくださった神の住まいである志免教会が、どういう存在なのかを学んでいく一年でありますように祈ります。そういう意味として、今日は「教会」という共同体について考えてみたいと思います。今年のテーマが「教会について学ぶ。」ですので、今年は時々、特に第5週目の日曜日には教会についての説教をしていきたいと思います。私たちは、なぜここに集って志免教会を成し、教会を私たちの人生の最も大事なものとして生きるのでしょうか? 今日の説教を通して教会の意味について聖霊なる神が教えてくださることを祈ります。 1.教会の原型 – 神に選ばれた祭司の王国。 教会はいつから存在してきたのでしょうか。まず、日本で呼ばれる教会という表現はあくまでも「漢字語」的な表現です。おそらく中国にキリスト教が伝えられた時に名付けられ、日本にも伝わったわけではないでしょうか? 私たちは「教会」という漢字語のゆえ、つい教会を「聖書を教えるところ、説教を聞くところ」という、何かを教え、学ぶところというイメージで認識しているかもしれません。しかし、「教会」と訳された本来の単語であるギリシャ語「エクレシア」は教えるところという意味ではなく「外に呼び出された者たち」という意味です。もともとエクレシアは、ヘレニズム文化圏での市民の集まりである世俗的な民会を意味する表現だったと言われますが、キリスト教が打ち立てられた後、キリスト者だちはエクレシアを教会を意味する表現として使い始めました。ところで、面白いことに、 旧約にも「エクレシア」とそっくりの表現があります。それは「カハル」です。このカハルも「呼ばれて集まった者たち」という表現ですが、旧約のイスラエル人の集まりを指す単語(集会)で、旧約聖書ギリシャ語訳ではカハルをエクレシアと訳しています。つまり、教会を意味する「エクレシア」という表現が使われたのはイエス以来ですが、旧約のヘブライ語にも教会(エクレシア)に相当する表現があったということです。とういうことで、教会の原型はイエスのご到来前にも、すでにあり、イスラエルの神の名のもとで、その民が集まったところは神の共同体(教会)として認識されていたことが推測できると思います。 ここで重要なのが「呼び出された者たち」という表現です。「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。」(出エジプト記19:5) 19章はエジプトから脱出し、神のご臨在の場所であるシナイ山に着いたイスラエルの民に、神が主の御言葉を与えてくださる場面です。5節で「私の宝となる」という表現は直訳です。意訳で表現すると「あなたたちはすべての民の中で、わたしだけの所有となる。」と言えます。つまり、主の宝物とは、神に呼び出され、選ばれた、神だけのものであるということです。神はなぜイスラエルをエジプトから脱出させ、主の所有として呼び出してくださったのでしょうか? その答えは次の節に出てきます。「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」つまり、主は罪によって汚された、この世を意味するエジプトから主の民であるイスラエルを呼び出して、神を崇める祭司のような国(神に礼拝する存在)、この世から聖別された存在にするために、主の民を召されたのです。したがって、私たちは教会の原型を旧約聖書の出エジプト記から見つけることが出来ると思います。私たちはそれぞれ、違う国と民族に生まれ、互いに異なる文化と仕来りの中で生きてきましたが、神の民という同じアイデンティティをいただき、神の民となった共同体、すなわち教会として集いました。私たちが集まるようになった理由は、神に礼拝を捧げる祭司のような共同体、世の中から聖別された神の民の共同体として神に呼び出されたからです。 2.教会の存在理由 – 主の福音を宣べ伝える存在。 そのため、使徒言行録7章37、38節で、執事ステファノはこう述べているのではないかと思います。「このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。」ここで荒れ野の集会という表現の中で「集会」が、まさにギリシャ語で教会を意味する「エクレシア」と表現されます。もちろん、エクレアには民会という非宗教的なニュアンスもありますが、使徒言行録の著者の神学に基づくと、旧約の教会という認識が込められて書いてあるわけではないでしょうか。さて、主の教会は、ただ神への礼拝だけのために呼ばれた共同体なのでしょうか? 神は宗教儀式としての礼拝だけのために教会を打ち立ててくださったでしょうか。つまり、私たちは教会という共同体の存在理由について考える必要があるということです。使徒ペトロは上記の出エジプト記19章5節、6節の言葉を引用して、自分の手紙にこのように書きました。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」(第一ペトロ2:9) ペトロは、前の出エジプト記19章5-6節の言葉のように、新約時代の教会が主に選ばれた王のような祭司であり、聖なる国民であり、主のものとなった民であると言いながら、その存在理由も一緒に述べました。それは「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるため」だったのです。 「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」という、この言葉はどういう意味なのでしょうか?複雑に解説書を参考にしたり、原文を分析したりしなくても、読むだけで「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れ」という表現が、罪によって堕落した罪人を救うという意味であることはお分かりだと思います。また、ヨハネによる福音書に、こんな言葉がありますが、「初めに言があった。…言は神であった。…言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ福音書1:1-4一部)これを参考にして光とは何かについて推し量ることが出来ると思います。つまり、真の光であるイエス·キリストへの「導き入れ」すなわち、その方に属するように神が導いてくださったという意味ではないでしょうか? ペトロはそれが、まさに神の力ある御業であり、教会にはそれを宣べ伝える務めがあるということを語ったわけです。光であるイエスによって罪人を救い、主イエスのものとしてくださったのが、まさに神の力ある御業であるということであり、それを宣べ伝えるのが教会の務めであるということでしょう。とういうことで、この言葉は福音伝道を示す言葉だと思います。それでは説教の始めに語った話と、この話を合わせるとどうなるでしょうか。「第一、教会は神に礼拝するために呼び出された共同体である。 第二、神に呼び出された教会はイエス·キリストの福音を宣べ伝える共同体である。」のようにまとめることができると思います。 締め括り 神学校の科目の中に、組織神学という学問があります。キリスト教の信仰内容を現代の文脈に即して捉え直し、理解を深めて行く学問です。そして、その中には教会論という分野もあります。それだけにキリスト教は教会を大事なものとして扱っています。教会論の全体を話すと、おそらく何日もかかるかもしれませんので、今日はすべての話をすることができません。ただ、今日は教会という共同体が 如何なる経緯で存在するようになったのか、また何のために存在するのかについてお話しました。教会は神に礼拝する共同体です。つまり、神への愛を主日の礼拝において表し、その礼拝を始めにして、一週間の日常そのものを礼拝にしていくことで神への愛を再び表します。また、教会は教会の外の存在にキリストの愛と救いの福音を宣べ伝える存在です。「イエスを信じなさい。」という言葉だけを伝えるわけではなく、イエスに属した主のものとして、主の愛を私たちの生活の中で実践し、隣人にキリストの福音を伝えることです。ですから、教会は、この会堂を指すわけではなく、ここに集い、神と隣人を愛する私たち自身のことなのです。今日、私たちは人の価値基準と考えではなく、神への礼拝によって愛を示し、隣人への愛によって、主の福音を宣べ伝えるという、教会のアイデンティティに基づいて、総会に臨みたいと思います。今日の説教は短いですが、教会の存在理由と務めについて、顧みる機会となれば幸いです。主に礼拝する共同体、福音と愛をもって隣人に仕える共同体、志免教会が追い求めるべきあり方ではないでしょうか。そのような志免教会として歩んでいくことを心より祈り願います。 父と子と聖霊の名によって。アーメン。