希望のない者たちのための希望。

ミカ書5章1節 (旧1454頁) マタイによる福音書2章1~12節 (新2頁) 1.アドベントとロウソクの意味。 私たちは今アドベントの期間を過ごしています。アドベントとはラテン語のアドバントゥスを英文に表現したもので「到来、出現」を意味します。つまり、イエスのご到来を記念し、待ち望むという意味です。このアドベントは漢字語では「待降節」または「待臨節」とも呼ばれますが、主が天から地上にご到来なさったという意味です。もともと初期カトリック教会でクリスマスではなく主顕祭(1月6日) つまり、今日の新約本文に出てくる「東方からの占星術の学者たち」が赤ちゃんイエスを訪問した時を、イエスの神聖が現れたと見なし、その日を主顕祭と呼び、それを準備するために4世紀から始まったと知られています。また6世紀からはイエスの初臨を記念するだけでなく、再臨をも記念する意味を持つ期間になったとも言われます。しかし改革教会はイエスのご誕生にもっと意味を与え、クリスマス前の4週間をアドベント期間として記念しています。アドベントの期間に教会は4本のロウソクに火を灯していますが、正確にいつから始まったのかはわかりません。しかし、この4本のロウソクの点灯にも意味があります。 第一週間目のロウソクは、待望と希望のロウソクです。キリストのご降臨を待ち望み、御国への希望を表すロウソクです。キリスト者が、疲れた者たち、貧しい者たち、闇の中にいる者たちを助けることを祈るロウソクなのです。第二週間目のロウソクは悔い改めとざんげのロウソクです。互いに傷つけあい、憎みあい、赦さず、主の民らしく生きてこなかった自分の罪を悔い改め、主の民らしく生きることを祈るロウソクなのです。第三週間目のロウソクは、愛と分かち合いのロウソクです。傷ついた隣人、貧しい隣人、独りぼっちとなった隣人を憶え、愛の実践を祈るロウソクなのです。貧しい隣人のために、志免教会は何ができますでしょうか? 第四週間目のロウソクは出会いと和解のロウソクです。イエスは神と罪人の和解のために、この世の私たちに来られ、共にいてくださいました。 どうすれば、私たちは隣人、家族、友人にイエスを紹介し、神と和解させることができますでしょうか? 私たちの伝道について考えさせるロウソクではないかと思います。 2.イエスを訪れた東方の学者たち。 イエスがお生まれになった夜、輝かしい星が空に現れました。そして、東方の国(おそらくペルシャ)で占星術を研究していた学者たちが、その星を見つけ、偉大な人物が生まれる良い兆しだと思い、星についてイスラエルの地まで来ました。彼らはエルサレムにたどり着き、ヘロデの王宮に向かいました。今日生まれた偉大な人物はきっとユダヤの王子だろうと思ったからです。しかし、彼らが王宮に到着したとき、そこには赤ちゃんがおらず、誰も偉大な人物が生まれたことを知っていなかったのです。それでは、その偉大な人物は一体どこに生まれたのでしょうか。ところで、当時のイスラエルには「神のメシア」が来ると永遠の王になり、この世を正しく統治するとのメシア信仰がありました。つまり、東方の学者たちの話を聞いたヘロデとユダヤの宗教指導者たちはメシアの出現だと気づき、たいへん動揺したでしょう。もし本物のメシアの生まれだったら、まもなく自分たちの政治権力や宗教権力は脅かされるに間違いなかったからです。 そのため、ヘロデは自分の権力を守るために東方の学者たちを利用してユダヤの王と呼ばれる赤ちゃんの位置を突き止めようとしました。ヘロデは、メシアがどこに生まれるのかを宗教指導者たちに調べさせました。そして、彼らは旧約のミカ書5章1節に記してある言葉から、その位置を推定しました。そこは小さい村ベツレヘムでした。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」(マタイ2:5-6) 東方の学者たちはその言葉を聞いてヘロデを離れ、メシアとして生まれた赤ちゃんのところを探し出すために、星についてベツレヘムに足を運びました。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(マタイ2:9-10) 結局、彼らはベツレヘムの小さい馬小屋で赤ちゃんとその両親に会うことになりました。 ベツレヘムはエルサレムから南の方に10キロも離れていない近場の町です。(志免町から天神ください) イエスの時代にも賑やかなエルサレムとは違って、貧しくて小さい村だったと言われます。現代でも、ベツレヘムはエルサレムと比べて素朴で、特にイスラエル人に迫害され、差別されるパレスチナ人の貧しい町です。そこにはイエス誕生教会というカトリック教会があります。その教会がイエスがお生まれになったところだと推定しています。驚くべきことに東方の学者たちがそこに到着した時、小さい赤ちゃんが飼い葉桶の中にいました。(飼い葉桶の話はルカによる福音書に出てくる。) そして、その赤ちゃんはイエスという名前の男の子でした。「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイ2:11) ところが、偉大な人物メシアとして生まれた赤ちゃんは、予想とは裏腹に王子や名望のある貴族ではなく、貧しい没落王族の息子として生まれていました。 3。主がいちばん小さい村に来られた。 学者たちは、赤ちゃんに黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。黄金は王権を、乳香は神聖を、没薬は苦難を意味するという解釈もありますが、しかし、それより重要なことは占星術(当時は迷信というより科学に近い)を研究する東方の学者たちが、この貧しい家柄の赤ちゃんを真の偉大な人物、メシア、王として認め、上記の贈り物を献げたということです。つまり、神のメシアが王子ではなく貧しい家柄の息子として来られたということを確定する意味なのです。人間は罪によって神から離れた存在です。人間は一生、罪に束縛されて生きる、悲惨な存在です。人間は神に見捨てられても全くおかしいことのない存在なのです。しかし、神のメシア、神の独り子が肉体になり、しかも貧しくて弱い家柄の息子として生まれ、王宮ではなく飼い葉桶に生まれたということは、神が自ら、罪によって悲惨になった人間を守るために罪人のところに来られたという意味です。イエスのご誕生はまさにこの罪人たちへの神の愛を確証する恵みと希望の出来事なのです。 私は先ほど4つのアドベントのロウソクのうち、第一週間目のロウソクの意味が待望と希望であると申し上げました。数多くの旧約聖書の預言者たちが神のメシアを待ち望んでいました。イスラエルと人類が自分の罪のため、到底救われることの出来ない状態だったにも関わらず、神が必ず救い主メシアを送り、イスラエルと人類に希望の光を与えくださることを信じ、待ち望んだわけです。だから、イエスがこの世に来られたということは、まさにこの旧約の待ち望みと希望が成し遂げられたという意味なのです。イエスは最も小さい村、最も貧しい村、最も悲惨な村の中でも、最もむさ苦しく寒いところにお生まれになりました。今日も誰かを憎み、自分のことだけを考え、自分の罪から自由でない私たち罪人を救い、新たにしてくださるために、主イエスは天の最も明るく輝かしい王座を捨てて、罪人である、この私のために、地上に来られたのです。 締め括り 希望のない者たちのための希望 イエスと共に生きる私たちには絶対的な希望があります。自分自身を見る時は全く希望がないように見えるかもしれませんが、私たちの救いために来られた主イエスを通じて自分を見ると輝かしい希望が見えてくるのです。イエスがいらっしゃるからこそ、こんなに小さくてみすぼらしい私にも希望があるのです。だから、イエスのご誕生は他人事ではありません。希望のない私自身のための神の恵みなのです。クリスマスまであと2週間です。2週間、イエスが来られたということは私にとってどんな意味を持つのか、今日の言葉を通して考えてみることを願います。私みたいな罪人のために低くて寒くて汚いところに来られたイエス、そのイエスの御心に従って自ら謙虚にし、私たちもイエスのように他人を愛し、赦し、仕える者となることを願います。その恵みが皆さんの上に豊かに注がれますことを祈ります。 父と子と聖霊によって。アーメン。