異邦人を照らす光、イスラエルの誉れ。

イザヤ書42章1-7節 (旧1128頁) ルカによる福音書2章22~32節 (新103頁) クリスマスツリーの由来 昔、ドイツのある小さい村にマルティン・ルターという神父さんが住んでいました。ある冬の夜、彼はクリスマス・イブのミサを終え、家路につきました。昼間に雪が降り積り、夜には明るいお月様が昇って、夢みたいな真っ白な夜でした。ところで、帰り道の途中に、小さいモミの森がありました。マルティン・ルターはいつもの通り、通り過ぎようと森の中に入りました。森を半分くらい歩いた彼は素晴らしい光景を見つけて驚きました。普段、真っ暗だと思っていた森の真ん中に、まるでスポットライトのような明るい光が一本の小さいモミの木を照らしていたからです。どこからの光か、マルティン・ルターが上を向いて目を上げたら、そこには美しい夜空のお月様と星々がありました。雪が積もったモミの木の枝の間に月明かりと星明かりが降り注いでいたのです。誰もいない、真っ暗な森の中に、創り主が施された光の宴が開かれていたわけです。マルティン・ルターは、それを見て大事なことを悟りました。 「人も、あの小さいモミの木と同じではないか。罪人は暗闇の中にいるみすぼらしい存在であるけど、救い主の栄光が照らされれば、暗闇から自由になり、輝かしい人生を過ごすことになるのではないか。」マルティン・ルターは、それを人々に教えようとして、小さい一本のモミの木を家に持ってきました。そして、そのモミの木に雪のような綿、星々のような飾り、キラキラする玉をつけました。みすぼらしくて小さいモミの木に照らされた光を表現するためにモミの木に飾り付けをしたわけです。一説によると、それがクリスマスツリーの由来とだったと言われます。この話が本当か創作かは分かりませんが、とても大事な教訓が含まれていると思います。それは、キリストの栄光によって、暗闇の中の罪人が輝かしい存在に生まれ変わるということです。つまり、イエスは暗闇にいる罪人に、ご自分の栄光を照らしてくださるためにお生まれになったということです。 1.ご自分の民のために来られたイエス。 聖書によると、人間は自分の罪のために、いつか死に、必ず神の裁きを受ける悲惨な存在だそうです。豊かであろうが、貧乏であろうが、有名であろうが、無名であろうが、人が死んで神に裁かれるのは決まっているとのことです。そういうわけで、聖書は、生まれつき罪を持った、すべての人間は滅びる存在、暗闇の中にいる存在だと述べているのです。しかし、聖書はまた、その暗闇の中に光を照らしてくれる存在が、罪人のところに与えられたとも証言しています。その存在が、まさに罪のない神の独り子イエス·キリストなのです。この世の創り主である神は、罪によって惨めになった人間に、贖いの恵みを与えてくださるためにイエス·キリストを送ってくださいました。その方のご恩寵によって罪人は、再び神の御前に立ち、赦されるのです。したがって、イエス·キリストは暗闇の中に置かれている人類に与えられた一筋の光のような存在です。クリスマスは、そのイエス·キリストが人間としてお生まれになったたことを記念する、キリスト教において、最も重要な日なのです。今日は、このイエス·キリストについて話してみましょう。今日の新約本文は、イエス·キリストのお生まれから何十日後、主の両親が赤ちゃんイエスを連れて律法に記された清めの儀式のためにエルサレムの神殿に上った出来事から始まります。「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。」(ルカ2:22-23) 律法によると男の子の産後から40日が経つと、産婦はエルサレムの神殿で清めの儀式を行わなければならないと言われます。子供が生まれた後に清めの儀式を行うということは、産婦も子供も罪の中にいるということを示唆するものです。しかし、神の子イエスは人間の父親ではなく、聖霊によってお生まれになった罪のない方です。それにもかかわらず、赤ちゃんイエスはご自分の民たちと同じように神殿で清めの儀式をお受けになったのです。罪のない神としての本質を持っているにも関わらず、民たちの罪人の本質を、罪のない方が体験されたわけです。つまり、生まれた瞬間からイエスは罪人の側におられ、彼らと共に歩んでくださったということです。「また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。」(ルカ2:24)また、産後の女は普通は一歳の雄羊一匹で贖罪のいけにえを献げますが、イエスの両親はあまりにも貧しくて、鳩で贖罪のいけにえを献げなければなりませんでした。いと高き神の子イエスは、人間としての人生が始まった時から貧しさと惨めさに自分自身を投げつけられたということです。これはイエスがご自分のためではなく、この世の哀れな民たちを救われるために来られたことを顕かに示す証拠でした。イエスはご自分の富貴栄華のために来られた方ではありません。その方は、ひとえに罪人の救いと贖いのために最も低い所に来られた救い主であったのです。 2.異邦人を照らす光、イスラエルの誉れ。 その後、イエスの両親は神殿でシメオンという老人と出会うことになりました。「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」(ルカ2:25) シメオンは預言者ではありませんでしたが、旧約の真の預言者たちと同じ心を持った「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰めを待ち望む」者でした。神は彼に聖霊を遣わされ、神の心を知る信仰の人生を生きるようにされました。そのため、ヘロデ王や宗教指導者たちにはなかった、メシアを見分ける目をくださったのです。シメオンは赤ちゃんイエスに会うやいなや、赤ちゃんを腕に抱いて神に感謝の讃美を捧げました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2:29-32)神はシメオンにメシアが来るまで死なないとの特別な使命をくださいました。そして、彼は神の御言葉に従って、年を取って老いるまでメシアを待ち望む自分の使命に忠実に生きてきたのです。そして時が満ち、神殿で両親と一緒に清めの儀式のために来られたメシア・イエスと出会うことになったのです。そして彼はメシア・イエスを一目で見分け、讃美したのです。 旧約の正しい預言者たちは、このシメオンと同じ心で生きました。エリヤが、イザヤが、エレミヤが、そして数多くの預言者たちが神の救いと慰めを待ち望みつつ生きていきたのです。彼らは切実に神による真の救いと慰めであるメシアを待ち望んでいましたが、結局その成就を見ることができず、死んでいったのです。しかし、神は旧約の偉大な預言者よりはるかに至らない人、一介の老人シメオンに異邦人の光であり、イスラエルの誉れであるメシアの到来を見せてくださったのです。新約時代は、そのような恵みの時代です。旧約の偉大な預言者たちさえも、拝見することが出来なかったメシアを、老いて体力も弱るシメオンが会うようになったのです。ということは、私たちのような金持ちでない人も、権力者でない人も、有名でない人も、ごく平凡な人も、このメシアに会えるようになったということです。私たちにシメオンのような信仰さえあれば、神の救いと慰めを信じる心さえあれば、私たちは、いつでもどこでも真の救い主であるメシア·イエスと会えるようになったということです。今日、シメオンの言葉のように「異邦人を照らす啓示の光、主の民イスラエルの誉れ」であるイエスに、何の代価もなく信仰だけによって会えるようになったということです。クリスマスが祝福された日である理由は、神がこの栄光の主イエスを私たちに何の代価もなく与えてくださったからです。私たちにとって日常のようなイエス·キリストへの信仰が、旧約の預言者たちには決して許されなかった非常に特別な恩寵であることを私たちは忘れてはならないと思います。 締め括り 「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」(イサヤ42:1) かつて、主なる神は、旧約の預言者たちを通して必ず、神のメシアが来ると預言されました。そして、メシアがご到来なされば、主は真の恵みを、この世に与えてくださると約束してくださいました。私たちが生きる新約の時代は、まさにこのイエスがすでに私たちのところに来ておられる時代です。私たちは、このメシアが私たちの主として私たちの間にすでに来ておられることを喜びと感謝を持って生きるべきです。今年も私たちは、この主の恵みにあって生きてきました。教会は依然として小さく、日本は全然変わらず、世界はますます悪くなっています。しかし、私たちは目に見える現実に心を奪われて絶望してはなりません。2000年前、神のメシアが罪に満ちたこの世に来て以来、神は、ご自分のメシア、イエス・キリストによって、いつもご自分の民と一緒に歩んでこられました。そして、今も私たちを正しい道に導いてくださるのです。それを信じてクリスマスを過ごし、また、来年を迎えたいと思います。異邦人の光、イスラエルの誉れ、神である主イエスが私たちと常に一緒におられることを感謝しつつ今年と来年も生きていきたいと思います。 主の豊かな恵みがここに集っている兄弟姉妹たちの上に注がれますように。 父と子と聖霊で。アーメン。