最も重要な掟。

申命記6章4~5節 (旧291頁) マルコによる福音書12章28~34節 (新87頁) 1.掟が与えられた理由。 志免教会に赴任してから、掟あるいは戒めについて、何度も説教をした記憶があります。以前にはなかった十戒の朗読も月に一度、礼拝の儀式に組み入れました。なぜかというと十戒をはじめとする旧約の掟は、神の御言葉の要約であり、改革教会の礼拝伝統においても大事な意味を持っているからです。神は、なぜ私たちに十戒と様々な掟をくださったのでしょうか。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(申命記5:10) それは、神の民がその掟から学び、正しく生きるようにされ、神の祝福と恵みをいただくようにしてくださるためでした。しかし、ここで、私たちは誤解してはなりません。「掟を行い守る。」という「自分の行為」の代価として、神の恵みをいただくわけではないということです。イエスの時代のユダヤ人たちが「行いによって救われる。」と思っていたのも、掟の存在理由を誤解したためでした。神は、すでにご自分の民に恵みと祝福を与えてくださった方です。神は行いを通して掟を守り「自分の力で何かを成し遂げろ」という意味として、掟を与えられたわけではありません。むしろ、掟を通じて主の御言葉を憶え、その御言葉の意図に従って生きることを望まれ、掟をくださったわけです。すなわち、掟を行うより、掟の真の意味を知ることが、さらに大事であり、知るようになった掟を守りながら、主の民に相応しく生きる時に、神の恵みと祝福はより一層大きくなって私たちに与えられるのです。 ユダヤ人には、モーセ五書の言葉を縮約して掟の形にした「ミツボト」という掟集がありました。縮約と表現しましたが「しなければならない掟248個、してはならない掟365個、合計613個」のかなり膨大な量の掟を含んでいたのです。おそらく現代のエルサレムに住んでいる純粋なユダヤ人たちは、今でもこの「ミツボト」を守っているかもしれません。「ミツボト」とは、ヘブライ語で「戒め、掟」を意味する表現です。「ミツボト」の中の「しなければならない248個」は「人が生まれた時の骨節の数」に由来したと言われ「してはならない365個」は1年の日数に由来したと言われます。つまり、主の掟をよく守れば、骨と節が楽に一生を生きることができ、主の掟を破って生きれば、1年365日が辛くなるだろうとの意味だったそうです。おそらく、これらの物語は、昔のユダヤ人のラビによって作られたものだと思われます。しかしながら、それなりに深い意味があると思います。主は旧約聖書を通して、神の御言葉に聞き従い、主のみ旨にふさわしく生きる人には、幾千代まで慈しみをお与えになると言われました。最初の「ミツボト」は、このような神の御言葉を大切にすた、昔の人々がモーセ五書の言葉を厳選して整えた律法であるため、彼らがどれほど神の掟を重要視したのかが分かります。しかし、残念なことに、その子孫たちは掟を完全に誤解し、自分たちの行いによって救いを得るための人間的な道具、あるいは、掟をよく守れない人々を非難するための暴力の道具として使ってしまいました。 2.最も重要な掟 そして、その子孫たちが、まさにイエスと対立したユダヤの宗教指導者たちだったのです。彼らは普通の民より、掟に詳しい人々でした。しかし、彼らが理解していた掟は、神の御言葉に聞き従い、それを実践するためのものではなかったのです。彼らは数多くの掟をほとんど覚えているほどでした。また、覚えている掟を厳守しようとする熱心も持っていました。しかし、彼らは掟を覚えて機械的に行うだけで、その真の精神と意味を込めた実践はしていませんでした。主はご自分の民が神を愛し、その方のみ旨に適う人生(そのうち、隣人愛の実践)を生きるようにしてくださるために、掟を与えられたのです。なのに、彼らは掟を利用して自分たちの宗教的な欲望だけを満たし、自分たちの既得権だけを築き、掟をよく守れない人々を批判するために誤用してしまいました。神を愛するからこそ、掟を厳しく守るのだと言っていましたが、彼らは掟を利用して自分自身だけを愛していたのです。彼らは神も隣人も愛していない存在でした。ですから、神であるイエスが、彼らと会われた時、厳しく叱られたわけです。私たちは、教会に通い、説教を聞き、毎日祈り、聖書を読みます。しかし、それらによって自分自身の宗教的な欲望を満たそうとするだけなら、私たちの信仰は有名無実なものになってしまうのです。神の御言葉には、神の意図が含まれています。それは主の民が神を愛して生きるようにすることであり、さらに神の御心に従って生きるようにすることです。 今日の本文には、ある律法学者が登場します。彼は掟に精通した人です。彼は今までの論争を見ながら、イエスが御言葉によってユダヤ人の反対者たちの鼻を折られるのを目撃しました。彼はユダヤの宗教指導者たちにも屈しないイエスという人に興味ができたようでした。それで、彼は自分の専門である掟についてイエスに質問しました。「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」(12:28) もしかしたら、この律法学者はイエスを攻撃しようと来たのに、最後に心を変えたかもしれません。以後、イエスの御言葉を肯定する姿が出てくるからです。ひょっとしたら、彼はイエスの律法への理解し方に興味が出来たかもしれません。するとイエスは言われました。「イエスはお答えになった。第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(12:29-31) 掟の専門家である律法学者は、イエスが掟の精神を正確に見抜いておられるのを見て喜びました。「律法学者はイエスに言った。先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。」(12:32) 3。主が望んでおられる信仰生活。 神学を始めて以来、旧約には裁きの神が登場し、新約には愛の神が登場すると誤解する人が少なからずいました。しかし、神は新旧約を問わず、いつも愛の神であり、また、裁きの神であります。というのは、神は旧約においても、新約においても、全く移り変わりなく、いつも同一の方でおられるということです。ということで、神は新約の福音だけでなく、旧約の掟(律法)を通しても、愛について言われたのです。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4-5) 神は旧約の掟(律法)によって、神への愛を教えてくださいました。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19:18)また、主は旧約の掟(律法)によって、隣人への愛をも忘れられず、教えてくださったのです。つまり、神は旧約の律法でも、神と隣人への愛を語っておられるのです。したがって、神の愛の掟は神と隣人に向けた主の命令であり、教えであるのです。613個の掟を別々に思ってはなりません。十戒を十の戒であると覚えてはなりません。掟そのものが一つの愛の命令だからです。ですから、神への愛と隣人への愛をも別扱いしてはなりません。神を愛する人なら、隣人をも愛するべきです。そうしてこそ、神にいただいた掟の中心である愛の実践が出来るようになるからです。 今日、本文に登場した律法学者は、もしかしたら、最初はイエスを嫌う人だったかもしれません。噂による偏見で、イエスが律法と掟を無視する人だと誤解していたかもしれません。しかし、主は掟(律法)の精神である、愛の実践を正確に見抜いておられる方ですので、若い頃から掟(律法)を研究してきた律法学者は、イエスが掟に精通でいらっしゃることに気づくことになったでしょう。「そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」(12:33) 彼はイエスが律法について、立派にお答えになったのを見て感心し、応用までしました。「神と隣人を愛することが、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れている。」律法学者は、神の御望みは掟を機械的に厳守しながら自身の宗教的な欲望を満たすことではなく、掟の最も中心的な内容である愛の実践、神の御言葉への従順さであることを悟りました。イエスがエルサレムに来られ、最初にされたのは、宗教的な欲望の場所になってしまった神殿を清められることでした。宗教行為としての神殿礼拝を否定されたわけです。むしろ律法と掟を通して、主の命令である神と隣人への愛を守ることを主はお望みになっておられたのです。 締め括り 私は、年に1~2回、家族関係で、主日礼拝を欠席しなければならない方に、積極的に家族との時間をお勧めします。主日に教会に出席しなくても良いという意味ではありません。日本キリスト教会の規則や改革教会の規則にも、主日の公的な礼拝は、とても大事にされています。しかし、主日礼拝に出席するために、家族の苦しみや隣人の悲しみを見逃すなら、私たちは、礼拝の意味を完全に誤解しているのかもしれませんので、主日に家族と一緒に苦しみと喜びの時間を過ごされるように勧めるわけです。つまり、皆さんが家族の苦しみを分かち合うために教会を欠席することは、ある意味で、教会での礼拝と同じように重要なことだということです。それは、ただの家族との時間ではありません。家族の魂を愛するという、また違う礼拝の時間なのです。宗教的な人間にならないように気をつけましょう。信仰者になっていきましょう。皆さんのいるところが愛の場になり、皆さんのいるところが礼拝の場になるように、信仰者になっていきましょう。そのような人生こそが、まさに掟の真の精神である、愛を実践する人生なのです。神と隣人への愛、いくら強調してもし過ぎることのない重要な信仰のあり方です。そのような愛を実践することで、神の掟を守っていく志免教会であることを祈ります。 父と子と聖霊によって。 アーメン。