主の慰め

創世記29章14b-35節(旧47頁)  コリント信徒への手紙二1章3-7節(新325頁) 前置き 兄が受ける長男の祝福を奪ったヤコブは、兄の恨みを避けて700kmも離れていた母の実家へ向かいました。彼は旅路に野宿をすることになったのですが、夢で天と地をつなぐ階段の上におられる神に出会いました。目を覚ました彼は、記念碑を建てて、そこをベテルと名付けました。「兄の祝福を横取りしたヤコブが一番先に経験したことは、世間の言う心身ともに安らかな祝福ではありませんでした。むしろ見知らぬ所での苦難と孤独でした。しかし、その苦難と孤独は神がヤコブを成長させてくださるための一種の訓練でありました。キリスト者はイエスを信じるようになってからも苦難と孤独に遭う場合があります。多くの苦難と孤独はあるものの、ヤコブは成長していきます。そして、彼は最終的にイスラエルという新しい名前を得、神に認められた民となります。今日は、そのヤコブの人生の中で、彼の結婚とその結婚によって苦しめられた一人目の妻、レアについて考えてみたいと思います。 1.ヤコブとラバンの性格 まず、ヤコブとラバンという二人の性格について考えてみましょう。(今日の本文は14節から35節ですが、説教では29章全体の内容を取り上げたいです。)「ヤコブは言った。まだ、こんなに日は高いし、家畜を集める時でもない。羊に水を飲ませて、もう一度草を食べさせに行ったらどうですか。すると、彼らは答えた。そうはできないのです。羊の群れを全部ここに集め、あの石を井戸の口から転がして羊に水を飲ませるのですから。」(7-8)中東では水の管理が本当に大切です。古代中東では、ある部族が族長を中心にして、乾季には深い地下貯水槽を掘り、雨期には雨水を貯め、その水で1年間を生活したと言われます。つまり地下水の井戸ではなく、雨水を溜めて使ったということです。イスラエルでアブラハムの時代に造られたと言われる貯水槽に入ったことがありますが、深さは20メートルにも達するほど大きな貯水槽でした。そして、大きな岩でその貯水槽の口を塞ぐ、人がただで使えない構造になっていました。「まず羊の群れを全部そこに集め、石を井戸の口から転がして羊の群れに水を飲ませ、また石を元の所に戻しておくことになっていた。」(3) 3節のすべての羊の群れを集める理由も、そういう事情があるからです。公の物ですので、みんなで一緒に貯水槽の蓋石を運び、水を分配するのです。「ヤコブは、伯父ラバンの娘ラケルと伯父ラバンの羊の群れを見るとすぐに、井戸の口へ近寄り、石を転がして、伯父ラバンの羊に水を飲ませた。」(10) ところで、前の7~8節で貯水槽を勝手に使ってはいけないという話を聞いたにもかかわらず、10節でのヤコブは何の許可も得ずに貯水槽の蓋を勝手に開けて水を飲ませました。これはヤコブの配慮のある働きだったかも知れませんが、明らかに勝手な振舞いでした。もしヤコブがラバンの甥でなかったら、ヤコブはここで命を失うか、ひどい目にあったのかもしれません。(ラバンはその地域の族長と思われます。) この短い文章を通して、私たちはヤコブという人の性格が間接的に分かるようになります。自分の目標を何としても成し遂げようとする身勝手な振舞い、自分がすべての中心になって自分の欲望のために生きる人間。それが若いヤコブの性格なのです。その後、このヤコブはおじラバンに会い、母の故郷であるハランで暮らすようになります。ところで、このヤコブのおじのラバンも、ただ者ではありませんでした。「ところが、朝になってみると、それはレアであった。ヤコブがラバンに、どうしてこんなことをなさったのですか。わたしがあなたのもとで働いたのは、ラケルのためではありませんか。なぜ、わたしをだましたのですか」と言うと、ラバンは答えた。我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない。」(25-27) ハランにたどり着いたヤコブは、その後、ラバンの次女であったラケルを愛することになりました。ヤコブは、このラケルと結婚することを願うようになりました。ラバンはその点を見逃しませんでした。 「ラバンはヤコブに言った。お前は身内の者だからといって、ただで働くことはない。どんな報酬が欲しいか言ってみなさい。」(15)おそらく、ラバンはヤコブがラケルを愛していることを利用して、意図を持って、このような提案をしたのかもしれません。これに対してヤコブは「下の娘のラケルをくださるなら、わたしは七年間あなたの所で働きます。」と言い、ラバンは「あの娘をほかの人に嫁がせるより、お前に嫁がせる方が良い。わたしの所にいなさい。」と答えました。ここで「お前に嫁がせる方が良い。」という表現を、あえて日本語的に翻訳すれば「お前の方が他人よりは増しだろう。」という表現になります。 意図を含んだ表現なのです。ラバンはこのように自分の娘を口実に7年間、こき使いました。7年後、ヤコブはラバンにラケルとの結婚を要求しました。しかし、ラバンは、あの欲望としつこさのヤコブを見事に欺きました。 結婚初夜にヤコブの愛するラケルではなく、長女のレアを新婚の部屋に行かせたのです。 2.「レアの悲しみと神の慰め」 このように騙す者ヤコブは、そうして血肉のラバンに騙されてしまったのです。不思議なことにこの世は、こんな人間たちによって牛耳られたりします。 あの有名な『三国志』では、曹操という英雄が登場しますが、人々は彼を「奸雄」と呼びます。ずる賢い英雄という意味です。今回のウクライナとロシアの戦争も、「侵略しない」という過去の約束を破ったロシアによる戦争です。そういう意味でプーチン氏も奸雄と言えるでしょうか。 歴史上、このようなことは数え切れないほどたくさんありました。そして、いつも、そのずる賢い人間たちによって世界は苦しみを受けました。いつか神はそのすべての悪人を必ず厳しく滅ぼされるでしょう。ところで、ヤコブとラバンという二人によって、誰かが苦しむことになりましたが。それはヤコブの1人目の妻であり、ラバンの長女であるレアでした。「ところが、朝になってみると、それはレアであった。ヤコブがラバンに、どうしてこんなことをなさったのですか。わたしがあなたのもとで働いたのは、ラケルのためではありませんか。なぜ、わたしをだましたのですか」と言うと、ラバンは答えた。我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない。」(25-27) この説教を準備する際に、妻とこう話しました。「レアがとてもかわいそうだ。彼女は夫から充分に愛されていない。」この世の中で夫に愛されない妻ほど悲しい人がいるでしょうか? もし、ただの恋人だったら、いつでも別れて終わりですが、夫婦関係なら別れにくいでしょう。現代では、割と「バツイチ」が、そんなに恥じではないと思われるでしょうが、この当時は数千年前の古代です。女なら無条件に、父、夫、息子に依存するしかない時代です。なのに、レアは自分に全く心もない男に、それも抱き合わせ販売のように嫁がせられてしまったのです。実際、レアはヤコブに愛されず、悲しい気持ちで生きていかなければなりませんでした。「ヤコブはレアよりもラケルを愛した。そして、更にもう七年ラバンのもとで働いた。」(30)他人を配慮しない人たちが自分だけのために生きていく世の中は、このように誰かを地獄のような痛みの中に落としてしまいます。 こういう様(さま)は神が希望しておられる世界ではありません。 皆さん、我々は自分の欲望に気をつけなければなりません。自分自身の欲望が誰かに拭えない傷になり得ることを忘れてはいけません。私たちは蛇のように賢く、鳩のように素直に生きなければなりません。なぜなら、蛇のように賢い者が、蛇のように生きていくと、誰かが必ず、その毒に苦しんでしまうからです。 「主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子供ができなかった。」(31) しかし、夫と父の間で苦しんでいたラケルにも一筋の光はありました。それは神の慰めでした。 古代人の認識において子供が多いということは、神の祝福であり、神に愛されている証拠でした。レアは夫の愛を十分受けることはできませんでしたが、神の愛によって多くの子どもを儲けることになりました。レアは全部で6人の息子、つまりイスラエル12部族の祖先の半分を産み、中にはキリストの祖先であるユダもいました。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルンが彼らです。ルベンは「神が顧みてくださる」シメオンは「神が聞いてくださる」レビは「結び付いてくださる」ユダは「神を賛美する」イッサカルは「報酬をくださる」ゼブルンは「一緒に暮らす」という意味です。ラケルが2人、レアとラケルの女奴隷らが、それぞれ2人を産んだので、レア1人で3人の女性と同じ数の息子を産んだわけです。夫と父、2人の欲望の強い人によって苦しんでいたレアは、すべてのことを知り、すべてを導いてくださる神の恩寵によって大きな恵みを受けたのです。そして最終的にレアが神に召される時に、ラケルも葬られることが出来なかったアブラハム家の墓に葬られるヤコブの唯一の妻として聖書に記されるようになりました。神が彼女をヤコブの本妻として認めてくださったからです。 締め括り 信頼する父と愛する夫に何の存在価値も認められなかったレアは本当に悲しい女でした。しかし、彼女には神がいらっしゃいました。神はもちろんヤコブの他の妻たちにも子供をくださいましたが、神は誰よりも、この一人の女の痛みをよく分かってくださり, その痛みを慰めてくださいました。私たちは有名でもなく、力も弱く、何も変えることができない群れです。しかし、この世を創造なさった、歴史上、最も有名な方が、我々と共におられ、我々を慰めてくださいます。今日の本文を通じて、私達はこれを必ず心に留めて生きるべきです。誰も私たちの肩を持たない時、神だけは私たちの味方になってくださるということです。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」今日の新約本文コリントの信徒への手紙二1章3-5節の御言葉のように、神は私たちを慰めてくださる父なる方です。今日、レアを慰められた神のことを覚え、誰も私たちを認めてくれない時、神お一人だけは覚えてくださることを信じていきましょう。慰めの神の愛が志免教会の上に満ち溢れることを祈り願います。