異邦人に食べ物を与えられたイエス

エゼキエル書34章23-24節(旧1353頁)  マルコによる福音書8章1-10節(新76頁) 前置き イエスは7章のシリア・フェニキアのギリシャ人女の娘を癒してくださって以来、引き続き、異邦人の地域を巡っておられました。イエスは異邦地域に来られ、シリア・フェニキアのギリシア人の女に出会い「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(7:27)と非常に侮辱的な話をされましたが、それは主の本音ではありませんでした。それは異邦人である彼女に救われるに足る信仰があるかどうかを試みる一種の試練でした。それに対してギリシャ人の女は「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(7:28)との答えで、主に自分の謙遜と信仰を示し、彼女の信仰を確認された主は、快く彼女の娘を癒してくださいました。主イエスは異邦人を犬のように扱われる方ではありません。主はユダヤ人、異邦人を問わず、主の愛をお伝えになる方です。今日の出来事も、その差別のないキリストの愛の物語です。今日は、4000人に食べ物を与えられた物語を通して、異邦人を愛される主について学び、教会の在り方について考えてみたいと思います。 1.イエスの差別のない愛。 今日の出来事は、マルコ福音書の6章に出てきた5000人に食べ物を与えられた物語と非常に似ています。前回の6章の説教では、五つのパンと2匹の魚で5000人に食べ物を与えられた出来事について考えてみました。その時、私たちは ヘロデ・アンティパスというガリラヤ地域の邪悪な王とイエスという神から遣わされた善い王を比較し、5000人に食べ物を与えられた出来事を真の王であるキリストの正しい統治と結び付けて説教しました。しかし、その時、言及しなかった内容があります。それは5000人に食べ物を与えられたことが、ユダヤ人のみを対象にする出来事だったということです。ローマの支配層とユダヤ人の有力者だけを相手にして、一般の民には暴政をしいていたヘロデ・アンティパスとは違い、ユダヤ社会に疎外されていたユダヤ人の群衆を哀れみ、食べ物を与えることで、キリストは主流以上に、非主流を愛されるイスラエルの真の王であることを語りました。今日の本文の4000人に食べ物を与えられた出来事は、前に5000人に食べ物を与えられた出来事と非常に似ていますが、その対象が異なります。今日の本文の最後には「弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。」(10)という言葉がありますが、ここで言うダルマヌタ地方はガリラヤ湖の西側、つまりユダヤ人の地域です。それから、主はシリア・フェニキアの女の娘を治してくださって以来、異邦の地域で活動を続けておられたことが分かります。そして、その異邦での活動の終止符として4000人の異邦人たちを食べさせてくださったのです。 5000人に食べ物を与えられた出来事と4000人に食べ物を与えられた出来事は非常に似ている話で、何人かの学者たちは、この二つの物語が同じ言い伝えから派生した可能性があると考えています。現代の聖書学者たちは、聖書が一つの場所で、また一人によって記されたとは思いません。昔のユダヤ人の言い伝えによって伝わってきた話が、誰かによって一つの文章に編集されたと思います。そのため、5000人に食べ物を与えられた出来事と、4000人に食べ物を与えられた出来事が、ある同じ話から派生した可能性があると思ったわけです。確かに二つの話は非常に似ています。ですが、その対象が明らかに異なるゆえに、2つの物語が持つメッセージも異なると思われます。重要なことは、同じ物語から派生したかどうかではなく、2つの物語がそれぞれ何を表しているのかということです。神はユダヤ人、異邦人を問わず、すべての人種を同一に愛し、憐れんでくださる方です。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。」(2)ここで、イエスがおっしゃった「かわいそうだ。」という表現は5000人に食べ物を与えられた出来事にも言われた言葉ですが、その原文は「スプランクニゾマイ」というギリシャ語です。この表現は「内臓が切れるほど、痛みを感じる」という意味です。つまり、主がかわいそうに思われたことは、他人への同情ではなく、主ご自身の問題とされたということでしょう。ところで、イエスが6章でユダヤ社会から疎外された貧しいユダヤ人たちに感じられた感情を、異邦人たちにも同じく感じられたということです。 旧約聖書において神は、おもにイスラエル民族を対象にし、彼らを選び、成長させ、彼らの罪を裁き、彼らを再び回復させてくださいました。そういうわけでユダヤ人たちは自分たちのみが神に選ばれた特別な民族だと思いました。しかし、旧約聖書には、イスラエルだけでなく、異邦の民族までも愛してくださる神に対する描写が、いくつでも見つかります。ユダヤ人たちは異邦人を無視し、汚れたと考え、差別するだけでなく、ユダヤ人の中でも貧しい者、病んでいる者、失敗した者を差別し、憎んでいました。しかし、真の神の福音を持って来られたイエスは、その全ての差別を打ち砕き、ユダヤ人と異邦人とを区別なく愛してくださる方です。そして、その愛を通してご自分の命を捧げ、ご自分のことを信じる者なら、誰でも救ってくださることを望んでおられる方なのです。今日の言葉は、その差別のないイエスについての重要なエピソードなのです。神はすべての存在の神です。言い換えれば、神はこの世の全ての存在の主でいらっしゃるのです。だから神は教会だけを愛する方ではありません。神は、この世のすべての存在を愛する方です。我々がイエスを信じて救われたからといって、神がイエスを信じない他の人々を憎んでおられるという意味ではありません。むしろ、神はすべての人がイエスを信じて救いに至ることを切に願っておられるのです。 2.私たちの姿はどうでしょうか。 イエスが異邦人に、このような奇跡を起こそうとしておられた時、イエスのユダヤ人の弟子たちは、どのように考えていたでしょうか? 「空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。弟子たちは答えた。こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」(3-4)イエスが、異邦の群衆の飢えを心配された時に、弟子たちは「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」と言いました。この日本語の表現には「どのようにして」という直接的な表現が見えませんが、原文には「果たしてどのようにして異邦人であるこの人たちを食べさせることができるでしょうか。」という表現が隠れています。それは異邦人を食べさせたくないという意味が含まれている表現です。弟子たちは今まで主イエスの数多くの奇跡を目撃し、主の御言葉を聞いて、その方と一緒に生活して来ましたが、ユダヤ人が否定的に取り扱う異邦人までも、愛しておられる主の心を到底納得することができませんでした。「ユダヤ人だけが神の民ではないか?異邦人は神の呪われた存在ではないか?」という思いが彼らの心の中にあったのです。マルコによる福音書の著者は、マルコによる福音書全体を通して弟子たちが、どれほど愚かな存在だったのかをよく示しています。そして、その弟子たちの愚かさを通して、我々には弟子たちのような姿はないか、その都度、顧みさせます。 私たちは時々、自分も知らないうちに自分と異なる存在に壁を築いているのかもしれません。まずは自分から、まずは我が家族から、まずは我が教会から、まずは我が国から、すべてにおいて自分のことを中心にし、自分と異なる何か、誰かに向かって隔てをつけているかも知れません。しかし、我々の主イエスは、内と外、身内と他人を問わず、大切に思い、愛してくださる方です。神の哀れみと愛は差別なく公平です。なぜなら、そのすべてが主がお創りになった主の被造物であり、神はそのすべてを主イエス・キリストに託してくださったからです。 イエスはイスラエルの先住民であるユダヤ人だけでなく、すべての人類を同じく愛しておられる方です。すべてが神のものだからです。キリストはそのすべての存在がご自分を通して救われることを望んでおられます。だからこそ、福音なのです。したがって、主の愛の対象は、今イエスを信じている私たちだけでなく、まだ主を知らないすべての人でもあります。イエスを信じて主のからだとなった私たちは、その主の心に倣い、自分と異なる他人、外の人にも喜んで仕え、愛して生きるべきです。私の主イエスが彼らを愛しておられるからです。 村八分という言葉があります。江戸時代に村落共同体内の規則や秩序を破った者に対して集団が加える制裁行為です。2021年に大分県の宇佐市で元区長ら3人が中心となり、帰村した一人を集団的にいじめる現代版 村八分事件があり、147万円の慰謝料を求める訴訟がありました。依然として日本社会には、こうした外からの人を差別することが時々あるようです。アメリカではコロナ以降、無作為に東洋人にリンチを加えることが、頻繁に起こっていると言われます。世の中には、このようなケースが本当に多いです。「私と違うから、私の気に入らないから、誰かを憎む。」ということです。しかし、イエスは、そのすべてのものを越えて、愛して仕える行為を今日の物語を通して見せてくださいました。「人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、7籠になった。」(8) 聖書での3、4、7、12、144、1000、144,000などの数字は完全数だと言われます。主がユダヤ人と異邦人を区別されず、彼らに食べ物をくださった時、その残りは完全数の12籠と7籠でした。私はこれが主の愛がユダヤ人、異邦人を問わず完全であることを示す意味だと思います。神の愛は内と外を区別しません。むしろ神の愛は、誰にでも公平なのです。 締め括り 「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。」(エゼキエル34:23-24)このエゼキエル書の言葉は、明らかにイスラエル民族向けの宣言です。異邦人のための宣言ではありません。しかし、現代のキリスト者たちは、この言葉を自分への御言葉だと信じています。厳密に言うと、日本出身、韓国出身、ニュージーランド出身、中国出身の私たちはみんなユダヤ人ではなく異邦人です。しかし、我々はこのエゼキエルの言葉を自分への言葉だと受け止めています。なぜなら、我々はキリストによって霊的なイスラエルとなったキリスト者だからです。神の御心には差別がありません。すべてがキリストの愛のもとにあります。私たちはこの重要な事実を忘れてはいけません。自分と違う人々を愛し、彼らもまた神から愛される存在であることを忘れないようにしましょう。キリストによる福音は、世のすべての存在に与えられたものだからです。そういう愛を持って生きる時、人々は我々の生活から愛の神を見つけることが出来るでしょう。生き生きとした愛の共同体、志免教会でありますように。